海軍大臣・斎藤実大将は、野村吉三郎少佐に、議会の答弁について、次のように話していたという。
「海軍大臣として議会の答弁に立つ時、一〇〇パーセント完全な答弁をするところを、わざと七、八〇パーセントに止めるのがコツである。完全無欠にピシャリと答弁して相手を悔しがらせるよりは、一寸スキをつくって向こうを得意がらせておく方が、安全というワケだ」
斎藤実大将は、軍人には珍しく味のある人物だった。大正三年に海軍大臣を辞職すると、千葉県の九十九里浜の海岸沿いの別荘に引きこもり、草履をはき、手ぬぐいを腰にぶら下げ、松の枝おろしや、垣根を直したり、庭いじりの生活をしていたという。
野村吉三郎中佐は、海軍大臣・斎藤実大将から、引き続いて海軍大臣・八代六郎(やしろ・ろくろう)中将(愛知・海兵八期・一九番・常備艦隊参謀・巡洋艦「宮古」艦長・大佐・防護巡洋艦「和泉」艦長・海軍大学校選科学生・装甲巡洋艦「浅間」艦長・在ドイツ国大使館附武官・少将・横須賀予備艦隊司令官・第一艦隊司令官・練習艦隊司令官・第二艦隊司令官・中将・海軍大学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・海軍大臣・第二艦隊司令長官・男爵・佐世保鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・枢密顧問官・昭和五年六月三十日死去・享年七十歳・男爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・イギリス帝国第一等聖マイケル・聖ジョージ勲章等)の秘書官になった。
海軍大臣秘書官という職務上、議会開会中には大臣に従って議会に赴き、常に当時の状況を見聞した野村吉三郎中佐は、後に当時を回顧して次のように述べている。
八代さんという人は清廉な人で、私の知っている通りでは貧乏な癖に他人に物を呉れてやることにかけては、この人の右に出る者はなかった。
実に気前よく何でも遣って終う人だった。武人銭を愛せずとは八代さんのためにあるような印象を受けた。私なども随分と色々な物を貰ったものだ。
併し、政治的な手腕ということについては山本さんや斎藤さんには遙かに及ばなかったように思う。
山本さんは別格として私が仕えた斎藤海相は、前にも話したように議会の答弁でも十のところは七か八に止めて、相手を巧みに懐柔するあたり実に堂に入ったものだったが八代海相はその点、武人的にハッキリし過ぎていて政治的には乏しかった。
けれども、これがまた、この人の良い処であったろう。後年枢密顧問官に成られたときに、もと副官や秘書官をした連中が星ヶ岡茶寮に招待して、一夕お祝いの縁を開いたが、その頃、軍令部次長になっていた私に「野村、お前もう中将になったのか」と相好を崩して欣んでくれる様子は、恰も田舎の小学校の校長が昔の教え子に接しているようで、全く学校の先生然としたところがあった。
なお山本伯、斎藤子の予備役編入については、当時の海軍次官鈴木貫太郎氏(後・大将・首相)は八代海相を補佐して居た関係上、その理由として、
一、シーメンス事件の如き不祥事に対し、海軍の大御所山本伯と海相斎藤子は責任を絶対に免れない。
二、その結果として、海軍予算を不成立ならしめた責任は重大である。
と語り、晩年においても決して間違った処置ではなかったことを繰り返し述べていた。
シーメンス事件の責任は別として山本伯は偉傑で、個人的な生活は実に立派なものであった。薩摩武士の質実剛健を尚(たっと)び、何時でも職を賭して戦うだけの覚悟を持ち、俸給の半分で生活をして、且つ自助の精神を堅持され、晩年まで針箱を常に用意し、落ちたボタンや小さい綻びは自分で縫うくらいであった。
公式の宴会以外、一切私的な宴席のために料理屋に出入りしたことはない。だから料理屋で伯の顔を見ることは殆ど無かった。
また斎藤子は秘書官が機密費を預かっているので、時々百円持ってこいといわれ、差し出すと“金百円也右預かり候也、斎藤実”と書いた預かり証を呉れた。
このほか私の仕えた八代六郎、加藤友三郎、鈴木貫太郎、財部彪等の諸提督はいずれも人格高潔であった。もって当時の海軍の気風を知るに足るのである。
それから議会に行き見聞していて、強く印象に残っているのは大隈さんの豪傑ぶりだった。反対党の議員が何か半畳でも入れると一段と大きな声を張り上げて、「誰々君、声が小さい!もう一度そこのところやり給え」といった塩梅で、陣笠議員を頭から舐めてかかっていた。
やはり、八太郎の昔から死生の巷を潜って来た豪傑だけのことはあると感心させられたものである。
以上が大正二年から三年にかけて海軍大臣秘書官をしていた野村吉三郎中佐の、回顧談である。
「海軍大臣として議会の答弁に立つ時、一〇〇パーセント完全な答弁をするところを、わざと七、八〇パーセントに止めるのがコツである。完全無欠にピシャリと答弁して相手を悔しがらせるよりは、一寸スキをつくって向こうを得意がらせておく方が、安全というワケだ」
斎藤実大将は、軍人には珍しく味のある人物だった。大正三年に海軍大臣を辞職すると、千葉県の九十九里浜の海岸沿いの別荘に引きこもり、草履をはき、手ぬぐいを腰にぶら下げ、松の枝おろしや、垣根を直したり、庭いじりの生活をしていたという。
野村吉三郎中佐は、海軍大臣・斎藤実大将から、引き続いて海軍大臣・八代六郎(やしろ・ろくろう)中将(愛知・海兵八期・一九番・常備艦隊参謀・巡洋艦「宮古」艦長・大佐・防護巡洋艦「和泉」艦長・海軍大学校選科学生・装甲巡洋艦「浅間」艦長・在ドイツ国大使館附武官・少将・横須賀予備艦隊司令官・第一艦隊司令官・練習艦隊司令官・第二艦隊司令官・中将・海軍大学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・海軍大臣・第二艦隊司令長官・男爵・佐世保鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・枢密顧問官・昭和五年六月三十日死去・享年七十歳・男爵・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・イギリス帝国第一等聖マイケル・聖ジョージ勲章等)の秘書官になった。
海軍大臣秘書官という職務上、議会開会中には大臣に従って議会に赴き、常に当時の状況を見聞した野村吉三郎中佐は、後に当時を回顧して次のように述べている。
八代さんという人は清廉な人で、私の知っている通りでは貧乏な癖に他人に物を呉れてやることにかけては、この人の右に出る者はなかった。
実に気前よく何でも遣って終う人だった。武人銭を愛せずとは八代さんのためにあるような印象を受けた。私なども随分と色々な物を貰ったものだ。
併し、政治的な手腕ということについては山本さんや斎藤さんには遙かに及ばなかったように思う。
山本さんは別格として私が仕えた斎藤海相は、前にも話したように議会の答弁でも十のところは七か八に止めて、相手を巧みに懐柔するあたり実に堂に入ったものだったが八代海相はその点、武人的にハッキリし過ぎていて政治的には乏しかった。
けれども、これがまた、この人の良い処であったろう。後年枢密顧問官に成られたときに、もと副官や秘書官をした連中が星ヶ岡茶寮に招待して、一夕お祝いの縁を開いたが、その頃、軍令部次長になっていた私に「野村、お前もう中将になったのか」と相好を崩して欣んでくれる様子は、恰も田舎の小学校の校長が昔の教え子に接しているようで、全く学校の先生然としたところがあった。
なお山本伯、斎藤子の予備役編入については、当時の海軍次官鈴木貫太郎氏(後・大将・首相)は八代海相を補佐して居た関係上、その理由として、
一、シーメンス事件の如き不祥事に対し、海軍の大御所山本伯と海相斎藤子は責任を絶対に免れない。
二、その結果として、海軍予算を不成立ならしめた責任は重大である。
と語り、晩年においても決して間違った処置ではなかったことを繰り返し述べていた。
シーメンス事件の責任は別として山本伯は偉傑で、個人的な生活は実に立派なものであった。薩摩武士の質実剛健を尚(たっと)び、何時でも職を賭して戦うだけの覚悟を持ち、俸給の半分で生活をして、且つ自助の精神を堅持され、晩年まで針箱を常に用意し、落ちたボタンや小さい綻びは自分で縫うくらいであった。
公式の宴会以外、一切私的な宴席のために料理屋に出入りしたことはない。だから料理屋で伯の顔を見ることは殆ど無かった。
また斎藤子は秘書官が機密費を預かっているので、時々百円持ってこいといわれ、差し出すと“金百円也右預かり候也、斎藤実”と書いた預かり証を呉れた。
このほか私の仕えた八代六郎、加藤友三郎、鈴木貫太郎、財部彪等の諸提督はいずれも人格高潔であった。もって当時の海軍の気風を知るに足るのである。
それから議会に行き見聞していて、強く印象に残っているのは大隈さんの豪傑ぶりだった。反対党の議員が何か半畳でも入れると一段と大きな声を張り上げて、「誰々君、声が小さい!もう一度そこのところやり給え」といった塩梅で、陣笠議員を頭から舐めてかかっていた。
やはり、八太郎の昔から死生の巷を潜って来た豪傑だけのことはあると感心させられたものである。
以上が大正二年から三年にかけて海軍大臣秘書官をしていた野村吉三郎中佐の、回顧談である。