戦艦の大口径の大砲は、敵の戦艦や巡洋艦、駆逐艦などの艦艇に対しては一激必殺の威力を発揮する。また、防御力も大きいので海戦には絶対的に有利である。
だが、対象が飛行機や潜水艦など、全然質を異にした戦力を有するものには当てはまらない。大口径の大砲は飛行機や潜水艦には、極めて効率の悪い、非経済的な兵器である。
例えば、日本海軍が、飛行機と潜水艦のみで海軍戦略を構成した場合、日本海軍の頭痛の種である、米海軍の主力艦十五隻は、一体何を目標にして行動するのか。
攻撃すべき目標はなくなるではないか。攻撃すべき目標がないということは、日本の戦艦の代わりに、日本軍の飛行機や潜水艦が待ち構えているだけということになる。つまり、これらの戦艦はただ、日本海軍の飛行機や潜水艦に攻撃されるため存在するということにならないだろうか。
源田実大尉の決心を左右したものは、大西瀧治郎大佐の「高効率の軍備」という思想だった。そこで、源田大尉は、海軍大学校の「対米作戦遂行上、最良と思われる海軍軍備の方式に関して論述せよ」という趣旨の対策課題に対して、次の様な趣旨の論文を提出した。
「海軍軍備の核心を基地航空部隊と母艦航空部隊に置き、潜水艦部隊をしてこれを支援せしむる構想により、海軍軍備を再編成し、これ等部隊の戦力発揮に必要な駆逐艦、巡洋艦等の補助艦艇は、必要の最小限度保有するも、戦艦、高速戦艦等の現有主力艦はスクラップするか、繫留して桟橋の代用とすべし」。
作業課題の研究会が行われた。源田大尉の予期した通りの波瀾が巻き起こった。他の学生の論文は、いずれも海軍の兵術常識に基づいたものであるから問題はなかった。
源田大尉の論文は、海軍の主流であった砲術、水雷に対し、正面から挑戦するものであったから、その反撃も極めて激しいものだった。
源田大尉の友軍たる航空陣営においても反対があり、「源田君、この案は一体何年後を目標としているのですか。五十年後ですか、百年後ですか」という者もいた。
また、「源田少佐(昭和十一年十一月進級)は、頭が少し変になったのではないか」と発言する者さえ出た。
だが、実際は、学生が実施する図上演習や兵棋演習において、航空部隊の上げる戦果は偉大なものだった。
源田少佐は「図上演習や兵棋演習の審判標準は、戦技の成績を基礎として作製されたものであり、信用してしかるべきものである」「机上の演習の成果を全然度外視するならば、何を好んで毎日毎日机上演習訓練をやるのであるか」等々の議論をもって孤軍奮闘をした。
反航空論者の中に、「航空撃滅戦は相殺に終る」というのがあった。航空機は確かに偉大なる威力を持っているが、多くの演習の結果は、彼我航空部隊は互いに攻撃しあって、両者共に斃れるのが通例である。
従って、最後の決戦は、残存した水上部隊によって闘われることになるという論旨である。これは海軍大学校の学生間のみならず、軍令部や、艦隊の首脳においてもこの考えを抱く者が少なくなかった。
ある日、重要な演習において、日米両軍の航空部隊はお互いに相殺して全滅し、残った水上部隊の決戦では、数が物を言って、日本軍が破れたことがあった。
その研究会の席上で、見学者として参加していた大西大佐が、次の様な質問を投げかけた。
「なるほど、航空部隊は日米相殺した。しかし、仮に、日本がこの演習に使用した航空兵力の倍の兵力を準備していたならば、結果はどうなったと諸官は思われるか」。
これに対して明快なる回答を与えた人はいなかった。
「太平洋戦争秘録・壮烈!日本海軍指揮官列伝」(宝島社・二〇〇七年六月)によると、源田実少佐は、第一航空艦隊参謀時代、「世界の三大バカとは、万里の長城と、ピラミッドと、戦艦大和だ。大和を溶かして、飛行機に作り直すべきである」と言ったそうである。
昭和十年末、大西大佐の勧めで、源田実大尉が海軍大学校に入学した後、代わって横須賀航空隊の戦闘機第四分隊長に着任したのが、柴田武雄大尉だった。
「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、昭和十一年春、横須賀航空隊の宴会が、横須賀市内の料亭「魚勝」で行われた。元気者ぞろいの士官たちは、酔うほどに賑やかな酒席となった。
中には、副長兼教頭・大西瀧治郎大佐に食ってかかる勇ましい者や、この機会に自分を認めてもらおうとゴマをする者もいた。
だが、対象が飛行機や潜水艦など、全然質を異にした戦力を有するものには当てはまらない。大口径の大砲は飛行機や潜水艦には、極めて効率の悪い、非経済的な兵器である。
例えば、日本海軍が、飛行機と潜水艦のみで海軍戦略を構成した場合、日本海軍の頭痛の種である、米海軍の主力艦十五隻は、一体何を目標にして行動するのか。
攻撃すべき目標はなくなるではないか。攻撃すべき目標がないということは、日本の戦艦の代わりに、日本軍の飛行機や潜水艦が待ち構えているだけということになる。つまり、これらの戦艦はただ、日本海軍の飛行機や潜水艦に攻撃されるため存在するということにならないだろうか。
源田実大尉の決心を左右したものは、大西瀧治郎大佐の「高効率の軍備」という思想だった。そこで、源田大尉は、海軍大学校の「対米作戦遂行上、最良と思われる海軍軍備の方式に関して論述せよ」という趣旨の対策課題に対して、次の様な趣旨の論文を提出した。
「海軍軍備の核心を基地航空部隊と母艦航空部隊に置き、潜水艦部隊をしてこれを支援せしむる構想により、海軍軍備を再編成し、これ等部隊の戦力発揮に必要な駆逐艦、巡洋艦等の補助艦艇は、必要の最小限度保有するも、戦艦、高速戦艦等の現有主力艦はスクラップするか、繫留して桟橋の代用とすべし」。
作業課題の研究会が行われた。源田大尉の予期した通りの波瀾が巻き起こった。他の学生の論文は、いずれも海軍の兵術常識に基づいたものであるから問題はなかった。
源田大尉の論文は、海軍の主流であった砲術、水雷に対し、正面から挑戦するものであったから、その反撃も極めて激しいものだった。
源田大尉の友軍たる航空陣営においても反対があり、「源田君、この案は一体何年後を目標としているのですか。五十年後ですか、百年後ですか」という者もいた。
また、「源田少佐(昭和十一年十一月進級)は、頭が少し変になったのではないか」と発言する者さえ出た。
だが、実際は、学生が実施する図上演習や兵棋演習において、航空部隊の上げる戦果は偉大なものだった。
源田少佐は「図上演習や兵棋演習の審判標準は、戦技の成績を基礎として作製されたものであり、信用してしかるべきものである」「机上の演習の成果を全然度外視するならば、何を好んで毎日毎日机上演習訓練をやるのであるか」等々の議論をもって孤軍奮闘をした。
反航空論者の中に、「航空撃滅戦は相殺に終る」というのがあった。航空機は確かに偉大なる威力を持っているが、多くの演習の結果は、彼我航空部隊は互いに攻撃しあって、両者共に斃れるのが通例である。
従って、最後の決戦は、残存した水上部隊によって闘われることになるという論旨である。これは海軍大学校の学生間のみならず、軍令部や、艦隊の首脳においてもこの考えを抱く者が少なくなかった。
ある日、重要な演習において、日米両軍の航空部隊はお互いに相殺して全滅し、残った水上部隊の決戦では、数が物を言って、日本軍が破れたことがあった。
その研究会の席上で、見学者として参加していた大西大佐が、次の様な質問を投げかけた。
「なるほど、航空部隊は日米相殺した。しかし、仮に、日本がこの演習に使用した航空兵力の倍の兵力を準備していたならば、結果はどうなったと諸官は思われるか」。
これに対して明快なる回答を与えた人はいなかった。
「太平洋戦争秘録・壮烈!日本海軍指揮官列伝」(宝島社・二〇〇七年六月)によると、源田実少佐は、第一航空艦隊参謀時代、「世界の三大バカとは、万里の長城と、ピラミッドと、戦艦大和だ。大和を溶かして、飛行機に作り直すべきである」と言ったそうである。
昭和十年末、大西大佐の勧めで、源田実大尉が海軍大学校に入学した後、代わって横須賀航空隊の戦闘機第四分隊長に着任したのが、柴田武雄大尉だった。
「鷹が征く」(碇義朗・光人社)によると、昭和十一年春、横須賀航空隊の宴会が、横須賀市内の料亭「魚勝」で行われた。元気者ぞろいの士官たちは、酔うほどに賑やかな酒席となった。
中には、副長兼教頭・大西瀧治郎大佐に食ってかかる勇ましい者や、この機会に自分を認めてもらおうとゴマをする者もいた。