「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和17年8月17日、有末少将は参謀本部第二部長に補職された。有末少将は東條大将に第二部長就任の挨拶に行った。陸軍大臣室に入ったとき、東條大将は「専ら作戦情報に専念し国内政治関係にはタッチするなよ」と釘を刺された。
9月有末少将は、青山四丁目の鈴木企画院総裁の私邸を訪問した。その時、鈴木総裁は「君、情報報告の際、海軍側から率直にミッドウェー海戦の実相を吐かせろよ」と詰め寄られた。
昭和17年6月5日~7日 ミッドウェイ海戦で海軍の南雲長官の機動部隊は空母四隻を失い大敗していたが、第二部長・有末少将ら陸軍中枢部にいる将官でもその事実を知らなかったのである。
鈴木総裁は「首相も海軍側も参謀本部側も口を鎖して何ら言及しないのだが、木戸幸一内大臣の内話によれば、なんだか相当な打撃を受けている由、この際海軍第三部長の情報説明の折に話させろよ」とのことだった。
有末少将は早速、田中第一部長に聞いたところ、これまた大本営海軍部発表以外は知らないと口を鎖し、当の海軍小川第三部長は本人自身も同様、平出報道部長に至っては全く報道以外は知らないと堅く明答した。
有末中将が終戦後聞いたところでは、当時の軍令部首脳の受けた衝撃は実に驚くべき情況で、首相と参謀総長、次長、第一部長、作戦課長以外は厳秘に付していたとのことであった。そして実によく秘密が保たれていたとのことであった。
昭和20年年7月26日、日本に対して13条から成る降伏勧告「ポツダム宣言」が連合国軍から発せられた。8月6日午前8時15分、広島に原爆は投下された。
8月9日午後11時55分、皇居内の防空壕で第1回御前会議が開かれ、「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざること」の了解の下に、ポツダム宣言受諾が決まった。
「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、8月12日、サンフランシスコ・ラジオ放送の訳文によると、それは鼻息の荒い言い草であり、市ヶ谷台をあげて皆のもの一同の憤激は相当のものであった。
翌13日の朝、敵側の正式通告が日本政府宛に来た。参謀本部第二部長の有末中将は外務省の正式訳文も受け取った。
午後三笠宮が来られたので別室で有末中将は御目通りをした。かねて宮が第二部ご在勤当時、和平問題秘密討議の折、受けた印象はどちらかといえば堅いご意見のように思えた。
それで有末中将は三笠宮に「降伏条件の過酷なことについて、何とかならぬものでしょうか」と心配を訴えた。
ところが三笠宮は、従来のご態度とは全然正反対で「有末中将!」と言った。従来はよく有末中将に対してお使いになった「閣下」というお言葉は全然無かった。
続いて殿下は「この度の陸軍の態度は実にけしからぬ。この度のことについては、何も言いたくない」とのきついお言葉であった。
ちょうどその時、第八課の高倉盛雄中佐が入室し覚書を差し出した。それは、敵側の正式通告の正式訳文中の「サブジェクト・ツー」という英語の解釈(天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる)についての不審・不満の意見だった。
とたんに殿下は「今出された覚書、そんなことが第一けしからん。近時ことに満州事変以来の陸軍のやり方は皆この調子、大いに反省されねばなりません」とキツイお言葉であった。
しかし、そのあと、御景色を和らげられて、穏やかに「実は今朝陛下から直々におたのみの言葉があった」ことを話された。
有末中将は本当の大御心をしみじみ拝察して、恐縮に絶えなかった。
9月有末少将は、青山四丁目の鈴木企画院総裁の私邸を訪問した。その時、鈴木総裁は「君、情報報告の際、海軍側から率直にミッドウェー海戦の実相を吐かせろよ」と詰め寄られた。
昭和17年6月5日~7日 ミッドウェイ海戦で海軍の南雲長官の機動部隊は空母四隻を失い大敗していたが、第二部長・有末少将ら陸軍中枢部にいる将官でもその事実を知らなかったのである。
鈴木総裁は「首相も海軍側も参謀本部側も口を鎖して何ら言及しないのだが、木戸幸一内大臣の内話によれば、なんだか相当な打撃を受けている由、この際海軍第三部長の情報説明の折に話させろよ」とのことだった。
有末少将は早速、田中第一部長に聞いたところ、これまた大本営海軍部発表以外は知らないと口を鎖し、当の海軍小川第三部長は本人自身も同様、平出報道部長に至っては全く報道以外は知らないと堅く明答した。
有末中将が終戦後聞いたところでは、当時の軍令部首脳の受けた衝撃は実に驚くべき情況で、首相と参謀総長、次長、第一部長、作戦課長以外は厳秘に付していたとのことであった。そして実によく秘密が保たれていたとのことであった。
昭和20年年7月26日、日本に対して13条から成る降伏勧告「ポツダム宣言」が連合国軍から発せられた。8月6日午前8時15分、広島に原爆は投下された。
8月9日午後11時55分、皇居内の防空壕で第1回御前会議が開かれ、「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざること」の了解の下に、ポツダム宣言受諾が決まった。
「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、8月12日、サンフランシスコ・ラジオ放送の訳文によると、それは鼻息の荒い言い草であり、市ヶ谷台をあげて皆のもの一同の憤激は相当のものであった。
翌13日の朝、敵側の正式通告が日本政府宛に来た。参謀本部第二部長の有末中将は外務省の正式訳文も受け取った。
午後三笠宮が来られたので別室で有末中将は御目通りをした。かねて宮が第二部ご在勤当時、和平問題秘密討議の折、受けた印象はどちらかといえば堅いご意見のように思えた。
それで有末中将は三笠宮に「降伏条件の過酷なことについて、何とかならぬものでしょうか」と心配を訴えた。
ところが三笠宮は、従来のご態度とは全然正反対で「有末中将!」と言った。従来はよく有末中将に対してお使いになった「閣下」というお言葉は全然無かった。
続いて殿下は「この度の陸軍の態度は実にけしからぬ。この度のことについては、何も言いたくない」とのきついお言葉であった。
ちょうどその時、第八課の高倉盛雄中佐が入室し覚書を差し出した。それは、敵側の正式通告の正式訳文中の「サブジェクト・ツー」という英語の解釈(天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる)についての不審・不満の意見だった。
とたんに殿下は「今出された覚書、そんなことが第一けしからん。近時ことに満州事変以来の陸軍のやり方は皆この調子、大いに反省されねばなりません」とキツイお言葉であった。
しかし、そのあと、御景色を和らげられて、穏やかに「実は今朝陛下から直々におたのみの言葉があった」ことを話された。
有末中将は本当の大御心をしみじみ拝察して、恐縮に絶えなかった。