陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

79.有末精三陸軍中将(9) この度の陸軍の態度は実にけしからぬ

2007年09月28日 | 有末精三陸軍中将
 「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和17年8月17日、有末少将は参謀本部第二部長に補職された。有末少将は東條大将に第二部長就任の挨拶に行った。陸軍大臣室に入ったとき、東條大将は「専ら作戦情報に専念し国内政治関係にはタッチするなよ」と釘を刺された。

 9月有末少将は、青山四丁目の鈴木企画院総裁の私邸を訪問した。その時、鈴木総裁は「君、情報報告の際、海軍側から率直にミッドウェー海戦の実相を吐かせろよ」と詰め寄られた。

 昭和17年6月5日~7日 ミッドウェイ海戦で海軍の南雲長官の機動部隊は空母四隻を失い大敗していたが、第二部長・有末少将ら陸軍中枢部にいる将官でもその事実を知らなかったのである。

 鈴木総裁は「首相も海軍側も参謀本部側も口を鎖して何ら言及しないのだが、木戸幸一内大臣の内話によれば、なんだか相当な打撃を受けている由、この際海軍第三部長の情報説明の折に話させろよ」とのことだった。

 有末少将は早速、田中第一部長に聞いたところ、これまた大本営海軍部発表以外は知らないと口を鎖し、当の海軍小川第三部長は本人自身も同様、平出報道部長に至っては全く報道以外は知らないと堅く明答した。

 有末中将が終戦後聞いたところでは、当時の軍令部首脳の受けた衝撃は実に驚くべき情況で、首相と参謀総長、次長、第一部長、作戦課長以外は厳秘に付していたとのことであった。そして実によく秘密が保たれていたとのことであった。

 昭和20年年7月26日、日本に対して13条から成る降伏勧告「ポツダム宣言」が連合国軍から発せられた。8月6日午前8時15分、広島に原爆は投下された。

 8月9日午後11時55分、皇居内の防空壕で第1回御前会議が開かれ、「天皇の国家統治の大権を変更する要求を包含しおらざること」の了解の下に、ポツダム宣言受諾が決まった。

 「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、8月12日、サンフランシスコ・ラジオ放送の訳文によると、それは鼻息の荒い言い草であり、市ヶ谷台をあげて皆のもの一同の憤激は相当のものであった。

 翌13日の朝、敵側の正式通告が日本政府宛に来た。参謀本部第二部長の有末中将は外務省の正式訳文も受け取った。

 午後三笠宮が来られたので別室で有末中将は御目通りをした。かねて宮が第二部ご在勤当時、和平問題秘密討議の折、受けた印象はどちらかといえば堅いご意見のように思えた。

 それで有末中将は三笠宮に「降伏条件の過酷なことについて、何とかならぬものでしょうか」と心配を訴えた。

 ところが三笠宮は、従来のご態度とは全然正反対で「有末中将!」と言った。従来はよく有末中将に対してお使いになった「閣下」というお言葉は全然無かった。

 続いて殿下は「この度の陸軍の態度は実にけしからぬ。この度のことについては、何も言いたくない」とのきついお言葉であった。

 ちょうどその時、第八課の高倉盛雄中佐が入室し覚書を差し出した。それは、敵側の正式通告の正式訳文中の「サブジェクト・ツー」という英語の解釈(天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる)についての不審・不満の意見だった。

 とたんに殿下は「今出された覚書、そんなことが第一けしからん。近時ことに満州事変以来の陸軍のやり方は皆この調子、大いに反省されねばなりません」とキツイお言葉であった。

 しかし、そのあと、御景色を和らげられて、穏やかに「実は今朝陛下から直々におたのみの言葉があった」ことを話された。

 有末中将は本当の大御心をしみじみ拝察して、恐縮に絶えなかった。

78.有末精三陸軍中将(8) お前は課長なんだから、俺のところの岡課長と話せ

2007年09月21日 | 有末精三陸軍中将
 有末精三回顧録(芙蓉書房出版)によると、昭和10年7月10日、林陸軍大臣は、大臣官邸において真崎大将と懇談、国軍全般のため教育総監を辞めて軍事参議官にと諒解を求めたが真崎大将は拒否し物別れとなった。

 7月12日に、閑院参謀総長を交えて三長官会議が開かれたがこれも不備に終わった。

 その後軍事参議官たる大将がしばしば大臣官邸広間に集まって、真崎擁護と林支援の評定会談が開かれた。

 真崎擁護の立場に立ったのは、荒木大将、菱刈隆大将、本庄繁大将であった。一方林陸軍大臣支援の先頭に立ったのは同期の渡辺錠太郎大将であり、阿部信行大将、松井岩根大将が同調した。川島義之大将は始終沈黙だったといわれている。

 その後も三長官会議が開かれたが、決着を見ず、宮中のご都合を伺って、内奏のご裁可を仰ぐことになった。

 葉山御用邸に参堂すべく、有末少佐は林大臣に自動車でお伴をした。車中林大臣は「もし(真崎大将罷免を)ご裁可にならなかったらどうするか」と有末少佐に問うた。

 有末少佐は「ただちに辞表を捧呈してお詫びされるほかありますまい」と答えると、林大臣は「内懐を手で指しながら「ここに準備して持ってきている」と覚悟の程を示した。

 御用邸に着くと本庄武官長の案内で林大臣は午前へ出た。あまり長い時間ではなかったが、午前を退下した林大臣は本庄武官長としばらく密談の後、帰京の途についた。

 車中で林大臣は開口一番「陛下はただちにご裁可を賜り、それだけでよいのか(現役を辞めないでもよいのか)とのご下問があったくらいであった」と、有末少佐に話した。この時点で真崎大将の教育総監罷免が決定した。次の教育総監は渡辺錠太郎大将に決まった。

 昭和10年8月1日の定期異動で有末少佐は陸軍大臣秘書官を免じ軍事課国際渉外関係の課員に補せられた。

 その前、7月下旬、転任の内命に接した有末少佐は林大臣に挨拶したところ、林大臣はとくに靖国神社刀剣鍛錬所の刀匠「靖光」が入念に鍛えた日本刀を軍刀に仕込んでわざわざ大臣自ら箱書きの上、有末少佐に記念として贈った。

 また大臣が座右の銘にしていた「不耽溺不凝滞而更其操守」の句も軸書として有末少佐に贈った。

 この後、有末少佐は昭和11年8月に歩兵中佐に昇進し、イタリア大使館付武官としてイタリアへ赴任した。

 昭和14年3月陸軍省軍務局軍務課長に補任された有末大佐は6月24日イタリアから帰国した。

 帰国してみると三国同盟問題が全く行き詰まりの状態であった。有末大佐が板垣陸軍大臣、参謀総長載仁親王殿下に帰任の申告をしたとき、特に三国同盟問題に対し努力善処するよう強い激励を受けた。

 有末大佐は26日から早速関係者を訪問した。平沼首相は「何とかして三国同盟は結びたい。ヒットラー氏に出したメッセージに中立的態度を取らず、という字句を入れたが、外務大臣のところで削除された。事実条約局長から反対の提示もあったほどだ」と賛成しているが積極的姿勢は見られなかった。

 石渡蔵相は「無理に参戦を義務付けることはいけないが、政治的に秘密条項なしにやる意見には同意だ」と平沼首相と大同小異の意見。

 有田外相からは同意とも不同意とも意思表示は無かったが、有末大佐が一時間あまり報告を続けると「次の用務があるのでこれで失礼する」と席を立った。これで外相は不同意だと有末大佐は思った。

 海軍軍令部次長・古賀中将と作戦部長・宇垣少将は二人とも「多少字句を巧く操れば、どうしてあれができないのか」と決して不同意ではなかった。

 海軍省の主任課長の岡敬純大佐は「今字句を練っているのだから、貴公あまりあわてるなよ」と軍令部の意見と同じであった。

 ところが、井上成美軍務局長は、有末大佐に対して、三国同盟問題について聞こうとしなかった。

 有末大佐は十年前イタリア駐在の折にも、また秘書官時代には海軍の軍務第一課長として知らぬ仲でもなかった。

 有末大佐が井上軍局長のところに行って話を切り出そうとすると、井上局長は「俺は君のところの町尻軍務局長と話をする。お前は課長なんだから、俺のところの岡課長と話せ」と一向に取り合ってくれない。

 いわんや、山本五十六次官、米内海相にはとりつくしまもなく、ついに面会さえもできなかった。有末大佐は、ははあ、海軍はこういう情況かと落胆した。このときは三国同盟締結は露となって消えた。

 昭和14年12月1日の発令で有末大佐は北支那方面軍参謀に補され、北平(北京)に赴任した。だが昭和15年に有末大佐は、その地で三国同盟が締結された報告を受けた。

77.有末精三陸軍中将(7) 君も辞めろ。陸軍大学の教官になって、統帥の研究をやり給え

2007年09月15日 | 有末精三陸軍中将
 「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和9年7月3日、斉藤内閣は右翼的勢力の攻勢によって倒れ、大命が岡田啓介海軍大将に降りた。

 政変はあったが、林銑十郎陸軍大将は留任し陸軍省では何ら人事異動はなかった。林大臣から「信用するから頼む」と言われ、頗る意欲的に働いていた陸相秘書官の有末少佐は、どうも林大臣と柳川平助次官の間がシックリしないのが気になって仕方がなかった。

 7月半ば頃、有末少佐は直訴のつもりで、夕刻、五番町の次官官舎に柳川次官を訪問した。柳川次官は気持ちよく有末少佐を応接間に迎えてくれた。

 有末少佐は率直に「本気で大臣閣下を御補佐ください」と訴えたところ、
柳川次官は「荒木大臣と同じように毎夕連絡御補佐申し上げているョ」と切り口上の返事だった。

 そこで有末少佐は「確かに毎夕ご連絡に官邸にお出になっているには違いありませんが、荒木大臣の頃にはいすに腰掛け何やら長いことご懇談、去年の今頃は庭で団扇をたたいて蚊を追いながら、私ども前田秘書官と二人でお羨み申し上げていたのでしたが、林大臣に対しては大臣室で直立不動の姿勢でのご報告、私ども小松秘書官(有末少佐と同期の29期)との十分な打ち合わせが出来ないほどの短い時間、お忙しそうにお帰りではありませんか」などと述べた。

 すると柳川次官は「実は、私は林大臣を人格的に承服、尊敬できないので、荒木閣下の時のように行きかねるよ」と率直な言葉で答えた。

 有末少佐は「大臣と次官が一体のお気持ちになれないなら、いっそ八月の異動期にご転任なされては如何でしょう」と言うと、

 柳川次官は「私もそう思うのだが。しかし真崎さんがもう少しおれとも言われるしナァ」と感嘆を洩らした。

 これに対し有末少佐は「しかし、それは筋が違うじゃありませんか。お考え直しなされて、引き続き大臣を御補佐くだされ、私たちをお導きください」と再び懇願した。

 暫く話がとぎれたあと柳川次官は「ヨシ辞めよう」とキッパリ言った。そして
「君も辞めろ。陸軍大学の教官になって、統帥の研究をやり給え」と言った。

 有末少佐は「二ヶ月前大臣から、信頼するから嫌でもあろうが補佐してくれ、と言われたばかりであり、私からお願いして転出することはできません」と答えた。

 それから半月、昭和9年8月の異動で、柳川次官は第一師団長に転出した。8月の異動では秦真次憲兵司令官も第二師団長に転出した。

 この二人は皇道派であった。林陸軍大臣は皇道派の重鎮二人を、陸軍省から追い出したのである。

 この時同時に士官学校幹事・東條英機少将が歩兵第二十四旅団長(小倉)に転出したが、くびの前提としての追放であると言われたが、柳川、秦両氏の転出の代償であるとの噂も立った。

 昭和10年になると粛軍に関する意見書が公然とばら撒かれ、現陸軍省幹部、ことに永田少将等軍務局をいわゆる統制派と決め付けて怪文書が横行し始めた。

 これに反発して、三宅坂周辺では粛軍人事として8月異動における真崎教育総監更迭の噂が目立ってきた。

 昭和10年7月初め、軍事参議官の松井岩根大将が大臣官邸に来て、有末少佐と小松秘書官にご馳走しようと招きを受けた。

 新橋の料亭湖月に行き、酒がはずんだ。やがて松井大将は「わしを陸軍大臣にすれば小磯を次官に、建川を次長にして思い切り粛軍人事をやるがネエ」と至極平然と話した。

 すかさず有末少佐が「とんでもない。今、林大臣が異動案で考えておられるのは、察するに閣下の予備役編入じゃありませんか?」と言い、小松秘書官が相槌を打つという始末だった。

 すると松井大将は「そうか、辞めてもよい、しかし真崎と一緒にならだ、大臣にもそう言ってくれ、真崎が残ってわしだけが辞めるのはどうかなァ」と独り言のようにつぶやいた。

 林大臣に有末少佐がこのことを報告すると、大臣は「(真崎に)大将を辞めてもらう時には、面と向かって辞職を勧告せねばならず、それが嫌でなア」と嘆声を洩らした。

76.有末精三陸軍中将(6) 主賓の小磯参謀長もあまりはしゃがず、いわばお通夜のような気分だった

2007年09月07日 | 有末精三陸軍中将
 「政治と軍事と人事」(芙蓉書房)によると、昭和2年、小磯国昭大佐が軍務局第一課長で、小磯大佐が統裁する参謀演習旅行に有末大尉は補助官として参画した。

 二週間ばかり東北地方に出張した折、予算を超過した。三千円のところが、五百円ばかり足を出したのだ。

 演習費予算の配当や支弁は演習課の担任だったので、その補填について第一課高級課員の今村均中佐が、演習課高級課員の阿南惟幾中佐のところへ願い出た。

 追加承認決済のため、阿南中佐とともに柳川課長の室に行ったとき、柳川課長は皮肉たっぷりに「小磯は豪傑だから尻拭いをしてやれよ」と一言、決裁書に捺印したという。

 この時分から「小磯、柳川両氏は、性格上そりの合わなかったことは偽らざる私の感想である」と有末精三中将は記している。

 昭和7年、小磯国昭陸軍次官が関東軍参謀長として赴任したあと、柳川平助中将が陸軍次官に就任した。二人とも陸士12期の同期生である。

 陸士12期は杉山元元帥、畑俊六元帥、小磯国昭大将、柳川平助中将、香椎浩平中将、秦真次中将など多士済々の軍人を輩出している。

 昭和7年、有末少佐が陸軍大臣秘書官に着任した頃、省内若手将校間の噂では、前陸軍次官の小磯中将は、口八丁、手八丁、それに大の酒豪で、酒席が好きで宴席ではお得意の美声で自作の鴨緑江節を良く聞かされる、とのことだった。

 これに反し、現陸軍次官の柳川中将は大の宴会嫌い。したがってやむを得ない場合は以外は、多くの場合陸軍大臣官邸で、もっとも人数の関係や対地方関係で、外でやらねばならない時は、戸山学校(庭園共)や偕行社か、陸海軍将校集会所を利用していたという。

 昭和8年秋、小磯関東軍参謀長が上京するというので労をねぎらうべく、陸軍次官の主催で歓迎の会食を準備しようと、陸軍大臣秘書官の有末少佐は軍務局長の山岡重厚少将に相談した。

 山岡軍務局長は無骨一辺の人で、刀剣が趣味で陸軍軍刀制式の変更、靖国神社境内に刀剣鍛錬場(刀鍛冶場)を設けたり、柳川次官ほどではないが、やはり宴会嫌いであった。

 その山岡軍務局長は有末少佐に「小磯さんの歓迎じゃ新喜楽あたりでやらん訳にはいかんじゃろう」と告げた。有末少佐は「次官閣下がやかましいから」と山岡局長に助言を頼んだ。

 翌日、有末少佐が柳川次官に小磯中将の歓迎計画について御意図を伺いに行った処、「君は山岡に応援を頼んだナァ」「仕方がないから新喜楽あたりでやってもよいが、とにかく長夜宴なぞは考えものだぞ」と一本釘を刺された。

 歓迎会当日、新喜楽のおかみさんが鴨緑江節の得意な小磯参謀長のファンの老芸者連を手配してくれた。

 いよいよ歓迎会になってみると、主人たる柳川次官は、相変わらず無口、盃を手にせず、山岡軍務局長もあまり話がなく、主賓の小磯参謀長もあまりはしゃがず、いわばお通夜のような気分だった。

 拓務次官の河田烈氏から、二次会に小磯参謀長を近くの料亭「とんぼ」でお待ちしているとの話であったので、主人たる柳川次官は失礼して退席した。

 柳川次官は料理屋の宿車には乗らず、陸軍省の自動車も断り、タクシーも嫌いで、拳(こぶし)のついた太いステッキを振り回しながら徒歩で帰邸した。有末少佐は次官官邸まで一緒にお伴をして送り届けた。

 そのあと、タクシーをひろって二次会場に駆けつけた。小磯参謀長は機嫌が直って大いにメートルを挙げ、得意の唄も出た。有末少佐は一安心した。

 昔から同期生でありながら、なんとなくギクシャクして所謂肌の合わない小磯、柳川両氏の間柄であったことは、この時のことからでも明白であった。