乗員の中には、「パンばかりで、いやじゃ」などと、ブツブツ言う者が多くいたが、結局病気になるよりはいいということで、騒動までは起きなかった。
また、山本副長は、艦内の厨房を改良するために、英国人のコック長とコックを雇い、「浪速」に乗艦させた。コック長は日本に着いた後、横須賀鎮守府に雇用され、日本人に西洋料理を教えた。
明治十九年三月二十八日、二隻の曳船に曳航され、最新鋭巡洋艦「浪速」は、ニューカッスルからタイン川を下り、北海に出た。以後、日本海軍将兵だけにより、日本へ向けて航海した。
「浪速」の水雷長は、伊集院五郎(いじゅういん・ごろう)大尉(鹿児島・海軍兵学寮・西南戦争・英国海軍兵学校卒・英国王立海軍大学卒・中尉・「浪速」「高千穂」「畝傍」三艦武器監督・大尉・最新鋭巡洋艦「浪速」水雷長・参謀本部海軍部第一局課員・防護巡洋艦「千代田」回航委員・英国出張・少佐・「千代田」副長・常備艦隊参謀・大本営参謀艦・日清戦争・大佐・軍令部第二局長・軍令部第一局長・少将・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・軍令部次長・日露戦争・艦政本部長・第二艦隊司令長官・男爵・連合艦隊司令長官・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・イタリア王国王冠第一等勲章等)だった。
明治十九年五月六日、地中海を東に進んだ「浪速」は、スエズ運河北口のポートサイドに入港、三日間碇泊した。
その碇泊中の時、艦側のカッターにいた伊集院水雷長が、擲弾筒(発煙弾・照明弾に使用する小筒)の弾薬が暴発して、脚部に重傷を負った。
伊集院水雷長は、痛みに屈せず、一人で縄梯子をよじ登ろうとした。それを見た山本副長は、「待て、動くな」と大声をかけ、自分でボートに飛び下り、伊集院水雷長を背負い、艦上に救い上げた。
後に見られる、山本権兵衛と伊集院五郎の絆の強さは、ここにも一因があるようだ。「浪速」は、明治十九年六月二十六日、無事に、日本に帰り、品川沖に到着した。
毎時十九年十月十五日、山本権兵衛少佐は、スループ「天城」艦長に任命された。小なりとも一城の主で、三十四歳だった。
スループ「天城」は、明治十一年四月、横須賀造船所で竣工した。排水量九二六トン、全長六四・三メートル、一軸レシプロ蒸気機関、円罐×2、七二〇馬力、速力十一ノット、一七センチ砲一門、一二センチ砲二門、乗組員一五九名という国産の木造船で、船材の産出地である伊豆の山の名「天城」が命名された。
スループ「天城」の任務は、朝鮮情勢を把握することと、在留邦人の保護だった。
仁川に入港し、京城に出かけた、山本権兵衛少佐は、清国代表として京城に駐在している袁世凱を、清国公使館に訪ねた。
袁世凱は、癖のある人物で、各国の官吏が訪ねてくると、文官に対しては、自分は一介の武弁(武人)だと言い、武官に対しては、自分は文事のこと以外は関係ないと言って、はぐらかして、相手にしなかった。
山本少佐は、そういう袁世凱の人物を噂に聞いて知っていたので、「訪ねて、袁世凱がどのような態度に出るか、ともかく会って、情報を交換することは、日清両海軍の交際上、何か役に立つだろう」と考えたのだ。
山本少佐が、取次の者に名刺を渡すと、思いがけなく、袁世凱が自ら玄関に出てきて丁重に迎え、客室に招き入れ、わざわざ訪ねてきてくれたことに厚く礼を述べ、至れり尽くせりの歓待をした。
普通の者なら、清国代表の袁世凱を訪問するだけでも気が引けるのだが、山本少佐はこの場に来てもいたって平気で、ヒゲをモジャモジャ生やし、虎のような眼をランランと光らせた鍾馗のような顔で次の様にズバリと言った。
「お見受けしましたところ、あなたはお顔が大変蒼い。宮廷美人を寵愛されているという噂ですが、そのためですかな」。
事実、袁世凱は韓国王から後宮の美姫を与えられ、満悦に思っていたので、奇襲された袁世凱は、答えに窮した。
すると、山本少佐は、続けて、「東洋の平和を双肩に担おうとするあなたが、そのようなことではいけません。ぜひ自重してください」とズケズケ言った。
袁世凱は、笑ってうなずいただけだった。
続いて、山本少佐は、列国の大勢、外交、制度、教育、科学技術等について、熱弁をふるい、「日清両国は固く提携して、列強の侵入を防がなければなりません」と締めくくった。
また、山本副長は、艦内の厨房を改良するために、英国人のコック長とコックを雇い、「浪速」に乗艦させた。コック長は日本に着いた後、横須賀鎮守府に雇用され、日本人に西洋料理を教えた。
明治十九年三月二十八日、二隻の曳船に曳航され、最新鋭巡洋艦「浪速」は、ニューカッスルからタイン川を下り、北海に出た。以後、日本海軍将兵だけにより、日本へ向けて航海した。
「浪速」の水雷長は、伊集院五郎(いじゅういん・ごろう)大尉(鹿児島・海軍兵学寮・西南戦争・英国海軍兵学校卒・英国王立海軍大学卒・中尉・「浪速」「高千穂」「畝傍」三艦武器監督・大尉・最新鋭巡洋艦「浪速」水雷長・参謀本部海軍部第一局課員・防護巡洋艦「千代田」回航委員・英国出張・少佐・「千代田」副長・常備艦隊参謀・大本営参謀艦・日清戦争・大佐・軍令部第二局長・軍令部第一局長・少将・軍令部次長・常備艦隊司令官・中将・軍令部次長・日露戦争・艦政本部長・第二艦隊司令長官・男爵・連合艦隊司令長官・軍令部長・大将・軍事参議官・元帥・男爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・イタリア王国王冠第一等勲章等)だった。
明治十九年五月六日、地中海を東に進んだ「浪速」は、スエズ運河北口のポートサイドに入港、三日間碇泊した。
その碇泊中の時、艦側のカッターにいた伊集院水雷長が、擲弾筒(発煙弾・照明弾に使用する小筒)の弾薬が暴発して、脚部に重傷を負った。
伊集院水雷長は、痛みに屈せず、一人で縄梯子をよじ登ろうとした。それを見た山本副長は、「待て、動くな」と大声をかけ、自分でボートに飛び下り、伊集院水雷長を背負い、艦上に救い上げた。
後に見られる、山本権兵衛と伊集院五郎の絆の強さは、ここにも一因があるようだ。「浪速」は、明治十九年六月二十六日、無事に、日本に帰り、品川沖に到着した。
毎時十九年十月十五日、山本権兵衛少佐は、スループ「天城」艦長に任命された。小なりとも一城の主で、三十四歳だった。
スループ「天城」は、明治十一年四月、横須賀造船所で竣工した。排水量九二六トン、全長六四・三メートル、一軸レシプロ蒸気機関、円罐×2、七二〇馬力、速力十一ノット、一七センチ砲一門、一二センチ砲二門、乗組員一五九名という国産の木造船で、船材の産出地である伊豆の山の名「天城」が命名された。
スループ「天城」の任務は、朝鮮情勢を把握することと、在留邦人の保護だった。
仁川に入港し、京城に出かけた、山本権兵衛少佐は、清国代表として京城に駐在している袁世凱を、清国公使館に訪ねた。
袁世凱は、癖のある人物で、各国の官吏が訪ねてくると、文官に対しては、自分は一介の武弁(武人)だと言い、武官に対しては、自分は文事のこと以外は関係ないと言って、はぐらかして、相手にしなかった。
山本少佐は、そういう袁世凱の人物を噂に聞いて知っていたので、「訪ねて、袁世凱がどのような態度に出るか、ともかく会って、情報を交換することは、日清両海軍の交際上、何か役に立つだろう」と考えたのだ。
山本少佐が、取次の者に名刺を渡すと、思いがけなく、袁世凱が自ら玄関に出てきて丁重に迎え、客室に招き入れ、わざわざ訪ねてきてくれたことに厚く礼を述べ、至れり尽くせりの歓待をした。
普通の者なら、清国代表の袁世凱を訪問するだけでも気が引けるのだが、山本少佐はこの場に来てもいたって平気で、ヒゲをモジャモジャ生やし、虎のような眼をランランと光らせた鍾馗のような顔で次の様にズバリと言った。
「お見受けしましたところ、あなたはお顔が大変蒼い。宮廷美人を寵愛されているという噂ですが、そのためですかな」。
事実、袁世凱は韓国王から後宮の美姫を与えられ、満悦に思っていたので、奇襲された袁世凱は、答えに窮した。
すると、山本少佐は、続けて、「東洋の平和を双肩に担おうとするあなたが、そのようなことではいけません。ぜひ自重してください」とズケズケ言った。
袁世凱は、笑ってうなずいただけだった。
続いて、山本少佐は、列国の大勢、外交、制度、教育、科学技術等について、熱弁をふるい、「日清両国は固く提携して、列強の侵入を防がなければなりません」と締めくくった。