中野正剛は「いかに東條を倒すか」、その思いが脳裏を離れなかった。最終的に中野は、重臣を動かして、東條を退陣に追い込み、そのあとに、宇垣一成陸軍大将(陸士一・陸大一四恩賜)の政権をつくることを考えていた。
中野は、この策謀を盟友の天野辰夫に打ち明けた。天野も大賛成で、大川周明を代々木の中野邸に招いて参加を求めた。
ところが「おれは、御免こうむる」と大川はにべもなかった。「東條を退陣させるのは大賛成だが、そのあとに、宇垣政権をつくるというのが、気に入らん」。
大川がそういったのは、昭和六年の三月事件で、大川、橋本欣五郎(陸士二三・陸大三二)、建川美次(陸士一三・陸大二一恩賜)たちのクーデター計画に、ときに陸相だった宇垣は、いったんは賛成し、乗りながら、最後には裏切ったという過去があった。
中野は、今度は逓信省工務局長・松前重義(戦後社会党参議院議員・東海大学学長)を、同志に加えた。
松前は近衛文麿たち重臣や、海軍首脳の間を歩いて、「東條体制では戦争に勝てない。退陣させるべきだ」と説いてまわった。
「中野や、近衛たちの動きがくさい」。東京憲兵隊長・四方諒二大佐(陸士二九・東京帝国大学法学部)はすでに嗅ぎ付けていた。
四方大佐から報告を受けた東條は「つまらんことを、せんように、近衛を脅かしておけ」と、吐いて捨てるように言った。四方の意向を受けた憲兵司令部の某大佐が、近衛を荻外荘に訪ねた。
「最近、公爵は、中野、天野たちと、よくお会いになっていると、うかがっております。それも倒閣運動であるという流説を、耳にしております。もしそうであれば、これはおやめになったほうがよろしい。でないと、私のほうでも考えなければならない」。
近衛はその怒り心頭に発した。「いよいよもって、東條は独裁者だ。われわれ重臣まで、脅迫するのか」。近衛は腹を決めて東條おろしにとりかかった。
ところが、七月三十日の重臣会議に出席した東條首相は怒気を全身にみなぎらせて、
「あなた方は、中野正剛の弁舌に踊らされて、倒閣運動をやっておられるようですが、国民の九九パーセントは本職を支持しておりますぞ。戦中のことは、戦争の専門家が担当します。無益な策動はやめていただきたい。それでも尚継続されるならば、明らかな利敵行為として本職にも考えがありますぞ」と恫喝した。
重臣たちは、この一喝にあって、お互いに顔を見合わせるだけで一言も返すものもいなかった。
昭和十八年八月になると、近衛文麿、宇垣一成、鳩山一郎、その他の重臣も、軽井沢の別荘に滞在し始めた。
中野は天野や松前、企画院調査官・日下藤吾らを引き連れて、軽井沢に乗り込み、近衛や宇垣らの間を行き来するようになった。
八月二十三日、二時間に渡る近衛、宇垣会談で、近衛は「重臣の有志が東條を呼んで退陣を勧告する。聞かなければ、私が単独で上奏をする」と言い切った。そして「中野君たちは、君が戦争終結の適任者だと言っている。私も同じ考えだ」と言った。
宇垣は「もし、そのようになれば私も身命を賭してやるつもりです」と答えた。そのあと、閣僚人事まで話が進んだ。
その夜、鳩山は、中野と中野の息子、泰雄、それに天野、松前、日下を軽井沢の天ぷら屋に招待した。ふだんは酒をたしなまない中野もビールを三杯飲んで愉快そうに鳩山と話をした。
近衛文麿、岡田啓介、平沼麒一郎の三人が発起人になって、東條首相を招待することになった。その趣旨の書簡を、岡田がしたため、女婿の迫水がたずさえて、首相官邸に出向いた。
東條首相は「ありがたくお受けするが」と答えたが、「重臣の方々から、いろいろ時局に関するご質問もあろう。わし一人では、正確にお答えできん件もあるので、二、三閣僚を同伴したい」と言った。
すでに、東條首相は、憲兵、特高に、中野、三田村の動向を追わせ、その先にいる重臣の挙動を洗わせていた。閣僚を二、三引き連れて行けば、「わしの進退に言及できまい」と計算した。
迫水が岡田にこのことを報告すると、岡田は東條に「一人で来れないか」と電話したが、東條は拒否した。それで、重臣側は作戦をたてた。
岡田が幹事役で、政局、戦局の重大性を指摘し、それに関する資料を米内光政が示して、東條を批判し、近衛が辞任を勧告する。
もし東條が居直れば、若槻礼次郎が重臣代表として参内、後継首班に宇垣を推す。以上が作戦であった。
八月三十日、東條首相は重光葵外相、賀屋興宣蔵相、嶋田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁を引き連れて、重臣の待つ華族会館に乗り込んできた。
中野は、この策謀を盟友の天野辰夫に打ち明けた。天野も大賛成で、大川周明を代々木の中野邸に招いて参加を求めた。
ところが「おれは、御免こうむる」と大川はにべもなかった。「東條を退陣させるのは大賛成だが、そのあとに、宇垣政権をつくるというのが、気に入らん」。
大川がそういったのは、昭和六年の三月事件で、大川、橋本欣五郎(陸士二三・陸大三二)、建川美次(陸士一三・陸大二一恩賜)たちのクーデター計画に、ときに陸相だった宇垣は、いったんは賛成し、乗りながら、最後には裏切ったという過去があった。
中野は、今度は逓信省工務局長・松前重義(戦後社会党参議院議員・東海大学学長)を、同志に加えた。
松前は近衛文麿たち重臣や、海軍首脳の間を歩いて、「東條体制では戦争に勝てない。退陣させるべきだ」と説いてまわった。
「中野や、近衛たちの動きがくさい」。東京憲兵隊長・四方諒二大佐(陸士二九・東京帝国大学法学部)はすでに嗅ぎ付けていた。
四方大佐から報告を受けた東條は「つまらんことを、せんように、近衛を脅かしておけ」と、吐いて捨てるように言った。四方の意向を受けた憲兵司令部の某大佐が、近衛を荻外荘に訪ねた。
「最近、公爵は、中野、天野たちと、よくお会いになっていると、うかがっております。それも倒閣運動であるという流説を、耳にしております。もしそうであれば、これはおやめになったほうがよろしい。でないと、私のほうでも考えなければならない」。
近衛はその怒り心頭に発した。「いよいよもって、東條は独裁者だ。われわれ重臣まで、脅迫するのか」。近衛は腹を決めて東條おろしにとりかかった。
ところが、七月三十日の重臣会議に出席した東條首相は怒気を全身にみなぎらせて、
「あなた方は、中野正剛の弁舌に踊らされて、倒閣運動をやっておられるようですが、国民の九九パーセントは本職を支持しておりますぞ。戦中のことは、戦争の専門家が担当します。無益な策動はやめていただきたい。それでも尚継続されるならば、明らかな利敵行為として本職にも考えがありますぞ」と恫喝した。
重臣たちは、この一喝にあって、お互いに顔を見合わせるだけで一言も返すものもいなかった。
昭和十八年八月になると、近衛文麿、宇垣一成、鳩山一郎、その他の重臣も、軽井沢の別荘に滞在し始めた。
中野は天野や松前、企画院調査官・日下藤吾らを引き連れて、軽井沢に乗り込み、近衛や宇垣らの間を行き来するようになった。
八月二十三日、二時間に渡る近衛、宇垣会談で、近衛は「重臣の有志が東條を呼んで退陣を勧告する。聞かなければ、私が単独で上奏をする」と言い切った。そして「中野君たちは、君が戦争終結の適任者だと言っている。私も同じ考えだ」と言った。
宇垣は「もし、そのようになれば私も身命を賭してやるつもりです」と答えた。そのあと、閣僚人事まで話が進んだ。
その夜、鳩山は、中野と中野の息子、泰雄、それに天野、松前、日下を軽井沢の天ぷら屋に招待した。ふだんは酒をたしなまない中野もビールを三杯飲んで愉快そうに鳩山と話をした。
近衛文麿、岡田啓介、平沼麒一郎の三人が発起人になって、東條首相を招待することになった。その趣旨の書簡を、岡田がしたため、女婿の迫水がたずさえて、首相官邸に出向いた。
東條首相は「ありがたくお受けするが」と答えたが、「重臣の方々から、いろいろ時局に関するご質問もあろう。わし一人では、正確にお答えできん件もあるので、二、三閣僚を同伴したい」と言った。
すでに、東條首相は、憲兵、特高に、中野、三田村の動向を追わせ、その先にいる重臣の挙動を洗わせていた。閣僚を二、三引き連れて行けば、「わしの進退に言及できまい」と計算した。
迫水が岡田にこのことを報告すると、岡田は東條に「一人で来れないか」と電話したが、東條は拒否した。それで、重臣側は作戦をたてた。
岡田が幹事役で、政局、戦局の重大性を指摘し、それに関する資料を米内光政が示して、東條を批判し、近衛が辞任を勧告する。
もし東條が居直れば、若槻礼次郎が重臣代表として参内、後継首班に宇垣を推す。以上が作戦であった。
八月三十日、東條首相は重光葵外相、賀屋興宣蔵相、嶋田繁太郎海相、鈴木貞一企画院総裁を引き連れて、重臣の待つ華族会館に乗り込んできた。