昭和四年九月、辻中尉は小学校の頃の校長の媒酌で大阪の官吏の娘、青木千歳と結婚した。
辻中尉は陸軍大学校在学中、図書館で日露戦争に際し、重要な戦闘を、戦後に研究反省した戦術書を読んだ。
その戦術書には、満州各地で行われたロシア陸軍との戦闘について、細かく検討分析し、日本軍がもしこのように戦えば、より少ない犠牲によって勝利を勝ち得たであろうと説明が記されていた。
その内容は試験問題と答案集のような型式で列挙されていた。辻中尉は強い興味に駆られ、その答案をすべて暗記した。
ところがある教官が講義に際し、その戦術書を種本として講義を始めた。学生たちは参謀本部の衆智を集めて検討した、完璧な内容についての講義を、熱心に聴講し、ノートをとった。
教官は講義を始めると同時に、その種本の閲覧を禁止した。教官は講義のあいだに、種本に記されている戦闘の一つを問題として、その場合にとるべき措置、戦闘方針についての答案を生徒に書かせることにした。
辻中尉は白紙の答案を提出した。教官は彼を呼び、叱りつけ、次のように述べた。
「あの問題は、君が書けないような内容ではない。白紙解答を提出するのは、教官を侮辱するものではないか」。
すると辻中尉は落ち着いて次のように答えた。
「教官殿の講義内容は図書館で閲覧し、全ての解答も暗記しております。それを読まざるがごとくよそおい、答案を書きしるすのは、良心の許さないところであります」。
教官は顔色を失い、絶句した。こののち、この教官は、事あるごとに辻中尉につらくあたるようになったという。
昭和九年八月、辻政信大尉は陸軍士官学校の中隊長に就任した。その年の十一月、陸軍士官学校事件(十一月事件)が起きた。
陸軍士官学校中隊長の辻政信大尉の密告によりクーデター計画が発覚、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一一等主計ら青年将校と陸軍士官学校生徒五人が逮捕された。
堀江氏によると、昭和十年四月、陸軍士官学校の第一中隊と第二中隊の生徒二名が退校になり、辻大尉の歩兵第二連隊への転勤が発令された。
この事件について、当時士官学校生徒の堀江氏たちは、なにが起こったのか皆目わからなかったし、何も知らされなかった。
昭和十一年六月二十九日、堀江氏は陸軍士官学校本科を卒業して水戸に帰り見習士官になった。その後十月一日、陸軍歩兵少尉に任官した。
しばらくして、堀江少尉に電話がかかってきた。当時士官学校第二中隊長で、今は仙台の第二師団兵器部長の古宮正次郎中佐(陸士二八・ガダルカナル歩兵第二十九連隊長・自決・少将)だった。
「今、駅前の太平館にいるから昼食を一緒にしよう。ご馳走するよ」ということであった。おそらく日曜日の朝の電話だった。堀江少尉は早速他の二名に連絡し、十一時過ぎ太平館に行った。
剣道五段のでっぷり太った古宮中佐は、大変なご機嫌だった。おおばんふるまいだった。「ところで、君らの卒業前にとも考えたが今まで、我慢していたのだ」と話を始め、次のように述べた。
「君らの知っている通り第一中隊でS、第二中隊でMの二人の候補生が退校になった。あれは、辻がSとMに村中や磯部のところに行かせて反乱の計画を探らせ、郷里出身の橋本虎之助陸軍次官(愛知県出身・陸士一四・陸大二二・ロシア大使館附武官・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長)に内報した事件だ」
「だいたい彼(辻大尉)は天保銭を笠に着て、先輩であるわれわれを侮辱するところあり、しかも自分の部下の候補生をスパイに使い、士官学校の職員でありながら、系統上の上官に報告することなく、郷里の先輩のところに情報を持ち込んだのだ」
「はなはだもって怪しからん奴だ。今後絶対に彼に接触するな。危険だ。犠牲になるぞ」。
古宮正次郎中佐の話は以上のようなものであった。堀江少尉はびっくりした。そしてせっかくのご馳走がまずくなってしまった。
辻中尉は陸軍大学校在学中、図書館で日露戦争に際し、重要な戦闘を、戦後に研究反省した戦術書を読んだ。
その戦術書には、満州各地で行われたロシア陸軍との戦闘について、細かく検討分析し、日本軍がもしこのように戦えば、より少ない犠牲によって勝利を勝ち得たであろうと説明が記されていた。
その内容は試験問題と答案集のような型式で列挙されていた。辻中尉は強い興味に駆られ、その答案をすべて暗記した。
ところがある教官が講義に際し、その戦術書を種本として講義を始めた。学生たちは参謀本部の衆智を集めて検討した、完璧な内容についての講義を、熱心に聴講し、ノートをとった。
教官は講義を始めると同時に、その種本の閲覧を禁止した。教官は講義のあいだに、種本に記されている戦闘の一つを問題として、その場合にとるべき措置、戦闘方針についての答案を生徒に書かせることにした。
辻中尉は白紙の答案を提出した。教官は彼を呼び、叱りつけ、次のように述べた。
「あの問題は、君が書けないような内容ではない。白紙解答を提出するのは、教官を侮辱するものではないか」。
すると辻中尉は落ち着いて次のように答えた。
「教官殿の講義内容は図書館で閲覧し、全ての解答も暗記しております。それを読まざるがごとくよそおい、答案を書きしるすのは、良心の許さないところであります」。
教官は顔色を失い、絶句した。こののち、この教官は、事あるごとに辻中尉につらくあたるようになったという。
昭和九年八月、辻政信大尉は陸軍士官学校の中隊長に就任した。その年の十一月、陸軍士官学校事件(十一月事件)が起きた。
陸軍士官学校中隊長の辻政信大尉の密告によりクーデター計画が発覚、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一一等主計ら青年将校と陸軍士官学校生徒五人が逮捕された。
堀江氏によると、昭和十年四月、陸軍士官学校の第一中隊と第二中隊の生徒二名が退校になり、辻大尉の歩兵第二連隊への転勤が発令された。
この事件について、当時士官学校生徒の堀江氏たちは、なにが起こったのか皆目わからなかったし、何も知らされなかった。
昭和十一年六月二十九日、堀江氏は陸軍士官学校本科を卒業して水戸に帰り見習士官になった。その後十月一日、陸軍歩兵少尉に任官した。
しばらくして、堀江少尉に電話がかかってきた。当時士官学校第二中隊長で、今は仙台の第二師団兵器部長の古宮正次郎中佐(陸士二八・ガダルカナル歩兵第二十九連隊長・自決・少将)だった。
「今、駅前の太平館にいるから昼食を一緒にしよう。ご馳走するよ」ということであった。おそらく日曜日の朝の電話だった。堀江少尉は早速他の二名に連絡し、十一時過ぎ太平館に行った。
剣道五段のでっぷり太った古宮中佐は、大変なご機嫌だった。おおばんふるまいだった。「ところで、君らの卒業前にとも考えたが今まで、我慢していたのだ」と話を始め、次のように述べた。
「君らの知っている通り第一中隊でS、第二中隊でMの二人の候補生が退校になった。あれは、辻がSとMに村中や磯部のところに行かせて反乱の計画を探らせ、郷里出身の橋本虎之助陸軍次官(愛知県出身・陸士一四・陸大二二・ロシア大使館附武官・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長)に内報した事件だ」
「だいたい彼(辻大尉)は天保銭を笠に着て、先輩であるわれわれを侮辱するところあり、しかも自分の部下の候補生をスパイに使い、士官学校の職員でありながら、系統上の上官に報告することなく、郷里の先輩のところに情報を持ち込んだのだ」
「はなはだもって怪しからん奴だ。今後絶対に彼に接触するな。危険だ。犠牲になるぞ」。
古宮正次郎中佐の話は以上のようなものであった。堀江少尉はびっくりした。そしてせっかくのご馳走がまずくなってしまった。