三浦少将と鳥尾中将は山縣中将と同じ長州藩出身者で、奇兵隊でも山縣とともに戦った戦友でもあった。
それにもかかわらず、藩士出身である、三浦少将と鳥尾中将は、足軽以下の中間という身分出身の山縣中将が、上司として君臨していることに、内心穏やかではなく、面白くなかった。山縣を追い出そうという陰謀もあったのである。
これに対して、桂太郎少佐(三十一歳)は、上級藩士の出身だが、山縣中将に対する偏見はなく、従容と従っている。これは桂の忠実な性格と“ニコポン”主義によるものであった。
明治十一年十一月に桂太郎少佐は歩兵中佐に進級した。三十歳だった。桂太郎中佐の軍制改革は進められ、明治十四年以降、明治政府の立憲体制への転換が起こり、ドイツの君主権の強大な立憲君主制を範とする方向付けが明確となった。
明治十二年一月四日、参謀本部管西局長心得・桂太郎中佐のところへ、近衛参謀副長・児玉源太郎(こだま・げんたろう)少佐(二十七歳・山口・函館戦争・六等下士官<十八歳>・陸軍権曹長<十八歳>・陸軍准少尉<十九歳>・陸軍少尉<十九歳>・中尉<十九歳>・歩兵第一九番大隊副官・大尉<二十歳>・大阪鎮台地方司令副官心得・少佐<二十二歳>・熊本鎮台参謀副長・近衛参謀副長・歩兵中佐<二十八歳>・歩兵第二連隊長・大佐<三十一歳>・参謀本部管東局長・参謀本部第一局長・監軍部参謀長・兼陸軍大学校長・少将<三十七歳>・監軍部参謀長・欧州出張・陸軍次官・兼軍務局長・大本営留守参謀長・男爵・功二級・陸軍次官兼軍務局長・中将<四十四歳>・第三師団長・台湾総督・兼陸軍大臣・兼内務大臣・兼参謀本部次長・大将<五十二歳>・台湾総督兼満州軍総参謀長・兼参謀本部次長・子爵・参謀総長・兼南満州鉄道設立委員長・死去・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級)が訪ねてきた。
児玉少佐は、西南戦争の時は、熊本鎮台参謀として出征していたので、当時の話が出た。当時の熊本鎮台司令長官は谷干城少将だった。
当時、参謀・児玉少佐は、司令長官・谷少将と、作戦について、意見の相異から、対立していた。その時、児玉少佐は、谷少将の采配の凡庸さに、「これは無能と言える」とまで、失望した。
桂中佐が「今頃、山縣さんのことを悪く言う者がいる。困ったことだ」と言うと、児玉少佐が、「誰が、悪口を言っているのですか」と聞き返した。桂中佐が「谷さん達だよ」と答えると、児玉少佐は「そうですか」と、うなずいた。
明治十二年五月、児玉少佐は、西南戦争での連隊旗紛失事件で謹慎処分を受けた。児玉少佐にとっては不本意な処分だった。連隊旗を西郷軍に奪われた当事者は、歩兵第一四連隊長心得・乃木希典少佐だった。
だが、乃木少佐は処罰を受けることはなかった。終戦後二年余りたって、この件で、児玉少佐が謹慎処分を受けたのだ。
桂中佐は、「この処分に反対したのだが、強引にこの処分を迫った者がいた」と、児玉少佐に言って、桂中佐は「がまんしてくれ」と慰めた。
当時の参謀本部長・山縣有朋中将を敵対視している、陸軍士官学校長・谷干城中将が、山縣中将が重用している桂中佐と仲の良い児玉少佐に対する嫌がらせともいえるものだった。
明治十三年三月、桂中佐は、児玉少佐を呼び出して、「東京鎮台の連隊長をやってみるかね」と言った。児玉少佐は、それに応じた。
同年四月、児玉少佐は中佐に昇進し、東京鎮台歩兵第二連隊長を命ぜられた。連隊旗紛失事件で謹慎処分を受けていた児玉少佐は、連隊長としてやっと軍人らしい道を歩めることになった。
明治十五年二月、桂太郎中佐は歩兵大佐に昇進し、参謀本部管西局長に就任した。三十四歳だった。
明治十五年七月二十三日、李氏の王族、興宣大院君(こうせんだいいんくん)らの陰謀により、扇動された大規模な朝鮮の兵士が、漢城(後のソウル)で反乱を起こした。壬午事変である。
当時の朝鮮は、李氏朝鮮の第二十六代王・高宗の妃、閔妃(びんひ=明成皇后)の一族の高官が政権を担当していた。反乱兵士たちは、その政府高官や、日本人の軍事顧問、日本公使館員らを殺害した。
これに対して、日本帝国は、軍艦五隻、歩兵第一一連隊の一個歩兵大隊、海軍陸戦隊を朝鮮に派遣した。
それにもかかわらず、藩士出身である、三浦少将と鳥尾中将は、足軽以下の中間という身分出身の山縣中将が、上司として君臨していることに、内心穏やかではなく、面白くなかった。山縣を追い出そうという陰謀もあったのである。
これに対して、桂太郎少佐(三十一歳)は、上級藩士の出身だが、山縣中将に対する偏見はなく、従容と従っている。これは桂の忠実な性格と“ニコポン”主義によるものであった。
明治十一年十一月に桂太郎少佐は歩兵中佐に進級した。三十歳だった。桂太郎中佐の軍制改革は進められ、明治十四年以降、明治政府の立憲体制への転換が起こり、ドイツの君主権の強大な立憲君主制を範とする方向付けが明確となった。
明治十二年一月四日、参謀本部管西局長心得・桂太郎中佐のところへ、近衛参謀副長・児玉源太郎(こだま・げんたろう)少佐(二十七歳・山口・函館戦争・六等下士官<十八歳>・陸軍権曹長<十八歳>・陸軍准少尉<十九歳>・陸軍少尉<十九歳>・中尉<十九歳>・歩兵第一九番大隊副官・大尉<二十歳>・大阪鎮台地方司令副官心得・少佐<二十二歳>・熊本鎮台参謀副長・近衛参謀副長・歩兵中佐<二十八歳>・歩兵第二連隊長・大佐<三十一歳>・参謀本部管東局長・参謀本部第一局長・監軍部参謀長・兼陸軍大学校長・少将<三十七歳>・監軍部参謀長・欧州出張・陸軍次官・兼軍務局長・大本営留守参謀長・男爵・功二級・陸軍次官兼軍務局長・中将<四十四歳>・第三師団長・台湾総督・兼陸軍大臣・兼内務大臣・兼参謀本部次長・大将<五十二歳>・台湾総督兼満州軍総参謀長・兼参謀本部次長・子爵・参謀総長・兼南満州鉄道設立委員長・死去・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級)が訪ねてきた。
児玉少佐は、西南戦争の時は、熊本鎮台参謀として出征していたので、当時の話が出た。当時の熊本鎮台司令長官は谷干城少将だった。
当時、参謀・児玉少佐は、司令長官・谷少将と、作戦について、意見の相異から、対立していた。その時、児玉少佐は、谷少将の采配の凡庸さに、「これは無能と言える」とまで、失望した。
桂中佐が「今頃、山縣さんのことを悪く言う者がいる。困ったことだ」と言うと、児玉少佐が、「誰が、悪口を言っているのですか」と聞き返した。桂中佐が「谷さん達だよ」と答えると、児玉少佐は「そうですか」と、うなずいた。
明治十二年五月、児玉少佐は、西南戦争での連隊旗紛失事件で謹慎処分を受けた。児玉少佐にとっては不本意な処分だった。連隊旗を西郷軍に奪われた当事者は、歩兵第一四連隊長心得・乃木希典少佐だった。
だが、乃木少佐は処罰を受けることはなかった。終戦後二年余りたって、この件で、児玉少佐が謹慎処分を受けたのだ。
桂中佐は、「この処分に反対したのだが、強引にこの処分を迫った者がいた」と、児玉少佐に言って、桂中佐は「がまんしてくれ」と慰めた。
当時の参謀本部長・山縣有朋中将を敵対視している、陸軍士官学校長・谷干城中将が、山縣中将が重用している桂中佐と仲の良い児玉少佐に対する嫌がらせともいえるものだった。
明治十三年三月、桂中佐は、児玉少佐を呼び出して、「東京鎮台の連隊長をやってみるかね」と言った。児玉少佐は、それに応じた。
同年四月、児玉少佐は中佐に昇進し、東京鎮台歩兵第二連隊長を命ぜられた。連隊旗紛失事件で謹慎処分を受けていた児玉少佐は、連隊長としてやっと軍人らしい道を歩めることになった。
明治十五年二月、桂太郎中佐は歩兵大佐に昇進し、参謀本部管西局長に就任した。三十四歳だった。
明治十五年七月二十三日、李氏の王族、興宣大院君(こうせんだいいんくん)らの陰謀により、扇動された大規模な朝鮮の兵士が、漢城(後のソウル)で反乱を起こした。壬午事変である。
当時の朝鮮は、李氏朝鮮の第二十六代王・高宗の妃、閔妃(びんひ=明成皇后)の一族の高官が政権を担当していた。反乱兵士たちは、その政府高官や、日本人の軍事顧問、日本公使館員らを殺害した。
これに対して、日本帝国は、軍艦五隻、歩兵第一一連隊の一個歩兵大隊、海軍陸戦隊を朝鮮に派遣した。