陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

170.米内光政海軍大将(10)あの人(米内)は実に立派なんだが、喧嘩をしない人なんだ

2009年06月26日 | 米内光政海軍大将
 「いつもの人を呼びますか?」。これは、海軍省に帰ってきた米内大臣を迎えたときの実松秘書官の決まり文句である。「いつもの人」というのは、山本五十六次官、井上成美軍務局長、それに軍令部の古賀峯一次長であった。

 昭和十四年八月二十三日の朝、首相官邸で平沼麒一郎首相と板垣陸相が二人で三国同盟問題を相談しているところへ、寝耳に水の「ドイツ政府がソビエトと独ソ不可侵条約を締結した」という報告が入ってきた。

 もともと三国同盟は、三年前に調印した日独防共協定を強化し、イタリアも加えた三国で、ソ連の脅威に対抗するというのを第一目的で交渉が進められてきた。その仮想敵国とドイツが手を結んだのだ。「ドイツに対する信義上」などと言っていた日本は、混乱に陥った。

 八月二十八日、平沼首相は全閣僚の辞表をまとめて参内した。辞職理由発表の平沼談義の中には「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」という言葉があった。

 この時、米内海相はドイツあるいはプロシアが、しばしば国際間の条約や信義を無視するのは古くから良く知られた事実で、今さら「複雑怪奇」と驚いてみても仕方が無いと思ったという。

 米内海軍大臣は山本五十六次官(海兵三二・海大一四)と相談し、伏見宮博恭軍令部総長(ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校卒)の意見も聞いて、山本次官と同期の吉田善吾中将(海兵三二・海大一三)を海軍大臣の後任に押した。

 米内大臣には山本五十六という頼りになる次官がいた。だが吉田中将には、誰を持ってくるか、それが問題であった。山本は「吉田とは同期です。吉田のことは良く知っています。私を次官に残してください」と米内に言った。

 米内は拒否した。山本五十六を次官にする位なら、海軍大臣にするつもりだった。陸軍は独ソ不可侵条約ですっかりくじけたように見えるが、いずれ日独伊三国同盟問題を再燃させてくるだろう。そのとき、山本五十六なら陸軍に太刀打ちできる。

 だが、今はその時ではない。今、山本は暗殺の危険にさらされている。将来、山本は大臣として、また、首相として日本を救ってもらいたい。そのように米内は判断した。

 米内は山本に言った。「随分君も苦労したね。少し太平洋上で新鮮な空気を吸ってきたらいい。ここは空気が悪いから」。山本は米内の気持ちが痛いほど分かった。

 だが山本は「ご厚情は感謝します。ですが一身の利害得失より、海軍、日本を思えば~」とさらに次官留任を希望した。

 それにもかかわらず、米内は、それを拒んで「俺にまかせろ」と、山本五十六を連合艦隊司令長官に出した。山本は、その後海軍大臣になることもなく、南の戦場に散ってしまった。

 そのとき米内は、この時の人事をどのように思ったであろうか。では仮に山本が海軍大臣に就任していたら、真珠湾攻撃はどうなっていたか。戦史は、異なる様相が出てきたであろう。

 近衛内閣時代の厚生大臣で平沼内閣の内務大臣であった木戸幸一は、米内光政を戦後次の様に評している。

 「あの頃海軍に期待していたかっていうと、あまり期待していなかったね。あの人(米内)は実に立派なんだが、喧嘩をしない人なんだ。一応主張はするけど、それで相手がきかなきゃ、あいつは馬鹿だって顔でそのままにしちゃう」

 「そういう点では政治家じゃなかった。立派な信頼の於ける人だったけど、そういう政治的熱意とか、自己の初心を貫徹するってことはない。軍人ならそれでいいだろう。下の者がやったことを俺が責任をとるんだ、てことで、済んじゃうんだろうが」

 「だから現在の海軍力では戦争をしてもらっては困るということもはっきり言おうとしない。サイレント・ネイビーとかいって、海軍だけ守っていればいいということになってしまうんだね。国の前途とか国策ってものを考える政治的肌合いってものは、海軍にはないんだねえ」

 昭和十四年八月三十日に平沼内閣の後を受けて内閣を組閣したのは、阿部信行予備役陸軍大将(陸士九・陸大一九)だった。

 自分らで担ぎ出した総理大臣でありながら、「弱体内閣」として組閣後四ヶ月目には陸軍は倒閣運動を始めた。昭和十五年一月十五日、阿部内閣は総辞職した。

 次期総理は、近衛担ぎ出しをやっていた、陸相・畑俊六陸軍大将(陸士一二・陸大二二)が本命らしいというので注目が集まった。畑陸相なら陸軍もまとまる状況ではあった。

 ところが、その頃、「只今、侍従長の百武三郎大将(海兵一九・海大三)から、至急参内なさるよう、お召しの電話がありました」と米内光政に、こま夫人から電話があった。

169.米内光政海軍大将(9) 板垣征四郎はどこの国の陸軍大臣だったんだろう

2009年06月19日 | 米内光政海軍大将
 送別会で、外務省の連中と乱闘が起こりそうな気配になったので、吉田中佐が「おい、貴様、もう帰ろう、帰ろう」と無理やり短剣を渡して大井少佐を外に連れ出した。

 軍令部の大井少佐だけでなく、米内、山本、井上に仕える官房の副官、秘書官たちにとってはイタリア大使・白鳥敏夫とドイツ大使・大島浩の策動ぶりは目にあまり、腹に据えかねるものがあった。

 同じイタリア駐在の軍務局長・井上成美少将(海兵三七次席・海大二二)などは見方がずいぶん違っていて、「イタ公」というような言葉まで使ってきつい批判をしていた。独伊と軍事同盟を結んで、その結果アメリカと戦争になったら誰が責任をとるのかと思っていた。

 ドイツは三国同盟に態度をはっきりしない日本に苛立っていた。その日本では、海軍が反対するので、事が進まない。それで陸軍は海軍に苛立っていた。

 昭和十四年八月八日に開かれた五相会議で、板垣征四郎陸軍大臣(陸士一六・陸大二八)が「これは軍の総意である。もはや無留保の同盟を締結すべき時が来た。これ以上の遷延は、ドイツに対する信義上も許されない」と発言した。

 板垣陸相は、総理も海軍大臣も留保条件なしで同盟の条約を結ぶ気があるのか。無いというなら、席を蹴って立ちそうな気配だった。

 そのとき、石渡荘太郎蔵相が「この同盟を結ぶ以上、日独伊三国が英仏米ソの四国を相手に戦争をする場合のあることを考えねばなりませんが。その際戦争は八割まで海軍によって戦われると思います。ついては、我々の腹を決める上に、海軍大臣のご意見を聞きたいが、日独伊の海軍が英仏米ソの海軍と戦って、我に勝算がありますか?」と米内海軍大臣に尋ねた。

 日頃口下手の米内海軍大臣が、この時、はっきりと答えた。「勝てる見込みはありません。大体日本の海軍は、米英を向うに回して戦争するように建造されておりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、この米内海軍大臣の発言を知った、陸軍の息のかかった暴力右翼は、ここぞとばかり連日海軍省に暴れ込み、「米、英と戦争のできない海軍なら止めてしまえ。お前は人形か」と怒鳴り散らした。

 海軍が憲兵の向うを張るため、陸戦隊を上陸させたという噂が立った。だが事実は、五・一五事件後、万一を慮って、時の軍務局第一課長・井上成美大佐が、横須賀から取り寄せていた装甲自動車を「軍事普及用」として市内を巡回させたのだった。

 それが陸戦隊上陸の噂になったのだ。ともかく空気は極度に険悪で。いやがる山本五十六次官にも、一時は警視庁の護衛を付けることになった。

 陸軍は非常に不満であった。板垣陸相は軍務局長・町尻量基少将(陸士二一・陸大二九恩賜)をドイツ大使館、イタリア大使館に派遣して、オットー大使、アウリッチ大使に口上書を手渡した。

 口上書の冒頭は「陸軍ハ八月八日、五相会議ニオイテ、同盟ノタメ奮闘セルモ」となっていた。のちにこの文章を読んで「板垣征四郎はどこの国の陸軍大臣だったんだろう」と言った人がいたそうである。

 「米内光政」(実松譲・光人社NF文庫)によると、著者の実松譲(海兵五一・海大三四)は当時中佐で、米内海軍大臣の秘書官だった。

 当時、米内大臣や山本次官に面会を求めて、三国軍事同盟締結をなんとかして強行しようとする陸軍の注射を受けたと思われる右翼が、陳情と称して海軍省へ押しかけてきた。

 彼らはそのほとんどが、大臣や次官に面会を強要し、異口同音に日本精神を説き、八紘一宇の天業とかいうものを強調し、独伊を礼賛して、三国同盟の即時締結を主張した。さらに、海軍の弱腰を責め、親英米主義を非難した。

 実松秘書官は、こういう連中を、いちいちまともに相手にしていたのではこちらがたまらない。そこで、同僚の入江秘書官と話し合い、彼らを追っ払う秘策として「のれんに腕押し」の戦法で、相手にしないことにした。

 そのころ、五相会議は、いつも首相官邸で開かれていた。会議が終わると、首相官邸の生き字引、といわれていた柳田氏から電話連絡がある。「ただいま海軍大臣はお帰りになりました」。

 永田町の総理大臣官邸から、霞ヶ関の海軍省まで、自動車だと五分もかからない。実松秘書官はドアをあけて、米内海軍大臣の帰りを待つのだった。

 米内海軍大臣の唇には特徴があった。いくらか右のほうが下がっている。「唇はものを言う」のであろうか、米内大臣の口元に注意すると、その日の会議の空気がだいたい想像できた。

 今日はかなり激しい議論があったな、と思われる時には、唇の右が思い切り下がり、白い頬がほんのり桜色になっていたという。

168.米内光政海軍大将(8) 「なにい。貴様、なにをいうか」。陸軍少佐のくせに、海軍の大佐に向って

2009年06月12日 | 米内光政海軍大将
 昭和十二年十月、「蒙古連盟自治政府」が、十二月十四日、「中華民国臨時政府」が誕生した。「激流の孤舟」(豊田穣・講談社)によると、そこで、蒋介石との交渉を打ち切る動きが上層部に出てきた。

 陸軍参謀本部第一部第一班は蒋介石との交渉継続を主張するため、「支那事変処理根本方針」案を作製して、御前会議で可否を決定することを提議した。

 昭和十二年十二月三十日午後、陸軍参謀本部の堀場一雄陸軍少佐(陸士三四・陸大四二恩賜)は、外務省で、東亜局長・石射猪太郎、陸軍省軍務局軍務課長・柴山兼四郎陸軍大佐(陸士二四・陸大三四)、海軍省軍務局第一課長・保科善四郎海軍大佐(海兵四一・海大二三恩賜)の三人と会合した。

 ところが、御前会議開催のことで、激論になった。保科海軍大佐は「なぜ、御前会議まで開く必要があるのか。すでに事変処理の方針は、第七十二議会で支那に反省を促す天皇の御詔書で明らかにされているではないか」とスジ論を述べた。御前会議は日露戦争以来開かれていなかった。

 すると堀場陸軍少佐は「いや、依然として不明確であります。戦果による欲望の増長によって和平条件が変化するやに見える一点からもそれは明らかであります。このままでは、戦争終結などは望むべくもありません」と石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)仕込みの論法で一歩もひかぬ勢いで反発した。

 保科海軍大佐は海軍のエリートで、温厚なタイプだが、堀場陸軍少佐の態度に、むっときて、反論し、激しい応酬になった。柴山陸軍大佐も時々堀場陸軍少佐に助け舟を出すが、拡大反対派の石射局長もその場の雰囲気に当惑した。

 やがて、柴山陸軍大佐が所要で中座すると、保科海軍大佐も「ちょっと要務があるので本日は失礼する」と立ち上がり、帰ろうとした。

 すると怒った堀場陸軍少佐は「保科課長! 要務とは何ですか。これほどの国家の重大事を後回しにしてよいほどの要務がほかにあるのですか。お待ちください!」と叫んだ。

 「なにい。貴様、なにをいうか」。陸軍少佐のくせに、海軍の大佐に向って~、と保科海軍大佐は顔色を変えて、短剣に左手をかけた。

 堀場陸軍少佐も身構え、拳をつくり、全身に気合をこめた。さすがに保科海軍大佐は短剣を抜かなかったが、その後も二人は激論を続けた。その結果、保科海軍大佐はやっと御前会議開催に同意した。

 昭和十三年一月十一日の御前会議で和戦両様の「支那事変処理根本方針」が決定された。

 「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、昭和十四年、日独伊三国同盟論議が盛んだった。軍令部三部八課(対英国情報)課長・西田正雄大佐(海兵四四3番・海大二六次席)は二年間の英国大使館付補佐官としてロンドン滞在の英国通だったが、英国滞在が長かったため返ってイギリス嫌いになった人だった。

 三部八課部員の大井篤少佐(海兵五一・海大三四)は、英国には遠洋航海の指導官で立ち寄っただけだが、日本が英米を敵にまわして戦うとどうなるか知っていた。大井少佐は米国ヴァージニア大学ノースウエスタン大学で学んでいて、米国通であった。

 その大井少佐と英国嫌いの西田課長は、よく議論した。興奮してくると、よく立ち上がって卓を叩いて議論した。アシスタントの吉田俊雄大尉(海兵五九)が「すごかったですねえ。課長相手にあそこまで食ってかかっていいんですか」と、あとで言ったりした。

 その頃、ドイツ帰りの牛場信彦ら、三国同盟に熱を上げる若い外務事務官十数人が周囲を扇動し「ぜひ白鳥敏夫を外務大臣に」と運動していた。

 白鳥は当時豪傑肌の革新外交官で、若手に人気があり、駐伊大使であった。有田八郎外相は省内の枢軸派に突き上げられ、孤立していた。

 ある日牛場信彦らのリーダー格の外交官がドイツ転勤の送別会が柳橋の料亭で開かれることになり、情報交換のため、海軍側から大井少佐と吉田栄三中佐(海兵五〇・海大三二)が出席した。

 最初のうちはあたらずさわらずの話題で和やかに飲んでいたが、やがて酔いがまわるにつれ、大井少佐のまわりには誰もいなくなり、外務省の中堅若手が向うで車座になり、歌を歌い出した。「上総が生める快男児 姓は白鳥名は敏夫」と手拍子たたいてやっている。

 大井少佐は白鳥大使の影響力の強さに驚くとともに、ムカムカと不愉快になってきて「あんたたち、それで国士のつもりか。白鳥さんが何だ」と食ってかかった。

 すると「何を」と、外務省の中堅若手連中も歌をやめて総立ちになり、「君のようなのがいるから海軍は腰抜けと言われるんだ」と叫んだ。

167.米内光政海軍大将(7) 君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか

2009年06月05日 | 米内光政海軍大将
 一方、当時陸軍は議会政治そのものに、もはや見切りをつけていた。国防予算の審議でも真面目に答弁する気はなかった。

 海軍省軍務局長・豊田副武中将(海兵三三・海大一五)は「けだもの」とか「馬糞」とかいって陸軍のやり方を極端に毛嫌いしていた。作家の志賀直哉も陸軍批判の文章を中央公論なんかに発表している。

 陸軍の評判が悪いだけ、高くなったのが海軍の評判で、当時の重臣も海軍には「敬服」しているとの声も聞こえてきた。だが、陸軍参謀本部の中堅幕僚にしてみれば、重臣が敬服するような海軍の態度が面白くなかった。

 少し海軍に活を入れてやろうという魂胆か、陸軍の息のかかった壮士の羽織袴が、海軍省構内にちょいちょい見られるようになった。

 「米内海軍大臣閣下に会ってぜひとも申し上げたいことがある。取次ぎなさい」。

 当時、大臣副官の松永敬介少佐(海兵五〇・海大三二)が押しかけてくる彼ら壮士を適当にあしらってお引取り願ったら、

 「青二才の青年副官に追い返された」と厳重な抗議文が届くこともあった。

 昭和十二年六月四日、第一次近衛文麿内閣が成立した。主な閣僚は外相・廣田弘毅、蔵相・賀屋興宣、陸相・杉山元、海相・米内光政だった。

 米内は西園寺の私設秘書の原田熊雄に憤慨して言った。

 「どうも今回の組閣においても、陸軍の中枢どころ(武藤章、佐藤賢了など)が何か裏で工作して閣僚に注文をつけるのは実にけしからん」。

 四十七歳の近衛は藤原鎌足四十六代目の当主の公爵で、当時、貴公子と呼ばれていた。一高、東大、京大を出て、貴族院議員、同議長をつとめ、軍部にも、官僚にも好感を持たれていた。

 政党人や官僚は、近衛ならある程度陸軍を抑えられるだろうと期待していた。ところが陸軍は、近衛も天皇と同じように、表面は立てて、裏面では利用して、陸軍の操り人形にしようとしていた。

 近衛は首相の座と名誉に色気を持っていたため、八方美人に振舞っており、テロをひどく恐れ、陸軍の気を悪くさせまいとした。陸軍はそこにつけこんだのである。

 「米内光政」(高宮太平・時事通信社)によると、昭和十二年七月に盧溝橋事件が起きて日華事変の引き金となったが、第一次近衛内閣の、ある日の閣議のことである。

 拓務大臣・大谷尊由が「陸軍は一体どの線まで進出しようとするのか、それが分からなければ政府としては拱手傍観するばかりであるが~」と杉山元陸軍大臣(陸士一二・陸大二二)にたずねたが、杉山大臣は黙って答えない。

 見かねた米内海軍大臣が「氷定河と保定との線で停止することに内定している」と答えた。

 すると今まで沈黙を守っていた杉山陸軍大臣が「君はなんだ、こんなところでそんなことを言っていいのか」と怒鳴った、顔を真っ赤にして。

 米内海軍大臣はキット杉山陸軍大臣の顔を見返して苦笑するのみであった。

 杉山陸軍大臣は、統帥事項について閣議などで話すべきものではないと考えていた。こういうような考え方を是正することは、明治憲法に統帥権の独立を許している時代では不可能に近かった。政治と統帥が二本立てになっていたのである。

 二本立てになっていたのでは中国との戦争はできないと思った近衛文麿首相は大本営の設置を提案した。大本営はできたが、国務と統帥の対立は解消できなかった。

 「一軍人の生涯」(緒方竹虎・文藝春秋新社)によると、そこで近衛首相は有力者を集めて戦時国策審議会である内閣参議制の設置を考えた。

 この参議の顔ぶれを揃えるに当たり、海軍からは末次信正海軍大将を採ることを考えた。近衛首相は、予め米内海軍大臣に謀ることなく、直接、末次信正大将海軍大将に交渉した。その後、近衛首相は米内海軍大臣に相談した。

 近衛首相が米内海軍大臣に対して、「海軍からは安保清種予備役大将と末次信正大将を採りたい」と相談すると、米内海軍大臣は即座に了承した。

 そして米内海軍大臣は付け加えて「末次大将が参議になる以上、予備役編入を奏請する。海軍としては、海軍大臣以外次官といえども、政治面に携わることは、容されない。況や無任所大臣にも似た参議に就任する以上、当然の処置として予備にする以外ありません」と言った。

 近衛総理はびっくりした。近衛総理は、末次は現役のままで参議になってもらえると思っていたので、予期しないことだった。

 近衛総理が「それでは海軍がお困りではありませんか」と米内海軍大臣に念を押すと、「少しも困りません」というので、取り付く島も無かった。すでに末次に内諾を得ているので、どうすることもできなかった。