しかし荒木に出てもらわないと治まらないかもしれない、ということで荒木が陸軍省にやって来て、それではひとつ説得をしてみましょうと言って、どこかの料理屋に行き説得した。
だが、言う事を聞かない。荒木が担ぎ上げられて総理にでもならなければ、ということになってしまい、お手上げになってしまった。
陸軍次官の部屋に参謀本部の関係課長、軍務局長以下課長連が集まり、十月事件の前後処置を講ずることになった。杉山が主宰して集めてやったのであるが、私も下働きで永田については言っていた。
しかし、いくらやってもなかなか話が解決しない。みんな自分で責任を負う事がいやなんだ。参謀本部の各課長たちが……。
そうこうしていると、夜が明けるという。永田が私を肘でつつくから、私が巻紙を貸してくれ、と言って次官の硯でもって巻紙に一筆書いた。
それは要するに、このような外道な事を考えて動き出すことはいかん、君らの志は諒とするけれども、その行動は到底軍律上許すことはできない、それだから一時憲兵に渡すということを書いた。
それで永田に見せたところ、それでいいだろうと永田が次官の前で読み上げ、次官もそれで結構結構と、それを担いで陸軍大臣をたたき起こして、そして陸軍大臣は内務大臣に先立って上奏する、ということになった。そういうことでも永田が中心になってそれを治めていたということです。
荒木を担いで理想内閣を作るとワアワア騒いでいたその荒木が行って説得しても駄目であったということです。それでも荒木が十二月に陸相になったということは、永田も同意し推進したのは事実です。
以上が鈴木貞一元陸軍中将の証言であるが、その後の「十月事件」に対する軍当局の処置には多くの疑問があった。橋本中佐以下十数名は数か所に軟禁はしたものの、料亭で毎日酒と御馳走が出され、馴染の芸者まで侍らせた。
いわゆる「腫れ物に触る」というやり方だった。しかも約二週間で軟禁は解かれた。青年将校たちにとっては、当局の処断がこんなに簡単にすまされようとは、思いもよらぬ事だった。
「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、「十月事件」で、荒木中将が、長勇少佐、橋本欣五郎中佐を説得した経過を、馬奈木敬信(まなき・たかのぶ)元中将(福岡・参謀本部ドイツ班長・歩兵大佐・オランダ駐在武官・歩兵第七九連隊長・少将・第二五軍参謀副長・ボルネオ守備軍参謀長・中将・第二師団長)が次のように証言している(要旨抜粋)。
長君から「金竜亭で会いたい」という手紙を私(馬奈木少佐)は受け取った。参謀本部に帰ると、荒木中将から、「馬奈木よ、おれを長勇のもとに案内せよ」と電話があった。初めは、知らぬ、存ぜぬであったが、許されない。
やむなく、しばらくの猶予を請い、長君に右の趣旨を電話したが、彼は峻拒したが、荒木将軍は私を促して自動車の人となり、十数分後には金竜亭に横付けとなった。
荒木中将が着いたとき、長君は酒を飲んでいた。自動車の停まる音を聞いた彼は浴衣の上に羽織をひっかけ、袴を結びながら二階から階段を飛ぶように降り、玄関に平伏した。
それが、荒木将軍が気に入ったらしい。酔っ払っても上官を迎える礼を知っていると(笑)お褒めの言葉を我々にもらされた。直ぐ二階に上がり、酒肴の準備を命じつつ、長君に対し「お前はいつ帰って来ていたか。帰ってきたら顔ぐらい出せよ」と言って、極めて物静かに語り、詰問するようなところはなった。
自分で長君に酌をしながら、やがて、ころ合いになって、「ちょっと話があるからお前らさがれ」と女たちを退け、「長、お前何か考えているそうじゃないか」と切り出した。長は「何も考えておりません」「なにはともあれ、今考えていることを止めよ」と再言するや、長は答えて「それはできない、やります」と言う。
「どうしてか」「それは私一人のことではない。私には相棒として橋本欣五郎中佐やその他の面々がいる。橋本氏がうんと言わなければ私は止めるわけにはいかん」と言った。「それじゃ、橋本が止めると言ったら止めるか」「それなら止めます」と答える。すぐ橋本中佐をよべとのことで、一時間後に現れた。
荒木将軍は橋本中佐に、「長君は君のいう事なら聞くという事だが、君の計画していることを止めてもらいたい」と、一種の圧力をかけた。橋本中佐も、事ここに至っては万事休す、との結論に達し終幕となり、将軍は引き揚げた。
だが、言う事を聞かない。荒木が担ぎ上げられて総理にでもならなければ、ということになってしまい、お手上げになってしまった。
陸軍次官の部屋に参謀本部の関係課長、軍務局長以下課長連が集まり、十月事件の前後処置を講ずることになった。杉山が主宰して集めてやったのであるが、私も下働きで永田については言っていた。
しかし、いくらやってもなかなか話が解決しない。みんな自分で責任を負う事がいやなんだ。参謀本部の各課長たちが……。
そうこうしていると、夜が明けるという。永田が私を肘でつつくから、私が巻紙を貸してくれ、と言って次官の硯でもって巻紙に一筆書いた。
それは要するに、このような外道な事を考えて動き出すことはいかん、君らの志は諒とするけれども、その行動は到底軍律上許すことはできない、それだから一時憲兵に渡すということを書いた。
それで永田に見せたところ、それでいいだろうと永田が次官の前で読み上げ、次官もそれで結構結構と、それを担いで陸軍大臣をたたき起こして、そして陸軍大臣は内務大臣に先立って上奏する、ということになった。そういうことでも永田が中心になってそれを治めていたということです。
荒木を担いで理想内閣を作るとワアワア騒いでいたその荒木が行って説得しても駄目であったということです。それでも荒木が十二月に陸相になったということは、永田も同意し推進したのは事実です。
以上が鈴木貞一元陸軍中将の証言であるが、その後の「十月事件」に対する軍当局の処置には多くの疑問があった。橋本中佐以下十数名は数か所に軟禁はしたものの、料亭で毎日酒と御馳走が出され、馴染の芸者まで侍らせた。
いわゆる「腫れ物に触る」というやり方だった。しかも約二週間で軟禁は解かれた。青年将校たちにとっては、当局の処断がこんなに簡単にすまされようとは、思いもよらぬ事だった。
「昭和陸軍秘史」(中村菊男・番町書房)によると、「十月事件」で、荒木中将が、長勇少佐、橋本欣五郎中佐を説得した経過を、馬奈木敬信(まなき・たかのぶ)元中将(福岡・参謀本部ドイツ班長・歩兵大佐・オランダ駐在武官・歩兵第七九連隊長・少将・第二五軍参謀副長・ボルネオ守備軍参謀長・中将・第二師団長)が次のように証言している(要旨抜粋)。
長君から「金竜亭で会いたい」という手紙を私(馬奈木少佐)は受け取った。参謀本部に帰ると、荒木中将から、「馬奈木よ、おれを長勇のもとに案内せよ」と電話があった。初めは、知らぬ、存ぜぬであったが、許されない。
やむなく、しばらくの猶予を請い、長君に右の趣旨を電話したが、彼は峻拒したが、荒木将軍は私を促して自動車の人となり、十数分後には金竜亭に横付けとなった。
荒木中将が着いたとき、長君は酒を飲んでいた。自動車の停まる音を聞いた彼は浴衣の上に羽織をひっかけ、袴を結びながら二階から階段を飛ぶように降り、玄関に平伏した。
それが、荒木将軍が気に入ったらしい。酔っ払っても上官を迎える礼を知っていると(笑)お褒めの言葉を我々にもらされた。直ぐ二階に上がり、酒肴の準備を命じつつ、長君に対し「お前はいつ帰って来ていたか。帰ってきたら顔ぐらい出せよ」と言って、極めて物静かに語り、詰問するようなところはなった。
自分で長君に酌をしながら、やがて、ころ合いになって、「ちょっと話があるからお前らさがれ」と女たちを退け、「長、お前何か考えているそうじゃないか」と切り出した。長は「何も考えておりません」「なにはともあれ、今考えていることを止めよ」と再言するや、長は答えて「それはできない、やります」と言う。
「どうしてか」「それは私一人のことではない。私には相棒として橋本欣五郎中佐やその他の面々がいる。橋本氏がうんと言わなければ私は止めるわけにはいかん」と言った。「それじゃ、橋本が止めると言ったら止めるか」「それなら止めます」と答える。すぐ橋本中佐をよべとのことで、一時間後に現れた。
荒木将軍は橋本中佐に、「長君は君のいう事なら聞くという事だが、君の計画していることを止めてもらいたい」と、一種の圧力をかけた。橋本中佐も、事ここに至っては万事休す、との結論に達し終幕となり、将軍は引き揚げた。