陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

270.今村均陸軍大将(10)陸大の成績なんかを鼻にかけ、臆面もなくそんな横着なことをいう

2011年05月27日 | 今村均陸軍大将
 ある日宮中の侍従武官から今村中尉に次の様な電話がかかってきた。

 「今年も簡閲点呼視察のため数個師団に侍従武官がご差遣になる。ついては視察計画を立てる必要上、各師団の点呼施行予定表が集まっておれば、お見せ願いたい。三、四日の後にはお返しする」。

 そこで今村中尉は、十八個師団全部の点呼予定表を取りまとめ、一冊にとじ、歩兵課より侍従武官府あての包みとし、官房に差し出した。

 簡閲点呼というものは、師管内の陸軍在郷下士官兵を、その居住地から十二キロ以内の便宜の土地に集め、師団長により命ぜられた点呼執行官が、一日約三百名の健康状態、軍人精神、軍事能力保持の程度を、簡易の行事により、検閲するものである。

 やがて陸軍大臣官房高級副官の和田亀治大佐から省内電話で呼び出しがあった。

 副官室に出向くと、「貴官か。この簡閲点呼の計画表を差し出したのは」と和田大佐。今村中尉が「左様であります」と答えると、「この表は。師団ごとに大小さまざまの紙になっていて体裁が悪い。こんなみっともないものは、宮中に差し出すわけにはいかん」と言った。

 そこで今村中尉は次の様に答えた。

 「これは正式に宮中に差し出すものではなく、あて名は武官府になっておりますが、侍従武官がこちらに参って見るべきものです。が、便宜上二、三日貸してくれとの電話連絡によったもので、紙の大小は、師管の大きさ、とくに在郷軍人数が大きく差異があり、自然、執行官と、点呼場との数の違い、各師団のものを同一の大きさの紙に収めることは、出来ないものであります」。

 すると和田大佐はいかめしく、次の様に言った。

 「侍従武官府が、宮中に存在するものである以上、そこに送る書簡が、どんなことで陛下の御目に触れないものでもない。万一こんな不ぞろいの物を御覧に供することになっては、不敬になる。至急本日中に、同じ大きさの紙に清書して差し出しなさい」。

 今村中尉は歩兵課に帰って、歩兵課長・奥平俊蔵大佐(陸士七・陸大一六)に報告すると、奥平大佐は怒りだして、次の様に言った。

 「馬鹿も休み休み言えよ。『そんないらないことをするために、軍務局の職員や書記は備えられているものじゃない。どうしても同じ大きさの紙に揃えたいなら、官房の書記五、六名まわしてもらいたい』と、そう言って来給え」。

 今村中尉が、副官室に行き、奥平大佐の申し出をそのまま和田大佐に伝えると、「おだまりなさい」と大声一声。顔面を真っ赤に染め、椅子から立ち上がった。

 「貴官のような若年の将校が、陸大の成績なんかを鼻にかけ、臆面もなくそんな横着なことをいう」と、醜い顔をいよいよ醜くし、燃えるような眼で今村中尉をにらみつけた。

 今村中尉は陸軍大学校を首席で卒業し、天皇の御前で講演を行っていた。だが、今村中尉は和田大佐のいうところは、とるに足らんものであり、奥平大佐の主張のほうに道理があると思った。

 しかも公務上の見解の相違だけなのに、今村中尉の人格を辱めるような言をあたり一面にひびく大声で叱責するので、今村中尉は憤慨し、何も言わず、臆せず和田大佐の顔に視線を注いだ。

 すると、和田大佐は次の様に言った。

 「自分は旅順要塞攻囲作戦中、第一師団の大尉参謀をやっていた。そのときの旅団長の一人は師団長から攻撃命令を受けると、いつもすぐに兵力の不足を訴え、増援を申しだし、物笑いにされていた」

 「これに反し、鴨緑江軍の前田旅団長は、数倍の露軍の攻撃を受けながらも、軍司令部が敵の重囲下に陥ったのを知るや、最後の時に備えていた予備隊の大部を救援に差し出し、川村景明司令官以下を無事ならしめ、己は壮烈な戦死を遂げている」

 「歩兵課の書記全部を挙げ、なお手不足を感じてのことならともかく、やってもみないうちから官房書記を請求するなどは某旅団長のやり方とちっとも違っていない。軍人として恥ずべきことだぞ」。

 今村中尉は興奮していたので、和田大佐の言に服することをしないで、敬礼しただけで室を出てしまった。

 今村中尉は、そのまま黙って自分の課に戻った。上司の奥平課長には何も言わなかった。もし武官府から催促があったら、武官がこちらにやって来て必要なところを見てもらうことに交渉しようと、たかをくくっていた。

 だが、うわさを聞いた奥平大佐はかんかんになって、官房の副官室に行き、和田大佐に怒鳴り込み、大論争となり、遂には軍務局長にも訴える騒ぎとなった。

269.今村均陸軍大将(9)まだ中尉である目下の者に、どうしてこんなに荒々しくしなければならないのか

2011年05月20日 | 今村均陸軍大将
 怒りを込めた田中参謀次長の問いに、今村中尉は次の様に答えた。

 「私の考えを申し上げます。閣下の時代にお作りになった現行内務令は、日露戦争後放漫になっておりました隊内の気分を緊粛いたすため大きな効果を挙げ、どこの軍隊もよく整頓されるにいたりました。けれども、どんな良薬も量を過ごして飲ませますと害を起こします。あんなに強調されました中隊家庭主義は、中隊お座敷のかざりになっております」

 「どんな家庭でも、客間はいつも小ぎれいにしておきますが、うらの部屋はくつろいで団欒するようにしておるものでありますのに、中隊は隅から隅まで塵一筋もないお座敷になり、朝から晩まで清潔整頓といい、練兵演習で汗水たらして帰ってくる兵の、気分の休まるところではなくなっております」

 「心の休息ができないところは、家庭ではありません。軍隊内務令という良薬を、七年間分量をすごして飲ませたため、今では逆作用を発しかけております。各師団からの提出意見が実にたくさんになっておりますのは、根本改正の必要を示唆しておるものだと、私は思っております」。

 すると田中参謀次長は「なに、根本改正じゃ。吾輩どもがあんなに苦心して作ったものが、どんな逆作用を発していると言うんじゃ」と大きな声を出してにらみつけた。今村中尉は次の様に答えた。

 「外形の営内整頓だけに急で、軍隊の本質であるべき野外の演習訓練の気合を抜いているような隊長が少なくありません。中央部は、演習がまずくても、内務が良い隊長を良く見るようになっていると、多くが思っており、これでは軍隊は弱くなります。これを逆作用と申したのであります」。

 これを聞いて、田中参謀次長は「隊附勤務も十分にやっておらず、観察の狭い身分で、言葉だけの理屈を述べよる。こんなものは持ってかえれ」と改正案の印刷物を机に叩きつけるようにして、大きな机の今村中尉が立っているほうに放り出した。

 今村中尉が、内務の行き過ぎを抑え、軍隊練成を害しないようにと、心を配った案を、国軍の作戦を主管している参謀本部の次長ともある高級者が、大尉職務にあてられてはいるが、まだ中尉である目下の者に、どうしてこんなに荒々しくしなければならないのかと、不快の気持ちで敬礼の上、差し戻された印刷物には手をつけず、そのままにして参謀次長室を出た。

 歩兵課に戻ってきて、奥平課長に顛末を報告した。奥平課長は「君に言っておいたじゃないか。田中参謀次長の前で、根本改正なんか言い出したって、どうにもならないと。仕方がない。あとでわしが行って釈明しておこう」と心配そうに顔をくもらせた。

 間もなく坪井副官から、今村中尉の課の高級部員である堀吉彦中佐(陸士一〇)に電話があり、在郷軍人会の書類持参の上、参謀次長室に来てくれとのことだった。

 三十分ほどして堀中佐が帰ってきて、「今村君! どうして次長が戻した改正案を、受け取らんで来たのかね」と言った。

 今村中尉は「もっとよく見てもらいたいと思ったからです」と答えた。すると堀中佐は「何か次長と口論したのかい」と言ったので、「いや口論ではありません。聞かれたから、私の考えを述べただけです」と答えた。

 すると堀中佐は「軍人会のほうの用件を終わって帰ろうとすると、田中参謀次長が『さっきここにやって来た若い中尉は、奥平の下の者だから、君と同じ課だろう』ときくので、『そうです』と言うと、『あの男は短気者かい。俺が少し大きな声を出して見せたら、渡した改正案を、持ってゆかんで帰ってしまった。これを持っていって渡してくれ。それからあれに、根本改正のことは、今から研究を進めるようにしろ、と言っていたと伝えておき給え』などと言っていた」と言って、改正案の印刷物を今村中尉に渡した。

 今村中尉がその印刷物を見ると、表紙に朱筆で太く、「依存これ無し。至急改正ありたし。参謀本部」と記されてあった。

 今村中尉は狐にだまされたような気がした。田中参謀次長は、ことさらに威圧的言辞と態度とで相手を興奮させて、今村中尉を試してみたように思われる。表紙にこんなに大きく朱書きされている文字が目に入らなかったほど、今村中尉は興奮してしまっていたのである。

 このときの参謀次長・田中義一中将(陸士旧八・陸大八・山口県出身)は、その後、大正七年陸軍大臣、大正九年男爵、大正十年陸軍大将、大正十二年陸軍大臣、大正十四年予備役、大正十五年貴族院議員、昭和二年には内閣総理大臣兼外務大臣まで昇りつめた。昭和四年、六十四歳で死去。

 当時の高級副官は、和田亀治大佐(陸士六・陸大一五)だったが、その顔は、いかにも不細工、興奮性が強く、すぐ顔を真っ赤にして大声をあげる人だった。

 それで「かみなり」とあだなされ、この人に怒鳴られた者は相当に多く、下のものからは敬遠されている第一人者だった。

 だが、今村中尉は、他人の評判などは一切とんちゃくせず、事務の性格を心がける意気込みはたいしたものと思い、蔭ながら「えらい人だ」と敬意を払っていた。

268.今村均陸軍大将(8)そのような者に内務令改正を起案させたことが、もともと間違いだ

2011年05月13日 | 今村均陸軍大将
 大正七年には長男、和男が生まれ、今村大尉(大正六年に進級)は子供に深い愛情を注いだが、夫婦の間は元のままであった。今村大尉は「私の心もまた寂しさに包まれていた」と記している。

 「日本人の自伝・今村均」(今村均・平凡社)によると、今村中尉が陸軍省軍務局歩兵課勤務になった大正五年八月当時の陸軍大臣は大島健一中将(陸士旧四)、軍務局長は奈良武次少将(陸士旧一一・陸大一三)だった。

 歩兵課というのは、軍務局五課の一つで、歩兵に関する一切の事務、全軍の徴集、動員、召集、憲兵、軍隊内務、それに在郷軍人にかかわる事務をやるところだ。

 着任まもなく歩兵課長・奥平俊蔵大佐(陸士七・陸大一六)は、今村中尉に奈良軍務局長から次の様に言われたと述べた。

 「この春の師団長会議の時、師団長の多くから、各軍隊の中、少尉数の不足により、内務令規定の、中隊ごとに週番士官を設けることが困難になったので、改正して欲しいとの意見が出された。今村中尉(大尉職務心得になっていた)は中隊長をやってきているから、隊の実情に応じ、どう処置したらよいかを考案させ、その他各師団から出されている、内務改善の意見をもとにして、必要な修正を加えることにし、一ヶ月以内に改正案を出させたまえ」。

 奥平課長は「以上のように言われた。それで、二週間以内に内務令中、一部分の改正歩兵課案を印刷の上、関係課局に廻し、賛否の意見をまとめるようにしたまえ」と今村中尉に命じた。

 今村中尉は軍隊内務徹底主義の某連隊長の下で、つくづく行き過ぎの内務主義矯正の必要を、痛感したことがあり、大きな意気込みで、奥平課長に次の様にただしてみた。

 「各師団からの改正意見は、ずいぶん多く出されております。この際は、一部改正ではなく、根本改正を企てたらよいと思います」。

 すると奥平課長は次の様に言った。

 「いや、局長の気持ちは、中隊の週番勤務制度を改める機会に、軍隊が困っている点を修正する一部改正だ。君は中央部に入ったばかりで、まだ空気がよくわかるまい」

 「今の内務令を作り上げた中心の人は、参謀次長の田中義一閣下なのだ。この大権威者が、中央に頑張っておられる間は、根本改正なんか、思いもよらない。焦眉の急所だけの改正を考え給え」。

 今村中尉は失望を感じた。だが、各師団の意見を検討してみて、それに今村中尉自身の考えも織りまぜて改正案を作り、奥平課長以下課員七名の同意を得て印刷し、陸軍省内の関係局課に配布して、意見を求めた。

 中央のお役所仕事の中に入り、今村中尉がいかにも不快に感じた点は、他人や他課の作った案には、何か文句をつけなければ、沽券にかかわるかのような心構えの一言居士が実に多いことと、外形整備にこだわり、軍隊将兵の不便を考えない者の少なくないことだった。

 まる一週間、関係課局にお百度を踏み、やっとまがりなりにも、軍隊内務令一部改正案が出来上がり、奥平課長同席で奈良軍務局長に報告したところ、承認されたので、その案を、教育総監部と参謀本部とに廻送し、連帯承認を求めた。

 教育総監部からは、二、三日で同意を回答してきたが、参謀本部は一週間たっても返事をしてこない。だんだんかけあってみると、下のほうは皆同意しているが、参謀次長・田中義一中将(陸士旧八・陸大八)のところで引っかかっていることがわかった。

 田中参謀次長の専属副官・坪井善明大尉(陸士一四)は、常識の整った親切な人格者。この人に電話して、早く見てもらうように依頼したところ、そのためか翌日の午前、参謀次長室に呼びつけられた。

 参謀次長室に入った今村中尉は「軍隊内務令の一部改正を起案いたしました、歩兵課の今村中尉参りました」と申告した。

 参謀次長・田中義一中将はじろじろと、今村中尉の顔を見つめて言った。「中尉は、いつ軍務局にやって来たのだ」。

 今村中尉が「一ヶ月半前であります」と答えると、「それまで連隊で、何の職務をやっていた」と訊いた。「中隊長をやっておりました」と答えると、田中参謀次長は次の様に言った。

 「君の大学卒業のときは、自分も式に参列した。すると中隊長は、一年もやっていない。そんなことでは、隊の実情はわからない。そのような者に内務令改正を起案させたことが、もともと間違いだ。中尉は現行内務令が、どうして作られたか知っているか」

 今村中尉は「知っております。多人数の委員会で、閣下を中心として、一年以上の時日をかけ、作られたものであります」と答えた。

 すると田中参謀次長は、目をいからせて、次の様に詰問した。

 「そんなに大勢の者が周到に研究して作ったものを、たった一人で手をつけ、短時日で案をでっちあげる。不都合じゃ」

 「先頃、奥平に会ったとき『何を改正するんだ』と聞いてみたら『中、少尉数が少なくなり、中隊週番勤務が難しくなったので、大隊単位の週番制にすることと、隊が不便がっている点を、いくらか修正しようと思います』と言うから、そんなことならやってもいいと言っておいた」

 「こりゃなんじゃ、ほとんど全部にわたり手をつけているじゃないか。これで一部改正をいえるか。どんな考えでこんなことをしたんじゃ」。

267.今村均陸軍大将(7)落第させられてもかまわない。徹底的に吉岡教官と張り合う

2011年05月05日 | 今村均陸軍大将
 今村中尉は仙台に帰る前に校長以下教官の私宅を挨拶回りした。そのとき、柳川平助教官のところでは、「聞いておきたいことがある」と、座敷に通された。

 今村中尉は「私は実力は無く、とくに吉川平野では、ご覧のような醜態を暴露しましたのに、教官方々が、どうしてこんなにしていただいたのか不思議でならず、恥ずかしさを感じています」と言った。

 すると、柳川少佐は次の様に言った。

 「実はそのことで聞いておきたいことがあるのだ。吉川でのあの日の君の決心は、あれで良かったのだが、あとの戦況の進め方の都合で、吉岡教官がわざとあのように指導したものだ。こっちの内輪を知っていない君が、ああ頑張ったのは無理が無い。が、確かに君は興奮しすぎて言葉が荒くなった。それであとはどうなるかと、教官すべてが懸念していたところ、あの翌日すっかり平静にかえった。やっぱり、悪かったと自省したのかい……」。

 今村中尉は「いや、私は、自暴自棄になってしまい、『落第させられてもかまわない。徹底的に吉岡教官と張り合う』と捨て鉢の気持ちでおりました」と切り出し、北白川宮殿下から『君は敵の北軍と戦っているのではなく、吉岡試験官を敵としている。そんなことでは戦には勝てない』と注意されたことを語った。

 柳川少佐は「そうか、そりゃよかったな。実は君を北軍司令官に当てるとき、『相談相手をなくして、困らせてやれ』ということで、わざと殿下を君の参謀長にしたのだ。それじゃ困るどころか、殿下に助けられてしまったのだ……」などと語った。

 今村中尉は陸軍大学校を卒業後、第四師団歩兵第四連隊第十中隊長を命ぜられた。当時の陸軍は、将校の進級が停滞しており、少尉三年、中尉七年を勤めなければ、大尉に進級できなかった。

 それで、窮余の一策として、中尉の古参者には「大尉職務心得」とか、「中隊長職務心得」とかの辞令を渡し、俸給は中尉のものに小額を増し、大尉並みに取り扱い、一時を糊塗していた。今村中尉はこの「中隊長職務心得」を仰せつけられたのだ。

 仙台で中隊長を務める今村中尉の許に、東京の母から縁談がもちこまれた。今村中尉は母親に「私はお見合いで妻を選ぶ気はありません。お母さんが適当と見立てた人と縁組します。健康であれば、その写真を送ってくださることもお断りします」と返事を出した。

 母はさらに、今村中尉に見合いをすすめてみたが、返事が無いので、遂に一存で嫁を選び、結納を済ませてしまった。

 相手は金沢に住む千田登文の三女、銀子、十九歳だった。銀子の兄の一人は今村中尉と陸軍大学校同期の木村三郎大尉(陸士一八・陸大二七)、姉は参謀本部勤務の中村孝太郎少佐(陸士一三・陸大二一・後の陸軍大将・陸軍大臣)の妻だった。

 母からの今村中尉への手紙には「兄弟がみな立派な体格ですから、その人もきっと健康だと思います」とあった。母も、銀子には会わずに、婚約を取り決めた。

 大正五年八月、今村均中尉は陸軍省軍務局歩兵課勤務となった。三十歳のときである。十一月、今村中尉は九州で行われた陸軍大演習に参加の帰途、銀子の兄、木村三郎大尉の誘いをことわりきれず、金沢の千田家に一泊することになった。

 父親に付き添われ、今村中尉の前に三つ指をついてしとやかに頭を下げた銀子を見て、彼は愕然とした。その印象を今村中尉は次の様に述べている。

 「なんと柳のように細い弱々しいからだの人か……。なるほど、顔は美しい。が、私は健康美には魅せられることはあっても、顔面美などにはさっぱり興味を持たない」。

 この夜、今村中尉は思い悩んで、一睡もできなかった。だが、夜が明ける頃、ようやく、次の様に心を決めた。

 「妻に求める唯一つの条件は『健康』であったのに、こうも弱々しく見える人と婚約してしまったとは……。しかし、見合いをして、慎重に相手を選べという母の再三の言葉を退けたのは自分なのだ。今となって、体格を理由に婚約を解消するなど、そんな不徳義なことは絶対にできない。自分の蒔いた種は、自分で刈り取るほかは無い…」。

 大正六年、今村中尉は結婚した。銀子の言葉遣いや態度はしとやかで、容姿は美しく、今村の母はこの従順な嫁に満足して、心から愛した。

 だが、今村中尉はいつまでも妻への愛情が湧かなかった。従って家庭生活を楽しむ気持ちにならず、役所の書類を持ち帰ったり、読書で時間をつぶす毎日で、銀子に声をかけることも少ない。

 慎み深い銀子はひとことの不満も述べなかったが、次第に淋しさが顔に現れるようになった。「この妻のどこに落ち度があろうか。すべて私の軽率が招いた結果だ」と今村中尉は自分を責めた。

 そしてなんとか妻を慰めようと努めてみたが、ただ不自然さがきわだつばかりだった。今村中尉の母は、いっそう銀子を愛して、嫁、姑のむつまじさは評判にはるほどであったが、それで銀子の心が満たされるわけもなかった。