陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

188.東條英機陸軍大将(8)佐藤軍務局長は「殴ったな!」と、田中作戦部長を殴り返した

2009年10月30日 | 東條英機陸軍大将
 特に、軍用船舶の割当は、陸海軍両統帥部長を含めた連絡会議で決定するというのが、開戦以来の厳重な申し合わせだった。それが無視されて、ただ閣議一存で、陸軍統帥部の要望が拒否されたことには断じて承服できないと田中作戦部長は申し入れた。

 すると鈴木総裁は「いや、あれは決定ではない。閣議の一案として、参謀次長に内報したにすぎない。もちろん連絡会議にかける」と釈明した。

 田中作戦部長は「企画院総裁として、陸軍統帥部の要望を容れるつもりかどうか」と問うたが、「考慮しよう」という言葉のみだった。

 これで大体の内閣の態度が分かったので、田中作戦部長は田辺次長と協議して、とりあえず佐藤賢了軍務局長(陸士二九・陸大三七)の来訪を求めて事情を質すことにした。

 昭和十七年十二月五日午後八時頃、佐藤軍務局長が参謀本部に来て閣議の内容を報告した。報告を受けた田中作戦部長は「何、十八万トンの解傭を陸軍に要求するとは、統帥干犯だ!」と怒鳴りつけた。

 東條首相も、佐藤軍務局長ら陸軍省も、ガダルカナル島から撤退することを主張しているので、輸送のための陸軍船舶を増徴することには反対だったのだ。

 田中作戦部長と佐藤軍務局長は、その場で議論になり、興奮した田中作戦部長が佐藤軍務局長を、いきなり殴った。

 すると佐藤軍務局長は「殴ったな!」と、田中作戦部長を殴り返した。田中作戦部長は士官学校の二期先輩だった。

 その場にいた田辺次長が「冷静になって、話し合うのだ」と中に割って入り、仲裁したが、「あなたは黙っておれ」と押し返され、田辺次長の参謀飾緒がちぎれ飛んだ。

 ほかの部員が田中作戦部長と佐藤軍務局長の二人を引き離したので、けんかはようやく収まった。

 このあと、田中作戦部長は、官邸に木村兵太郎陸軍次官(陸士二〇・陸大二八)を訪ねて、ガ島作戦の事情を説明して、船舶の増徴を懇請したが、全く暖簾に腕押しだった。

 田中作戦部長はこの夜遅く帰宅したが、痛憤の一夜を明かした。「こんな無責任な、祖国の運命、戦争の行く末に鈍感な当局には、一撃を加えておく外ない」と決意した。

 十二月六日夕刻、田中作戦部長のところへ、戦争指導課の種村佐孝参謀(陸士三七・陸大四七)が来て「今夜東條陸軍大臣から統帥部に対して、船舶増徴について申し渡しをするとのことです。ついてはその前に参謀本部で部長会議を開きますのでご出席ください」と告げた。

 田中作戦部長は種村参謀と参謀本部へ向う車の中で「そうか、東條総理は、いよいよ連絡会議にかけるという協定を無視して、閣議決定の船舶配分案を、押し付けるつもりだな。では昨夜の決定どおりにやる外ない」と思った。

 市ヶ谷の参謀本部から、田中作戦部長は田辺次長と総理官邸に向った。陸軍省からは、木村次官、佐藤軍務局長、富永恭次人事局長(陸士二五・陸大三五)が来ていた。

 東條陸軍大臣が会見するというので、田辺次長が二階に上がっていったが、「作戦部長はしばらく下で待っていてくれ」とのことだった。

 それから三十分後、二階から降りてきた田辺次長の姿は、全く悄然としていた。田中作戦部長が「どうしました」と訊くと「統帥部の要求とはかけ離れている」とのことだった。

 田中作戦部長が「抗議しましたか」と言うと、田辺次長は「いや、お話にもならんから黙って下がってきた」と答えた。

 田中作戦部長は「それじゃ困るではないですか、ガ島をどうするのです。よし、私が話をつけてきましょう」と言って、階段を昇っていった。田辺次長は困惑の色を浮かべたが、田中作戦部長の後に続いて来た。

 田中作戦部長は、ノックの応答も待たずにドアを開けた。室内の愉快げな高笑いが、急に途絶えたように感じられた。「何が愉快なのか、桜かざした長袖者が」と瞬間、癪に障った。

 室内には東條大臣、木村次官、佐藤軍務局長、富永人事局長が、長方形の大テーブルを囲んでいた。さっき田辺次長に申し渡した時もこの配置だったろう。

 統帥部を抑えつけた満足を、爆笑で笑っていたのだろうと田中作戦部長は苦々しく思った。

 突然入ってきた者に、一座は急にキットなった様子だったが、中作戦部長は、かまわず、東條大臣のすぐそばの席をとった。それは不敬な態度と、感じさせるものだった。

 田中作戦部長は統帥部の作戦上の要望と現地の窮状から、船舶増徴について再考されたしと懇請を続けた。だが東條陸軍大臣は冷然として物資動員上の理由から、一々拒否し続けた。

 田辺次長は末座を占めていたが、一言も発しなかった。

187.東條英機陸軍大将(7) 東條は先の見えない男だし、到底、宰相の器ではない

2009年10月23日 | 東條英機陸軍大将
 昭和十七年九月五日、ボルネオ守備軍司令官・前田利為中将(陸士一七・陸大二三恩賜)は、飛行機事故で死去し、陸軍大将に昇進した。

 前田大将は、旧加賀藩主、前田本家十六代目当主で侯爵だった。東條首相とは陸士同期だったが、在職中は東條批判派として東條からは敬遠されていた。

 「華族~明治百年の側面史」(講談社)によると、前田大将の長女、酒井美意子氏が、前田大将は東條に批判的であったと述べている。

 昭和十二年、前田中将は第八師団長で満州に出征していた。当時、関東軍の作戦計画が前田中将の考えと違うので、たびたび意見具申していた。

 関東軍は結局、前田中将の作戦計画に従ったが、当時の関東軍参謀長は東條英機中将だった。東條中将と前田中将は、机をたたいて激論を交わしたといわれている。

 前田中将が満州から帰り、東條が陸軍次官になると、昭和十四年一月三十一日、前田中将は予備役に編入された。

 前田中将は三国同盟に絶対反対の立場をとっていた。また、無謀な戦争は極力回避すべきと主張していた。前田中将は「東條は先の見えない男だし、到底、宰相の器ではない。あれでは国をあやまる」と言っていたという。

 酒井美意子氏によると、前田中将は昭和十七年九月五日、軍用機でラブアン島に作戦命令で飛行中に、ビンヅル沖の海に撃墜されたとのことだった。

 現地で軍葬が執り行われる直前に、「戦死という字を使わず、陣歿とせよ」という指令が内地からきたので、弔辞を書きかえたりして大騒ぎをしたそうである。飛行機事故であるが、墜落原因ははっきりせず、事故死と推定された。だが、後日、「戦死」と訂正発表された。

 一説には東條に批判的だったため、招集され、ボルネオ軍守備隊司令官として南方の激戦地に飛ばされたといわれている。だが、ボルネオ島はそれほど激戦地とはいえなかった。

 「作戦部長、東條ヲ罵倒ス」(田中新一・芙蓉書房)の著者、田中新一元陸軍中将(陸士二五・陸大三五)は、太平洋戦争開戦時、陸軍参謀本部第一(作戦)部長であった。田中中将は、昭和十五年十月から、昭和十七年十二月まで、作戦部長として中枢で戦争指導に当たった。

 太平洋戦争は昭和十六年十二月八日、日本の真珠湾攻撃で勃発した。その八ヵ月後の昭和十七年八月七日に米軍がガダルカナル島上陸して以来、ガダルカナル島の争奪をめぐり日米が死力を尽くして闘ってきた。

 日本の太平洋戦略において、ガ島の放棄は許されない状況で、日本軍は川口支隊、第二師団、第三十八師団と次々と兵力を投入した。

 第一次~三次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ルンガ沖夜戦など海空の兵力も集中し、ガ島奪回に躍起になった。だが、戦局は好転せず、日々消耗戦の様相で、劣勢となっていった。輸送船舶の消耗もひどかった。

 昭和十七年十一月から十二月の初めにかけて、ガ島への船舶増徴の問題をめぐって、陸軍省と参謀本部が正面切って対決した。

 ガ島作戦の完遂こそが、太平洋作戦の勝利のきっかけであるという根本的見解を、参謀本部の田中新一作戦部長は東條陸軍大臣に対して説明、諒解をとりつけてあった。

 元々、ガ島への輸送用船舶は二十万トンと定められていたが、参謀本部は三十七万トンの増徴を陸軍省に要求していた。だが、政府はガ島方面でのこれまでの船舶消耗の実態を理由に、これに消極的だった。

 十二月五日の閣議で、ガ島方面への陸軍船舶について参謀本部の要望に応じられないとの閣議決定が行われた。当時の首相は陸軍大臣を兼務していた東條英機大将(陸士一七・陸大二七)だった。

 同日、企画院総裁・鈴木貞一中将(陸士二二・陸大二九)は、参謀本部次長・田辺盛武中将(陸士二二・陸大三〇)に電話で「会議の結果、陸軍統帥部の要望には応じられないことになった」と伝え、詳細について説明した。

 温厚な田辺中将は、強いて鈴木総裁と抗争することをしなかった。両中将が士官学校同期生という事情もあったのかもしれない。

 だが田中作戦部長は、急迫に急迫を告げているガ島の危機を思うと黙っていられなかった。田中作戦部長は「閣議が独断で、作戦の要求を無視する」ことについて鈴木総裁をなじった。

186.東條英機陸軍大将(6)あの東條のような大馬鹿者の言うことを聞くから、大きな間違いをする

2009年10月16日 | 東條英機陸軍大将
 東條英機の父、東條英教は陸軍大学校一期生でメッケルに師事し、陸大を首席で卒業、明治天皇から恩賜の軍刀一振りを賜った。ドイツにも留学し、作戦統帥の権威として頭脳明晰な英教は、当時、将来は陸軍大臣、陸軍大将と栄進するものと見られていた。

 だが、日露戦争で東條英教は旅団長として指揮に問題がありと烙印をおされた。また当時、長州閥が陸軍を支配していたため出世を妨げられ(山縣有朋ににらまれた)、日露戦争後、中将に昇進の上、予備役にされた。

 このような父の状況から、東条英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなど長州閥の解体に尽力した。

 昭和十六年十一月、寺内寿一陸軍大将(陸士一一・陸大二一)は、南方軍総司令官に就任した。寺内寿一は寺内正毅元帥(第十八代内閣総理大臣)の長男である。

 寺内正毅は長州出身で、東条英機の父英教が陸軍少将で参謀本部第四部長のとき、参謀次長だった寺内正毅により旅団長に左遷された。また、英教を予備役にしたとも言われている。

 このようなことから、寺内寿一大将は、東條首相にとっては父英教の仇敵の子供でもあり、長州出身であるから、当然敵視していたといわれる。

 一方、寺内寿一大将も、東條首相を愚物と見て頭から軽視していた。

 だが、当時寺内寿一大将は、閑院、梨本両元帥殿下につぐ陸軍最高の長老で、東條首相も露骨な排斥はできなかった。

 だが、太平洋開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将を南方軍総司令官として、遠く南冥の地に追いやったのである。

 寺内大将はシンガポール、サイゴンから一歩も動けない立場に置かれた。

 後に、インド独立軍のチャンドラ・ボースが、日本と共にインドへ進軍するために、日本軍の数と装備について、寺内大将のところへ調査に来たことがあった。

 ところが、そのあまりの兵力の乏しさ、装備のあまりの劣悪さに、チャンドラ・ボースは驚愕して顔色を変えて嘆いた。寺内大将はそのとき、次の様に言って笑ったと言われている。

 「フィリピンのラウレル大統領にしろ、君にしろ、あの東條のような大馬鹿者の言うことを聞くから、大きな間違いをするのだ」

 とにかく南方軍総司令官・寺内元帥(昭和十八年六月元帥に昇進)と東條首相との間柄は極めて不良だった。

 「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)によると、東條首相が南方視察のとき、陸軍の最長老である寺内元帥に対して不遜の振る舞いがあり、これが不和の原因であると伝えられていた。

 また、東條参謀総長が、奉勅命令により南方軍司令部の位置をマニラに指定したことが、この不和に輪をかけた。

 当時、戦略上は、司令部の位置はマニラに釘付けにする必要はなく、マニラには戦闘司令所を移せば事足りたのである。これで寺内元帥は激怒したと言われている。

 西尾寿造(としぞう)大将(陸士一四次席・陸大二二次席)は、参謀次長、教育総監を歴任し、昭和十六年には支那派遣軍総司令官として凱旋した当時高名な軍人だった。

 だが、西尾大将は、その歯に衣を着せず、ズバズバと物を言う性格から、東條のやり方には常に厳しい批判を行っていた人物で、東條にとっては目の上のたんこぶであった。

 昭和十六年三月一日に西尾大将は軍事参議官に就任した。その後、昭和十八年四月頃、西尾大将は関西を視察した。そのとき、記者団の質問に答えて、次の様に言った。

 「俺は何も話すことはないよ。話が聞きたかったら、あの男に聞いたらどうだ。よく関西に出て来ては、ステッキの先でゴミ箱をあさるような男がいるだろう、あいつに聞いたらいいじゃないか」

 当時、各新聞の記者が、東條首相の朝の散歩についてまわっては「首相電撃的視察」などの提灯記事を書きたてたことに対し、西尾大将は痛烈な皮肉を見舞ったのだった。

 これが、憲兵隊を通して東條首相の耳に入った。一ヵ月後、西尾大将の前に陸軍次官・富永恭次中将(陸士二五・陸大三五)が現れた。

 富永中将は、突然予想もしなかった「待命」の内命を西尾大将にもたらした。その翌日、西尾大将は予備役編入の辞令を受け取った。

 西尾大将は当時、元帥の最有力候補だっただけに、予備役編入の知らせを聞いた国民は驚いた。だが、西尾大将はその後、昭和十九年七月二十五日、東京都長官に就任した。

185.東條英機陸軍大将(5) 石原閣下がお前の友達? 二等兵のお前の?

2009年10月09日 | 東條英機陸軍大将
 毛呂清輝は突然召集令状を受け、二等兵として京都の第十六師団に入隊させられた。当時、毛呂は三十歳だったが、二等兵として班長ら上官から、徹底的にしごかれる運命にあった。

 だが、毛呂は、あることを思いついた。それは石原莞爾が京都師団の前師団長ということだった。毛呂は石原と会ったことがあった。当時、石原は東條により予備役にされていた。

 毛呂は、その石原に度々手紙を出した。石原は手紙を読んで、毛呂が召集されたと聞いて驚いたが、すばやく毛呂の意のあるところを察して、月に三、四回のわりで、毛呂をまるで友人扱いにした毛筆の手紙を毛呂に出した。

 すでに現役をひいたとはいえ、前師団長でもあり、高名な石原莞爾中将から、営内の二等兵にさかんに手紙が来る。驚いたのは中隊長をはじめ隊の幹部だった。

 不思議に思った中隊長は班長を呼んで調べさせた。班長は毛呂を呼んで「毛呂、お前は石原閣下とどういう関係か」「はい、石原閣下は、私の友人であります」。

 班長はもう一度聞きなおした。「石原閣下がお前の友達? 二等兵のお前の?」

 班長は、すっかり仰天してしまった。以来、班長や幹部の毛呂に対する態度は一変した。二等兵などは目にしたこともない、ご馳走を山盛り、班長が食べさせてくれた。

 石原中将は、東條とは、最後まで喧嘩したが、兵隊はいつも可愛がっていた。その石原からの手紙は、絶大な威力を発揮したのである。

 昭和十七年二月十五日、山下奉文陸軍中将(陸士一八・陸大二八恩賜)は第二十五軍司令官としてマレー作戦を指揮し、シンガポールを陥落させた。

 「東条英機暗殺計画」(森川哲郎・徳間書店)によると、その戦勝の功績がある輝く猛将、山下中将は昭和十七年七月一日付で北満州の第一方面軍司令官に飛ばされた。

 山下中将は、南方から北満に赴任する途中、当然、東京に立ち寄り、天皇に対してシンガポール攻略の報告をしたかった。そのため、御進講の用意までしていた。

 だが、東條首相はそれも許さず、任地への直行を命令した。山下は南方軍総司令官・寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一)と、中央へも交渉したが、すでに決定した方針を盾にして中央はそれを拒否した。

 山下中将は、再びフィリピンの第十四軍司令官に任命される昭和十九年九月二十六日まで、一歩も内地に足を踏み入れることを許されなかった。

 昭和天皇が山下中将の拝謁を好まなかった(二・二六事件に関与したため)とされているが、東條首相の指示であったとも言われている。

 以前、シンガポールから山下中将は東京の親しい友人に手紙を書いた。その文中に少し東條批判を書いていた。それは些細なものだった。

 だが、この手紙が、どういうわけか、東條首相の手に渡っていた。東條はこのことから山下中将にますます不快感を抱くようになった。東條の狭量さがそうさせた。

 もともと東條は山下に脅威を感じていた。陸士も陸大も東條の一期後輩だが、山下は青年将校に人気があり、さらに多数の幕僚からも支持を受けており、将来は陸軍大臣の椅子に座っても当然の人物だった。

 だが、「山下は自分になびく男ではない」と東條は思っていた。山下は対米戦争反対論者だった。性格的にも山下中将は細事にとらわれない、豪放な男で、東條とは相容れないものがあった。山下は東條の出世上のライバルであった。

 そこで、昭和十五年七月二十二日に東條が第二次近衛内閣の陸軍大臣に就任すると、中央の航空総監であった山下中将をその年の十二月に、ドイツ派遣航空視察団長としてヨーロッパに追い出した。

 山下がヨーロッパに行っている間に、東條は全陸軍に手を伸ばし、掌握して地盤を固めた。

 さらに、山下中将が、ドイツから帰国すると、またもや、東條は山下中将を、マレー方面最高指揮官の任につかせ、開戦と同時に難攻不落といわれた、困難なシンガポール要塞攻略作戦を担当させた。

 だが、マレー作戦は大成功で、シンガポールも短期間で陥落した。こうなると山下中将の名前は、世界にとどろき、日本では三歳の童子も山下を知るに至った。

 こうして山下中将の人気は熱狂的なものになった。するとたちまち台頭したのが「山下内閣」の構想である。前線にも、東京にも、この噂は広がった。

 東條首相は、このような山下中将を極度に恐れていた。だから、東京に帰しては危ういと見て、北満に追いやったのである。山下中将はこのときつぶやいたという。「物取り強盗ではあるまいし、おれを昼間歩かしてはくれぬ」

184.東條英機陸軍大将(4)東條の失敗を期待して「それみたことか」と待ちかまえていた

2009年10月02日 | 東條英機陸軍大将
 昭和十六年十月十七日の夕刻、東條英機に首相の大命が降下した。丸別冊「日本陸軍の栄光と最後」(潮書房)の中の「人間東條英機」(亀井宏)によると、当時、すでに誰が首相の座にすわっても戦争をくいとめることは不可能に近い状態になっていた。

 翌日の十月十八日、閣員名簿を奉呈、午後四時親任式を終え、東條内閣は成立した。東條はこのとき五十八歳。陸軍中将であったが、組閣と同時に大将に昇進、とくに現役に列せられて陸相ならびに内相を兼任した。

 しかし、首相の座は東條自身が望んだものではなかった。宮中に呼ばれて、実際に大命の降下があるまで、全く予想もしていなかったらしく、あまりの意外さに東條は退出後も半ば茫然自失、顔面蒼白となっていたと、佐藤賢了ら当時の側近が語っていた。

 東條の首相を奏請したのは、皇族内閣に反対した木戸幸一内務大臣だった。その理由は、対米戦に強硬な陸軍を押さえられるのは東條しかいないと思ったのである。また、東條の天皇に対する忠誠心もその理由の一つだった。

 だが、東條内閣は、誰からも心底祝福されて成立したのではない。嫌っていたのは近衛文麿だけではなかった。たとえば、宇垣一成の「宇垣日記」には、東條の失敗を期待して「それみたことか」と待ちかまえていた連中が、同じ陸軍の上層部に多くいたことが分かる。

 当時「忠臣東條」は有名であった。しばしば内奏をし、閣議や統帥部の会議等を宮中で執り行った。そして、上奏の帰り車中で秘書官らに「今日もお上にやりこめられちゃった」などと言い、「私たちはいくら努力しても人格にとどまるが、お上はご生来神格でいられる」と述懐したという。

 木戸内府の思惑通り、事実、東條首相は対米交渉に望みをつないでいた。それは陸相時代とは違った顔であった。「参謀本部日誌」の中に、「東條の変節漢」などという文章が記録されている。

 昭和十六年十一月一日、内閣と大本営(陸海軍統帥部)との連絡会議において大激論がかわされた。激論は二日午前一時半まで、十七時間にわたって行われた。

 その席上次の様な応酬があった。

 参謀次長・塚田攻中将「統帥部の掛け値なしの要求をいいます。本日この席で『開戦を直ちに決す。戦争発起を十二月初頭とす』の二つを決めてもらいたい。外交はやってもよいが、作戦準備は妨害するな。外交の期日を十一月十三日と限定するよう重ねて要求する」

 外相・東郷重徳「十一月十三日は、あまりにひどい。海軍は先ほど十一月二十日といった」

 首相・東條英機大将「十二月一日にはならぬか。一日でも長く外交をやりたい」

 参謀次長・塚田攻中将「絶対に不可。十一月三十日以上は絶対にいかん。いかん」

 海相・嶋田繁太郎大将「塚田君、十一月三十日は何時までだ。夜十二時まではいいだろう」

 参謀次長・塚田攻中将「夜十二時まではよろしい」

 以上のようなやりとりが行われた。総理大臣が参謀次長に叱責され、大臣が伺いを立てている。当時、いかに統帥権というものの力が強かったかが分かる。

 十一月二日午後五時、杉山、永野陸海軍両統帥部長と列立した東條英機首相は、涙を流しながら、連絡会議における討議の経過および結論を天皇に上奏した。

 このとき、永野修身軍令部総長は、天皇から「海軍はこの戦争を通じての損害をどのくらいと見積もっているのか」と、問われて、

 「戦艦一隻、重巡洋艦二隻、軽巡洋艦四隻、飛行機千八百機ぐらいかと考えます」などと答えている。

 それにしても、その物的損害見込みの過小さには驚かされる。彼らが当初、いかに対米戦を小規模に考えていたか分かる。

 東亜連盟協会は反東條の旗を高く掲げた思想団体だった。石原莞爾中将が唱える東亜連盟論にもとづいて、木村武雄代議士らが中心になって結成した団体だった。

 また、東亜連盟協会と同じく、皇道翼賛青年連盟も、東條首相の独裁と戦争指導に対して反旗を翻していた。その中心人物は毛呂清輝であり、東條打倒工作を進めていた。

 ところが毛呂たちは、突然憲兵隊に検挙された。だが、証拠がなく、彼らは釈放された。ところが東條首相は彼らを、そのままにはしておかなかった。