戦後、七十六歳のとき智子は「結婚式に出席しなかったことで、姑は私に対する悪意を示しました。姑は雅晴の嫁にと、すでに佐渡の娘を選んでいたので都会育ちの私を受け入れたくなかったのです」と語っている。
だが、これは智子の誤解だった。「マツは一人息子の結婚式に出席したかったのだが、夫、賢吉に連れて行ってもらえなかった」と本間朝之衛は述べている。
賢吉は新発田連隊へさえ、姉を雅晴の母と偽って同伴したくらいだから、まして結婚式場で妻と並ぶことは避けたかったのだろう。
だが、新婚時代の本間中尉は、智子を着飾らせて、これ見よがしに連れ歩いた。舞伝男は「ある劇場で、新婚間もない本間夫妻に会った。有名な田村家の娘である本間の妻を私は初めて見たのだが、小柄ながら評判通りの美しい人だった」と述べている。
森鴎外が帝劇の一等席に並んでいる本間中尉と智子を見て「日本の軍人も変わったものだ」と言ったと伝えられている。
「今村均大将回想録・第一巻・檻の中の獏」(今村均・自由アジア社・1960年)で、今村均は、この結婚が本間にとって決して有利なものでなかったことを、次のように述べている。
「その時分の青年将校の間には―偏狭な考え方ではあったが―大物のところから嫁をとるのは、精神上いけないことに思われていた。それで多くの同輩はXをさげすみ、その新家庭に近づく者は多くなかった」。
Xとは本間中尉のことである。本間より二期後輩の飯村穣(陸士二一・東京外国語学校・陸大三三・中将。東京防衛軍司令官・憲兵司令官)は、「嫁の里が“大物”であったり、特に金持ちであると、仲間から悪く言われたものだ」と述べている。田村家はこの両方に該当していた。
本間中尉は、こうした人の目も意識することもできないほど、新妻に溺れたのである。当時の本間は妻の智子に「故田村将軍を岳父に持ったのだから、それにふさわしい軍人にならねば……」と語っている。
新婚当時の本間中尉は四谷の借家に住んでいた。智子の里から付き添ってきた“ばあや”との三人暮らしだった。
本間中尉は外出の度に智子を同伴したばかりでなく、家の中でも妻をそばから離さなかった。「料理などは女中まかせでいいと私を台所へも立たせず、夜の勉強時間は机の横にすわらせて読書をさせた」と智子は語っている。
だが、悲劇的なことだが、本間中尉の溺愛・献身は、智子の心に伝わらなかったのである。智子は「夫は、物足りない人だった」というのだった。本間中尉は自分の感情に酔って、一人相撲をとっていたことになる。
結婚の翌春、本間中尉の父、賢吉が結核治療のため上京した。賢吉は息子の新家庭に数日滞在した後、駿河台の病院に入院した。
賢吉の病状は急速に悪化していった。本間中尉の度々のすすめも聞き入れず、賢吉は最後まで妻、マツを呼び寄せなかった。大正三年八月十九日、息子夫婦にみとられて、賢吉は息を引き取った。
父の遺骨を持って、本間中尉は初めて智子を連れて佐渡へ帰った。だが、マツと智子は初対面の挨拶を交わす前から、それぞれの胸にしこりがあり、不仲だった。
佐渡から戻って本間中尉は転居した。そしてその年の十二月二十五日、長男、道夫が誕生した。初孫を見に上京したマツと智子の間は相変わらず険悪で、本間中尉はその両方へ気を使い、なんとか円満な家族関係を築こうと苦慮した。
大正四年十二月、本間中尉は三番という成績で陸軍大学校を卒業した。この年の恩賜の軍刀は五人で、首席の今村均が御前講演を行った。同期の東條英機の成績は十一番だった。
戦後七十六歳のとき、智子は「本間をあれだけの偉い男にしたのは私です」と述べている。智子は徹夜で卒業試験に立ち向かう本間中尉のそばで勉強を手伝った。
だが、陸大の同期生の間では「本間は妻に、恩賜の軍刀で卒業しないと離縁するぞ、とおどかされたので、必死に勉強した」という噂になっていた。
大正七年、本間大尉は今村均大尉とともに、軍事研究のため英国駐在員を申し渡され、七月にロンドンに到着した。
当時第一次世界大戦で、ドイツの敗色は明らかだったが、英国の国力は低下していた。首相のロイド・ジョージは「戦うイギリス」を指導していた。
だが、これは智子の誤解だった。「マツは一人息子の結婚式に出席したかったのだが、夫、賢吉に連れて行ってもらえなかった」と本間朝之衛は述べている。
賢吉は新発田連隊へさえ、姉を雅晴の母と偽って同伴したくらいだから、まして結婚式場で妻と並ぶことは避けたかったのだろう。
だが、新婚時代の本間中尉は、智子を着飾らせて、これ見よがしに連れ歩いた。舞伝男は「ある劇場で、新婚間もない本間夫妻に会った。有名な田村家の娘である本間の妻を私は初めて見たのだが、小柄ながら評判通りの美しい人だった」と述べている。
森鴎外が帝劇の一等席に並んでいる本間中尉と智子を見て「日本の軍人も変わったものだ」と言ったと伝えられている。
「今村均大将回想録・第一巻・檻の中の獏」(今村均・自由アジア社・1960年)で、今村均は、この結婚が本間にとって決して有利なものでなかったことを、次のように述べている。
「その時分の青年将校の間には―偏狭な考え方ではあったが―大物のところから嫁をとるのは、精神上いけないことに思われていた。それで多くの同輩はXをさげすみ、その新家庭に近づく者は多くなかった」。
Xとは本間中尉のことである。本間より二期後輩の飯村穣(陸士二一・東京外国語学校・陸大三三・中将。東京防衛軍司令官・憲兵司令官)は、「嫁の里が“大物”であったり、特に金持ちであると、仲間から悪く言われたものだ」と述べている。田村家はこの両方に該当していた。
本間中尉は、こうした人の目も意識することもできないほど、新妻に溺れたのである。当時の本間は妻の智子に「故田村将軍を岳父に持ったのだから、それにふさわしい軍人にならねば……」と語っている。
新婚当時の本間中尉は四谷の借家に住んでいた。智子の里から付き添ってきた“ばあや”との三人暮らしだった。
本間中尉は外出の度に智子を同伴したばかりでなく、家の中でも妻をそばから離さなかった。「料理などは女中まかせでいいと私を台所へも立たせず、夜の勉強時間は机の横にすわらせて読書をさせた」と智子は語っている。
だが、悲劇的なことだが、本間中尉の溺愛・献身は、智子の心に伝わらなかったのである。智子は「夫は、物足りない人だった」というのだった。本間中尉は自分の感情に酔って、一人相撲をとっていたことになる。
結婚の翌春、本間中尉の父、賢吉が結核治療のため上京した。賢吉は息子の新家庭に数日滞在した後、駿河台の病院に入院した。
賢吉の病状は急速に悪化していった。本間中尉の度々のすすめも聞き入れず、賢吉は最後まで妻、マツを呼び寄せなかった。大正三年八月十九日、息子夫婦にみとられて、賢吉は息を引き取った。
父の遺骨を持って、本間中尉は初めて智子を連れて佐渡へ帰った。だが、マツと智子は初対面の挨拶を交わす前から、それぞれの胸にしこりがあり、不仲だった。
佐渡から戻って本間中尉は転居した。そしてその年の十二月二十五日、長男、道夫が誕生した。初孫を見に上京したマツと智子の間は相変わらず険悪で、本間中尉はその両方へ気を使い、なんとか円満な家族関係を築こうと苦慮した。
大正四年十二月、本間中尉は三番という成績で陸軍大学校を卒業した。この年の恩賜の軍刀は五人で、首席の今村均が御前講演を行った。同期の東條英機の成績は十一番だった。
戦後七十六歳のとき、智子は「本間をあれだけの偉い男にしたのは私です」と述べている。智子は徹夜で卒業試験に立ち向かう本間中尉のそばで勉強を手伝った。
だが、陸大の同期生の間では「本間は妻に、恩賜の軍刀で卒業しないと離縁するぞ、とおどかされたので、必死に勉強した」という噂になっていた。
大正七年、本間大尉は今村均大尉とともに、軍事研究のため英国駐在員を申し渡され、七月にロンドンに到着した。
当時第一次世界大戦で、ドイツの敗色は明らかだったが、英国の国力は低下していた。首相のロイド・ジョージは「戦うイギリス」を指導していた。