陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

562.源田実海軍大佐(22)うむ。あの淵田か。知っている。あれならやれる

2016年12月30日 | 源田実海軍大佐
 「源田参謀」。突然山本大将が声をかけた。「はい」。源田中佐は、長官を見つめた。すると山本大将は「空襲飛行隊の総指揮官に、私案があるか?」

 意外な問いに、源田中佐はちょっと口ごもっていたが、「淵田ならば、やれると思います」と答えた。「淵田?」山本大将が聞き返した。

 すると南雲中将が「はあ、赤城の飛行隊長をしていた男ですが、今三航戦の参謀をしております」と源田中佐の代わりに答えた。

 「うむ。あの淵田か。知っている。あれならやれる」。山本大将は、大きくうなずいた。

 昭和十六年九月十六日、十七日の二日間、品川区上大崎の海軍大学校で、連合艦隊司令長官・山本五十六大将が主張するハワイ奇襲作戦の図上演習が「ハワイ作戦特別図上演習」とされて、極秘裏に実施された。

 「航空作戦参謀・源田実」(徳間文庫・生出寿)によると、海軍大学校での図演後の九月二十四日、軍令部作戦室で、ハワイ奇襲作戦の採択についての討議が行われた。

 この討議に、軍令部からは、次の四名をはじめ六名が出席した。

 第一部長・福留繁(ふくとめ・しげる)少将(鳥取・海兵四〇・八番・海大二四首席・連合艦隊首席参謀・軍令部第二課長・軍令部第一課長・支那方面艦隊参謀副長・戦艦「長門」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・連合艦隊参謀長・海軍乙事件・第二航空艦隊司令長官・第一三航空艦隊兼南遣艦隊司令長官・第一〇方面艦隊司令長官)。

 第一課長・富岡定俊(とみおか・さだとし)大佐(東京・海兵四五・二十一番・海大二七首席・海軍大学校教官・軍令部第一課長・巡洋艦「大淀」艦長・南東方面艦隊参謀副長・少将・南東方面艦隊参謀長・軍令部第一部長・終戦・第二復員大臣官房史実調査部長)。

 第一課部員・神重徳(かみ・しげのり)中佐(鹿児島・海兵四八・十番・海大三一首席・第五艦隊司令部参謀・軍令部第一部第一課兼大本営参謀・大佐・第八艦隊司令部参謀・軽巡洋艦「多摩」艦長・海軍省教育局第一課長・連合艦隊司令部参謀・第一〇航空艦隊参謀長・終戦後青森県津軽海峡で飛行機事故により殉職・少将)。

 第一課部員・佐薙毅(さなぎ・さだむ)中佐(愛媛・海兵五〇・海大三二・連合艦隊航空参謀・軍令部第一部第一課・軍令部第一課作戦班長・大佐・南東方面艦隊参謀兼第一一航空艦隊参謀兼第八方面軍参謀・南東方面艦隊首席参謀・戦後航空自衛隊入隊・航空幕僚副長・第二代航空幕僚長・水交会会長)。

 連合艦隊司令部からは次の三名が出席した。

 参謀長・宇垣纒(うがき・まとめ)少将(岡山・海兵四〇・九番・海大二二・連合艦隊参謀・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第一部長・第八戦隊司令官・連合艦隊参謀長・中将・第一戦隊司令官・第五航空艦隊司令長官・沖縄方面へ特攻・行方不明)。

 首席参謀・黒島龜人(くろしま・かめと)大佐(広島・海兵四四・三十四番・海大二六・第九戦隊参謀・大佐・海軍大学校教官・連合艦隊首席参謀・軍令部第二部長・少将・終戦後大東亜戦争調査委員会幹事)。

 航空参謀・佐々木彰中佐(広島・海兵五一・海大三四・海軍大学校教官・連合艦隊航空参謀・大佐・第三航空艦隊首席参謀)。

 第一航空艦隊からは次の三名が出席した。

 参謀長・草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)少将(東京・海兵四一・十四番・海大二四・航空本部総務部第一課長・空母「鳳翔」艦長・支那方面艦隊参謀・軍令部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第四連合航空隊司令官・第二四航空戦隊司令官・第一航空艦隊参謀長・第三艦隊参謀長・南東方面艦隊参謀長・連合艦隊参謀長・中将・兼海軍総隊参謀長・第五航空艦隊司令長官)。

 首席参謀・大石保(おおいし・たもつ)中佐(高知・海兵四八・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・第一航空戦隊参謀・第一航空艦隊参謀・海軍大学校教官・大佐・航海学校教頭・横須賀突撃隊司令・終戦・佐世保地方復員局艦船運航部長)。

 甲航空参謀・源田実(げんだ・みのる)中佐(広島・海兵五二・十七番・海大三五・次席・第一航空艦隊甲航空参謀・軍令部第一部第一課・海軍航空技術委員会委員・大佐・第三四三海軍航空隊司令・兼第三五二海軍航空隊司令・戦後航空自衛隊入隊・航空幕僚監部装備部長・航空団司令・臨時航空訓練部長・航空集団司令・航空総隊司令・航空幕僚長・参議院議員・従三位・勲二等)。


561.源田実海軍大佐(21)万一失敗すれば、全作戦を台無しにして我が艦隊勢力もその半分を失う

2016年12月23日 | 源田実海軍大佐
 その時、「南雲長官」と、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将が突然、声をかけて、次のように言った。

 「それでは、長官は、どうゆう風にやったら良いとおっしゃるのですか?」。

 「南方作戦一本鎗だ」。南雲中将は、間髪を入れずきっぱりと言い切った。そして次の様に南雲中将は論じた。

 「ハワイと南方に空母、飛行兵力を二分するときは、どちらも兵力不足になる恐れがあるし、真珠湾攻撃は何といっても投機的な支作戦にしか過ぎない」

 「成功すれば成る程良いが、それにしても南方作戦が安心してやれる程度で、攻略を企図するのではないから、颱風一過の感じで爾後の戦局への戦果拡充が伴わぬ」

 「万一失敗すれば、全作戦を台無しにして我が艦隊勢力もその半分を失う心配があり爾後、彼我の勢力の均衡は破れる。得るところよりも失うところの方が多かりそうで、開戦の作戦指導としてはまことに危なっかしい気がする」

 「それよりも、南方作戦に全力を傾注して作戦目的を達し、速やかに不敗の態勢を確保した上で、アメリカ太平洋艦隊の撃滅を策する法が手堅いと思われる」

 「我が海軍の全勢力を上げて南方作戦に従事するならば、太平洋艦隊の多少の牽制などはさして介意するに足らないと思う。以上のような理由で、本職は真珠湾作戦に反対である」。

 このような南雲中将の主張を聞いて、連合艦隊の幕僚たちは顔を見合わせた。南雲中将の言にも一理はある。ことに軍令部ではだいたい南方作戦一本鎗の方針だった。

 真珠湾を主唱するものは連合艦隊司令長官・山本五十六大将であるが、南雲中将は、当の真珠湾作戦の最高指揮官たるべき人である。幕僚たちが顔を見合わせたのも無理はなかった。

 だが、山本大将は、相変わらず黙然と、目を閉じたままだった。

 「本職は、真珠湾作戦に全面的に賛成であります」。一座の視線がサッと声の主に注がれた。第二航空戦隊司令官・山口多聞少将だった。山口少将は、やや上気持した顔をこわばらせて、次の様に論じた。

 「南雲長官の言われる通り、真珠湾作戦には、多分に投機的な性格はあります。しかし、南方作戦を前にして、太平洋に重圧を加えている米国艦隊をほっておくということはない」

 「アメリカ海軍は闘志極めて旺盛である。必ずや太平洋艦隊は英蘭豪の艦隊をも糾合して、我が南方作戦へ反撃してくることは必至であります」

 「たとえ上陸に成功しても、補給線を攪乱され、もしくは艦隊の虚に乗じて本土を脅かされるような事態が生じたならば、作戦は収拾のつかないものになる恐れがあります」

 「ゆえに、真珠湾への一撃は、作戦上まずなさなくてはならぬことと認めます。しかも我々の主敵はアメリカ海軍であります。兵力二分の不利を言われるならば我が艦隊の空母勢力はむしろ全部を上げて真珠湾に指向するのが至当です」

 「私のみるところでは、南浦作戦など無防備に等しい地域だから、海軍の全勢力を注ぎ込むほどの事は無い、むしろ緒戦の主作戦はハワイに指向するのが本筋ではないかと思います」

 「以上のような理由から、本職は真珠湾作戦に全面的に賛成で、この成功に、万全の方法を講ずることを望みます」。

 一座は急に騒然とした。賛否両論が確然として対立したのである。南雲中将の所見に賛同の意を表す者と、山口少将の考えを是なりとする者とがはっきり分かれたのである。

 だが、そこまで来ても山本大将は、黙って一座の議論に耳を傾けていた。そして、みんなの議論が出尽くした頃、山本大将は厳然として、次のように言った。

 「真珠湾作戦に対する諸官の見解はよくわかった。しかし、本職の見解は、あくまで真珠湾はたたかねばならぬと思う。

 それは激しい口調だった。一座はしんと静まった。山本大将はきっと一座を見まわして次のように続けた。
 
 「諸官は、本職が連合艦隊司令長官の職にある限り、この作戦は決行するものとお含み願いたい。そして万全の措置を研究しおかれたい」。

 一座の者は、山本大将の固い決意を改めて感じた。





560.源田実海軍大佐(20)この作戦は、作戦自体に内蔵する投機的な要素が多すぎる

2016年12月16日 | 源田実海軍大佐
 「真珠湾攻撃」(淵田美津雄・PHP文庫)によると、真珠湾奇襲作戦の作戦計画案の概略が述べられた後、山本五十六大将が次の様に述べた。

 「作戦計画の概要は以上のとおりである。南方作戦の完遂を期するには、どうあっても、真珠湾作戦がなくてはならぬのであるが、いわば投機的なところもあって、失敗すると全作戦を台無しにする危険がある。この点に関して、当の作戦部隊である諸官の、忌憚のない意見を聞きたい」。

 山本大将はじろりと一座を見渡した。誰も一言も発しなかった。軽々しくは言葉が出ないのだった。しばらくして、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将が第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐に声をかけた。南雲中将と源田中佐のやりとりは次の通り。

 南雲中将「源田参謀」。

 源田中佐「はい」。

 南雲中将「貴官は飛行機だけで、この攻撃がやれる考えか」。

 源田中佐「はい。敵艦隊が在泊してさえおれば、飛行機だけで充分やれると思います」。

 南雲中将「どのくらいの兵力でやるか」。

 源田中佐「第一航空艦隊の全航空母艦の搭載兵力があれば、成功すると思います」。

 南雲中将「護衛の艦隊は……」。

 源田中佐「出撃途上、敵水上艦艇との遭遇にそなえて戦艦に巡洋艦、各二隻程度と警戒用の駆逐艦が少々あればいいと思います」。

 南雲中将「攻撃の主目標は……」。

 源田中佐「第一に空母、次に戦艦をねらいます」。

 南雲中将「未然に敵に企図を察知され、激撃された場合は……」。

 一座の視線が、期せずして源田中佐の上に集まった。一番の問題が、それであった。真珠湾まで、マーシャルからでも、二〇〇〇浬(カイリ=三七〇四キロ)余りある。これを往復するには、大型軍艦はともかく、足の短い駆逐艦を連れて行く以上、当然給油戦が必要になる。

 足ののろい給油船を引っ張っているところを、逆に米艦隊から攻撃でもかけられたら、ひとたまりもない。それでも果たして勝算があるのか。一座の視線が源田中佐に集まったのも当然であった。

 源田中佐「洋上に雌雄を決するほかありません。しかし、その場合、我に圧倒的航空兵力がありますから、洋上での敵艦隊との会敵はさして心配はありません。むしろ思う壺かも知れません。問題は敵の基地航空兵力であると思います。優勢な航空基地を相手としての強襲は相当な犠牲を覚悟せねばならないと思います。したがって企図は、あくまで敵に察知されぬようにすることが肝要であります」。

 南雲中将「ふむ。つまり奇襲だな」・

 源田中佐「はい……攻撃時期は、夜明け前がいいと思います」。

 南雲中将「ふむ。しかし……」。

 南雲中将の追及は急だった。

 南雲中将「いよいよ事態緊迫を告げ、開戦の危機迫るとなった暁に、アメリカ艦隊がべんべんと真珠湾に碇泊しておるだろうか。また、洋上の諸島嶼の基地からは哨戒機が飛び、おそらく厳重な警戒網が張られるだろう。この警戒網を脱過するということは、ほとんど不可能にも等しい」。

 南雲中将は、そこで言葉を切り、軽い興奮さえみせながら続けた。
 
 南雲中将「もし敵の哨戒機の一機または潜水艦一隻にでも発見されるならば、激撃を受けるのは必至であり、作戦挫折せんやも測りがたい。そうなれば累を南方作戦に及ぼすばかりか、爾後の全戦局を破局に導くことは明らかである」。

 源田中佐は、それに答えず、沈黙したままだった。すると、南雲中将は、今度は山本大将の顔を見上げ、次のように言った・

 「本職は、この作戦は、作戦自体に内蔵する投機的な要素が多すぎると思います」。

 山本大将も、なんとも答えなかった。軽く目を閉じ、腕を組んで、耳を傾けているだけだった。




559.源田実海軍大佐(19)分散配備という固定観念にとりつかれているから駄目なんだ

2016年12月09日 | 源田実海軍大佐
 ある日、東京市内の映画館に入り、ニュース映画を観ていると、アメリカ海軍の正規空母「レキシトン」「サラトガ」「エンタープライズ」など四隻が単縦陣(一列縦隊)で航行する場面が出て来た。

 空母は分散するものとされている日本海軍では、空母が単縦陣で航行するのは出入港以外にはなく、それも二隻止まりだった。

 「米海軍は変わったことをやる。航空母艦を戦艦のように扱っている」と源田少佐は異様に思った。数日後、源田少佐は、ハッと思いついた。それは次のような着想だった。

 「なんだ母艦を一か所に集めればいいじゃないか。それなら空中集合も問題ない。分散配備という固定観念にとりつかれているから駄目なんだ」。

 源田少佐は、数日間、この着想を検討・研究し、次の様な結論を導き出した。

 「飛行機隊の空中集合は、各母艦が視界内にいるから、いかに大編隊でも問題ない。集中配備の最大欠陥は、敵索敵機に発見された場合、全母艦がその位置を露呈し、敵襲によって全戦闘力を失うことだ」

 「しかし、『赤城』『加賀』『蒼竜』『飛竜』の四隻を集中配備すれば、各艦が搭載戦闘機一八機のうち半数を攻撃隊援護にまわしても、残る三六機で母艦四隻を護衛することができる。さらに二隻の母艦が加われば、五四機で護衛できる」

 「対空砲火も、周囲に配した巡洋艦、駆逐艦などの火器を合わせれば、一〇〇ないし二〇〇門の高角砲と、三〇〇門以上の二〇ミリ機銃によって、厳重な防火網を構成できる。集中配備をやるべきだ」。

 昭和十五年十一月一日、源田実少佐は第一航空戦隊参謀に就任し、十一月十五日、中佐に進級した。この間、「空母集中配備」の思想をますます強めていった。

 太平洋戦争中の批判も少なくない源田実海軍大佐だが、海軍軍人としては、先見の明のある参謀型の人物であり、合理性に富んだ思考形態は天性のものであったが、同時に奇想天外の発想を好んだ。

 昭和十六年一月下旬、連合艦隊司令長官・山本五十六大将は、真珠湾攻撃の研究を第一一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将に依頼した。

 二月、鹿屋航空基地の参謀長室で、源田中佐は、第一一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将から、ハワイ奇襲作戦の構想を打ち明けられた。

 連合艦隊司令長官・山本五十六大将の発案であり、山本大将からの手紙も見せられた。大西少将は源田中佐に作戦計画案を早急に作成するよう依頼した。源田中佐は二週間で仕上げ提出した。

 三月中旬、大西少将がその素案に手を加えて山本大将に提出した。雷撃の修正はあったものの、これが真珠湾攻撃の作戦計画の発端であった。

 昭和十六年四月十日、第一航空艦隊が編成され、源田実中佐は、第一航空艦隊甲航空参謀に補され、空母「赤城」乗組となった。三十六歳だった。

 第一航空艦隊司令長官は南雲忠一(なぐも・ちゅういち)中将(山形・海兵三六・八番・海大一八・軍令部第一部第二課長・一等巡洋艦「高雄」艦長・戦艦「山城」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・第三戦隊司令官・水雷学校校長・第三戦隊司令官・中将・海軍大学校校長・第一航空艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・中部太平洋方面艦隊司令長官・戦死・大将・功一級)だった。

 第一航空艦隊が編成された後に、瀬戸内海に碇泊中の連合艦隊旗艦「長門」に、第一航空艦隊の幹部が呼ばれた。

 長官公室の中央には連合艦隊司令長官・山本五十六大将が控え、第一航空艦隊司令長官・南雲忠一中将ら艦隊指揮官の将星、連合艦隊参謀が顔を揃えた。第一航空艦隊甲航空参謀・源田実中佐も出席していた。

 その中には第二航空戦隊司令官・山口多聞(やまぐち・たもん)少将(島根・海兵四〇・次席・海大二四・次席・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第五艦隊参謀長・第一連合航空隊司令官・第二航空戦隊司令官・戦死・中将・功一級)もいた。




558.源田実海軍大佐(18)「シバ、同じ飛行機なら、俺の方が貴様より体重が軽い分だけ、空戦に強いぞ

2016年12月02日 | 源田実海軍大佐
 そもそもこの源田少佐と柴田少佐の論争は、前回の一月十七日、十二試艦戦計画要求書についての官民合同研究会終了後の、帰り道、肩を並べて歩いていた源田少佐と柴田少佐の話題は、おのずと空戦性能の問題になったのだ。

 初めのうちは穏やかな話し合いだったが、源田少佐が「空戦性能を強くするには、機体の重量を軽くし、翼面荷重を少しでも小さくすべきだ」と主張した。

 すると、柴田少佐が「原則的にはその通りだが、必ずしも翼面荷重だけでは決められない。他の要素も合わせて考える必要がある」と反論した。

 二人のやり取りは次第にエスカレートし、感情的になっていった。

 源田少佐「シバ、同じ飛行機なら、俺の方が貴様より体重が軽い分だけ、空戦に強いぞ」。

 柴田少佐「何を言うか、ゲン。少しくらい重くたって、俺は勝てるさ」。

 当時源田少佐は柴田少佐より十キロほど体重が軽かった。少佐とはいえ、二人ともまだ三十歳を少し過ぎたばかりの血気盛んな年頃だったが、この時の論争が、四月十三日の審議会まで尾を引き、激しい論戦の展開となった。

 昭和十三年三月上旬、源田少佐は江田島の海軍兵学校で、中国中部における航空戦の話を全校生徒に対して行った。

 海軍兵学校の生徒に対して、航空用兵の講話や海軍軍備のあり方等、多分に高等用兵に属する事項を話しても意味はあまりないし、弊害が伴うことも予想せられるので、源田少佐は前線における航空部隊の将兵が、どんな気持ちで戦闘を遂行しているかを話した。

 そして、源田少佐は話の締めくくりとして、次の様に述べた。
 
 「航空隊は、上は司令から下は一整備兵に至るまで、航空作戦の推移が戦局全般を支配する最大要素であるとの信念を持って、任務の遂行に当たっている」

 「この思想が全航空部隊に一貫して流れ、かつ徹底していることが、我が海軍航空部隊に赫々(かくかく)たる戦果をもたらせているのである」。

 ところが、この話が気に障った、海軍兵学校教頭・角田覚治(かくた・かくじ)大佐(新潟・海兵三九・四十五番・海大二三・砲術学校教官兼水雷学校教官・上海特別陸戦隊参謀・大佐・二等巡洋艦「木曾」艦長・一等巡洋艦「古鷹」艦長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・海軍兵学校教頭・戦艦「山城」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・佐世保鎮守府参謀長・第三航空戦隊司令官・第四航空戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第一航空艦隊司令長官・テニアン島で戦死)は、全校生徒に向けて次の様に訓示した。

 「只今の話は、お前たち生徒の生涯を通じて、血となり肉ともなるものである。しかし、改めて注意しておくが、我々は飛行機がなくても戦闘をやるのである。航空部隊の協力は望ましいけれども、それに頼るわけにはいかないのである」。

 当時、この思想は海軍の砲術関係者や水雷関係者等の中に、相当根強くはびこっていた。源田実は戦後次の様に述べている。

 「飛行機の協力が単に望ましい程度のもので、制空権なるものが戦闘の勝敗に対し二次的要素を占めるに過ぎないものでしかなかったかどうかは、太平洋戦争の経過が最も雄弁に物語っている」

 「角田覚治大佐は、後に第一航空艦隊司令官として、マリアナ列島攻防戦に臨み、遂にテニアンで壮烈な最期を遂げた人である」

 「武将としては最も尊敬すべき性格、すなわち、見敵必戦、ネルソン的闘将であった。その最期なども見事なもので、数ある海軍の闘将の中でも、山口多聞中将や、大西瀧治郎中将にも匹敵すべき攻撃精神の持ち主であった」

 「これらの人々がもっともっと早く航空が海軍戦略戦術の上に占めうる位置を認識して、軍備の改変に努力していたならば、戦争はもっと変わった経過をたどったであろうことを思うと、惜しまれてならない」。

 昭和十五年十月、駐英国日本大使館附武官補佐官の勤務を終えて帰国した源田実少佐は、第一航空艦隊参謀に予定されていた。

 「航空作戦参謀・源田実」(生出寿・徳間文庫)によると、当時、源田少佐は、海軍兵学校一期上の飛行将校・平本道隆中佐(広島・海兵五一・海大三四・第一航空艦隊参謀・大佐・第三南遣艦隊参謀)から「来年度の艦隊では母艦群の統一指揮が重要な研究項目になる」と言われ、分散配備の空母部隊の統一指揮を考えた。