陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

500.東郷平八郎元帥海軍大将(40)世間は閣下のことを昭和の由井正雪だと言っています

2015年10月23日 | 東郷平八郎元帥
 東郷元帥と西園寺公との会談は、小笠原日記によると、東郷元帥は、枢密院副議長・平沼麒一郎(ひらぬま・きいちろう)男爵(岡山・東京帝国大学法科卒・東京地方裁判所判事・横浜地裁部長・東京控訴院部長・東京控訴院検事・大審院検事・法学博士・司法次官・検事総長・大審院長・司法大臣・貴族院議員・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・首相・A級戦犯・終身禁錮・勲一等旭日桐花大綬章)を首班として強く推薦したとある。

 また、それに対して、西園寺公は同意をしなかった。それで斎藤実子爵を推したとの内容も、小笠原日記に記してある。

 ところが、「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店)では、「東郷元帥は、平沼麒一郎が一番適当だと思うが、強いて彼でなくても、斎藤実でもいい」と記してある。

 また、「東郷元帥は、ただ山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ・鹿児島・海兵二期・大佐・巡洋艦「高雄」艦長・日清戦争・海軍大臣副官・軍務局長・海軍大臣・男爵・日露戦争・大将・伯爵・首相・従一位・大勲位菊花章頸飾)だけは困る、と言った」とも記してある。

 昭和七年五月二十六日、斎藤実内閣が成立した。陸相・荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・大佐・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・文部大臣・A級戦犯・終身刑・釈放)は留任した。

 だが、海相には岡田啓介が就任した。斎藤実も岡田啓介も、ロンドン海軍軍縮会議では条約をまとめたメンバーだ。東郷元帥、小笠原長生の思惑は、はずれた。

 小笠原は艦隊派の危機とみて、軍令部長・伏見宮に「岡田は来年一月に満期となるを以って大角を大臣とせらるること然るべきこと。加藤大将、末次中将の身上に付き御保護願いたき」と頼んだ。

 岡田海相が満六十五歳で定年になるのを機に、大角峯生(おおすみ・みねお)前海相(愛知・海兵二四期三席・海大五・海大教官・ドイツ駐在・大佐・戦艦「朝日」艦長・フランス大使館附武官・少将・軍務局長・第三戦隊司令官・中将・海軍次官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・男爵・高等技術会議議長・航空機事故で死亡)を再起用するという工作だった。

 昭和七年暮れに、斎藤首相が東郷元帥を訪ねた。満州事変の重大時期であり、岡田海相の留任を求めたが、東郷元帥は応じなかった。

 岡田海相は結局、辞職せざるを得なくなったが、その理由に困った。「定年」では時期的に説得力に欠け、「東郷元帥」を理由にするわけにもいかず、「病気」にした。

 そして大角大将が海相に返り咲いた。昭和八年一月二十五日、警視庁高等掛二人が小笠原長生を訪ね、海相交代劇の真相を聞き出そうとした。

 「世間は閣下のことを昭和の由井正雪だと言っています」と言うと、小笠原は笑いながら「いや、正雪はひどい。私はそんな謀反気はないよ」と言ったという。

 その後、人事権を握った大角海相によって、条約派の穏健な提督たちが次々に現役から追われた。昭和八年から翌年にかけて艦隊派主導によって行われた、条約派追放人事で、世にいう「大角人事」である。

 東郷元帥の晩年は質素な生活だった。「足るを知る」が信条で、それを貫いた。「フランスの老農夫のようだった」との評もある。碁を囲み、庭木いじりのハサミを手にするほか、趣味は無かった。

 昭和九年五月三十日午前七時、膀胱がんのため、元帥海軍大将正二位大勲位功一級侯爵・東郷平八郎は永遠の眠りについた。享年八十六歳だった。

 死後従一位に昇格。六月五日国葬(葬儀委員長・有馬良橘海軍大将)が営まれ、多磨墓地に葬られた。

 東郷元帥の遺髪は、英国海軍のネルソン提督の遺髪とともに、広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に厳重に保管されている。

 (「東郷平八郎元帥海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「永田鉄山陸軍中将」が始まります)

499.東郷平八郎元帥海軍大将(39)西園寺公と東郷元帥が手を握られることは必要ではないか

2015年10月16日 | 東郷平八郎元帥
 昭和七年五月十五日、海軍の現役中・少尉五名、予備少尉一名、陸軍の士官候補生十一名、合計十七名の青年将校が蹶起し、犬養毅首相を射殺、牧野伸顕内大臣邸襲撃、立憲政友会本部に手榴弾、三菱銀行に手榴弾、西田税襲撃などの事件を起こした。五・一五事件である。

 この事件により内閣は総辞職したので、昭和天皇から、後継内閣の組閣に関し、元老の西園寺公望(さいおんじ・きんもち)公爵(京都・徳大寺家当主徳大寺公純の次男・学習院・岩倉具視の推挙により参与に就任・戊辰戦争は総督や大参謀として参戦・明治維新後新潟府知事・軍人を希望し大村益次郎の推挙でソルボンヌ大学留学・帰国後東洋自由新聞社長・参事院議官・駐ウィーン・オーストリア=ハンガリー帝国公使・駐ベルリン・ドイツ帝国兼ベルギー公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・文部大臣・外務大臣・文部大臣・内閣総理大臣代理・枢密院議長・政友会総裁・第一次西園寺内閣・第二次西園寺内閣・第一次世界大戦講和会議首席全権・公爵・元老として政界を牛耳る・従一位・大勲位)に御下問があった。

 五・一五事件直後、宮中顧問官・小笠原長生中将は、東郷元帥を訪ね、事件の報告をした。

 その日の夕方、小笠原長幹(おがさわら・ながよし・小倉藩主小笠原忠忱の長男・伯爵・学習院大学・ケンブリッジ大学・式武官・貴族院議員・陸軍省参事官・国勢院総裁)が小笠原長生を訪ねて来た。

 長幹「まさかこんな大事が突発しようとは思わなかった。事が陸海軍人に関しているので、貴方から種々新しい材料がもらえるだろうと思って」。

 長生「いや、速耳の貴方の所へこそ、諸方から報告が集まっているでしょう」。

 長幹「集まってはいるが、どうも怪しいのが多くて。ところで、後継内閣組閣について御下問を被られたであろう西園寺公は、出京されるようだが、この際、西園寺公と東郷元帥が手を握られることは必要ではないか。それには東郷元帥の方から働きかけていただくと、話が早くつくだろうと思うのですが」。

 長生「それは駄目です。ご承知の通り元帥は、政治のことなどには、決して容喙(ようかい=口出しをすること)しないという主義なのですから、先方より話があったとしても恐らく避けられるでしょう。取り次いでも無益ですから、ここで断然お断りする」。

 長幹「なるほど。それもそうかも知れませんな。然しどうも西園寺公は、元帥の御意見を訊かれはしないかと思うような気がします。そうお心得になっていたほうが宜しいでしょう」。

 長生「有難う。お言葉に従って、元帥には注意しておきましょう」。

 こんな問答をした後、小笠原長幹は小笠原長生邸を辞去した。

 小笠原長生は、このような内容は一刻も早く元帥の耳に入れた方がよいと思い、即夜東郷元帥を訪ねて、全てを話し熟慮を促した。

 東郷元帥「それぁ困る。内閣組閣のことなど……」。

 長生「いくらお困りになっても、先方から相談しかけられては、まさか黙っておいでになるわけにもまいりますまい。ですから、それに対し、予めご考慮になっておくことが必要でしょう」。

 東郷元帥「……」。

 長生「そこで甚だ差し出がましゅうございますが、もし西園寺公より面会を申し込んでまいりましても、ここからはお出にならず、先方のまいるのをお待ちになった方が宜しかろうと存じます」。

 東郷元帥「いや色々有難う。なお能く考えてみよう」。

 それから幾日か後、西園寺公は御下問に奉答するため、駿州興津から上京した。そして、果たして東郷元帥に面会を申し込んで来た。

 西園寺公の使者は、西園寺公の言葉として「此の方より参上する筈であるが、何分にも多忙を極めていてその暇がない。さればとて、陛下に於かせられては、後継内閣の組閣に関し日夜聖慮を悩ませ賜うておられる。まことに恐れ多い事である。まことに相済まぬ次第ですが、出向いて来ては呉れまいか」と、東郷元帥に伝えた。

 そこで、東郷元帥は、西園寺公に面会するために、出向いて行く事に決めた。もはや見識がどうのこうと、自分のことを云々すべきではないと考えたのだ。

 その翌々日の新聞には、東郷元帥が西園寺公を訪ねて会見したことが、大活字の見出しで報ぜられた。しかしその内容は何も掲げられていなかった。

 それから程なくして斎藤実(さいとう・まこと)子爵(岩手・海兵六期・大佐・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・海軍次官・少将・海軍軍令部長代理・海軍省所管事務政府委員・中将・艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・予備役・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ海軍軍縮会議全権・枢密院顧問・退役・首相兼外務大臣・文部大臣・ボーイスカウト連盟総長・内大臣・二二六事件で暗殺される・正二位・大勲位菊花大綬章)に内閣組閣の待命が下った。

498.東郷平八郎元帥海軍大将(38)辞職を決心したのなら、なぜ今すぐに辞めないのか

2015年10月09日 | 東郷平八郎元帥
 海相の辞職を条件に東郷元帥を説得することになった。岡田大将はすぐに海相官邸にかけつけ、財部海相に「こんなことを言うのは心苦しいが……」と切り出した。

 財部海相は「覚悟はできている。が、腹を切るのに何月何日にやると予告するのはどうかね。辞職した後で必ず条約を承諾するという保証はない。批准と同時に辞めると元帥に伝えてほしい」と答えた。

 翌七月五日午前八時半、岡田大将と谷口軍令部長は、最後の望みをかけて、麹町の東郷元帥邸を訪れた。

 岡田大将と谷口軍令部長は、財部海相がロンドン条約批准と同時に辞職する決意だと東郷元帥に伝えた。だが東郷元帥は次のように言った。

 「それはいいことじゃ。だが、辞職を決心したのなら、なぜ今すぐに辞めないのか。大臣が一日その職にあれば、それだけ海軍の損失である」。

 「でも、批准前の財部の辞職は難しい」と岡田大将は説明した。谷口軍令部長も「承認いただけないと、私も軍令部長をやめるしかありません」と繰り返して、引き揚げた。

 翌六日、財部海相が東郷元帥を訪れ、「なんとか条約が批准できるようお願いします。そうすれば私は辞めます。私一身のことは問題ではありません。ただ海軍に累を残したくないと考えるだけです」と切々と訴えた。

 東郷元帥は財部海相の言葉をじっと聞いていたが、財部海相が「陛下も批准をお望みになっている」というようなことを口にしたのにひっかかった。東郷元帥は次のように言った。

 「たとえ、お上の言葉であっても、それが正しくないと考えたら、おいさめ申し上げねばならぬ。軍事のことは軍事参議官会議がある。岡田は、大臣が辞めると政治上の影響が大きいと言うが、片々たる政府が倒れようと倒れまいと、海軍の崩壊には代えられない」

 「政府は自分の都合で海軍を引きずっているのだ。こんな政府は早く代わって明るい政府にした方が、どんなに海軍のためになるかしれない」。

 八日朝、青森・大湊軍港へ特命検閲に出張する岡田大将が、挨拶を兼ねてもう一度東郷元帥を訪ねて、次のように率直に言った。

 岡田大将「先日、海相に今すぐ辞めろとのことでしたが、それは無理です。海軍が政治の渦中に陥ることになり、世間では海軍が大臣に詰め腹を切らせたとしか見ません」。

 東郷元帥「わしは腹の中で(財部に)早く辞めてほしいと思っているが、口には何も言わん。わしは辞職せよと言えば、これは政治に関係したことになるが、大臣が自発的に辞めるのになんで政治上の問題になりますか。このごろ、わしの所へいろんなことを言ってくる人がいるが、わしはただ黙って聞いているだけじゃ。その点、わしも注意している」。

 岡田大将は、重ねて自重してほしいと頼んで大湊へ向かった(「岡田日記」より)。

 七月十四日、帰京した岡田大将と財部海相、谷口軍令部長、加藤大将の四者会談が開かれた。天皇に対する条約の奉答文と軍事参議官会議で表決権などについて話し合った。

 加藤大将は東郷元帥を訪ねて「ここまできたら止むを得ないので、奉答文の冒頭に『国防上欠陥あり』と一句入れることで海相と軍令部長に同意させました」と言った。

 すると東郷元帥は「それでいい。条約の協定のままだと、国防上欠陥がある、といっておけば、あとは何とかなる。大臣と軍令部長が責任をもって兵力の補充をすればよいのじゃ」と言った。

 昭和五年七月二十三日午前、宮中東二の間で、東郷元帥を議長に、海軍の軍事参議官会議が開かれ、ロンドン条約に関する奉答文をまとめた。要点は「条約の協定だと兵力の欠陥を生ず」と冒頭で強硬派をなだめ、後段では「国防用兵上ほぼ支障なし」という苦心の文面だった。

 東郷元帥と谷口軍令部長は、その日の午後二時二十二分の列車で葉山に向かい、御用邸で昭和天皇に奉答文を上奏した。これで、ロンドン条約問題は、海軍部内ではひとまずおさまった形になった。

 だが、以後、財部海相ら軍政畑を中心とする対米英協調派(条約派)と、東郷元帥、加藤大将らの強硬派(艦隊派)の主導権争いは政界ともからんで、激化していった。

 ロンドン海軍軍縮会議で、英米両国の補助艦五に対し、日本は三という不公平な決議に対する不満が元となり、それに統帥権干犯などという重大事件が起きた。

 昭和五年十一月十四日、浜口首相は東京駅ホームで、羽織・はかまの男にピストルで狙撃され重傷を負った。犯人は「屈辱・ロンドン軍縮」「統帥権干犯」を唱える愛国社員・佐藤屋留雄、二十三歳だった。

497.東郷平八郎元帥海軍大将(37)元帥は政府を信用せず、とくに財部海相をきらっている

2015年10月02日 | 東郷平八郎元帥
 海軍省を訪ねた原田熊雄に財部海相は「海軍はこれで一段落。西園寺公にご安心をと伝えて下さい」と言った・その観測は甘かった。

 昭和五年六月中旬から、東郷元帥とその私設副官・小笠原長生中将の動きが活発になったのである。すでに東郷元帥八十二歳、小笠原中将六十三歳だった。

 この交代劇の直後、六月十三日、呼び出された小笠原中将が東郷元帥邸に行くと、東郷元帥は「どうも腑に落ちんのでなあ」と言った。

 前日に統帥権問題についての覚書を持って報告に来た財部海相のことだった。ロンドン会議の報告に参内した財部海相が、「今後、条約が批准できるよう努力せよ」と天皇に言われた、と東郷元帥に伝えたのだ。

 東郷元帥は批准に反対だったから、自分の立場が天皇に背くことになる。天皇がそう考えるのは、側近が悪いのだと勘ぐるようになったのだ。

 加藤寛治遺稿「倫敦海軍条約秘録」に、小笠原中将から聞いた話として掲載されているところによると、東郷元帥は財部海相に次のように言って怒ったという。

 「批准は海軍大臣が行うものではない。職責なきものに(陛下が)そんなことを仰せられるはずがない。もしそれが真実なら、死をもってお諫め申し上げるべき問題だ。わしは、場合によっては直奏する」。

 小笠原中将は「その話をして元帥はついに涙さえ落とされた」とも書いている。東郷元帥は自分の考えが天皇と違ったことが、よほど悔しかったのだろう。

 新軍令部長・谷口尚真大将の最初の難問は軍事参議官会議で条約批准の承認を得ることだった。成否は東郷元帥の説得にかかっていた。谷口大将は東郷元帥が英国王戴冠式に渡英した時に、東郷元帥の副官(中佐)で一緒に英国、米国を旅行していた。

 谷口大将は東郷元帥に「批准をお願いします。反対されると、私は軍令部長を辞職しなければなりません。私の辞職は、どうでもいいが、海軍に大動揺をきたします」と頼んだ。

 だが、東郷元帥は「一時はそうなろう。が、いま姑息なことをして将来取り返しのつかぬことをするのは大不忠だ。今、一歩退くことは退却することで、これは危険極まりない」と答えた。

 谷口軍令部長は仲介役の岡田啓介大将に、「もはや施しようがない」と伝え、七月二日、再び東郷元帥邸を訪ねた。そこには小笠原中将も同席していた。

 谷口軍令部長が条約批准を重ねてお願いすると、東郷元帥は頭ごなしに拒否して次のように言った。

 「わしの実戦経験からしても、今回の条約の兵力では不足で、国防上の欠陥は確かだ。駆逐艦や潜水艦のような奇襲部隊は別として、巡洋艦は主力艦対米比率六割の今日、八割を要すると思うが、それが七割にもならんのでは話にならん」

 「飛行機など協定外の兵力でこれを補うというが、それが政府の断固とした保証がなければ、条約といっても一片の紙切れと同じじゃ」。

 谷口軍令部長が「そんなに言われるのなら、自分も辞職するしかありません」と言うと、東郷元帥は「人間は自分の所信をもって進むべきだ。自分の考え通りにしたらいいじゃないか」と突き放した。

 もはや策なしと嘆いていた谷口軍令部長は「虎穴に入らずんば、虎子を得ず」の気持ちになり、自分の前任者で、東郷元帥を最も頼りにしている軍事参議官・加藤寛治大将から説得してもらおうと思った。
 
 昭和五年七月三日、谷口軍令部長は、加藤大将を訪ねた。加藤大将は東郷元帥を説得する条件として、次のように言った。

 「なんといっても、元帥は政府を信用せず、とくに財部海相をきらっている。だから、まず、財部が海相を辞職することだ。部内の信用も無いのだから一日留まるは一日の損だ」。

 だが、その加藤大将にも苦しい立場があった。東郷元帥と共に条約に反対していた軍事参議官・伏見宮博恭王・元帥が昭和天皇の意向を察知して「条約の批准はしなくてはならぬ」と言い出したからだ。軍事参議官会議で、東郷元帥と伏見宮元帥が対立しては困るのだった。

 七月四日午後、東京・芝の水交社(海軍士官集会所)で、まとめ役の軍事参議官・岡田啓介大将と谷口軍令部長、軍事参議官・加藤寛治大将の三者会談が開かれた。それは、東郷元帥対策で、次の様なやり取りがなされた。

 加藤大将「政府が誠意をもって兵力を補充すれば国防は保てぬことはない」。

 岡田大将「それなら自分も同じ意見だ。これで元帥の承諾は得られるのか?」

 加藤大将「財部が海相を辞職すれば望みなきにあらずだろう」。

 岡田大将「批准後に辞職させるということであれば、自分が勧告してもいい」。

496.東郷平八郎元帥海軍大将(36)一体、山梨は軍服を着ているのか、次官をやめた方がいい

2015年09月25日 | 東郷平八郎元帥
 日本では、四月二十三日から第五十八回特別議会が開会された。条約反対の強硬派だった東郷元帥、伏見宮も回訓を認め、海軍の反対運動も収まるとみられた。だが、野党の政友会は海軍部内の不満を倒閣の材料に使った。

 昭和五年四月二十五日、両院本会議で浜口首相、幣原外相が演説した。幣原外相のロンドン条約調印にふれた説明は「軍事費の節約は実現され、少なくとも協定期間中は国防の安固は十分補償され」「政府は軍事専門家の意見も十分に斟酌し。確固たる信念をもって条約に加入した」「帝国のため断然得策なり」と、かなり強気の所信表明だった。

 それが、東郷平八郎元帥、軍令部長・加藤寛治大将、軍令部次長・末次信正中将ら海軍強硬派の身上を逆なでした。

 野党の政友会総裁・犬養毅がまず質問に立ち、「総理、外相は安全だと言われるが、軍令部長は、国防は出来ないという。これでは国民は安心できない」と迫った。

 つづく政友会の鳩山一郎が「政府が軍令部の国防計画を無視して条約を結んだのは、統帥権輔弼を侵すものだ」と論じた。これが後に騒がれる「統帥権干犯」問題の発端となった。

 条約は調印されても、批准されなければ発効しない。東郷元帥ら海軍強硬派は、この統帥権をかざして批准阻止へと動き出した。

 五月三日、海軍部内のまとめ役、軍事参議官・岡田啓介大将は、伏見宮を訪れて殿下の態度ががらりと変わったのに気付いた。伏見宮は次のように言ったのだ。

 「幣原の演説はもってのほかだね。兵力量は政府が決めるというような発言は言語道断だ。一体、山梨は軍服を着ているのか、次官をやめた方がいいのでは」。

 岡田大将は「外相演説は少し行き過ぎだが、山梨の立場は大いにみてやらねば」と答えた。伏見宮の態度の急変は、二日前に軍令部長・加藤寛治大将に会ったことと関連があるように思った(岡田日記)。

 伏見宮が「軍服を着ているのか」と言った言葉は、当時人気のユーモア小説作家・佐々木邦の短編「閣下」に次のように出ている。

 「我輩はこの頃けしからん事を発見した。海軍の将校には途上や電車の中は背広服にして、本省に出仕してから軍服に着替えるものがある。いやしくも軍人たるものが軍服を恥とするようになってはおしまいです」。

 不況で軍縮が叫ばれていた世相で、肩身の狭い思いの軍人もいた時代だったのである。

 昭和五年五月十四日、加藤軍令部長は東郷元帥宅を訪ね、「不本意な回訓を政府に出させてしまい、軍令部長としてもその職に留まることはできないので、辞職します」と辞任の決意を告げた。

 東郷元帥は「やむを得んだろう。じゃが、財部が帰国するまで待ちなさい」と答えた。加藤軍令部長は、その足で伏見宮邸へも行き、同じように辞意を伝えた。

 十六日には浜口首相が東郷元帥宅を訪問した。記者団に対して浜口首相は「首相としてでなく海相事務管理の資格で訪ねた。海相帰国で私は解任となるので、海軍の先輩に対する礼として訪問したまでだ」と答えた。東郷元帥は「会見の内容は申し上げられない」と語った。

 六月十日、加藤軍令部長は、明治神宮に参拝した後、参内し、天皇に上奏文を読み上げた。五月十九日に帰国した財部海相に提出したものと同じで、文中政府弾劾の辞句があるとして財部海相がそのまま預かり、撤回を求めていたものだった。

 昭和天皇は黙って聴き、意思表示はしなかった。あとで財部海相を呼んで、「加藤がこんなものを持って来たが、話の筋合いが違う。その措置は一任する」と言われた(『西園寺と政局』第一巻・「岡田日記」)。

 昭和五年六月十一日、軍令部長の後任に呉鎮守府司令長官・谷口尚真(たにぐち・なおみ)大将(広島・海兵一九・五席・海大三・海軍大学校教官・第三艦隊参謀・大佐・軍令部第三班長・海軍大学校教官・海軍省副官・装甲巡洋艦「常盤」艦長・巡洋戦艦「榛名」艦長・少将・人事局長・馬公警備府司令長官・中将・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・軍令部長・軍事参議官・功四級)が発令された。

 末次軍令部次長も更迭された。山梨次官も軍令部次長と相打ちという形で退き、艦政本部長・小林躋造(こばやし・せいぞう)中将(広島・海兵二六・三席・海大六首席・海軍大学校教官・技術本部副官・大佐・巡洋艦「平戸」艦長・在英国大使館附武官・少将・第三戦隊司令官・軍務局長・中将・ジュネーヴ会議全権随員・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・連合艦隊司令長官・大将・軍事参議官・予備役・台湾総督・貴族院議員・国務大臣・勲一等)に変わった。

 また軍令部次長には、海軍兵学校校長・長野修身(ながの・おさみ)中将(高知・海兵二八次席・海大八・装甲巡洋艦「磐手」副長・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・ワシントン会議全権随員・少将・軍令部第三班長・第三戦隊司令官・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン海軍軍縮会議全権・海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍事参議官・高等技術会議議長・元帥・従二位・勲一等・功五級)が就任した。

495.東郷平八郎元帥海軍大将(35)どうも山本は感心しない人物としか映らなかった

2015年09月18日 | 東郷平八郎元帥
 閣議に出席した次官・山梨中将も、閣議で回訓が決まったことを報告しに東郷元帥邸を訪ねた。応接間で和服姿の東郷元帥はじっと報告を聞いていたが、終わると次のように言った。

 「一旦決定せられたる以上は、それでやらざるべからず。今更彼れこれ申す筋合いにあらず、この上は部内の統一に務め、愉快なる気分にて和衷協同、内容の整備はもちろん、士気の振作、訓練の励行に力を注ぎ、質の向上により海軍本来の使命に精進すること肝要なり」。

 だが、東郷元帥に心酔している加藤軍令部長は、おさまらなかった。加藤軍令部長は、どうしても天皇に直接訴えたかった。三月三十一日と四月一日に上奏を願い出たが容れられず、後に、侍従長・鈴木貫太郎大将による「上奏阻止事件」とされた。

 強硬派から「君側の奸」とされた鈴木大将だが、兵力量のことで首相と軍令部長が違った上奏をしては、陛下は判断に苦しまれるだろうとの思いがあったのだ。

 三度目の願いが許されて、四月二日朝、加藤軍令部長は、皇居に参内して上奏文を読み上げた。すでに政府がロンドンへ条約妥結の解答電報を打ったあとだった。

 二十八歳の昭和天皇は、黙って加藤軍令部長の上奏文を聞いていた。内容は意外にあっけなかった。後に「回訓反対の上奏」と伝えられているが、「慎重審議を望む」というだけで、「反対」ではなかった。

 当時、霞が関の海軍省軍務局長は堀悌吉(ほり・ていきち)少将(大分・海兵三二首席・海大一六次席・海軍大学校教官・ワシントン会議全権随員・連合艦隊参謀・大佐・二等巡洋艦「五十鈴」艦長・軍令部参謀・ジュネーヴ会議全権随員・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍務局長・第三戦隊司令官・第一戦隊司令官・中将・勲二等旭日重光章・予備役・日本飛行機社長・浦賀ドック社長)だった。

 四月二十一日、条約調印の前日、その堀軍務局長のところへ、軍令部第二課長代理・野田清(のだ・きよし)大佐(北海道・海兵三五・四十番・海大一七・二等巡洋艦「鬼怒」副長・海軍大学校教官・大佐・軍令部第一班第二課長・ジュネーヴ会議全権随員・海軍省副官・海軍省臨時調査課長・軍事普及部委員長・少将・海軍部報道部長・中将・軍事普及部委員長)が次のような内容の一通の書類を持って来た。

 「倫敦海軍条約案ニ関スル覚 海軍軍令部 海軍軍令部ハ倫敦海軍条約中補助艦ニ関スル帝国ノ保有量ガ帝国ノ国防上最小所要海軍兵力トシテソノ内容充分ナラザルモノアルヲ以テ、本条約ニ同意スルコトヲ得ズ」(海令機密第六七号)。

 「なんだこれは。調印は明日だ。こんなもの受け取れん」と、堀少将は書類を突き返した。野田大佐は「軍令部長は、海相が帰国されるまで預かっておいてくれと申されました」と言った。

 翌日、岡田大将が加藤軍令部長を東京四谷の自宅に訪ねて真意を聞くと、「条約調印前の日付で軍令部は反対だった証を残しておきたかったのだ。大臣が帰るまで金庫にでも納めて置いてもらえれば……」と言った。

 四月二十二日、ロンドンでは、セント・ジェームズ宮殿で軍縮条約の調印式が行われた。若槻全権は、国産のペンでサインした。

 調印後、日本全権団は宿舎のグローブナーハウスで慰労パーティを開いたが、海軍随員の佐官級は不満で荒れた。取っ組み合いや鼻血を流す者もいた。「全権が逃げたと言われたくなかった」という若槻は、最後まで付き合い、部屋に戻ったのは深夜だった。

 戦後の第一次吉田内閣の外務次官・寺崎太郎(東京・帝国大学法科卒・外務省アメリカ局長・外務次官)は、当時三等書記官で、ニューヨーク領事館から随員として加わり、若槻の通訳などをした。

 「れいめい・日本外交回想録」(寺崎太郎・1982年)によると、著者の寺崎は、当時のことを次のように述べている。

 「一行中で夫人同伴は財部全権と新婚早々の私だけ。エライ人の奥さんと私の妻だけがホテルの中で紅二点だった。海軍の佐官連中が暴力をふるう場合は私が飛び出すからお前もそのつもりでおれ、と花嫁に申し聞かせたものでした」

 「海軍側の若手随員中の猛者連が若槻首席全権や山川、川崎両顧問の居室を夜中訪れ、今でいえば、“座り込み”をやったのである。日本全権団の宿舎は、物情騒然となった。海軍の首席随員は左近司さんだったが、すぐ次には鼻っぱしの強い山本五十六が控えていたので、さぞ、左近司さんはやりづらかったことと察せられた」。

 山本五十六はロンドンでは暴れたらしい。だが、その反面で、こんなこともあった。朝日新聞政治部記者で、ロンドン軍縮会議取材のため特派された浜田常二良(著書に「ヒットラー・人及その事業」「日独国民性の相違とナチスの政策」「大戦前夜の外交秘話―特派員の手記」などがある)は、後に次のように語っている。

 「ロンドンのグロブナー・ハウスでの慰労会で、山本は隣り合わせの私に『アスパラガスをとってくれ』と頼んだ。山本はアスパラガスが大好物だった。真向かいに座った全権の財部海相が『ここにあるよ』という。私は、あんなに財部の悪口をかげでたたく山本だから、受け取らぬと思っていたら、頭を下げてヘイヘイしながら有り難そうに受けっとった。私は山本とは親しくしていたが、以来、腹の中では軽蔑し、どうも山本は感心しない人物としか映らなかった」。

494.東郷平八郎元帥海軍大将(34)財部は物見遊山のつもりか、カカアなど連れてゆきおって

2015年09月11日 | 東郷平八郎元帥
 ところで、ロンドン軍縮会議全権・海軍大臣・財部彪大将は、ロンドンへ出発する直前、朝鮮総督・斎藤実(さいとう・まこと)海軍大将(岩手・海兵六・三席・「防護巡洋艦「秋津洲」艦長・防護巡洋艦「厳島」艦長・海軍次官・少将・海軍総務長官兼軍務局長・中将・海軍次官兼軍務局長兼艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・朝鮮総督・子爵・ジュネーヴ会議全権・枢密院顧問・退役・朝鮮総督・首相・内大臣・議定官・二二六事件で暗殺される」・従一位・大勲位・功二級)に会って話を聞いた。

 その時、斎藤大将から「これからの外交は、夫人同伴であるべきだ」と言われた財部大将は、妻・いね子を同伴して、ロンドンへ乗り込んだ。しかし、それが東郷元帥を激怒させるとは、夢にも思っていなかった。

 「戦争にカカアを連れていくとは何事か」。東郷元帥は、「軍縮会議は戦争だ」と思っていた。ロンドンへ夫人を同伴した全権・財部大将のことが気に食わなかった。

 戦前は男女平等ではなかった。「男女七歳にして席を同じうせず」という教育、しつけを受けた。夫婦でも肩を並べて歩かなかった。女性は男性の後ろにつくのが美徳とされた。東郷元帥の生まれ育った鹿児島は、特に男尊女卑の風習が根強かったのである。

 全権・財部大将が妻・いね子を同伴したのは朝鮮総督・斎藤実大将だけでなく、外相・幣原喜重郎からも「今やそれは外交恒例上の常識である」と勧められ、それに従ったのである。

 昭和五年三月二十三日、海軍のまとめ役、前海軍大臣で軍事参議官の岡田啓介大将は、午前中、軍令部長・加藤寛治大将を自宅に訪れ、さらに午後は、東京紀尾井町の森の中にある伏見宮邸を訪ねた。強硬派である海軍の大御所、軍事参議官・伏見宮博恭王大将は怒って次のように言った。

 「財部は出発前に、二度も私に、三大原則は絶対退かない、と言っていた。財部の気持ちは聞く必要はない。軟弱なのは幣原外交だ。この際、一歩退けば国家の前途はどうなるか分らん。私は主上(昭和天皇)に申し上げるつもりだ」。

 岡田大将は、その足で麹町の東郷元帥邸を訪ねた。日清戦争で清国兵を乗せた英国船「高陞号」を撃沈させた事件の「浪速」の艦長が東郷大佐で、その時の砲術指揮官は岡田中尉だった。

 ロンドン軍縮の経過について、岡田大将は報告したが、もう一人の強硬派、東郷元帥は苦々しい顔をして聞いていたが、次のように言った。

 「な、軍縮会議はのるか、そるか、宣戦布告の無い戦争なんじゃ。財部は物見遊山のつもりか、カカアなど連れてゆきおって。だから、こういうことしかできん。今回の請訓は、全然話にならん」。

 なんとも、とりつくしまもなかった。このとき、東郷元帥八十二歳、岡田大将は六十二歳だった。岡田大将は回顧録で次のように述べている。

 「財部は強硬派ばかりでなく、軍縮派にもあまり好かれていなかったのは、つまらぬことだが、細君を会議に連れて行ったのがけしからんという感情から来ている。東郷元帥に評判が悪かったのも、もっぱらこのためだ。(略)……財部の細君というのは、山本権兵衛さんの娘(長女いね子)だ」。

 財部大将と岡田大将は、日露戦争の旅順閉塞隊の広瀬武夫中佐と共に海軍兵学校一五期で、明治二十二年卒業だった。席次は、財部首席、岡田二十三番、広瀬六十四番の順だった。

 エリートの財部は軍政畑の海軍省内をトントン拍子に出世し、通例より三年九か月も早く大将に昇進、大正十二年、十三年と昭和四年に三回海軍大臣に就任した。

 海軍の頂点まで登りつめることができたのは、山本権兵衛や加藤友三郎らに見込まれたためもある。海軍きっての権勢家・山本権兵衛の娘むことなって、破格の出世をしたと見られた。その一方で実戦現場の東郷元帥らには敬遠され、海軍部内の統率力、信望は今一つなかった。

 三月二十七日、浜口雄幸首相は、天皇にロンドン軍縮会議の経過を報告した。速やかに協定の成立するようにとの天皇の意中を知り、浜口首相は妥協案で条約を受諾する決心をした。

 四月一日、朝の首脳会談の後、閣議で承認を得たあと、夕方、ロンドンの全権団あてに条約案を承認するという回訓電報を打った。

 閣議の前に、浜口首相は、時間がないので、岡田大将に、東郷元帥に条約案承認の意向を伝えてほしいと頼んだ。加藤寛治軍令部長も「一緒に行く」と車に同乗して二人で麹町の東郷元帥邸を訪ね、朝の首脳会談の模様を伝えた。

 三十分ほど、回訓に至るまでの経過を報告、東郷元帥はただ黙って聞いた。天皇が自分の考えとは違う事を察知したのか、その顔色はさえなかった。

493.東郷平八郎元帥海軍大将(33)大変です。全権団はアメリカ案を飲むハラのようです

2015年09月04日 | 東郷平八郎元帥
 海軍部内は二つに分かれて揺れていた。「七割の大原則だけはあくまで貫け」という東郷元帥らの強硬派(艦隊派)と、「財政・国際情勢から妥結すべきだ」という条約派に分裂していた。

 浜口首相は海軍大臣の代理もしていたが、自分の手には負えなかった。結局、政府がロンドンへ回訓電を打ったのは四月一日だった。

 それまでの十五日間、東京麹町の東郷元帥宅へは、海軍の長老、幹部がひんぱんに出入りした。東郷元帥は和服で腕組みしながら、その言う事をじっと聞いた。

 請訓電の来た翌日の三月十六日日曜日だったが、軍令部長・加藤寛治大将は、東郷元帥宅を訪ねた。

 加藤大将が「大変です。全権団はアメリカ案を飲むハラのようです」と報告すると、東郷元帥は「うむ、困ったものじゃ。なんとかしなければ」と腕組みしながら言った。

 東郷元帥も、加藤大将も「妥結案」と言わず、「アメリカ案」と言った。東郷元帥の軍縮に対する持論は「受け入れられなければ、協定破棄、断固退去」というのが一貫した姿勢だった。

 東郷元帥は、八十二歳の高齢ではあったが、元帥として現役、軍事参議官会議では議長を務め、発言の一言は影響を与えた。

 翌三月十七日、加藤大将は、ロンドンの全権・財部彪海軍大臣に「十六日、東郷元帥を訪ねたが、元帥も外務省の譲歩的態度には不満で、こういわれている」と、次の様な趣旨の電報を打った。

 「我初めより三割を譲歩しおるに、彼大切なる大型巡洋艦において譲るところなければ、我は致し方なしとて帰来の外なし。我には破れたりとて大拡張とならぬ故、財政上の心配なし。自分は七割にても如何かと思いたるも今迄の行き懸りと訓令とにて之が最小限にして之より減ぜぬと聞き承知せり」

 「要するに七割なければ国防上安心できずとの態度をとりおることなれば、一分や二分という小掛引きは無用なり。先方聴かざれば断々固として引揚ぐるのみ。万一、我が主張貫徹せず会議決裂に終ることあるも、曲りなりに取りまとめ日本に不為の条約を結ぶよりも国家のためには幸なるべし」。

 「この電報は東郷の権威を利用して財部に圧力をかけたもので、これは加藤の手口である」と、「軍令部総長の失敗」を書いた海軍兵学校出身の作家・生出寿(おいで・ひさし・大正十五年栃木県生まれ・海兵七四・海軍少尉・戦後東大文学部仏文学科卒・戦記作家・平成十八年死去)は述べている。

 三月十七日朝、海軍次官・山梨中将は岡田大将を訪ね、「決裂だけは避けたい。もう一度、ロンドンへ財部の意見を聞いてみよう」と相談した。

 ところが、その日の夕刊各紙の一面トップに「アメリカ案絶対反対」という「海軍当局の声明」が掲載された。山梨海軍次官も加藤軍令部長も知らない声明だった。

 これは、軍令部次長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)中将(山口・海兵二七・海大七恩賜・海軍大学校教官・第一艦隊参謀・大佐・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・海軍大学校教官・ワシントン会議次席随員・少将・第一潜水艦隊司令官・海軍大学校教官・教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内閣参議・内務大臣)が新聞記者を集めて流したものだった。

 海軍の大御所である東郷元帥と軍事参議官・伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう・皇族・海兵一六退校・ドイツ海軍兵学校卒・海軍少尉・ドイツ海軍大学校卒・巡洋艦「霧島」分隊士・砲術練習所学生・中尉・戦艦「富士」分隊長心得・大尉・戦艦「富士」分隊長・装甲巡洋艦「出雲」分隊長・海軍大学校選科学生・戦艦「三笠」分隊長・少佐・防護巡洋艦「新高」副長・中佐・装甲巡洋艦「日進」副長・英国駐在・大佐・巡洋戦艦「伊吹」艦長・海軍大学校選科学生・少将・横須賀鎮守府艦隊司令官・海軍大学校校長・第二戦隊司令官・中将・第二艦隊司令官・軍事参議官・社団法人帝国水難救済会総裁・大将・佐世保鎮守府司令長官・軍事参議官・海軍軍令部長・元帥・軍令部総長・大勲位菊花章頸飾・功一級)の二人が、ロンドン軍縮会議において、「七割論者」の強硬派であることに、政府は頭を痛めた。

 海軍次官・山梨中将は「とても自分の力ではどうにもならない」と、浜口首相に東郷元帥の説得を頼んだ。だが、浜口首相は逃げ腰で、次のように答えた。

 「私は元帥を尊敬している。恐らく人後に落ちない。だが、今は首相だ。国民と議会に全責任を持つ立場にある。元帥の方から私の考えを聞きたいと言われれば、喜んで説明するが、自分から進んで元帥に説明するのは、如何なものか」。

 元老や重臣は条約をまとめようとする浜口内閣を支持した。西園寺公望は次のように言った。

 「大局から見れば、いくら強いことを言ってみても、結局しまいまで勝ちおおせるものではない。今の国力から言って到底難しい。一国の軍備というものは、その国の財政の許す範囲ではじめて耐久力のある威力が保てるのである」

 「……むしろ日本が先に立って六割でもいいから会議をリードして成功に導かせることが、将来の日本の国際的地位を高めることになる。(略)……英米とともに采配の柄を持つことが出来る今の日本の立場を捨ててしまってまで、どこに利益があるのか」。

 国勢の「元老」は、海軍の「元帥」とは全く反対の意見だった。

492.東郷平八郎元帥海軍大将(32)君が独走することを海軍省は恐れている。今は大事な時だ

2015年08月28日 | 東郷平八郎元帥
 こうなってくると、万金をつんでもこれを譲ってもらおうという好事家連中がやって来たが、倉吉は「へん、見損うない!」と鼻をこすりあげた。

 そこで、泊り客の一般人が「御老中」と倉吉を呼ぶようになった。老中の越中守をもじったのだが、倉吉はこの称号が気に入って、自ら風呂番老中と称して得意がった。

 この話はかなり有名になったが、東郷元帥だけには極秘にしてあった。そこで東郷元帥は知らないであろうと、小笠原少将は思っていた。

 それから数年して、小笠原少将は東郷元帥のお供をして三島館に泊まった。東郷元帥が風呂に入っている間に、小笠原少将が女中に「閣下はまだあおのことは御存知ないだろうな?」と訊ねると、女中は「それがどうやら御存知のようなんですよ」と答えた。

 「なに?」と小笠原少将が言うと、女中は「いえ、別におたずねはありませんけど、このごろ御入浴の時は、必ずあれを袂にしまわれるのですよ…」と答えた。

 なるほど、それなら知られたかなと、食事のあとで、小笠原少将が、遠回しに訊ねると、東郷元帥は、その大きな目玉でぎょろりと小笠原少将の方を見て「どうも近頃は物騒じゃからな」と苦笑した。

 日本海海戦をはじめ、作戦では一分の隙も見せなかった東郷元帥だが、とんだところで、油断大敵、寝首をかかれてしまった。

 昭和五年一月二十一日、アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアによる、ロンドン海軍軍縮会議(補助艦保有量制限)が始まった。

 「東郷平八郎元帥の晩年」(佐藤国雄・朝日新聞社)によると、その日、前海相・軍事参議官・岡田啓介(おかだ・けいすけ)大将(福井・海兵一五期・海大将校科甲種二期・大佐・戦艦「鹿島」艦長・少将・人事局長・中将・艦政本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・首相・勲一等旭日桐花大綬章・功三級)は自宅を出た。

 海軍軍令部長・加藤寛治(かとう・ひろはる)大将(福井・海兵一八首席・在英国大使館附武官・大佐・海軍兵学校教頭・巡洋戦艦「比叡」艦長・少将・砲術学校校長・第五戦隊司令官・横須賀鎮守府参謀長・欧米各国出張・海軍大学校校長・中将・ワシントン会議首席随員・軍令部次長・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・高等技術会議議長・後備役)を四谷三光町の自宅に訊ねたのだ。

 東郷グループで軍縮には強硬派だった加藤大将を説得してほしい、と海軍次官・山梨勝之進(やまなし・かつのしん)中将(宮城・海兵二五期次席・海大五期次席・海軍大学校教官・大佐・戦艦「香取」艦長・軍務局第一課長・ワシントン会議全権随員・少将・人事局長・中将・艦政本部長・海軍次官・佐世保鎮守府司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・昭和八年三月予備役・学習院長・戦後仙台育英会会長・学習院名誉院長・従二位・勲一等)に頼まれたからだ。

 岡田大将と加藤大将は同郷の福井県出身で、性格はまるで違っていたが、仲が良かった。加藤大将を自宅に訊ねて、岡田大将は次のように言った。

 岡田大将「君が独走することを海軍省は恐れている。今は大事な時だ。だから自重してくれ」。

 加藤大将「もちろんです。だが、七割は一歩も譲ってはならん。妥協してからでは遅いんです。東郷元帥も同じお気持ちです」。

 岡田大将「君は何かというと東郷元帥を持ち出すが、この際慎んだ方がいい」。

 加藤大将には、同郷の先輩の忠告が煙たかったのだ。

 昭和五年三月十二日、マクドナルド英国首相の仲介で、大型巡洋艦・軽巡洋艦・駆逐艦・潜水艦の対米比率六九・七五パーセントの妥協案が提示された。

 ロンドン海軍軍縮会議全権・海軍大臣・財部彪(たからべ・たけし)海軍大将(宮崎県都城市・海兵一五首席・軍令部参謀・大佐・軍令部参謀・英国出張・一等戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン海軍軍縮会議全権・軍事参議官)から政府に見解を求める電報が外務省に届いたのは、三月十五日午前のことだった。

 さらに「これが最終案、これ以上の交渉は余の力におよび難し」という若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)首席全権(島根・帝国大学法科大学法科を首席卒業・大蔵省主税局国税課長・大蔵次官・貴族院勅選議員・大蔵大臣・内務大臣・首相・ロンドン軍縮会議首席全権・首相・男爵・勲一等旭日桐花大綬章)の意見書が付いていた。

 外相・幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう・大阪・帝国大学法科大学卒・外務次官・ワシントン会議全権委任・外務大臣・首相臨時代理・戦後首相・国務大臣・衆議院議長・従四位・男爵・勲一等旭日大綬章)はこの電報を受け取った。

 午後一時半、幣原外相は、この電報を持って、首相・浜口雄幸(はまぐち・おさち・高知・帝国大学法科卒・大蔵省・専売局長官・逓信次官・大蔵次官・大蔵大臣・内務大臣・首相・東京駅で銃撃される・首相辞任後死去・正二位・勲一等旭日桐花大綬章)を訪ねて協議した。
 
浜口首相は、その日の夕方、海軍次官・山梨勝之進中将を呼んで、「海軍部内の意見をまとめよ」と命じた。

491.東郷平八郎元帥海軍大将(31)これほどの物を持っているのは私ぐらいでして…

2015年08月21日 | 東郷平八郎元帥
 大正七年三月のある日、小笠原長生少将が一人で三島館に投宿すると、それを待ちかねていたように倉吉がやってきた。

 「乃木と東郷・下」(戸川幸夫・読売新聞社)によると、三島館というのは、静岡県沼津の牛臥海岸の松林にある小さな旅館で、当時御用邸に参上する顕官貴紳士はこの三島館に泊まることにしていた。東郷平八郎元帥も常宿にしていた。

 倉吉というのは、白鳥倉吉ではなくて、この三島館の風呂番のことで、落合倉吉という名前だった。極めて無邪気で実直な男だった。しかもどんな偉い人が来ても怖れず対等に話をするというので、みんなから可愛がられていた。

 その倉吉が、三島館に着いた小笠原少将のところに来て、両手をついて、「閣下にお願いがあるのですが」と神妙に言った。東郷元帥が小笠原少将を可愛がっていたことを倉吉は知っていた。

 小笠原少将が「なんだね、改まって」と言いうと、倉吉は、一尺四方位の桐の箱を差し出して「へえ、実はこれに閣下の箱書きが頂きたいのでして……」と言った。

 「箱書きというが、軸ものでもないようだが……?」と小笠原少将が言うと、倉吉は「はい、これは東郷様のお肌に着けられていた物です。東郷元帥が御使用になった物に間違いがない、という事を書いて頂きたいので……」と答えた。

 小笠原少将が不審に思って霧箱の蓋を開いて見ると、縮緬の袱紗に包んだ物が入っていた。それをさらに開けて驚いた。中には薄汚れた越中ふんどしが、洗濯もされずに安置されていた。

 「一体どうしたというんだね?」と小笠原少将が訊ねてみると、倉吉は自慢そうに「へえ、これは私が頂戴しましたもので」と答えた。

 「閣下がこんな使い古した物をおやりになる筈はないが……」と小笠原少将が言うと、倉吉は次のように答えた。

 「実は先日おいで遊ばした時に、新しいのとお取替えになるんで、倉吉すまんがこれを処分しておいてくれんか、と仰せられました。これぞまさしく千載一遇の好機というやつで、閣下のお肌にじかに触れた物が手に入るなんて…」。

 小笠原少将が「それも特に大切な部分に触れたものをな」と言うと、倉吉は「そうなんで。天下広しといえど、これほどの物を持っているのは私ぐらいでして…」と言った。

 「しかし、閣下は捨てろと仰ったんだろう」と小笠原少将が訊ねると、倉吉は「いえ、捨てろとは申されません。処分をしろと…」と答えた。

 「それはついでの折りに焼却でもしてくれという意味だ」と小笠原少将が言うと「とんでもございません。こんなお宝を捨てたり、焼いたりできるものですか。そこで私が処分させて貰ったんですが……」と倉吉は答えた。

 倉吉は早速、指物師に頼んで箱を作り箪笥にしまったが、どうも盗られそうで心配だった。毎晩、置き場所を替えて、おちおち眠れないほどだったが、しかし、これが東郷元帥の物だということを誰かしっかりした人に証明して貰わなくては、人が信じてくれないだろうと思った。

 そこで、小笠原少将が東郷元帥のお気に入りだと世間からも信用されているから、この方に頼むのが一番いいと考えついたのだという。

 他の者なら断るところだが、倉吉のことだし、元帥にこんなエピソードの一つくらいあってもいいだろうと、小笠原少将は茶目っ気を出して次のように言った。

 「他なるぬお前のことだから引き受けてもいいが……まさか東郷元帥御愛用品、小川原長生識でもあるまいから、何か別のことを書いてやろう」。

 小笠原少将は考えた。いくらなんでも元帥の名前を出すのは憚れる。だから明白に東郷元帥と言わずに、それ悟らせるうまい文句はないかな…。文か詩か歌か…といろいろ感がえて、そうだ、物が物だけに一番ふさわしいのは狂歌だろう、と思いついた。そこで箱蓋の裏にさらさらと筆を走らせて次のように書いた。

 「日本海(二本買い)ぐるぐる巻きに敵を締め きつい手柄をかくはたち布(切り)」。

 倉吉は躍り上がって喜んだ。自慢して見せ廻っているうちに、「これじゃあまだ元帥のものだということは解らないよ」と言う者がいた。そういえば、この箱書きには元帥の名もなければ、小笠原の雅号もない。倉吉はすっかりしょげかえってしまった。

 そこへやって来たのが、杉浦重剛だった。倉吉は、今度は杉浦をくどきにかかり「小笠原様も書いて下さったのですから……」と、とうとう攻め落としてしまった。杉浦は漢詩で次のように箱書きした。

 「非学晉時放免俗 猶思賢宰苦心ノ痕 誰知襤褸三尺布 留得英雄一片魂」。

 この読みは次の通り。(晉時放免ノ俗ヲ学ブニ非ズ 猶オ思ウ賢宰苦心ノ痕 誰カ知ル襤褸三尺ノ布 留メ得タリ英雄一片ノ魂)。

 これに力を得た倉吉は、投宿する名士を片っ端から頼み込んで、五条橋上の弁慶よろしく、ばったばったとかき集め箱書きさせた。箱書きが増えるたびに、さらに外箱を作るので、箱は次第に大きくなり、遂には長持ちのようになってしまったという。