山口少将は「宇垣、お前は一体どうなんだ」と聞きたかったが、抑えた。人の噂では、連合艦隊司令部では参謀たちが山本長官と直結していて、宇垣参謀長は浮き上がっているということを言う者もいたからだ。宇垣の話し方も明らかに参謀たちに対して不満気であった。
この日、宇垣少将は日記「戦藻録」に「十二月三十一日、水曜日、曇り。十一時半頃、山口第二航空戦隊司令官打ち合わせのため来艦、大いに元気なる顔を見る。誠に嬉し」と記している。さらに後日次の様に書いている。
「山口第二航空艦隊司令官は常に機動部隊として活躍したが、第一航空艦隊の思想に飽き足らず、作戦実施中もしばしば意見具申をした事実がある」
「計画以外に妙機をとらえて戦果の拡大を図り、変化に即応することが皆無だと余らに三回、語った。彼の言うことは、おおむね至当で余と考えを一にしており、今後も大いに意見を具申すべきだと告げた」
「艦隊司令部は誰が握っているのだと聞くと、『長官は一言も言わぬ。参謀長、先任参謀、どちらは、どちらか知らぬが、億劫者ぞろいだ』と答えた。今後、千変万化の海洋作戦で、はたしてその任に堪えられるや否やと、余らは深く心憂した」
「南雲長官では駄目だ」と山口少将と宇垣少将の意見は一致した。だが、山本司令長官は南雲長官を代えることはなかった。
新たな作戦が発動された。南雲機動部隊は二つに分かれ、「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」で第一航空艦隊を編成、フィリピン、蘭印、ニューギニア方面の敵に向かう。
山口少将の第二航空戦隊は、各基地から来た飛行機を収容し、南方に運び、陸軍の上陸作戦の支援を目的として二月に入ってから南雲機動部隊とパラオで合流するというものだった。
山口少将の第二航空戦隊、旗艦「蒼龍」、「飛龍」は昭和十七年一月十七日にパラオ港に入った。二十一日に出港、ミンダナオ島のダバオに向かいアンボンの港湾施設を爆撃、一月末にパラオに戻った。
やがて南雲機動部隊が入港し、オーストラリア北部最大の軍港、ポートダーウィンへの攻撃が決まった。そこへ、空母「翔鶴」と「瑞鶴」の帰国を求める電報が入り、二月上旬内地に帰った。米機動部隊の襲来に備えての待機ということだった。
山口少将は疑問を感じ、「それなら機動部隊を上げて米機動部隊にぶつかるべきだ」と第一航空艦隊の参謀たちに言った。
だが、参謀たちは「それは山本さんが決めたことですから」と反応はなかった。
二月十九日、ポートダーウィンへの攻撃が開始された。淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)率いる八〇〇キロ爆弾を抱いた艦攻八一機、「蒼龍」飛行隊長・江草隆繁少佐(海兵五八)率いる二五〇キロ爆弾を抱いた艦爆七一機、「赤城」飛行隊長・板谷茂少佐(海兵五七首席)率いる制空隊が出撃した。
海軍兵学校を首席で卒業した板谷茂少佐は後に昭和十九年七月二十四日、アリューシャン列島の千島上空を九六式陸上攻撃機で移動中、味方陸軍記の誤射で撃墜され惜しくも戦死した。
ちなみに板谷茂少佐の弟、板谷隆一少佐(海兵六〇恩賜)は生き残り、戦後海上自衛隊に入隊、海将に昇進し第七代海上幕僚長、第五代統合幕僚会議議長を歴任している。
ポートダーウィンへの攻撃については、当初雷撃の話もあったが、山口少将は「さほどの軍港でもあるまいし貨物船を雷撃して何になる。雷撃は敵艦隊と決まっておるではないか」と憮然とした顔で反対した。
山口少将は一機たりとも犠牲は出したくないと思っていた。攻撃の戦果は、駆逐艦、商船合わせて数隻の撃沈と十機たらずの敵戦闘機の撃墜だった。
こちらは二機を失った。山口少将は割に合わない感じだったが、オーストラリアに日本強しと思わせる上では効果があった。
次はジャワ沖掃討作戦だった。南雲機動部隊は敵を求めて進撃したが、駆逐艦一隻と商船を沈めただけで、さほどの戦果はなかった。
飛行隊総指揮官の淵田美津雄中佐は急先鋒で、「山口さん、どこか、おかしいよ。こんなところで、椰子酒を飲んでいるうちに、太平洋艦隊は刻々迫ってくるんだ。我々の敵はオーストラリアではないですよ」と毒舌を吐いた。
この日、宇垣少将は日記「戦藻録」に「十二月三十一日、水曜日、曇り。十一時半頃、山口第二航空戦隊司令官打ち合わせのため来艦、大いに元気なる顔を見る。誠に嬉し」と記している。さらに後日次の様に書いている。
「山口第二航空艦隊司令官は常に機動部隊として活躍したが、第一航空艦隊の思想に飽き足らず、作戦実施中もしばしば意見具申をした事実がある」
「計画以外に妙機をとらえて戦果の拡大を図り、変化に即応することが皆無だと余らに三回、語った。彼の言うことは、おおむね至当で余と考えを一にしており、今後も大いに意見を具申すべきだと告げた」
「艦隊司令部は誰が握っているのだと聞くと、『長官は一言も言わぬ。参謀長、先任参謀、どちらは、どちらか知らぬが、億劫者ぞろいだ』と答えた。今後、千変万化の海洋作戦で、はたしてその任に堪えられるや否やと、余らは深く心憂した」
「南雲長官では駄目だ」と山口少将と宇垣少将の意見は一致した。だが、山本司令長官は南雲長官を代えることはなかった。
新たな作戦が発動された。南雲機動部隊は二つに分かれ、「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」で第一航空艦隊を編成、フィリピン、蘭印、ニューギニア方面の敵に向かう。
山口少将の第二航空戦隊は、各基地から来た飛行機を収容し、南方に運び、陸軍の上陸作戦の支援を目的として二月に入ってから南雲機動部隊とパラオで合流するというものだった。
山口少将の第二航空戦隊、旗艦「蒼龍」、「飛龍」は昭和十七年一月十七日にパラオ港に入った。二十一日に出港、ミンダナオ島のダバオに向かいアンボンの港湾施設を爆撃、一月末にパラオに戻った。
やがて南雲機動部隊が入港し、オーストラリア北部最大の軍港、ポートダーウィンへの攻撃が決まった。そこへ、空母「翔鶴」と「瑞鶴」の帰国を求める電報が入り、二月上旬内地に帰った。米機動部隊の襲来に備えての待機ということだった。
山口少将は疑問を感じ、「それなら機動部隊を上げて米機動部隊にぶつかるべきだ」と第一航空艦隊の参謀たちに言った。
だが、参謀たちは「それは山本さんが決めたことですから」と反応はなかった。
二月十九日、ポートダーウィンへの攻撃が開始された。淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)率いる八〇〇キロ爆弾を抱いた艦攻八一機、「蒼龍」飛行隊長・江草隆繁少佐(海兵五八)率いる二五〇キロ爆弾を抱いた艦爆七一機、「赤城」飛行隊長・板谷茂少佐(海兵五七首席)率いる制空隊が出撃した。
海軍兵学校を首席で卒業した板谷茂少佐は後に昭和十九年七月二十四日、アリューシャン列島の千島上空を九六式陸上攻撃機で移動中、味方陸軍記の誤射で撃墜され惜しくも戦死した。
ちなみに板谷茂少佐の弟、板谷隆一少佐(海兵六〇恩賜)は生き残り、戦後海上自衛隊に入隊、海将に昇進し第七代海上幕僚長、第五代統合幕僚会議議長を歴任している。
ポートダーウィンへの攻撃については、当初雷撃の話もあったが、山口少将は「さほどの軍港でもあるまいし貨物船を雷撃して何になる。雷撃は敵艦隊と決まっておるではないか」と憮然とした顔で反対した。
山口少将は一機たりとも犠牲は出したくないと思っていた。攻撃の戦果は、駆逐艦、商船合わせて数隻の撃沈と十機たらずの敵戦闘機の撃墜だった。
こちらは二機を失った。山口少将は割に合わない感じだったが、オーストラリアに日本強しと思わせる上では効果があった。
次はジャワ沖掃討作戦だった。南雲機動部隊は敵を求めて進撃したが、駆逐艦一隻と商船を沈めただけで、さほどの戦果はなかった。
飛行隊総指揮官の淵田美津雄中佐は急先鋒で、「山口さん、どこか、おかしいよ。こんなところで、椰子酒を飲んでいるうちに、太平洋艦隊は刻々迫ってくるんだ。我々の敵はオーストラリアではないですよ」と毒舌を吐いた。