陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

19.石原莞爾陸軍中将(9) あの豪奢な建物は関東軍司令官という泥棒の親分の住宅だ

2006年07月28日 | 石原莞爾陸軍中将
「甦る戦略家の肖像~石原莞爾」(日本文芸社)によると、昭和12年9月27日、石原は関東軍参謀副長を命じられた。

 関東軍に赴任した石原は、「独立国である満州国政治に関東軍が干渉主権侵害であるから、満人の政治的意思を尊重し、関東軍の内面指導を即時撤廃せよ」と植田謙吉関東軍司令官に意見書を提出した。

 だが参謀長の東條英機はこの石原の意見書に反対した。石原に対する内面指導は強まる一方だった。

「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、満州国の農業政策大綱が決まり、農事合作社が設立される事になり、政府から実業部総務司長・岸信介、五十子巻三ら三人が関東軍司令部へ説明に出向いた。

 東條参謀長、石原副長、片倉課長が応対した。五十子の説明が終わると、石原副長が「よくわかりました。制度としては結構です。ただし、これを実施するについては、全満一斉にやろうとなどと考えないで、最初はそれぞれ事情のちがうところ五、六ヶ所を選んで、試験的にやってみて、実施中に改善すべき所がでてきたら改善するという風でひろげていったらいかがでしょう」と言った。

 五十子がなるほど大変いい注意だと思って感心していると、今度は東條が「五十子君」と呼んで何か言おうとした。

 すると石原はそれを押さえるように「五十子さん、もうこれでいいです。この人は憲兵ですから、合作社のことなんかわからないのです。これで決定しました」と言って席を立った。

 東條も苦笑しながら席を立った。ここまでくれば公然たる侮辱である。東條が苦笑以上の言動に出なかったのは、紳士としての自制心を持っていた。

 だが、その紳士的な態度の裏で、東條は石原の官舎の周辺に憲兵を張り込ませていた。

 これに良く似た話は数限りなくある。あるとき石原が執務していると、東條から用談があるから自分の部屋まで来てくれと、呼び出しが来た。

 石原は使いの者に「こちらは用がないから、行かないと言ってくれ」と言ったそうである。

 東條が陸軍次官に昇進して満州を去ったのは昭和13年5月で、その後、石原が参謀長になると予想されたが、一ヵ月後の6月に磯谷廉介中将が参謀長に決まり赴任してきた。

 これは東條の決めた人事だったと言われている。東條は陸士1期上の磯谷とは親交があった。 結局、石原は東條と同様に磯谷とも思想が合わなかった。

 石原が「中国人の信頼をを勝ち取れば、日支間の不和は春の日を受けた氷のように、解けさるでしょう」と言うと。

 磯谷は「そんな詩のようなことを言ったってしょうがない。国家間の問題は力だよ」と言った。意見がことごとく食い違っていた。

 石原は絶望し何も仕事をしなかったといわれる。というより仕事をさせられなかった。彼は東條など日中戦争を起こした連中に対する批判を公然と口にするようになった。

 例えば、内地から人が尋ねてきたとき、司令官の官舎を指して、「泥棒の親分の住宅を見ろ。あの豪奢な建物は関東軍司令官という泥棒の親分の住宅だ。満州は独立国のはずだ。それを彼らは泥棒した」などとののしったと横山臣平は伝えている

18.石原莞爾陸軍中将(8) 宇垣と石原の大勝負は、石原に軍配が上がった

2006年07月21日 | 石原莞爾陸軍中将
昭和12年1月24日、宇垣一成陸軍大将は天皇から「内閣の組閣を命ず。組閣の自信ありや」との言葉を賜り、しばらくの猶予を願って退下した。だが陸軍部内では、宇垣の首班に反対が大勢であった。

 「陸軍に裏切られた陸軍大将」(芙蓉書房)によると、石原作戦部長代理は参謀本部の部長・課長を除く中・少佐を部長室に集め、宇垣の三月事件の嫌疑と、軍縮を断行した前歴に国防問題をからめ、宇垣の総理就任に反対する大演説を行った。若手幕僚はほとんどこれに同調した。

 また、陸相官邸では、寺内陸相、梅津次官、阿南兵務局長、磯谷軍務局長、石原作戦部長代理、中島憲兵司令官、佐藤賢了政策班長らが集まって、宇垣首班の是非について大評定が始った。

 この席でも石原は、宇垣排斥論を圧倒的に論じた。寺内も梅津もあまりしゃべらずに、聞いていたという。結局一同これに和して宇垣排斥の方針が決まった。

 こうして、宇垣と石原の大勝負は、石原に軍配が上がった。天皇の裁可を受けながら首相になれなかった宇垣は、公表された「宇垣日記」に次のように記している。

 「石原莞爾あたりが急先鋒になって、二・二六事件があって、その裁判がまだ済まぬ前に、陸軍の長老である宇垣が出るというのはけしからぬ、と云うらしいが、これは一寸ロジックに合わない」

 「天子様が出ろと仰ったのに、あそこらで、出ることはいかぬ、と云うのは、おかしなことだ」

 昭和12年7月7日、盧溝橋事件で、日華事変が勃発した。石原の「世界最終戦争論」に反する現実となった日華事変であった。

 当時参謀本部第1部長(作戦)の石原少将は早期終結を望み、近衛首相に不拡大方針を進言、これに同意させた。

 だが、東條英機ら統制派により、石原の不拡大方針は、失敗した。石原は参謀本部第一部長でありながら、孤立無援に陥ったのである。

 「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、戦争に反対する石原は右翼からも狙われ、生命の危険があった。石原は「俺は右翼に金をやらないから、きらわれるよ」とよく言っていた。

 だが、石原は左翼には好意と理解を見せていたと言う。社会主義を嫌う軍人社会で石原が孤立するのは当然の成り行きだったと言える。

 「最後の参謀総長・梅津美治郎」(芙蓉書房)によると、2・26事件後の粛軍時代に参謀本部と陸軍省の実質的協力者として梅津次官と石原作戦課長は協力し合い、宇垣内閣を共同歩調で流産させたところまでは強調的であった。

 やがて林内閣の組閣で対立的立場となり、近衛内閣のとき勃発した日華事変の対処方針で梅津、石原が腹の底から強調できなかったことが、あの事変の悲劇的発展に至った。

 稲田正純氏(後の陸軍中将)によると終戦時の参謀次長で、当時石原の下で戦争指導課長であった河部虎四郎は石原を評して「関東軍あたりをやらせれば立派なものだが、中央で人をまとめて使う事は出来ない人である」と言っていたという。

 ところが梅津は君子で有能な町尻軍務局長と政務に関する権限で論争、対立し、町尻を異動させた。梅津は後任に中村明人を据えたが、これから以後石原の独走態勢になったという。

 梅津次官は石原少将について次のように評価している。

 「満州事変の全責任者は石原である。石原が軍鉄破壊の責任を自覚することなく、却って軍の指導権を掌握しようとの野心があると思われる。満州建国の功罪は別として、それは歴史の審判にまかせるべきであって、現実の問題としては、石原は自発的に軍職を辞すべきではなかろうか」と。

17.石原莞爾陸軍中将(7) あなたのようなバカ大将がおだてるから、部下が勝手な真似を平気でする

2006年07月14日 | 石原莞爾陸軍中将
 「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和11年2月26日に起こった2.26事件時、参謀本部作戦課長の石原は反乱軍兵士の制止を振り切って陸軍省を抜け参謀本部に登庁した。

その後を追ってきた2.26事件を引き起こした決起将校の山本又中尉が石原に追いつくと、石原に対して合掌し「石原大佐殿、御縁があります」と拝んで去って行った。

  実は山本中尉は石原を射殺する役目だったのだが、石原と同じ日蓮宗の山本が初めて石原を見てその堂々とした態度に圧倒され、殺意を失った。石原はここで死ぬはずだったのである。
 
 もう一つ死にかかった話。川島陸軍大臣が決起将校に取り囲まれて要求を突きつけられている部屋に石原大佐が入ってきた。

 すると決起将校の栗原中尉が石原に「大佐殿のお考えと、私共の考えは根本的に違うように思うが、維新に対していかなる考えをお持ちですか」と聞いた。

 石原は「僕はよく分からん。僕のは軍備を充実すれば、昭和維新になるというのだ」と言った。

 栗原中尉はピストルに手をかけたが、磯部が黙っているので、そのままにして殺さなかったという。ここでも石原は死ななかった。
 
 石原が上官に面と向かって「バカ大将」と言い放った有名な事件は2.26事件の時である。

 「バカ大将」と言われたのは当時、決起した青年将校の信望を集めていた教育総監真崎甚三郎大将のことである。
 
 「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和7年、満州事変に輝く花形的存在の石原が関東軍作戦主任から東京の兵器本廠付きに転任になり当時の真崎甚三郎参謀次長に挨拶に行ったときの話がある。

 真崎が「石原君、貴公はえらいそ。君をどこにもっていくかが決まらなくて軍の定期異動が1週間も遅れた。たかが中佐のひとりの人事でこんなに遅れたのは初めてだ。君は大物になるぞ」と握手しようとした。

 しかし石原は「陸軍長官の人事は三長官が決定されるもので、石原の関知するところではありません」と答えたという。

 当時から青年将校を家に呼びご機嫌をとっていた真崎大将を軍の統制から石原は困った人だと思っていた。
 
 2.26事件で、天皇の言葉により「鎮圧」の方針が決まると、2月27日には戒厳令がしかれ、石原は戒厳司令部の参謀に任命された。

 ところが戒厳司令部に真崎大将が頻繁に出入りして、同じ皇道派の香椎浩平中将に圧力をかけていた。

 「名将・愚将・大逆転の太平洋戦史」(講談社)によると、その圧力をかける真崎大将を見て、たまりかねた石原は、満座の中で真崎をつかまえ、「あなたのようなバカ大将がおだてるから、部下が勝手な真似を平気でするようになる」と直言した。

 真崎大将は激怒し「上官に対しバカ大将とは何ごとか。軍紀をなんと心得るか」と石原を叱りつけた。

 石原は平然として、こう答えた。「あなたが軍紀を問題とするならば、単なる上官に対する無礼な発言よりも、それらの人々を殺害した者達を、真っ先に糾弾すべきではないですか」。

 これには真崎も言葉を返せず、無念そうにその場を去っていったという。

16.石原莞爾陸軍中将(6) その子は現在の世界的な指揮者小沢征爾である

2006年07月07日 | 石原莞爾陸軍中将
「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和6年9月18日に柳条溝事件が勃発したが、その一ヵ月後に、満州青年連盟の長春支部長・小沢開作が石原莞爾に質問した。

 勃発時圧倒的な中国軍を目の前に見ながら、長春から兵を引いて、奉天に兵を終結しようとした関東軍のやり方を不審に思ったのだ(実際はそうならなかったのだが)。

 小沢は「長春にいた日本人二万人を見殺しにするつもりだったのですか?」と訊いた。

 「そうです」と石原。

 「軍人はひどい。長春の二万人は死ぬ所だった」

 「小沢さん、あなたは、それでも青年連盟の会員ですか」

 「何ですって?」

 「奉天をやっつければ、奉天の命令で動いている長春の中
国兵は手の出しようがないじゃないですか。首をちょん切られた蛇ですよ」

 「参った。なるほど」

 小沢はかぶとを脱いだと言う。

 満州青年連盟の小沢開作は歯科医だが、石原莞爾を高く認めており関東軍に全面的に協力して多大な功績を残した人物である。

 満州事変から4年後の昭和10年小沢の子供が生まれたが、小沢は子供の名前に、板垣征四郎の「征」と、石原莞爾の「爾」をとって「征爾」と名づけた。その子は現在の世界的な指揮者小沢征爾である。

  「夕陽将軍」(河出書房新社)によると、昭和10年4月23日、満州事変の武勲に輝き、今を時めく石原莞爾大佐の講演会が鶴岡で開かれた。

 その講演会で、石原は「私は今から約五十年前、この鶴岡で生まれました。幼年から軍人たらんと志望しましたが、貧乏士族の悲しさ、学資がなくて困っていたところ、鍛冶町の富樫治右衛門翁の好意にあずかるを得、月々学資の補助を受けて幼年学校に学びましたが、いまだに何の報恩もしないで心苦しく思っている次第です」と言った。

 当時、満州国建国の偉大な貢献者で、日本中の栄光を一身に集めていた超エリート軍人から出たこの言葉に、講演会の聴衆はシーンとして聞き入った。

 この演説から感じられることは、軍人であると同時に、日蓮宗を信奉した石原の思想は、自分の栄達を目指して上を見上げるものではなく、常に下に目を落としていたようだ。下とは、あくまで民衆の幸福の実現に思考の基点を置いたものであったと思われる。