陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

344.辻政信陸軍大佐(4)教官殿の講義内容は図書館で閲覧し、全ての解答も暗記しております

2012年10月26日 | 辻政信陸軍大佐
 昭和四年九月、辻中尉は小学校の頃の校長の媒酌で大阪の官吏の娘、青木千歳と結婚した。

 辻中尉は陸軍大学校在学中、図書館で日露戦争に際し、重要な戦闘を、戦後に研究反省した戦術書を読んだ。

 その戦術書には、満州各地で行われたロシア陸軍との戦闘について、細かく検討分析し、日本軍がもしこのように戦えば、より少ない犠牲によって勝利を勝ち得たであろうと説明が記されていた。

 その内容は試験問題と答案集のような型式で列挙されていた。辻中尉は強い興味に駆られ、その答案をすべて暗記した。

 ところがある教官が講義に際し、その戦術書を種本として講義を始めた。学生たちは参謀本部の衆智を集めて検討した、完璧な内容についての講義を、熱心に聴講し、ノートをとった。

 教官は講義を始めると同時に、その種本の閲覧を禁止した。教官は講義のあいだに、種本に記されている戦闘の一つを問題として、その場合にとるべき措置、戦闘方針についての答案を生徒に書かせることにした。

 辻中尉は白紙の答案を提出した。教官は彼を呼び、叱りつけ、次のように述べた。

 「あの問題は、君が書けないような内容ではない。白紙解答を提出するのは、教官を侮辱するものではないか」。

 すると辻中尉は落ち着いて次のように答えた。

 「教官殿の講義内容は図書館で閲覧し、全ての解答も暗記しております。それを読まざるがごとくよそおい、答案を書きしるすのは、良心の許さないところであります」。

 教官は顔色を失い、絶句した。こののち、この教官は、事あるごとに辻中尉につらくあたるようになったという。

 昭和九年八月、辻政信大尉は陸軍士官学校の中隊長に就任した。その年の十一月、陸軍士官学校事件(十一月事件)が起きた。

 陸軍士官学校中隊長の辻政信大尉の密告によりクーデター計画が発覚、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一一等主計ら青年将校と陸軍士官学校生徒五人が逮捕された。

 堀江氏によると、昭和十年四月、陸軍士官学校の第一中隊と第二中隊の生徒二名が退校になり、辻大尉の歩兵第二連隊への転勤が発令された。

 この事件について、当時士官学校生徒の堀江氏たちは、なにが起こったのか皆目わからなかったし、何も知らされなかった。

 昭和十一年六月二十九日、堀江氏は陸軍士官学校本科を卒業して水戸に帰り見習士官になった。その後十月一日、陸軍歩兵少尉に任官した。

 しばらくして、堀江少尉に電話がかかってきた。当時士官学校第二中隊長で、今は仙台の第二師団兵器部長の古宮正次郎中佐(陸士二八・ガダルカナル歩兵第二十九連隊長・自決・少将)だった。

 「今、駅前の太平館にいるから昼食を一緒にしよう。ご馳走するよ」ということであった。おそらく日曜日の朝の電話だった。堀江少尉は早速他の二名に連絡し、十一時過ぎ太平館に行った。

 剣道五段のでっぷり太った古宮中佐は、大変なご機嫌だった。おおばんふるまいだった。「ところで、君らの卒業前にとも考えたが今まで、我慢していたのだ」と話を始め、次のように述べた。

 「君らの知っている通り第一中隊でS、第二中隊でMの二人の候補生が退校になった。あれは、辻がSとMに村中や磯部のところに行かせて反乱の計画を探らせ、郷里出身の橋本虎之助陸軍次官(愛知県出身・陸士一四・陸大二二・ロシア大使館附武官・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長)に内報した事件だ」

 「だいたい彼(辻大尉)は天保銭を笠に着て、先輩であるわれわれを侮辱するところあり、しかも自分の部下の候補生をスパイに使い、士官学校の職員でありながら、系統上の上官に報告することなく、郷里の先輩のところに情報を持ち込んだのだ」

 「はなはだもって怪しからん奴だ。今後絶対に彼に接触するな。危険だ。犠牲になるぞ」。

 古宮正次郎中佐の話は以上のようなものであった。堀江少尉はびっくりした。そしてせっかくのご馳走がまずくなってしまった。

343.辻政信陸軍大佐(3)試験官は「貴様のような者は、落第させてやる」と断言した

2012年10月19日 | 辻政信陸軍大佐
 辻少尉は、師団長が気をよくするようにうまく話のいとぐちを切り出した。

 「まず皆に聞こう。皆は入営する前に、軍隊はよく品物が紛失するところだと聞いていただろう。入隊以来、今日まで所持品を失ったことのある者は、手をあげよ」。

 兵隊は思いがけない質問にうろたえた様子で、誰も手を挙げない。辻少尉は彼らにすすめた。

 「所持品を紛失した者はないのか。靴下、石鹸、剃刀、刷毛など、なんでもかまわない。師団長閣下、連隊長殿がおられても遠慮することはない。隠さないで手をあげよ」。

 数人が挙手をした。

 「それぐらいではないだろう。もっといるにちがいない」。

 うながすうちに、小隊全員が手をあげた。辻少尉は一人ずつ、失ったものをたずねた。靴下、刷毛、襦袢、袴下、靴などさまざまの物を盗まれたと兵たちは答えた。

 「よろしい。紛失の原因は一人が盗むことから始まる。軍隊では下給品を紛失すると叱られるので、一人が盗まれると他の者の品を盗む」

 「盗まれた者はまた他の者の品を盗むので、隊内の者が全部同じことをしないわけにいかなくなる。これが内務班の悪習だ。今後そのようなことがあれば、ただちに班長に報告せよ。班長は叱らずに失った品を補充してやれ」。

 辻少尉は軍隊生活のもっとも切実な問題を、するどく指摘した。吉冨連隊長は、師団長が気分を害しないかと顔色を失っていたが、辻少尉は平然と話を続けた。

 「本日は営庭は見たとおり、きれいに片付いているが、道路際のあちこちに縄を張っているのは何のためか」。

 兵隊が手をあげ、答えた。

 「あれは近道をするため、芝生を横切る者が多いので、踏ませないようにしているのであります」。

 「公聴心に欠けているから、そういうことをするのだ」。

 辻少尉は兵舎内の清掃、衛生など十項目について、同じように質疑応答を行った後、訓話を切り上げた。

 「教官がいま話したことは、さっきも言ったとおり、検閲のためではない。真剣にうけとめて、ただちに実行せよ」。

 辻少尉は師団長に向かい、一場の談話を願った。

 「閣下は先頃まで外国に駐在しておられたと聞き及んでおります。つきましては、外国人の公聴心についてのご教示を、この際ぜひお願いいたします」。

 外国から帰ったばかりの師団長は、辻少尉に頼まれると、いい気分になって外国での見聞を披露した。師団長が講演をするという、前例のない検閲が滞りなく終わったので、吉富連隊長はようやく安心した。

 辻政信少尉は昭和二年十月、陸軍歩兵中尉に進級した。翌年辻中尉は陸軍大学校を受験した。二十六歳だった。

 その陸大受験の砲兵科試験官に面接したとき、試験官の感情を害するような答弁をして、叱責されたあげくに、次のように言われた。

 「貴様は内甲では優秀な成績となっているが、提出した答案の内容ではだめだ」。

 辻中尉は理由をその試験官に問いただし、強硬な態度で反論した。ますますいきりたった試験官は「貴様のような者は、落第させてやる」と断言した。

 受験に失敗したと辻中尉は思い込み、旅館に戻ると受験書類をすべて焼き捨て、第七連隊で同期の田辺新之中尉の家に「シケンヤメタヤドタノム」と電報を打った。

 翌日の試験には出席しないで、辻中尉は金沢に帰るつもりでいたが、田辺中尉が急報したのであろう、石川県出身で陸軍省軍務局にいた青木少佐が、辻中尉を説得して受験を続けさせた結果、合格。昭和三年十二月、陸軍大学校(四三期)に入校した。

342.辻政信陸軍大佐(2)あの馬鹿者が東亜連盟とか何とか語って辻をオダテ、子分にしたのだ

2012年10月12日 | 辻政信陸軍大佐
 堀江芳孝氏は、戦後、荒木大将と会った時の話を次のように語っている。

 終戦後、狛江に住む荒木貞夫大将より、中村明人中将を通じ親戚の松村大佐の令息の就職を依頼して来たので、早速お世話した。

 すると、正月に御礼の意味で昼食を御馳走したいから、右の松村の令息同道御出でを乞うという招待状を受けた。

 行ってみると、羽織に袴、赤飯に鯛、大変な御馳走の山、神経痛で手のふるえる奥さんと二人で大サービスである。

 ある程度酒が廻ったところで、「予科入校直後閣下と辻さんの御講演を承って非常に感激しました。その後軍内では閣下が辻さんをオダテたのでつけ上がるようになったと噂していますがどうですか」と質問の矢を放った。

 すると、荒木大将は堀江氏に次のように語った。

 「オダテたのはワシではない。石原だ。あの二・二六の時の軍事参議官の陸軍大将に向かって“アナタどなたですか”なんて傲慢無礼な言葉を発した奴のことを知っているだろう」

 「あの馬鹿者が東亜連盟とか何とか語って辻をオダテ、子分にしたのだ。しかし石原や辻よりももっと悪どい奴がいた。宇垣だ。軍縮の宇垣だ」

 「自己の権威を誇り、総理の栄冠を狙った宇垣だ。近衛にぜひと頼まれてワシが内閣参議になったら宇垣と隣り合わせになった」

 「宇垣のせいで軍備がほそり、日本が敗北したのだが、ワシと奴が仲の悪いのを承知の上で二人を鉢合わせにする近衛という男もしたたかなものだね」

 「もっと気の利いた男だと当初思っていたが、その宇垣をだよ、外相にするなんて間の抜けた男だったね」。

 大正十三年七月、辻政信は陸軍士官学校(三六期)を首席で卒業した。大正十四年八月、辻政信少尉は歩兵第七連隊第一中隊附だった。

 「八月の砲声」(津本陽・講談社)によると、第九師団長の随時検閲のとき、第七連隊第一中隊に対し、「中隊兵員に対して中隊附将校の行う精神教育」という課題が与えられた。

 中隊長・空閑大尉は、辻少尉に師団長の面前での教育実習を命じた。通常、課題を提示された各隊は、あらかじめ教育計画と話題の内容を、中隊長を通じ連隊長に報告しておく。

 それは師団長の臨席のもとで、将校が兵隊とあらかじめ定めておいた内容を問答する、あたりさわりのない筋書きであった。

 だが、辻少尉は空閑中隊長に、「現状に即した公聴心」という標題のみを報告して、内容についてはまったく触れなかった。

 他の小隊長であれば、兵隊との問答の内容を詳しく中隊長に告げ、師団長から良好な講評を与えられるよう、手順などについて相談するものであったが、辻少尉は何も言わない。

 空閑大尉は、俊英として知られている彼のことだから、任せておいても間違いはないだろうと、詳しく問わなかった。

 当日、師団長が多くの幕僚を連れ、営庭に張られた天幕のなかの席に着いた。吉冨連隊長は緊張した顔つきであった。ひと癖ある辻少尉が、どんな精神教育をはじめるのか、気にかかっていたためである。

 辻少尉は師団長を前にして、気後れする様子もなく、話し始めた。普段と変わらない、落ち着いた口ぶりである。

 「只今より、皆に講話をする。本日は師団長閣下をはじめ、多くの方々がご臨席されているが、教官のいうところは、検閲のために見ていただくための講話ではない」

 「現在我々が営内で日常的に行っていることについて、話そうではないか。我々自身、公聴心につき反省するところはないか。やってはならないことをしていないか」

 「師団長閣下は長い間外国に駐在しておられ、外国人の公聴心がどのようなものか、詳しくご存知であられる。その点についてのお考えもお持ちであろうと思うので、あとでご意見を伺うことにする」。

341.辻政信陸軍大佐(1)まあ、なんと、大臣が一中尉に敬語を使うとは(?)

2012年10月05日 | 辻政信陸軍大佐
昭和七年四月半ば、陸軍士官学校本科大講堂で、講演会が行われた。「辻政信―その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、著者の堀江芳孝氏は当時陸軍士官学校予科に入校して二週間だった。

 堀江芳孝(ほりえ・よしたか・陸士四八・陸大五六・少佐・第一〇九師団参謀)氏は、昭和二十年、硫黄島で指揮官・栗林忠道中将(陸士二六・陸大三五次席・一〇九師団長・小笠原兵団長・大将)の参謀として硫黄島防衛の作戦計画に従事したが、その後派遣参謀として硫黄島を離れ、父島に渡り、終戦を迎え生還した。

 堀江氏は、「闘魂・硫黄島―小笠原兵団参謀の回想」(光人社NF文庫)、「悲劇のサイパン島」(原書房)、「闘魂・ペリリュー島」(原書房)などの著書や「チャンドラ・ボースと日本」(原書房)など翻訳書が多数ある。

 陸軍士官学校本科大講堂で行われた講演会には、入校直後の堀江氏ら四八期から四四期までの生徒・職員約一六〇〇名が聴講した。

 大講堂には大きな白い垂幕が下がっていた。それは次のように記されていた。

 演題「一、皇道精神」、弁士「陸軍大臣、陸軍中将 荒木貞夫」。
演題「二、上海事件の体験」、弁士「歩兵第七連隊中隊長 陸軍歩兵中尉 辻 政信」。

 入校直後の堀江氏の目には、陸軍大臣と中隊長の間には、否中将と中尉の間には、天地の差があるものと見えた。

 最初に陸軍大臣・荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・陸大校長・第六師団長・陸軍大臣・大将・男爵・文部大臣)が講演を行った。

 荒木大臣は「おそれ多くも殿下を頂く(当時四五期に朝香宮と李偶公、四八期に三笠宮の三殿下がいた)諸君の道は、殿下の御馬前で一身を投じて皇基を守護するを本務とすることを中核として日出る国に生を得た民草の心掛けについて長広舌をぶった。話の内容は平泉澄博士の講義と大同小異だった。

 だが、講演の最後に、次の弁士の方を一瞥した荒木大臣は「諸君がここに上海の歴戦勇士、辻君を迎えてその御話を承る機会を得られたことは喜びに堪えない」と結んだのには、堀江氏は驚いた。

 まあ、なんと、大臣が一中尉に敬語を使うとは(?)というのが堀江氏のびっくりしたところだった。中将と中尉では格差があり過ぎるという感じを持っていたからだった。

 次に演壇に立ったのは、まさに辻政信中尉だった。第十九路軍との血戦、屍山をなす惨烈悲壮の肉弾戦、林連隊長の壮烈な戦死、夜襲戦における空閑少佐(大隊長)の人事不省、捕虜として拉致せられたが、捕虜交換協定で送り返された後の天晴れな自決の状況、その快刀乱麻を断つ弁舌のさわやかさ、急所をついて聴衆をアッと言わせる迫力、すべてが先の弁士の及ぶところではなかった。

 両弁士の右胸についた大学徽章(天保銭)燦然と、大講堂一帯に輝き渡った。堀江氏には強烈な刺激が与えられた。

 講演を聞いて、びっくりしたのは堀江氏だけではなかった。その後区隊でも中隊でも、食堂においても、県の下宿に行っても「凄い人がいるものだね、中尉で陸軍大臣顔負けとは」という辻中尉礼賛の話に花が咲いた。

<辻政信(つじ・まさのぶ)陸軍大佐プロフィル>
明治三十五年十月十一日、石川県江沼郡山中町(現在の加賀市山中温泉)生まれ。父亀吉(農業・炭焼き)、母もと次男。兄妹は六人。
大正四年(十四歳)三月東谷奥村村立尋常小学校卒(首席)。四月山中町立尋常小学校高等科入学。
大正六年(十六歳)九月一日名古屋陸軍地方幼年学校入学。
大正九年(十九歳)三月二十四日名古屋陸軍地方幼年学校卒業(四十八名中首席)。四月陸軍中央幼年学校本科(陸軍士官学校予科と改称)入学。
大正十一年(二十一歳)三月陸軍士官学校予科卒業(首席)。十月歩兵第七連隊(金沢)隊付。十月陸軍士官学校本科入校。
大正十三年(二十三歳)七月陸軍士官学校本科卒業(三六期・首席)。歩兵第七連隊第一中隊見習士官。十月歩兵少尉。
昭和二年(二十六歳)十月歩兵中尉。
昭和三年(二十七歳)十二月陸軍大学校入校。
昭和四年(二十八歳)九月青木千歳と結婚。
昭和六年(三十歳)十一月陸軍大学校卒業(四三期・恩賜三番)。歩兵第七連隊付。
昭和七年(三十一歳)二月動員下令・歩兵第七連隊第二中隊長。上海事変に出征。六月金沢歩兵第七連隊に凱旋復員。八月歩兵大尉。九月参謀本部付。十二月参謀本部部員。
昭和九年(三十三歳)八月陸軍士官学校本科生徒隊中隊長。
昭和十年(三十四歳)二月陸軍士官学校付。十一月事件の疑にて重謹慎仰せ付けられる。四月水戸歩兵第二連隊付。
昭和十一年(三十五歳)四月関東軍司令部付。
昭和十二年(三十六歳)八月北支那方面軍参謀。十一月関東軍参謀。
昭和十三年(三十七歳)三月歩兵少佐。
昭和十四年(三十八歳)ノモンハン事件(前線で作戦指導)。九月中支漢口第十一軍司令部参謀。
昭和十五年(三十九歳)二月支那派遣軍総司令部付(南京)。八月歩兵中佐。十一月台湾軍研究部部員。
昭和十六年(四十歳)七月参謀本部部員。兼兵站総監部参謀。九月第二十五軍参謀。十二月マレー・シンゴラ上陸(マレー攻略戦に参加)。
昭和十七年(四十一歳)二月シンガポール戦。三月参謀本部作戦班長。七月南方戦線に出張(ラバウル・ガダルカナル島に参戦、戦傷)。
昭和十八年(四十二歳)一月肺炎・黒水病にて入院。二月陸軍大学校兵学教官。八月歩兵大佐。支那派遣軍参謀。
昭和十九年(四十三歳)七月ビルマ第三十三軍参謀。
昭和二十年(四十四歳)五月戦傷。五月タイ駐屯第三十九軍参謀。七月第十八方面軍参謀。八月終戦。地下潜行(軍司令官・中村明人中将の諒解を得てタイ・仏印・中国に潜伏)。英国から戦犯容疑を受ける。
昭和二十三年(四十七歳)五月帰国。
昭和二十五年(四十九歳)三月戦犯解除となる。五月著書出版。
昭和二十七年(五十一歳)十月衆議院議員第一回当選。
昭和二十八年(五十二歳)四月衆議院議員第二回当選。
昭和三十年(五十四歳)三月衆議院議員第三回当選。
昭和三十三年(五十七歳)五月衆議院議員第四回当選。
昭和三十四年(五十八歳)六月参議院全国区議員当選。
昭和三十六年(六十歳)四月東南アジアへ羽田空港出発。ラオスにて消息不明となる。
昭和四十四年六月二十八日東京家庭裁判所が昭和四十三年七月二十日付での死亡(六十七歳)を宣告、国籍上故人となる。

 著書は「ノモンハン」(亜東書房)、「十五対一」(酣燈社)、「1960年」(東都書房)、「ズバリ直言」(同)、「世界の火薬庫をのぞく」(同)、「亜細亜の共感」(亜東書房)、「自衛中立」(同)、「ガダルカナル」(養徳社)、「この日本を」(協同出版)、「これでよいのか」(有紀書房)、「シンガポール」(東西南北社)、「潜行三千里」(亜東書房)、「ノモンハン秘史」(毎日ワンズ)、「私の選挙戦」(同)などがある。