陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

544.源田実海軍大佐(4)こんな成績を実戦でも上げることが出来ると思ったら大間違いである

2016年08月26日 | 源田実海軍大佐
 源田と柴田は、終戦に至るまで、ことごとく対立して、その海軍人生を終えた。さらに、その対立は戦後も続き、和解は無かった。

 このような特異な経過から、柴田は、源田実批判の書、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)を発行した。

 昭和四十四年三月、源田実参議院議員は、佐藤栄作首相の下で、自民党国防部会長であったが、アメリカ軍の核持ち込みを是認する発言で、国防部会長を辞任した。

 この二年後の昭和四十六年一月二十六日に、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)は発刊された。当時は源田実参議院議員の「核武装論」などタカ派的言動が世間から注目されていた時期だった。

 なお、源田実と柴田武雄について書いた「鷹が征く」(碇義朗・光人社)は、著者の碇義朗(いかり・よしろう)氏が生前の二人に会って、直接取材をして書きあげた書だが、こちらは平成十二年四月十三日に発刊された。

 源田実は平成元年、柴田武雄は平成六年に、死去している。

 源田実と柴田武雄の間に、根本的な思想の相異が生じたのは、生まれ育った環境の相異や、軍歴の相異というよりは、むしろ生来の性格の相異であったと思われる。

 ちなみに、源田と柴田の幼少期、および軍歴の概略を比較してみる。

 源田実は明治三十七年八月十六日生まれ、広島県出身。柴田武雄は明治三十七年二月二十日生まれ、福島県出身。二人とも生まれ年は同じである。

 源田は次男で、幼少時は小柄で運動が得意ではなかったが、身体は頑丈だった。柴田は長男で、幼少時は身体が小さく、ひ弱な感じで、軽度の言語障害があった。

 大正十年、二人とも海軍兵学校(五二期)に入学するが、大正十三年七月二十四日、卒業時の成績は、二三六名中、源田が十七番、柴田が四十六番だった。

 源田は昭和四年十二月第一九期飛行学生を戦闘機専修として首席で卒業、恩賜の銀時計を拝受した。昭和十二年海軍大学校甲種学生(三五期)を次席で卒業。

 柴田は昭和三年十二月第一八期飛行学生を戦闘機専修として卒業。昭和九年第四期高等科飛行学生を次席で卒業。海軍大学校は卒業していない。

 源田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十五年十一月中佐、昭和十九年十月大佐。

 柴田は、大正十四年十二月少尉、昭和二年十二月中尉、昭和五年十二月大尉、昭和十一年十一月少佐、昭和十六年十月中佐、昭和十九年十月大佐。

 昭和八年夏、海軍で航空戦技が行われた。航空戦技は、個別の航空機の操縦者が持つ戦闘技術のことで、航空戦の戦術にも当然重要な要素となる。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の「第一章・ミッドウェー大敗の実質的最大の責任者は誰か」所収の「第三節・第二の責任者は山本五十六大将である」の中で、柴田武雄は、この航空戦技について、次のように述べている(要旨抜粋)。

 雷撃は、例によって、目標艦にぶっつかるほど接近して魚雷を発射するので、いつものとおり全部命中(戦技では艦底通過)である。

 その時、若い士官の間から、「こんな成績を実戦でも上げることが出来ると思ったら大間違いである。もっと実践的にやらないと大変なことになる。堂々と意見を発表すべきである」という気運が盛り上がった。

 その急先鋒が、雷撃機分隊長・日高実保大尉(海兵五〇・殉職・中佐)だった。

 海軍航空本部技術部長・山本五十六少将ら、関係幹部が出席して、横須賀航空隊で行われたこの航空戦技の研究会で、日高大尉が意見を発表した。意見の要旨は次の通り・

 「毎年航空戦技で、雷撃機隊が目標艦にぶっつかるほど接近して発射するので、いつもほとんど全部命中という成績を上げているが、実戦ではこんなことはとてもできない」

 「いや、文字通り艦底を通過するだけで無効になるのが相当あるだろう。いや、その前に、途中で敵戦闘機に撃墜されるものが多数出るだろうし敵の防御砲銃火によって撃墜されるものも相当あって、例年戦技でやっているように敵艦にぶつかるまでに接近しようとするならば、全部撃墜されてゼロになる可能性もある」

 「そこで、敵戦闘機が接近してきて、あと数秒で撃墜されるかもしれないというのに、のうのうと(いや勇敢に)敵艦に接近を続けるよりは、たとえ多少距離が遠くても魚雷を発射するを有利とする場合がる」

 「しかし、発射距離が延びれば、敵の回避が容易であるということと相まって、当然命中率が低下する」

 「ここに、実戦場において発射前の被害を最小限にとどめ、多少の遠距離からでも命中率を上げるための対策、すなわち、発射法(高高度高速発射法および、それに適応するような魚雷の発明、改善等)や、雷撃用測距儀や射点測定器等の兵器の発明や、実戦的な訓練法等を、抜本的に研究する必要がある」。

 以上のように、日高実保大尉は意見を発表したのだ。



543.源田実海軍大佐(3)柴田武雄は、この著書「源田実論」で全般に渡り源田実を批判した

2016年08月19日 | 源田実海軍大佐
 この海軍の定期異動について、著者の源田実は次のように述べている。

 旧海軍の方式では、毎年、根こそぎ人の組み合わせが変わるので、チームが解体せられ、新人を持って新しいチームを作らねばならない。

 以心伝心を重要視する戦闘機パイロットは、この点、はなはだ不便だった。戦闘機の編隊各機相互の支援協力は、空中戦闘上最大の要点だった。

 従って、源田実中尉は、自分が転勤する場合、前年度に自分の列機として使った下士官パイロットを連れて転勤したことが数回あった。

 しかし、反面、次の様な大きな利点もある。指揮官たる上司も部下たる下僚も、共に人間である。従って、合性というものがある。個人の性格の相異が、この合性に大きく影響する。

 組織の上の鉄の規律で縛られているから、一応服従はするものの、どうしても心底から、尊敬の念を持ち得ないような指揮官も上司もいる。

 その人が個人的にどうということはなくても、いわゆる、虫の好かない人間がいることは事実である。源田中尉自身にもそんな経験があるし、また、源田中尉の下の者で、上司たる源田中尉に対して、同様な感情を抱いた者もいる。

 こんな状態で、上司と部下との関係を、数年間も続けて行くことは、上司はともかく、下にいる者にとっては、たまらないことである。

 こんな場合、「どんなに嫌で苦しくても、一年間の我慢で足りる」となれば、部下としても辛抱し易く、下手をすれば、せっかく伸びる英才を腰折れにさせるようなこともなくて済むのである。

 昭和七年、霞ヶ浦航空隊操縦教官・源田実大尉は、上海に派遣された。第一次上海事変における二月二十二日の、空中戦闘の模様を調査し、報告するためであった。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)第三章<源田とはこういう人間だ―その奇怪な性格と能力―>によると、この時のことを、著者の柴田武雄は、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 この空中戦闘は、航空母艦「加賀」の小谷進大尉率いる攻撃機隊三機と、生田乃木次大尉率いる戦闘機隊三機とが協力して、アメリカ軍、ロバート・ショートの操縦するボーイング戦闘機を撃墜したものだった。

 帰って来た源田大尉は、霞ヶ浦航空隊の士官室で、得意のゼスチャーで、模型飛行機をあやつりながら、空中戦闘の模様を説明した。

 著者の柴田武雄は当時、源田大尉と同じく、霞ヶ浦航空隊の操縦教官だった。柴田大尉も源田大尉の説明を聞いていたが、大して上手ではないと思った。

 源田大尉の説明が終わり、司令、教官をはじめ、学生たちがぞろぞろ士官室を出始めた。ところが、不思議な現象が起きた。

 学生の集団の中から、異口同音に、“源田さんは偉い”という、感極まったような言葉が、一斉に出て、ため息のようなものが混じって、異様な雰囲気を醸成した。

 海軍兵学校時代から哲学や宗教に興味を持ち、研究し、行(ぎょう)のようなこともやっていた柴田大尉は、次の様に思った。

 「一体これはどういう訳だ。ボーイングを撃墜したのは源田ではないし、たとえ源田の説明が学生たちには大変上手に聞こえたとしても、“源田さんは偉い”という言葉は、一体どこから出るのだ」。

 そして、柴田大尉は、源田には不思議な力(一種の魔力)があるのだ、ということが、ハッキリわかった。魔力とは、その人の持っている純粋な力とはほとんど無関係なものに、意識的または無意識裡に転換して、人を感服・敬服させるような力である。

 たとえば源田大尉の話術が相当優れたものであるとしても、それそのものをもって人を純粋に感服させるものではなく、それらとはほとんど無関係な、軍人としての(あるいは人間としての)偉さに転換して、人を敬服させるような不思議な力(一種の欺瞞力、その背景には、俺は偉いんだと思っている強い信念力等がある)を意味する。

 驚くべきことに、柴田武雄は、この著書「源田実論」で全般に渡り源田実を批判した。中には、批判を通り越して、悪口、誹謗中傷とも、いえる激しく辛辣な論調で、詳細に記している。

 勿論、これには、相当の理由があるのだが、基本的には、ともに海軍パイロットとしての道を歩みながら、その航空戦術思想の違いであった。さらに、戦術思想のみでなく、日常的な思考、物事のとらえ方まで、異なっていた。





542.源田実海軍大佐(2)源田と柴田は、空中戦闘思想の相異から深く対立するようになる

2016年08月12日 | 源田実海軍大佐
 源田実の著書は、「海軍航空隊始末記・発進編」(文藝春秋新社)、新版「海軍航空隊始末記、戦闘篇」(文藝春秋新社)、「指揮官 人間掌握の秘訣」(時事通信社)、「真珠湾作戦回顧録」(読売新聞社)、「源田実 語録」(善本社)、「統率力 源田実の経営戦略」(読売新聞社)、「敗中勝機を識る」(善本社)、「風鳴り止まず」(サンケイ出版)、「海軍航空隊 発進」(文春文庫)などがある。

 「海軍航空隊 発進」(源田実・文春文庫)によると、広島県広島市水主町の県立病院の裏には、立派な庭園があった。庭園の中央には大きな池があった。

 海軍兵学校合格通知を受けた直後の、大正十年七月の初め、源田実は友人と二人で、この池のまわりを歩きながら自分の将来の道について考えた。

 海軍兵学校を志したのは小学生時代からであったが、いよいよ海軍に入るとなると、源田実は「何をやったらよいであろうか」と次の選定の問題にぶつかった。

 現実問題としては、何もこの時期に決定する必要はなかった。海軍兵学校に入ってからでもよいし、海軍兵学校を卒業後、遠洋航海を済ませ、海上勤務の実際に携わってからの方がむしろよいだろう。

 この時期、二十歳から二十五歳位の成人の域では自分の希望する職業に適しているか、あるいは思いもかけなかった方向に自分の適性を見出すかもしれない。

 海軍兵学校入校前の、いわゆるティーン・エィジャーの間は、正確なことは判らない。しかし、当時の源田には、そんな思慮はなかった。

 “速やかに方針を定め、その方針に従って、驀進する”という方法が、最も効果的であると源田は考えていたので、海軍に入ってからの専門について深く考えた。
 
「海軍に入りたい」という熱意は強いものだった。「海軍がダメなら陸軍とか、高等学校を受ける」あるいは「今年駄目でも、来年がある」という代案は源田には全くなかった。

 ほのかに頭の一角にあった考えは「もし駄目だったら、同文書院にでも行こうか」というようなものだった。源田の兄弟は、ほとんど高等学校から大学という途を歩いている。

 従って、源田がそういう途を希望しても、源田の父は、そうしてくれただろう。だが、源田は海軍兵学校受験を一本勝負として取り組んだ。「もし駄目なら、大陸にでも行こう」という考えだった。

 源田は病院の裏の大きな庭園で池の周りを歩きながら、ふと頭に浮かんだことがあった。イギリスから来た飛行将校の一群が、霞ヶ浦の海軍飛行場で、日本海軍の飛行将校達に、操縦教育をやっている、ということだった。

 新聞を通じて、源田の脳裏に残っていたのである。このことが電光のように源田の頭を走ると同時に、「そうだ、飛行機だ、飛行機にしよう」「これから最も将来性のあるのは飛行機だ」という着想と決心が即座にまとまった。

 源田が実際に飛行機関係に入るのは、それから七年後であるが、その間、この時決心して定めた目標を、ただの一度も変更したことは無かった。
 
 昭和五年二月源田実中尉は、空母「赤城」乗組になった。その前の昭和五年一月、源田実と海兵同期の柴田武雄中尉(海兵五二・大佐)が空母「加賀」乗組みになっている。

 「赤城」の源田中尉と、「加賀」の柴田中尉、二人はともに若き有為な戦闘機乗りだった。この二人にとって、向こう一年間に及ぶ母艦生活は、彼らの人生でも最も充実した楽しい時期であった。
 
 だが、その後、この二人、源田と柴田は、空中戦闘思想の相異から深く対立するようになる。

 空母「加賀」には、戦闘機操縦の達人と言われた、先任分隊士・岡村基春(おかむら・もとはる)大尉(高知・海兵五〇・岡村サーカス・試験飛行中<左手の中指・薬指・小指>を根元から切断・第一二航空隊飛行隊長・中佐・第三航空隊司令第二〇二海軍航空隊司令・第五〇二海軍航空隊司令・神ノ池航空隊司令・大佐・第三四一航空隊司令・上層部に特攻を進言・特攻兵器桜花部隊である第七二一海軍航空隊(神雷部隊)司令・戦後鉄道自殺)がいた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によれば、この岡村大尉を一番機に、霞ヶ浦の操縦学生課程で一番と二番の成績を分かち合った、柴田武雄中尉と井上勤中尉(神奈川・海兵五二・少佐)を列機とした豪華メンバーの士官小隊は空母「加賀」の華だった。

 息の合ったこの三人は、普段の飛行訓練中はもちろん、戦技などでも常に行動を共にして、その水際立った編隊飛行ぶりに磨きをかけ、世に「岡村サーカス」の別名で呼ばれた、編隊特殊飛行の基礎を作り上げた。

 昭和五年十二月一日、海軍の定期異動が行われた。「海軍航空隊発進」(源田実・文春文庫)によると、当時空母「赤城」飛行隊の戦闘機パイロットであった源田実中尉も横須賀航空隊附に移動した。





541.源田実海軍大佐(1)大楠公や上杉謙信公は、横須賀航空隊の高等科学生を卒業していませんね

2016年08月05日 | 源田実海軍大佐
 昭和七年、霞ヶ浦航空隊で源田大尉は操縦教官をしていた。「海軍航空隊、発進」(源田実・文春文庫)によると、海軍将校が例外なく受験する高等科学生の試験を、源田実大尉は受けなかった。

 源田大尉は戦闘機操縦者(戦前はパイロットという名称は使われなかった)として大成することのみを考えていた。

 当時、霞ヶ浦航空隊の飛行長は千田貞敏(せんだ・さだとし)中佐(鹿児島・海兵四〇期・百四十一番・霞ヶ浦航空隊飛行長・給油艦「神威」副長・舞鶴航空隊司令・大佐・大村航空隊司令・第一三航空隊司令・航空本部出仕・逓信省航空局技術部乗員課長・鹿児島航空隊司令・霞ヶ浦航空隊司令・少将・第一四連合航空隊司令官・第二八根拠地隊司令官・戦死・中将・正四位・勲二等)だった。

 ある日、飛行長・千田中佐は操縦教官・源田大尉を呼んだ。千田中佐は源田大尉に高等科学生を受けるように説得するためだった。

 千田中佐「君はどうして、横須賀航空隊の高等科学生を受けないのだ」。

 源田大尉「受ける必要はないと思います」。

 千田中佐「いや、受けたほうが良い。ぜひ受けたまえ」。

 源田大尉「横空の高等科学生は、一体、何を学ぶのですか」。

 千田中佐「それは君、判り切ったことではないか。戦略戦術の勉強だよ」。

 源田大尉「ハア―、そうですか。では聞きますが、大楠公や上杉謙信公などという人は、大用兵家ではありませんか」。

 千田中佐「それは君、もちろん大兵術家だ。それがどうしたというのだ」。

 源田大尉「大楠公や上杉謙信公は、横須賀航空隊の高等科学生を卒業していませんね」。

 千田中佐「判ったよ。もうよろしい」。

 結局、源田大尉は、高等科学生を受験しなかった。

 <源田実(げんだ・みのる)海軍大佐プロフィル>
明治三十七年八月十六日、広島県山県郡加計町(現・安芸太田町)出身。源田春七(酒造・農業)の次男。
大正十年(十七歳)三月広島第一中学校(現・県立国泰寺高校)卒業。パイロットに憧れて、八月二十六日海軍兵学校入校。
大正十三年(二十歳)七月二十四日海軍兵学校(五二期)卒業(成績は二三六名中一七番)、少尉候補生。
大正十四年(二十一歳)十二月海軍少尉。
昭和二年(二十三歳)四月砲術学校普通科卒業。七月水雷学校普通科卒業、装甲巡洋艦「出雲」乗組。十二月中尉。
昭和三年(二十四歳)十二月霞ヶ浦航空隊入隊、飛行学生。
昭和四年(二十五歳)十二月第一九期飛行学生修了(首席で恩賜の銀時計拝受)、横須賀航空隊附。
昭和五年(二十六歳)二月空母「赤城」乗組。十二月大尉、横須賀航空隊附。
昭和六年(二十七歳)六月空母「赤城」乗組。十二月霞ヶ浦航空隊分隊長。
昭和七年(二十八歳)十二月横須賀海軍航空隊附。
昭和八年(二十九歳)十二月空母「龍驤」分隊長(兼横須賀海軍航空隊附教官)。
昭和九年(三十歳)十一月横須賀海軍航空隊分隊長。源田大尉率いる三機編隊による曲技飛行を奉納機式典上空など日本各地で行い、「源田サーカス」と呼ばれた。
昭和十年(三十一歳)「単座機による急降下爆撃の教育訓練に就いて」で昭和九年度恩賜研学資金受賞。十月三十一日海軍大学校(甲種学生)入学。
昭和十一年(三十二歳)十一月少佐、第二連合航空隊参謀。
昭和十二年(三十三歳)七月海軍大学校(三五期・次席)卒業、第二連合航空隊参謀。九月上海勤務。十二月南京勤務、横須賀海軍航空隊教官。
昭和十三年(三十四歳)一月横須賀海軍航空隊飛行隊長兼教官。四月兼海軍砲術学校教官兼海軍通信学校教官兼海軍航海学校教官。十二月英国在勤帝国大使館附武官補佐官兼海軍航空本部造兵監督官。
昭和十五年(三十六歳)九月命帰朝。十一月第一航空戦隊参謀(空母「加賀」乗組)、中佐。
昭和十六年(三十七歳)四月第一航空艦隊甲航空参謀。空母「赤城」乗組。十二月八日真珠湾攻撃。
昭和十七年(三十八歳)六月ミッドウェー海戦、乗組空母「赤城」など空母四隻撃沈される。七月空母「瑞鶴」飛行長。十月軍令部出仕、臨時第一一航空艦隊参謀。十二月軍令部第一部第一課部員兼海軍技術会議銀。大本営海軍参謀。
昭和十九年(四十歳)七月陸海軍航空技術委員会委員。八月兼陸軍参謀本部部員、大本営陸軍参謀。十月大佐。
昭和二十年(四十一歳)一月第三四三海軍航空隊(松山)司令兼副長。六月兼第三五二海軍航空隊司令。八月十五日終戦。十月佐世保鎮守府附。十一月予備役。
昭和二十一年十二月(四十二歳)極東軍事裁判で第二連合航空隊参謀として爆撃に関する基本方針(支那事変)、及び第一航空艦隊参謀として真珠湾攻撃の立案と実施について供述。川南工業入社。
昭和二十八年(四十九歳)六月東洋装備株式会社取締役社長。
昭和二十九年(五十歳)防衛庁入庁、航空幕僚監部装備部長。
昭和三十年(五十一歳)十二月航空自衛隊航空団司令。
昭和三十一年(五十二歳)七月臨時航空訓練部長、空将。ジェット戦闘機の操縦資格取得。
昭和三十二年(五十三歳)八月航空集団司令。
昭和三十三年(五十四歳)八月航空総隊司令。
昭和三十四年(五十五歳)七月十八日第三代航空幕僚長。八月FX機種選定の調査団団長として渡米。十二月第三十三国会に委員外の出席者として出席。
昭和三十七年(五十八歳)レジオン・オブ・メリット勲章(米国)受章。四月航空幕僚長辞任、退官(空将)。七月第六回参議院通常選挙に自由民主党公認で全国区から立候補、第五位で当選。以後四期二十四年(~昭和六十一年七月)参議院議員を務める。日本飛行連盟名誉会長就任。
昭和三十八年(五十九歳)十一月赤十字飛行隊初代隊長(~昭和六十一年三月)。
昭和四十三年(六十四歳)自民党政調会国防部会長。
昭和四十九年(七十歳)勲二等瑞宝章受章。
昭和五十六年(七十七歳)従三位、勲二等旭日重光章受章。
昭和五十九年(八十歳)裁判官弾劾裁判所裁判長。
昭和六十三年(八十四歳)七月永年在職議員表彰、引退。
平成元年八月十五日松山市の病院で脳血栓のため死去。享年八十四歳。