陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

100.片倉衷陸軍少将(10) この日本をくれぐれも頼む。しかし軽挙妄動をしてはいかん

2008年02月22日 | 片倉衷陸軍少将
 昭和16年7月、片倉大佐は関東防衛軍高級参謀に補任された。軍司令官は山下奉文中将(陸士18期)だった。

 赴任の挨拶に武藤章軍務局長、富永恭次人事局長を訪ねたときに、「現下満州は、関特演にて非常事態であり、特に山下将軍の補佐をたのむ。またこの機会に山下将軍と相識ることは、将来において必ずや役に立つことあるべし」と言われた。

 片倉大佐は山下将軍に使えて話す機会も多くなった。それまで片倉大佐は2.26事件の関係から、山下中将を敵だと考えていたが、この人は相当な人物で仕え甲斐があると感じた。

 あるとき、チャムスの料亭で会同があり、山下中将が師団長、参謀連中と飲んだ帰り、芸者が車で送ってきた。

 片倉大佐は芸者に「ここまでは良いが、足を旅館の中に踏み入れてはならん」と申し渡した。

 山下中将にも「閣下、ある限界があります」と率直に申し上げた。このように、片倉大佐は山下中将とは肝胆相照らす仲となった。

 山下中将は片倉大佐に「侍従武官長は陸軍出身が多いが、侍従長は海軍出身である。これを陸軍関係者に変えねばならない」と言った。これを片倉大佐は中央へ書き送ったこともあった。

 昭和16年11月山下中将は第十四方面軍司令官としてフィリピンに赴任した。片倉大佐は病気療養中であった。

 山下中将は片倉大佐が病気でなければ、武藤章参謀長の下で片倉大佐を参謀副長として使うことを考えていたという。片倉大佐は万感胸に迫るものがあった。

 戦後、東京裁判が終わり、東條元首相に死刑の判決が決まった。その時片倉少将は特別傍聴席で、これを見て、胸が締め付けられるような気持ちになり、一人涙をぬぐった。

 片倉少将は、東條元首相にお別れの面会に行った。金網越しに東條元首相は片倉少将に「国体を維持し、この日本をくれぐれも頼む。しかし軽挙妄動をしてはいかん」と言った。

 片倉少将は東條元首相は、根本において生活も質素、淡白であり、職務については極めて凡帳面で、「小梅」と表紙に印してある手帳を常用して、正確真摯であったと述べている。

 暴れん坊の片倉も、板垣征四郎大将には心酔していた。板垣は度量が広く、脱線しても片倉には小言一つ言わず大いに働かせてくれた。

 板垣は戦後東京裁判でA級戦犯に指定され、死刑の判決が出た。判決が出ても板垣は穀然としていつもと変わらぬ態度だったという。

 最終の面会に片倉が行ったとき、片倉に「国体の護持と日本の再興のため努力してくれ」と述べ、最後に、片倉の性格を知っていてか、「片倉、やりすぎるなよ。今後はすべて自重してやれ」と注意を与えたという。

(「片倉衷陸軍少将」は今回で終わりです。次回からは「大西瀧治郎海軍中将」が始まります)

99.片倉衷陸軍少将(9) オイ!生意気なことをいうな!貴様こそ赤を白にすぐ変えてしまうではないか

2008年02月14日 | 片倉衷陸軍少将
 昭和12年11月に第三課高級参謀竹下義晴、経済担当参謀国分新七郎らが相次いで関東軍から転出した。

 この竹下大佐の後任に塩沢宣一、岩畔豪男の名前が上がっていたが、なかなかまとまらなかった。

 ある日、片倉少佐は東條、石原の両名に招致せられた。「お前、竹下大佐の後をやらんか」と聞かれた。

 片倉少佐は「お引き受けすることは私としては光栄で、少しも支障ありません。しかし私は現在、少佐です(課長は大佐クラスの人が任じられていた)。また、部内には、私の同期生で、私より序列が上位のものが三名おります。軍の統制上支障がねければよろしいですが」と辞退した。

 ところが東條中将も石原少将も「そんあことは気にするな、しっかり頼む」と言った。片倉少佐は、これを引き受けた。

 東條夫人が内地の国防婦人会を真似て作った国防婦女会の顧問に就任するという懸案が上がってきた。

 石原副長は「東條が自分の女房を使って、余計なことをして資金まで援助している」などと批判するようになり、益々東條参謀長と石原副長の仲は険悪化していった。

 片倉少佐は「石原少将は知能は非常に秀でていて、作戦的にあるいは戦争哲学に関しては素晴らしいものがあったが、軍政に対する施策において、その素質に欠ける面があった」と述べている。

 石原副長は最初は作戦以外にはタッチしないと言明していたが、かって石原自らが主張していた治外法権撤廃の政策に難癖をつけた。

 また満州五ヵ年計画の実施に当たっては、参謀本部時代自ら提唱し、軍務局をして提唱せしめた問題に対し、その実施にあたっての若干の意見の相違に対して強く論難するなど、傍若無人の荒れ方になった。

 そこで片倉少佐はある日、石原副長の部屋を訪ねた。そして次のように進言した。

 「副長、貴方の言うことは、赤を白に、黄を青にと鮮明に着色している。このような高等数学では実行する者がついてゆけなくなります。やはり赤から桃色、桃色から薄桃色、、そして白というように、逐次変えてゆく方法でなければ、今日の満州問題でも、うまく目的を果たすことができなくなります」

 すると石原副長は「オイ!生意気なことをいうな!貴様こそ赤を白にすぐ変えてしまうではないか」と全然取り合わなかった。この辺りに石原の欠陥があったように片倉少佐は思った。

 だが片倉はその後も石原とは心を通じるものがあり、終戦後、東京裁判のための石原の検事調査が山形県の酒田で行なわれたが、この時の石原の陳述書の原案は片倉が作成し、山田半蔵弁護士に持たせ石原に届けた。石原はそれを修正し発表した。

 片倉は「石原莞爾は功罪は別として、私が尊敬してやまぬ昭和期の名将であった」と述べている。

98.片倉衷陸軍少将(8) 片倉少佐は、どうもけしからん。片倉少佐の行動を皆はどう思うか

2008年02月08日 | 片倉衷陸軍少将


 片倉少佐らが、関東軍参謀長の板垣征四郎中将を押したのは、陸軍旧来の序列思想(陸大卒業序列重視)を無視することになった。

 梅津次官より序列が下位の板垣陸相、または次官説があるのを、梅津次官は不満としていた。

 だが、結局昭和12年2月2日中村中将が陸相に補任された。

 ある日、陸相官邸で省部の関係課長以上が集まった席上、梅津次官は「片倉少佐のやった一連の行動は、どうもけしからん。片倉少佐の行動を皆はどう思うか」と発言した。

 まず磯谷軍務局長が「いや、これは私の承認のもとでやりました」と答えた。

 兵務局長の阿南惟幾も「私も承知しております」と答えた。田中新一兵務課長、町尻量基軍事課長、石本寅三軍務課長も同様な返事をした。

 そこで、片倉少佐は「閣下、気に入らなければ、私を軍法会議にかけてください。喜んで受けます」と言った。

 すると梅津次官は「君の行動に私は同意しない。しかし、皆が承知済みであるということなので、先の私の言った発言は取り消す」と御破算になった。

 昭和12年3月片倉少佐は関東軍参謀・第三課政策主任に補された。同じ月に東条英機中将が関東軍憲兵司令官から関東軍参謀長に補任された。

 東條中将は片倉少佐のことを着任前から知っていた。政治家の浅原健三は東條中将に「今度片倉という男が参謀として関東軍に行くらしいが、うっかりすると、貴方、片倉に馬から引きずり落とされるよ」と言った。

 これに対して東條中将は「何を言うか、そんな奴は馬で蹴飛ばす」と答えたという。

 また、昭和12年9月に石原莞爾少将が関東軍参謀副長に補任された。9月23日に石原新副長を迎えて第一回部長会報が開かれた。

 その席上、東條参謀長は「石原副長には作戦、兵站関係業務の参謀長の補佐役を専心やっていただく。満州国関係の業務は参謀長の専管事項として私自らが処理する」と発言した。

 これに対して石原副長は「参謀長の指示通り、満州国軍関係は作戦に関係があるのでタッチするが、その他の治安、交通、政治に関することはタッチしない」と発言した。

 東條参謀長は「それでよろしい。そうやってくれ」と、その場は収まった。

 しかし、当時の満州国の日満要人の多くは、石原が建国当時の作戦主任をしていた頃に接触が多く、現在の関東軍中心の指導に不満を持っていた。

 いろいろな不満を直接石原副長の官邸に持っていく。だが表向きの発言ができない石原副長は、片倉参謀を呼んで「このような問題がある」と伝える。片倉少佐は東條参謀長と石原副長の間に入って、調整役となった。

 だがこのような状況で逐次東條参謀長と石原副長の感情の疎隔が高じていった。

97.片倉衷陸軍少将(7) エイッこの野郎、ウルサイ奴だ、まだクヅクヅと文句を言うのか!

2008年02月01日 | 片倉衷陸軍少将
 戦後軍が国を誤ったといわれ、その要因は皇道派と統制派の派閥争いに始まり、統制派の総帥が永田であり、その後を受けた東條、武藤らの幕僚ファッショの勢力が増大して大東亜戦争にエスカレートして遂に敗戦に導いたという説がある。

 片倉氏はこの説に猛反対した。永田少将は派閥的な考え方は全くなかったし、片倉氏ら中央省部の幕僚も統制派の一員であると考えたことはなかった。

 「統制派という言葉は憲兵隊の造語である。中央省部の幕僚の中では、戦後池田純久氏だけが自称しているようだが、他の幕僚たちは統制派と自覚し、また意識したこともかってなかった」。

 「特に皇道派に対する統制派と意識したことはなかった。統制派という派閥はなかった。だから東條首相の失敗が永田軍務局長に起因するが如きは全くの逆説である」。このように片倉氏は述べている。

 昭和11年2月26日、皇道派青年将校による2.26事件が起こった。

 事件当日、真崎大将が川島陸相と会談して、伏見宮海軍軍令部総長宮に会うために陸相官邸を出て、陸軍省の玄関にさしかかった時、1つの事件が起こった。片倉衷少佐がこめかみを拳銃で撃たれたのだ。

 撃ったのは皇道派青年将校の首謀者、磯部浅一である。片倉が関与した十一月事件で免官になった磯部は片倉少佐に遺恨を持ち注目していた。

 磯部の「行動記」によると、磯部らのグループは陸軍省を占拠していた。玄関には幕僚将校が多数詰めかけていた。その中に片倉少佐がいた。

 片倉少佐は石原莞爾作戦課長に「課長殿、話があります」と石原大佐を詰問するような態度を示した。

 それを見ていた磯部は「エイッこの野郎、ウルサイ奴だ、まだクヅクヅと文句を言うのか!」と思い、いきなりピストルを握って片倉少佐のこめかみ部に銃口を当てて発砲した。

 撃たれた片倉少佐はよろめいて四、五歩引き下がった。磯部は止めを刺そうと軍刀を抜き、倒れるのを待った。血が顔面にたれて、片倉少佐の顔は悪魔の形相になっていた。

 片倉少佐は「撃たんでも分かる」と言いながら傍らの大尉に支えられていた。そこに居合わせた真崎大将と古荘陸軍次官が「皇軍同士撃ち合ってはいかん」と諌めた。

 磯部は切るのを止めた。片倉少佐は「ヤルナラ天皇陛下の命令でやれ」と怒号して、支えられて去った。

 この事件で今まで玄関に詰めかけて鼻息の荒かった幕僚たちはすっかりおじけづいた。磯部はあとで片倉少佐を殺さなかったことを後悔している。

 片倉少佐は撃たれて入院中だったが、病室から、第二師団長の梅津美治郎中将を陸軍次官に、磯谷廉介少将を軍務局長にと、意見具申した。梅津中将は閥に属さず公平な見方をする人であったからである。

 昭和11年3月23日、2.26事件後、梅津美治郎中将が陸軍次官に補任された。

 ところが、後に林内閣の陸相人選では、梅津次官が押す中村孝太郎中将に対して参謀本部作戦部長心得の石原大佐と片倉少佐らは、関東軍参謀長の板垣征四郎中将を押した。それで感情の行き違いが生じた。

96.片倉衷陸軍少将(6) 片倉、人間は死ぬときは死ぬ。殺されるときはやられる。すべては運命だ

2008年01月25日 | 片倉衷陸軍少将
 「龍虎の争い」(紀尾井書房)の著者、谷口勇元陸軍中将は片倉少佐を武士の風上にも置けぬ恥知らずのものであると記している。

 ところが、「秘録永田鉄山」(芙蓉書房)の中に、片倉衷氏の証言がある。それは要約すると次のようなものである。

 「九年十一月に例の十一月事件が起きた。永田少将が私を使って教育総監の真崎大将をやっつけるために何かやったという論をする人もあるが、これは大きな誤解であり、絶対にそのような事実はなかった」

 「ではどうしてそのような風聞が飛んだかというと、当時私は参謀本部第四班の職柄から要注意人物の動向を注意して見るため、右翼の裁判には特別弁護人として毎回出席していた」

 「また西田税に会ったことがある。西田に言った。『君の考えは良く判る・しかし、青年将校と君が接触するのは一向構わないが、青年将校の行動をして軍人の本分を間違わないようにしてくれ。青年将校の考えは非常に良く判っている。しかし軍律を乱すようなことはしないでもらいたい。もしそうなる時には、君と僕とは敵になると思いたまえ』と」

 「西田は中野の私宅にも二度ばかり来訪したことがあり、手紙ももらった。彼は日仏同盟の構想をもっており、なかなか頭の切れるいい男でした」

 「ところが昭和九年の夏頃、辻政信が士官学校中隊長に転じた。私は任務上辻君に士官候補生をよく見て五・一五みたいにならぬようよく指導してくれと言ったことがある」

 「辻君から、この頃どうも士官候補生が外からの策動を受けているとの報告があった。辻君は自ら士官候補生と接触し、もう少し情勢を見てから報告するとのことでした」

 片倉衷氏の証言はまだ続く。

 「昭和九年の十一月二十日の夜でしたが、辻君が塚本という憲兵を連れて中野の私の宅にやって来た。辻君は『重大事だ。士官候補生から聞くと決起計画があることが判った』と言った」

 「それは放置しておけない、至急当局に知らせねばならない、ということで橋本虎之助次官の所へ夜道を走った」

 「橋本次官はこの件を承知し、翌朝陸軍省で永田軍務局長その他を招致して対策を講じた」

 「私は参謀本部に登庁し飯村課長に報告し、この事件は未遂として未然に防いでくれ。策動している分子は処分しても、若い士官候補生を傷つけないで欲しいと述べた」

 「これ以外十一月事件には私とは関係はないのです。従って永田少将とはもちろん関係もないし関知もしていない。この事件に関しては私は永田少将に報告もしないし何も指令を受けていない。真崎大将をどうのこうのもへちまもない」

 昭和10年8月12日、永田軍務局長は相澤三郎中佐によって斬殺された。相澤中佐事件である。

 「秘録永田鉄山」(芙蓉書房)によると、片倉氏は当時少佐で永田軍務局長の下で軍事課の満州班長だった。

 昭和10年7月末、満州国の干静遠学処長が上京して来て、永田軍務局長が干氏の慰労の宴を上野池の支那料理店で開いた。

 宴が終わり、片倉少佐は永田局長を家まで送った。その途中で、片倉少佐は「局長閣下は今、非常に危険性があるので護衛を常時つけられては如何ですか」といつも思っていたことが真っ先に口からすべりでた。

 ところが永田局長は意外にも断固として片倉少佐の要望をはねつけた。「片倉、人間は死ぬときは死ぬ。殺されるときはやられる。すべては運命だ。私は運命に従う。君の心配する護衛は必要ない」。

 誠にはっきりこう言った。永田局長の口調は片倉少佐が後の句をつげないような断固たる響きを持っていた。その一言は金鉄の如く、片倉少佐は再びこのことで口に出しても駄目だなあという気がしきりにした。

 だがそのすぐ旬日の後の8月12日、永田局長は相澤中佐(二十二期)に斬殺された。片倉少佐は倒れている永田局長に馬乗りになり、約三十分以上も人工呼吸をしたが、既にこと切れていて行きかえさせることはできなかった。

95.片倉衷陸軍少将(5) やった、やった、スパイを使ってやった。村中、磯部をやった

2008年01月18日 | 片倉衷陸軍少将
 長崎の講演の帰り、駅のプラットホームに警察官がいて尾行されているのが分かった。片倉大尉は要注意人物としてマークされたのだ。

 ある日自宅で小倉の護国軍という右翼関係の者と話をしていると、自宅の縁の下に警察官が潜んでいるのが分かった。

 片倉大尉は縁の下に聞こえるように「槍で突くぞ」と怒鳴ったところ、脱兎のごとく逃げ出した。

 この頃の陸軍は混乱していた。荒木貞夫陸相に青年将校たちが引き付けられ、直接出入りし、また荒木陸相も国家革新を様々な場所で公言していた。

 隊付きの青年将校は師団長、連隊長が地域、部隊の情勢を加味して訓示しても、「それは大臣の意図と違う」「そのようなことは大臣の意思ではない」との反論の気風も生じていた。

 片倉大尉の考えは、軍を組織的に動かすことにあり、個人の暴動、叛乱には絶対に反対の立場をとっていたのでこのような動向に、苦々しく思っていた。

 昭和8年8月、片倉大尉は参謀本部第二部第四課第四班へ転補された。石原莞爾大佐らが「片倉を小倉に置いておかず、中央で使ってくれ」と尽力したのだ。

 片倉大尉は登庁後、武藤章班長の所へ着任の挨拶に行くと、彼は人差し指を曲げて拳銃を撃つまねをして、「君、これはやらんだろうな」と言った。

 片倉大尉は「イヤ、私は国家革新の必要は痛感していますが、テロは押さえる方です。ご安心ください」と応酬した。

 「龍虎の争い」(紀尾井書房)によると、2.26事件の前の、昭和9年11月20日、陸軍大学校在学中の皇道派青年将校、村中孝次大尉(三十七期)、磯部浅一一等主計(三十八期)ほか一名および陸軍士官学校在学の士官候補生五名がクーデター計画が有るという理由で逮捕された。

 統制派の陸軍士官学校中隊長・辻政信大尉と参謀本部部員・片倉衷少佐の報告によるものだった。

 逮捕された者は軍法会議で審査されたが、証拠不十分で不起訴となり、村中、磯部は昭和10年3月29日その行動、軍規上適当ならずとの理由を以て行政処分で停職に処せられ、後に免官となった。十一月事件である。

 この事件は当時陸士中隊長であった辻政信大尉が自らの担任する士官候補生をスパイに使って聞知した片言を基礎にして事件を作り上げたと言われている。

 田中清少佐(二十九期)が後年、「昭和の軍閥」の著者、高橋正衛氏に語った内容が残っている。

 「十一月二十日、私は兵要地誌班で池田純久(すみひさ)中佐と雑談していた。そこに片倉が飛び込んできて『やった、やった、スパイを使ってやった。村中、磯部をやった』と叫んで部屋を出て行った。

 池田中佐は『同じ軍人でスパイを使ってやったの、やられたのとは全く不愉快だ』とつぶやいた」と田中少佐は語ったという。同じ統制派幕僚でもこのような感じの人もいた。

94.片倉衷陸軍少将(4) もう帰るのか。もうすこしおると、おもしろいことがあるんだがな

2008年01月11日 | 片倉衷陸軍少将
 向こうも軍刀つったままで、こちらも軍刀つって、武装したまま相対している。まるで軍使にでも言ったような調子だった。

 今井大尉は板垣高級参謀、土肥原大佐、石原参謀、竹下参謀、片倉大尉みんな熟知している間柄だった。それなのに、「こんにちは」とも「やあ」とも言えないような空気だった。

 いちおうお辞儀して両方とも腰掛けたが「ご苦労でした」という言葉もなかった。いきなり「貴官らはいかなる任務できたか」と任務の追求をされた。

 その後二、三のやりとりがあって、五、六分で話が終って、関東軍の幕僚はまたドカドカと出て行った。

 あまりおかしいので、石原中佐参謀は今井大尉の陸軍大学校時代の教官だったので、今井大尉が「石原教官しばらくです」「ご苦労様です」と声をかけた。

 すると石原中佐は「君によく言っとくが、君たちは何をしてもぼくらによくわかるよ。いつも憲兵五、六人尾行しているから、そう思え」と、それを今井大尉に言うのではなく、みんなに聞こえるように大きな声で言った。

 調査を終えた橋本班は10月16日、奉天を出発することになった。今井大尉は陸士三十期で陸士三十一期の片倉大尉より一期先輩だったが、陸軍大学校はともに四十期で机を並べた仲だった。

 今井大尉は帰りがけに、片倉大尉に「帰るよ」と挨拶に行った。すると片倉大尉は「もう帰るのか。もうすこしおると、おもしろいことがあるんだがな」と言った。しかし今井大尉にはなにが面白いのかわからなかった。

 10月19日の夜遅く東京に着いた今井大尉は自宅に帰った。そしたら午前1時頃、どんどんと玄関をたたく音がした。

 出てみると朝日新聞記者の高宮太平がいた。「10月事件」が発生していたのである。

 10月事件は関東軍が出した資金で、桜会の橋本欣五郎中佐、長勇少佐、田中清少佐らが、柳条溝事件に呼応して10がつ21日にクーデターを計画した事件だった。大川周明、北一輝らも加わっていた。

 だが10月17日、憲兵隊はクーデター計画の幹部を検挙した。橋本中佐は重謹慎二十日、長少佐、田中少佐は同十日の処分を受けた。

 昭和7年8月片倉大尉は関東軍参謀から第十二師団(久留米市)参謀に補された。

 師団長は杉山元中将、参謀長は石田保道大佐であった。片倉大尉は教育関係、警備、国防宣伝を主務とした幕僚勤務を命じられた。

 片倉大尉は国防思想の普及、満蒙問題解決に対する世論への訴え等の講演会に数多く出席し講演を行なった。

 この講演会に対する反響は、国防献金を九州各県で競うほどの土地柄か、ものすごく、小倉でも、博多でも人々で講演会場があふれんばかりであった。

93.片倉衷陸軍少将(3) だれが迎えに行くか。片倉、貴様行け

2008年01月04日 | 片倉衷陸軍少将
 「語りつぐ昭和史1」(朝日文庫)によると、昭和6年9月18日の晩、柳条溝事件が起きた。

 本庄繁軍司令官以下、関東軍幕僚は19日午前三時列車で旅順を出発して、奉天に向かった。

 ところがその日の夕方、東京から「今までの行動はいいが、これから先、事態を拡大してはいけない」という参謀総長の電報が来た。

 その電報を受け取った石原莞爾中佐は「もう俺は作戦主任をやめた。片倉、貴様やれ」と言った。

 片倉大尉は当時参謀部付の幕僚で、まだ参謀になっていない。片倉大尉は「あなた、そんなばかなことを言っちゃいかん。今、中央からは幸いに作戦部長の建川美次少将がきているから、これとひとつゆっくり話し合ってみなさい」と進言した。

 建川美次少将は関東軍の行動を抑えるために東京から派遣されていた。ところが板垣高級参謀が建川少将を奉天の菊文という料亭に誘導して、いわば軟禁していた。

 建川少将はドカンドカンと撃っているのを知っていたが、料亭にじっとしていたという。

 結局その建川少将を迎えに行くことになった。板垣大佐と石原中佐が「だれが迎えに行くか。片倉、貴様行け。場所は奉天の特務機関の花谷から聞け」ということになり、片倉大尉は奉天の特務機関に行った。

 片倉大尉は着くなり花谷少佐をどなりつけた。「なんだ!貴様、この間俺に嘘をついたろう。何をごまかしたんだ」と。

 すると花谷少佐は「いや、俺は絶対に嘘はうそはついていない。18日の決行は俺も知らなかったんだ」と言って寝台の上にひっくりかえった。

 だが、片倉大尉は斬りつけるぐらいの勢いで、背信行為をせめたという。

 「昭和陸軍秘史」(番町書房)によると、元陸軍少将の今井武夫氏が「柳条溝事件をめぐって関東軍の内情を探る」と題してインタビューに答えている。

 それによると柳条溝事件が9月18日勃発した。その後、9月28日、中央では参謀本部第二部長・橋本虎之助少将を中心にした、橋本班を編成して関東軍に派遣し調査・連絡に乗り出した。

 当時参謀本部部員だった今井大尉も橋本班に組み入れられ関東軍に派遣された。

 今井大尉らの橋本班が満州、奉天の関東軍につくと、橋本少将、西原一策少佐、遠藤三郎少佐、今井大尉の四人は、旅館の応接間に通された。

 待っていると三宅光治参謀長を先頭に、板垣高級参謀、石原参謀、片倉大尉、土肥原大佐、竹下参謀ら関東軍のお歴々がドカドカとやって来た。花谷正少佐はいなかった。

92.片倉衷陸軍少将(2) 関玉衡中佐は「やあ中村君じゃないか」と握手を求めて手を出した

2007年12月28日 | 片倉衷陸軍少将
 中村震太郎大尉は片倉大尉とは、士官学校、陸軍大学校が同期だった。昭和6年4月末に関東軍の片倉大尉のところに中村大尉から手紙が来た。

 その手紙には6月に興安嶺の調査に行くから準備を頼むと書いてあった。片倉大尉は手配をして準備をすすめた。

 6月に中村大尉は満州にやってきた。出発の前の晩に旅順の片倉大尉の家に泊まった。そこで服装を着替えた。

 翌日片倉大尉は中村大尉を汽車で大連まで送った。それから中村大尉はハルピンに出て、中国官憲から査証を受け取り、後に井杉延太郎予備曹長を従え、興安嶺東側を南下した。

 だが中村大尉、井杉予備曹長は6月27日に中国軍に捕まり、第三団長代理、関玉衡中佐に殺害された。

 この中村事件が起きて、世論が満州、内地で起きて、満蒙問題解決、軟弱外交糾弾の声が高まってきた。こうのような世論を背景に満州事変が勃発した。

 「橋本大佐の手記」(みすず書房)によると、中村震太郎事件は満州問題に油を注いだ不幸な事件である、と述べている。

 日中両国にとっても不幸だが本人にも責任があったようだ。

 中村大尉は蒙古語に達者な井杉延太郎予備曹長と蒙古人に変装して、内偵に出発した。

 6月27日、ちょうどに祭りがあって、二人は馬をつないで祭り見物をした。そのうち蒙古人が二人の立派な馬を見て騒ぎ出した。

 蒙古馬は小さくて貧弱なのに、二人の馬はあたりで見かけない立派であった。

 中村大尉らは日本の軍馬に乗って出かけたのだが、これが第一の失敗だった。そこで不審がって屯墾軍の兵士が二人を兵舎につれていった。

 そのとき調べに出てきたのが偶然にも中村大尉と陸軍士官学校同期の関玉衡中佐だった。

 関玉衡中佐は中村大尉を見てびっくりした。だが、同時になつかしがって関玉衡中佐は「やあ中村君じゃないか」と握手を求めて手を出した。

 ところが中村大尉は任務露見を気遣ったのか、関中佐の手を払い渋面をつくり横を向いた。これが第二の失策だった。

 それでも関はなつかしがってさらに手をさしのべると、何を思ったのか中村大尉は関中佐の腕を取って背負い投げに投げつけた。

 そこで関中佐は激怒して中村大尉と井杉予備曹長を部下に命じて殺害した。

 中村大尉は一身を犠牲にして任務の露見を防ぐ決心であったかもしれないが、素直に「やあ関君か」と手を握っておれば殺害されずにすんだであろう。

 関中佐は二人を殺して証拠隠滅をはかるため夜間ひそかに乗馬を殺して焼いた。

 ところがその炎が蒙古高原に高々とのぼえい、遠くからでも望見できて住民の不審を買い、日本人殺害を知った蒙古人が日本人に密告した。それで事件が発覚した。

91.片倉衷陸軍少将(1) 石原中佐が立ち上がって「何だ、この野郎!」と片倉大尉を殴打せんとした

2007年12月21日 | 片倉衷陸軍少将
 「片倉参謀の証言 叛乱と鎮圧」(芙蓉書房)によると、昭和5年8月、片倉衷大尉は、歩兵第二十七連隊の中隊長より関東軍幕僚付に転補された。

 まだ参謀ではなく見習いだった。昭和6年9月18日に勃発した満州事変が勃発。昭和6年10月、片倉大尉は正式に参謀に補任された。

 当時、関東軍の高級参謀・板垣征四郎大佐と参謀・石原莞爾中佐が片倉大尉の上司だった。

 だが、片倉大尉は板垣大佐からは一度も叱られたことはなかった。片倉大尉の我侭もよく聞いてくれた。

 一方、石原中佐とは職務上のことで度々激論を交えていた。チチハルの問題で、石原中佐は片倉大尉の処置が気に入らず、怒って電話をかけてきた。

 片倉大尉は石原中佐の部屋にとんでゆき、反論を闘わせた。最後に石原中佐が立ち上がって「何だ、この野郎!」と片倉大尉を殴打せんとした。

 片倉大尉も石原中佐の胸を掴み、「それなら参謀長の前で決着をつけよう」ということになったが、作戦室にいた中野。武田両参謀が仲に割って入り、事なきを得た。