「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年・初版)によると、明治四十一年三月三日付で、野村吉三郎大尉は、オーストリア駐在を仰せ付けられた。それまでは、防護巡洋艦「千歳」(四七六〇トン)の航海長だった。
そのオーストリアに向けて出発の前日、野村吉三郎大尉は、奈良県郡山出身の山岸秀子(二十歳)と結婚式を挙げた。野村吉三郎大尉は三十一歳だった。野村吉三郎大尉は、新婚二日目にヨーロッパに旅立った。
恩賜など海軍兵学校で成績優秀な海軍士官は、大尉や少佐の頃、海軍大学校を受験するのが常識だった。野村吉三郎大尉は海軍兵学校(二六期)を次席の恩賜で卒業している。
海軍兵学校の同期生や、周辺の上司の士官達は、野村吉三郎大尉は当然海軍大学校を受験するだろうと思っていた。後に、野村吉三郎大尉の二六期からは十数名が海軍大学校を卒業している。
だが、周辺の人々の思惑に反して、野村吉三郎大尉は海軍大学校を受験せずに、オーストリア駐在員としてヨーロッパに旅立った。
連合艦隊作戦参謀(中佐)として日本海海戦(明治三十八年五月二十七日~二十八日)を勝利に導いたのは、秋山真之(あきやま・さねゆき)中将(愛媛・海兵一七首席・常備艦隊参謀兼第一艦隊参謀・一等戦艦「三笠」乗艦・中佐・連合艦隊作戦参謀・日本海海戦で勝利・海軍大学校教官・一等戦艦「三笠」副長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・少将・海軍省軍務局長・欧米各国出張・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・以前から患っていた虫垂炎が悪化して死去・享年四十九歳・従四位・勲二等旭日重光章・功三級)だった。
秋山真之中将も海軍兵学校は首席だったが、海軍大学校を受験しなかった。その秋山中将は回想録で、野村吉三郎大尉が海軍大学校を受けなかったことについて述べている。
回想録には、当時、海軍大学校を受験しなかった理由として、野村吉三郎大尉が次のように言ったと記されている。
「僕は海大に学んでもいいが、果たして僕を教え得る教官がいるだろうか? もし、ありとせば、戦術教官・秋山中佐あるのみである」。
また、野村吉三郎大尉の親しい友人達も、「一体、俺に教える教官が、今の大学にいるのかい」と、野村吉三郎大尉が言ったのを聞いたという伝聞もある。
オーストリアのウィーンに着任した野村吉三郎大尉は、ヨーロッパの社交の中心であるこの首都が様々な情報の飛び交う場所であることを知った。ヨーロッパ情勢を分析するには格好の機会だった。
当時のオーストリアは、ハンガリーと合同している二重国家で、王宮や議会はウィーンにもブダペストにもあった。この二重国家は「オーストリア・ハンガリー」と呼ばれていた。
ただし、オーストリア人はゲルマンで、ハンガリー人は東アジア系のマジャール人だったので、その仲は、必ずしも良くはなかった。
まだ、第一次世界大戦で負ける前だから、オーストリア・ハンガリーは中部ヨーロッパに広大な領土を有していた。
ビスマルクのプロシアに負けるまでは、ウィーンはパリ、ロンドンを凌ぐヨーロッパの政治、外交、経済の中心地であった。
また、この国は、ロシアと仲が良かった。ナポレオン戦争の時は同盟を組んで、アウステルリッツでナポレオン軍と戦った。
だから、日露戦争で負けた、戦後のロシア皇帝が何を考えているのかは、このウィーンで洞察できると、野村吉三郎大尉は考えた。
一方、当時のオーストリアは、ドイツ、イタリアと同盟を組んでおり、イギリス、フランス、ロシアの三国協商と対抗し、ヨーロッパの国際情勢をますます複雑にしていた。
野村吉三郎大尉は、ドナウ河に浮かぶ、形だけのオーストリア艦隊を眺めながら、サンステファノ教会の尖塔を仰ぐ広場で、「海軍大学校などで兵棋演習などしているより、列強の勢力が暗躍を繰り返しているこのウィーンのほうが、よほど勉強になる!」と思った。
そのオーストリアに向けて出発の前日、野村吉三郎大尉は、奈良県郡山出身の山岸秀子(二十歳)と結婚式を挙げた。野村吉三郎大尉は三十一歳だった。野村吉三郎大尉は、新婚二日目にヨーロッパに旅立った。
恩賜など海軍兵学校で成績優秀な海軍士官は、大尉や少佐の頃、海軍大学校を受験するのが常識だった。野村吉三郎大尉は海軍兵学校(二六期)を次席の恩賜で卒業している。
海軍兵学校の同期生や、周辺の上司の士官達は、野村吉三郎大尉は当然海軍大学校を受験するだろうと思っていた。後に、野村吉三郎大尉の二六期からは十数名が海軍大学校を卒業している。
だが、周辺の人々の思惑に反して、野村吉三郎大尉は海軍大学校を受験せずに、オーストリア駐在員としてヨーロッパに旅立った。
連合艦隊作戦参謀(中佐)として日本海海戦(明治三十八年五月二十七日~二十八日)を勝利に導いたのは、秋山真之(あきやま・さねゆき)中将(愛媛・海兵一七首席・常備艦隊参謀兼第一艦隊参謀・一等戦艦「三笠」乗艦・中佐・連合艦隊作戦参謀・日本海海戦で勝利・海軍大学校教官・一等戦艦「三笠」副長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・少将・海軍省軍務局長・欧米各国出張・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・以前から患っていた虫垂炎が悪化して死去・享年四十九歳・従四位・勲二等旭日重光章・功三級)だった。
秋山真之中将も海軍兵学校は首席だったが、海軍大学校を受験しなかった。その秋山中将は回想録で、野村吉三郎大尉が海軍大学校を受けなかったことについて述べている。
回想録には、当時、海軍大学校を受験しなかった理由として、野村吉三郎大尉が次のように言ったと記されている。
「僕は海大に学んでもいいが、果たして僕を教え得る教官がいるだろうか? もし、ありとせば、戦術教官・秋山中佐あるのみである」。
また、野村吉三郎大尉の親しい友人達も、「一体、俺に教える教官が、今の大学にいるのかい」と、野村吉三郎大尉が言ったのを聞いたという伝聞もある。
オーストリアのウィーンに着任した野村吉三郎大尉は、ヨーロッパの社交の中心であるこの首都が様々な情報の飛び交う場所であることを知った。ヨーロッパ情勢を分析するには格好の機会だった。
当時のオーストリアは、ハンガリーと合同している二重国家で、王宮や議会はウィーンにもブダペストにもあった。この二重国家は「オーストリア・ハンガリー」と呼ばれていた。
ただし、オーストリア人はゲルマンで、ハンガリー人は東アジア系のマジャール人だったので、その仲は、必ずしも良くはなかった。
まだ、第一次世界大戦で負ける前だから、オーストリア・ハンガリーは中部ヨーロッパに広大な領土を有していた。
ビスマルクのプロシアに負けるまでは、ウィーンはパリ、ロンドンを凌ぐヨーロッパの政治、外交、経済の中心地であった。
また、この国は、ロシアと仲が良かった。ナポレオン戦争の時は同盟を組んで、アウステルリッツでナポレオン軍と戦った。
だから、日露戦争で負けた、戦後のロシア皇帝が何を考えているのかは、このウィーンで洞察できると、野村吉三郎大尉は考えた。
一方、当時のオーストリアは、ドイツ、イタリアと同盟を組んでおり、イギリス、フランス、ロシアの三国協商と対抗し、ヨーロッパの国際情勢をますます複雑にしていた。
野村吉三郎大尉は、ドナウ河に浮かぶ、形だけのオーストリア艦隊を眺めながら、サンステファノ教会の尖塔を仰ぐ広場で、「海軍大学校などで兵棋演習などしているより、列強の勢力が暗躍を繰り返しているこのウィーンのほうが、よほど勉強になる!」と思った。