陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

549.源田実海軍大佐(9)この速力はまさに列強戦闘機の最高水準をはるかに抜いたものだった

2016年09月30日 | 源田実海軍大佐
 「海軍航空隊、発進」(源田実・文春文庫)によると、次期戦闘機の機種選定の対象となった戦闘機は、中島飛行機で製作した「九〇戦改」(後の九五式艦上戦闘機)と、中島、三菱、両者の競争試作によって出て来た「九試単戦」の二機だった。

 中島製の「九試単戦」は低翼単葉で、要求性能は一応満足していたが、特にこれといった特徴は無かった。

 問題は三菱の試作機だった。この飛行機に最初に乗ったのは小林淑人(こばやし・よひと)少佐(鳥取・海兵四九・第一一期航空術学生・空母「赤城」分隊長・イギリス飛行学校留学・横須賀航空隊分隊長・特殊編隊飛行(アクロバット)チーム初代リーダー・空母「加賀」分隊長・少佐・横須賀航空隊飛行隊長・空母「龍驤」飛行長・第二航空戦隊参謀・中佐・航空本部・航空技術廠飛行実験部・第二五三海軍航空隊司令・大佐・航空本部教育部第二課長・横須賀航空隊副長)だった。

 小林少佐が三菱の試作機で飛行試験すると、最高速力(高度三〇〇〇メートル)は、要求の二一〇ノット(時速三〇〇キロ)を二〇ノットも上回る二三〇ノット(時速四二五キロ)も出たということだった。

 当時、この速力はまさに列強戦闘機の最高水準をはるかに抜いたものだった。横須賀航空隊の士官室でこの話を聞いた多くの人は、自分の耳を疑った。

 「ほんとかあ、その話は」「いや、各務ヶ原(試験飛行をしていた飛行場)は、空気密度が薄いんだろうよ」などという会話が随所で行われていた。

 ところが、設計者の堀越二郎(ほりこし・じろう)技師(群馬・東京帝国大学工学部航空学科(首席)卒業・三菱内燃機製造入社・ヨーロッパ・アメリカ留学・設計主任・九試単座戦闘機設計・十二試艦上戦闘機(後の零戦)設計・戦後YS-11設計・新三菱重工入社・参与・東京大学宇宙航空研究所講師・東大工学博士・防衛大学校教授・日本大学生産工学部教授・勲三等旭日中綬章・従四位)と小林少佐はそんな噂などには耳を貸さず、試験飛行を進めた。

 その結果、試験飛行は、ぐんぐんと伸びていった。速力も二三〇ノットをだんだんと上回り、最終的に得た最高速度は二四三ノット(時速四九五キロ)であった。この数字はまさに驚異的なものであり、机上の航空関係者は、天にも昇るほどに喜んだ。

 源田大尉は、その後、各務ヶ原に行って、小林少佐と共にこの飛行機の飛行実験に従事し、この飛行機が速力や上昇力、ことに速力において容易ならざるものを持っていることを、体験を通じて確かめた。

 だが、戦闘機に必要な性能はこれだけではない。格闘戦(ドッグ・ファイティング)性能や、射撃性能がある。

 戦闘機の空中戦闘というものは、オリンピック競技の中の、ランニングとレスリングを一緒にして様なものである。敵の戦闘機を相手にするときには、旋回性能、操縦性能、上昇力、射撃性能が優れていなければならない。

 一方、横須賀海軍航空隊においては、戦闘機分隊長として岡村基春(おかむら・もとはる)大尉(高知・海兵五〇・第一二航空隊飛行隊長・中佐・第三航空隊司令・第二〇二海軍航空隊司令・第五〇二海軍航空隊司令・神ノ池海軍航空隊司令・大佐・第三四一海軍航空隊司令・特攻隊を進言・特攻兵器「桜花」部隊である第七二一海軍航空隊<神雷部隊>司令・戦後鉄道自殺)が徹底的に研究した。

 岡村大尉の研究の結果、いろんな要求を調和せしめて試作されたのが、中島飛行機で製作した「九〇戦改」であった。

 昭和十年八月、横須賀航空隊の隣の航空技術廠で、中島飛行機の「九〇戦改」と、中島・三菱の「九試単戦」のうち、どちらを次期戦闘機として選ぶかという会議が開かれた。

 会議の参加者は、航空本部の戦闘機担当者、航空技術廠長・前原謙治(まえはら・けんじ)中将(山口・海兵三二・航空本部総務部長・少将・横須賀工廠造兵部長・航空技術廠長・中将・予備役・軍需省軍需官・第二軍需廠長官)以下同廠幹部。

 横須賀航空隊からは、横須賀航空隊教頭・大西瀧治郎大佐以下横空の実験関係者が参加した。

 中央当局は、画期的性能の三菱の「九試単戦」を採用決定に持ち込もうとし、その腹案を持って会議に参加した。




548.源田実海軍大佐(8)とんでもない答えが返って来た。「いや、別に何とも思わなかったよ」

2016年09月23日 | 源田実海軍大佐
 さて、「海軍航空隊発進」(源田実・文春文庫)によると、源田実大尉が横須賀海軍航空隊分隊長に就任した頃、横須賀航空隊教頭兼副長として着任したのが、大西瀧治郎大佐だった。

 源田実は、戦後、「日本海軍の航空隊の生い立ちを語るにあたって、欠かすことのできない人物は、大西瀧治郎中将だった」と述べている。
 
 「真珠湾作戦回顧録」(源田実・文春文庫)によると、源田実の大西瀧治郎中将に対する初印象は、「ずいぶん、ゆっくり歩く人だ」ということであった。

 以後、終戦までの十年間、源田実は、いろんな面で接触し、指導を受けたが、ついぞ、この人が走ったのを見たことがなかった。

 どんな緊急を要する場合でも、急ぎ足で歩く事さえ無く、早口でしゃべったり、あわてふためいた姿を見る事は無かった。

 第一次世界大戦中の大正六年、インド洋方面で、日本の常陸丸が行方不明になった。ドイツの巡洋艦に攻撃され撃沈されたのだ。

 撃沈の情報がまだ入っていない時、当時、特務艦隊司令部附の大西瀧治郎中尉に、常陸丸捜索命令が出された。

 郵船の筑前丸に水上機を積み込み、大西中尉は捜索に向かった。だが、大西中尉の搭乗機は、捜索中に、エンジントラブルで、無人のサンゴ礁付近に不時着水した。

 広い海原には他の船影も無く、不時着水した飛行機の周囲には、どう猛なフカの群れが動き回っていた。大西中尉は後に救助された。

 この時のことについて、源田実大尉が、大西大佐に「こわかったでしょうね?」と聞くと、とんでもない答えが返って来た。「いや、別に何とも思わなかったよ」。

 前々から大西大佐という人は、とても太っ腹で豪胆な人だとは聞いていたが、源田大尉は、さすがにあっけにとられてしまった。

 また、ずっと後の昭和十三年一月、源田少佐は南京から内地に帰り、横須賀航空隊の飛行隊長を命ぜられ、横須賀の料亭「魚勝」で、当時、航空本部教育部長だった大西大佐と飲んだ。

 その時に、日中戦争初期(昭和十二年八月)の話が出た。大西大佐は前線視察で、済州島の木更津航空隊を訪問した。

 ある夜、入佐俊家(いりさ・としいえ)大尉(鹿児島・海兵五二・第一五海軍航空隊飛行隊長・霞ヶ浦海軍航空隊飛行隊長兼教官・鹿屋海軍航空隊飛行隊長・ジャワ沖海戦・中佐・第七五一海軍航空隊飛行長・海軍兵学校教官兼監事兼岩国海軍航空隊教官・兼岩国海軍航空隊飛行長・第六〇一海軍航空隊司令兼副長・兼空母「大鳳」飛行長・空母「大鳳」が米潜水艦の雷撃で撃沈・戦死・少将特別進級)を指揮官とする爆撃隊が南京空襲を行なうことになった。

 大西大佐は、入佐俊家大尉が指揮する南京空襲部隊において、二番機の飛行機(九六式陸上攻撃機・乗員五~七名)に同乗した。入佐大尉は、名パイロットであり、名指揮官でもあった。

 南京爆撃後、帰途に、爆撃隊は中国軍のカーチスホーク戦闘機に追跡され攻撃を受けた。中攻の排気管から出る炎を目印に、一三ミリ機銃で狙い撃ちして来たのだ。

 日本海軍の爆撃隊は一機また一機と撃墜され、最後には入佐大尉の指揮官機と大西大佐の搭乗している二番機だけになってしまった。

 この話を聞いた源田大尉が「その時はさぞ気持ちが悪かったでしょうね。私は黄浦江を駆逐艦で航行している時、陸岸から小銃で撃たれたのが、敵弾の下をくぐった最初でしたが、どうも横腹のあたりがむずむずして困りました」と言うと、大西大佐は次のように言った。

 「源田、貴様は偉い。恐ろしいということを感じる余裕がある。俺などは、そんな余裕はなかった。ただ、今度は俺の番かなと思っただけで、恐ろしくも何ともなかった」。

 これが大西大佐の答えであった。「この人の出来は、ちょっと我々では計り知れないものがある」と源田大尉は思った。以後も源田実は大西中将が何かに恐れた表情をしたのを見た事は無かった。

 昭和十年二月から三月にかけて、横須賀航空隊では、隣の航空技術廠と協力して、いわゆる次期戦闘機の機種選定実験が行われていた。




547.源田実海軍大佐(7)源田の作戦指導面の拙劣さは「見せ物的飛行」によってカモフラージュされている

2016年09月16日 | 源田実海軍大佐
 そこで、源田大尉たちが考えたのは、単座急降下爆撃機だった。単座ならば、乗員一人分の体重、装備品、座席回り等に費やす重量を、燃料に換えることができる。それだけ航続力が長くなる。

 この着想は、前年、源田大尉が横須賀航空隊戦闘機分隊にいて、戦闘機による急降下爆撃に研究をしていたが、間瀬平一郎兵曹長が源田大尉に語ってくれた着想だった。

 空母「赤城」での研究会の席上、源田大尉は次のように主張した。

 「制空権の帰趨が、戦闘の勝敗を決定することが明らかなのであるから、是が非でも制空権を獲得しなければならない」

 「我が海軍では戦闘機隊は主として艦隊の上空警戒に使われているが、もっと攻撃的な用法をなすべきだと考えます」

 「そのためには、戦闘機隊、攻撃隊の各半数を単座急降下爆撃機とし、敵空母の先制攻撃に当てるべきであります」

 「単座ならば、座席の少ないだけ燃料が余計に搭載できるから、それだけ攻撃距離が延伸できます。もちろん、この飛行機は敵空母の先制攻撃が主任務なのでありますが、爆弾を投下した後は、若干性能は劣るかもしれないが、単座なるがゆえに、戦闘機として流用し得るのであります」

 「また単座である関係上、航法上の不安がありますが、それには二座の嚮導機(先導機)をつければよいし、たとえ嚮導機がなくても、捜索列を展張すればある程度の航法は可能であります」。

 以上の源田大尉の主張に対して、誰も賛成する者がいなかった。攻撃隊の搭乗員たちは「攻撃のことは、俺たちに任せておけ」という気持ちだったし、戦闘機隊の者たちは、自分たちの職分をはずれたことだと思っていたのだ。

 だが、山本司令官の考えは違っていた。この源田大尉の主張に対して、次の様に述べた。

 「源田大尉の意見について、自分はこう考える。だいたい、飛行機を防御に使うという考え方が誤っている。したがって、単座急降下爆撃機という思想は当然とも考えられる」

 「がしかし、統帥の上から考えるならば、海軍の中央当局は、やはり二座を採用するであろう。旅順口の閉塞計画に、東郷長官が最後の承認を与えられたのは、やはり閉塞隊員の収容方法に、ある程度の目途がついた時であった」。

 山本少将の腹の中には、飛行機の用法について、他の人々が考え及ばない積極性があったのだが、これは後に、真珠湾攻撃の企図を知らされるまで、源田大尉らは分らなかった。

 昭和九年十一月、源田実大尉は横須賀海軍航空隊分隊長に任命された。三十歳であった。源田大尉は分隊長として、編隊特殊飛行の三代目リーダーになった。

 当時、報告号(九〇式艦上戦闘機)と呼ばれる献納機が多く、日本各地で行われた献納式で、源田大尉は編隊でアクロバット飛行を行った。

 源田サーカスと呼ばれ、有名になったが、このアクロバット飛行に使用したのも、この九〇式艦上戦闘機(複葉機・単座)であった。

 この源田サーカスについて、「源田実論」(柴田武雄・思兼書房)の中で、柴田武雄は、次の様に述べている。

 また、源田のスタンドプレーは有名であるが、その代表的なものは、源田サーカスと言われた『見せ物的飛行』である。

 ところで、その操縦は微妙な操作を必要とするので、むずかしい一面のあることは確かであるが、その操作の大部分は実戦の空中戦闘には使用しない。いや、外見は似ていても、内容はまるで違うとも言える。

 そして、空中戦闘における操縦技倆の優秀性は下士官兵を含めて一般の戦闘機パイロットに要求されるものであるが、源田のように航空の重要配置にある者は何よりも必要なことは作戦計画用兵指導等の優秀性である。

 ところが、今日に至るもなお、源田の作戦指導面の拙劣さは「見せ物的飛行」によってカモフラージュされている。これによっても源田の魔力(欺瞞性)がいかにもすごいものであるか、ということがわかる。

 以上のように、柴田武雄は、源田実の源田サーカスについて、批判的というより、これは、源田実の作戦指導面の愚劣・拙劣さをカモフラージュするものであると述べている。


546.源田実海軍大佐(6)私はこの方針には不賛成だ。こんな考え方をする者は罷めてしまえ

2016年09月09日 | 源田実海軍大佐
 また、連合艦隊参謀長は豊田副武(とよだ・そえむ)少将(大分・海兵三三・二十六番・海大一五・首席・二等巡洋艦「由良」艦長・海軍省教育局第一課長・戦艦「日向」艦長・少将・軍令部第二班長・連合艦隊参謀長・海軍省教育局長・中将・海軍省軍務局長・第四艦隊司令長官・第二艦隊司令長官・艦政本部長・大将・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・軍令部総長・功二級)だった。

 連合艦隊航空参謀は、加来止男(かく・とめお)中佐(熊本・海兵四二・四十三番・海大二五・十番・連合艦隊航空参謀・海軍大学校教官・大湊航空隊司令・大佐・木更津航空隊司令・水上機母艦「千代田」艦長・航空技術廠総務部長・空母「飛龍」艦長・戦死・少将)だった。

 昭和九年の連合艦隊司令長官・末次信正大将の下した年度教育方針の中に、「今後、事故によって飛行機を破損した者は、厳罰に処する方針である」というのがあった。

 源田大尉は、飛行機事故に対する、連合艦隊司令長官の方針について、次のように考えた。

 「飛行機は、重力に逆らって空中を飛んでいるのであるから、事故が多いのは自然の勢いである。誰も進んでけがをしたり、死にたいと思う者はいないのだから、事故の中には、過失とはいえ、大目に見なければならないものがある」

 「『航空事故の調査と自己責任の追及とは、ハッキリ区別しなければならない』とは、航空事故調査の鉄則である。事故調査でいちいち責任を追及していたのでは、関係各方面に対する思惑が重なって、事故の真相は決して明らかにならないだろう」

 「事故原因も突き止めることが出来なければ、同じような事故の再発を防止することはできないのである」。

 以上のような、源田大尉の考えと同様に、末次連合艦隊司令長官の「事故に対しては、厳罰をもって臨む」という方針に対しては、母艦乗員の中に、異論を持つものが少なくなかった。

 ちょっとした過失や、機材の故障で飛行機を破損した場合、いちいち処罰されるのでは、だれも前向きな姿勢で飛ぶものはいなくなるだろうと、源田大尉は思っていた。

 ほかならぬ、連合艦隊司令長官・末次大将の下したこの方針に、内心では不服に思っていても、誰も口に出して言う者はいなかった。

 当時、空母「赤城」の飛行隊長は、三和義勇(みわ・よしたけ)少佐(岡山・海兵四八・三十一番・海大三一・次席・霞ヶ浦航空隊副長兼教頭・大佐・連合艦隊参謀・第一一航空艦隊参謀・第一航空艦隊参謀長・戦死・少将)だった。

 昭和九年に、空母「赤城」で行われた第一航空戦隊の研究会で、三和少佐が、立ち上がって、「連合艦隊司令長官の飛行機事故に対する方針には、納得しかねるものがある」という意味の所見を述べた。

 第一航空戦隊司令官・山本五十六少将は、普通、議論が出尽くした後で、決断を下すのが例であったが、この時は、三和少佐の発言に直ちに応じて次の様に述べた。

 「この訓示は長官自身の発意か、参謀長(豊田副武少将)がいったのか、あるいは、そこにいる加来参謀(後の空母「飛龍」艦長・ミッドウェーで運命を共にする)が書いたのか、その出所は知らないが、およそ犠牲の上にも犠牲を重ねて前進しつつある航空界において、飛行機を壊した者は厳罰に処するなどという考え方で、航空部隊の進歩など期待できるはずがない」

 「私はこの方針には不賛成だ。こんな考え方をする者は罷めてしまえ、と言いたい。ただ、断っておくが、軍規違反による事故に対しては、処置はおのずから別である」。

 山本司令官のこの発言の裏には「第一航空戦隊に関する限りは、事故懲罰の方針は採らないから、みんな安心して訓練に邁進せよ。連合艦隊司令長官に対する責任は自分がとる」という含みがあった。

 源田実大尉は「ずいぶん思い切ったことを言う司令官」だと思ったが、同時に安心して思い切った訓練ができると感じた。

 この空母「赤城」での研究会では、敵の空母に対する先制攻撃のやり方が問題になった。当時の攻撃手段は、第一に水平爆撃、第二に雷撃、第三に急降下爆撃だった。

 この中で、日本海軍で実験研究に取り掛かっていた急降下爆撃が、敵空母の先制攻撃には最適であるというのが、当時の海軍航空界の定説だった。

 当時日米ともに急降下爆撃としては、二座機を考えていた。同じ二座機で、日本は二五〇キロ爆弾、アメリカは二二五キロ爆弾とすれば、飛行機の設計、製作能力が同等であるとしても、航続力においてアメリカの上に出ることはできない。

545.源田実海軍大佐(5)兵器の改善・発明等を軽視または無視している大馬鹿野郎だ

2016年09月02日 | 源田実海軍大佐
 次に、柴田大尉が立ち上がり、次の様な意見を述べた(要旨)。

 「吹き流し標的に対する射撃の成績を見てもわかるとおり、敵機にぶっつかるほど接近して射撃すれば、命中弾数および命中率(発射弾数に対する命中弾数)は確かに飛躍的に向上する」

 「しかし、戦闘機の固定機銃が攻撃機等の旋回機銃と比べて断然有利な点は、連続射撃における射弾の散布界が小さく、従って命中効率(単位時間における命中弾数)が高いということである」

 「このことを考慮しないで、至近の距離で旋回機銃と打ち合ったならば、命中効率は、散布界が大きく連続発射における命中率の低い旋回機銃と(機銃数を一対一とした場合)ほとんど一対一となり、一機をもって多数機を撃墜し得る、戦闘機固有の威力を減殺することとなる」

 「その実例の一端を、昨年(昭和七年)第一次上海事変において、小谷機に二〇メートルまで接近して被弾し白煙を吐いた、敵ボーイング戦闘機が示している」

 「なお、小谷機が撃墜されなかったのは、米人ロバート・ショートが、射撃が、あまり上手でなかったか、操縦者等の致命部に被弾しなかった小谷機が幸運であったか、そのいずれかであると思う」

 「したがって、戦闘機固有の威力を遺憾なく発揮するためには、被害を最小限にして有効な命中弾を得る適当な射距離から射撃する必要がある」

 「しかし、そのため射距離が多少延長する。従って命中効率が低下する。そこで、命中効力(命中効率+弾薬の威力)を向上させるため、優秀な照準器その他高性能の兵器弾薬等の発明、ならびに実戦的な訓練を実施する必要がある」。

 以上のように、柴田大尉は意見を述べた。

 ところが、柴田大尉の意見開陳が終わるか終わらないうちに、出席していた海軍航空本部技術部長・山本五十六(やまもと・いそろく)少将(新潟・海兵三二・十一番・海大一四・霞ヶ浦航空隊副長・兼教頭・在米国大使館附武官・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・空母「赤城」艦長・ロンドン会議全権随員・少将・航空本部技術部長・第一航空戦隊司令官・ロンドン会議予備交渉代表・中将・航空本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・戦死・元帥・正三位・大勲位・功一級)が、スックと立ち上がった。

 山本少将は、立ち上がると同時に、次の様に言って、柴田大尉らを叱責した。

 「いま、若い士官達から射距離を延ばすという意見が出たが、言語道断である。そもそも帝国海軍の今日あるは、肉迫必中の伝統的精神にある。今後、一メートルたりとも射距離を延ばそうとすることは、絶対に許さん」。

 柴田大尉はこれを聞いた瞬間、「この人は精神偏重に眼がくらみ、各国海軍とも、敵艦を遠くから射撃して撃沈するため、艦砲(兵器)の研究・開発・発明・発達に伴って射距離が伸びてきている、という歴史的な明白な事実、およびその自然必然性を忘れ、兵器の改善・発明等を軽視または無視している大馬鹿野郎だ(と言われても仕方がないようなことを、権力をかさに着て威張ってものを言っている)」と思った。

 昭和八年十二月源田実大尉は、空母「龍驤」の戦闘機分隊長に着任した。九〇式艦上戦闘機の一個分隊の指揮官だった。

 この時、源田大尉は初めて、山本五十六少将の部下として勤務した。

 「真珠湾作戦回顧録」(源田実・文春文庫)によると、第一航空戦隊は空母「赤城」「龍驤」の二隻と駆逐艦四隻で編成されており、第一航空戦隊司令官は、山本五十六少将だった。

 昭和九年、演習の後、第一航空戦隊の研究会が、旗艦である空母「赤城」の士官室で開かれた。研究会は、特別の制限がない限り、将校は誰でも参加ででき、発言できた。

 この研究会の席上で、意見が対立して収拾が困難な場合に、よく山本司令官が立ち上がって、明快な判断を下した。

 源田大尉は以前から、山本五十六という人は、なかなかの人物であるとは聞いていたが、本物にお目にかかったのは、この時が最初だった。

 昭和九年当時の連合艦隊司令長官は、末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大将(山口・海兵二七・海大七・首席・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・海軍大学校教官・ワシントン会議次席随員・少将・第一潜水戦隊司令官・海軍省教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴要塞司令官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内務大臣・内閣参議)だった。