陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

701.野村吉三郎海軍大将(1)僕は海大に学んでもいいが、果たして僕を教え得る教官がいるだろうか?

2019年08月30日 | 野村吉三郎海軍大将
 「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年・初版)によると、明治四十一年三月三日付で、野村吉三郎大尉は、オーストリア駐在を仰せ付けられた。それまでは、防護巡洋艦「千歳」(四七六〇トン)の航海長だった。

 そのオーストリアに向けて出発の前日、野村吉三郎大尉は、奈良県郡山出身の山岸秀子(二十歳)と結婚式を挙げた。野村吉三郎大尉は三十一歳だった。野村吉三郎大尉は、新婚二日目にヨーロッパに旅立った。

 恩賜など海軍兵学校で成績優秀な海軍士官は、大尉や少佐の頃、海軍大学校を受験するのが常識だった。野村吉三郎大尉は海軍兵学校(二六期)を次席の恩賜で卒業している。

 海軍兵学校の同期生や、周辺の上司の士官達は、野村吉三郎大尉は当然海軍大学校を受験するだろうと思っていた。後に、野村吉三郎大尉の二六期からは十数名が海軍大学校を卒業している。

 だが、周辺の人々の思惑に反して、野村吉三郎大尉は海軍大学校を受験せずに、オーストリア駐在員としてヨーロッパに旅立った。

 連合艦隊作戦参謀(中佐)として日本海海戦(明治三十八年五月二十七日~二十八日)を勝利に導いたのは、秋山真之(あきやま・さねゆき)中将(愛媛・海兵一七首席・常備艦隊参謀兼第一艦隊参謀・一等戦艦「三笠」乗艦・中佐・連合艦隊作戦参謀・日本海海戦で勝利・海軍大学校教官・一等戦艦「三笠」副長・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「橋立」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・第一艦隊参謀長・軍令部第一班長兼海軍大学校教官・少将・海軍省軍務局長・欧米各国出張・第二水雷戦隊司令官・中将・待命・以前から患っていた虫垂炎が悪化して死去・享年四十九歳・従四位・勲二等旭日重光章・功三級)だった。

 秋山真之中将も海軍兵学校は首席だったが、海軍大学校を受験しなかった。その秋山中将は回想録で、野村吉三郎大尉が海軍大学校を受けなかったことについて述べている。

 回想録には、当時、海軍大学校を受験しなかった理由として、野村吉三郎大尉が次のように言ったと記されている。

 「僕は海大に学んでもいいが、果たして僕を教え得る教官がいるだろうか? もし、ありとせば、戦術教官・秋山中佐あるのみである」。

 また、野村吉三郎大尉の親しい友人達も、「一体、俺に教える教官が、今の大学にいるのかい」と、野村吉三郎大尉が言ったのを聞いたという伝聞もある。

 オーストリアのウィーンに着任した野村吉三郎大尉は、ヨーロッパの社交の中心であるこの首都が様々な情報の飛び交う場所であることを知った。ヨーロッパ情勢を分析するには格好の機会だった。

 当時のオーストリアは、ハンガリーと合同している二重国家で、王宮や議会はウィーンにもブダペストにもあった。この二重国家は「オーストリア・ハンガリー」と呼ばれていた。

 ただし、オーストリア人はゲルマンで、ハンガリー人は東アジア系のマジャール人だったので、その仲は、必ずしも良くはなかった。

 まだ、第一次世界大戦で負ける前だから、オーストリア・ハンガリーは中部ヨーロッパに広大な領土を有していた。

 ビスマルクのプロシアに負けるまでは、ウィーンはパリ、ロンドンを凌ぐヨーロッパの政治、外交、経済の中心地であった。
 
 また、この国は、ロシアと仲が良かった。ナポレオン戦争の時は同盟を組んで、アウステルリッツでナポレオン軍と戦った。

 だから、日露戦争で負けた、戦後のロシア皇帝が何を考えているのかは、このウィーンで洞察できると、野村吉三郎大尉は考えた。

 一方、当時のオーストリアは、ドイツ、イタリアと同盟を組んでおり、イギリス、フランス、ロシアの三国協商と対抗し、ヨーロッパの国際情勢をますます複雑にしていた。

 野村吉三郎大尉は、ドナウ河に浮かぶ、形だけのオーストリア艦隊を眺めながら、サンステファノ教会の尖塔を仰ぐ広場で、「海軍大学校などで兵棋演習などしているより、列強の勢力が暗躍を繰り返しているこのウィーンのほうが、よほど勉強になる!」と思った。


700.梅津美治郎陸軍大将(40)父は参謀総長に就任した時、「また後始末だよ」と私に秘かに洩らした

2019年08月23日 | 梅津美治郎陸軍大将
 同じく東久邇宮稔彦王・大将の十二月二十九日(金)の日記には次の様に記してある(前略)。

 午後三時、梅津参謀総長来たり、昨日私が提示した硫黄島防備の件について、次の様な問答をした。

 梅津「硫黄島の防備が不完全であることはよくわかっているが、いまこれを陸軍の手に移すことは、現在陸軍と海軍の間がうまくいっていないので、海軍の感情を刺激するから、今すぐ実行することはできない」

 私「今、わが本土が危険な状況にあるさい、陸軍とか海軍とかいっている場合ではない。あなたは、わが本土が敵の空襲で全滅してもかまわないというのか」

 梅津「どうも現状においては仕方がない」

 以上が東久邇宮稔彦王・大将の日記の抜粋である。

 昭和二十年八月十五日終戦後、九月二日、参謀総長・梅津美治郎大将は、東京湾上のアメリカの戦艦「ミズーリ」の甲板上で調印された、降伏文書調印式に出席した。

 参謀総長・梅津美治郎大将の長男、梅津美一(うめづ・よしかず・東京帝国大学在学中に学徒出陣・第四期防備専修予備学生・海軍少尉・第九根拠地隊分隊士・終戦・東京裁判で父の副弁護人)の手記によると、次の様に記されている(一部抜粋)。

 父、梅津美治郎の生涯を見ると、三つの重要な節がある。日本の転機とも云うべき時に、いつも責任ある地位に就き、後始末の役をしていることである。いつも責任ある地位に就き、後始末の役をしていることである。

 第一は、昭和十一年二・二六事件後の舞台裏にあって、陸軍次官として後始末の任に当たっていることである。

 第二に、昭和十四年関東軍司令官として、ノモンハン事件後の関東軍と満州国の対ソ連静謐の政策を実行している。

 第三には、昭和十九年敗色濃い大東亜戦争の終末期に参謀総長として作戦の統轄にあたり、あの歴史的調印式に参加している。

 父は参謀総長に就任した時、「また後始末だよ」と私に秘かに洩らした。自分の運命を嘆いていたように感じられた。

 これは丁度、父が着任直後、昭和十九年七月過ぎ、当時久里浜にあった海軍対潜学校で訓練を受けつつあった私を、外出許可の限界であった鎌倉に訪れてくれたときにぽつりと洩らした感懐で、この一言によって、私は、他の人々より一年も前に、「ああ、戦争はもう終わりだな」と気付くもととなった。

 そして、父の参謀総長就任は、少なくとも父としては、あくまで最初から「終戦」が目的で、問題はいかにしてその「終戦」を邦国のために最も無理なく、かつ出来れば有利に導くかが父の参謀総長就任当初からの課題であったろうと思う。

 世上、終戦の御前会議において、阿南陸軍大臣と梅津参謀総長の二人が、最も強硬な戦争継続論者であったといわれるが、この点、「終戦」を予期し、或いはこれをこそ自らの課題としていた筈の父として不可思議なことと思われたので、後日、何気なく問いただしたところ、「バカ、いやしくも全日本陸軍の作戦の総責任者として、もう戦争は出来ません、などという無責任な発言が出来ると思うか」と一笑に附された。

 参謀総長・梅津美治郎大将の長男、梅津美代子氏は、「父の最期」と題して、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 父は、三年余りの獄中生活で、徐々に健康を害していたようであった。そして遂に昭和二十三年二月に蔵前の米軍の陸軍病院(旧同愛病院)に入院し、裁判には出られないようになってしまった。

 そして父は、昭和二十三年十二月十七日、同病院で倒れ、危篤状態に陥った。私は知らせを受けて駆け付けたが、危篤状態を脱し、話ができるようになっていた。

 私は、以前から父に話している信仰のことを話した。その後、毎日病院を訪ねて話した。父が最も感銘深く思った言葉は「地上の裁きは決して正しくない。神が正しく裁いてくれる」という言葉であったろう。

 昭和二十三年十二月二十四日、私の誕生日に、スガモプリズンのチャブレン・ウォルシュ神父が病院に来られて、父は洗礼を受けた。

 昭和二十四年一月八日夜半、看護婦から私に、父が亡くなったとの、電話が来た。父の死因は急性肺炎であった。ガンはひどくはなっていなかった。

 病床から「幽窓無暦日」と書いた紙片を発見した。父が母を早く失って、一人で私共を育ててくれたことを私はとても感謝している。

 私共のためによかれと考えて再婚には踏み切れなかった父である。母のない子として躾が不十分になってはいけないと思って細かいことまで気を使って躾をしてくれたと思う。躾は厳しかったが、温かい思いやりのある人であった。

 以上が、梅津美代子氏の回顧談である。

 ちなみに、「幽窓無暦日(ゆうそうむれきじつ)」は、「幽窓に暦日なし。牢獄には時が流れない」という意味である。

(今回で「梅津美治郎陸軍大将」は終わりです。次回からは「野村吉三郎海軍大将」が始まります)













699.梅津美治郎陸軍大将(39)決したようでもあり、決しないようでもあり、但書きだけ多い決済振りの性癖

2019年08月16日 | 梅津美治郎陸軍大将
 統帥の最高責任者である、参謀総長・梅津美治郎大将に対しては、大陸用兵問題で、その慎重不決断についての不満が、次長、第一部長、第二課長等から出ていた。

 当時の参謀本部次長は河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)中将(富山・陸士二四・陸大三三恩賜・関東軍作戦主任・砲兵大佐・関東軍第二課長・近衛野砲連隊長・参謀本部戦争指導課長・航空兵大佐・参謀本部作戦課長・浜松飛行学校教官・少将・在独国大使館附武官・第七飛行団長・防衛総参謀長・中将・航空本部総務部長・第二飛行師団長・第二航空軍司令官・航空総監部次長・参謀次長・終戦・GHQ軍事情報部歴史課に特務機関「河辺機関」を結成・内閣調査室シンクタンク「世界政経調査会」・昭和三十五年六月死去・享年六十九歳)だった。

 当時の参謀本部第一部長(作戦)は、宮崎周一(みやざき・しゅういち)中将(長野・陸士二八・陸大三九・陸軍大学校教官・歩兵大佐・第一一軍作戦課長・歩兵第二六連隊長・陸軍大学校教官・少将・第一七軍参謀長・参謀本部第四部長・陸軍大学校幹事・第六方面軍参謀長・中将・参謀本部第一部長・終戦・第一復員省調査部長・昭和四十四年十月死去・享年七十四歳・功三級)だった。

 七月十三日、第一部長(作戦)・宮崎周一中将は、「戦争終末の転換を指導するための情勢判断」を述べている。

 それは、わが国が東及び南からの米英、西の重慶及び延安(中国共産党)、北のソ連による包囲圏内に圧迫せられんとしつつ状況の中で、如何に対策を講ずべきかを判断したものだったが、最後に次のように結んでいた。

 「軍は事態の正当深刻なる認識と無欲の境地に立ち、果断決行することのみ能くこの窮地を脱し己を全うし得る唯一の道である」。

 果断決行するということは多分に謀総長・梅津美治郎大将を意識して書かれたものと思われる。

 翌日の七月十四日、参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将は、参謀本部次長・河辺虎四郎中将に、この情勢判断を述べ、「かつこれを実行するためには、○○の更迭を要する」と説明した。参謀本部次長・河辺虎四郎中将も同意したと記されている。

 この○○が、参謀総長・梅津美治郎大将を指していることは明らかである。

 参謀本部次長・河辺虎四郎中将も、参謀総長・梅津美治郎大将の慎重さには慊(あきた)らぬものと見えて、七月十三日の日誌に次のように述べている。

 参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将が、参謀本部次長・河辺虎四郎中将の部屋に来て、「戦争指導、作戦指導ともに、ぐずぐずして動かず、作戦上の事務は、下僚が手間取るのではなく、決裁容易に下らず渋滞している」と強調した。

 これに対して、参謀本部次長・河辺虎四郎中将は、「予自身の直言的輔佐不十分なのを自覚しない訳ではないが、朗々淡々として下と談笑討議することもなく、決したようでもあり、決しないようでもあり、但書きだけ多い決済振りの性癖に対しては、進んで言うの勇気を殺がれるというのが実情であり、これはどうしようもない」。

 参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将の参謀総長・梅津美治郎大将に対する不満は、大陸用兵問題が特に影響していると思われる。

 だが、参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将が、この非常時期における第一部長の重職に登用されたことは、異色の人事と言われていた。

 参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将は、中央部勤務の経験が不足しており、第一線の作戦指導の経験は豊富であるが、戦争指導については全く乏しかった。

 作戦一本鎗の参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将と、全局から戦争指導を考えている参謀総長・梅津美治郎大将とでは、肌が合わないばかりか、考案の次元が異なっているので、同調できなかったと言われている。

 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)・大将(久邇宮朝彦王の第九王子・陸士二〇・陸大二六・フランス陸軍大学卒・歩兵大佐・近衛歩兵第三連隊長・少将・歩兵第五旅団長・中将・第二師団長・第四師団長・航空本部長・第二軍司令官・大将・防衛総司令官・軍事参議官・内閣総理大臣兼陸軍大臣・終戦・予備役・貴族院皇族議員辞職・公職追放・皇籍離脱・日本文化振興会初代総裁・平成二年一月死去・享年一〇二歳・従二位・大勲位菊花大綬章・功一級)の昭和十九年十二月二十八日(木)の日記には次の様に記してある。

 午後一時半、参謀本部に行き、梅津参謀総長に会い、国土防衛上のことにつき協議したが、そのさい硫黄島防備について、私は次のごとく提議した。

 「敵がサイパン島に基地を持ち、B-29が連日連夜わが本土に来襲しているが、わが方が撃破したB-29は、途中海上に墜落し、その乗員は潜水艦によって救助されているようである」

 「しかし、もしわが本土とサイパン島との中間点にある硫黄島が、敵のものとなるならば、B-29は硫黄島に不時着もできるし、油の補給もでき、今日よりもっと大規模な編隊で来襲するにちがいない」

 「またその度も多くなるだろう。そこで、硫黄島の防備を海軍から陸軍に移し、敵の攻略を受ける前に、強固なる陣地をつくっておかなければならない」

 「これが敵にとられたならば、本土防衛は非常に困難になる」。

 梅津は、「明日返事をする」といった。





698.梅津美治郎陸軍大将(38)米内大将が総理か副総理なら、私は陸軍大臣を断ります

2019年08月09日 | 梅津美治郎陸軍大将
 これを聞くと、陸軍大臣・東條英機大将は、次の様に言い出した。
 
 「米内大将が総理か副総理なら、私は陸軍大臣を断ります。米内大将は私が総理時代、国務大臣として入閣をすすめたところが、彼は応じなかった、私は彼の下で大臣を務めることはできない」。

 そして、陸軍大臣・東條英機大将は、「杉山元帥に、やっていただいたらどうですか」と提案した。

 これに対して、教育総監・杉山元元帥は、「私は断りたい」と答えた。だが、結局、陸軍大臣を不承不承に受諾した。
 
 昭和十九年七月二十二日、小磯内閣が成立したが、その前途には幾多の難関が待ち受けていた。

 参謀総長・梅津美治郎大将は、七月二十四日、大本営陸海軍部で「陸海軍爾後の作戦指導大綱」を策定し、参謀総長、軍令部総長同時に上奏允裁を得た。その後も、参謀総長として、多忙のうちに明け暮れた。

 昭和十九年八月、軍事参議官会同が三宅坂の陸軍大臣官邸で開かれた。最高戦争指導会議によって決定した内容についての連絡を主とした非公式な会議だった。

 戦況不利となりつつあったので、軍事参議官も戦局の推移については不安の気持ちで眺めていた頃だった。

 まず、参謀総長・梅津美治郎大将から概略の防衛方針について説明したが、あまり明確な説明ではなかった。

 これを聞いた軍事参議官・朝香宮鳩彦王(あさかのみや・やすひこおう)大将(東京・久邇宮朝彦親王の第八王子・陸士二〇・陸大二六・歩兵第一連隊大隊長・陸軍大学校附・歩兵中佐・歩兵大佐・陸軍大学校教官・少将・歩兵第一旅団長・中将・近衛師団長・上海派遣軍司令官・軍事参議官・大将・終戦・貴族院議員を辞職・皇籍を離脱・公職追放・東京ゴルフクラブ名誉会長・昭和五十六年四月死去・享年九十三歳・大勲位菊花大綬章・功一級)は憤然として口を開いて、顔も声も亢奮して次のように詰問した。

 「一体あなた方は、どこで、どんなにして敵を禦ぐつもりですか?」。

 これに対し、陸軍大臣・杉山元元帥は、二言、三言、言い始めた。隣に座っていた陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将は、陸軍大臣・杉山元元帥の袖を引っ張って、小さい声で、「閣下の領分ではありませんよ」と囁いた。

 そこで、陸軍大臣・杉山元元帥は、ハッと気がついたように発言を止めて、参謀総長・梅津美治郎大将の方を見た。

 陸軍大臣・杉山元元帥は、教育総監から陸軍大臣になったばかりであり、しかも数か月前までは、参謀総長として作戦の最高責任者だったので、つい錯覚を起こしてうっかり作戦上の質問に対して、自ら答弁しようとしたのだった。

 代わって、参謀総長・梅津美治郎大将が立ち上がって、軍事参議官・朝香宮鳩彦王大将の質問に答えたが、そばで聞いていた者も声が小さくて聞きづらかったという。

 陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将は、陸軍大臣・杉山元元帥と参謀総長・梅津美治郎大将の人物評について、次の様に述べている。

 「杉山元帥は清濁併せ呑み、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう=温和でのんびりした人柄)。人を引きつけて人に嫌われず、部下を愛する好好爺で、何といっても高邁なる達識と千万人といえども我往かんの気魄と迫力を欠く。そしてボン帳面で正直で、たまにはせいて騒ぐ。その終わりの欠点の一部面を思わず顕したのが、あの情景であった」

 「参謀総長・梅津美治郎大将は、緻密周到、物事を諸般の角度から考察し、慎重中正、識見高く、よく先を見透す眼力があり、事務的才幹においてはおそらく東條大将と並んで陸軍の双璧であろう」

 「しかし決断力、また無私の温情というような点になるとあまり良い点数はつけられぬ。一般的に親しみ近づきにくく、自分と同じ型のものを側に置きたがり、少し独断的な傾向のある者、とくに秩序を乱して事を運ばんとする風を持つ者を極端に排撃し、正面から堂々とやらず、悪く言えば陰険なところが難点であった」。

 昭和二十年七月頃になると、大東亜戦争もいよいよ終末の段階を迎えんとしていた。このような国家国軍の悲況にあって、軍中央部の空気も目立って上下左右の不信不和の傾向が台頭してきた。これは、戦況不利に対する焦慮が基盤となって発生したものだ。

 軍大臣が阿南惟幾大将になって中堅将校はその人格に敬仰していたが、時局の苛烈さが増すにつれて、温情人事や情勢認識の甘さ、作戦面について一部から疑念が持たれていた。





697.梅津美治郎陸軍大将(37)東條君が陸軍大臣をやられると、部外から陸軍を破壊される虞(おそれ)がある

2019年08月02日 | 梅津美治郎陸軍大将
 また、人事局長の資格で、陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次(とみなが・きょうじ)中将(長崎・陸士二五・陸大三五・ソ連駐在・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・公主嶺戦車学校長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官兼人事局長事務取扱・第四航空軍司令官・待命・予備役・第一三九師団長・終戦・シベリア抑留・帰国・昭和三十五年一月死去・享年六十八歳)が陪席した。

 会議では、しばらく誰も発言する者がなかったので、発言資格がないのを承知で、陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将が次のように問題を切り出した。

 「この際、陸軍に与える動揺を少なくするために、依然大臣に東條大将を残した方がよいのではないでしょうか」。

 すると、参謀総長・梅津美治郎大将が、平素の慎重なのに反して、次の様に陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将の意見に対して反対意見を述べた。

 「東條君は総理をやったことだし、陸軍を支援するためには陸軍以外の地位からやってもらいたい。東條君が陸軍大臣をやられると、部外から陸軍を破壊される虞(おそれ)がある」。

 そのあと、しばらくして、参謀総長・梅津美治郎大将は、「阿南大将はどうだろう」と切り出した。

 これは、陸軍大臣は参謀総長と二者一体となって戦局打開に邁進しなければならないので、参謀総長・梅津美治郎大将としては、最も気心が分かっており、かつ最も信頼している阿南大将を推薦したものと思われる。

 ところが、阿南惟幾大将は当時第二方面軍司令官として、豪北方面にあって対米作戦に専念していた。

 この参謀総長・梅津美治郎大将の提案に対して、陸軍大臣・東條英機大将が、次のように述べて、反対した。

 「阿南君は最も適任と思うが、先に寺内元帥の首相就任のため内地に帰すことを断ったのと同じ理由で、いま阿南君を帰す訳にはいかない」。

 そこで、参謀総長・梅津美治郎大将は、「山下君はどうだろう」と提案した。

 山下奉文(やました・ともゆき)大将(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍大学校教官・在オーストリア国公使館附武官・歩兵大佐・軍事調査部・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍省権次調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・航空総監兼航空本部長・遣ドイツ視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・終戦・マニラ軍事裁判で死刑判決・昭和二十一年二月二十三日刑死・享年六十歳・従三位・勲一等旭日大綬章・功三級・勲一位景雲章等)は、当時第一四方面軍司令官だった。

 これに対しても、陸軍大臣・東條英機大将は、次のように述べて反対した。

 「かつて山下大将を蒙疆(もうきょう=内モンゴルの蒙古連合自治地域)の軍司令官に奏請(そうせい=天皇に決定を求める)したとき、陛下は二・二六事件に関係があったのではないかとの御下問もあり、私としては同意できない」。

 その後、二、三の名前が出たが、いずれも一致するに至らず、結局、陸軍大臣・東條英機大将が留任することに内定した。

 その時、秘書官が入って来て、組閣の大命が、次の二人に降下したことを告げた。

 朝鮮総督・小磯國昭(こいそ・くにあき)大将(栃木・陸士一二・陸大二二・航空本部部員(欧州出張)・歩兵大佐・陸軍大学校教官・歩兵第五一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍大学校教官・航空本部総務課長・陸軍省整備局長・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・大将・待命・予備役・拓務大臣・朝鮮総督・内閣総理大臣・内閣総辞職・終戦・A級戦犯・終身禁錮・昭和二十五年十一月巣鴨拘置所内で食道がんにより死去・享年七十歳・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・南洲国勲一位竜光大綬章)。

 軍事参議官・米内光政(よない・みつまさ)大将(岩手・海兵二九・六八番・海大一二・海軍大学校教官・軍令部参謀(欧州出張)・大佐・ポーランド共和国駐在員監督・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・戦艦「扶桑」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・中将・鎮海警備府司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・軍事参議官・議定官・予備役・内閣総理大臣・現役復帰・海軍大臣・終戦・昭和二十三年四月肺炎で死去・享年六十八歳・従二位・勲一等旭日大綬章・功一級・ドイツ鷲章大十字章等)。