陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

366.黒島亀人海軍少将(6)軍令部の連中はどいつもこいつも頭のネジが壊れている

2013年03月29日 | 黒島亀人海軍少将
 黒島大佐も精神の集中力といった面では、桁外れのものを持っていた。一般の人のスケールでは推し測れない深さで、物事をとことん煮詰めて考えた。

 艦内を一物丸出しの全裸のままでさまよい歩くようになるのも、過度の精神集中力、過度の思考の凝集の産物だった。

 六月二十二日、独ソ戦が勃発した。この頃から、アメリカはさらに日本に対して厳しい経済政策をとりはじめた。

 昭和十六年六月下旬、黒島大佐は霞ヶ関の海軍軍令部に出頭した。「遥かなり真珠湾」(阿部牧郎・祥伝社)によると、鼻下にチョビひげの軍令部作戦課員・神重徳(かみ・しげのり)中佐(鹿児島・海兵四八・海大三一首席・ドイツ駐在武官補佐官・軍令部・大本営参謀・大佐・第八艦隊参謀・軽巡多摩艦長・海軍省教育局第一課長・連合艦隊参謀・第一〇航空艦隊参謀長・終戦後九月十五日飛行機事故で殉職・少将)が応対した。神中佐は軍令部でも指折りの強固な大艦巨砲主義だった。

 神中佐は「黒島大佐。いまお着きですか。さあどうぞ」と軍令部作戦課の執務室に招き入れようとした。

 黒島大佐は「いや、挨拶はあとでする。さきに対三カ国作戦の大綱と細網を見せてもらいたい。軍令部の意向を知りたいからな」。

 軍令部、特に作戦課の執務室は雰囲気がよくない。機密保持の必要からだろうが、外来者に「どこの馬の骨だ」という顔を向ける。部外者を全てスパイとみなすところがある。

 神中佐は了解し、黒島大佐を会議室に案内した。ついで対米英蘭作戦の分厚い計画書と付帯書類の束を届けてくれ、「どうぞごゆっくり」と出て行った。

 黒島大佐は「朝日」に火をつけ、煙を吸い込んで計画書のページを繰った。しばらくして、「なんだこりゃ。ハワイ作戦はどうなったんだ。影も形もないじゃないか」と叫んだ。

 頭にカット血がのぼって、顔が熱くなった。「どういうことなんだ。軍令部は連合艦隊の計画など眼中にないというわけか」。

 部屋を出て黒島大佐は神中佐を呼ぼうとしたが、思いとどまった。喧嘩をするには、相手の手の内をよく知っておかねばならない。

 海軍は軍令部の立てた年度計画書に基づいて全ての事業が実施される。昭和十六年度の作戦計画は昨年のうちに完成し、その日程に従って全海軍が動いていた。

 黒島大佐が目を通した軍令部の昭和十六年の計画は、アメリカ、イギリス、オランダのどれか一国を相手にする戦争を想定していた。三国を同時に相手とする作戦はまだ具体的には立案されていなかったが、概略が記されていた。

 だが、当時の世界情勢は、日中戦争および、アジアの権益をめぐって日本と敵対するアメリカ、イギリス、オランダ三国の対日包囲網など、風雲切迫していた。そこで、軍令部は途中で、年度計画を変更し、三国との同時開戦を主眼とする作戦計画を立案中だったのだ。

 一方で、連合艦隊はハワイ奇襲攻撃の準備をすすめてきた。新しい年度作戦計画にハワイ奇襲攻撃をぜひとも盛りこまねばならなかった。

 そこで、十日前、連合艦隊司令部は航空甲参謀・佐々木彰中佐(広島・海兵五一・海大三四・米国駐在・連合艦隊参謀・大佐・第三航空艦隊首席参謀)と、第一航空艦隊首席参謀・大石保中佐(高知・海兵四八・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・興亜院調査官・第一航空艦隊首席参謀・海大教官・特設巡洋艦「愛国丸」艦長・兵備局第三課長・運輸本部総務部長・横須賀突撃隊司令・少将)、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐(広島・海兵五二・海大三五次席)を軍令部に派遣し、ハワイ奇襲作戦の採用申し入れを行った。

 だが、その後、軍令部からは何の連絡もなかった。黒島大佐はそれを確かめるために出張してきたのだ。ところが、年度計画にはハワイ作戦のハの字も記されていなかった。さらに、軍令部の対米・英・蘭同時作戦は、黒島大佐が肝をつぶす程、お粗末な内容だった。

 「なんたる怠慢な連中だ。これで勝つ気でいるなんて、軍令部の連中はどいつもこいつも頭のネジが壊れているとしか思えん」と、黒島大佐は怒りで頭がクラクラした。

 会議室を出た黒島大佐は、第一部作戦課の扉を開けた。「神中佐、打ち合わせをしたい。関係者を会議室によこしてくれ」と大声で命じた。

 きたな、という面持ちで、神中佐は近くの部員たちとうなずきあった。同僚たちは、ニヤニヤしていた。変人が見当はずれな話を持ち込んできた。

 海軍の中枢、国の命運に関わる業務を行う作戦課は、大世帯である。海大出の選りすぐりの秀才達が机に向かったり、話し込んだりしていた。秀才のどの顔も輝いていた。

 だが、黒島大佐には、彼らが海軍士官服を着た職工のように映った。緻密な頭脳を働かせ、作戦の細部を固めたり、工夫改良を加えたりはするが、全体の構図をひっくり返そうとは絶対にしない職工たち。

365.黒島亀人海軍少将(5)艦内では「奇人参謀」、「変人参謀」と陰口が叩かれた

2013年03月22日 | 黒島亀人海軍少将
 大西少将は、広島県呉の連合艦隊旗艦、戦艦「長門」へ急行した。山本五十六司令長官は真珠湾奇襲攻撃がいかにすれば成功するか、航空作戦に通暁している大西少将に相談した。大西少将は研究してその結果を報告すると答えた。

 大西少将は山本長官から命ぜられた真珠湾奇襲攻撃について、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐(広島・海兵五二・海大三五次席・横須賀航空隊飛行隊長・英国駐在武官補佐官・中佐・第一航空艦隊航空甲参謀・大本営軍令部第一課・大佐・第三四三海軍航空隊司令官・戦後東洋装備(株)社長・航空自衛隊航空団司令・空将・航空総隊司令・第三代航空幕僚長・参議院議員・勲二等旭日重光章・裁判官弾劾裁判所裁判長)を呼んで慎重な検討を行った。

 できあがった真珠湾攻撃計画を、大西少将は、その年の四月、山本長官に答申した。その内容(要旨)は、「真珠湾の水深が浅いので魚雷発射に不適。奇襲は隠密行動が求められるが機密保持が困難。この二点を克服するかが成否の岐路になる」というものだった。

 山本長官は、この真珠湾攻撃計画を見ると、大西少将にこれを軍令部第一部長・福留繁少将に渡し、部長室の重要書類を入れる大金庫に収納するように命じた。

 「遥かなり真珠湾」(阿部牧郎・祥伝社)によると、戦艦「長門」の連合艦隊先任参謀・黒島亀人大佐と戦務参謀・渡辺安次中佐(兵庫・海兵五一・海大三三・連合艦隊戦務参謀・軍令部部員・戦後海上保安庁技術部長)は長官公室に呼ばれた。

 山本五十六長官は書類をテーブルに置いて、「ハワイをやろうと思うんだ。ほかにアメリカに勝つすべはない」、「もはや艦隊決戦の時代ではない、これからの戦争は飛行機が主戦力となる」などと言った。

 山本長官は空母航空部隊の総力をあげて真珠湾に奇襲攻撃をかけ、アメリカ太平洋艦隊を海中へ沈めてしまう考えだった。

 だが、黒島大佐、渡辺中佐はもとより、連合艦隊司令部の参謀長以下八名の参謀全員、ハワイ奇襲作戦など念頭になかった。

 山本長官はテーブルの上の書類をとって、二人に見せた。書類は二種類あった。どちらも「ハワイ作戦素案」となっていた。作成者は一通が第十一航空艦隊参謀長・大西瀧治郎少将、もう一通は第一航空戦隊航空甲参謀・源田実中佐だった。

 山本長官は「よろこべ、ガンジー。作戦構想は大西、源田ともに大賛成だ。実行には多くの障害や困難がともなうが、努力によって克服できる。飛行機による奇襲は可能だそうだ」と言った。「ガンジー」は黒島大佐のニックネームである。

 黒島大佐と渡辺中佐はともに昂奮して「これはすごい、真珠湾をやりましょう」と口に出した。

 黒島大佐は「この作戦のために山本長官は俺を先任参謀に抜擢してくれたのだ」。黒島大佐は納得し感激して胸を振るわせた。

 作戦を考えるにあたり、黒島大佐は他人と違う発想をする能力がある。黒島大佐自身それを誇りに思った。山本長官がその能力を買ってくれたのだ。

 山本長官は「君たちにこの作戦の具体的な肉付けをお願いしたい。精密な実行計画を作り上げてくれ。先任参謀、見事な計画を練り上げてくれ」と言った。

 黒島大佐は「承知いたしました。全知全能を傾けて作業にあたります。必ず戦史に残る青写真をご覧にいれます」と約束した。

 「連合艦隊作戦参謀・黒島亀人」(小林久三・光人社NF文庫)によると、黒島大佐は旗艦「長門」の私室に閉じこもって、作戦の想を練った。

 艦内は暑い。暑くなると黒島大佐は素っ裸になった。想に夢中になり素っ裸のまま艦内を逍遥し、驚く水兵たちにも平気だった。

 集中力を高めるため、私室に香をたいた。さらに舷窓を閉じ、室内を暗くした。想を練り始めると、風呂にも入らなかった。一ヶ月も入らなくても平気だった。

 思考力を高めるためといって、ヘビースモーカーだった。愛用の煙草「朝日」をひっきりなしに吸った。口内がいがらっぽくなり、しまいには味覚まで失われたが、それでも煙草を口から離さなかった。

 こうした黒島大佐の異様な生活は、艦内では「奇人参謀」、「変人参謀」と陰口が叩かれた。

 日露戦争当時の常備艦隊先任参謀は、秋山真之中佐(愛媛・海兵一七首席・大尉・米国駐在武官・少佐・海大戦術教官・常備艦隊参謀・旗艦「三笠」乗艦日露戦争参加・中佐・連合艦隊参謀・海大戦術教官・巡洋艦「秋津州」艦長・大佐・巡洋艦「橋立」「出雲」「伊吹」艦長・軍令部第一班長・少将・軍務局長・第二水雷戦隊司令官・中将・死去)だった。

 秋山中佐は、当時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将が「智謀如湧」(智謀湧くが如し)と作戦立案能力を評価した優秀な先任参謀だった。

 だが、秋山中佐も奇行が多い人物だった。人前で平気で水虫を掻く、ところ構わずおならをする。食事中にぷいと外出して、いつまでたっても帰らない。

 そして、突然帰ってくると、いきなり食事を要求する。海軍ではうるさい服装にも無頓着で、いつも汚れて、ヨレヨレのズボンをはいている。

 精神の集中、思考の凝集といったものが、秋山中佐にそういった、常人には奇行と映る態度をとらせるのだが、黒島亀人大佐も同様だった。

364.黒島亀人海軍少将(4)あれで、真珠湾をやれないかな?

2013年03月15日 | 黒島亀人海軍少将
 黒島大佐が連合艦隊先任参謀に着任した当時、連合艦隊は日米開戦を予期して、準備体制に入りつつあり、参謀部は猛烈な忙しさのなかにあった。

 黒島大佐は着任と同時にその多忙の渦に巻き込まれていったが、山本五十六中将が真珠湾攻撃を構想したのは昭和十五年秋頃で、まだ黒島大佐は目前の作戦に取り組んでいた。

 黒島大佐は山本五十六長官が自分を先任参謀抜擢したことに感激していた。人は己を知るもののためには、死ぬという。

 後に、山本長官から真珠湾奇襲攻撃構想をきかされて依頼、この構想のとりこになった。文字通り、心身をささげた。

 山本五十六中将が、いつ頃、真珠湾攻撃を着想したか、はっきりとは分かっていない。

 「山本五十六・上」(阿川弘之・新潮文庫)によると、昭和二、三年頃、海軍大学校を出たばかりの、霞ヶ浦航空隊教官・兼海軍大学校教官・草鹿龍之介少佐(石川・海兵四一・海大二四・空母「鳳翔」<九三三〇トン>艦長・軍令部作戦課長・空母「赤城」<三三八二一トン>艦長・少将・第二四航空戦隊司令官・横須賀空司令・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)がハワイの真珠湾を飛行機で叩くという案を一度文書にしたことがあった。

 当時、草鹿少佐は、海軍大学校で航空戦術を講義していたが、同時に霞ヶ浦航空隊の教官もしていた。

 ところが、霞ヶ浦航空隊に永野修身中将(高知・海兵二八次席・海大八・米国駐在武官・少将・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校長・軍令部次長・大将・海相・連合艦隊司令長官・軍令部総長・元帥)、寺島健少将(和歌山・海兵三一恩賜・海大一二・大佐・戦艦「山城」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・中将・練習艦隊司令官・予備役・逓信大臣・鉄道大臣・貴族院議員)らお偉方が十人ばかり、実地講習を受けに来た。

 そのとき、指導官を命ぜられた草鹿少佐が彼らの講義の為に執筆したのが、この真珠湾攻撃の文書だった。

 この文書の趣旨は、アメリカ太平洋艦隊を西太平洋におびき出して日本海海戦のような艦隊決戦を挑むというのが帝国海軍の対米戦略の基本だが、相手がもし出てこなかったら、真珠湾軍港を飛行機で攻撃して、出て来ざるを得ないようにするというものだった。

 当時、山本五十六大佐は霞ヶ浦空副長から米国駐在武官に補され米国にいたから、帰朝して、この草鹿少佐の文書を見たのではないかといわれており、面白い着想として山本大佐の頭の中に残ったであろう。

 昭和十五年三月の連合艦隊飛行作業は昼間雷撃だった。「指揮官と参謀」(吉田俊雄・光人社NF文庫)によると、山本長官が艦隊を率いて進む。それを艦攻(艦上攻撃機)と中攻(陸上攻撃機)が魚雷攻撃を行い、艦爆(艦上爆撃機)急降下爆撃を加えるという訓練だった。

 この攻撃は大成功をおさめた。いかに回避しても戦艦が飛行機にやられるのを、旗艦の戦艦「長門」の艦橋から見ていて、山本長官は「ウーム」とうなった。

 そして、山本長官は、そばにいた連合艦隊参謀長・福留繁少将に次のように言った。

 「あれで、真珠湾をやれないかな?」。

 福留繁少将は、話にもならん思いつきだといわんばかりに、即座に反対の意見を述べた。

 「航空攻撃をやれるくらいなら、全艦隊がハワイ近海に押し出した全力決戦がいいでしょう」。

 この時のことについて、福留繁少将は戦後出版した著書、「史観真珠湾攻撃」(福留繁・自由アジア社)の中で、次のように記している。

 「前後六年間、軍令部に勤務して作戦研究に没頭してきた私としては、航空機によるハワイ攻撃などてんで問題にしておらず、かかる遠隔の地に対する攻撃は、ひたすら潜水艦による方策以外にあるまいと考えていた」。

 福留繁は当時の心境を述べている訳だが、これが、当時の海軍トップの作戦家たちの伝統的な考え方だった。

 福留繁は「前後六年間軍令部に勤務して」と記しているが、これに対し山本五十六長官は、軍令部に正式に席を置いたことは、一度もなく、軍令部ふうの「作戦研究」には没頭しなかったのだ。

 昭和十六年一月、大西瀧治郎少将(兵庫・海兵四〇・航空本部教育部長・第二連合航空隊司令官・少将・第一連合航空隊司令官・航空本部総務部長・中将・第一航空艦隊司令長官・軍令部次長・自決)は第十一航空艦隊参謀長を命ぜられ、台湾の高雄に着任した。

 「海軍中将・大西瀧治郎」(秋永芳郎・光人社NF文庫)によると、着任したばかりのとき、大西少将は連合艦隊司令長官・山本五十六大将から「ひそかに面談したし」と極秘電を受け取った。

363.黒島亀人海軍少将(3)よかろう。十に一つよいことができるなら使ってみる値打ちはある

2013年03月07日 | 黒島亀人海軍少将
 「黒島亀人伝」(香川亀人)の序文に、元海軍大臣・軍令部総長・嶋田繁太郎大将(東京・海兵三二・海大一三・イタリア駐在武官・海大教官・戦艦「比叡」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍令部第一部長・中将・軍令部次長・呉鎮守府司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・軍令部総長)は次のように記している。

 「……黒島亀人君は英明の資質と高潔な人格に加うるに、(中略)特に創意工夫案出の天稟(てんぴん)に恵まれ、(中略)真に頼もしい武人でありました。(中略)山本五十六元帥もまた黒島君をすこぶる有能な幕僚として賞揚し、安心して信頼しおる旨話され……」。

 以上の話から、黒島亀人の創意工夫の能力が海軍中央でも高く評価され、山本五十六にも信頼されていたことが伺える。

 昭和十三年十一月、黒島は海軍大佐に昇進し、海軍大学の教官に任ぜられ、一年間海軍戦略を教えた。

 昭和十四年八月三十日、山本五十六中将は、連合艦隊司令長官に親補され、旗艦の戦艦「長門」(三九一二〇トン)に着任した。

 このとき、海軍省人事局は、黒島と兵学校同期の島本久五郎大佐(和歌山・海兵四四・海大二八・軍令部・海大教官・人事局第一課長・第六艦隊参謀長・少将・第三南遣艦隊参謀長・南西方面艦隊参謀副長)を連合艦隊先任参謀候補に考えていた。

 島本大佐は長いアメリカ勤務の体験もあり、軍令部でのキャリアもあり、山本五十六中将の補佐役として申し分がなかった。

 だが、山本五十六中将は、島本久五郎大佐を選ぶことなく、黒島亀人大佐を補任するという破天荒な人事を断行した。

 昭和十四年秋頃、人事局長・伊藤整一少将(福岡・海兵三九・海大二一恩賜・米国駐在・大佐・中華民国駐在・人事局第一課長・巡洋戦艦「榛名」艦長・第二艦隊参謀長・少将・人事局長・連合艦隊参謀長・軍令部次長・中将・海大校長・第二艦隊司令長官・戦死・大将・功一級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章)が、当時連合艦隊参謀長に内定していた福留繁大佐に向かって次のように言った。

 「黒島というのは、なかなかの逸材だぞ。無愛想な男だが、面白い発想をする。しかも努力家だ。使ってみたらどうだ」。

 福留大佐はこれを山本長官に伝えた。すると、山本長官は「そうか。そんなに面白い男か」と、少し考えたあと、うなずいて「よかろう。十に一つよいことができるなら使ってみる値打ちはある」と言ったという。

 「四人の連合艦隊司令長官」(吉田俊雄・文春文庫)によると、著者の吉田俊雄(長崎・海兵五九・海大選科・重巡洋艦「妙高」分隊長・軍令部・永野修身元帥副官・米内光政大臣副官・嶋田繁太郎大臣副官)は、この人事について、次のように述べている。

 「山本の考えを推理すると、山本自身の『戦争』思考の、軍政的発想による。『作戦』研究ばかりをしている軍令部のあり方に批判的である」

 「また彼自身、航空主兵思想で、対米作戦構想の再構築を考えているので、なまなかに伝統的兵術思想の化身みたいのが来ても困る」

 「そんなものにとらわれず、新しいアイデアを想像できるものが欲しいと、アイデア参謀を求めたのであろう」。

 「山本は折にふれて幕僚を冷やかしたそうだ。『君たちに質問すると、いつでも皆おなじ答えをする。顔も違えば考えが違っているはずだが、黒島だけではないか、違うのは』。黒島重用の弁である」。

 連合艦隊司令長官に就任した山本五十六中将は、仮想敵国アメリカとの対決の日が近いことを予想して、その日に備えた。

 戦略、戦術を考えるのに、片腕が必要であった。先任参謀である。海軍中央で、ひたすらエリートコースを歩んできた人物であってはつまらない。キラリと光る個性の持ち主でありたい。

 エリートコースを歩んできた秀才の石頭からは、なにも新しいことは生まれてこない。単なる優等生の従来の戦術、戦略にがんじがらめになった発想からは、革新的な作戦は生まれてくることはない。

 昭和十四年十月二十日、黒島亀人大佐は、海軍大学校教官から、連合艦隊先任参謀兼第一艦隊参謀に補任された。山本五十六中将は黒島亀人大佐を選んだ。

 これは意表を衝く人事だった。海軍関係者の多くは、ひどく懐疑的だった。だが、海軍中央が、この破天荒の人事を断行した背景には、山本五十六中将に対する期待と信頼があった。

 あの山本長官が、それほど黒島大佐の起用に固執するなら、前例こそないが、ここは一つ、思い切って黒島大佐を先任参謀にやらせてみようと。

 「昭和史の軍人たち」(秦郁彦・文春文庫)によると、日米戦争必至の空気が濃くなってきた昭和十五年頃、若手の海軍士官が集まると、「連合艦隊の先任参謀は誰が最適か」という議論が出た。このポストは日露戦争の名参謀・秋山真之の役割になる。

 もちろん、当時の先任参謀はすでに黒島亀人大佐だった。それにもかかわらず、このような議論が行われているのは、黒島大佐の先任参謀は、短期間で交代必須で、日米戦争に突入のためには新たな参謀が着任すると思われていた。当時、黒島大佐の知名度は低かったし、その能力は、誰も買っていなかった。