昭和16年7月、片倉大佐は関東防衛軍高級参謀に補任された。軍司令官は山下奉文中将(陸士18期)だった。
赴任の挨拶に武藤章軍務局長、富永恭次人事局長を訪ねたときに、「現下満州は、関特演にて非常事態であり、特に山下将軍の補佐をたのむ。またこの機会に山下将軍と相識ることは、将来において必ずや役に立つことあるべし」と言われた。
片倉大佐は山下将軍に使えて話す機会も多くなった。それまで片倉大佐は2.26事件の関係から、山下中将を敵だと考えていたが、この人は相当な人物で仕え甲斐があると感じた。
あるとき、チャムスの料亭で会同があり、山下中将が師団長、参謀連中と飲んだ帰り、芸者が車で送ってきた。
片倉大佐は芸者に「ここまでは良いが、足を旅館の中に踏み入れてはならん」と申し渡した。
山下中将にも「閣下、ある限界があります」と率直に申し上げた。このように、片倉大佐は山下中将とは肝胆相照らす仲となった。
山下中将は片倉大佐に「侍従武官長は陸軍出身が多いが、侍従長は海軍出身である。これを陸軍関係者に変えねばならない」と言った。これを片倉大佐は中央へ書き送ったこともあった。
昭和16年11月山下中将は第十四方面軍司令官としてフィリピンに赴任した。片倉大佐は病気療養中であった。
山下中将は片倉大佐が病気でなければ、武藤章参謀長の下で片倉大佐を参謀副長として使うことを考えていたという。片倉大佐は万感胸に迫るものがあった。
戦後、東京裁判が終わり、東條元首相に死刑の判決が決まった。その時片倉少将は特別傍聴席で、これを見て、胸が締め付けられるような気持ちになり、一人涙をぬぐった。
片倉少将は、東條元首相にお別れの面会に行った。金網越しに東條元首相は片倉少将に「国体を維持し、この日本をくれぐれも頼む。しかし軽挙妄動をしてはいかん」と言った。
片倉少将は東條元首相は、根本において生活も質素、淡白であり、職務については極めて凡帳面で、「小梅」と表紙に印してある手帳を常用して、正確真摯であったと述べている。
暴れん坊の片倉も、板垣征四郎大将には心酔していた。板垣は度量が広く、脱線しても片倉には小言一つ言わず大いに働かせてくれた。
板垣は戦後東京裁判でA級戦犯に指定され、死刑の判決が出た。判決が出ても板垣は穀然としていつもと変わらぬ態度だったという。
最終の面会に片倉が行ったとき、片倉に「国体の護持と日本の再興のため努力してくれ」と述べ、最後に、片倉の性格を知っていてか、「片倉、やりすぎるなよ。今後はすべて自重してやれ」と注意を与えたという。
(「片倉衷陸軍少将」は今回で終わりです。次回からは「大西瀧治郎海軍中将」が始まります)
赴任の挨拶に武藤章軍務局長、富永恭次人事局長を訪ねたときに、「現下満州は、関特演にて非常事態であり、特に山下将軍の補佐をたのむ。またこの機会に山下将軍と相識ることは、将来において必ずや役に立つことあるべし」と言われた。
片倉大佐は山下将軍に使えて話す機会も多くなった。それまで片倉大佐は2.26事件の関係から、山下中将を敵だと考えていたが、この人は相当な人物で仕え甲斐があると感じた。
あるとき、チャムスの料亭で会同があり、山下中将が師団長、参謀連中と飲んだ帰り、芸者が車で送ってきた。
片倉大佐は芸者に「ここまでは良いが、足を旅館の中に踏み入れてはならん」と申し渡した。
山下中将にも「閣下、ある限界があります」と率直に申し上げた。このように、片倉大佐は山下中将とは肝胆相照らす仲となった。
山下中将は片倉大佐に「侍従武官長は陸軍出身が多いが、侍従長は海軍出身である。これを陸軍関係者に変えねばならない」と言った。これを片倉大佐は中央へ書き送ったこともあった。
昭和16年11月山下中将は第十四方面軍司令官としてフィリピンに赴任した。片倉大佐は病気療養中であった。
山下中将は片倉大佐が病気でなければ、武藤章参謀長の下で片倉大佐を参謀副長として使うことを考えていたという。片倉大佐は万感胸に迫るものがあった。
戦後、東京裁判が終わり、東條元首相に死刑の判決が決まった。その時片倉少将は特別傍聴席で、これを見て、胸が締め付けられるような気持ちになり、一人涙をぬぐった。
片倉少将は、東條元首相にお別れの面会に行った。金網越しに東條元首相は片倉少将に「国体を維持し、この日本をくれぐれも頼む。しかし軽挙妄動をしてはいかん」と言った。
片倉少将は東條元首相は、根本において生活も質素、淡白であり、職務については極めて凡帳面で、「小梅」と表紙に印してある手帳を常用して、正確真摯であったと述べている。
暴れん坊の片倉も、板垣征四郎大将には心酔していた。板垣は度量が広く、脱線しても片倉には小言一つ言わず大いに働かせてくれた。
板垣は戦後東京裁判でA級戦犯に指定され、死刑の判決が出た。判決が出ても板垣は穀然としていつもと変わらぬ態度だったという。
最終の面会に片倉が行ったとき、片倉に「国体の護持と日本の再興のため努力してくれ」と述べ、最後に、片倉の性格を知っていてか、「片倉、やりすぎるなよ。今後はすべて自重してやれ」と注意を与えたという。
(「片倉衷陸軍少将」は今回で終わりです。次回からは「大西瀧治郎海軍中将」が始まります)