陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

518.永田鉄山陸軍中将(18)橋本氏がうんと言わなければ私は止めるわけにはいかん

2016年02月26日 | 永田鉄山陸軍中将
 しかし荒木に出てもらわないと治まらないかもしれない、ということで荒木が陸軍省にやって来て、それではひとつ説得をしてみましょうと言って、どこかの料理屋に行き説得した。

 だが、言う事を聞かない。荒木が担ぎ上げられて総理にでもならなければ、ということになってしまい、お手上げになってしまった。

 陸軍次官の部屋に参謀本部の関係課長、軍務局長以下課長連が集まり、十月事件の前後処置を講ずることになった。杉山が主宰して集めてやったのであるが、私も下働きで永田については言っていた。

 しかし、いくらやってもなかなか話が解決しない。みんな自分で責任を負う事がいやなんだ。参謀本部の各課長たちが……。

 そうこうしていると、夜が明けるという。永田が私を肘でつつくから、私が巻紙を貸してくれ、と言って次官の硯でもって巻紙に一筆書いた。

 それは要するに、このような外道な事を考えて動き出すことはいかん、君らの志は諒とするけれども、その行動は到底軍律上許すことはできない、それだから一時憲兵に渡すということを書いた。

 それで永田に見せたところ、それでいいだろうと永田が次官の前で読み上げ、次官もそれで結構結構と、それを担いで陸軍大臣をたたき起こして、そして陸軍大臣は内務大臣に先立って上奏する、ということになった。そういうことでも永田が中心になってそれを治めていたということです。

 荒木を担いで理想内閣を作るとワアワア騒いでいたその荒木が行って説得しても駄目であったということです。それでも荒木が十二月に陸相になったということは、永田も同意し推進したのは事実です。

 以上が鈴木貞一元陸軍中将の証言であるが、その後の「十月事件」に対する軍当局の処置には多くの疑問があった。橋本中佐以下十数名は数か所に軟禁はしたものの、料亭で毎日酒と御馳走が出され、馴染の芸者まで侍らせた。

 いわゆる「腫れ物に触る」というやり方だった。しかも約二週間で軟禁は解かれた。青年将校たちにとっては、当局の処断がこんなに簡単にすまされようとは、思いもよらぬ事だった。

 「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、「十月事件」で、荒木中将が、長勇少佐、橋本欣五郎中佐を説得した経過を、馬奈木敬信(まなき・たかのぶ)元中将(福岡・参謀本部ドイツ班長・歩兵大佐・オランダ駐在武官・歩兵第七九連隊長・少将・第二五軍参謀副長・ボルネオ守備軍参謀長・中将・第二師団長)が次のように証言している(要旨抜粋)。

 長君から「金竜亭で会いたい」という手紙を私(馬奈木少佐)は受け取った。参謀本部に帰ると、荒木中将から、「馬奈木よ、おれを長勇のもとに案内せよ」と電話があった。初めは、知らぬ、存ぜぬであったが、許されない。

 やむなく、しばらくの猶予を請い、長君に右の趣旨を電話したが、彼は峻拒したが、荒木将軍は私を促して自動車の人となり、十数分後には金竜亭に横付けとなった。

 荒木中将が着いたとき、長君は酒を飲んでいた。自動車の停まる音を聞いた彼は浴衣の上に羽織をひっかけ、袴を結びながら二階から階段を飛ぶように降り、玄関に平伏した。

 それが、荒木将軍が気に入ったらしい。酔っ払っても上官を迎える礼を知っていると(笑)お褒めの言葉を我々にもらされた。直ぐ二階に上がり、酒肴の準備を命じつつ、長君に対し「お前はいつ帰って来ていたか。帰ってきたら顔ぐらい出せよ」と言って、極めて物静かに語り、詰問するようなところはなった。

 自分で長君に酌をしながら、やがて、ころ合いになって、「ちょっと話があるからお前らさがれ」と女たちを退け、「長、お前何か考えているそうじゃないか」と切り出した。長は「何も考えておりません」「なにはともあれ、今考えていることを止めよ」と再言するや、長は答えて「それはできない、やります」と言う。

 「どうしてか」「それは私一人のことではない。私には相棒として橋本欣五郎中佐やその他の面々がいる。橋本氏がうんと言わなければ私は止めるわけにはいかん」と言った。「それじゃ、橋本が止めると言ったら止めるか」「それなら止めます」と答える。すぐ橋本中佐をよべとのことで、一時間後に現れた。

 荒木将軍は橋本中佐に、「長君は君のいう事なら聞くという事だが、君の計画していることを止めてもらいたい」と、一種の圧力をかけた。橋本中佐も、事ここに至っては万事休す、との結論に達し終幕となり、将軍は引き揚げた。




517.永田鉄山陸軍中将(17)「革命に利を以って誘うとは何事だ」と怒鳴り、大口論となった

2016年02月19日 | 永田鉄山陸軍中将
 この記事を書いた、参謀本部の松村秀逸砲兵大尉は、当時穏健派であった。

 だが、この「十月事件」勃発の前、参謀本部幕僚と青年将校たちは国家革命という共通認識が存在し、お互いに共同歩調で進むことも視野に入れてはいた。

 その後、橋本中佐らのやり方に対して、青年将校たちは不信感を抱き始めてきた。さらに、「湯水のごとく金を使っているが、どこから出ているのか」「酒と女に囲まれて、天下、国家を論じているが、不謹慎じゃないか」などと、批判し出した。

 橋本中佐らが検挙される前、十月十日に、神楽坂の料亭「梅林」に橋本中佐ら参謀本部幕僚と、在京部隊将校・戸山学校・砲工学校・歩兵学校ら青年将校らによる「顔合わせ」の集会が開かれた。

 だが、橋本中佐らのやり方は幕僚ファッショの確立であり、「天皇中心」は表面的なことであり、国家社会主義的傾向があった。軍首脳部による政権奪取だった。

 これに反して、北一輝、西田税の影響下にあった青年将校の革新論は国体主義に徹したものであったので、天皇中心の皇道政治の確立を目指す考えだった。

 この両者の思想の差異は革新理論の対立であり、この集会は、分裂の始まりとなった。つまり皇道派と統制派の対立となっていった。

 この集会に参加していた、末松太平中尉は、橋本中佐の腹心、天野中尉から、「橋本中佐がこの計画が成功した暁には、『鉄血章』をやると言っているので、しっかり努力してくれ」と耳打ち、唖然とした。

 怒り心頭に達した末松中尉は、仲間の菅波三郎中尉にこれを語り、激昂した二人は、橋本中佐に詰め寄り、「革命に利を以って誘うとは何事だ」と怒鳴り、大口論となった。

 また、「二・二六事件への挽歌」(大蔵栄一・読売新聞社)によると、十月十日に、神楽坂の料亭「梅林」に合流した青年将校は大広間に集まった。

 しばらく待っていると、橋本欣五郎中佐が入って来た。参謀肩章を吊った上衣のボタンをはずしたまま、彼は大広間の真ん中につっ立った。かと思った時、彼は軍刀を畳の上に投げ出して、倒れるように大の字に寝転んだ。「どうとでもしやがれ」と叫んで、瞑目したまましばらくじっとしていた。

 決行を目前にして、総指揮官である橋本中佐のこの奇妙な態度には、解し難いものがあった。参加者に対して二階級特進の恩典をほのめかして、前々から青年将校らの批判の的になっていた。

 このことがあって菅波三郎中尉ら青年将校グループと、橋本中佐を中心とする「桜会」のグループの間に思考方向、方法手段の差のほかに、感情的なミゾがますます大きく開いた。

 十月十七日、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐、参謀本部部員・長勇少佐ら中心人物は憲兵隊により一斉に検挙された。

 この時、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐は、責任を追及し、極刑を主張したが、責任は曖昧のままとなった。橋本中佐は重謹慎二十日、長勇少佐は同十日という軽いものに終わった。

 この「十月事件」に対する陸軍中央の当初の対応は、軍事課長・永田鉄山大佐らが主導したと言われている。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)の中で、鈴木貞一(すずき・ていいち)元中将(千葉・陸士二二・陸大二九・陸軍省新聞班長・歩兵大佐・陸軍大学校研究部主事兼教官・内閣調査局調査官・歩兵第一四連隊長・少将・第三軍参謀長・興亜院政務部長・中将・興亜院総務長官心得・予備役・国務大臣兼企画院総裁・大東亜建設審議会幹事長・貴族院議員・内閣顧問・大日本産業報国会会長・A級戦犯で終身禁錮・仮釈放・赦免)は次のように証言している(要旨抜粋)。

 この十月事件の後始末は参謀本部の人、特に渡とか東條などの課長がやらなければならない立場であった。ところが、それを永田が陸軍省に持ち込んだ。ということは当時永田はそれほどまでにそういう問題に対しても十六期、十七、八期あたりでは非常に群を抜いた力を持っていた、ということにほかならない。

 それで私と永田と色々話したんだが、とにかくこれは止めさせなくてはいかんと、そして参謀本部の課長などに厳に説得をして止めさせるようにしなさい、といったがやれない、それでいよいよ閣議にも取り上げられた。


516.永田鉄山陸軍中将(16)宇垣一成大将が陸軍大臣である以上、もうこの辺でおしまいだ

2016年02月12日 | 永田鉄山陸軍中将
 このあと、ただちに真崎大佐は、近衛歩兵第一連隊長に転出させられたのである。以後、田中義一大将、宇垣一成大将の勢力の強い間は、最優秀の序列にありながら、真崎大佐は参謀次長に就任するまで、一度も省部の要職に就く事は無かった。

 真崎大佐は、その後、近衛歩兵第一旅団長(少将)、陸軍士官学校本科長、陸軍士官学校幹事兼教授部長、陸軍士官学校校長(中将)、第八師団長を経て、昭和四年七月第一師団長に転補された。

 当時の第一師団には、参謀長・磯谷廉介大佐、歩兵第一連隊長・東條英機大佐、歩兵第三連隊長・永田鉄山大佐らが、おり、真崎中将の直接の部下になった。

 磯谷廉介大佐、東條英機大佐、永田鉄山大佐らは、真崎師団長を、軍人の神様のように崇拝していたという。彼らは、師団長官舎によく出入りして、真崎中将から薫陶を受けていた。彼らは、長州閥の打破を目指しており、その点で真崎中将を彼らのリーダーとして称賛していたのである。

 昭和六年に入り、宇垣一成大将が陸軍大臣である以上、もうこの辺でおしまいだと、真崎師団長は覚悟を決めていた。

 七月になり、八月異動の噂が立ち始め、真崎師団長はクビになり、待命だという。そんな馬鹿なことはないと、当時の磯谷参謀長、東條連隊長、永田軍事課長、岡村寧次補任課長らが、真崎中将の待命を阻止する運動を起こした。

 是が非でも真崎中将を助けねばという彼らの熱情に動かされて、とうとう参謀総長・金谷範三大将は「それなら台湾にでもやるか」と真崎甚三郎中将を八月の定期異動で台湾軍司令官にした。

 台湾に着任後、さすがの真崎甚三郎中将も、この台湾軍司令官が軍歴の最後だと思って奉公していた。だが、昭和六年十二月末の政変で、真崎中将の盟友、荒木貞夫中将が陸軍大臣に就任した。

 すると翌年昭和七年一月七日、真崎甚三郎中将を参謀次長に補すという発令がなされた。皇族である閑院宮参謀総長を補佐する事実上の参謀総長である、大参謀次長の任に就いたのである。荒木・真崎時代の幕開けであった。

 その前年の、昭和六年十月に「十月事件」が起きた。昭和六年九月十八日、柳条湖事件が起き、満州事変が勃発した。政府は、不拡大の方針を決定した。

 この政府決定に不満を抱いていた陸軍の「桜会」の橋本欣五郎中佐、長勇少佐らは、大川周明博士、北一輝らのグループと呼応してクーデターを計画した。軍隊を動かし、要所を襲撃、首相以下を暗殺、荒木貞夫中将を首班にした革新内閣を樹立するというもので、決行は十月二十四日と決めていた。

 当時、「桜会」の会員に参謀本部附・松村秀逸(まつむら・しゅういつ)砲兵大尉(熊本・熊本陸軍幼年学校・中央幼年学校・陸士三二・陸大四〇・関東軍参謀・陸軍省情報部長・砲兵大佐・内閣情報局第二部第一課長・大本営陸軍報道部長・内閣情報局第一局長・第五九軍参謀長・原爆で重傷・少将・戦後参議院議員・在任中に病死)がいた。

 松村秀逸は、その著書「三宅坂―軍閥は如何にして生れたか」(松村秀逸・東光書房・1952年)で、当時の「桜会」について、次のように述べている。

 「桜会には、急進派もあり、穏健派もあり、中間派もいた。最初は少人数だったが、そのうちに陸軍省、参謀本部、教育総監部の、いわゆる陸軍の中央三官衙におった中佐以下の将校を中心にして、それに、東京附近の部隊や、学校におった将校が集まって、夕食をともにしながら、時局談に花を咲かせていた」

 「集まった者も、四、五十人も出なかったし、穏健派が主力であって、世間でいう程過激なものではなかった。その中で、橋本欣五郎中佐を班長としたロシア班が急進派だった。通称、橋欣さんは、大使館附武官として、トルコに在勤、ケマルパシャの独裁を目のあたりに見、ロシアの五カ年計画や、ヒットラー、ムッソリーニの行動を側面から、眺めていたのである」

 「桜会を利用して、同志を集めようと企てておった模様で、コッソリ出席簿を作ったりして、御定連の中で、血の気の多い若い連中に呼びかけていたが、ことに会員拡大の方針をとってからは、参謀本部からは武藤章中佐や河辺虎四朗中佐の出席もあり、彼らは正面切って、橋欣さんの主張を論難、反ばくした」

 「そんな訳で、矯激組は一割そこそこの少数派で、会員の大部分は冷静で革新などということは、たいして興味を持った者は少なかった」

 「いつか、橋欣さんが大川周明博士を引っ張って来て、日本青年会館で講演をさせたりしたこともあったが、たいした共鳴者もなかったのが、事実である」。

515.永田鉄山陸軍中将(15)それはいかん、そんなことをしたら軍隊は毀れてしまう

2016年02月05日 | 永田鉄山陸軍中将
 山岡重厚中将が書き遺した「私の軍閥観」に「三月事件」として次のような記述がある(要旨抜粋)。

 私は当時教育総監部の先任課長をしていたが、三月十一日急に芝の飛行会館で会合があるから来てくれといわれ、出かけたところ、教育総監部からは私一人であった。

 だが、永田大佐、岡村大佐が来ていて、実はこういう計画で軍部内閣を造りたい。宇垣さんの承諾も得ている。是非賛成してくれないかというとんでもない相談である。

 私は「それは非常に乱暴だ。教育総監部の課長として賛成できない、いくら予算がとれぬとしても、また満州の日本人が困っているからといっても、兵馬の大権を犯して内閣をつぶし陛下に新たな軍部内閣を強要するのは軍を壊し、陛下の大権を犯す不逞行為だ。絶対に反対だ」と答えた。

 高知の男で大佐の小畑敏四郎という人も来ていて、私の意見に賛同し、直ちにやめろといったので、永田も、岡村も、それではやめようと土肥原賢二と岡村は直ちに参謀本部及び陸軍省の方へ中止の手続きを取った。

 この計画書は後で問題になったが、軍事課長の永田鉄山大佐の自筆のものであった。宇垣の意中を受けて軍務局長小磯国昭などが差し金を入れ永田が主になってやったと思う。

 この当時から永田の思想は危険であった。永田は非常な秀才だがドイツに留学して国家総動員法に心酔し、日本の国へも必ず取り入れねばならないと信じ込んでしまったのだ。

 ドイツの国家総動員法で強くいくと、議決をするとそれを上に出して決裁を受ける訳だが、この際上の者は自分の意思表示をして、これをやめさせることが出来ない仕組みになっており、全くのロボットでしかなくなる。

 この採決が美しき、合法的な同意表示であると認めておる。故に日本の統帥事項とか、憲法の天皇の大権とかにふれてくると、永田一派の国家総動員法の仕組みでは、天皇大権は意味がないことになる。

 これが天皇に軍部内閣を強要するという永田の思想の元である。ちょうどドイツ、イタリヤのファッショとでもいおうか、当時の最新のいわゆる合法的なハイカラ思想とされていた。これは決して永田だけでなく、軍部にも、官僚にも沢山あったようだ。

 以上が、山岡重厚中将が「私の軍閥観」で述べている、三月事件中止の経過であるが、三月事件の歯止めとなったのが、真崎甚三郎中将だった。

 真崎甚三郎中将は当時第一師団長(東京)だった。この三月事件のクーデター計画を三月十五日、磯谷廉介参謀長から報告を受けた真崎師団長は激怒した。(山岡中将は、三月十一日に中止に至ったと記しているが、徹底していなかったと思える)。

 真崎師団長は「それはいかん、そんなことをしたら軍隊は毀れてしまう。おれは警備司令官の命令があっても絶対に兵を出す事はできない。即刻陸軍省に行って、永田軍事課長にそう言ってくれ」と磯谷参謀長に命令した。

 磯谷参謀長は永田軍事課長の元に行き、「その計画の中止」を求める真崎師団長の意図を伝えた。第一師団が動かなければ駄目だった。それで、クーデター計画は、中止に至った。

 後に、皇道派の頂点に君臨した真崎教育総監を更迭させた、永田、東條ら統制派の中堅幕僚たちは、この三月事件当時は、真崎師団長を崇拝し、盛り立てようと必死だったのである。その経過は次のようなものであった。

 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、真崎甚三郎大佐が教育総監部第二課長から軍務局軍事課長に補されたのが、大正九年八月十日で、近衛歩兵第一連隊長に転出したのは大正十年七月十日である。

 陸軍の重要ポストにしては、真崎大佐の在任期間が一年とは異例の短い期間だった。当時の陸軍省の首脳は、田中義一陸軍大臣、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、軍事課高級課員・児玉友雄中佐(児玉源太郎大将の三男・後の中将)というように、上下を長州閥で固められていた真崎大佐は、サンドウィッチ状態で、思うように才幹を振えなかった。

 だが、真崎大佐早期転出の原因は、陸軍の機密費に関することだった。真崎大佐が軍事課長として着任した当時、軍の機密費を取り扱う者は、田中義一陸軍大臣、山梨半造次官、菅野尚一軍務局長、松木直亮高級副官の四人だった。

 この時、すでに大正七年分の機密費として七七〇万円が秘密裏に蓄積されつつあった。永田大佐の軍事課長というポストは、省内のすべてを知り尽くしている位のカナメの地位だった。

 軍事課長に就任した真崎大佐は、この機密費の不正蓄積についてのある感触を得た。持前の正義感から、真崎大佐は直ちに軍の機密費の適正な使用と管理についての意見書を提出した。