陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

110.大西瀧治郎海軍中将(10) 「貴様ぁ、泣いたことはないのかぁ」と、大西中将は声を放って泣いた

2008年05月02日 | 大西瀧治郎海軍中将
 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、終戦の昭和20年8月15日の夜、大西中将は矢次一夫の家を訪れている。徹底抗戦を叫んで万策尽きたあとである。

 矢次は大西中将の顔を見ると「この男死ぬ気だな」と直感した。「君のような阿呆は、ここらで腹を切ろうなんて考えているのだろうが、そんなことをすれば慌てものだと笑われるだけだぜ」とピシャリと言った。

 すると大西中将はぎらりと目を光らせ、抑揚のない声で言った。「腹を切ったら阿呆か」

 しかし、次の瞬間、彼はどたんと立ち上がると、すごい力で矢次の身体にむしゃぶりついた。

 「貴様ぁ、泣いたことはないのかぁ」と叫ぶと、大西中将は声を放って泣いた。泣くというより吠える状態に近かった。背中も脚もぶるぶる震わせ、全身から涙を放つ有様だった。

 その夜大西中将は酒の一升瓶をもって矢次の家を訪れ、飲んだ。「前途有為な青年をおおぜい死なせた。俺は地獄に落ちるべきだが、地獄の方で入れてくれんだろう」と言った。

 矢次はなんとかして大西中将の自決を思いととどまらせようと考えた。そこで、金森徳次郎や矢部貞治らがつくった「敗戦後の日本」という文書を見せ「これからのアジアは政治的難問が山積だ」と言った。

 すると大西中将は「このとおりになってくれれば、負けてもまあまあだな」と薄い笑いを浮かべた。そのあと大西中将は酔っ払った。副官を迎えにこさせるほどだった。

 帰りに大西中将はくわえ煙草をしながら、歩いては笑い、笑ってはよろめきつつ、闇の中に消えていった。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、大西瀧治郎海軍中将が海軍軍令部次長の官舎で自刃したのは昭和20年8月16日午前2時45分である。

 生命力の強い男でなお数時間生きていた。急報によって多田武雄海軍次官が軍医を連れて駆けつけ、前田副官と児玉誉士夫も現場に急行した。

 腸が露出しもはや助かる見込みは無かった。大西は軍医に「生きるようにはしてくれるな」と言った。

 児玉誉士夫には「貴様がくれた刀が切れぬものだから、また貴様とあえた。おい、すべてはその遺書に書いてある。だが特別に貴様に頼みたいことがある。厚木の海軍を抑えてくれ。小園大佐に軽挙妄動をつつしめと、大西がそう言ったと伝えてくれ」

 その言葉に児玉は頭が熱くなって、部屋にあったもう一本の刀を抜くと、心臓にあてがった。

 そのとき「バカモン」と大西は強い声を出した。「貴様が死んでクソの役に立つか。若いモンは生きるんだよ。生きて日本をつくるんだよ」

 「閣下、奥さんがくるまで待ってください。私がお迎えに参ります」

 すると大西は「バカ。軍人が腹を切って、女房が来るまで死ぬのを待つなんて、そんなアホウなことができるか。それより、あの句はどうかね」

 色紙がかかっていた。「すがすがし暴風のあと月清し」

 「おやじの句としては、出来のいいほうかね」「そうかな」

 児玉は部屋を出て海軍省の車に飛び乗った。しかし、児玉が大西の生きている姿を見たのは、それが最後だった。

 遺書は二通あった。一つは妻の淑恵のものだった。夫婦には子どもはなかった。もう一通は、有名な「特攻隊の英霊に曰す」ではじまるものであった。

(「大西瀧治郎海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「花谷正陸軍中将」が始まります)。

109.大西瀧治郎海軍中将(9) 日本国民が、なお二千万人ほど戦死するほどの一戦を試みよう

2008年04月25日 | 大西瀧治郎海軍中将
 矢次一夫の回想によれば大西中将を台湾から呼び戻したのは岡田啓介大将とされているが、米内海軍大臣の意向もあった。

 和平派の井上成美中将と小沢中将を退け、抗戦派の大西中将を軍令部次長に起用したのは米内海軍大臣の一流の政治である。

 米内海軍大臣は戦争を継続させるために大西中将を呼び戻したのではなく、和平工作を進めるために呼び戻したのである。

 このことは戦後、東京裁判の法廷で豊田副武が「大西の起用は海軍部内の主戦派の不満を和らげるためだ」と証言をしている。

 確かに軍令部内の主戦派は一応満足した。「大西さんならやってくれるだろう」、「徹底抗戦」を大西に託するようになった。

 米内海軍大臣は「緩衝装置」としての大西中将を見出すことに成功した。「緩衝装置」が徹底抗戦や本土玉砕など主張すれば、するほど米内海軍大臣にとっては好ましいのである。

 米内海軍大臣は鈴木内閣の戦争終結内閣の列内に入っている。大西中将は主戦論者として内閣の思想からは列外にある。

 大西中将は「日本国民が、なお二千万人ほど戦死するほどの一戦を試みよう」と口に出している。日本列島そのものを特攻にしようということである。

 このような発言に対して、和平派はもちろん、軍部内でも「常軌を逸した変態的頭脳」という評価が出始めた。

 だが大西中将は正気であった。和平派の最終懸案は「国体の護持」であったが、大西中将のそれは「国家と民族」であった。

 大西中将は特別攻撃隊を発進させることによって、彼自身の中に「国家の概念」を鮮明にさせていった。彼にとっての「国家」は零戦や月光に乗って発進していった、若いパイロットたちの血と死によって支えられているからである。

 大西中将は軍令部次長に就任して次長官舎に住んだが、8月16日の朝に自決するまで、ついに妻と同居しなかった。

 あるとき妻が身辺の整理を案じて「私も官舎に住みましょうか」と申し出た。すると大西中将は「それはいかん」ときっぱり断った。「軍人で無い人でさえ、家が焼け出されて、親子ちりじりに住んでいる。この俺が妻とともに住むことはできない」

 児玉誉士夫の配下の吉田彦太郎が、大西中将の身を案じて「週に一度は奥さんの家庭料理を食べてはどうですか」と申し入れた。

 すると大西中将は「そんなこと、言ってくれるな」と言下に断った。「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。六百十四人もだ」。

 大西中将ははっきりと「六百十四人だ。俺と握手していったのが六百十四人いるんだ」と言った。

 それから「俺はなあ、こんなに頭を使って、よく気が狂わんものだと思うことがある。しかし、若い人と握手したとき、その熱い血が俺に伝わって、俺を守護してくれているんだ」と言った。

108.大西瀧治郎海軍中将(8) 「そんなことで戦ができるか」大西長官の右の拳が佐多司令の頬に飛んだ

2008年04月18日 | 大西瀧治郎海軍中将
 暗い中で、試運転の爆音が続いていたが、伝令がきて「準備ようし」と言った。

 みんなが飛行機の方へ歩きかけようとしたとき、大西長官が門司大尉に「司令を呼んできなさい」と言った。

 門司大尉は、三、四十メートル離れている指揮所に走っていった。半地下の防空壕の中に佐多司令は座っていた。

 「長官がお呼びです」と門司大尉は言った。門司大尉が佐多司令を懐中電灯で案内して元の所へ戻ると、大西長官が暗い中にひとり立っていた。

 佐多司令と大西長官は向かい合った。異様な雰囲気であった。門司大尉は身をひいた。

 大西長官の低い声が聞こえた。「そんなことで戦(いくさ)ができるか」同時に、大西長官の右の拳が佐多司令の頬に飛んだ。バシッという音がして、佐多司令が一歩よろめいた。

 門司大尉の心臓は、しばられるような痛みを感じた。死地に残る人を殴ったのである。大西長官の声は大声でなく、静かであったが怖いような迫力があった。

 「わかりました」と佐多司令は言った。大西長官は暗い中で佐多司令の顔を見ていたが、くるりと背を向けると滑走路のほうへ歩き始めた。

 二十分後、大西長官以下、門司大尉ら司令部員は真っ暗なクラーク飛行場を飛び立って、台湾に向かった。

 台湾に転出して、高雄近くの山の洞窟の司令部に入った。夜、仕事が終って、くつろいだ。

 そのとき、大西長官は門司大尉に「俺は、クラークの山の中に落下傘で降りたい」と語ったという。

 終戦になり、佐多司令の率いる部隊は生き残り、最後まで軍規正しく、佐多司令は多くの部下を統率し内地に昭和20年10月、帰還した。佐多司令は昭和45年2月7日、六十八歳で死去した。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、戦場が沖縄に移り、毎日のように鹿屋から特攻機が出撃していたころ、突入寸前の特攻機からの無電に変化が起きた。

 「祖国の悠久を信ず」「われ、敵艦に突入す」に混じって「日本海軍のバカヤロ」「お母さん、サヨナラ」という電文が送られてくるようになった。このような電文を非難したり、低い価値観でみることはできない。人間の真実だからだ。

 鈴木貫太郎内閣が成立したのは昭和20年4月7日で大西中将が小沢治三郎中将の後任として軍令部次長に親補されたのは4月19日だった。

 大西中将は神奈川県日吉の連合艦隊司令部に豊田副武長官を訪ねた。台湾にもどる副官の門司少佐は、そこで大西中将と別れを告げた。

 「今から台湾に戻ります」「そうか、元気でナ」

 門司少佐が車に乗ろうとすると、大西中将は「握手すると、みんな先に死ぬんでなあ」と言い、握手せずに、車が動き出すまで見送った。その後門司少佐は生還して終戦を迎えた。

107.大西瀧治郎海軍中将(7) 二航艦に続いて、一航艦司令部も台湾に逃げるのか

2008年04月11日 | 大西瀧治郎海軍中将
 かって大西長官が最初の特別攻撃隊を編成したときは「これは外道だ」と言い、今は「これを大愛である」という確信に立っている。

 この二つの矛盾した考えを同時に同所で成立させたものは、はたして何であったろうか。

 命じたものも、命じられたものも、単に破壊のみを見ていたのではない。そこに戦争をしなければならない歴史の必然を認め、その戦闘に従事しなければならない因縁のまにまに、それに徹して「より大いなるもの」を求めていたのであろう、と猪口氏は述べている。

 「丸別冊エキストラ戦史と旅28」(潮書房)に、当時、第一航空艦隊副官・門司親徳海軍主計少佐(東大経済学部出身)が「大西長官、転進せり」と題して寄稿している。

 これによると、連合艦隊司令部から「一航艦の守備範囲を台湾まで広げ、司令部は台湾に転出せよ」との命令電報がフィリピンの第一航空艦隊司令部に届いた。

 昭和20年1月3日、アメリカ軍の大船団がミンダナオ海を西進していることが確認された。敵はフィリピンのリンガエンに上陸をしようとしていた。

 昭和20年1月9日の夜中、第一航空艦隊司令部は大西長官以下幕僚など司令部部員がクラーク中飛行場から迎えの飛行機で台湾に転出することになった。

 門司大尉は大西長官のカバンを持って一緒に車に乗り同行した。夜中にクラーク飛行場に着くと、迎えの飛行機が着いているらしく、盛んに闇の中で試運転の爆音を繰り返していた。

 転出する大西長官以下司令部幕僚は立ったまま、試運転が終るのを待っていた。

 このクラーク飛行場には、フィリピンに残留して、上陸してくる米軍と戦う十六戦区司令の佐多直大海軍大佐がいた。

 佐多司令は指揮官として、残留し、ルソン島西部の山に陣地を築き、立てこもることになっていた。

 大西中将と佐多大佐は海軍兵学校を出て、ともに若くして航空界に身を投じ、航空戦力の発展に尽くしてきた二人だった。二人は太平洋戦争でも命がけで戦ってきた。

 クラーク中飛行場で飛行機の出発を待っている大西長官ら幕僚のところへ、暗い中をススキを分けて、佐多司令が現れた。

 長身の佐多司令は、大西長官と参謀長のところへ近づくと、何か簡単な言葉を取り交わした。

 一航艦の司令部が台湾に転出する経緯を佐多司令は知らなかったのだろう。二航艦に続いて、一航艦司令部も台湾に逃げるのか、この地に一万数千人の地上員を残したまま艦隊長官は出て行ってしまうのか。

 鹿児島県の武家の家訓で育った佐多司令は、口には出さなかったが、そう言いたかったのかもしれない。

 佐多司令はあっけないほど、さっさとその場を去って、自分の防空壕の方へ帰っていった。司令の不満と抵抗的な気持ちが感じられた。

 門司大尉は佐多司令の歩いていく姿を見送りながら、うしろめたい気持ちをひしひしと感じた。

 佐多司令に限らず、このクラークに残る人たちは、みんなそう思うのではないだろうか。

106.大西瀧治郎海軍中将(6) これが大愛であると信ずる。小さい愛にこだわらず、続けてやる

2008年04月04日 | 大西瀧治郎海軍中将
 米内海軍大臣の前で、「サイパン陥落で、海軍が眠りから醒める時期がきましたな。これで、海軍省が空軍省になるきっかけができた」と大西中将は海軍再建について述べた。

 米内海軍大臣は最後まで黙って聞いていた。そして「わかった。おまえ次官をやれ」と言った。

 大西中将はすかさず言い返した。「いや、次官よりも次長(軍令部)にしてください」

 米内海軍大臣は「うん」とうなずいた。米内海軍大臣はこのとき大西中将を次長にしたかったのだが、海軍省内の大艦巨砲主義者が承知しなかった。

 昭和19年10月5日、大西中将はフィリピンに司令部を置く、南西方面艦隊司令部へ転出し、10月20日、第一航空艦隊司令長官に親補された。

 「神風特別攻撃隊の記録」(雪華社)によると、昭和19年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸を開始した。

 10月25日、関行男大尉率いる特別攻撃隊、敷島隊五機がスルアン島北東三〇浬の敵機動部隊に突入、護衛空母セント・ロー沈没、空母カリニン・ベイ、空母キットカンベイ、空母ホワイト・ブレインの三隻に損害を与えた。

 10月27日、その日もフィリピンのルソン島マニラにある第一航空艦隊司令部は敵艦載機の空襲を受けた。「神風特別攻撃隊の記録」(雪華社)の著者、猪口力平氏(元海軍大佐)は当時海軍中佐で第一航空艦隊先任参謀であった。

 司令部が空襲を受けたので、10月17日に着任したばかりの第一航空艦隊司令長官・大西瀧治郎海軍中将と猪口中佐の二人は司令部前庭の防空援体に入った。

 しばらくすると大西長官は「先任参謀」と言った。「城英一郎大佐が、体当たりでなくては駄目だと思うから私を隊長として実行にあたらせてくれ、と再三言ってきたことがある。内地にいたときにはとうていやる気にはなれなかったが、ここに着任して、こうまでやられているのを見ると、自分にもやっとこれをやる決心がついたよ」

 大西長官は顔をまっすぐ前の壁に向けたままである。猪口中佐は黙っていた。外ではバラバラと銃撃の音が聞こえている。

 すると大西長官は続けて「こんなことをせねばならないというのは、日本の作戦指導がいかにまずいか、ということを示しているんだよ」と言った。

 なおも猪口中佐が黙っていると、「なあ、こりゃあね、統率の外道だよ」そうポツンと言った。

 その後、海軍特別攻撃隊は敷島隊に続いて、大和隊、朝日隊、山桜隊が次々と突入した。

 この四隊のあと、引き続いて多数の特攻隊が編成されて出撃して行った。

 このような状況を憂慮した猪口中佐は大西長官に「レイテに敵も上陸して一段落したのですから、体当たり攻撃は止めるべきではないですか?」と言った。

 すると大西長官は「いいや、こんな機材の数や搭乗員の技量では戦闘をやっても、この若い人々はいたずらに敵の餌食となってしまうばかりだ」と言った。

 続けて「部下をして死所をえさしめるのは、主将として大事なことだ。だから自分は、これが大愛であると信ずる。小さい愛にこだわらず、自分はこの際続けてやる」と言い切った。

105.大西瀧治郎海軍中将(5) 君はアメリカと戦争しているのか、日本の海軍と戦っているのか

2008年03月28日 | 大西瀧治郎海軍中将
 「海軍中将・大西瀧治郎」(光人社NF文庫)によると、緒戦の航空撃滅戦に武勲をたてた第十一航空艦隊参謀長の大西少将は昭和17年3月、海軍航空本部総務部長に栄転した。

 その年の5月、国策研究会が、大西少将の歓迎会を兼ねて、大西少将の話を聞く会が開かれた。出席者は朝野の名士や陸海軍の将星多数であった。

 主賓の大西少将は、開会劈頭、すくっと立ち上がると、明快な口調で言った。

 「上は内閣総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、企画院総裁、その他もろもろの長と称する人々は単なる書類ブローカーに過ぎない」

 「こういう人たちは百害あって一利なし、すみやかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから戦艦は即刻たたきこわして、その材料で空軍をつくってもらいたい。海軍は空軍となるべきである」

 それだけ言ってのけると、大西中将は悠然と腰を下ろして、シラケ切った一座を見回し、その反応を確かめるように、唇に薄い笑いを浮かべた。

 大西少将の航空至上、戦艦無用論は、昔からの持論だった。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、昭和18年11月大西中将は軍需省航空兵器総局総務局長に就任した。

 陸海軍が兵器の取り合いをする中、海軍は陸軍に負けない大物を航空兵器総局に送り込んだ。陸軍が送り込んだのは遠藤三郎陸軍中将である。

 ところが大西中将は長官の椅子をさっさと遠藤中将にゆずり、自分は下位の総務局長になった。

 そして遠藤中将に大西中将は言った。「航空機の配分は、遠藤さん、あなたがいいように配分してくださいよ。海軍のバカドモは海軍の飛行機をたくさん作ってくれれば海軍はやる、なんて言っているが、海軍だろうと、陸軍だろうと空は空ですよ。半々でいいじゃないですか。海軍大臣が率いるのを第一航空部隊」

 あとをひきとって遠藤中将が言った。「陸軍のを第二航空部隊としますか」「それでいいハズです」遠藤中将は同調した。

 遠藤中将はこれを文書にして陸軍部内にばらまいた。ところが、早速、東條首相に呼びつけられて「余計な意見をいうな」と叱られた。

 遠藤中将は癪に障ったので、富永次官や秦彦三郎参謀次長に噛み付いた。

 すると秦次長は「君はああいう文章を、敵側に出すとはなにごとか」と怒った。

 そこで遠藤中将は「君はアメリカと戦争しているのか、日本の海軍と戦っているのか」と尋ねた。それほど日本の陸海軍はひどい対立だった。

 ところが、大西中将は陸軍がどうの、海軍がどうのと、一度も口にしたことが無かったという。

 昭和19年7月22日、軍需省航空兵器総局総務局長の大西中将は米内光政海軍大臣の官邸を訪ねた。

 大西中将は大きな巻紙と太い筆を持ってきた。それを米内海軍大臣の前で広げると、筆にたっぷり墨をふくませて「海軍再建」と巻紙一杯に書いた。

104.大西瀧治郎海軍中将(4)山口少将は盃を投げつけ、徳利をつかんで大西少将に打ちかかった

2008年03月21日 | 大西瀧治郎海軍中将
 その日、横須賀の料亭で飲んでいたが、新田大尉は大西大佐が日頃の言動からすれば決起した青年将校に少しは共鳴すると思ったのに、かえって訓戒的態度をとったのは甚だおもしろくないと言い出した。

 新田大尉は居合わせた大西大佐に「あなたの血は赤誠の赤い血ではなく灰色に濁った血だ」とからみ始めた。

 すると大西大佐は「この野郎、灰色の血か赤い血か見せてやる」と新田大尉につかみかかり、大佐と大尉は四つに組んだまま階段から転がり落ちた。

 その後、昭和12年8月、新田大尉は渡洋爆撃に参加、爆撃隊長として不帰の客となった。大西大佐は通夜の席に駆けつけ、新田大尉の写真の前に一睡もせずに端座し続けた。

 それから七年後、大西海軍中将は軍需省航空兵器総務局次長として、朝日講堂で「血闘の前線に応えん」という講演を行なっているが、この中で「美談のある戦争はいけない」と述べている。

 「だいたい非常に勇ましい挿話がたくさんあるようなのは決して戦いがうまくいっていないことを証明しているようなものである」

 「たとえば、足利・北条が楠木正成に対して、事実は勝った場合がそれである。足利や北条の方には目ざましい武勇伝なり、挿話なりというものはなくて、かえって楠木方に後世に伝わる数多い悲壮な武勇伝がある」

 「だから勇ましい新聞種が沢山できるということは、戦局からいって決して喜ぶべきことではない」などと話した。

 昭和15年重慶に入った蒋介石軍に対して、第一、第二および南支連合航空隊が合同して一挙に攻撃することになった。

 各航空隊の司令官が漢口に集まり、曙荘というクラブで飲んだ。山口多門少将、大西瀧治郎少将、寺岡謹平少将、それに特務機関長の左近直允少将である。いずれも海軍兵学校の同期生である。

 先任の山口多門が中央から司令を受けているので「重慶爆撃は各国大使館もあることだし、慎重にやらないといかんぜ」と念を押した。

 これが大西少将の癇に触った。「なにをいうか、日本は今戦争をしているんだ。イギリスだって、ヨーロッパで負けかかっているではないか。アメリカも戦争に文句はあるまい。絨毯爆撃で結構だ」と言った。

 山口少将は「大西、馬鹿なことをいうんじゃない」と応じた。

 すると大西少将は「ふん、へっぴり腰。だいいち貴様のところのあの飛行機はなんだ。古くてガタガタじゃないか」

 そう言ったとたんに山口少将は盃を投げつけ、徳利をつかんで大西少将に打ちかかった。寺岡少将と左近少将が止めようとしたが、二人は取っ組み合いの大喧嘩になった。

 そのあと二人はなんとか和解をしてまた飲みなおした。山口少将は「おれも徹底的に叩きたいのだが、中央が重慶は慎重にやれというんだ」と告白すると、大西少将が「それが戦争だよな、山口」と言って、酒を飲み続けた。

103.大西瀧治郎海軍中将(3) だから緒戦の奇襲攻撃はやってはならない

2008年03月14日 | 大西瀧治郎海軍中将
 艦隊派は加藤寛治大将(海兵十八期)、末次信正大将(海兵二十七期)を中心として艦隊決戦を考えている派で、大西大佐の戦艦無用論の反対の派であった。その二人の大将が担ぎ上げておられるのが、軍令部総長の宮殿下であった。

 その後昭和13年4月、吉岡大尉は台湾嘉義の陸軍練兵場で爆弾投下の研究をやっていた。大西大佐がわざわざその研究を見に来た。

 そのとき大西大佐は「僕はね、海軍をやめることは、何とも無かった。しかし、君たちを辞めさすことは絶対にやってはならぬと思ったから、何も言わなかった。私の考えは今も全く変わっていないよ」

 「私の具申は通らなかった。そして叱られたよ。注意を受けたよ。大和は呉、武蔵は長崎で絶対秘密として建造しているよ」と言った。

 「丸別冊・回想の将軍・提督」(潮書房)の「日本の敗戦を予言した大西瀧治郎中将」によると、昭和16年9月29日、第一航空艦隊と第十一航空艦隊両司令部の、ハワイ奇襲攻撃実施の可否についての合同会議が鹿屋航空隊で開催された。

 第一航空艦隊は司令長官が南雲忠一中将(海兵三十六期)、参謀長が草鹿龍之介少将(海兵四十一期)、第十一航空艦隊は陸上航空部隊群で、司令長官が塚原二四三中将(海兵三十六期)、参謀長が大西瀧治郎少将(海兵四十期)であった。

 この会議ではハワイ奇襲攻撃に幕僚全員が反対であった。大西参謀長は山本五十六連合艦隊司令長官が最初にハワイ奇襲について密かに相談した人物である。

 だが、その会議で大西参謀長が発言した。全員固唾を呑んで聞いた。

 大西参謀長は「わしはねえ」と関西弁丸出しで話を始めた。「米国との戦争でハドソン川で日本海軍が観艦式はできないから、どうしても途中で講和を結ぶことを考えなくてはならない」。これは日本は負けるということであった。

 「講和を結ぼうとするとき、日本が米本土にも等しいハワイ奇襲攻撃をやると、米国の世論が硬化して絶対に和を結ぶことを聞いてくれない。だから緒戦の奇襲攻撃はやってはならない」

 この会議で、両司令長官もハワイ奇襲攻撃に反対した。10月2日、両参謀長と源田実、吉岡少佐の四人は両司令長官の反対の意を持って、柱島停泊中の長門に行って山本五十六長官に進言した。

 山本長官は固い決意で言った。「君らがやらないのなら、わしが行く」と。

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、昭和11年の2.26事件のとき、大西海軍大佐は横須賀海軍航空隊副長兼教頭の職にあった。

 大西大佐は部下が青年将校に同調の色を見せる者があると、殴り飛ばして訓戒を与えた。

 後日、大西の訓戒的態度がおもしろくないと、新田慎一大尉が食ってかかった。新田大尉は大西大佐が日頃目をかけていた飛行機乗りだった。

102.大西瀧治郎海軍中将(2)大和、武蔵はまったく無用の長物だ。ウドの大木だ

2008年03月07日 | 大西瀧治郎海軍中将
 軍令部が戦艦大和を建造することを決定した昭和10年頃、大西大佐は軍令部の第二部に座り込み、部長の古賀峯一少将に食い下がったことがある。

 「今日、戦艦を新造することは、自動車の時代に八頭建ての馬車を作るようなものだ。だいいち、税金を納める国民に申し訳が立つまい」と主張した。

 古賀少将は「大国の皇帝ともなれば、新しい八頭建ての馬車一台も必要だろう」と応酬した。

 大西大佐は「それなら四頭建ての建ての馬車一台にしたらどうですか。大和、武蔵の一方を廃して、かつその排水量を五万トン以下にすれば、その余力で空母三隻ができるのです」と熱烈に提言した。

 だが古賀少将はそれでも首を縦に振らなかった。

 「丸別冊・回想の将軍・提督」(潮書房)に元第二十六航空戦隊先任参謀・海軍中佐の吉岡忠一氏(海兵五十七期)が「日本の敗戦を予言した大西瀧治郎中将」と題して寄稿している。

 昭和12年4月9日、吉岡大尉は横須賀海軍航空隊高等科飛行学生に選ばれ、航空戦術を勉強していた。

 そこへ突然、大西瀧治郎航空本部総務部長から電話があり、「明日10日午後、話したいことがあるから、君のクラスの飛行機の者数名と東京芝水交社に来てくれ。こちらは、海軍大学の安延多計夫(海兵五十一期)と源田実(海兵五十二期)を呼んでおく」と呼び出しが掛かった。

 4月10日、吉岡大尉ら八名は水交社に集まった。大西大佐は出席者を鋭い眼で睨むように話し始めた。

 「わが国の想定敵国は米国である。わが海軍の作戦思想は『逸を以て労を迎え討つ』との邀撃作戦で、明治三十八年日本海海戦いらい昭和十二年現時点まで、まったく変わっていない」

 「この時期に軍令部や海軍省の偉い方が、大学出(海軍大学校出身者)の兵隊さんたちの意見により密かに排水量七万トンの大和、武蔵の建造を計画し、いよいよ予算を取り実行に移そうと言っている」

 「私は大至急この計画を中止するように意見具申する。これが日本のためにいちばん大事なことと信ずる。国のために命を張ってやる」

 「大和、武蔵はまったく無用の長物だ。ウドの大木だ。一隻の建造費は二億円かかる。二隻で約四億円だ。四億円あれば何ができるか。鹿屋の飛行場、あの大飛行場をつくるのに五百万円かかる。難攻不落の対空防御砲火を設備して約一千万円」

 「二億円あれば二十箇所の飛行場ができる。あと二億円あれば新鋭の戦闘機と爆撃機を各飛行場に展開できる」

 「今、無用の不沈戦艦を建造するのをやめて、航空軍備の充実に努めることをやらなければ、米国との戦争は必ず負ける」

 大西大佐はそう言って話を締めくくった。吉岡大尉ら一同は感謝感激して解散した。

 ところが十日後、吉岡大尉は突然、横須賀航空隊司令・杉山俊亮少将(海兵三十五期)から呼び出しを受けた。そして厳重注意を受けた。

 「軍令部総長の宮殿下の厳命である。今後、海軍軍備の問題を口にしないように。君は惜しい人間である。しかし、この問題を口にするようなことがあったら、海軍をやめてもらう。ほかの者にも君から伝えておくように」

101.大西瀧治郎海軍中将(1) 大西は無法者の自由な生き方に憧れていた

2008年02月29日 | 大西瀧治郎海軍中将
 「特攻長官・大西瀧治郎」(徳間文庫)によると、大正13年、大西大尉は海軍大学校甲種学生を受験した。前年不合格で二回目だった。海軍大学校は採用員数は二十名、修業年限は二ヵ年である。

 このとき一緒に受験した同期の福留繁は次のように語っている。

 「大西も私も兵学校第四十期の同クラスであるが、大尉の最終六年目に海大を受験することになった。筆答試験に合格して、9月4日、5日の両日にわたる口頭試問に召集された」

 「二日目の口頭試問を待つ控え室にいると、突然学校の副官が現れて、大西君ちょっと、といって連れ出した。それっきり帰って来ないで次番の私が呼び出された」

 「後で、受験候補者から削除され、その場から帰されたのだとわかった」

 「特攻の思想 大西瀧治郎伝」(文藝春秋)によると、海軍大学校受験の二、三日前、大西大尉は部下を連れて横須賀の料亭にあがったが、座敷に呼んだ芸者のうち、ぽん太というのが始終ふくれ面をしていた。

 大西大尉はそれを見咎めて「芸者というものは座敷に出たら愛想良くするものだ。それが商売だぞ」と言った。

 ところがぽん太はいよいよ不愉快な空気をつくる。たまりかねた大西大尉が「しっかりせい」とぽん太の頬を打った。

 ぽん太は憤然として席を立ち、市内に住む兄に殴られたことを告げた。その兄は渡世人だった。新聞記者に妹が殴られたことを告げた。

 「海軍軍人・料亭で芸妓に乱暴」といった調子の記事が紙面にでかでかと載った。その新聞の出た日が大西大尉の受験日だった。それにより試験官は「受験資格なし」と判断した。

 しかし大西大尉は海大失格をさほど気にしていなかった。ケロッとしていたという。

 「特攻長官・大西瀧治郎」(徳間文庫)によると、大西瀧治郎と山本五十六がポーカーを始めると、正反対の性格が現われるという。

 山本五十六は口の中でぶつぶつ言いながら「ああそういうことをされてはかなわんな」と泣き続け、負けが込んでくると「きょうはどうも勘が冴えていないんだ」と始終泣きを入れる。負ければ負けたで、金を払うとケロッとしてしまうそうだ。

 大西瀧治郎の方はその反対で、始終むっと押し黙ったまま、壮烈な手を打ってくる。勝ちに乗ずると、手がつけられないくらい激しい勝負に出る。

 そのかわり負けだすと、下唇を突き出し、うなり声を上げて攻勢に転ずるキッカケをつくろうとする。ついに負けて金を払う段になると「こんど、また、やりましょう」と凄い目でにらむという。

 また大西が「おれは海軍をやめたら博徒になる」と言ったのは、東京市内の麻雀大会に優勝して大阪の全国大会に出場する資格を得たときだった。

 しかし、現役の中佐(当時)がそういうことも出来ないので、偽名のまま出場していたのを幸い、優勝を棄権してしまった。大西は無法者の自由な生き方に憧れていたと言われている。


<大西瀧治郎海軍中将プロフィル>

明治24年6月2日、兵庫県氷上郡芦田村(現在は丹波市)に父亀吉、母うたの第三子として生まれる。

明治45年7月海軍兵学校(40期)卒。144人中20番。

大正2年12月海軍少尉。

大正3年8月対ドイツ開戦により戦役に従軍。12月海軍砲術学校。

大正4年5月海軍水雷学校。11月海軍中尉。12月水上機母艦「若宮」乗組み。

大正5年4月横須賀航空隊勤務。飛行演習で「若宮」乗組み。

大正7年11月英仏出張。12月海軍大尉。

大正8年5月英空軍飛行隊入隊。

大正10年8月横須賀海軍航空隊付。9月海軍航空隊教官。

大正11年11月霞ヶ浦航空隊教官兼務。

大正13年12月海軍少佐。

大正15年2月佐世保海軍航空隊飛行隊長。

昭和2年12月連合艦隊参謀。

昭和3年11月「鳳翔」飛行長。

昭和4年11月、航空本部教育部員、海軍中佐。

昭和5年8月海軍技術会議員。

昭和6年12月海軍省教育局。

昭和7年2月第三艦隊参謀。11月「加賀」副長。

昭和8年10月佐世保海軍航空隊司令、11月海軍大佐。

昭和9年11月横須賀海軍航空隊副長兼教頭。

昭和11年4月海軍航空本部教育部長。

昭和14年10月第二連合航空隊司令官。11月海軍少将。

昭和15年11月第一連合航空隊司令官。

昭和16年1月第十一航空艦隊参謀長。

昭和17年3月海軍航空本部総務部長。

昭和18年5月海軍中将。11月軍需省航空兵器総局総務局長。

昭和19年10月第一航空艦隊司令長官。

昭和20年5月軍令部次長。8月16日死去(自刃)。