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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

400.真崎甚三郎陸軍大将(20)「真崎は絶対にいかん、真崎大将を死刑にするんだ」

2013年11月22日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 尋問における大谷憲兵大尉と真崎大将の問答は続く。

 大谷憲兵大尉「では聞きましょう。貴方は加藤寛治海軍大将と何か打ち合わせをしましたか」。

 真崎大将「加藤大将とはこの朝、宮中で会ったのが初めてだ」。

 大谷憲兵大尉「貴方は当日午前八時半頃、陸相官邸に入った。そして、しばらくそこにいたが、間もなく官邸を出て、宮城に参入する前に、伏見宮邸に参殿している。これも否認しますか」。

 真崎大将「もちろんだ、行かないものを言ったといえるはずはない」。

 大谷憲兵大尉「貴方は加藤大将に迎えられて同大将の侍立で、宮様に事態収拾についての意見を申し上げている。どんな意見を申し上げたか、ここで述べてもらいます」。

 そう言って、大谷憲兵大尉は加藤大将の調書を次のように読み上げた。

 「私は真崎大将を案内して殿下に伺候させました。私はそこで侍立していましたので、真崎大将が宮様に申し上げた内容については、ほぼ、記憶していますが、同大将は今朝来の事件の概要を申し上げた後、“事ここに至りましては、最早、彼らの志をいかして昭和維新の御断行を仰ぐより外に道はありませぬ。速やかに強力なる内閣を組織し事態の収拾をはかると共に、庶政を一新しなければなりませぬ”と、はっきり申しました」。

 真崎大将は一瞬棒を呑んだように、グッとつまり、今までの激しい反発の力を失い、じっと瞑目していたが、何も言わなかった。そのあと、真崎大将は低い声で力弱く、次のように言った。

 「加藤大将は私の最も信頼する畏友だ。この人が、かように証言している以上、私としてもこれを認めざるを得ない」。

 真崎大将は昭和十一年五月に検挙され、六月十一日、軍法会議は真崎大将を起訴と決定した。

 七月五日、真崎大将は代々木の陸軍衛戍刑務所に収監され、翌年九月二十五日の無罪判決の日まで囹圄(れいぎょ・獄舎)の人となった。

 真崎大将が無罪になったのは、軍の内外において真崎裁判は不当であったのであり、これを無罪にせよという論理が優勢になってきたからだ。

 真崎裁判は政治裁判としての本質が浮き彫りにされていたのだ。政界上層の真崎無罪論、真崎救出運動もあった。

 さらに天皇に対する上奏として、軍中央、軍司法の次のような弁明が行われた。

 「大御心を体し、叛乱者の頃幕として、真崎をこのように慎重に慎重を重ねて審理してまいりましたが、これ以上の追求は無理であり、かえって国軍の基礎をあやうくするものありと認めまするが故に、このあたりで終止符を打ちたいと存じます」。

 二・二六事件後の広田内閣の陸軍大臣になった寺内寿一大将(てらうち・ひさいち・山口・陸士一一・陸大二一・伯爵・朝鮮軍参謀長・中将・第五師団長・台湾軍司令官・大将・陸軍大臣・教育総監・北支那方面軍司令官・勲一等旭日大綬章・南方軍総司令官・元帥・マレーシアで拘留中に病死)は「真崎は絶対にいかん、真崎大将を死刑にするんだ」と言っていた。

 寺内大将は二・二六事件のとき参内して、天皇陛下に、「この事件の黒幕は真崎大将です」と上奏していたので、何としても真崎大将を有罪にするか、官位を拝辞させねばならぬ羽目に陥ったのだった。

 陸軍大臣・寺内大将は真崎裁判の裁判長に磯村年大将(いそむら・とし・滋賀・陸士四・陸大一四・野戦砲兵射撃学校長・浦塩派遣軍参謀長・中将・第一二師団長・東京警備府司令官・大将・予備役・東京陸軍軍法会議判事長)を任命した。

 磯村大将に寺内大将が「何でもかまわぬから、真崎を有罪にしろ」と言ったが、寺内大将より先輩の磯村大将は「そんな、調べもせんで有罪にしろというような裁判長なら引き受けられん」といって、公正な裁判を行った。後に「真崎には一点の疑うべき余地もなかった」と語っていた。このような状況によって真崎大将は無罪判決となった。

 真崎大将は戦後A級戦犯として巣鴨モプリズンに入所させられたが、不起訴処分となり軍人では一番先に釈放された。

 巣鴨モプリズンに収監中の昭和二十年十二月二十三日の真崎大将の日記には次のように記されていたという。

 「今日は皇太子殿下の誕生日である。将来の天長節である。万歳を祈ると共に、殿下が大王学を修められ、父君陛下の如く奸臣に欺かれ、国家を亡ぼすことなく力強き新日本を建設されんことを祈る」。

 真崎大将は昭和三十一年八月三十一日死去。葬儀委員長は荒木貞夫元大将が務めた。昭和天皇からは祭祀料が届けられた。

 (「真崎甚三郎陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「板倉光馬海軍少佐」が始まります)

399.真崎甚三郎陸軍大将(19)『真崎は青年将校の説得はうまいのう』と茶化すように言った

2013年11月15日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「阿部は立ち会わせておかないと、後でどんなことを言い触らすか知れんと思ったからであり、西は正直な男であるが、宣伝にのせられて、真崎は関係ありとの疑問を抱いているように見えたから、証人を二人選んだわけである」

 「私もうっかりしたことを言うと、彼らは武器をもっているから、どんなことになるかも知れんと思うから、懸命であった。全く決死の覚悟であった」

 「私は泣かんばかりに、誠心誠意、真情を吐露して彼等の間違いを説いて聞かせ、原隊復帰をすすめた。そして『直ぐ即答も出来まいから、皆で相談して返事を聞かせてくれ』と言って、十五分ばかり待つと、代表で野中大尉がやってきて、『よく分かりました。早速夫々原隊へ復帰致します』と言って来たので、私も真心が彼等に通じたのかと思って、非常に嬉しかった」

 「然るに阿部は帰りの自動車の中で『真崎は青年将校の説得はうまいのう』と茶化すように言ったので、『こん畜生、この男は命がけで俺がやっているのに、こんな位にしきゃ考えていないのか』と思うと、ぐっと癪に障ったが、さすがに正直者の西が、言下に『そうじゃありませんよ、真崎閣下は一生懸命でしたよ、だから聞いたのです。うまいも、まずいもありません』と心から感激していた。それ以来、西はどんな私のデマがとんでも、私を信じていたようだ」。

 だが、皮肉にも、この会見、この説得が、真崎大将の態度豹変、変心、逃げとあらゆる非難を受けることになった。

 この真崎大将ほど、憲兵や法務官らの取調官から酷評されている人物は珍しい。また徹頭徹尾否認し続けている人間もまた珍しい。

 「兵に告ぐ―流血の二・二六事件真相史」(福本亀治・大和書房)によると、まず、最初に真崎大将を取り調べた著者の当時東京憲兵隊特高課長・福本亀治少佐(後少将)は真崎大将に次のように言った(要旨)。

 「本日は陸軍の一憲兵少佐が陸軍大将に対して申し上げるのではなく、今次の未曾有裕の不祥事件をはっきりさせ、閣下に対する国民の疑惑を一掃するため、軍司法警察官という国家の職任からお尋ねもし、申し上げもしたいと存じますので、非礼の点はお許しを願います。それがため本日は陸軍の階級を示さない私服で応接いたしております…(略)…」

 「また、閣下が事件の背後関係者であると噂するものもありまして、今度の事件との関係に就いては、常に軍部ばかりではなく、全国民からも疑惑の眼を以って注目しております。その疑惑を払拭する上からも誤りのない真相を聞かせていただきたいと存じます」。

 真崎大将はキッ!と口を結んでしばらく黙していたが、やがて次第に昂奮の現し顔を紅潮させ遂に怒気を含んで次のように口をきった。

 「答える必要はない。自分は此の度の事件とは全然関係はない。青年将校たちが勝手に思い違いをして蹶起したのだ」。

 福本少佐はこの答えにただ唖然として真崎大将の顔を見守った。これが且つては三軍の将として、また青年将校の信望を一身に集めた将軍の態度なのだろうかと思った。

 また、青年将校たちは「一度蹶起せば事件の善後指導は将軍がしてくれる」と全幅の信頼を寄せて蹶起したのではないか。

 よしんば彼等の考え方が独断的な錯覚であったとしても、青年将校等をしてこの様な重大錯覚を起こさせる結果をもたらしたことに対して自責の念は起こらないのか。……考えるだけで福本少佐は口悔しかった。

 そのうち、真崎大将の発熱が高いということで一時、取調べを中止しなければならなくなった。その後も臨床調査を聴取したが、真崎大将は自己に不利な点となると殆ど否定し続けた。

 もう一人の担当取調憲兵・大谷敬二郎大尉(滋賀・陸士三一・東京帝国大学法学部・東京憲兵隊特高課長・憲兵大佐・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦後BC級戦犯重労働十年・「昭和憲兵史」「軍閥」「二・二六事件」など著書多数)も辛辣に真崎大将を批判している。

 「二・二六事件の謎」(大谷敬二郎・図書出版社)によると、当時憲兵大尉だった大谷敬二郎が真崎邸を訪れ、尋問を行った。問答は次の通り。

 大谷憲兵大尉「貴方は、その朝遅くも四時半頃には亀川哲也の報告によって、青年将校たちが兵を率いて重臣を暗殺し昭和維新に蹶起することを知った。ところが、貴方が陸軍大臣の電話による招致を受けて、その官邸正門に入ったのが午前八時半頃、これは間違いのない事実である。貴方は軍の長老として、また青年将校たちから尊敬されていた皇道派の大先輩として、この軍のかつてない一大事に、約四時間という長い時間を空費している。一体貴方はここで何をしていたのですか」。

 真崎大将「前夜から腹がしぶっていたので自動車の手配に手間取ってしまって遅くなった」。

 大谷憲兵大尉「陸軍大臣秘書官・小松光彦少佐(高知・陸士二九・陸大三八・兵務局兵備課長・ドイツ武官補佐官・少将・ドイツ駐在武官・中将)の証言によると、大臣から真崎大将をここに呼ぶように命ぜられ真崎邸に電話したところ、夫人と思われる方から、“只今、来客中ですが、すぐ参るよう申し伝えます”との返事があったと言っている。また、川島前陸相も右と同様の報告を秘書官から受けたと証言しているが、この来客とは誰ですか、また、この間誰と何を協議したのですか」。

 真崎大将「そんなことは断じてない。デマだ、けしからん話だ」。

398.真崎甚三郎陸軍大将(18)宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である

2013年11月08日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「ころあいを見計らって、私は、加藤寛治海軍大将に電話して、二人で海軍軍令部長・伏見宮殿下を訪ねた」

 「伏見宮殿下に加藤大将は『真崎大将が現状を詳細に視察してよくわかっていますので、大将の意見を聞いていただきます』と言った」

 「私は、決行部隊の現況をつぶさに説明したのち、この混乱を速やかに収拾しなければ、どういうことになるか保証の限りではない、と意見を申し上げた」

 「私と加藤大将は『殿下、これから急ぎ参内されて、天皇陛下に言上の上、よろしくご善処下さるようお願い申し上げます』と述べ、いち早く天皇のご決意を維新へと導き奉らんとした」

 「伏見宮殿下はご納得の上、至急参内し、天皇陛下にご進言申し上げた。すると、『宮中には宮中のしきたりがある。宮から直接そのようなお言葉をきくことは、心外である』という天皇陛下のご叱責を受けて、宮殿下は恐縮して引き下がらざるを得なかった」。

 以上が真崎元大将の話だが、この時点で、天皇陛下の激怒によって、二・二六の青年将校たちはすでに惨敗していたということになる。

 事件当日、真崎大将は、午前十一時半か十二時ごろ、宮中の東溜りの間に伺候した。その頃軍事参議官が逐次集まってきた。

 大蔵氏が「軍事参議官会議の模様は……?」と質問すると、真崎元大将はその状況を詳細に話してくれたという。

 北一輝は西田税から決起将校たちが事前に軍上層部、少なくとも荒木貞夫大将、小畑敏四郎少将、石原莞爾大佐、鈴木貞一大佐(すずき・ていいち・千葉・陸士二二・陸大二九・陸軍省新聞班長・大佐・陸大教官・歩兵第一四連隊長・少将・興亜院政務部長・中将・予備役・企画院総裁・貴族院議員・第日本産業報国会会長・A級戦犯・戦後保守派のご意見番)、満井佐吉中佐らに諒解や連絡をしていなかったということを聞いて“しまった”と思った。

 北一輝は中国革命(辛亥革命)の経験から、革命というものは上下の全体的な統一的な計画のもとに行わなければ成功しないということを、知っていた。

 やがて、北一輝に「国家人なし。勇将真崎あり。国家正義軍のために号令し、正義軍速やかに一任せよ」と霊示が告げられた。

 北一輝は決起将校の栗原安秀中尉、村中孝次元大尉に、「軍事参議官全員で真崎大将を首班に推すようにし、大権私議にならぬよう、真崎大将に一任しなさい」と伝えた。

 磯部浅一元一等主計、村中孝次元大尉、香田清貞大尉は北の霊告を受けて事態を真崎大将に依頼しようと相談し、陸相官邸に各参議官の集合を求めた。陸相官邸には、十七、八名の決起将校が集まった。

 当日午後二時頃、陸相官邸に来たのは真崎大将、阿部信行大将、西義一大将(にし・よしかず・福島・陸士一〇・陸大二一・東宮武官・侍従武官・少将・野戦重砲兵第三旅団長・中将・陸軍技術本部総務部長・第八師団長・東京警備司令官・大将・東部防衛司令官・軍事参議官・教育総監)の参議官でほかの参議官は来なかった。

 この会見には山口一太郎大尉、鈴木貞一大佐、山下奉文少将、小藤恵大佐(こふじ・めぐむ・高知・陸士二〇・陸大三一・陸大教官・大佐・陸軍省補任課長・歩兵第一連隊長・待命・予備役・第一八師団参謀長・参謀本部戦史部長・少将・昭和十八年死去)らが立ち会った。

 このときの様子は、磯部浅一の手記「行動記」に拠ると、まず野中四郎大尉が、「事態の収拾を真崎将軍にお願い申します。この事は全軍事参議官と全青年将校との一致せる意見として御上奏お願い申したい」と申し入れた。

 これに対して真崎大将は「君達が左様に言ってくれる事は誠に嬉しいが、今は君達が連隊長の言う事をきかねば、何の処置もできない」と答えた。

 これについて「行動記」に磯部は、「どうもお互いのピントが合わぬので、もどかしい思いのままに無意義に近い会見を終わる。安部、西両大将が真崎を助けて善処すると言う事丈は、ハッキリした返事をきいた」と記している。

 真崎大将はこの会見について、後に次のように記している。真崎大将の決起将校たちに対する心情が率直に記されていて、貴重な証言である。

 「斯くて、偕行社に皆集まって色々協議するが、どうにも方策も名案も立たんのである。併しどうしても兵隊を原隊に引き揚げさせる外はないのであるが、迂闊には寄り付けんのである」

 「結局皆で私に説得してくれというのである。併し私は断った。うまくいって元々、悪くゆくと、どんなことを言い触らすかわからんのである」

 「それでなくとも悪党共は背後に真崎ありと宣伝していた際であるから、私は強く断った。併し陛下が大変御心配になっているから、毀誉褒貶(きよほうへん)を度外視して一肌脱いでくれと、再三の懇請に、それでは立会人を立ててくれと言って、阿部信行と西義一を指名した」

397.真崎甚三郎陸軍大将(17)何しろ俺の周囲にはロシヤのスパイがついている

2013年10月31日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 山岡「真崎閣下の将来については、渡辺総監とよく協議して遺憾なきを期せられたい」。

 大臣「渡辺は反対の立場にて困る」。

 以上が、山岡重厚中将と林陸相との会談の全貌であり、林陸相の当時の心情が吐露されている。

 この会談の十一日後、昭和十年八月十二日、相沢中佐事件が起きた。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、陸軍省において軍務局長・永田鉄山少将を斬殺した事件である。

 「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、相沢中佐は、永田鉄山が軍務局長になってから十一月事件が起こり、村中、磯部らが停職処分を受け、ついで免官になったのを永田軍務局長の策謀だと信じ、永田軍務局長に対して怒りを持っていた。

 七月十六日の真崎教育総監の罷免を新聞で知り、特に「教育総監更迭事情要点」などの怪文書を読んで、永田軍務局長のこのような不義不逞の策動は絶対に許せないとし、まず彼を辞めさせなければならないと決心したといわれている。

 この相沢中佐事件の半年後、昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きた。当日早朝、決起した皇道派の青年将校らは千数百名の兵を動かし、重臣を襲撃、殺害し、陸軍省、参謀本部という軍中枢機構を完全に包囲制圧し、陸相官邸を維新革命司令部とすることに成功した。

 二・二六事件の首謀者の一人、磯部浅一元主計大尉は事件後、獄中で「行動記」を書き残している。

 「行動記」によると、磯部は事件前の昭和十年十二月中旬に古荘幹郎中将、真崎甚三郎大将、山下奉文少将に会っている。

 その時、真崎大将は「このままでおいたら血を見る、俺がそれを云うと真崎が扇動していると云う。何しろ俺の周囲にはロシヤのスパイがついている」と時局いよいよ重大機に入らんとするを予期せる如く語った、と記している。

 さらに一月二十八日に、磯部は再び真崎大将を訪ねている。真崎は「何事か起こるなら、何も云って呉れるな」と言い、磯辺の要求に応え、物でも売って五百円を都合することを約束した。

 このようなことから、磯部は「余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、余とは生まれて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助をして呉れると云う事は、青年将校の思想信念、行動に理解を有している動かぬ証拠だと信じた」と断定している。

 「二・二六事件の謎」(大谷敬二郎・光人社)によると、著者の大谷敬二郎(おおたに・けいじろう・滋賀・陸士三一・東京帝国大学法学部・東京憲兵隊特高課長・大佐・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦犯重労働十年・戦後作家)は当時憲兵大尉で、事件後真崎大将の取調官の一人だった。

 軍事参議官・真崎甚三郎大将が二・二六事件決起を知ったのは、二月二十六日午前四時半頃、亀川哲也(沖縄・早稲田大学卒・会計検査院・森格の施設経済顧問・大日本農道会・二二六事件謀議で無期禁錮・戦後釈放)が世田谷の真崎邸の扉を叩いたことから始まる。

 「二・二六事件への挽歌」(大蔵栄一・読売新聞社)によると、著者の大蔵栄一氏は、熊本幼年学校(二二期)、陸軍士官学校(三七期)卒の元陸軍大尉。青年将校として二・二六事件に連座して免官、禁錮四年の刑に処せられた。昭和五十四年死去。享年七十五歳。

 大蔵氏は戦後、昭和三十年頃、真崎甚三郎元大将を世田谷の邸宅に訪ねた。そのとき、大蔵氏は二・二六事件について、「閣下はあの事件を事前にご承知だったのでしょうか」と、知るはずはないと思ったが一応確かめてみた。

 真崎元大将「オレが知るはずがないではないか」。

 大蔵氏「そうだと思います。じゃ、いつ知ったのでしょうか」。

 真崎元大将「二十六日の朝四時半か五時ごろ、亀川(哲也)がきて知らせてくれて初めて知ったんだがね……」。

 そのあと、真崎元大将は二・二六事件の朝のその後の行動を次のように大蔵氏に語った。

 「八時半ごろ、陸軍大臣官邸に出かけた。行ってみると川島義之陸相の顔は土色で、生ける屍のようであった」

 「それほど大臣はあわてて自己喪失に陥っていたらしい。その川島大臣を鞭撻して青年将校とも会い、事件処理に心を砕いた」

396.真崎甚三郎陸軍大将(16)真崎に万一之に類することありては迷惑なりと仰せらる

2013年10月24日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 また、「本庄日記」七月二十日の日記に、天皇に対して新旧教育総監の参内拝謁の様子が次のように記してある。

 「午後一時三十分、新任教育総監渡辺大将、前任教育総監真崎大将葉山御用邸に参内拝謁す」

 「繁は拝謁に先だち、新任者には『ご苦労である』、前任者には『ご苦労であった』との意味の御言葉を賜らば難有存ずる旨内奏す」

 「陛下は之に対し真崎は加藤の如き性格にあらざるや、前に加藤が、軍令部長より軍事参議官に移るとき、自分は其在職間の勤労を思い、御苦労でありし旨を述べし処、彼は、陛下より如此御言葉を賜りし以上、御親任あるものと見るべく、従て敢て自己に欠点ある次第にあらずと他へ漏らしありとのことを耳にせしが、真崎に万一之に類することありては迷惑なりと仰せらる」

 「繁は之に対し、真崎としては自己の主義主張を曲ぐることは出来ざるべきも、かりそめにも御言葉を自己の為に悪用するが如き不忠の言動を為すものには断じてあらざる旨を奉答せし処、陛下は、夫れならば結構なりと仰せられ、拝謁に際し、渡辺大将には御苦労であると仰せられ、真崎大将には在職中御苦労であったとの御言葉を給わりたり」

 「尚は、此日真崎大将は出来れば、御言葉を賜りし際、一言自己の立場を奉答したき旨武官長に漏らすところありしも、夫れは当の主任者なる大臣の奏上に対立することとなり、恐懼の次第なること又事件に引続き何事か奏上することは、其結果の如何なるものをもたらすかをも余程考慮すべきことなりと、真崎大将も能く諒解し右思ひ止まりたり」。

 以上が、天皇に対して新旧教育総監の参内拝謁の様子を記した「本庄日記」の内容である。

 「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、当時陸軍省整備局長であった皇道派の重鎮、山岡重厚中将の手記が残っており、「昭和十年八月一日夜林陸相との会談メモ」では、次のように記されている。

 山岡「真崎大将は何故に免ぜられたるや?」

 大臣「南、永田の工作にしてその他稲垣次郎中将(閑院宮別当)、鈴木荘六大将(前参謀総長)、植田謙吉、林弥乃吉中将等より総長宮に申し上げ、殿下は真崎の現役を免ぜよとの御意なりしも、総監を免ずるだけとせり」

 山岡「総長宮に対し、しからば私も大臣をやめましょうとて、大臣と真崎閣下と二人して後任大臣と総監を決定して申し上ぐること不可能なりしや?」

 大臣「(しばらく答うる能わず)……閣僚という地位もありて、そう簡単にはいかぬ」

 山岡「永田は如何?」

 大臣「即刻転職を必要とす。次官も永田をかえることを申し出たり。官僚と手を握るなどはなはだ不可なり。パンフレットは工藤の馬鹿が……」

 山岡「後任に今井は如何?」

 大臣「不可……今井が軍務で、橋本が次官は不可、今井と橋本は引き離すべく考えあり……。若山中将を新たに師団長たらしむべく両名に申し出たるも、予は前に真崎と相談し足ることもあり、断乎としてこれを排せり。元来今回の画策は、南と永田にて、南もっとも悪し。打ち切るを可とするも今は如何ともしがたし」

 山岡「今井が軍務として不可なれば山下(奉文)を可とせん。彼は土佐なれども元来東京なり。その妻君は永山氏の女なり。世上荒木系、真崎閥云々というもいずこに閥ありや?」

 大臣「しかり閥云々という者あるも、予もそうでもないと思う。予は林弥乃吉らの言は決して信ぜず、彼は不可なり。真崎は武藤元帥の児分にして、予もまたしかり。故に元来真崎と善し、いまさら宇垣、南に降参するをえず」

 山岡「大臣が将来更迭せらるる場合は、誰を押さるるや?安部大将なりや?」

 大臣「阿部なんか不可なり。寺内、川島らならん。荒木には困難なる事情あるべし」

395.真崎甚三郎陸軍大将(15)永田を陥れんがためひそかにそれを所持していた

2013年10月17日 | 真崎甚三郎陸軍大将
機密文書と断定してしまった以上、その出所を追及され、下手な答弁をすれば、軍法会議ものであった。真崎大将ほどの狡智にたけた男も、すっかり渡辺教育総監の智謀に引っかかってしまった。

 一座はシーンとして一言も発する者がいなかった。たまりかねて、荒木大将が次のように発言した。

 荒木大将「その書類は軍事課長室の機密文書を収蔵している金庫の中にあったものである。不穏なる文書なるが故に、陸軍大臣たる自分の許に届けられ、当時参謀次長たる真崎参議官に回付したもので、機密漏洩などもっての外のことだ」。

 渡辺教育総監「書類が真崎次長の許に回付された経路はそれで判ったが、その書類が教育総監が所持せねばならぬ書類であるか、さらに教育総監を辞めて参議官となった真崎大将が所持せねばならぬ書類かどうか、憶測をたくましゅうすれば、永田を陥れんがためひそかにそれを所持していたとも解せられぬことはない。この点について弁明があれば承ろう」。

 これで、真崎大将も荒木大将もグーの音も出なかった。鬼の首ならぬ永田軍務局長の首を取るつもりで出した書類が、どうやら両刃の刀で自らの首を斬りそうになってきた。

 阿部大将「渡辺総監の言われるところはもっともである。真崎参議官が今日までそういう書類を所持されていたことは、永田軍事課長が執筆した書類の処置を失念していたと同じ過誤であったと思われる。この書類に関する限り、この辺で打ち切り、同時に陸軍の手許に返還されては如何なものか」。

 この助け舟で真崎大将も荒木大将も生色を取り戻した。この論戦で肝を冷やされた皇道派の両勇士は、なおいろいろと林人事について、非難したが、もう勝負はついた。四時間の論戦は終わった。

 「本庄日記」(本庄繁・原書房)によると、当時侍従武官長・本庄繁大将の昭和十年七月十六日の日記に、真崎教育総監の強制的更迭に関して、天皇の思惑が次のように記してある。

 「十六日早朝、長距離電話にて菱刈、奈良大将等経験者の意見を聴き、又参考として侍従長の意見も伺いたる上、午前九時半頃拝謁を願い、教育総監の強制的更迭は事重大にして、三長官協議権の取極(大正二年七月勅裁を経)の価値を軽減するものなりとの懸念を抱かしむるものにして、軍の統帥みの関係するものなるが故に、閑院宮、梨本両元帥を御召し遊ばれ、右の御憂慮を尠名からしむよう善後策処置に務むべく御沙汰あらせらるるを宜しかるべく存ずる旨内奏す」

 「陛下は、之に対し事前ならばともかく、事後に於いて効果なかるべしと仰せられしも、陸相に於いて元帥の同意を経来れりとして内奏せる以上、事前の御下問は如何かと存ず又効果たとえ少しとするも、事の重大性を認められ充分其の善後の事にまで慎重に御処置遊ばされたりとせば、其一般に与える効果は相当之あるべく、不満のものも之を納得せしむるに便なるべしと申上げし処、夫れも、然らん。然らば可成早き方宜しと思はるるが故に速やかに参内する様取計へと御聞けらる」

 「尚は、此時、陛下は、林陸相は真崎大将が総監の位置に在りては統制が困難なること、昨年十月士官学校事件も真崎一派の策謀(恐らく事件軍法会議処理難を申せしならん乎、まさか士官学校候補生事件を指せしものにあらざるべし)なり」

 「尚は又三官衙の人事の衝に当たる課長は、悉く佐賀と土佐のもののみにて一般より此難多く、要するに真崎一派は少なく反対派は非常に多き実情に在りと話せり。其他、自分としても、真崎が参謀次長時代、熱河作戦、熱河より北支へ進出等、自分の意図に反して行動せしめたる場合、一旦責任上辞意を奉呈するならば、気持ちよろしきも其儘にては如何なるものかと思へり」

 「又内大臣に国防自主権に関する意見を認めて送りしが如き、甚だ非常識に想はる。武官長は左様に思はぬか」

 「自分の聞く多くの者は、皆真崎、荒木等を非難す。過般来対立意見の強固なりしことも、真崎、荒木等の意見に林陸相らが押されある結果とも想像せらる。旁々今回の総監更迭に関する陸相の人事奏上の如きも、余儀なき結果かと認めたり、と仰せられたり」

 「之に対し繁は大臣の言及風聞は必ずしも当たれりとは存じ兼ねるも、とにかく大臣の今回人事に対して採りし処置は、法理上は否定し難く、軍事参議官に諮詢さるることも将来に悪例を遺すべく、従て、元帥に於て御同意なりし以上、御裁可は当然と拝す」

 「只人事の協議に当り、大臣として三長官の一人が反対するからとて直ちに、之を除きて自己の同意のものを挙げて意の儘人事を運行し得るとせば、御勅裁を得たる三長官の協議権なるものは甚だしく価値を減ずることとなり、統帥部の長官に対しても同様なりとせば、軍部の或方面には之を大に遺憾とし、不満とするものを生ずるを恐るるが故に、両元帥を召され善後処置に尽くすべく御沙汰あらせられ、陛下の、御慎重なる態度に感激せしめらるることの必要なる旨を重ねて奉答せり」。

394.真崎甚三郎陸軍大将(14)それだけ悪いことをしているなら、何故君が陸相のとき罷免しなかったか

2013年10月10日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 渡辺教育総監「只今は永田軍務局長の行動を議題としているのではない。問題を紛糾させるためなら別だが、永田君のことはまた別に論議する機会があるだろう」。

 菱刈大将「そうかも知れぬが、その三月事件とやらいうのは、従来小耳にはさんだことはあるが、こういう席ではまだ聞いたことがない、ついでに事情を聞いてみてはどうか」。

 阿部大将「それは別の機会がよかろう」。

 真崎大将「陸相は永田と三月事件の関係は御承知のことと思うがどうか」。

 林陸相「荒木前陸相から何らの引継ぎも受けていないから知らぬ」。

 荒木大将「それでは申し上げる」。

 ここで荒木大将は、三月事件の性格から、宇垣、建川、二宮、小磯、大川周明のことなどを挙げて、永田もまたその一味として動いていることを、冗漫な口調で述べた。

 林陸相「只今のお話だけでは永田を罷めさせねばならぬほどの事実がよく諒解できない。殊にそれだけ悪いことをしているなら、何故君が陸相のとき罷免しなかったか、今頃になって持ち出されることはすこぶる迷惑だ」。

 これには荒木大将も一本参った。沈黙せざるを得なかった。

 林陸相「永田に非違があれば無論これを糺明するのは自分の責任であり、あるいは永田の責任といえども自分もまたこれを負わねばならぬこともある。抽象的な攻撃より具体的な事実を示されたい」。

 荒木大将「具体的に言えば永田は一日も現役に留まっておれないと思えばこそ抽象的に言ったのだが、御希望とあらば申し上げよう」。

 それを引き取って真崎大将が三月事件について、永田が起案したクーデターの原案を提出して、各参議官に回付した。右下がりの永田特有の文字、誰が見ても疑う余地がなかった。

 真崎大将は末席に控えている永田軍務局長を特に呼び寄せて、「これは貴官の執筆と思うが間違いはないか」と念を押した。一見した永田軍務局長が「その通りである」と答えた。

 真崎大将「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇に葬られているが、かような大それた計画を軍事課長(当時)自ら執筆起案しながら、時の当局者はこれを不問に付している。軍規の頽廃これよりもはなはだしいものがあろうか。その者をこともあろうに陸軍軍政の中枢部たる、軍務局長の席につかせているとは何事であるか」。

 それまで三月事件の真相については、林陸相をはじめ列席の参議官は、知らない者が多かった。わずかに杉山参謀次長が、陸軍次官として知っているだけだった。

 いわんや永田の起案になる計画書の本物は杉山次長すらも見ていなかった。これは、小磯軍務局長が一見した上、宇垣にも見せないですぐ永田に返し、永田軍治課長は金庫に収蔵したまま、山下に事務引継ぎのときにはすっかり失念していたものだった。

 林陸相はさすがに驚いた。永田軍務局長は釈明を求められれば、何時でも応答する気構えでいささかも困惑の色を見せていなかった。

 このとき、林陸相が何か言おうとするのを押さえて、渡辺教育総監が立ち上がって、次のように言った。

 渡辺教育総監「只今の書類は、確かに穏やかならざることが書いてある。しかも書いた者は永田であることも間違いはない。けれどもこれは永田個人の策案で、陸軍として責任を負うべき書類ではないように思うがその点は如何なものか」。

 真崎大将「なるほど正式の書類ならば、局長、次官、大臣の決裁がなければならぬという渡辺総監の意図のようであるが、普通の書類とは違う非合法なるクーデター計画ですぞ、大臣、次官の決裁印がなくても、実質はりっぱな公文書である」。

 渡辺教育総監「自分は単なる私文書と思ったが、真崎参議官の見解では公文書、軍の機密文書だとの御意見、列席の諸官は果たして同認められるか」。

 渡辺教育総監は巧みに各参議官の見解を知ろうとした。だが誰も発言するものはいなかった。そこで、荒木大将が次のように発言した。

 荒木大将「念を押すまでもなくこれは立派な軍の機密書類である」。

 渡辺教育総監「宜しい。一歩を譲って機密公文書と認めよう。それならばお尋ねするが、軍の機密文書を一参議官が持っていられるのはどういう次第であるか。機密書類の保存はきわめて大切なことである。これが一部でも外部に洩れたとすれば、軍機漏洩になる。真崎参議官はどうして持参せられたか、御返答によっては所要の手続きをとらねばならぬ」。

393.真崎甚三郎陸軍大将(13)陸相が独断で罷免したことは統帥権の干犯ではないか

2013年10月03日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 陸相官邸で開かれた、この軍事参議官会同に参集した参議官は、荒木貞夫大将、阿部信行大将、川島義之大将、菱刈隆大将だった。

 それに、松井石根(まつい・いわね)大将(愛知・陸士九次席・陸大一八首席・歩兵第三九連隊長・少将・歩兵第35旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・ジュネーブ軍縮会議全権委員・台湾軍司令官・大将・上海派遣軍司令官・中支那方面軍司令官・死刑)と、新参議官の真崎甚三郎大将も出席した。

 省部から出席したのは、陸軍大臣・林銑十郎大将、新教育総監・渡辺錠太郎大将、参謀総長代理として参謀次長・杉山元中将、軍務局長・永田鉄山少将らだった。

 だが、この会議では、期せずして、さきの三長官会同の延長戦が行われたのである。この会議の模様は、「順逆の昭和史」(高宮太平・原書房)によると、次の通り。

 最初、林陸相が普通の挨拶をし、渡辺大将から教育総監就任の言葉が述べられた。次に真崎大将が教育総監更迭の経緯を真崎流に解釈して、林陸相の措置を非難した。

 林陸相は蒼白な顔をして聞いていたが、別にこれを反駁しようとしなかった。そうすると、荒木大将が立ち上がって、次のように述べ正面きって挑戦してきた。

 「只今、真崎大将の話を聞くと陸相の措置ははなはだ失当で、統帥権干犯のおそれもあるように思われる。この点、陸相の明快なる答弁を願いたい」。

 そう言われると、林陸相も黙っているわけにゆかぬから、経緯報告をして、真崎大将の陳述が事実と相違せることを詳細に述べた。

 すると荒木大将は再び立ち上がり、林陸相に対して再反論した。以後、軍事参議官会同では、次のような、熾烈な議論が展開した。

 荒木大将「陸相は真崎大将の陳述は事実と違うとのことであるが、将官の人事については三長官協議の上決定することに陸軍省と参謀本部の間に協定があり、その協定は上奏御裁可を得ているものである。それを無視して真崎大将の承諾しないものを、陸相が独断で罷免したことは統帥権の干犯ではないか」。

 林陸相「独断ではない、参謀総長宮殿下の御同意を得ている」。

 阿部大将「その協定は御裁可を仰いだものではないと聞いている。いわゆる上げ置き上奏で、陛下に奏上しただけのものではないか」。

 渡辺教育総監「その問題は山縣公が非常に心配されて、そういう協定をして将来過ちないようにしたもので、只今阿部大将の言われる通り、上げ置き上奏となっている」。

 林陸相「これについては陸軍省でも参謀本部でも研究した結果、教育総監が辞任を肯じないときは、陸相、参謀総長合議の上辞任させて差し支えないという結論を得ている」。

 荒木大将「杉山次長、果たしてその通りであるか」。

 杉山次長「左様であります」。

 菱刈大将「理屈はそうでもあろうが、ただ何となく陸相の執られた措置は穏当を欠いたように思われる」。

 林陸相「こういうことになったのは私の不徳の致すところである。しかしこれ以外に執るべき手段がなかったから、その点は御了承を願いたい」。

 荒木大将「陸相は軍の統制云々と言われ、真崎大将がその統制をみだしたようなお話しであるが、それはそもそもどういうことであるか」。

 林陸相「真崎大将は派閥的行動があり、それが軍の統制上すこぶる面白くない影響を与えている」。

 松井大将「派閥は確かにある。それはかねて自分も面白くないと思っていた」。

 川島大将「自分もその点は松井大将と同感である」。

 真崎大将「派閥とか何とか言われるが、それなら、永田軍務局長はどうであるか、永田は宇垣陸相のとき三月事件に関与し、陸軍の統制を乱したのみならず、その後の行動は永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか、こういう者を側近に置いて、自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」。

392.真崎甚三郎陸軍大将(12)真崎大将は「こんな状袋などを持って来て」と怒鳴った

2013年09月26日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 三長官会議の後、林陸相は真崎教育総監不同意のまま内奏せざるを得なかった。その日の午後四時、林陸相は天皇陛下の御裁可を仰ぐべく葉山の御用邸を訪れることにした。

 「秘録 永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、林陸相の車には、大臣秘書官・有末精三(ありすえ・せいぞう)少佐(北海道・仙台陸軍地方幼年学校・中央幼年学校・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・航空兵大佐・軍務局軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・終戦後対連合軍陸軍連絡委員長・日本郷友連盟会長)が同乗して、葉山の御用邸に向かった。

 真崎教育総監罷免について、林陸相は有末少佐に「有末、陛下が否と言われたらどうしたものだろうかネ」と言った。

 有末少佐は「そうなれば大臣が辞職するより他に途はないように思われますが」と答えると、林陸相は「もちろん、私は辞表を書いて懐に入れている」と言った。

 葉山御用邸に着いて、林陸相はまず、侍従武官長・本庄繁(ほんじょう・しげる)大将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵第一一連隊長・張作霖軍事顧問・少将・歩兵第四旅団長・支那駐在武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・勲一等瑞宝章・侍従武官長・大将・功一級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章・大勲位蘭花大綬章(満州国)・男爵・枢密院顧問・終戦後自決)に会った。本庄大将は次のように言った。

 「元帥会議を招集されるかも知れない空気ですが、梨本、閑院宮 両元帥宮殿下から陛下に上奏し、話がついているのかも知れません」。

 梨本宮元帥には林陸相が直接報告をしていた。林陸相は早速御前に伺候して勅裁を請うた。暫くして御前を退下してきた。有末少佐が帰りの車中で事情を聞くと林陸相は次のように言った。

 「陛下は二つ返事でよろしいと言われて御璽(ぎょじ=天皇の印章)を賜った。そして軍事参議官への転補でよいのかと御下問があったぐらいだったのでホッとした」。

 東京へ帰ってくると、大臣官邸には次官、人事局長以下が待機していて、今晩中に真崎教育総監に内命を伝えなければならぬということになった。

 誰も尻込みしているので、遂に補任課長・加藤守雄(かとう・もりお)大佐(東京・陸士二四・陸大三二・陸軍省人事局補任課長・歩兵第三四連隊長・舞鶴要塞司令官・少将・仙台陸軍幼年学校長・死去)が北沢の真崎邸に行くことになった。

 ところが、加藤補任課長が帰って来て報告することによると、玄関先で真崎大将は「こんな状袋などを持って来て」と怒鳴った。そして、加藤補任課長につき返したとのことだった。

 そこで、真崎大将と顔見知りの有末少佐が「とりあえず次官の先ぶれで私が真崎閣下に会ってお話してみましょう」と言って行くことになった。

 有末少佐が真崎邸に行くと、真崎夫人も有末少佐の知った仲なので、応接間に通された。真崎大将がむつかしい顔をしているので、有末少佐は次のように言った。

 「閣下、人事のまわり合わせですから御了承下さい。今正式に次官が参りますのでよろしくお願いします」。

 すると、真崎大将は「承知した」と言った。そこで、陸軍次官・橋本虎之助中将が、秘書官・小松光彦(こまつ・みつひこ)少佐(高知・陸士二九・陸大三八・兵務局兵備課長・三国同盟委員・ドイツ武官補佐官・少将・ドイツ駐在武官・中将)を連れて再び真崎邸へ向かった。

 帰って来ての話によると、流石に真崎大将の態度は立派で、勅命を受ける態度で正式軍装に勲章を付けて、橋本次官を上座に据えて、謹んで内命を受けたということだった。

 結局、この問題が、真崎大将の方から内容がどんどん青年将校の間に広まり、それがまた怪文書になってばらまかれた。

 「それに尾鰭をつけて、特に永田軍務局長と三月事件や十一月事件をとりまぜ、特に永田軍務局長の私行など所謂怪文書がばらまかれて相沢中佐の凶行にまで及んだのでありましょう」と有末精三氏は語っている。

 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、従来、教育総監の更迭があった場合には、恒例として新旧教育総監の挨拶程度で終わる非公式の会同だった。

 だが、昭和十年七月十八日の軍事参議官会同は、時が時だけに異例の緊迫した空気のなかで開かれた。

391.真崎甚三郎陸軍大将(11)自分(閑院宮)に向かって、臣下のお前は反対をするのか

2013年09月20日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、七月十四日、真崎大将は林陸相を訪ねて、次のように言った。

 「もしこの人事を断行すれば、総長殿下の御徳を傷つけるのみならず、至尊に累を及ばし奉るべきことをおそれる。自分はいかになるとも少しも差し支えないけれども、総監たる地位に対して考えてもらいたい」。

 これに対して、林陸相は「次官、次長、人事、軍務両局長ら自分の幕僚は、ここまで来た以上は断行のほかないという」と答え、「君も今度の問題では、いろいろ他より迫られて困るだろう」と同情するように言った。

 これを聞いた真崎大将は憤然として「自分は他人から言われてするのではない。深い信念を持っているから困ることはない」と強く言い切った。

 林陸相はたじろいで「もし総長殿下の思し召しが緩和するようなことがあれば、自分も再考しよう」と述べた。

 昭和十年七月十五日、三長官会議の始まる一時間位前、林陸相は真崎大将に会見を申し込んだ。林陸相は会議の紛糾を避けるために、次のように提案した。

 「君が総監の職を退くことを納得してくれれば、他の八月異動案は全部君の思い通りにやる」。

 これに対して、真崎大将は即座に拒否したという。林陸相の予備交渉は失敗した。

 いよいよ本番の三長官会議が始まった。参謀総長・閑院宮元帥、林陸相を前にして、真崎教育総監は第一回に引き続き、粛軍の本質を説き、その完成は三月、十月事件の適切なる処断なくしては絶対にあり得ないと論を尽くして長々と主張した。

 すると、閑院宮元帥は、満面朱を注いで、「教育総監は事務の進行を妨害するのか」と真崎教育総監を叱責した。

 これに対して真崎教育総監は次のように答えた。

 「小官卑賤なりといえどもかかる淋しき思想を有せず。小官は日本人民として、皇族の長老にてあらせらるる殿下の御意に副い奉ることをえざるは実に苦しく、只今ここに身の置き所を苦しみつつあり」

 「いかでか殿下に抗争する不都合なる精神を有せんや。しかれども小官は、天皇陛下の教育総監として、教育大権輔弼の責に任ずる者なり」

 「しかるに今陸軍の本義たる大綱が絶たれんとしつつあり。小官これを同意することはできがたし。もしこれを強行せらるるときは軍は思想的に混乱し、これが統一困難なるべし。只今ここにて即決せられずとも、二、三日互いに研究する余裕を与えられたし」。

 これに対し閑院宮元帥は最後に次のように言った。

 「このままにて行けば何事か起こるやも知れざれども、その時には、これに対応する処置も大臣にあるべし。このままにて行かん」。

 真崎大将の情理を尽くした反論も、追放という既定路線をくつがえすことはできなかった。真崎大将は辞任を承諾したわけではなかったが、抵抗を中止した。こうして三長官会議は終わった。

 「英傑加藤寛治」(坂井景南・ノーベル書房)によると、戦後、著者の坂井氏が寺田武雄と共に、世田谷の真崎邸を訪ねた。

 そのとき、真崎甚三郎元大将は二人に向かって、教育総監罷免問題の三長官会議当時のことについて、次のように語った。

 「自分(真崎)は閑院宮と喧嘩をしたのがたったのだ。あのとき閑院宮に対し、『自分(真崎)も教育総監として、大元帥の幕僚長であるから、信ずるところをお上に申し上げねばなりません』と言ったところが、閑院宮は烈火のごとく怒って、『皇族の長老であり、陸軍の最先任である自分(閑院宮)に向かって、臣下のお前は反対をするのか』と言われ、ついに決裂したのだ」。

 閑院宮と仲違いしたためでもなかろうが、真崎大将は伏見元帥宮の親任の厚かった加藤寛治海軍大将にたびたび衷情を披瀝して、加藤大将を通じて伏見宮の諒解を得るとともに、宮中の信任を保ちたかったのではないかとも想像される。