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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

231.山下奉文陸軍大将(11)西村大佐が山下少将を危険人物視して憲兵を使いその身辺を監視させた

2010年08月27日 | 山下奉文陸軍大将
 シンガポール総攻撃」(岩畔豪雄・光人社NF文庫)によると、この、第二十五軍司令部と近衛師団司令部の感情的な対立は、開戦以来、慢性的に進行していたが、ジョホール水道渡河問題を契機として破局的な様相を呈するに至った。

 それは、軍司令官・山下中将と、近衛師団長・西村琢磨中将との間柄は、昭和十一年二月に勃発した二・二六事件以来悪化した。

 二・二六事件当時、陸軍省調査部長だった山下奉文少将が反乱軍に対して好意的であるという見方は、当時の陸軍中央部内に知れ渡っていた。

 陸軍省兵務課長の職にあり、軍規を取り締まり、憲兵を指導し、軍法会議の運営方針に参加していた西村大佐が山下少将を危険人物視して憲兵を使いその身辺を監視させたことがあった。

 西村大佐のこの措置は、西村大佐個人の感情や意思から発したものではなく、当時の陸軍中央部の空気を反映したものだった。過激な皇道派に対して、それを監視する軍中央幕僚の統制的な動きの一環だった。

 だが、これ以後、山下少将と西村大佐の感情のもつれは解けなかった。

 太平洋戦争開始と共に、近衛師団司令部は、まずタイ国に進入し、約四週間、バンコックに滞在した。昭和十六年十二月中旬頃、ビルマ作戦を担当する第十五軍司令部が、同市に前進してきた。

 第十五軍司令官・飯田祥二郎中将と西村中将は親交があった。西村中将は飯田中将をしばしば訪れて、山下将軍の隷下に入ることをこころよく思わず、近衛師団を第十五軍隷下に転属するよう飯田中将に具申したという噂が、近衛師団参謀長・今井大佐の口から漏れた。

 近衛師団長・西村中将と、師団参謀長・今井大佐も犬猿の仲であった。師団長と参謀長が話しているところを見た者はほとんどいなかった。参謀長が師団長に計画案を説明することも無かった。

 師団司令部がバンコックの工業学校の校舎に置かれたとき、長い建物の両端に師団長室と参謀長室が設けられた。通常は師団長室の近くに参謀長室は設置されるものだった。

 昭和十七年二月十五日、山下中将が指揮した二十五軍は、マレー作戦で、遂にシンガポールを陥落させた。

 シンガポールが陥落し、マレー作戦が終了後、山下軍司令官は隷下部隊に感状を授けたが、三個師団のうち、その栄誉から除外されたのは、近衛師団だけだった。

 その後間もなく、近衛師団の西村師団長は昭和十七年四月二十日に陸軍兵器本廠附になり、七月十五日予備役を仰せ付けられた。

 戦後、山下大将も、西村琢磨中将も、ともに戦犯容疑で軍事裁判にかけられ、山下大将は昭和二十一年二月二十三日、西村中将は昭和二十六年六月十一日、処刑された。

 「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード・鈴木正徳訳・原書房)によると、山下大将がマニラの軍事法廷にかけられ昭和二十一年二月二十三日、絞首刑により処刑されたことで、オーストラリア軍高官らは、明らかに、西村琢磨中将を、マレー方面での戦争裁判で山下大将に代わる標的と見るようになった。

 西村中将は、彼らから見ると、天皇ヒロヒトのエリート軍隊である近衛師団の師団長だ。西村中将の指揮の下、近衛師団はジョホール西部のオーストラリア部隊を打ち破り、続いてシンガポールの北部防衛線を守っていたオーストラリア第二十七旅団を敗走させた。

 西村中将が裁判のためにパプアニューギニアのアドミラリティ諸島にあるロスネグロス島に到着すると、オーストラリアの新聞は西村中将を山下大将の「首席補佐官」「一番の腹心」と書くようになった。

 だが、事実は新聞と異なり、二人は長年のライバルだったし、二・二六事件以来、対立していた。当時、山下大将は皇道派であり、西村中将は東條英機の系列で統制派に属していた。

 従って、マレー作戦中も二人は対立していたのであり、新聞が報道した、「首席補佐官」「一番の腹心」などとはかけ離れた関係だった。

 だが、両者を意図的に結びつけることはマレー作戦の敵として、西村中将を責める上には役立った。オーストラリアの新聞は、やがて西村中将を「第二のマレーの虎」と書くようになった。

 裁判所が西村中将に絞首刑の判決を言い渡した次の日、メルボルン・ヘラルドが掲載した社説はよくオーストラリアの国民感情を言い表していた。「死刑判決は正しい」という見出しで、次のように書かれていた。

 「マレーで百四十五人の戦争捕虜を殺害した罪で、日本の西村中将に死刑判決が言い渡された。これは文明社会が十分正当化できるとみるに違いない」。

230.山下奉文陸軍大将(10)西村中将がジョホール宮の第二十五軍司令部に怒鳴り込んできた

2010年08月20日 | 山下奉文陸軍大将
 その後、山下兵団は、まさに敵を蹴散らしながら、マレー半島を南下した。強風下のコタバル上陸から、シンガポールに日章旗が翻るまで、二ヶ月余の怒涛の進撃だった。

 マレー作戦で、山下大将の自動車付近にも砲弾が飛来して、副官は生きた心地もせず同乗していると、山下大将は「こんな時は眠るんだ。眠っていれば怖くないよ」と言った。

 砲弾の飛ぶ中で眠れる人は、よほど人間離れのした怪物だ。部隊長や参謀長でも恐怖で顔面を引きつらせていた。軍司令官ともなれば部下の前で怖がって見せない修業は積んできたのだろう。

 昭和十七年二月九日、シンガポールを目前にして、ジョホール渡河作戦が行われようとしていた。この日の夜は、本来なら近衛師団が先陣を切って渡河することになっていた。

 「シンガポール総攻撃」(岩畔豪雄・光人社NF文庫)によると、この日、近衛師団長・西村琢磨中将(陸士二二・陸大三二)が参謀長・今井亀次郎大佐(陸士三〇・陸大四二)をつれて、第二十五軍司令部を訪れ、師団の先頭上陸部隊が全滅した旨を述べ、上陸点を変更すべきであるという意見を提出した。だが、後に二月十一日になって、先頭上陸部隊は健在で、悲観した状況ではないことが判明した。

 「死は易きことなり」(太田尚樹・講談社)によると、三日前の二月六日、第二十五軍司令官・山下奉文中将(陸士一八・陸大二八首席)が各師団長を集め、攻撃命令を下達したとき、西村師団長の表情がいかにも自身なさそうであったので、山下中将は気になっていた。

 山下中将は、二月九日に西村中将の報告を受けて、近衛師団を急遽、後続部隊に回すことにした。その日の日記に山下中将は次のように記している。

 「各師団長皆最善ヲ尽クサンコトヲ期スルモ、独リ近衛師団長ハヤヤ確信ヲ欠キ、当惑気ニ見ユ。嗚呼」

 山下中将は二月十日朝、ジョホール水道をわたって戦闘司令所をテンガー飛行場北方の英軍高射砲陣地跡に進めた。

 渡河中、しばしば流弾が舟艇をかすめた。副官の鈴木貞夫大尉は、舟艇に軍司令官用乗用車も積んであったので、その中に入るように山下中将にすすめた。

 途端に、鈴木大尉は山下中将から「バカ!」と叱られた。考えてみたら、もし自動車に入ったままで舟艇が沈んだら、肥っている山下中将は出られないのだ。

 二月十一日の近衛師団の行動も不活発にみえ、山下中将は日記に次のように記した。

 「GD(近衛師団)ハ不相変グズグズ。業ヲ煮ヤシ馬奈木少将ヲ派遣シテ督促スルニ、一時ハ善キモ又元ノ木阿弥。蓋シ怯懦ニシテイクサヲ避ケテウロウロ動キ回ルニ過ギズ」

 山下中将は、当初、栄光の近衛師団をシンガポールに一番乗りさせようと考えてそのように配置していた。だが、師団長が意気消沈していたのでは仕方がなかった。それで第五師団と第十八師団の精鋭部隊を先鋒として、渡河作戦を行った。

 ところが、ジョホール渡河作戦が成功した後に、部下の突き上げにあったのか、自分の意思だったか定かではないが、近衛師団長・西村中将がジョホール宮の第二十五軍司令部に怒鳴り込んできた。

 栄光の部隊が邪魔者扱いされて第一線をはずされ、「第二次、第三次の渡河組に回されたから、英軍の火攻めの重油戦術にひっかかったんだ。これだけ多くの死傷者を出した責任を取ってもらいたい」と言って来たのである。

 このとき、軍司令官・山下中将は、すでにシンガポールに渡った後で、ゴム林の中に天幕を敷き、幕僚達と乾パンと水の朝食を食べている時だった。いつもは温和な第二十五軍参謀・解良七郎中佐が、興奮の面持ちでこの一件を知らせに来た。

 この報告を聞いた山下中将は、西村師団長の言動に「失敬千万な」と怒りをあらわにしたが、近衛師団の一連隊全滅の報にはさすがに顔色が変わったと、辻政信中佐は書いている。

 作家の井伏鱒二は、人伝に聞いた話として、「宮兵団(近衛師団)の西村中将は剛将であった。二・二六事件の判士長として、峻烈な粛軍の火蓋を切った人で、青年将校のシンパで皇道派の山下とはいつも対立していた。マレー作戦でも対立して、近衛師団は継子扱いされた。二十五軍では、近衛師団は勝手に作戦すべしなどと毛嫌いされた」と書いている。

 事の真意は別として、青年将校を処刑された山下の恨みと、二・二六事件に激怒した統制派の剛将・西村という対立の図式はうがった見方としても、あり得る。

 「東條英機首相を首領と仰ぐ西村中将は、マレー上陸以来、しばしば東條首相に書簡を書き送っている。本来天皇を守る近衛師団をないがしろにするとなれば、東條首相には不忠と映ってしまう」と元参謀の一人は述べている。

229.山下奉文陸軍大将(9)研究不充分ニテ迷惑至極ナリ。サルタン来ル。皆馬鹿ナリ

2010年08月13日 | 山下奉文陸軍大将
 もともと、正月攻略が山下中将の持論だった。一ヶ月繰り上げは当然のことで、本来なら、いま一声欲しいところだった。だが、固執はしなかった。幕僚中心主義、つまり、計画立案は幕僚に委ねるのが、日本陸軍の建前だったからだ。

 不満のタネは別にあった。世界が注視する大戦争である。大本営報道部が叫ぶように「百年戦争」などできるものではない。すばやく正々堂々と打撃を与え、敵からも、被支配地住民からも「大義の戦士」とあがめられてこそ、有終の成果を期待できるのだ。

 ところが、指揮下の幕僚、将兵を見ると、山下中将の眼には、少なからず、この戦争に対する懸命さと賢明さが欠けているように見受けられた。

 一ヶ月繰り上げ計画にしても、辻中佐の提案の裏には、緻密な計算のほかに、なにか記念日目当て、いわば大向こうの拍手を期待するスタンドプレー的臭気がただよっていると、山下中将は感得した。

 辻中佐ばかりではない。山下中将の昭和十六年十二月二十六日の日記には次のように書かれている。

 「両D共前進ス。飛行副長来ル。研究不充分ニテ迷惑至極ナリ。サルタン来ル。皆馬鹿ナリ」(Dは師団の略語。この日から近衛師団歩兵第四連隊が第一線に加わった)。

 「皆馬鹿ナリ」は極端な表現だが、よく知れば知るほど、万事に細心な山下中将にとっては、部下の挙動は不満だらけだった。

 副官の鈴木貞夫大尉も受けるのも、注意とお叱りの連続だった。山下中将の清潔好きはますます強化され、どんなに暑くても、北支初陣に携行した折りたたみカヤでベッドを覆い、食物の洗浄は厳に守らせた。

 第十八師団長・牟田口廉也中将(陸士二二・陸大二九)が、戦列参加を前に挨拶に飛来したとき、鈴木副官が気を利かせてご馳走を出すと、「先陣だ、分相応にせい」といわれ、荷物を運ばせる苦力に目を止めると、「おい、チップを用意したか、誰だってタダで働かせるのは、いかん」など、言われてみればもっともなことばかりだった。

 第五師団に随行して作戦指導にあたっていた第二十五軍の作戦主任参謀、辻政信中佐は、現有の第四十一、第四十二連隊だけでは兵力不足と判断して、クアラルンプール攻略促進のために西海岸沖を海上機動して敵の側背をつく予定の第十一連隊を増派するよう、タイピンの軍司令部に進言した。

 辻中佐は電話では言葉不充分として、夜半、車を飛ばして司令部を訪ね、増派の要請を行った。だが、意見が通らぬとみると、辻中佐は「辞めさせてもらいたい」と発言する一幕があった。

 そのとき、山下中将は別室に休んでおり、鈴木参謀長を通じ委細を承知したが、辻中佐の態度がよほど山下中将のカンにさわったとみえ、次のように日誌に鋭い批判を書いている。

 「一月三日・晴・土。『カンパル』ノF(敵)ハ逐次退却セルモ窮迫大ナラズ、蓋シ大隊長等ノ元気不足ナレバナリ・・・・辻中佐第一線ヨリ帰リ私見ヲ述ベ、色々言アリシト云ウ。此男、矢張リ我意強ク、小才ニ長ジ、所謂コスキ男ニシテ、国家ノ大ヲナスニ足ラザル小人ナリ。使用上注意スベキ男也」

 この後に続いて、山下中将は「小才物多ク、ガッチリシタル人物ニ乏シキニ至リタルハ亦教育ノ罪ナリ」と付け加えている。

 カンパルは、辻中佐を批判した翌日、一月四日に陥落し、第二十五軍司令部は一月五日、イポーに移った。軍司令部は華僑の富豪の邸宅に入った。

 この日、山下中将は早速、軍属、通訳を舌鋒にのせた。日誌には次のように記している。

 「午前十時、徴用人員ヲ集メ一場ノ訓示ヲ与フ。彼等自我心ニ駆ラレ、只利害関係ノミニ眩惑シ、此度徴用セラレ死生ノ地ニ立タシメラレタルコトニ関シ、甚シキ不平アリ。千載一隅ノ時機、自己ノ腕ヲ国家ノ為ニ揮フト云フガ如キ、意気アルモノ一名モナシ・・・・・・」

 「夜、通訳ト談ジ聖戦ノ本旨ヲ述ブ。彼等何事モ知ラズ、只食フ為ニ英語ヲ話ス一種ノ器械也、嗚呼」

 第二十五軍は、クアラルンプール以南のマレー半島南部を一気に制圧することになり、山下中将は、第五師団を本道に、近衛師団を西海岸に配し、東岸を南下する第十八師団と呼応して追撃を早める措置をとったが、山下中将はその部隊にも不満を述べている。

 「一月六日・晴・火。・・・・・・部隊ノ鍛錬、大隊長以下ノ能動能力ノ低下ニ驚クノ外ナシ。戦後ハ何ヨリモ将校以下幹部ノ積極性涵養ヲ最必要トス」

 「一月八日。晴・木。午前十時発、カンパル戦場ヲ見ル。・・・・・・好適ノ攻撃地区ヲ為スニ拘ラズ、徒ラニ道路ノミ依ラントシ攻撃、三十、三十一、一、二、三、四ト六日ニ及ビ、而モ戦死者百、負傷二百ヲ出セシハ愚ノ極ナリ・・・・・・」

 「下士出身ハ自ラノ都合ヲ考ヘ、当番衛兵等ニ対スル同情無キハ通有ノ欠陥ナリ。家庭教育ノ罪ニアルベシ」

228.山下奉文陸軍大将(8)英軍といっても三分の二は土民兵だ。一気にけちらせないでどうするか

2010年08月06日 | 山下奉文陸軍大将
 十一月十八日、協定は無事完了した。その日は山下中将五十七歳の誕生日だった。「宮田少佐」の呼称でサイゴンを訪れていた竹田宮恒徳少佐(陸士四二・陸大五〇)の臨席の下に、陸海軍関係者の夕食会が催された。

 「宮田少佐」は、ニコニコと談笑に加わっていたが、誰にともなく、「それで、シンガポールはいつ落ちますか」とたずねた。

 「ほぼ、三月十日、陸軍記念日を期しております」と答えたのは、第二十五軍作戦参謀・辻政信中佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜)だった。

 だが、山下中将は、「いや、」と口をはさんで、「殿下、小官は正月には必ずとるつもりでおります」と言った。

 「正月? それは早すぎませんか」と、「宮田少佐」は反問した。辻中佐も驚いて、少し向きになった口調で、「正月には、ぺラク河の線が妥当でしょう」と言った。

 山下中将は、それ以上は発言しなかった。だが、山下中将は前日、サイゴン郊外のゴム林とジャングルを視察した。その結果、次の様な想定をしていた。

 ゴム林もジャングルも歩兵の突進にはさして障害にならない。それにシンガポール攻略は南方作戦の要である。南方作戦の第一段階の最終目標はジャワの油田地帯だが、ジャワにはシンガポール、フィリピンを制圧してから向うことになっている。

 シンガポールは、海正面からの攻撃は敵の要塞があるので避け、防備不利なマレー半島を南下して背後から攻める。その縦断距離は約千百キロ、長行軍とはいえ、一刻も早く攻略せねば、ジャワの防備は強化されるばかりだ。

 以上のことが頭にあったので、山下中将としては、正月と言ったのは確かに早すぎるとは承知しながら、あえてそのくらいの覚悟と熱意で突進すべしと強調した。

 昭和十六年十二月八日午前一時半頃、歩兵第二十三旅団長・佗美浩陸軍少将が指揮する第五十六連隊基幹の佗美支隊が、マレー半島北部のコタバル海岸に上陸した。

 太平洋戦争の始まりは、海軍の真珠湾攻撃よりも、この陸軍のコタバル海岸上陸のほうが早かった。コタバル海岸上陸は、シンガポール攻略を目的として、日本の第二十五軍が行った、マレー作戦の開始でもあった。

 同時刻に、北方のタイ王国領シンゴラ、バタニ地区に第五師団主力三個連隊を率いて上陸したのは、第二十五軍司令官・山下奉文中将だった。

 マレー作戦に参加したのは、第二十五軍隷下の第五師団、近衛師団、第十八師団だった。それに第三戦車軍団なども参加した。

 上陸当時の兵力は、各師団の全部隊が参加したのではないので、約二万六千人に過ぎなかった。だが、敵のイギリス軍は八万人を超えていた。

 もし敵が日本軍の進撃する道路の両側に布陣して、橋を破壊して日本軍の進撃をくいとめれば、前進が手間取るだけでなく、第二十五軍は逐次に兵力の消耗をかさねてマレー半島の密林内に自滅する可能性もあった。

 山下中将は、こういった危険をさけ、迅速に使命を達成する戦法はただひとつ、息つかぬ突進による的中突破以外にないと判断した。山下中将は参謀長・鈴木宗作中将(陸士二四・陸大三一)に次のように言った。

 「ドイツの電撃戦、あれは敵陣にクサビをうちこみ、両翼に迂回して包囲する戦術だが、こちらはまっすぐジョホールまでキリモミでいく。残敵は後続部隊が始末すればよい。電撃戦ではなく電錐戦だ」

 山下中将は、さらに一息ついて付け加えた。

 「敵兵力は・・・・八万か。うむ。敵は八万いようとも、わが兵には東亜開放の聖戦目的がある。実戦の経験もある。英軍といっても三分の二は土民兵だ。一気にけちらせないでどうするか」

 十二月十二日、イギリス軍が誇る、タイとマレーの国境に構築していた頑強な防御陣地「ジットラライン」を日本軍は攻撃開始した。そして、その日のうちに陥落させた。

 昭和十六年十二月十七日、第二十五軍司令部は次のような作戦計画日程を決定した。

 十二月二十八日ベラク河進出、ペナン島占領。昭和十七年一月七日ベラク渡河完了。一月十七日クアラルンプール占領。一月二十七日ジョホール州占領。二月十一日(紀元節)シンガポール占領。

 山下中将が、サイゴンで竹田宮少佐にもらした「シンガポール正月占領」には及ばないが、予定の三月十日(陸軍記念日)よりは一ヶ月の繰り上げである。

 起案者は作戦主任参謀・辻政信中佐だった。幕僚の間には実現を危ぶむ声も聞こえたが、山下中将は即決した。だが、山下中将は、内心、不満だった。