陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

553.源田実海軍大佐(13)戦艦、高速戦艦等の現有主力艦はスクラップするか、繫留して桟橋の代用とすべし

2016年10月28日 | 源田実海軍大佐
 戦艦の大口径の大砲は、敵の戦艦や巡洋艦、駆逐艦などの艦艇に対しては一激必殺の威力を発揮する。また、防御力も大きいので海戦には絶対的に有利である。

 だが、対象が飛行機や潜水艦など、全然質を異にした戦力を有するものには当てはまらない。大口径の大砲は飛行機や潜水艦には、極めて効率の悪い、非経済的な兵器である。

 例えば、日本海軍が、飛行機と潜水艦のみで海軍戦略を構成した場合、日本海軍の頭痛の種である、米海軍の主力艦十五隻は、一体何を目標にして行動するのか。

 攻撃すべき目標はなくなるではないか。攻撃すべき目標がないということは、日本の戦艦の代わりに、日本軍の飛行機や潜水艦が待ち構えているだけということになる。つまり、これらの戦艦はただ、日本海軍の飛行機や潜水艦に攻撃されるため存在するということにならないだろうか。

 源田実大尉の決心を左右したものは、大西瀧治郎大佐の「高効率の軍備」という思想だった。そこで、源田大尉は、海軍大学校の「対米作戦遂行上、最良と思われる海軍軍備の方式に関して論述せよ」という趣旨の対策課題に対して、次の様な趣旨の論文を提出した。

 「海軍軍備の核心を基地航空部隊と母艦航空部隊に置き、潜水艦部隊をしてこれを支援せしむる構想により、海軍軍備を再編成し、これ等部隊の戦力発揮に必要な駆逐艦、巡洋艦等の補助艦艇は、必要の最小限度保有するも、戦艦、高速戦艦等の現有主力艦はスクラップするか、繫留して桟橋の代用とすべし」。

 作業課題の研究会が行われた。源田大尉の予期した通りの波瀾が巻き起こった。他の学生の論文は、いずれも海軍の兵術常識に基づいたものであるから問題はなかった。

 源田大尉の論文は、海軍の主流であった砲術、水雷に対し、正面から挑戦するものであったから、その反撃も極めて激しいものだった。

 源田大尉の友軍たる航空陣営においても反対があり、「源田君、この案は一体何年後を目標としているのですか。五十年後ですか、百年後ですか」という者もいた。

 また、「源田少佐(昭和十一年十一月進級)は、頭が少し変になったのではないか」と発言する者さえ出た。

 だが、実際は、学生が実施する図上演習や兵棋演習において、航空部隊の上げる戦果は偉大なものだった。

 源田少佐は「図上演習や兵棋演習の審判標準は、戦技の成績を基礎として作製されたものであり、信用してしかるべきものである」「机上の演習の成果を全然度外視するならば、何を好んで毎日毎日机上演習訓練をやるのであるか」等々の議論をもって孤軍奮闘をした。

 反航空論者の中に、「航空撃滅戦は相殺に終る」というのがあった。航空機は確かに偉大なる威力を持っているが、多くの演習の結果は、彼我航空部隊は互いに攻撃しあって、両者共に斃れるのが通例である。

 従って、最後の決戦は、残存した水上部隊によって闘われることになるという論旨である。これは海軍大学校の学生間のみならず、軍令部や、艦隊の首脳においてもこの考えを抱く者が少なくなかった。

 ある日、重要な演習において、日米両軍の航空部隊はお互いに相殺して全滅し、残った水上部隊の決戦では、数が物を言って、日本軍が破れたことがあった。

 その研究会の席上で、見学者として参加していた大西大佐が、次の様な質問を投げかけた。

 「なるほど、航空部隊は日米相殺した。しかし、仮に、日本がこの演習に使用した航空兵力の倍の兵力を準備していたならば、結果はどうなったと諸官は思われるか」。

 これに対して明快なる回答を与えた人はいなかった。

 「太平洋戦争秘録・壮烈!日本海軍指揮官列伝」(宝島社・二〇〇七年六月)によると、源田実少佐は、第一航空艦隊参謀時代、「世界の三大バカとは、万里の長城と、ピラミッドと、戦艦大和だ。大和を溶かして、飛行機に作り直すべきである」と言ったそうである。

 昭和十年末、大西大佐の勧めで、源田実大尉が海軍大学校に入学した後、代わって横須賀航空隊の戦闘機第四分隊長に着任したのが、柴田武雄大尉だった。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、昭和十一年春、横須賀航空隊の宴会が、横須賀市内の料亭「魚勝」で行われた。元気者ぞろいの士官たちは、酔うほどに賑やかな酒席となった。

 中には、副長兼教頭・大西瀧治郎大佐に食ってかかる勇ましい者や、この機会に自分を認めてもらおうとゴマをする者もいた。







552.源田実海軍大佐(12)柴田武雄は、その過ちを認めない源田実の不誠実を非難した

2016年10月21日 | 源田実海軍大佐
 「源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、昭和十二年八月十五日から、九六式陸攻の渡洋爆撃が開始されたが、中国側の戦闘機に攻撃されて、強いはずの九六式陸攻が次々と撃墜された。

 それで、さすがの大西大佐と源田大尉は、冷水を浴びせられたようになり、「戦闘機無用論」を口にしなくなった。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、「戦闘機無用論」を唱えた源田実は、この重大な過ちをどうとらえ、反省しているのか。源田実は自著「海軍航空隊、発進」の中で、次のように記している。

 「日支事変勃発前においては、中攻(九六式陸上攻撃機)の出現と共に戦闘機無用論まで一部に出ていたのであるが、実戦の結果は、この見解が完全に誤りであることが立証せられた」

 「開戦初頭の大きな損害は、悪天候に基づく低空爆撃に原因するものと考えられた。その後天候が回復して中高度ないしは高高度爆撃が実施せられるに至って、地上砲火による被害は激減したが、戦闘機による被害は、開戦当初ほどではなかったが、相変わらず高率をもって続いた」。

 この源田の釈明について、「鷹が征く」の著者の碇義朗は、「まるで戦闘機無用論は他の誰かが言ったかのような表現であり、それも“一部にあった“どころか、戦闘機の数と要員の数まで減らすという海軍軍備の根幹にかかわる決定が実施に至っているのだ」と批判している。

 また、戦後になっても、この事実を知る柴田武雄は、その過ちを認めない源田実の不誠実を非難したのである。

 昭和十年頃、源田実大尉は海軍大学校も受験するつもりはなかった。戦闘機操縦者として、大成するため、海軍大学校など入りたいとは思わなかったのだ。

 海軍大学校の入学試験は年に一回行われ、大尉になると受験資格ができる。だから、五年間大尉をやれば五回受験することが出来るが、少佐になると、最初の一年目しか受験できなかった。

 昭和五年十二月に大尉になった源田大尉は、すでに大尉五年目だったが、それまでに一回も海軍大学校を受験したことは無かった。受けようという気がなかったのである。

 ある日、横須賀航空隊副長・大西瀧治郎大佐は、分隊長・源田実大尉を呼んで、海軍大学校に入るよう説得した。

 大西大佐自身は海軍大学校出身ではなかった。海軍大尉の時、海軍大学校の学科試験は合格・通過していたが、数日前に芸者を殴ったことにより、素行不良で次の口頭試問は受験不可とされ受験できなかったのだ。

 大西大佐は源田大尉に次のように言った。

 「源田、貴様がよく研究会等で文句をつけるように、海軍の航空政策に修正しなければならないことは、沢山あるだろう」

 「これを修正しなければ、航空は進歩しないのだ。しかし、貴様の言うように、戦闘機だけに乗っていたのでは、航空政策の指導などはできないのだ」

 「真に高効率の軍備を作り上げてもらいたいことだ。それには、馬鹿らしいようでも、一応海軍大学校に入り、将来しかるべきポストに就けるような基盤を作って置かなければならないのだ」。

 源田大尉の尊敬する大戦略家である大西大佐の、言葉に、源田大尉は、納得して、海軍大学校を受験することにした。

 海軍大学校の試験に合格した源田実大尉は、昭和十年十月三十一日、海軍大学校(甲種学生三五期)として入学した。三十一歳だった。

 入学して半年後の昭和十一年四月頃、戦略教官から「対米作戦遂行上、最良と思われる海軍軍備の方式に関して論述せよ」という趣旨の対策課題が学生に出された。

 この対策課題を考えているうちに、源田大尉は当時の海軍軍備に対する重大なる疑問が心の中で頭をもたげて来た。源田大尉は次のように考えた。

 日本海軍は、戦艦中心主義が海軍戦略戦術思想の骨幹をなしていた。いわゆる大鑑巨砲主義である。この思想は、日清戦争、米西戦争などの海戦から逐次頭角を現し、日露戦争や第一次世界大戦の諸海戦を通じて、不動の海軍戦略思想となっていた。

 大艦巨砲主義は、敵の艦船を撃沈して敵の戦力を消滅させるという、水上艦艇のみを対象にした戦闘では、絶対防御力の小さい艦艇を多数造るより、絶対防御力の大きい戦艦を造った方が有利であるという思想である。


551.源田実海軍大佐(11)源田が、『柴田の言うことは全部間違っている』と言いまわっていた

2016年10月14日 | 源田実海軍大佐
 日本海軍において、「戦闘機無用論」が唱えられたのは、昭和八年から十二年頃までである。

 それに先立ち、昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の結果、山本五十六少将は、飛行機により攻撃力を補おうと考え、攻撃機の増強に努めた。

 昭和十年当時、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊長・源田実大尉は、同航空隊副長・大西瀧治郎大佐と意を通じ、「戦闘機無用論」を強く主張していた。

 また、昭和十一年十一月横須賀航空隊教官に就任した三和義勇(みわ・よしたけ)少佐(岐阜・海兵四八・三十一番・海大三一・次席・空母「加賀」飛行長・横須賀航空隊飛行長・霞ヶ浦航空隊副長・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・自決・少将)は「戦闘機無用論」に最も影響を与えた。

 「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、横須賀航空隊教官・三和少佐は、高等科学生に対し、「戦闘機は、攻撃機が攻撃実施前に阻止できないことは実証されている。航空母艦には戦闘機の代わりに艦爆や艦攻を多く積んで攻撃力を増すべし」と力説した。

 これに対して、「戦闘機無用論」を切り崩そうと機会を狙っていた、柴田武雄大尉は次のように反論して論争を挑んだ。

 「三和教官、私にはなぜ戦闘機を無用とするのか、その根拠がさっぱりわかりませんな。そもそも艦攻や艦爆がその威力を充分に発揮するためには、まず無事に敵艦隊の上空に到達することが先決ではないですか」

 「敵は必ず直衛戦闘機を上げて待ち構えているでしょう。これを突き破るには、こちらも優勢な戦闘機の援護をつけてやらなければならない。さらに、来襲する敵の艦攻や艦爆などから空母を守るためにも、多数の戦闘機が必要です」

 「しかも残念なことに、我が海軍の空母の防御力はアメリカ空母に比べて弱いから、この欠点を補うためにも、直衛戦闘機の数を増やさなければならず、空母自体の防御力の強化と共に、これは急を要する課題だと考えますが、教官のお考えは?」。

 戦術教官の三和少佐は“攻撃”主義者だけに、柴田大尉がしきりに我が弱点や防御を力説するのが気に障ったらしく、不機嫌をあらわにして、次の様に切り替えして来た。

 「何だ、君の話を聞いていると、まるで帝国海軍の艦攻や艦爆は腰抜けで、航空母艦は弱虫だと言わんばかりじゃないか。だから攻撃隊や空母の援護の為に戦闘機を沢山配備せよだと……」

 「冗談じゃないよ。そもそも我が海軍が今日あるのは、“肉を切らせて骨を切る”という肉薄必殺の伝統的な攻撃精神にあるのだ。こちらもやられるかも知れんが、もっと多くの損害を敵に与えればいいのだ。このためには戦闘機など減らして、艦攻や艦爆を一機でも多く増やすべきだ」。

 これに対して柴田大尉は次のように再反論した。

 「いや、問題なのは艦攻や艦爆を何機揃えるではなく、実際に攻撃を実施できるのが何機あるかということではないですか。対空砲火はいざ知らず、敵戦闘機の攻撃に対抗するには、こちらも戦闘機をぶつける以外にないのです」。

 すると三和少佐は、いよいよ不機嫌になって、次の様に言い放った。

 「何を言うか。君はそれでも日本人かね。艦攻や艦爆だって、そうむざむざと敵戦闘機に食われやせん。君は戦闘機の威力を過大評価し過ぎるようだな。それとも臆病風にふかれたのか。どっちにしても、こんな議論はもうかんべん願いたいな」。

 なおも食い下がろうとする柴田大尉に侮蔑の眼差しを向けて、三和少佐は言葉を切った。

 取り付く島もないその冷ややかな態度に、これ以上何を言っても無駄だと悟ったが、柴田大尉の腹はおさまらなかった。

 「戦闘機無用論」について、柴田武雄は戦後、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の中で、次の様に述べて強く反論している。

 「航空母艦の防御力の弱小であること、およびその欠点を補うには防空用の戦闘機を多数必要とされること、ならびに現有する戦艦を活用することに気付かず、一途に戦艦を無用であると断定した傲慢・独善に自己陶酔し、飛行機でも艦船でも爆撃できる、攻防装備のすばらしい有用性を持っている戦闘機のことを、すっかり(善意に解釈すれば、うっかり)忘却していた」。

 「昭和十二年から同十九年まで、源田が、『柴田の言うことは全部間違っている』と言いまわっていたが、私は、昭和十・十一・十二年にわたって、源田が主唱していた『戦闘機無用論』を大いに反駁したり、戦闘機の有用であることを大いに力説した」。

550.源田実海軍大佐(10)柴田大尉は「戦闘機無用論」に反対し、源田大尉と激烈に争った

2016年10月07日 | 源田実海軍大佐
 中央当局の腹案の説明に対し、空技廠からは別に異見はなかった。横空の意見を求められた際、大西大佐は、「横空の所見は源田大尉をして述べさせます」と、源田大尉を指定した。源田大尉は次のような意見を述べた。

 「三菱九試単戦が速力や上昇力等、数字で現すことのできる性能について、画期的であることに異存はない。しかし、戦闘機は、上昇力や速力のみによって戦闘するのではない」

 「なるほど、爆撃機や雷撃機を攻撃する場合には、速力、上昇力は最大の要素となるのであるが、対戦闘機戦闘においては必ずしもそうではない。格闘機性能、すなわち旋回性能や微妙な操縦性が重要な要素となるのである」

 「私の考えるところ、単葉機は空戦性能があまりよくない。中島九試単戦はその一例である。三菱戦については実験未済であるが、どうも九五式艦戦の方が優秀なのではないかと思う。従って、今ここで、九五式艦戦を廃止し、三菱戦一本に絞ることは反対である」。

 源田大尉の発言に続いて、大西大佐は次のように述べた。

 「横空の意見は、唯今源田大尉の述べた通りである。中央当局は単に机上の論に頼ることなく、もっと実際に身をもって飛ぶ人の意見を尊重して方針を定められたい」。

 この日の会議は結論を得ることなく、後日に持ち越すことになった。源田大尉ら横空の実験担当者は、その翌日から、三菱九試単戦の空戦実験に取り掛かった。それまでに、射撃や航法、離着陸等の実用実験は終わっていて、いずれも三菱戦の優位を示していた。

 空戦実験の結果は、源田大尉らの予想外のものであった。格闘戦に関する限り、九五式艦戦の優位は動かないと見ていたのであるが、三菱戦と九五式艦戦対決の結果は、問題なく三菱戦に凱歌が挙った。

 先般、陸軍との共同演習で、無類の強さを示した九五式艦戦であったが、三菱九試単戦には敵すべくもなかった。

 約一週間の実験で結論を得たのち、源田大尉らは再び空技廠の会議に臨んだ。劈頭、源田大尉は次のように述べた。

 「先般の会議の席上、私は九五式艦戦が格闘戦に関して優位を持っているであろうと述べたのであるが、その後、実験の結果、三菱九試単戦は、格闘技戦においても射撃性能においても、九五式艦戦に勝っていることが判明した」

 「この飛行機は、私たちが持っている戦闘機の概念を越えたもので、全く画期的な戦闘機である。私は改めて、私の前言を取り消し、不明を謝します」。

 会議終了後、海軍は三菱単戦に“GO AHEAD”(前進)の決定をした。後に九六式艦上戦闘機として日中戦争の当初、大陸の空で縦横の活躍をなし、また有名な零式艦上戦闘機の前身をなしたのは、この三菱九試単戦だった。

 会議が終了した後、横空の士官室に戻り、教頭たる大西大佐の前で、源田大尉は、「私の意見が誤っていたために、教頭はじめ、横空の面目を失墜し、申し訳ありません」と謝った。

 すると、大西大佐は、源田大尉に向かって、次の様に話した。

 「源田、お前は何を言っているんだ。我々は、正しいことを、正しく認めることが大切なのだ。何が国家の為になり、何が国家の発展に役立つのか、それを標準としてものを考え、行動を律すべきである」

 「お前が本日の会議で言ったことは、あれで良いのだ。横空の面目など問題ではない。そんな面目などに、こだわる奴が、うようよしているから、航空の進歩が思うように運ばないのだ。我々は、国家の為に有利となれば、無節操、無定見と罵られようと、毫も意に介すべきでない」。

 源田大尉は、大西大佐の、この言葉ほど、胸を打ったものはなかった。「この人は全く底の知れない人だ」とも思った。大西大佐は、源田大尉の兵術思想、人生観に大きな影響を与えた。

 昭和十年十一月から十一年十一月まで、柴田武雄大尉は、横須賀海軍航空隊戦闘機分隊長だった。柴田大尉は「戦闘機無用論」に反対し、源田大尉と激烈に争った。

 「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)によると、「戦闘機無用論」を主唱したのは、戦闘機パイロットであった源田実と小園安名(鹿児島・海兵五一・第一二航空隊飛行隊長・空母「鳳翔」飛行長・中佐・台南航空隊副長兼飛行長・第二五一航空隊副長兼飛行長・第二五一航空隊司令・第三〇二海軍航空隊司令・兼横須賀鎮守府参謀・大佐・兼第三艦隊参謀・終戦・厚木航空隊事件・軍法会議で無期禁錮刑・赦免)であると記している。