源田と柴田は、終戦に至るまで、ことごとく対立して、その海軍人生を終えた。さらに、その対立は戦後も続き、和解は無かった。
このような特異な経過から、柴田は、源田実批判の書、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)を発行した。
昭和四十四年三月、源田実参議院議員は、佐藤栄作首相の下で、自民党国防部会長であったが、アメリカ軍の核持ち込みを是認する発言で、国防部会長を辞任した。
この二年後の昭和四十六年一月二十六日に、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)は発刊された。当時は源田実参議院議員の「核武装論」などタカ派的言動が世間から注目されていた時期だった。
なお、源田実と柴田武雄について書いた「鷹が征く」(碇義朗・光人社)は、著者の碇義朗(いかり・よしろう)氏が生前の二人に会って、直接取材をして書きあげた書だが、こちらは平成十二年四月十三日に発刊された。
源田実は平成元年、柴田武雄は平成六年に、死去している。
源田実と柴田武雄の間に、根本的な思想の相異が生じたのは、生まれ育った環境の相異や、軍歴の相異というよりは、むしろ生来の性格の相異であったと思われる。
ちなみに、源田と柴田の幼少期、および軍歴の概略を比較してみる。
源田実は明治三十七年八月十六日生まれ、広島県出身。柴田武雄は明治三十七年二月二十日生まれ、福島県出身。二人とも生まれ年は同じである。
源田は次男で、幼少時は小柄で運動が得意ではなかったが、身体は頑丈だった。柴田は長男で、幼少時は身体が小さく、ひ弱な感じで、軽度の言語障害があった。
大正十年、二人とも海軍兵学校(五二期)に入学するが、大正十三年七月二十四日、卒業時の成績は、二三六名中、源田が十七番、柴田が四十六番だった。
源田は昭和四年十二月第一九期飛行学生を戦闘機専修として首席で卒業、恩賜の銀時計を拝受した。昭和十二年海軍大学校甲種学生(三五期)を次席で卒業。
柴田は昭和三年十二月第一八期飛行学生を戦闘機専修として卒業。昭和九年第四期高等科飛行学生を次席で卒業。海軍大学校は卒業していない。
源田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十五年十一月中佐、昭和十九年十月大佐。
柴田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十六年十月中佐、昭和十九年十月大佐。
昭和八年夏、海軍で航空戦技が行われた。航空戦技は、個別の航空機の操縦者が持つ戦闘技術のことで、航空戦の戦術にも当然重要な要素となる。
「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の「第一章・ミッドウェー大敗の実質的最大の責任者は誰か」所収の「第三節・第二の責任者は山本五十六大将である」の中で、柴田武雄は、この航空戦技について、次のように述べている(要旨抜粋)。
雷撃は、例によって、目標艦にぶっつかるほど接近して魚雷を発射するので、いつものとおり全部命中(戦技では艦底通過)である。
その時、若い士官の間から、「こんな成績を実戦でも上げることが出来ると思ったら大間違いである。もっと実践的にやらないと大変なことになる。堂々と意見を発表すべきである」という気運が盛り上がった。
その急先鋒が、雷撃機分隊長・日高実保大尉(海兵五〇・殉職・中佐)だった。
海軍航空本部技術部長・山本五十六少将ら、関係幹部が出席して、横須賀航空隊で行われたこの航空戦技の研究会で、日高大尉が意見を発表した。意見の要旨は次の通り・
「毎年航空戦技で、雷撃機隊が目標艦にぶっつかるほど接近して発射するので、いつもほとんど全部命中という成績を上げているが、実戦ではこんなことはとてもできない」
「いや、文字通り艦底を通過するだけで無効になるのが相当あるだろう。いや、その前に、途中で敵戦闘機に撃墜されるものが多数出るだろうし敵の防御砲銃火によって撃墜されるものも相当あって、例年戦技でやっているように敵艦にぶつかるまでに接近しようとするならば、全部撃墜されてゼロになる可能性もある」
「そこで、敵戦闘機が接近してきて、あと数秒で撃墜されるかもしれないというのに、のうのうと(いや勇敢に)敵艦に接近を続けるよりは、たとえ多少距離が遠くても魚雷を発射するを有利とする場合がる」
「しかし、発射距離が延びれば、敵の回避が容易であるということと相まって、当然命中率が低下する」
「ここに、実戦場において発射前の被害を最小限にとどめ、多少の遠距離からでも命中率を上げるための対策、すなわち、発射法(高高度高速発射法および、それに適応するような魚雷の発明、改善等)や、雷撃用測距儀や射点測定器等の兵器の発明や、実戦的な訓練法等を、抜本的に研究する必要がある」。
以上のように、日高実保大尉は意見を発表したのだ。
このような特異な経過から、柴田は、源田実批判の書、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)を発行した。
昭和四十四年三月、源田実参議院議員は、佐藤栄作首相の下で、自民党国防部会長であったが、アメリカ軍の核持ち込みを是認する発言で、国防部会長を辞任した。
この二年後の昭和四十六年一月二十六日に、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)は発刊された。当時は源田実参議院議員の「核武装論」などタカ派的言動が世間から注目されていた時期だった。
なお、源田実と柴田武雄について書いた「鷹が征く」(碇義朗・光人社)は、著者の碇義朗(いかり・よしろう)氏が生前の二人に会って、直接取材をして書きあげた書だが、こちらは平成十二年四月十三日に発刊された。
源田実は平成元年、柴田武雄は平成六年に、死去している。
源田実と柴田武雄の間に、根本的な思想の相異が生じたのは、生まれ育った環境の相異や、軍歴の相異というよりは、むしろ生来の性格の相異であったと思われる。
ちなみに、源田と柴田の幼少期、および軍歴の概略を比較してみる。
源田実は明治三十七年八月十六日生まれ、広島県出身。柴田武雄は明治三十七年二月二十日生まれ、福島県出身。二人とも生まれ年は同じである。
源田は次男で、幼少時は小柄で運動が得意ではなかったが、身体は頑丈だった。柴田は長男で、幼少時は身体が小さく、ひ弱な感じで、軽度の言語障害があった。
大正十年、二人とも海軍兵学校(五二期)に入学するが、大正十三年七月二十四日、卒業時の成績は、二三六名中、源田が十七番、柴田が四十六番だった。
源田は昭和四年十二月第一九期飛行学生を戦闘機専修として首席で卒業、恩賜の銀時計を拝受した。昭和十二年海軍大学校甲種学生(三五期)を次席で卒業。
柴田は昭和三年十二月第一八期飛行学生を戦闘機専修として卒業。昭和九年第四期高等科飛行学生を次席で卒業。海軍大学校は卒業していない。
源田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十五年十一月中佐、昭和十九年十月大佐。
柴田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十六年十月中佐、昭和十九年十月大佐。
昭和八年夏、海軍で航空戦技が行われた。航空戦技は、個別の航空機の操縦者が持つ戦闘技術のことで、航空戦の戦術にも当然重要な要素となる。
「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の「第一章・ミッドウェー大敗の実質的最大の責任者は誰か」所収の「第三節・第二の責任者は山本五十六大将である」の中で、柴田武雄は、この航空戦技について、次のように述べている(要旨抜粋)。
雷撃は、例によって、目標艦にぶっつかるほど接近して魚雷を発射するので、いつものとおり全部命中(戦技では艦底通過)である。
その時、若い士官の間から、「こんな成績を実戦でも上げることが出来ると思ったら大間違いである。もっと実践的にやらないと大変なことになる。堂々と意見を発表すべきである」という気運が盛り上がった。
その急先鋒が、雷撃機分隊長・日高実保大尉(海兵五〇・殉職・中佐)だった。
海軍航空本部技術部長・山本五十六少将ら、関係幹部が出席して、横須賀航空隊で行われたこの航空戦技の研究会で、日高大尉が意見を発表した。意見の要旨は次の通り・
「毎年航空戦技で、雷撃機隊が目標艦にぶっつかるほど接近して発射するので、いつもほとんど全部命中という成績を上げているが、実戦ではこんなことはとてもできない」
「いや、文字通り艦底を通過するだけで無効になるのが相当あるだろう。いや、その前に、途中で敵戦闘機に撃墜されるものが多数出るだろうし敵の防御砲銃火によって撃墜されるものも相当あって、例年戦技でやっているように敵艦にぶつかるまでに接近しようとするならば、全部撃墜されてゼロになる可能性もある」
「そこで、敵戦闘機が接近してきて、あと数秒で撃墜されるかもしれないというのに、のうのうと(いや勇敢に)敵艦に接近を続けるよりは、たとえ多少距離が遠くても魚雷を発射するを有利とする場合がる」
「しかし、発射距離が延びれば、敵の回避が容易であるということと相まって、当然命中率が低下する」
「ここに、実戦場において発射前の被害を最小限にとどめ、多少の遠距離からでも命中率を上げるための対策、すなわち、発射法(高高度高速発射法および、それに適応するような魚雷の発明、改善等)や、雷撃用測距儀や射点測定器等の兵器の発明や、実戦的な訓練法等を、抜本的に研究する必要がある」。
以上のように、日高実保大尉は意見を発表したのだ。