陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

305.本間雅晴陸軍中将(5)恩賜の軍刀で卒業しないと離縁するぞ

2012年01月27日 | 本間雅晴陸軍中将
 戦後、七十六歳のとき智子は「結婚式に出席しなかったことで、姑は私に対する悪意を示しました。姑は雅晴の嫁にと、すでに佐渡の娘を選んでいたので都会育ちの私を受け入れたくなかったのです」と語っている。

 だが、これは智子の誤解だった。「マツは一人息子の結婚式に出席したかったのだが、夫、賢吉に連れて行ってもらえなかった」と本間朝之衛は述べている。

 賢吉は新発田連隊へさえ、姉を雅晴の母と偽って同伴したくらいだから、まして結婚式場で妻と並ぶことは避けたかったのだろう。

 だが、新婚時代の本間中尉は、智子を着飾らせて、これ見よがしに連れ歩いた。舞伝男は「ある劇場で、新婚間もない本間夫妻に会った。有名な田村家の娘である本間の妻を私は初めて見たのだが、小柄ながら評判通りの美しい人だった」と述べている。

 森鴎外が帝劇の一等席に並んでいる本間中尉と智子を見て「日本の軍人も変わったものだ」と言ったと伝えられている。

 「今村均大将回想録・第一巻・檻の中の獏」(今村均・自由アジア社・1960年)で、今村均は、この結婚が本間にとって決して有利なものでなかったことを、次のように述べている。

 「その時分の青年将校の間には―偏狭な考え方ではあったが―大物のところから嫁をとるのは、精神上いけないことに思われていた。それで多くの同輩はXをさげすみ、その新家庭に近づく者は多くなかった」。

 Xとは本間中尉のことである。本間より二期後輩の飯村穣(陸士二一・東京外国語学校・陸大三三・中将。東京防衛軍司令官・憲兵司令官)は、「嫁の里が“大物”であったり、特に金持ちであると、仲間から悪く言われたものだ」と述べている。田村家はこの両方に該当していた。

 本間中尉は、こうした人の目も意識することもできないほど、新妻に溺れたのである。当時の本間は妻の智子に「故田村将軍を岳父に持ったのだから、それにふさわしい軍人にならねば……」と語っている。

 新婚当時の本間中尉は四谷の借家に住んでいた。智子の里から付き添ってきた“ばあや”との三人暮らしだった。

 本間中尉は外出の度に智子を同伴したばかりでなく、家の中でも妻をそばから離さなかった。「料理などは女中まかせでいいと私を台所へも立たせず、夜の勉強時間は机の横にすわらせて読書をさせた」と智子は語っている。

 だが、悲劇的なことだが、本間中尉の溺愛・献身は、智子の心に伝わらなかったのである。智子は「夫は、物足りない人だった」というのだった。本間中尉は自分の感情に酔って、一人相撲をとっていたことになる。

 結婚の翌春、本間中尉の父、賢吉が結核治療のため上京した。賢吉は息子の新家庭に数日滞在した後、駿河台の病院に入院した。

 賢吉の病状は急速に悪化していった。本間中尉の度々のすすめも聞き入れず、賢吉は最後まで妻、マツを呼び寄せなかった。大正三年八月十九日、息子夫婦にみとられて、賢吉は息を引き取った。

 父の遺骨を持って、本間中尉は初めて智子を連れて佐渡へ帰った。だが、マツと智子は初対面の挨拶を交わす前から、それぞれの胸にしこりがあり、不仲だった。

 佐渡から戻って本間中尉は転居した。そしてその年の十二月二十五日、長男、道夫が誕生した。初孫を見に上京したマツと智子の間は相変わらず険悪で、本間中尉はその両方へ気を使い、なんとか円満な家族関係を築こうと苦慮した。

 大正四年十二月、本間中尉は三番という成績で陸軍大学校を卒業した。この年の恩賜の軍刀は五人で、首席の今村均が御前講演を行った。同期の東條英機の成績は十一番だった。

 戦後七十六歳のとき、智子は「本間をあれだけの偉い男にしたのは私です」と述べている。智子は徹夜で卒業試験に立ち向かう本間中尉のそばで勉強を手伝った。

 だが、陸大の同期生の間では「本間は妻に、恩賜の軍刀で卒業しないと離縁するぞ、とおどかされたので、必死に勉強した」という噂になっていた。

 大正七年、本間大尉は今村均大尉とともに、軍事研究のため英国駐在員を申し渡され、七月にロンドンに到着した。

 当時第一次世界大戦で、ドイツの敗色は明らかだったが、英国の国力は低下していた。首相のロイド・ジョージは「戦うイギリス」を指導していた。

304.本間雅晴陸軍中将(4)田村家のお嬢さんは、とても軍人の奥さんになれる人ではない

2012年01月20日 | 本間雅晴陸軍中将
 陸士を卒業した本間は新潟県の新発田連隊に配属された。本間の次男、雅彦は、昭和四十年四月に新潟日報に連載した「偉大なる越しぬけ将軍・本間雅晴」の中で、「若い頃の雅晴には、父・賢吉ゆずりの軟派性があった」と書いている。

 キザといわれるほどの本間少尉のおしゃれは、父親ゆずりのものだった。

 明治四十三年十一月十日付で本間少尉は中尉に進級した。その頃、本間の本家の跡取り息子、本間朝之衛が、修学旅行で新発田連隊の見学に行った。

 隊内を案内してくれる本間中尉が、腰の吊り紐をわざと緩めて、反りの強い指揮刀を地にひきずって歩く姿を、修学旅行の少年たちは感に耐えて眺めていた。

 だが、本間中尉は中学の後輩たちを将校集会所に入れて大福もちをおごり、その温かいもてなしに、引率の教師は感動した。

 大正元年十二月十三日、本間雅晴中尉は陸軍大学校(二七期)に入校した。このときの受験者は約八百人、合格者は六十人だった。

 士官学校(十九期)同期の、本間中尉と今村均中尉は、陸軍大学校でも同期生になった。板垣征四郎中尉(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将)、山下奉文中尉(陸士一八・陸大二八恩賜・大将・第十四方面軍司令官)もこの年に受験しているが、二人とも不合格だった。

 陸大在学中に、当時二十五歳の本間中尉は「僕は結婚しようと思うのだが」と今村中尉に相談した。そのことが今村の回想録に記されている。

 本間の相手について今村は「当時政府の顕要の地位にあった人の細君の妹」とだけ記しているが、それは当時すでに故人であった田村恰与造(たむら・いよぞう)中将(陸士旧二首席・ベルリン陸軍大学卒・参謀本部次長・中将)の末娘、智子(としこ)だった。

 智子の姉たちは、当時、参謀本部総務部長・山梨半造少将(陸士旧八・陸大八恩賜・陸軍大臣・大将・朝鮮総督)や、福島安正(開成学校中退・司法省・陸軍省文官・士官登用試験合格・陸軍中尉・参謀本部次長・中将・男爵・関東都督・大将)の息子に嫁いでいるという陸軍の名家だった。

 今村中尉はこの縁談に反対した。今村中尉は本間中尉に「その人のことは、よく我々仲間の話に出るが、家庭をよく調べたか」と言った。

 本間中尉は「母親が芸者だったということだろう。母親がそういう境遇だからといって、その娘までを軽蔑するのはいけないことだ……」と、本間中尉は今村中尉のあげる疑問点の一つ一つに反論して決意の固いことを示した。

 そして本間中尉は「君には理解されんかも知れんが、僕は一度の見合いで恋をしてしまった」とも言った。

 だが、陸士同期の舞伝男(陸士一九・陸大三一・中将・第三六師団長・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)は次のように述べている。

 「士官学校に近い紺谷という洋服屋の二階を、我々は日曜合宿に使っていたが、そこの主人も本間が田村家の娘と見合いをしたと聞いて、あの人だけはおよしなさいと、とめていた。だが時すでに遅く、本間の決心はついていた」。

 紺谷洋服店の主人は「田村家のお嬢さんは、とても軍人の奥さんになれる人ではない」と、しきりに本間中尉を説得していたという。

 智子の母親が芸者だったという噂が陸大生の間に当時流れていたが、事実は違っていたようだ。だが、本間はこの噂を生涯信じていた。本間の結婚期間中、智子の感情を傷つけまいと一度も話題に出さなかったのではないかと推察される。

 智子は跡見女学校を卒業した十八歳の“御大家の令嬢”で、これという問題があったわけではないが、美貌、派手な身なり、軽い挙動など、良家の子女とは思われない色っぽさがあった。

 智子は姉たちと同じ学習院に入学したが、その教育内容に嫌気がさして跡見女学校に転校した。いったん「いやだ」となったら、矢もたてもたまらず行動に移す、わがままな性格だった。

 本間中尉と智子は大正二年十一月二十一日に結婚した。本間中尉と智子の新婚生活は限りなくロマンティックで、どこか遠い国の物語のようであった。智子が軍人の妻に相応しいかということは忘れ去られていた。

 だが、二人の結婚式に本間の母、マツが出席しなかったことが、智子が姑に悪感情を持つ発端だった。

303.本間雅晴陸軍中将(3)本間は「西洋かぶれ」「親英派」「腰抜け将軍」など悪評を被った

2012年01月13日 | 本間雅晴陸軍中将
 ところで、陸軍士官学校の外国語教育は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、支那語の中から一科目選択するものだったが、中学卒業者にはすでに基礎のできている英語を習得させ、幼年学校出身者には他の外国語を学ばせた。

 後に本間雅晴が、駐英武官となり、ことさらに親英派と目されて、親独派から感情的な非難攻撃を受けるようになった遠因はこの制度にもあった。

 昭和二十一年、マニラの軍事法廷で、本間の証人の一人であった陸士同期生、舞伝男(まい・でんお)中将(陸士一九・陸大三一・第三六師団長・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)は、本間雅晴と東條英機の確執について次のように述べている。

 「陸軍内部で、中学出と幼年学校出はとかく反目しがちだった。東條が幼年学校出身、本間が中学出身であったことも、二人の不仲の原因の一つ」。

 マニラ軍事法廷でのこの証言について「日本陸軍内部の恥をさらすものだ」との批判があったが、舞元中将は「日本破れ、陸軍も消滅した今となって、その名誉にこだわる必要があろうか。真実を述べることで、本間が有利になるならば……」と答えている。

 明治三十八年十二月陸軍士官学校に十九期生として入校した当時の本間雅晴の手記が、富士子夫人の手許に保存されている。

 字画の正しい達筆のペン字で、彼は「なんたる光栄……」と書き出し、感激に震えて、天皇への忠誠、国家への奉仕を誓い、入校の覚悟をうながしている。

 軍人勅諭の中の「朕は汝等軍人の大元帥なるそ されは朕は汝等股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰きてそ 其親は特に深かるへき」の一節に、本間ははるか遠い存在であった天皇と、いま軍人となった自分が直結していることを知った。

 この一体感は本間にとって青天の霹靂であった。その驚きと感激から、手記の「なんたる光栄……」がひきだされた。十八歳の本間に雷撃のように響いた“誠心”は、彼の一生を貫くことになる。

 のちに本間は「西洋かぶれ」「親英派」「腰抜け将軍」など悪評を被った。知識と思考を持った人間のなまぬるさの一面を批判されたのだが、本間は最後まで和平工作に努力を注いだ。

 指輪をはめ、長髪をポマードで光らせ、子供たちに「パパ」と呼ばせるなど、三十代までの本間には軍人らしからぬ時代があった。

 だが、そうした私生活上の好みは、本間の信条である「天皇への忠誠、国家への奉仕」を、何らさまたげるものではなかった。

 後年、日独伊三国同盟に反対し、戦争の早期終結を願った本間は、東條英機をはじめ強硬派の指導層に嫌われたが、彼は一身上の不利を承知の上で最後まで信念を貫いた。

 “文化将軍”と呼ばれ、表面は軍人らしからぬ点の多かった本間だが、奥底は、純粋で真正直な性格から、軍人勅諭のゆるぎない信奉者であった。

 陸士同期で本間と親友だった舞伝男元中将の話によれば、卒業間近に、同期生の一人が何か間違いを起こして処罰されることになった。

 本間はその男がかわいそうでたまらず、舞のところに「なんとかかばってやろう」と相談に来た。だが、舞は、その男の行為は罰を受けて当然と思っていたので断った。

 その後、本間と舞は陸軍大学校に入るまで疎遠になった。本間は舞が温情を示さなかったことが、ひどく不満だった。それほど本間は情に厚い男だった。

 舞は回想して「本間は能力の高い立派な男だったが、どちらかといえば、武より文の方面に進むべきではなかったか。とにかく軍人向きの生まれつきとはいえなかった」と述べている。
 
 明治四十五年五月、本間雅晴は陸軍士官学校を卒業した。入校以来一年六ヶ月の間に、百十五人が落伍していた。

 「マサハル二バン 三〇ニチシキ」という母・マツあての電報が、佐渡の生家に保存されている。同期生はみな本間が一番であろうと予測していたが、“目から鼻に抜けるような才子”と評された高野重治(のち柳下と改姓)が首席だった。

 本間は区隊長に売り込んで好印象を与えようなどということは一切しなかった。世渡りの下手さ、不器用さは彼の一生に付きまとっている。

302.本間雅晴陸軍中将(2)勇ましい少年雑誌に感激したのだ

2012年01月06日 | 本間雅晴陸軍中将
 「いっさい夢にござ候~本間雅晴中将伝」(角田房子・中央公論社)によると、本間雅晴は、新潟県佐渡郡畑野村大字後山(現在畑野町宮川)に、父・賢吉、母・マツの一人息子として生まれた。

 佐渡の本間家、本家から分家した二代目が本間賢吉である。分家したときに本家から分与された田畑は四町一反だった。

 雅晴の母・マツは分家の本間家より、はるかに豊かな家の跡取り娘だったが、その権利を放棄して賢吉と結婚した。マツが賢吉に惚れ込んで周囲の反対を押し切って結婚したのだった。

 マツは身長五尺二寸(一・六メートル)の当時としては大女で、骨格たくましく、男のような体つきだった。

 また、当時の農村の娘として珍しいことではないが、文盲だった。茶の湯、生け花などのたしなみもなかった。だが、男をしのぐ労働力の持ち主であった。

 このマツが情熱を傾けたのが賢吉で、身だしなみのいい、やさ男だった。おっとりと整った細面に微笑を浮かべて若々しかった。

 賢吉は趣味も豊かだった。賢吉が最も得意としたのも、幼少から稽古を積んだ能であった。そのほか茶の湯、生け花、囲碁、書道などみな一通り器用にこなした。

 結婚後も家業の農業を妻のマツにまかせて、村の収入役などを勤めたが、これも暇つぶし程度だった。賢吉は、マツのひたむきな恋情に押し切られて結婚したが、家庭に落ち着かず、小木港の遊郭に通って、女たちを相手に歌ったり、民謡、川柳、都都逸などをして、まさに明治のプレイボーイだった。

 こうした夫の放蕩を、マツは黙って耐えた。賢吉と争う声を聞いた者はなかった。「女と生まれて、他の女にもてないような男を亭主にしても張り合いがない」とマツは言っていたそうだが、負け惜しみでもあり、本音でもあったろう。

 マツは夫の気を引こうとする努力はしなかった。マツは質素倹約、一切の無駄を嫌い、身だしなみも構わず、垢じみた着物を平気で着続けた。破れた裾から糸を下げたまま人前に出た。

 このような両親の間に本間雅晴は生まれた。戸籍謄本によれば明治二十年十一月二十七日の誕生だが、これは陸軍士官学校入試受験のとき、年齢の不足をごまかした結果で、実際は父賢吉の謄本に記載されている通り、明治二十一年一月二十七日である。

 両親の仲の冷たさを示すように、雅晴には一人の弟妹もいない。一人息子だった。父のいない夜を、不機嫌な母と囲炉裏の前に座り、黙って箸を動かす本間少年の姿は寂しいものだった。その上家は不必要に広く、光の届かぬ暗がりが幾重にも彼を囲んでいた。

 本間は中学卒業までに、陸軍士官学校志望の決意を固めた。後年、妻・富士子が「どういうわけで軍人になる決心をしたのですか」と訊ねると、本間はテレ笑いを浮かべて「日露戦争の時だったので、勇ましい少年雑誌に感激したのだ」と答えている。

 少年時代から本間はものごとを斜めに見ることをしなかった。正座して正面から眺めるのだった。ひねった考え方もしなかった。

 常に表通りをまっすぐに歩こうとする人で、わき道、裏道を覗いてみようという気持ちさえ起こさない性格だった。

 本間は日露戦争が終わった明治三十八年九月五日の二ヵ月後、十二月に第十九期生として陸軍士官学校に入校した。

 明治三十八年は、日露戦争の火急の場に間に合わせるため、第十七期生が三月に、第十八期生が十一月に卒業した異例の年だった。

 日露戦争は終わったが、本間の第十九期の採用は一一八三名で、急増した第十八期の九六五名をさらに上回る採用人数だった。

 そして、幼年学校出身者と中学出身者の混成である十八期と、幼年学校出身者だけの二十期にはさまれた、本間たちの十九期は中学出身者だけを対象とする採用だった。

 同期生全員が中学卒業者だけというのは、陸軍士官学校の歴史を通して、十九期のただ一回だけのことだった。また十九期の採用人数が多かったことが、その後長く尾を引き、人事行政渋滞の原因となった。