陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

28.高木惣吉海軍少将(8) 海軍軍人の妻になるより、小商人のカミさんで帳場に座った方が遥かに幸福だ

2006年09月29日 | 高木惣吉海軍少将
第一次世界大戦から十年を経た、その頃のパリの書店は戦記や戦史の洪水だった。フランス海軍出身の著者はA・トマジ大佐や、ポール・ジャック中佐が健筆を振るっていた。

 高木少佐は紹介されて、ポール・ジャック夫人と昼の食卓を囲んだ。高木が海軍士官だと聞くと、ジャック夫人は押さえていた不満を爆発させた。

 ジャック夫人は「ポールは陸上勤務ばかりなので、同期のロベール、ドルージョンは少将、他の級友はみんな大佐なのに、彼だけは中佐の最古参で足踏み。それはまだしも、海戦に関して色々書き並べるが、ただ事実を美化しているだけです」と高木に言った。

 さらに「ポール自身の史観はなにもない。何か解明しようとすることや、所見らしいもので妻の私を納得させたものは一つもありません。その真意が私には分かりません」とも。

 またジャック夫人は「表面は平和な結婚生活のように見えるかもしれませんが、私は心の底では寂しい。悲しい思いに明け暮れています。結婚の時、若し海軍生活が気に入らなければ、退役してシビルの仕事に移ってもいいと約束しておきながら、その後そのことに触れるのを避けている」と高木に話した。
 
 さらに「海軍士官の妻がどんなにさみしい、悲しい生活を送っているか男の方には分からないでしょう。軍人はオメール(名誉)に生きるといいますが、その名誉がどこにありますか」と言った。

 さらに続けてジャック夫人は「ポールは始終留守ばかり。私達は労働者にも劣る不自由な生活をしながら、夜も昼も、夫の身を案じて過ごさねばなりません。こんな馬鹿らしい生活が何処にありますか!」と言い放った。

 ジャック夫人は、「海軍軍人の妻になるより、小商人のカミさんで帳場に座った方が遥かに幸福だ」と高木にまくしたてたという。

 「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、昭和六年、高木少佐が大臣秘書官のころ、山本五十六と堀悌吉の思い出を記している。

 山本少将はロンドン軍縮会議から帰朝してまもなく、ぶらっと秘書官室に来て、「オイ秘書官、四、五人入れる部屋を見つけてくれんか」と高木少佐に気の毒そうな口ぶりでたのまれた。

 だが、省内に空いた部屋などは、会議室以外になかったので、高木は返事に戸惑っていた。

 すると、横あいから堀悌吉軍務局長が「お前さん、話が下手だよ、俺が代わる!」と例の早口で、「こんど航空技術廠の設立準備委員を集めるから、その事務室を、どこでもいいから大至急さがしてくれ」というのであった。

 高木少佐はおおいに弱ったが、結局地下室みたいな換気の悪い所に枝原百合一少将を委員長とする準備委員会ができた。

 単なるアイデアではなく、具体的方策に乗り出して航空本位の海軍軍備を考えていたのは山本少将が一番乗りだったという。

 昭和八年十一月十五日高木中佐は海軍大学校教官を拝命する。昭和十一年、海軍大学校第三十三期学生卒業式前に不愉快な問題が起こった。

 卒業生席決定の直前、教官の高木中佐は教頭の沢本少将によばれた。「卒業成績の仮順序は、樋端、榎尾、T少佐の順だが、校長は人物その他を考慮した結果、二番と三番の順序をいれかえたい意向である。ついては榎尾、T学生の軍政の点数を入れ替えてもらえないか」と言われた。

 しかし高木中佐は井上継松校長の動機がまことに不純きわまることを知っていた。

 十年秋の演習で、井上校長は赤軍戦隊の司令官をつとめたが、審判官の1人であった榎尾少佐に研究会でその戦術行動の失敗と思われる点を突かれた。

 審判官がもし情実を差し挟んでえこの審判や批判をしたらそれこそ海軍の堕落である。榎尾少佐があえて校長の指揮を批判したのはほめてやるべきである。

 ところが狭量な校長は恨みを恩賜の軍刀とりあげで報いようと企てた。

 高木中佐は沢本教頭の要望を即座に断った。相当長い押し問答の末、教頭も校則によって採点の資格があると言い出した。

 結局フタを開けてみると、卒業生席は樋端、T少佐、榎尾の順で発表された。榎尾少佐は恩賜の軍刀をもらえなかった。




27.高木惣吉海軍少将(7) 君、海大教官なんて、チットも学生よりえらくないんだヨ

2006年09月22日 | 高木惣吉海軍少将
「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、大正十四年十二月一日、海軍大学校に甲種学生(二十五期)として入校した。

 高木大尉は海軍兵学校と違ってようやく講義らしい講義が受けられて嬉しかった。

 しかし、例外もあった。例えば、憲法総論の上杉慎吉博士。天才的な学者と聞いていたが、三十過ぎた学生に、小馬鹿にした幼稚拙な比喩、天皇神権説の粗雑な憲法講義には高木大尉のクラスでは耳を傾け者は少なかった。

 上杉慎吉博士は当時有名な憲法学者だった。ある朝、連日のレポート提出で徹夜組が多かったのか、授業中大半が居眠りしてしまった。海軍大学校のエリート学生でも居眠りはする。

 すると憤激した上杉博士は、「私の講義にたいして、失敬な!」とどなりながら、持っていたムチがコナゴナになるまで叩き続け席を蹴って退席してしまった。

 高木を含めた最前席の四名は、眠っていなかったのだが、何で博士が怒りだしたか訳が分からず、居眠りしていた学生もびっくり目をさましてポカン、博士が退席してから大笑いになったという。

 高名な学者にしては、粗雑な憲法講義というように、学生は思った。

 あとで詫びをいったらというハト派学生もいたが、徳永学生長が「ほっとけ、あんなくだらぬ講義をして増長している。詫びることなんかない!」と一喝して、皆それに賛成した。

 高木大尉は海軍大学校を昭和二年十一月二十五日卒業した。首席で卒業し恩賜の長剣を拝受した。

 だが高木は次のように記している。「死ぬまで海軍兵学校の成績と士官名簿の順位に金縛りされていた旧帝国海軍では、自分のように海軍兵学校の成績がマアマアという程度で、恩賜の長剣をもらったりすると、目のかたきにして足を引っ張る傾向があった」と。

 高木が昭和二年十二月一日海軍少佐に昇進し、フランス駐在を命ぜられて、海兵四十八期のトップ、小野田捨次郎大尉がいっしょにフランス駐在となった時の送別会でも、そのような場面があった。

 送別会の時、誰かが「小野田大尉はトップだから、海大なんか行かない前に洋行ができる。高木さんは海大の恩賜をもらって洋行。海兵の優等生はたいしたものですね」と大声で放言していた。全くその通りであった、と高木は思ったという。

 「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、パリの大使館に着いた高木少佐は三階の武官室に武官の古賀峯一大佐(後の連合艦隊司令長官)に挨拶に行った。

 古賀大佐は、「三十五?いまそんなに進級が遅いか?三十過ぎての語学は難しいよ。寺本君(海大教官)からG・ローランに会わせてくれと紹介状に書いてあったが、語学が出来なくて人に会ってもしょうがない。戦略・戦術なんか、頭においちゃダメだ。本なんか帰朝してからでもいくらでも読める」と高木少佐の期待していたことはあっさり駄目になった。

 高木少佐は「たとえ通訳を入れてもフランス海軍で著名な兵学研究家に会わせることも立派な教育の一つ」と考えたが、赴任早々古賀大佐と論争をする余裕もなかった。

 パリを見学後の昭和三年三月三日、高木少佐の尊敬する海軍大学校の黒川教官の急逝を知った。

 卒業前の教官と学生の宴会で黒川教官は高木に「君、海大教官なんて、チットも学生よりえらくないんだヨ。買いかぶるな」と言って笑われた。たびたび質問で黒川教官をわずらわした高木は、胸迫る思いにたえなかった。





26.高木惣吉海軍少将(6) 場合によっては副長だろうとなんだろうと、そのままでは、おかぬぞ

2006年09月15日 | 高木惣吉海軍少将
午前十時ころ、航海士の青山少尉を呼んで聞くと、まだ浅瀬が見つからず、ユデダコのようになった重松艦長が、当直将校などのけ者にして、さかんに面舵、取り舵でグルグルまわりしているという。

 高木大尉は、言わないことか、六時間はたっぷり遅れたと思いながら、いま少し探させたがいいとそのままにした。

 正午近くになり、高木大尉が艦橋に出ると、さすがの気象艦長もシャッポを脱いで「航海長、天測をたのむ!」「はあ、そのつもりで来ました」。

 一、二回の天測で正確な位置線がすうっと出た。高木大尉が「面舵十五度」「針路南七十度西」と操舵員に命じると、その方向に七、八分走ったら、早瀬のように白波を立てた浅瀬が見えた。高木大尉は「溜飲が音をたてて、一度にさがった気がした」という。

 それから、二ヵ月後に退艦するまで、重松艦長は高木大尉の航法や艦位には一切文句をつけなくなった。

 しかし、親切で温厚な重松艦長に意地悪をやったのは気がとがめ、高木大尉が艦長室にお詫びに行ったら、あべこべに向こうから謝られて恐縮した。

 この測量艦「満州」でも、高木大尉は副長運が悪かった。
事の起こりは、副長の児井勲少佐が石炭積に勝手に高木航海長の部下の信号員をかりだした。

 内規では信号部員は石炭積みを免除されていた。航海士が高木に副長が信号部員を使っていると訴えてきたのである。

 これはT機関長の要請に副長が応じたものだった。このT機関長は大シケの時、盛んに艦長、航海長の措置を非難していたので、高木はなお頭にきた。

 その晩、食卓で、艦長以下士官のいる前で、内規を無視した副長にかみつき、「場合によっては副長だろうとなんだろうと、そのままでは、おかぬぞ」と詰め寄った。

 高木の様子が余りに激しかったので重松艦長が仲に入り内規と違った例外措置は、あらかじめ航海長の了解が必要ということで落着した。だが高木は腹の虫が納まらなかった。

 高木大尉は海軍大学甲種学生の口頭試験に出るため「満州」を退艦することになり、副長も一緒のランチで上陸した。

 桟橋までの雑談中に副長が「航海長、本省にいったら、いままでのように威張るなよ」と言ったから、高木大尉は、野郎なにをぬかすかと思い、「威張ったのは副長でしょう。私はまちがった仕打ちをする奴には、相手が大臣だろうと楯突きます!」と言い返した。

 後年、高木はこの時のことを「しみじみ私という人間はどこまで天の邪鬼に生まれついた者かと思えてならない」と述懐している。



25.高木惣吉海軍少将(5) イカン、君はそれが欠点だ!人生に波も風もない一生なんてあるもんじゃない

2006年09月08日 | 高木惣吉海軍少将
大正八年十二月一日海軍砲術学校普通科学生、その六ヵ月後に海軍水雷学校普通科学生となった高木中尉は海軍兵学校の蒸し返しのような水雷兵器の暗記と、初歩的射法の座学にうんざりしてしまった。

 人生を出直すとすれば二十七歳の今が思い切りをつける最後の時期と考え、当時日本一と評判された芝神明町の観相の大家、石竜子を訪ねた。

 穴のあくほど高木の顔をにらんでいた石竜子は「イカン、君はそれが欠点だ!人生に波も風もない一生なんてあるもんじゃない。冬の次には春が来る。夜明け前は一番暗いぞ。バカなことは考えないで、帰ったほうがいい!」と言われ、すごすごと横須賀へ帰った。

 大正十年夏、専門の兵科を決める高等科学生の入試となった。二道かけるのが嫌いな高木中尉は第一志望砲術、とそれだけ書いて提出した。

 すると、庶務係の主計少尉が「第二志望、第三志望も書くことになっています」と言うから、「アア、適当に書いといて」とうっかり口をすべらした。ところが、その主計少尉は高木の一番嫌いな航海を第二志望の欄に書き込んだ。

 それで海軍大学航海学生に採用された。その結果、高木中尉は一番嫌いな専門の航海に引きずり込まれ、駆逐艦や測量艦の航海長になり、骨まで痩せる思いをしなければならなかった。

 「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、高木は大正十一年十一月、駆逐艦「帆風」の航海長に任命された。

 十二月、高木は二十九歳で結婚した。最初は、M氏の仲人で横須賀県立高女校長の令嬢と見合いをし、一目ぼれで、欲しくてたまらなかったが、質問された事をバカ正直にズバズバ答えておじゃんになった。

 次の見合いの相手が横須賀高女出身の良家の娘で理知的で寂しげな感じの人だったという。

 帰り道にM氏が「君、イエスかノーか」と山下将軍のように迫るので「お願いします」と返事した。

 ところが、それから夏も過ぎようとするのに、向こうの返事は梨のつぶて。高木は今度もヒジテツを喰ったかと思うと、男がすたると、ヤケクソ気味で「この話は解消したいと」M氏に伝えた。

 すると一杯きげんで東京の高木の下宿に押しかけてきたM氏は、「女は亭主次第で一生の運命が決まる。右向け右式に即答が出来るか」とどやしあげた。後にこの女性と高木は結婚した。

 大正十三年十二月一日、高木大尉は測量艦「満州」の航海長に任命された。艦長は東京帝大で気象学を専攻した重松良一中佐だった。

 熱帯医学、海洋学の学者を多数乗せて十四年四月出港した。ウルシーからヤップ島、パラオ諸島から南の赤道近くまで観測航海をやり、バシー海峡に入り、台湾北東の三紹角に向かった。

 その南東方の浅瀬にたどり着く航路のことで高木大尉と重松艦長は大衝突をした。

 重松艦長は「四ノットの微速で直行すれば夜明けに浅瀬に着くと」言った。

 航海長である高木大尉は、「海流が一ないし二ノットと海図に書いてあっても、それは年間の平均の流速で、季節や天候などで変化がある」と言った。

 さらに高木は、「微速でノロノロ行くと風潮の影響が大きくなり正確に目標を発見できない。それより三角形の二辺を走る形で、鼻頭角の灯台に向かって直進し、灯台の光が見えたら、艦位を確定して南に下れば明け方に浅瀬を発見できる」と主張した。

 だが高木大尉がいくら説明しても重松艦長は承知しない。
シャクにさわったが、重松艦長のいうとおりに修正航路を定めた。

 翌朝になってみると、案の定、浅瀬は姿も見せず、あいにくの曇り空のため星で天測位置もだせない。高木大尉は「すこし山船頭を教育してやれ」と思い私室に狸寝入りして艦橋に上らなかった。



24.高木惣吉海軍少将(4) 「こいつはツンボか!」と副長がひとりで焦がれていた

2006年09月01日 | 高木惣吉海軍少将
海軍兵学校四十三期の高木は三号生徒の時、一年間にらまれ、なぐられた四十一期には数々の恨みがあるが、四十三期は前田稔、松永貞一、草鹿龍之介、田中頼三、木村昌福、市丸利之助など勇名を馳せた提督も少なくなかったという。

 「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、大正四年十二月十六日、高木は海軍兵学校(四十三期)を卒業し、「磐手」に配乗され遠洋航海(豪州、ニュージーランド)に出た時、修道院に近い海兵の生活から抜け出し、やれやれ海に出られた、という開放感をおぼえたが、それもたちまち失望の淵に突き落とされた。

 艦上の実習も航海科の天測ぐらいが気の効いた方で、あとは、水兵さんと同じ甲板洗いのまねごとや、当直のけいこ、朝起きるとハンモックを大慌てにくくって格納所にかつぎこむなど、高木にはバカ臭くて他の同僚のようにハツラツとした気分でやれなかった。

 ある朝、一番遅れてハンモックをかついで上甲板にでると、ハッチのわきに両手を腰にかまえて見張っていた永野副長にどなられ、そのまま甲板をハンモックをかついで駆け足で一周させられた。

 水兵に笑われながら走り屈辱感が身に染みたという。高木は「このような指導法が指揮官養成の正道か邪道か問題である」としている。

  高木は遠洋航海終了後、軍艦「安芸」に乗組んだ。この艦の三上良忠副長の意地悪さは高木にとって忘れられないものとなった。

 水兵、士官の区別なくどなりまわし、陰では副長と呼ばないで「悪忠」と」呼ばれていた。

 ある日副直に立っていると艦橋の信号兵が大声で「副直将校、軍艦〇〇が入港します!」とトテツもない大声で報告した。

 びくびくもので副直に立っていたためと、遠洋航海いらいのノイローゼ気味だったのか「副長、〇〇艦が入港します!」と後甲板にいた副長に報告した。

 そのとたん「バカ!〇〇艦なんて海軍用語があるか!」とどなられ、高木は「この副長には最初から落第、この副長には同期生六名のうち最低の考課表だっただろう」と述べている。つくずく副長運の悪い高木だった。

 大正六年十二月一日、高木は機関学校の練習艦「千歳」に乗組んだ。高木は艦長や分隊長は尊敬できたが我慢のならないのは、この艦の副長古賀琢一中佐だった。

 自慢げに天保銭(海軍大学校卒業徽章)をつけているのはいいとして、病的と思えるほどの神経質の怒りんぼうだった。

 号令の言葉尻や取次ぎのタイミングが悪いとか、愚にもつかぬことに頬の筋肉をけいれんさせてクドクド怒鳴るのが毎日の事で、高木などぺいぺいの少尉はさんざんであった。

 同期の矢野少尉は機転が利いて可愛がられたが、高木は反骨ばかりが強すぎ、古賀副長が怒りだすと「安芸」の三上副長で鍛えられた「聞こえぬふり」をしてソッポを向いてそらとぼけていると、「こいつはツンボか!」と副長がひとりで焦がれていたという。