ある日宮中の侍従武官から今村中尉に次の様な電話がかかってきた。
「今年も簡閲点呼視察のため数個師団に侍従武官がご差遣になる。ついては視察計画を立てる必要上、各師団の点呼施行予定表が集まっておれば、お見せ願いたい。三、四日の後にはお返しする」。
そこで今村中尉は、十八個師団全部の点呼予定表を取りまとめ、一冊にとじ、歩兵課より侍従武官府あての包みとし、官房に差し出した。
簡閲点呼というものは、師管内の陸軍在郷下士官兵を、その居住地から十二キロ以内の便宜の土地に集め、師団長により命ぜられた点呼執行官が、一日約三百名の健康状態、軍人精神、軍事能力保持の程度を、簡易の行事により、検閲するものである。
やがて陸軍大臣官房高級副官の和田亀治大佐から省内電話で呼び出しがあった。
副官室に出向くと、「貴官か。この簡閲点呼の計画表を差し出したのは」と和田大佐。今村中尉が「左様であります」と答えると、「この表は。師団ごとに大小さまざまの紙になっていて体裁が悪い。こんなみっともないものは、宮中に差し出すわけにはいかん」と言った。
そこで今村中尉は次の様に答えた。
「これは正式に宮中に差し出すものではなく、あて名は武官府になっておりますが、侍従武官がこちらに参って見るべきものです。が、便宜上二、三日貸してくれとの電話連絡によったもので、紙の大小は、師管の大きさ、とくに在郷軍人数が大きく差異があり、自然、執行官と、点呼場との数の違い、各師団のものを同一の大きさの紙に収めることは、出来ないものであります」。
すると和田大佐はいかめしく、次の様に言った。
「侍従武官府が、宮中に存在するものである以上、そこに送る書簡が、どんなことで陛下の御目に触れないものでもない。万一こんな不ぞろいの物を御覧に供することになっては、不敬になる。至急本日中に、同じ大きさの紙に清書して差し出しなさい」。
今村中尉は歩兵課に帰って、歩兵課長・奥平俊蔵大佐(陸士七・陸大一六)に報告すると、奥平大佐は怒りだして、次の様に言った。
「馬鹿も休み休み言えよ。『そんないらないことをするために、軍務局の職員や書記は備えられているものじゃない。どうしても同じ大きさの紙に揃えたいなら、官房の書記五、六名まわしてもらいたい』と、そう言って来給え」。
今村中尉が、副官室に行き、奥平大佐の申し出をそのまま和田大佐に伝えると、「おだまりなさい」と大声一声。顔面を真っ赤に染め、椅子から立ち上がった。
「貴官のような若年の将校が、陸大の成績なんかを鼻にかけ、臆面もなくそんな横着なことをいう」と、醜い顔をいよいよ醜くし、燃えるような眼で今村中尉をにらみつけた。
今村中尉は陸軍大学校を首席で卒業し、天皇の御前で講演を行っていた。だが、今村中尉は和田大佐のいうところは、とるに足らんものであり、奥平大佐の主張のほうに道理があると思った。
しかも公務上の見解の相違だけなのに、今村中尉の人格を辱めるような言をあたり一面にひびく大声で叱責するので、今村中尉は憤慨し、何も言わず、臆せず和田大佐の顔に視線を注いだ。
すると、和田大佐は次の様に言った。
「自分は旅順要塞攻囲作戦中、第一師団の大尉参謀をやっていた。そのときの旅団長の一人は師団長から攻撃命令を受けると、いつもすぐに兵力の不足を訴え、増援を申しだし、物笑いにされていた」
「これに反し、鴨緑江軍の前田旅団長は、数倍の露軍の攻撃を受けながらも、軍司令部が敵の重囲下に陥ったのを知るや、最後の時に備えていた予備隊の大部を救援に差し出し、川村景明司令官以下を無事ならしめ、己は壮烈な戦死を遂げている」
「歩兵課の書記全部を挙げ、なお手不足を感じてのことならともかく、やってもみないうちから官房書記を請求するなどは某旅団長のやり方とちっとも違っていない。軍人として恥ずべきことだぞ」。
今村中尉は興奮していたので、和田大佐の言に服することをしないで、敬礼しただけで室を出てしまった。
今村中尉は、そのまま黙って自分の課に戻った。上司の奥平課長には何も言わなかった。もし武官府から催促があったら、武官がこちらにやって来て必要なところを見てもらうことに交渉しようと、たかをくくっていた。
だが、うわさを聞いた奥平大佐はかんかんになって、官房の副官室に行き、和田大佐に怒鳴り込み、大論争となり、遂には軍務局長にも訴える騒ぎとなった。
「今年も簡閲点呼視察のため数個師団に侍従武官がご差遣になる。ついては視察計画を立てる必要上、各師団の点呼施行予定表が集まっておれば、お見せ願いたい。三、四日の後にはお返しする」。
そこで今村中尉は、十八個師団全部の点呼予定表を取りまとめ、一冊にとじ、歩兵課より侍従武官府あての包みとし、官房に差し出した。
簡閲点呼というものは、師管内の陸軍在郷下士官兵を、その居住地から十二キロ以内の便宜の土地に集め、師団長により命ぜられた点呼執行官が、一日約三百名の健康状態、軍人精神、軍事能力保持の程度を、簡易の行事により、検閲するものである。
やがて陸軍大臣官房高級副官の和田亀治大佐から省内電話で呼び出しがあった。
副官室に出向くと、「貴官か。この簡閲点呼の計画表を差し出したのは」と和田大佐。今村中尉が「左様であります」と答えると、「この表は。師団ごとに大小さまざまの紙になっていて体裁が悪い。こんなみっともないものは、宮中に差し出すわけにはいかん」と言った。
そこで今村中尉は次の様に答えた。
「これは正式に宮中に差し出すものではなく、あて名は武官府になっておりますが、侍従武官がこちらに参って見るべきものです。が、便宜上二、三日貸してくれとの電話連絡によったもので、紙の大小は、師管の大きさ、とくに在郷軍人数が大きく差異があり、自然、執行官と、点呼場との数の違い、各師団のものを同一の大きさの紙に収めることは、出来ないものであります」。
すると和田大佐はいかめしく、次の様に言った。
「侍従武官府が、宮中に存在するものである以上、そこに送る書簡が、どんなことで陛下の御目に触れないものでもない。万一こんな不ぞろいの物を御覧に供することになっては、不敬になる。至急本日中に、同じ大きさの紙に清書して差し出しなさい」。
今村中尉は歩兵課に帰って、歩兵課長・奥平俊蔵大佐(陸士七・陸大一六)に報告すると、奥平大佐は怒りだして、次の様に言った。
「馬鹿も休み休み言えよ。『そんないらないことをするために、軍務局の職員や書記は備えられているものじゃない。どうしても同じ大きさの紙に揃えたいなら、官房の書記五、六名まわしてもらいたい』と、そう言って来給え」。
今村中尉が、副官室に行き、奥平大佐の申し出をそのまま和田大佐に伝えると、「おだまりなさい」と大声一声。顔面を真っ赤に染め、椅子から立ち上がった。
「貴官のような若年の将校が、陸大の成績なんかを鼻にかけ、臆面もなくそんな横着なことをいう」と、醜い顔をいよいよ醜くし、燃えるような眼で今村中尉をにらみつけた。
今村中尉は陸軍大学校を首席で卒業し、天皇の御前で講演を行っていた。だが、今村中尉は和田大佐のいうところは、とるに足らんものであり、奥平大佐の主張のほうに道理があると思った。
しかも公務上の見解の相違だけなのに、今村中尉の人格を辱めるような言をあたり一面にひびく大声で叱責するので、今村中尉は憤慨し、何も言わず、臆せず和田大佐の顔に視線を注いだ。
すると、和田大佐は次の様に言った。
「自分は旅順要塞攻囲作戦中、第一師団の大尉参謀をやっていた。そのときの旅団長の一人は師団長から攻撃命令を受けると、いつもすぐに兵力の不足を訴え、増援を申しだし、物笑いにされていた」
「これに反し、鴨緑江軍の前田旅団長は、数倍の露軍の攻撃を受けながらも、軍司令部が敵の重囲下に陥ったのを知るや、最後の時に備えていた予備隊の大部を救援に差し出し、川村景明司令官以下を無事ならしめ、己は壮烈な戦死を遂げている」
「歩兵課の書記全部を挙げ、なお手不足を感じてのことならともかく、やってもみないうちから官房書記を請求するなどは某旅団長のやり方とちっとも違っていない。軍人として恥ずべきことだぞ」。
今村中尉は興奮していたので、和田大佐の言に服することをしないで、敬礼しただけで室を出てしまった。
今村中尉は、そのまま黙って自分の課に戻った。上司の奥平課長には何も言わなかった。もし武官府から催促があったら、武官がこちらにやって来て必要なところを見てもらうことに交渉しようと、たかをくくっていた。
だが、うわさを聞いた奥平大佐はかんかんになって、官房の副官室に行き、和田大佐に怒鳴り込み、大論争となり、遂には軍務局長にも訴える騒ぎとなった。