「海軍航空隊、発進」(源田実・文春文庫)によると、次期戦闘機の機種選定の対象となった戦闘機は、中島飛行機で製作した「九〇戦改」(後の九五式艦上戦闘機)と、中島、三菱、両者の競争試作によって出て来た「九試単戦」の二機だった。
中島製の「九試単戦」は低翼単葉で、要求性能は一応満足していたが、特にこれといった特徴は無かった。
問題は三菱の試作機だった。この飛行機に最初に乗ったのは小林淑人(こばやし・よひと)少佐(鳥取・海兵四九・第一一期航空術学生・空母「赤城」分隊長・イギリス飛行学校留学・横須賀航空隊分隊長・特殊編隊飛行(アクロバット)チーム初代リーダー・空母「加賀」分隊長・少佐・横須賀航空隊飛行隊長・空母「龍驤」飛行長・第二航空戦隊参謀・中佐・航空本部・航空技術廠飛行実験部・第二五三海軍航空隊司令・大佐・航空本部教育部第二課長・横須賀航空隊副長)だった。
小林少佐が三菱の試作機で飛行試験すると、最高速力(高度三〇〇〇メートル)は、要求の二一〇ノット(時速三〇〇キロ)を二〇ノットも上回る二三〇ノット(時速四二五キロ)も出たということだった。
当時、この速力はまさに列強戦闘機の最高水準をはるかに抜いたものだった。横須賀航空隊の士官室でこの話を聞いた多くの人は、自分の耳を疑った。
「ほんとかあ、その話は」「いや、各務ヶ原(試験飛行をしていた飛行場)は、空気密度が薄いんだろうよ」などという会話が随所で行われていた。
ところが、設計者の堀越二郎(ほりこし・じろう)技師(群馬・東京帝国大学工学部航空学科(首席)卒業・三菱内燃機製造入社・ヨーロッパ・アメリカ留学・設計主任・九試単座戦闘機設計・十二試艦上戦闘機(後の零戦)設計・戦後YS-11設計・新三菱重工入社・参与・東京大学宇宙航空研究所講師・東大工学博士・防衛大学校教授・日本大学生産工学部教授・勲三等旭日中綬章・従四位)と小林少佐はそんな噂などには耳を貸さず、試験飛行を進めた。
その結果、試験飛行は、ぐんぐんと伸びていった。速力も二三〇ノットをだんだんと上回り、最終的に得た最高速度は二四三ノット(時速四九五キロ)であった。この数字はまさに驚異的なものであり、机上の航空関係者は、天にも昇るほどに喜んだ。
源田大尉は、その後、各務ヶ原に行って、小林少佐と共にこの飛行機の飛行実験に従事し、この飛行機が速力や上昇力、ことに速力において容易ならざるものを持っていることを、体験を通じて確かめた。
だが、戦闘機に必要な性能はこれだけではない。格闘戦(ドッグ・ファイティング)性能や、射撃性能がある。
戦闘機の空中戦闘というものは、オリンピック競技の中の、ランニングとレスリングを一緒にして様なものである。敵の戦闘機を相手にするときには、旋回性能、操縦性能、上昇力、射撃性能が優れていなければならない。
一方、横須賀海軍航空隊においては、戦闘機分隊長として岡村基春(おかむら・もとはる)大尉(高知・海兵五〇・第一二航空隊飛行隊長・中佐・第三航空隊司令・第二〇二海軍航空隊司令・第五〇二海軍航空隊司令・神ノ池海軍航空隊司令・大佐・第三四一海軍航空隊司令・特攻隊を進言・特攻兵器「桜花」部隊である第七二一海軍航空隊<神雷部隊>司令・戦後鉄道自殺)が徹底的に研究した。
岡村大尉の研究の結果、いろんな要求を調和せしめて試作されたのが、中島飛行機で製作した「九〇戦改」であった。
昭和十年八月、横須賀航空隊の隣の航空技術廠で、中島飛行機の「九〇戦改」と、中島・三菱の「九試単戦」のうち、どちらを次期戦闘機として選ぶかという会議が開かれた。
会議の参加者は、航空本部の戦闘機担当者、航空技術廠長・前原謙治(まえはら・けんじ)中将(山口・海兵三二・航空本部総務部長・少将・横須賀工廠造兵部長・航空技術廠長・中将・予備役・軍需省軍需官・第二軍需廠長官)以下同廠幹部。
横須賀航空隊からは、横須賀航空隊教頭・大西瀧治郎大佐以下横空の実験関係者が参加した。
中央当局は、画期的性能の三菱の「九試単戦」を採用決定に持ち込もうとし、その腹案を持って会議に参加した。
中島製の「九試単戦」は低翼単葉で、要求性能は一応満足していたが、特にこれといった特徴は無かった。
問題は三菱の試作機だった。この飛行機に最初に乗ったのは小林淑人(こばやし・よひと)少佐(鳥取・海兵四九・第一一期航空術学生・空母「赤城」分隊長・イギリス飛行学校留学・横須賀航空隊分隊長・特殊編隊飛行(アクロバット)チーム初代リーダー・空母「加賀」分隊長・少佐・横須賀航空隊飛行隊長・空母「龍驤」飛行長・第二航空戦隊参謀・中佐・航空本部・航空技術廠飛行実験部・第二五三海軍航空隊司令・大佐・航空本部教育部第二課長・横須賀航空隊副長)だった。
小林少佐が三菱の試作機で飛行試験すると、最高速力(高度三〇〇〇メートル)は、要求の二一〇ノット(時速三〇〇キロ)を二〇ノットも上回る二三〇ノット(時速四二五キロ)も出たということだった。
当時、この速力はまさに列強戦闘機の最高水準をはるかに抜いたものだった。横須賀航空隊の士官室でこの話を聞いた多くの人は、自分の耳を疑った。
「ほんとかあ、その話は」「いや、各務ヶ原(試験飛行をしていた飛行場)は、空気密度が薄いんだろうよ」などという会話が随所で行われていた。
ところが、設計者の堀越二郎(ほりこし・じろう)技師(群馬・東京帝国大学工学部航空学科(首席)卒業・三菱内燃機製造入社・ヨーロッパ・アメリカ留学・設計主任・九試単座戦闘機設計・十二試艦上戦闘機(後の零戦)設計・戦後YS-11設計・新三菱重工入社・参与・東京大学宇宙航空研究所講師・東大工学博士・防衛大学校教授・日本大学生産工学部教授・勲三等旭日中綬章・従四位)と小林少佐はそんな噂などには耳を貸さず、試験飛行を進めた。
その結果、試験飛行は、ぐんぐんと伸びていった。速力も二三〇ノットをだんだんと上回り、最終的に得た最高速度は二四三ノット(時速四九五キロ)であった。この数字はまさに驚異的なものであり、机上の航空関係者は、天にも昇るほどに喜んだ。
源田大尉は、その後、各務ヶ原に行って、小林少佐と共にこの飛行機の飛行実験に従事し、この飛行機が速力や上昇力、ことに速力において容易ならざるものを持っていることを、体験を通じて確かめた。
だが、戦闘機に必要な性能はこれだけではない。格闘戦(ドッグ・ファイティング)性能や、射撃性能がある。
戦闘機の空中戦闘というものは、オリンピック競技の中の、ランニングとレスリングを一緒にして様なものである。敵の戦闘機を相手にするときには、旋回性能、操縦性能、上昇力、射撃性能が優れていなければならない。
一方、横須賀海軍航空隊においては、戦闘機分隊長として岡村基春(おかむら・もとはる)大尉(高知・海兵五〇・第一二航空隊飛行隊長・中佐・第三航空隊司令・第二〇二海軍航空隊司令・第五〇二海軍航空隊司令・神ノ池海軍航空隊司令・大佐・第三四一海軍航空隊司令・特攻隊を進言・特攻兵器「桜花」部隊である第七二一海軍航空隊<神雷部隊>司令・戦後鉄道自殺)が徹底的に研究した。
岡村大尉の研究の結果、いろんな要求を調和せしめて試作されたのが、中島飛行機で製作した「九〇戦改」であった。
昭和十年八月、横須賀航空隊の隣の航空技術廠で、中島飛行機の「九〇戦改」と、中島・三菱の「九試単戦」のうち、どちらを次期戦闘機として選ぶかという会議が開かれた。
会議の参加者は、航空本部の戦闘機担当者、航空技術廠長・前原謙治(まえはら・けんじ)中将(山口・海兵三二・航空本部総務部長・少将・横須賀工廠造兵部長・航空技術廠長・中将・予備役・軍需省軍需官・第二軍需廠長官)以下同廠幹部。
横須賀航空隊からは、横須賀航空隊教頭・大西瀧治郎大佐以下横空の実験関係者が参加した。
中央当局は、画期的性能の三菱の「九試単戦」を採用決定に持ち込もうとし、その腹案を持って会議に参加した。