陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

427.乃木希典陸軍大将(7)いくらでも要用だけ以って帰りなさい。然し、希典の目の黒い間はいけんぞ

2014年05月30日 | 乃木希典陸軍大将
 明治九年二月二十四日の乃木希典の日記には、玉木正諠ら数人が訪ねてきたことが記してある。

 玉木正諠は、西郷隆盛が前原一誠に宛てた手紙を乃木希典に見せた。そして、西郷先生も同じ考えだからと、兄を説得しようとした。

 だが、公私の別に厳しい乃木少佐は、逆に前原一誠の企ての非をあげて、反省を促した。兄弟は激論を交わした。その後も、実弟・玉木正諠は、兄・乃木希典少佐の家を再三にわたり訪れている。

 乃木希典の明治九年九月六日の日記に、「玉木マタ来ル。小酌。談ジテ夜ニ入ル。」と記してある。このとき、玉木正諠は二の丸にあった連隊長官舎に、乃木希典を訪ね三日間滞在している。

 これが、兄弟の最後の別れとなった。兄二十七歳、弟二十三歳だった。

 「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、希典、正諠の兄弟の最後の別れの日の、具体的な激論のやりとりが、次のように記してある(要旨)。なお、ここでは、玉木正諠を幼名の真人(まこと)で記している。

 小倉の歩兵第一四連隊長心得・乃木少佐の居宅に玉木真人(正諠)が到着する前に、前原一誠の使者が乃木少佐を訪れた。

 使者は「希典さん、連隊の銃を百挺ほどお貸しください。前原先生が必要とされているのです」と言った。乃木少佐は黙って聞いていた。

 さらに「この願いを聞いていただけないでしょうか。人数はかなりいるのですが、悲しいことに肝心の武器がないのです」とも言った。この、使者の口上に、反逆の意味が現れていた。

 乃木少佐はしばらくして、「そうじゃのう、百挺でよいかのう」と、重い口調で尋ねた。

 使者は「多いのはいくら多くてもよいのです。けれども、そんなに沢山お願いするのも如何ですから、差し詰め百挺だけ借用したいと思います」と答えた。

 乃木少佐は「百挺なんて小さいことを言うな。要用(いりよう)とあれば連隊に備え付けてある分を、悉皆(全部)貸そう」と言った。

 使者は「あなた」と、息をはずませて、「実際ですか、実際お貸し下さるのですか」と問うた。

 乃木少佐は「いくらでも要用だけ以って帰りなさい。然し、希典の目の黒い間はいけんぞ」と答えた。

 乃木少佐の最後の一言は、百千の雷霆(いかずち)が一時に落ちた様であった。使者は要領を得ずに立ち帰った。

 その後に、弟の玉木真人が来た。「弟の玉木正諠さんがお出でになりました」と取次ぎに出た従卒が居間にいる乃木少佐に伺った。

 乃木少佐は「真(しん)が来たか、こっちへ通せ」と従卒に命じた。当時乃木少佐は真人のことを真と呼んでいた。乃木少佐だけでなく、萩の人は多く玉木真と呼んでいた。

 連隊の書類を調べながら乃木少佐は、用向きは大体察していたが、入ってきた真人に「何の用で来た」と尋ねた。

 真人は「ご相談があって参りました。只今東京からの帰り途です。お父様もご機嫌よく、お母様もお変わりございませんでした」と挨拶した。

 乃木少佐は「相談とは何か」と問うた。

 真人は「前原先生の御命令です。兄さんの心事を承って、秘密のご相談を願おうと思うのです」と力強い声で言った。

 乃木少佐は「そうか」と言ったまま、書類から目を離さずにいた。十分ほどして、「ちょっと待て、公用を果たした後、応問しよう」と言って、書類を調べ終わって、次の間に立って行ったが、程もなく元の座に戻って来た。

 何事にも用心深い乃木少佐は、真人がどんな事を語るかも知れぬと、後の嫌疑を避ける為に、兄弟間の応答を聴かすべく、部下の尉官、宗野、土屋の両人を次の間に潜ませたのだった。

 前原一誠が反旗を翻そうとする形勢があるところへ、その同志たる真人が自分の官舎に来たとあっては、世間からどの様な疑いを受けるかも知れぬと乃木少佐は思ったのだ。

 乃木少佐は「さあ聞こう」と真人の前に座った。

426.乃木希典陸軍大将(6)乃木希典は少年の頃、文学で身を立てようと志していた

2014年05月23日 | 乃木希典陸軍大将
 連隊長としての乃木希典は、軍人としての修養を欠かさなかったが、同時に学者の如く、向学心が強く、多肢に渡る勉学を修めている。

 「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、乃木希典が平素勉学、研究していたのは、主に和漢の書籍だった。軍人だから兵学に関するものが多かったが、武士道に関するもの、国体に関するものも非常に多かった。

 そのほか、歴史、文学、教育、神道に関するものもあり、広きにわたっていた。山鹿素行や吉田松陰の著書はいうまでもなく、そのほか、水戸学の著書も非常に研究していた。

 栗山潜鋒(くりやま・せんぼう・水戸藩士・江戸中期の朱子学者)の「保建大記」や、藤田東湖(ふじた・とうこ・水戸藩士・水戸学藤田派の学者)の「弘道館記述義」などは前々から研究していた。

 三宅観瀾(みやけ・かんらん・栗山潜鋒の推挙で水戸藩に仕える・江戸時代中期の儒学者)の「中興鑑言」という書物は栗山潜鋒の「保建大記」と並んで水戸の国体に関する著書として重要なものだった。

 このことを人づてに聞いた乃木は、手を回して、その本を借り、全文を模写して。それを石版刷りにして、数十部つくり、友人や部下に贈った。

 乃木は昔の本で、手に入らない良い本があった場合は、私費を投じて複製をし、多くの人に分け与えている。吉田松陰の「武教講録」や「孫子評註」であるとか、山鹿素行の「武教本論」や「中朝事実」など、その数は十数種類にのぼっている。

 また、乃木希典は少年の頃、文学で身を立てようと志していただけあって、乃木の文才は一流であった。風刺諧謔の筆致は絶品だった。特に乃木の漢詩は優れており、名作として後世に長く伝えられているものも多い。

 明治九年七月のある日曜日、乃木は所用で熊本鎮台に行ったとき、水前寺に遊びに行った。行きつけの万八楼という料亭で一杯やっていた。

 隣の料亭に京町の芸者が三人遊びに来ており、やがて、素っ裸になって庭の泉水に入って水浴し始めた。乃木は二階の手すりに身を寄せて盃を片手にこの様子を見ていた。

 泉水の水は彼女たちの玉の肌を洗って、その股の間をくぐって、万八楼の方へ流れてきた。乃木はすぐに筆をとって、次のような一詩を作った。

 「水前寺辺登水楼 清流縁掛午風涼 泉源何処美人浴 定洗鬱金水有香」。

 この漢詩の意味は次のようなものである。

 「水前寺辺りの料亭に登ったら、清い流れがあり緑の木も茂り昼の風も涼しかった、流れ来る泉の源はどこかと眺めたら美人が水浴をしていた、そこから流れてくる水は定めし鬱金を洗ってきたので香ばしいにおいがするだろう」。鬱金(ウコン)は例えだが、健康食品などにあり、芳香良いにおいがある植物。

 明治九年十月二十七日、秋月党による秋月の乱(福岡県)が勃発。乃木少佐は連隊を率いて、秋月党を攻撃、十月三十一日には反乱軍を撃退し、叛乱は鎮圧された。

 明治九年十月二十八日萩の乱が起こり、新政府に不満を持つ前原一誠が挙兵した。前原一誠は、高杉晋作や久坂玄瑞と並んで三羽がらすと言われた逸材だった。明治になってからは、大村益次郎のあとを受けて兵部大輔(後の陸軍大臣)にも任命された。

 だが、前原一誠の性格は正直で一本気だったので、どうしても政治家肌の木戸孝允や大久保利通とウマが合わなかった。

 それで、西郷隆盛に近づき、対外強硬論を唱えていた。だが、やがて、山県有朋に追われるようにして中央を去り山口県の萩に帰郷した。

 萩における前原一誠の人気はたいしたものだった。長州の若い武士たちは前原一誠が中央から追われたことにひどく憤慨し、前原一誠と生死を共にしようとした。乃木希典の実弟、玉木正諠(たまき・まさよし)も、前原一誠の信奉者だった。

 前原一誠は、玉木正諠の兄の乃木希典少佐が小倉の連隊長心得であって、兵器が自由になることから、乃木少佐を味方にすれば戦力が増大するし、乃木少佐が味方をしたというだけで 幾千騎の味方を得たにも優り、各地の不平党も一斉に挙兵すると見込んでいた。

 もし、乃木少佐が挙兵に加わらなくても、連隊の兵器を横流ししてもらうだけでもよいと考えていた。そこで乃木少佐の弟、玉木正諠を使者として何回も送った。

425.乃木希典陸軍大将(5)「馬鹿ッ!馬に敬礼せよと誰が教えたか!」と叱責した

2014年05月16日 | 乃木希典陸軍大将
 このとき、御堀耕助は黒田清隆に二十三歳の乃木文蔵を紹介し、「陸軍に入れてやってくれ」と頼んだ。黒田は快諾した。

 その後、明治四年五月十三日御堀耕助は病没したが、陸軍に強い影響力を持つ黒田は約束を忘れなかった。

 東京から内命があり、乃木文蔵(希典)は上京した。明治四年十一月二十二日、乃木源三は黒田清隆の私邸に呼ばれ、「おはんは、明日から陸軍少佐である」と言われた。その翌日任命式が行われた。乃木文蔵はまだ、二十二歳だった。

 
 乃木希典は晩年にいたっても、「わしの生涯でこの日ほど嬉しかったことはない。明治四年十一月二十三日という日は今でも暗記している」としばしば言ったという。

 乃木文蔵は、陸軍少佐になり、名前を「希典(まれすけ)」に改名した。

 
 明治六年四月、乃木希典は名古屋鎮台大貳心得に補された。だが、明治七年五月、名古屋鎮台勤務を免じられ、休職仰せ付けられた。軍歴の四回の休職のうち、最初の一回目の休職である。

 「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、この休職の理由ははっきりしていないが、この頃、二十五歳の乃木希典は、かなりの乱行をしていて、酒と女に耽溺していたので、そんなところに原因があったのではないかと言われている。

 この時の乃木の休職を救ったのは山県有朋である。同年九月乃木希典は陸軍卿・山縣有朋の伝令使(副官を)仰せ付けられた。山縣は同郷の後輩、乃木を拾い上げて自分の伝令使にしたのである。

 明治八年十二月乃木希典少佐は、熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得を命ぜられ、明治九年一月、小倉に赴任した。二十七歳であった。

 「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、「乃木連隊長心得として勤務している頃のある日のことだった。乃木少佐が出勤した後で、馬丁が馬を引いて営門を出ようとした。

 すると、その時、歩哨を務めていた一兵卒は連隊長の愛馬と知っていたので、直立不動の姿勢をとり、捧銃(ささげつつ)の敬礼をした。この馬は豪州産のアラビア馬で、小倉連隊にはただ一頭しかいない立派な逸物だった。

 そこにいた週番将校はこの兵卒の敬礼を見て怪しからんと思ったのか、つかつかとその兵卒の側に寄って、「馬鹿ッ!馬に敬礼せよと誰が教えたか!」と叱責した。

 歩哨は言葉を返して、「連隊長の愛馬でありますから」と答えた。だが、翌日、違法の敬礼をした廉(かど)によって処罰されることになった。

 乃木少佐はこのことを聞くと、共に歩哨と週番将校を一室へ呼び入れて、処罰の理由を問いただした。週番将校はありのままを物語った。

 乃木少佐は一応聞き取った後、週番士官に次のように言い渡した。

 「歩哨の所為を違法の敬礼とすれば、お前は違法の命令であるから、共に処罰を加えなければならぬ。馬に敬礼せよと教えた者はあるまいが、連隊長の馬と見て敬礼したのは、強(あなが)ち悪いことじゃない」

 「軍人は秩序を尊ぶ。私はその精神を慶びいれる。勿論、処罰を加えるほどの過失ではないから、過失は過失として注意を加え、長官に対して秩序を重んじる精神だけを買うてやれ」。

 この週番士官は乃木少佐の言葉に感じるところがあり、それ以来、深く精神修養に努めるようになったと言われている。

 また、夏の暑い日に演習をしたことがあった。古谷軍曹が中隊長の命によって、連隊本部へ伝令に行って見ると、乃木連隊長の着ている軍服が汗でびとびとになっていた。

 古谷軍曹は、さぞ心持が悪かろうと思って、「お召し物を乾かせなすっては如何です」と、うっかり言った。

 すると乃木連隊長は忽ち眼をいからせて、「貴様は何だ!軍人じゃないか。軍人でいてそんな事が分からぬか。汗や暑さを恐れるようで、有事の時、役に立つか。貴様の腹は腐っているから分からん。一ぺん清水で洗って来い」と叱責した。

424.乃木希典陸軍大将(4)二十三歳の乃木文蔵(希典)はいきなり陸軍少佐に任ぜられた

2014年05月09日 | 乃木希典陸軍大将
 慶応元年、源三(乃木希典)は十七歳のときに、憧れの藩校、明倫館に入学することができた。同じ毛利でも支藩の者が入学するのは難しかったが、玉木文之進の援助で入学ができたのだった。

 明倫館時代、源三の学友であった高島北海(たかしま・ほっかい・山口県萩市・工部省入省・鉱山学校・内務省地理局・農商務省・フランス留学で水利林業を学ぶ・フランスで日本画も描く・リモージュ美術館に作品寄贈・フランス教育功労勲章・帰国後林野行政に従事しながら日本画家として大作を次々に発表・地理学者・地質学者・昭和六年没)は、源三について、次のように述べている(要旨)。

 「乃木さんは負け惜しみが強く、非常に強情であった。乃木さんは萩から故郷の長府まで十八里の道を歩いて帰るのだが、普通の人は朝出発して、その晩は途中で一泊する」

 「だが、乃木さんは夕方に萩を出発し、夜道を歩き、十八里の道を一気に歩き続け帰郷した。山道はひどい道で、昼間でも歩きにくかった。『大変だろう』言うと、乃木さんは『なあに、萩と長府は廊下続きだ』と平然としていた」。

 「あるとき、乃木さんが長府に帰ったとき、その日は氏神様のお祭りだった。乃木さんが実家の敷居をまたいで入ろうとしたら、父の十郎希次が『源三、何しに帰った!』と言った」

 「乃木さんが『今日は学校が休みで、祭りと聞いたので帰って来ました』と答えると、父はさらに大きな声で『いったん学問のために家を出た者が、お祭りだからといって家に帰るとはもってのほかだ。そのような薄志弱行では事がなせるか! すぐに萩へ帰れ。この敷居をまたぐことはならん!』と叱りつけた」

 「母親がいろいろとりなしたが、父は聞き入れず、乃木さんは、父の言うことがもっともだと感じ、疲労と空腹でへとへとになりながらも、そのまま萩へとって返した。乃木さんの強情、我慢というのは、もうこの頃から養われていた」。

 以上の事から、乃木希典は非常に意志が強いことがわかる。だが、乃木源三(希典)は元々、小さいときから臆病であった。玉木文之進もこのことをよく知っていて、乃木に狐の番をさせることがしばしばあった。

 玉木の家の近くに墓があり、盆になると灯篭をつける。すると狐が出てきて、灯篭の油をなめる。そこで文之進は、源三に灯明の燃え尽きるまでそばで、張り番をさせた。

 「狐は追っ払うだけで殺すな」と命じられていたので、源三が追っ払っても、狐は殺されないと分かって、だんだん数多く集まってきて、源三を取り巻いて、油をなめたがった。

 これには、源三も非常に恐怖を感じた。しかし、文之進の怒りのほうがもっと恐ろしかったので、逃げずに、こわごわ張り番の役目を果たした。このようにして、文之進の厳しい訓育で、乃木源三は、幼少時代の虚弱から次第に脱していった。

 慶応二年、幕府の二回目の長州征伐が行われた。乃木源三は名前を「文蔵」に改名した。四月乃木文蔵は豊浦に帰り、高杉晋作が組織した奇兵隊に入った。山砲の指揮官となり、小倉口で戦うことになった。

 山縣狂介(山縣有朋)の指揮下に入り戦ったが、左足甲に銃弾擦過傷を受けた。乃木と山縣の結びつきはこの時にできた。

 明治四年十一月、二十三歳の乃木文蔵(希典)はいきなり陸軍少佐に任ぜられた。これには次のような事情があった。

 「殉死」(司馬遼太郎・文春文庫)によると、戊辰の騒乱が終わり、薩長が維新政府を樹立し、天下を取った。このとき乃木文蔵は、報国隊の漢学助教(読書係)をしていたが、従兄の御堀耕助(長州報国隊総督)がしきりに新政府の軍人になることを乃木文蔵にすすめたので、その気になった。

 その後乃木文蔵は藩命により伏見の御親兵兵営に入りフランス式教練を受けた。スナイドル銃をかついで徒歩で行進する仕方から教わった。約六ヶ月の洋式軍事教育を受けた。

 同様な軍事教育を受けた多数の者は、東京に呼び出され、陸軍少尉や中尉に任ぜられたが、乃木文蔵のもとには何の沙汰もなかった。

 「乃木は軍人として不出来だったのではないか」と長府藩では噂する者もいて、乃木文蔵はこの時期、鬱々としていた。

 
 長州政界の巨頭になっていた御堀耕助は、従弟である乃木文蔵を大いに愛していた。だが、当時、結核で御堀耕助は病床にあった。

 たまたま乃木文蔵が御堀耕助を見舞いに行ったとき、薩摩藩出身の黒田清隆(後の陸軍中将・従一位・大勲位・伯爵)も見舞いに来ていた。

423.乃木希典陸軍大将(3)この程度の学問で学者になろうというのは、分に過ぎた望みです

2014年05月02日 | 乃木希典陸軍大将
乃木十郎希次の食禄は、表面は八十石だったが、実際のところは四十石だった。禄高は少ないが、「長府毛利では、まず乃木十郎希次!」と評判される位、武芸、学問、才知、気骨といい押しも押されもしない、人物だった。

 乃木希典が生まれたとき、乃木十郎希次は、毛利家の長府藩江戸詰めの武士として、麻布日ヶ窪の毛利邸内の武家屋敷に住んでいた。

 「人間 乃木希典」(戸川幸夫・光人社)によると、有名な吉田松陰の松下村塾を始めて開いたのは、長州藩士で、山鹿流の兵学者・玉木文之進(吉田松陰の叔父)だった。

 玉木文之進は、天保十三年に松下村塾を開き、子供たちの教育を始めた。武士として安政三年に吉田代官に任命され、以後各地の代官職を歴任して、安政六年には郡奉行に栄進した。

 だが、安政の大獄で甥の吉田松陰が処刑され、その監督責任を問われ、代官職を剥奪された。その後復職を許され、藩政に参与し奥番頭にまでなった。政界から引退後再び松下村塾を開いていた。

 玉木文之進の教え方は、昼はそれぞれ自分の家の用をさせておいて、日暮れから勉強をさせ、徹夜することも珍しくなかった。

 勉学の態度や礼儀に非常に厳しく、当時塾生であった、あの吉田松陰でさえも、玉木文之進から厳しく叱りつけられ、書斎の縁からつき落とされたことがあった。

 その書斎は三間ばかりの崖の上に建っていたので、つき落とされた松陰は谷底まで転がり落ちた。これは松陰自身が後に語ったことである。

 文久三年十二月、十五歳の乃木無人(希典)は、元服して名を「源三」と改名した。

 元治元年三月、十六歳の乃木源三(希典)は、生まれつき体が弱かったので、武家礼法と文学に興味を示し、学者を志していた。武術はおろそかにしていた。文学で身を立てようと思っていたのだ。

 源三が、父にその志を話すと、「武士の家に生まれた者が、こんな情弱でどうするか!」と断固として許さなかった。

 父と対立した源三は、無断で家出をして、萩の城下に近い松本村に行った。そこには松下村塾を開いていた玉木文之進(乃木家の親戚)が住んでいた。

 源三は文之進に志を述べて同情を請おうとした。すると文之進は非常に怒って、「武士の家に生まれた者が武芸を好まないならば、百姓をしろ。学問だけをしようという気持ちなら、泊めて置くことはできぬ。早々と帰れ!」怒鳴った。

 源三は自分の志を曲げることはできないので、夜もふけていたが、ここにいても仕方がないと、門の方へ出て行くと、文之進の夫人、辰子が追いかけてきて「今頃、どこへ行くつもりですか」と言った。

 源三が「故郷に帰るつもりです」と答えると、辰子は「こんな夜中に、あの山道を越えるのは大変です。とにかく今夜は主人に内緒でお泊めしますから、あしたお帰りなさい」といたわった。

 非常に疲れていたので、源三は辰子の言葉に甘えて一泊することにした。

 ところが、その夜、夫人は源三に向って「あなたが学問を志すと聞きました。それならまず、試みにこの本を読んでごらんなさい」と論語を差し出した。

 言われたとおりに源三は論語を読み始めたが、よく読めなかったので、誤読も多かった。

 すると辰子は「この程度の学問で学者になろうというのは、分に過ぎた望みです。主人が許さないのももっともです。だけど、あなたが農業に従事しながら勉強をしようというなら、私はあなたのために、夜だけ日本外史などを読んでお教えしましょう」と言った。

 辰子は文之進の従妹にあたる人で、長州藩の家中・国司(くにし)家の出身だった。当時の女性とはいえ、学問の優れた人物だった。だが、惜しくも辰子は明治四年五月病死した。文之進はその後、後妻を貰った。

 このようなことから源三は玉木文之進の家に住み込んで農業をやりながら学問をした。畑仕事の合間に玉木文之進から学問の話を聞いた。夜になると辰子から日本外史などを教えてもらった。

 こうして、教育を受けているうちに、源三は武士としての修業を積もうと本気に志すようになった。だが、一年を過ぎた頃、源三の父が病気になり、帰郷した。

 
 しばらくして父の病気は治ったので、今度は父の許しを得て萩に出た。源三は玉木文之進に武士になるという志を述べ、藩校の明倫館に入校したいと申し出た。