「東条英機暗殺計画」(工藤美知尋・PHP研究所)によると、四月九日、岡田大将は木戸幸一内府を訪ねた。
その結果、嶋田海相の悪評は、とうに宮中深くまで達しているが、海軍側から具体案が出なければ天皇も手のつけようがなく、米内の現役復帰に関しても同様であるとのことだった。
「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、著者の赤松貞雄陸軍大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)は東条英機首相の秘書官で、歩兵第一連隊勤務の中尉のとき東条英機連隊長と出会い、以後、東条英機から目をかけられ、東条次官時代から秘書官に抜擢された。
海軍出身の重臣である岡田啓介大将、米内光政大将らは、高松宮や伏見宮を動かして、嶋田海相に辞任を強く要請した。
抗しかねた嶋田海相は、東条首相にその進退について相談するに至った。これに対して、東条首相は嶋田海相に次のように言って、激励した。
「もしお上のご信任が薄くなったということであるならば、臣下としては一刻といえども輔弼の責任のある地位にあってはならない。しかし、外部のものから強要されて、これに屈服する必要は少しもないのだ」。
嶋田海相は、その地位に止まることを決心した。このために重臣方面の圧力はますます強くなったのみならず、より露骨になった。
東条首相は陸軍次官、参謀次長、軍務局長など軍首脳部の人々と、如何に対処すべきやについて要談した。
第一次世界大戦のとき、フランス軍の戦況が不利になってきたとき、フランス軍の師団長ら高級指揮官の中で、直接に戦場からフランス首相や代議士などと連絡してフランス議会に策動するものが出た。
このため著しく作戦指導が困難になった。このとき、最高指揮官のジョルフ元帥は策動していた師団長らを捕らえ、彼らと行動をともにしていた政治家を軟禁抑留し、その裏面策動を抑えて、マルヌ会戦でドイツ軍を破って国の危急を救った先例があった。
これに準じて、策動している連中を一時抑留して、裏面工作を阻止すべきであるという強硬論者もいた。これがどうして洩れたのか、伏見宮が急いで熱海に帰った、という一場面もあった。
しかし軍務局長・佐藤賢了少将(陸士二九・陸大三七・中将・第三十七師団長)の意見で、強硬措置はとらず、赤松秘書官が岡田啓介大将と逢い、首相と会見の機会をつくるよう処置するということになった。
赤松秘書官はさっそく東大久保の岡田邸を訪問、その旨を伝えた。岡田啓介大将は、赤松秘書官の申し出をあっさりと承認した。
東条首相と岡田大将は、首相官邸で会見をした。その日は、赤松秘書官は他の公用で外出し、帰ってから東条首相に会見、結果の如何を尋ねた。
ところが、東条首相は、意外にも不機嫌だった。そして「赤松は確実に本日の会見趣旨を岡田氏に伝達したのか」と詰問した。
聞けば、岡田大将は、嶋田海相排斥などの策動に対しては、一応は簡単に陳謝した。しかし、それだけに止まり、会見時間の大部分は海相に対する海軍部内の不評を縷縷(るる)陳述したとのことだった。
赤松秘書官は岡田大将に面談したとき、首相に逢ったらよく陳謝した上、今後は自重し策動と疑われる行動はしない旨をはっきりと申し述べるように、と話し、そして岡田大将も「よしよし承諾したよ」と言っていた。
にもかかわらず、事実は、これと反対に、会見の機会を逆用したことを知り、赤松秘書官としても、使者の任務を全うし得ぬ結果になってしまい、真に遺憾至極だった。
この岡田大将が東条首相と会見した頃から、陸軍部内でも、東条ではどうにもならないという空気が流れ始めた。
それからは、岡田大将ら重臣により、海相更迭工作が表面では内閣強化の改造工作と称しながら、裏面では内閣更迭の工作に変わっていた。
昭和十九年七月七日、サイパン守備部隊が玉砕し、マリアナ諸島の島々も米軍の手に帰する事は自明のこととなった。
七月十七日、重臣会議が開かれ、東条内閣不信任をはっきり打ち出した。
七月十八日、遂に東条英機は総理の座から降りた。岡田啓介大将が東条を退陣させようと決心してから一年の歳月が流れていた。
七月二十二日、後継内閣組閣の大命は、朝鮮総督・小磯国昭陸軍大将、海軍大臣・米内光政海軍大将の両名列立で降下した。
(「岡田啓介海軍大将」は今回で終わりです。次回から「辻政信陸軍大佐」が始まります)
その結果、嶋田海相の悪評は、とうに宮中深くまで達しているが、海軍側から具体案が出なければ天皇も手のつけようがなく、米内の現役復帰に関しても同様であるとのことだった。
「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、著者の赤松貞雄陸軍大佐(陸士三四・陸大四六恩賜)は東条英機首相の秘書官で、歩兵第一連隊勤務の中尉のとき東条英機連隊長と出会い、以後、東条英機から目をかけられ、東条次官時代から秘書官に抜擢された。
海軍出身の重臣である岡田啓介大将、米内光政大将らは、高松宮や伏見宮を動かして、嶋田海相に辞任を強く要請した。
抗しかねた嶋田海相は、東条首相にその進退について相談するに至った。これに対して、東条首相は嶋田海相に次のように言って、激励した。
「もしお上のご信任が薄くなったということであるならば、臣下としては一刻といえども輔弼の責任のある地位にあってはならない。しかし、外部のものから強要されて、これに屈服する必要は少しもないのだ」。
嶋田海相は、その地位に止まることを決心した。このために重臣方面の圧力はますます強くなったのみならず、より露骨になった。
東条首相は陸軍次官、参謀次長、軍務局長など軍首脳部の人々と、如何に対処すべきやについて要談した。
第一次世界大戦のとき、フランス軍の戦況が不利になってきたとき、フランス軍の師団長ら高級指揮官の中で、直接に戦場からフランス首相や代議士などと連絡してフランス議会に策動するものが出た。
このため著しく作戦指導が困難になった。このとき、最高指揮官のジョルフ元帥は策動していた師団長らを捕らえ、彼らと行動をともにしていた政治家を軟禁抑留し、その裏面策動を抑えて、マルヌ会戦でドイツ軍を破って国の危急を救った先例があった。
これに準じて、策動している連中を一時抑留して、裏面工作を阻止すべきであるという強硬論者もいた。これがどうして洩れたのか、伏見宮が急いで熱海に帰った、という一場面もあった。
しかし軍務局長・佐藤賢了少将(陸士二九・陸大三七・中将・第三十七師団長)の意見で、強硬措置はとらず、赤松秘書官が岡田啓介大将と逢い、首相と会見の機会をつくるよう処置するということになった。
赤松秘書官はさっそく東大久保の岡田邸を訪問、その旨を伝えた。岡田啓介大将は、赤松秘書官の申し出をあっさりと承認した。
東条首相と岡田大将は、首相官邸で会見をした。その日は、赤松秘書官は他の公用で外出し、帰ってから東条首相に会見、結果の如何を尋ねた。
ところが、東条首相は、意外にも不機嫌だった。そして「赤松は確実に本日の会見趣旨を岡田氏に伝達したのか」と詰問した。
聞けば、岡田大将は、嶋田海相排斥などの策動に対しては、一応は簡単に陳謝した。しかし、それだけに止まり、会見時間の大部分は海相に対する海軍部内の不評を縷縷(るる)陳述したとのことだった。
赤松秘書官は岡田大将に面談したとき、首相に逢ったらよく陳謝した上、今後は自重し策動と疑われる行動はしない旨をはっきりと申し述べるように、と話し、そして岡田大将も「よしよし承諾したよ」と言っていた。
にもかかわらず、事実は、これと反対に、会見の機会を逆用したことを知り、赤松秘書官としても、使者の任務を全うし得ぬ結果になってしまい、真に遺憾至極だった。
この岡田大将が東条首相と会見した頃から、陸軍部内でも、東条ではどうにもならないという空気が流れ始めた。
それからは、岡田大将ら重臣により、海相更迭工作が表面では内閣強化の改造工作と称しながら、裏面では内閣更迭の工作に変わっていた。
昭和十九年七月七日、サイパン守備部隊が玉砕し、マリアナ諸島の島々も米軍の手に帰する事は自明のこととなった。
七月十七日、重臣会議が開かれ、東条内閣不信任をはっきり打ち出した。
七月十八日、遂に東条英機は総理の座から降りた。岡田啓介大将が東条を退陣させようと決心してから一年の歳月が流れていた。
七月二十二日、後継内閣組閣の大命は、朝鮮総督・小磯国昭陸軍大将、海軍大臣・米内光政海軍大将の両名列立で降下した。
(「岡田啓介海軍大将」は今回で終わりです。次回から「辻政信陸軍大佐」が始まります)