陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

101.大西瀧治郎海軍中将(1) 大西は無法者の自由な生き方に憧れていた

2008年02月29日 | 大西瀧治郎海軍中将
 「特攻長官・大西瀧治郎」(徳間文庫)によると、大正13年、大西大尉は海軍大学校甲種学生を受験した。前年不合格で二回目だった。海軍大学校は採用員数は二十名、修業年限は二ヵ年である。

 このとき一緒に受験した同期の福留繁は次のように語っている。

 「大西も私も兵学校第四十期の同クラスであるが、大尉の最終六年目に海大を受験することになった。筆答試験に合格して、9月4日、5日の両日にわたる口頭試問に召集された」

 「二日目の口頭試問を待つ控え室にいると、突然学校の副官が現れて、大西君ちょっと、といって連れ出した。それっきり帰って来ないで次番の私が呼び出された」

 「後で、受験候補者から削除され、その場から帰されたのだとわかった」

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、海軍大学校受験の二、三日前、大西大尉は部下を連れて横須賀の料亭にあがったが、座敷に呼んだ芸者のうち、ぽん太というのが始終ふくれ面をしていた。

 大西大尉はそれを見咎めて「芸者というものは座敷に出たら愛想良くするものだ。それが商売だぞ」と言った。

 ところがぽん太はいよいよ不愉快な空気をつくる。たまりかねた大西大尉が「しっかりせい」とぽん太の頬を打った。

 ぽん太は憤然として席を立ち、市内に住む兄に殴られたことを告げた。その兄は渡世人だった。新聞記者に妹が殴られたことを告げた。

 「海軍軍人・料亭で芸妓に乱暴」といった調子の記事が紙面にでかでかと載った。その新聞の出た日が大西大尉の受験日だった。それにより試験官は「受験資格なし」と判断した。

 しかし大西大尉は海大失格をさほど気にしていなかった。ケロッとしていたという。

 「特攻長官・大西瀧治郎」(徳間文庫)によると、大西瀧治郎と山本五十六がポーカーを始めると、正反対の性格が現われるという。

 山本五十六は口の中でぶつぶつ言いながら「ああそういうことをされてはかなわんな」と泣き続け、負けが込んでくると「きょうはどうも勘が冴えていないんだ」と始終泣きを入れる。負ければ負けたで、金を払うとケロッとしてしまうそうだ。

 大西瀧治郎の方はその反対で、始終むっと押し黙ったまま、壮烈な手を打ってくる。勝ちに乗ずると、手がつけられないくらい激しい勝負に出る。

 そのかわり負けだすと、下唇を突き出し、うなり声を上げて攻勢に転ずるキッカケをつくろうとする。ついに負けて金を払う段になると「こんど、また、やりましょう」と凄い目でにらむという。

 また大西が「おれは海軍をやめたら博徒になる」と言ったのは、東京市内の麻雀大会に優勝して大阪の全国大会に出場する資格を得たときだった。

 しかし、現役の中佐(当時)がそういうことも出来ないので、偽名のまま出場していたのを幸い、優勝を棄権してしまった。大西は無法者の自由な生き方に憧れていたと言われている。


<大西瀧治郎海軍中将プロフィル>

明治24年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(現在は丹波市)に父亀吉、母うたの第三子として生まれる。

明治45年7月海軍兵学校(40期)卒。144人中20番。

大正2年12月海軍少尉。

大正3年8月対ドイツ開戦により戦役に従軍。12月海軍砲術学校。

大正4年5月海軍水雷学校。11月海軍中尉。12月水上機母艦「若宮」乗組み。

大正5年4月横須賀航空隊勤務。飛行演習で「若宮」乗組み。

大正7年11月英仏出張。12月海軍大尉。

大正8年5月英空軍飛行隊入隊。

大正10年8月横須賀海軍航空隊付。9月海軍航空隊教官。

大正11年11月霞ヶ浦航空隊教官兼務。

大正13年12月海軍少佐。

大正15年2月佐世保海軍航空隊飛行隊長。

昭和2年12月連合艦隊参謀。

昭和3年11月「鳳翔」飛行長。

昭和4年11月、航空本部教育部員、海軍中佐。

昭和5年8月海軍技術会議員。

昭和6年12月海軍省教育局。

昭和7年2月第三艦隊参謀。11月「加賀」副長。

昭和8年10月佐世保海軍航空隊司令、11月海軍大佐。

昭和9年11月横須賀海軍航空隊副長兼教頭。

昭和11年4月海軍航空本部教育部長。

昭和14年10月第二連合航空隊司令官。11月海軍少将。

昭和15年11月第一連合航空隊司令官。

昭和16年1月第十一航空艦隊参謀長。

昭和17年3月海軍航空本部総務部長。

昭和18年5月海軍中将。11月軍需省航空兵器総局総務局長。

昭和19年10月第一航空艦隊司令長官。

昭和20年5月軍令部次長。8月16日死去(自刃)。

100.片倉衷陸軍少将(10) この日本をくれぐれも頼む。しかし軽挙妄動をしてはいかん

2008年02月22日 | 片倉衷陸軍少将
 昭和16年7月、片倉大佐は関東防衛軍高級参謀に補任された。軍司令官は山下奉文中将(陸士18期)だった。

 赴任の挨拶に武藤章軍務局長、富永恭次人事局長を訪ねたときに、「現下満州は、関特演にて非常事態であり、特に山下将軍の補佐をたのむ。またこの機会に山下将軍と相識ることは、将来において必ずや役に立つことあるべし」と言われた。

 片倉大佐は山下将軍に使えて話す機会も多くなった。それまで片倉大佐は2.26事件の関係から、山下中将を敵だと考えていたが、この人は相当な人物で仕え甲斐があると感じた。

 あるとき、チャムスの料亭で会同があり、山下中将が師団長、参謀連中と飲んだ帰り、芸者が車で送ってきた。

 片倉大佐は芸者に「ここまでは良いが、足を旅館の中に踏み入れてはならん」と申し渡した。

 山下中将にも「閣下、ある限界があります」と率直に申し上げた。このように、片倉大佐は山下中将とは肝胆相照らす仲となった。

 山下中将は片倉大佐に「侍従武官長は陸軍出身が多いが、侍従長は海軍出身である。これを陸軍関係者に変えねばならない」と言った。これを片倉大佐は中央へ書き送ったこともあった。

 昭和16年11月山下中将は第十四方面軍司令官としてフィリピンに赴任した。片倉大佐は病気療養中であった。

 山下中将は片倉大佐が病気でなければ、武藤章参謀長の下で片倉大佐を参謀副長として使うことを考えていたという。片倉大佐は万感胸に迫るものがあった。

 戦後、東京裁判が終わり、東條元首相に死刑の判決が決まった。その時片倉少将は特別傍聴席で、これを見て、胸が締め付けられるような気持ちになり、一人涙をぬぐった。

 片倉少将は、東條元首相にお別れの面会に行った。金網越しに東條元首相は片倉少将に「国体を維持し、この日本をくれぐれも頼む。しかし軽挙妄動をしてはいかん」と言った。

 片倉少将は東條元首相は、根本において生活も質素、淡白であり、職務については極めて凡帳面で、「小梅」と表紙に印してある手帳を常用して、正確真摯であったと述べている。

 暴れん坊の片倉も、板垣征四郎大将には心酔していた。板垣は度量が広く、脱線しても片倉には小言一つ言わず大いに働かせてくれた。

 板垣は戦後東京裁判でA級戦犯に指定され、死刑の判決が出た。判決が出ても板垣は穀然としていつもと変わらぬ態度だったという。

 最終の面会に片倉が行ったとき、片倉に「国体の護持と日本の再興のため努力してくれ」と述べ、最後に、片倉の性格を知っていてか、「片倉、やりすぎるなよ。今後はすべて自重してやれ」と注意を与えたという。

(「片倉衷陸軍少将」は今回で終わりです。次回からは「大西瀧治郎海軍中将」が始まります)

99.片倉衷陸軍少将(9) オイ!生意気なことをいうな!貴様こそ赤を白にすぐ変えてしまうではないか

2008年02月14日 | 片倉衷陸軍少将
 昭和12年11月に第三課高級参謀竹下義晴、経済担当参謀国分新七郎らが相次いで関東軍から転出した。

 この竹下大佐の後任に塩沢宣一、岩畔豪男の名前が上がっていたが、なかなかまとまらなかった。

 ある日、片倉少佐は東條、石原の両名に招致せられた。「お前、竹下大佐の後をやらんか」と聞かれた。

 片倉少佐は「お引き受けすることは私としては光栄で、少しも支障ありません。しかし私は現在、少佐です(課長は大佐クラスの人が任じられていた)。また、部内には、私の同期生で、私より序列が上位のものが三名おります。軍の統制上支障がねければよろしいですが」と辞退した。

 ところが東條中将も石原少将も「そんあことは気にするな、しっかり頼む」と言った。片倉少佐は、これを引き受けた。

 東條夫人が内地の国防婦人会を真似て作った国防婦女会の顧問に就任するという懸案が上がってきた。

 石原副長は「東條が自分の女房を使って、余計なことをして資金まで援助している」などと批判するようになり、益々東條参謀長と石原副長の仲は険悪化していった。

 片倉少佐は「石原少将は知能は非常に秀でていて、作戦的にあるいは戦争哲学に関しては素晴らしいものがあったが、軍政に対する施策において、その素質に欠ける面があった」と述べている。

 石原副長は最初は作戦以外にはタッチしないと言明していたが、かって石原自らが主張していた治外法権撤廃の政策に難癖をつけた。

 また満州五ヵ年計画の実施に当たっては、参謀本部時代自ら提唱し、軍務局をして提唱せしめた問題に対し、その実施にあたっての若干の意見の相違に対して強く論難するなど、傍若無人の荒れ方になった。

 そこで片倉少佐はある日、石原副長の部屋を訪ねた。そして次のように進言した。

 「副長、貴方の言うことは、赤を白に、黄を青にと鮮明に着色している。このような高等数学では実行する者がついてゆけなくなります。やはり赤から桃色、桃色から薄桃色、、そして白というように、逐次変えてゆく方法でなければ、今日の満州問題でも、うまく目的を果たすことができなくなります」

 すると石原副長は「オイ!生意気なことをいうな!貴様こそ赤を白にすぐ変えてしまうではないか」と全然取り合わなかった。この辺りに石原の欠陥があったように片倉少佐は思った。

 だが片倉はその後も石原とは心を通じるものがあり、終戦後、東京裁判のための石原の検事調査が山形県の酒田で行なわれたが、この時の石原の陳述書の原案は片倉が作成し、山田半蔵弁護士に持たせ石原に届けた。石原はそれを修正し発表した。

 片倉は「石原莞爾は功罪は別として、私が尊敬してやまぬ昭和期の名将であった」と述べている。

98.片倉衷陸軍少将(8) 片倉少佐は、どうもけしからん。片倉少佐の行動を皆はどう思うか

2008年02月08日 | 片倉衷陸軍少将


 片倉少佐らが、関東軍参謀長の板垣征四郎中将を押したのは、陸軍旧来の序列思想(陸大卒業序列重視)を無視することになった。

 梅津次官より序列が下位の板垣陸相、または次官説があるのを、梅津次官は不満としていた。

 だが、結局昭和12年2月2日中村中将が陸相に補任された。

 ある日、陸相官邸で省部の関係課長以上が集まった席上、梅津次官は「片倉少佐のやった一連の行動は、どうもけしからん。片倉少佐の行動を皆はどう思うか」と発言した。

 まず磯谷軍務局長が「いや、これは私の承認のもとでやりました」と答えた。

 兵務局長の阿南惟幾も「私も承知しております」と答えた。田中新一兵務課長、町尻量基軍事課長、石本寅三軍務課長も同様な返事をした。

 そこで、片倉少佐は「閣下、気に入らなければ、私を軍法会議にかけてください。喜んで受けます」と言った。

 すると梅津次官は「君の行動に私は同意しない。しかし、皆が承知済みであるということなので、先の私の言った発言は取り消す」と御破算になった。

 昭和12年3月片倉少佐は関東軍参謀・第三課政策主任に補された。同じ月に東条英機中将が関東軍憲兵司令官から関東軍参謀長に補任された。

 東條中将は片倉少佐のことを着任前から知っていた。政治家の浅原健三は東條中将に「今度片倉という男が参謀として関東軍に行くらしいが、うっかりすると、貴方、片倉に馬から引きずり落とされるよ」と言った。

 これに対して東條中将は「何を言うか、そんな奴は馬で蹴飛ばす」と答えたという。

 また、昭和12年9月に石原莞爾少将が関東軍参謀副長に補任された。9月23日に石原新副長を迎えて第一回部長会報が開かれた。

 その席上、東條参謀長は「石原副長には作戦、兵站関係業務の参謀長の補佐役を専心やっていただく。満州国関係の業務は参謀長の専管事項として私自らが処理する」と発言した。

 これに対して石原副長は「参謀長の指示通り、満州国軍関係は作戦に関係があるのでタッチするが、その他の治安、交通、政治に関することはタッチしない」と発言した。

 東條参謀長は「それでよろしい。そうやってくれ」と、その場は収まった。

 しかし、当時の満州国の日満要人の多くは、石原が建国当時の作戦主任をしていた頃に接触が多く、現在の関東軍中心の指導に不満を持っていた。

 いろいろな不満を直接石原副長の官邸に持っていく。だが表向きの発言ができない石原副長は、片倉参謀を呼んで「このような問題がある」と伝える。片倉少佐は東條参謀長と石原副長の間に入って、調整役となった。

 だがこのような状況で逐次東條参謀長と石原副長の感情の疎隔が高じていった。

97.片倉衷陸軍少将(7) エイッこの野郎、ウルサイ奴だ、まだクヅクヅと文句を言うのか!

2008年02月01日 | 片倉衷陸軍少将
 戦後軍が国を誤ったといわれ、その要因は皇道派と統制派の派閥争いに始まり、統制派の総帥が永田であり、その後を受けた東條、武藤らの幕僚ファッショの勢力が増大して大東亜戦争にエスカレートして遂に敗戦に導いたという説がある。

 片倉氏はこの説に猛反対した。永田少将は派閥的な考え方は全くなかったし、片倉氏ら中央省部の幕僚も統制派の一員であると考えたことはなかった。

 「統制派という言葉は憲兵隊の造語である。中央省部の幕僚の中では、戦後池田純久氏だけが自称しているようだが、他の幕僚たちは統制派と自覚し、また意識したこともかってなかった」。

 「特に皇道派に対する統制派と意識したことはなかった。統制派という派閥はなかった。だから東條首相の失敗が永田軍務局長に起因するが如きは全くの逆説である」。このように片倉氏は述べている。

 昭和11年2月26日、皇道派青年将校による2.26事件が起こった。

 事件当日、真崎大将が川島陸相と会談して、伏見宮海軍軍令部総長宮に会うために陸相官邸を出て、陸軍省の玄関にさしかかった時、1つの事件が起こった。片倉衷少佐がこめかみを拳銃で撃たれたのだ。

 撃ったのは皇道派青年将校の首謀者、磯部浅一である。片倉が関与した十一月事件で免官になった磯部は片倉少佐に遺恨を持ち注目していた。

 磯部の「行動記」によると、磯部らのグループは陸軍省を占拠していた。玄関には幕僚将校が多数詰めかけていた。その中に片倉少佐がいた。

 片倉少佐は石原莞爾作戦課長に「課長殿、話があります」と石原大佐を詰問するような態度を示した。

 それを見ていた磯部は「エイッこの野郎、ウルサイ奴だ、まだクヅクヅと文句を言うのか!」と思い、いきなりピストルを握って片倉少佐のこめかみ部に銃口を当てて発砲した。

 撃たれた片倉少佐はよろめいて四、五歩引き下がった。磯部は止めを刺そうと軍刀を抜き、倒れるのを待った。血が顔面にたれて、片倉少佐の顔は悪魔の形相になっていた。

 片倉少佐は「撃たんでも分かる」と言いながら傍らの大尉に支えられていた。そこに居合わせた真崎大将と古荘陸軍次官が「皇軍同士撃ち合ってはいかん」と諌めた。

 磯部は切るのを止めた。片倉少佐は「ヤルナラ天皇陛下の命令でやれ」と怒号して、支えられて去った。

 この事件で今まで玄関に詰めかけて鼻息の荒かった幕僚たちはすっかりおじけづいた。磯部はあとで片倉少佐を殺さなかったことを後悔している。

 片倉少佐は撃たれて入院中だったが、病室から、第二師団長の梅津美治郎中将を陸軍次官に、磯谷廉介少将を軍務局長にと、意見具申した。梅津中将は閥に属さず公平な見方をする人であったからである。

 昭和11年3月23日、2.26事件後、梅津美治郎中将が陸軍次官に補任された。

 ところが、後に林内閣の陸相人選では、梅津次官が押す中村孝太郎中将に対して参謀本部作戦部長心得の石原大佐と片倉少佐らは、関東軍参謀長の板垣征四郎中将を押した。それで感情の行き違いが生じた。