連合艦隊は事態が容易ならざることをさとり、第二艦隊、第三艦隊のラバウル進出を命じるとともに、八月十七日、旗艦「大和」は瀬戸内海の柱島を出港し、トラック島に本拠を移した。
ガダルカナル島をめぐる争奪戦は、凄惨なものになってきた。陸軍は八月十八日に一木支隊を、九月七日に川口支隊をガダルカナル島に投入したが、ともに攻撃は失敗し部隊は壊滅した。
大本営はついに、第二師団をガダルカナル島に上陸させることに決した。制空権、制海権ともアメリカ軍の優勢の中、第二師団を輸送するには海軍の協力が必要だった。だが、海軍側の協力は、駆逐艦で夜中に輸送する「鼠輸送」位だった。ぜひとも船団輸送が必要だった。
参謀本部作戦班長・辻政信中佐は、この状況では、第二師団輸送は失敗すると判断した。そこで、連合艦隊司令長官・山本五十六大将に海軍の協力を直訴するため、辻中佐は、林参謀を伴い、昭和十七年九月二十四日、トラック島の、戦艦「大和」を訪ねた。
その時のことが、「ガダルカナル」(辻政信・養徳社・昭和二十五年九月初版)に次のように記されており(要旨)、黒島大佐についても述べられている。
「海軍機に便乗してトラックに向かった。大和が、化物のような巨体を浮かべ、それを取り囲むかのように数十隻の大小艦艇がならんでいる。恐ろしい数だ。だが、空母らしいものが僅かに二隻、これが帝国海軍の偉容であった」
「ボートに乗って大和を訪れた。よくも人力でこのような軍艦が造れたものだ。これが航空母艦であったならと、ふと思った」
「艦内に入ると、大ホテルに入ったようである。人呼んで大和ホテルというのも宜(うべ)なるかな。迷子になったら容易に出られそうもない。今更のようにその設備の尨大(ぼうだい)に驚いた」
「早速、作戦室に通された。黒島高級参謀がその長身を机に凭(もた)せて、一心に作戦を練っている。彼は日露戦争に於ける秋山真之に匹敵する海軍の至宝であるとの噂だった」
「戦前数年間、連合艦隊の作戦主任として、薄暗い一室に籠り、禅坊主のように、寝食も忘れ、家庭も忘れて、神謀を練り、奇策を編み出す眞個の幕僚であった。その下におる参謀も粒選りだ。どうやら軍令本部よりも一枚上手らしい」
「ガ島奪回作戦失敗の眞因を説明した。第二師団を投入する作戦は、前轍を踏んではならぬ。万難を排して、船団輸送により、必要にして十分な糧食と弾薬とを揚陸しない限り、見込みはないことを強調した」
「併しながら海軍にもまた、言い分がある。ミッドウェーの大敗で空母の主力をやられ、艦上機の多数を、練達の将校を共に失い、而も不利な条件で、ガ島での消耗をこれ以上繰り返すことは容易に忍び難いところであろう」
「黒島参謀は、議論はしなかった。十分知り抜いているからである。併し、断は下し得ない。宇垣参謀長が入って来た。何処かしら、陸軍の宇垣さんに似た風采がある。親戚ではなかろうか。とすれば、よくもこのような偉材を同一家系から排出したものだ。一見しただけで貫禄と識見とが判るようである。山本長官を助けるにふさわしい幕僚陣容だ」。
辻中佐は、そのあと、山本長官に会い、「よろしい、山本が引き受けました。必要とあらば、この大和をガ島に横づけにしても必ず船団輸送を、陸軍の希望通り援護しましょう」との長官の言葉をもらった。
言い終わった時、山本長官は、両眼からハラハラと涙をこぼしたという。辻中佐も、思わず貰い泣きをした。「海軍参謀になって、この元帥の下で死にたいとさえ考えた」と辻は記している。
だが、その後のガダルカナル島への兵力投入にもかかわらず、攻撃は失敗に終わり、昭和十八年二月一日~七日、ガダルカナル島の日本軍は駆逐艦により撤退した。
昭和十八年四月三日、山本長官以下連合艦隊司令部は、旗艦、戦艦「武蔵」(二月十一日より旗艦)を出て、ラバウルへ進出することになった。
山本長官が発案し、黒島大佐らが立案した大規模な「い」号作戦(ガダルカナル島と周辺敵艦船への大規模爆撃)を、第一線基地に進出して、指導、激励するためだった。
ラバウル到着後、晩餐会が開かれ、連合艦隊参謀、隷下艦隊の各長官、参謀、陸軍の第八方面軍司令官・今村均中将らが出席した。
その席で、宇垣参謀長が「ソロモン、ニューギニア方面の第一線部隊の志気を大いに鼓舞するため、同方面の最前線基地を巡回したい」と言い出した。
山本長官も「私も行く。確かに我々は陣頭指揮の気概に欠けるところがあった……」と言い出した。
ガダルカナル島をめぐる争奪戦は、凄惨なものになってきた。陸軍は八月十八日に一木支隊を、九月七日に川口支隊をガダルカナル島に投入したが、ともに攻撃は失敗し部隊は壊滅した。
大本営はついに、第二師団をガダルカナル島に上陸させることに決した。制空権、制海権ともアメリカ軍の優勢の中、第二師団を輸送するには海軍の協力が必要だった。だが、海軍側の協力は、駆逐艦で夜中に輸送する「鼠輸送」位だった。ぜひとも船団輸送が必要だった。
参謀本部作戦班長・辻政信中佐は、この状況では、第二師団輸送は失敗すると判断した。そこで、連合艦隊司令長官・山本五十六大将に海軍の協力を直訴するため、辻中佐は、林参謀を伴い、昭和十七年九月二十四日、トラック島の、戦艦「大和」を訪ねた。
その時のことが、「ガダルカナル」(辻政信・養徳社・昭和二十五年九月初版)に次のように記されており(要旨)、黒島大佐についても述べられている。
「海軍機に便乗してトラックに向かった。大和が、化物のような巨体を浮かべ、それを取り囲むかのように数十隻の大小艦艇がならんでいる。恐ろしい数だ。だが、空母らしいものが僅かに二隻、これが帝国海軍の偉容であった」
「ボートに乗って大和を訪れた。よくも人力でこのような軍艦が造れたものだ。これが航空母艦であったならと、ふと思った」
「艦内に入ると、大ホテルに入ったようである。人呼んで大和ホテルというのも宜(うべ)なるかな。迷子になったら容易に出られそうもない。今更のようにその設備の尨大(ぼうだい)に驚いた」
「早速、作戦室に通された。黒島高級参謀がその長身を机に凭(もた)せて、一心に作戦を練っている。彼は日露戦争に於ける秋山真之に匹敵する海軍の至宝であるとの噂だった」
「戦前数年間、連合艦隊の作戦主任として、薄暗い一室に籠り、禅坊主のように、寝食も忘れ、家庭も忘れて、神謀を練り、奇策を編み出す眞個の幕僚であった。その下におる参謀も粒選りだ。どうやら軍令本部よりも一枚上手らしい」
「ガ島奪回作戦失敗の眞因を説明した。第二師団を投入する作戦は、前轍を踏んではならぬ。万難を排して、船団輸送により、必要にして十分な糧食と弾薬とを揚陸しない限り、見込みはないことを強調した」
「併しながら海軍にもまた、言い分がある。ミッドウェーの大敗で空母の主力をやられ、艦上機の多数を、練達の将校を共に失い、而も不利な条件で、ガ島での消耗をこれ以上繰り返すことは容易に忍び難いところであろう」
「黒島参謀は、議論はしなかった。十分知り抜いているからである。併し、断は下し得ない。宇垣参謀長が入って来た。何処かしら、陸軍の宇垣さんに似た風采がある。親戚ではなかろうか。とすれば、よくもこのような偉材を同一家系から排出したものだ。一見しただけで貫禄と識見とが判るようである。山本長官を助けるにふさわしい幕僚陣容だ」。
辻中佐は、そのあと、山本長官に会い、「よろしい、山本が引き受けました。必要とあらば、この大和をガ島に横づけにしても必ず船団輸送を、陸軍の希望通り援護しましょう」との長官の言葉をもらった。
言い終わった時、山本長官は、両眼からハラハラと涙をこぼしたという。辻中佐も、思わず貰い泣きをした。「海軍参謀になって、この元帥の下で死にたいとさえ考えた」と辻は記している。
だが、その後のガダルカナル島への兵力投入にもかかわらず、攻撃は失敗に終わり、昭和十八年二月一日~七日、ガダルカナル島の日本軍は駆逐艦により撤退した。
昭和十八年四月三日、山本長官以下連合艦隊司令部は、旗艦、戦艦「武蔵」(二月十一日より旗艦)を出て、ラバウルへ進出することになった。
山本長官が発案し、黒島大佐らが立案した大規模な「い」号作戦(ガダルカナル島と周辺敵艦船への大規模爆撃)を、第一線基地に進出して、指導、激励するためだった。
ラバウル到着後、晩餐会が開かれ、連合艦隊参謀、隷下艦隊の各長官、参謀、陸軍の第八方面軍司令官・今村均中将らが出席した。
その席で、宇垣参謀長が「ソロモン、ニューギニア方面の第一線部隊の志気を大いに鼓舞するため、同方面の最前線基地を巡回したい」と言い出した。
山本長官も「私も行く。確かに我々は陣頭指揮の気概に欠けるところがあった……」と言い出した。