陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

220.山本五十六海軍大将(20)主将の行動を、第一線において詳細な無線電報で打電する者があるものか

2010年06月11日 | 山本五十六海軍大将
 草鹿中将は熱帯性のひどい下痢つづきで、絶食に近い状態だったが、山本司令長官は「そんなこといったって、そりゃお前、適当に食わにゃいかんよ」と言って、朝、草鹿中将が馬に乗って官邸山のコテージを訪ねていくと、「おい、胡瓜を食わしてやろう」と、自分でそのへんに生っている胡瓜をつんで、すすめたりした。

 草鹿中将は山本司令長官から「おい」と言われりゃ「へい」と言うような間柄で、「山本さん、あんたねえ」などと、何でも打ち明けて話していた。

 草鹿中将の語るところでは、古い海軍の者は少しぐらい階級の上下があっても、たいてい「あんた」とか「君」とかで、「閣下」だの「長官」などはあまり呼ばなかったという。

 「い」号作戦は、一応の成功を収めて終わり、山本司令長官のラバウル滞在の日程も、終わりに近づいてきた。

 山本司令長官は日程の最後に、ガダルカナル戦線に最も近いショートランド島方面の基地を日帰りで視察することになった。

 四月十三日、山本司令長官の前線視察日程が、宇垣参謀長の署名を得て、ラバウルの第八通信隊の放送通信系と、南東方面艦隊の一般短波系の二波を使って送信された。

 この前線視察日程の暗号通信、「NTF(南東方面艦隊)機密第一三一七五五番地」は、米軍に解読された。

 このとき第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将は、連合艦隊参謀に、山本長官の前線視察は危険であるから取り止めるように言い、「どうしても行かれるなら、第三艦隊の戦闘機を出すから、護衛の戦闘機をもっと付けなければだめだ」と付け加えた。

 だが、参謀は、「大事な戦闘機だから六機でいいと言うのが長官の意向だ」と、取り合わなかった。

 ショートランドの第十一航空戦隊司令官・城島高次少将(海兵四〇)はラバウルからの暗号通信を手にするや、その長文に驚いた。

 城島少将は「電文が長すぎる。それに最前線で主将の行動を詳細に無線電報で知らせるなんて不適当だ」と部下の幕僚に漏らした。

 城島少将は急遽、ラバウルに飛んだ。城島少将は山本司令長官に「急いで帰ってまいりました」と挨拶した。

 山本司令長官は「お前のところへ行こうと思っていたのに帰ってきたのか」と言った。

 城島少将は「長官が最前線にお出かけになれば一同大変喜ぶと思いますが、しかし、私は行かないほうがよいと思います」と言い、続けて、宇垣参謀長に向って

 「主将の行動を、第一線において詳細な無線電報で打電する者があるものか」ときつい調子で吐いた。城島少将と宇垣参謀長は海軍兵学校四〇期の同期だった。

 すると宇垣参謀長は「暗号を解読しておるものか」と素っ気無く答えた。

 城島少将は、たたみかけるように「敵が暗号を解読しておらぬと誰が証明できるか。長官、私には最前線の状況がよく分かっています。行かれないほうがよいと思います」と言った。

 山本司令長官は「お前はそういうけれど、一度行くといったからには行かないわけにはいかないよ。大丈夫、直ぐ帰ってくるよ。待っていろよ。晩飯を一緒に食おう」と答えた。

 後に、城島少将は本土防衛の航空隊司令官に転じたが、知り合いの士官に「馬鹿ほど長い電報を打つんだよ」とはき捨てたという。

 四月十七日夜、夕食に招かれた陸軍の第八方面軍司令官・今村均中将(陸士一九・陸大二七首席)も、二月に海軍機を借りてブインまで飛んだ時の体験を話し、山本司令長官に中止したほうがよいと忠告して、次の様に言った。

 「とにかく、ブイン飛行場まで後十分というときに、P38に突然襲われましてね、そう、三十機もいましたか。あやうく雲間に逃れて、仏にならずに助かったのですが。長官も気をつけてください」

 そのとき、山本司令長官はにこにこしながら「それはよかったですなあ」というだけで、それ以上そのことに、触れようとはしなかった。

 四月十八日午前六時五分、山本五十六司令長官と宇垣参謀長ら司令部幕僚は、第二十六航空戦隊第七〇五航空隊所属の一式陸攻二機に分乗しラバウルを出発した。

 六機の護衛戦闘機に守られながら一番機と二番機の一式陸攻二機は飛行したが、午前七時三十分、ブーゲンビル島上空で、米軍のP38戦闘機十六機に攻撃され、二機とも撃墜された。

 一番機は、山本司令長官をはじめ全員戦死した。二番機は、宇垣参謀長、連合艦隊主計長・北村元治少将(海経五期)、主操・林浩二等飛行兵曹の三人が生還した。

 暗号解読により、「ヤマモトミッション」と呼ばれた、米軍の山本五十六大将暗殺計画は、成功し、山本五十六大将は戦死した。享年五十九歳だった。

 米軍のハルゼー大将は、ヤマモトミッション攻撃隊、P38戦闘機隊の隊長、ミッチェル少佐に「おめでとう。撃墜したアヒルどもの中には、一羽の孔雀がいたようだね」と電報を打ったという。

(「山本五十六海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山下奉文陸軍大将」が始まります)

219.山本五十六海軍大将(19)山本大将もエラそうにいうが、航空戦にかけちゃ、全くの素人だヨ

2010年06月04日 | 山本五十六海軍大将
 「大東亜戦争回顧録」(佐藤賢了・徳間書店)によると、著者の元陸軍中将・佐藤賢了氏(陸士二九・陸大三七)は、山本五十六長官について次の様に述べている。

 「しかし、この作戦(ミッドウェー海戦)は、実施部隊の実情を考慮しない無理な作戦であった。作戦要領の研究準備の時も与えず、長駆インド洋の作戦から帰ったばかりの機動部隊に、汗もふかせずに敵の本拠に近いミッドウェーに、しかも奇襲作戦を行おうとするのは、無理を越えて乱暴というよりほかにいいようながない」

 「敵の本拠ハワイの目と鼻の先、ミッドウェー攻略は、準備を万全に整えた組織的強襲でなければならぬ。進発してからでも敵情はまったくわからぬまま、メクラ攻撃に近い攻撃をかけたのである」

 「真珠湾奇襲作戦を考案し、訓練し、そしてこれを断行した山本五十六提督は古今の名将である。しかし、ミッドウェーで敗北した山本五十六提督は凡将中の最凡将といっても過言ではない」

 「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると、大西瀧治郎海軍中将(海兵四〇)は、「山本大将もエラそうにいうが、航空戦にかけちゃ、全くの素人だヨ。真珠湾でも、ミッドウェーでも、まるでなっとらん」と酷評した。

 山本五十六がいかに英邁なりといっても、航空は中年からの年期だったから、たたきあげの航空屋、大西中将からすると、兵術の一角でいくらか徹底したところが足らなく思われたのだろう。

 山本五十六をはじめ、日本海軍首脳は米軍の近代兵器導入に勝てなかった。レーダーの早期導入を進言した海軍技術士官に対して、「防御の道具は不要だ。日本には大和魂がある」とはねつけたのは、航空主兵、戦艦無用論の急先鋒、山本理論の後継者であった源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)だった。

 アメリカはレーダーの開発だけでなく、対空火器制御の自動化により命中率を飛躍的に向上させることに成功した。複数の対空火器とレーダー、方位盤、射撃盤、水平安定儀をエレクトロニクスを利用して結び、一体化して自動的に対空射撃が可能なシステムを昭和十七年にはすでに実用化した。

 このシステムは、プロペラ機なら数十機の目標の半分は撃墜できる能力を持っていた。現実に、日本パイロットの名人芸がなんとか通用したのは昭和十七年半ばまでだった。

 昭和十七年十月の南太平洋海戦では、熟練した名パイロットらが参加して九十二機を失い、百四十人が海の藻屑と消えた。

 日本海軍の攻撃隊はレーダーによって待ち伏せていた米戦闘機隊と強化された米艦の対空砲火によって、大打撃を食らったのであった。

 昭和十八年後半になるとVT(Variable Time)信管付砲弾も実用化した。電波を発しながら飛び、飛行機の十五メートルほどに接近すると、自動的に爆発して飛行機を撃破するもので、命中率は二百倍にも上昇した恐るべき新兵器だった。

 こうして日本の攻撃機は米艦隊に歯が立たなくなり、日本の航空主兵主義は敗れるほかはなくなっていった。山本五十六と連合艦隊の参謀達はこのような新兵器に対して、考えも及ばなかった。

 松田千秋大佐(海兵四四・海大二六)は、昭和十七年十二月十八日、戦艦日向の艦長から戦艦大和の艦長になった。

 ある日、松田艦長は、山本五十六連合艦隊司令長官から「おい、松田君、一緒にめし食おう」と誘われて、長官室で夕食をともにした。

 そのとき、山本長官は、連合艦隊司令長官よりも海軍大臣になることを望んでいると言った。松田艦長もその方がやはり適任だと思ったという。

 松田艦長は「山本長官は情宜に厚い立派な人で、また先見の明があって、航空をあれだけ開発発展させたことは非常な功績だ。しかし、作戦では感心できるようなものがほとんどなかった」と述べている。

 昭和十八年二月十一日、トラック泊地で連合艦隊司令部は戦艦大和から戦艦武蔵に引越しをした。昭和十七年二月十二日に連合艦隊司令部が戦艦長門から戦艦大和に移ってから一年目であった。

 昭和十八年四月三日、山本五十六司令長官、宇垣参謀長、幕僚など、連合艦隊司令部は、二式大艇二機に分乗してラバウルに進出した。

 ガダルカナル島攻撃の「い」号作戦は山本五十六の誕生日の四月四日から実施する予定だったが、猛烈なスコールのため、作戦発動は三日繰り延べになった。

 四月七日から、ガダルカナル島と周辺の連合軍艦船に対する、戦爆連合の大掛かりな空襲を開始した。七日、十一日、十二日、十四日と四日にわたりブーゲンビル島方面の前進基地から延べ四百八十六機の戦闘機と百十四機の艦上爆撃機、八十機の陸上攻撃機が出撃した。

 飛行機が出撃する時は、山本司令長官は必ず、白い二種軍装を着て、帽を振りながら、一機一機これを見送った。

 見送りがすむと、山本司令長官は艦隊司令南東方面艦隊司令部の司令長官・草鹿任一中将(海兵三七・海大一九)の部屋に帰ってくる。

 それからソファに腰掛けて、草鹿中将、第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将(海兵三七・海大一九)、連合艦隊参謀長・宇垣纏中将(海兵四〇・海大二二)と四人くらいで、作戦の打ち合わせをしたり、雑談をしたり、将棋をさしたり、また、病院へ傷病兵の慰問に出かけたり、山本司令長官はじっとしていなかった。

218.山本五十六海軍大将(18) 零戦がある限り世界も制覇できる

2010年05月28日 | 山本五十六海軍大将
 その次の日、石川大佐は新橋で、南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)とも会食した。石川が「南雲さん、ミッドウェーとは、一体なんですか? 何故山本さんに言って、やめさせないんです?」と同じ不満を述べた。

 南雲中将は「分かっているよ。しかしな、この前ハワイの時、俺は追い撃ちをかけなかった。そうしたら山本は、幕僚達に、見ろ、南雲は豪傑面をしているが、追い撃ちもかけずにショボショボ帰ってくる、南雲じゃ駄目なんだと、悪口を言った。今度反対したら、俺はきっと、卑怯者と言われるだろう。それくらいなら、ミッドウェーへ行って新できてやるんだ」と山形なまりで答えた。

 戦後、石川元少将は「堀中将を首にした遺恨とはいえ、山本さんは、どうしてあんなに南雲長官をいじめなくてはならなかったのかと思う」と言っている。

 石川元少将はまた、アメリカ側が真珠湾攻撃を「相手の横面を張って激昂させただけの作戦」と評していることなどを引き合いに出し、山本は軍政家としては傑出していたが、用兵家としては、金玉握りの幕僚ばかり可愛がって、ハワイもミッドウェーも皆失敗で、一つも及第点はつけられないと言っている。

 石川信吾は、かつて加藤寛治を親玉に、南雲忠一たちと一緒になって、大いに軍縮条約反対の気勢を上げた、いわゆる艦隊派の人だった。

 従って艦隊派の石川の主張は割り引かなければならない。南雲と山本の関係については、石川の言うほど、山本はそんなに度量の小さい人ではなかった。少なくとも、開戦後は南雲をかばっていたとも思われる。

 昭和十七年六月五日~七日のミッドウェー海戦は、南雲忠一中将が指揮した第一航空艦隊の機動部隊が、最新鋭空母四隻を失うという日本海軍の大敗北に終わった。

 空母赤城(三四三六四トン)は爆弾二発命中、誘爆大火災を起こし、後に味方駆逐艦が雷撃し自沈した。空母加賀(四二五四一トン)は爆弾四発命中、誘爆大火災を起こし、後に大爆発を起こし沈没した。

 空母蒼龍(一八五〇〇トン)は爆弾三発命中、誘爆大火災を起こし、後に沈没した。空母飛龍(二〇一六五トン)は爆弾四発命中、誘爆大火災を起こし、後に自沈した。

 このような大損失を蒙ったミッドウェー海戦だが、当時この南雲機動部隊の航空参謀だった源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)は、ミッドウェー海戦の前は、不安に思うどころか、自信満々というか、自信過剰だったといわれている。

 南雲機動部隊は、隊の内外から「源田艦隊」と称されていた。良くも悪くも南雲司令部はすべて、源田中佐が牛耳っていた。

 空母赤城の飛行隊長で源田中佐と同期の淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)は、ミッドウェー海戦直前に盲腸炎の手術を受け参加できなくなった。

 その淵田中佐を病室に見舞った源田中佐は「今度の作戦のことなんぞ、気に病むな。貴様が無理せんでも、鎧袖一触だ。それよりこの次の米豪遮断作戦に、また一つ、シドニー空襲を頼むよ」と言ったという。

 また、柱島の戦艦大和で、研究会、図演が行われていた時、源田中佐は「零戦がある限り世界も制覇できる」という意味のことを発言したという。

 元連合艦隊司令部従兵長・近江兵次郎の手記によると、ミッドウェー海戦の敗戦の電報が次々に戦艦大和の連合艦隊司令部に入ってきた時のことを次の様に記している。

 「旗艦(大和)の作戦室では山本長官が渡辺参謀を相手に将棋を指している。何故にあの大事な作戦行動中、しかも空母が次々と撃沈されていく時将棋をやめなかったのか」

 「あの時の長官の心境は、あまりにも複雑で痛切で、私ごときの理解をはるかに超えるものだったのだろう。連合艦隊付通信長が青ざめた顔をして、空母の悲報を次々と報告に来る。この時も長官は将棋の手を緩めることなく『ホウ、またやられたか』の一言だけだった」

 これは悲報と言うようなナマやさしいものではなかった。目もくらむような凶報だった。こうなったとき、山本長官は、本当は一人になりたい気持ちだったのではないか。

 だが、作戦室には多数の部下がいた。今、彼らは、山本長官の一挙手一投足に、針のむしろに座ったような気持ちで視線を向けている。

 このような状況で、山本長官は将棋を指す手を止めるわけにはいかなかったのだろう。このような状況からすると、「ホウ、またやられたか」の一言には、強がりとともに、失望や悲哀や苦悩がにじんでいるような気がする。

217.山本五十六海軍大将(17)航空母艦の艦長ともなったら、山本さんを諌めたらどうだ

2010年05月21日 | 山本五十六海軍大将
 その厳しい訓示の四日後の十二月二十八日、山本司令長官は、恋人の河合千代子宛に次の様な趣旨の手紙を送っている。

 「方々から手紙などが山の如く来ますが、私はたった一人の千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでせうか」

 また、年が明けて、昭和十七年一月八日付の千代子への手紙には次の様に書いている。

 「三十日と元旦の手紙ありがとうございました。三十日のは一丈あるように書いてあったから、正確に計ってみたら九尺二寸三分しかなかった。あと七寸七分だけ書き足してもるつもりで居ったところ、元旦のが来て、とても嬉しかった。クウクウだよ」

 「クウクウ」とは、開戦直前の十一月末に、千代子と二人で広島県の宮島に遊んだ時、頭をなでられた小鹿が鳴いた声だという。

 「凡将・山本五十六」の著者、生出寿氏(海兵七四・東大文学部卒)は、「『勝って兜の緒を締めよ。次の戦いに備え、いっそうの戒心を望む』という訓示と、その直後のこの手紙は、いったいどうなっているのだろうか」と、批判的に述べている。

 昭和十七年二月十二日に連合艦隊司令部は、戦艦長門から、新造の戦艦大和に移った。艦歴二十三年の長門に比べて、新造の大和は居住区も改善され、幕僚達は新しい旗艦の暮らしを喜んだ。

 四月四日には、山本五十六は五十九歳の誕生日だった。瀬戸内海、岩国沖の柱島の戦艦大和に海軍省人事局員が、山本五十六司令長官への勲一等加綬の旭日大綬章と功二級の金鵄勲章を持って訪れた。

 そのとき、山本司令長官は「こんなもの、貰っていいのかなあ」と言い、金色に輝く金鵄勲章を眺めて、「恥ずかしくて、こんなもの、つれやせん」と言った。

 昭和十七年四月二十八日から三十日まで、柱島在泊中の戦艦大和で、第一段作戦の研究会が行われた。ハワイからインド洋までの五ヶ月にわたる諸作戦の反省会である。

 次に、五月一日から四日まで、これから行われる第二段作戦の図上演習および研究会が行われた。ミッドウェー・アリューシャン作戦、FS作戦(フィジー、サモア攻略作戦)、ジョンストン、パルミア作戦、ハワイ攻略作戦など、六月から五ヶ月間にわたる諸作戦の研究であった。

 このときの、ミッドウェー作戦の図上演習について、当時の航空部隊総指揮官の淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)と当時の統監部員・奥宮正武少佐(海兵五八)は、戦後出版された「ミッドウェー」(淵田美津雄・奥宮正武・日本出版協同)で次の様に述べている。

 図演の統監兼審判長は宇垣参謀長であった。青軍(日本)機動部隊がミッドウェーを空襲中、赤軍(米国)航空部隊が青軍を爆撃し、赤城、加賀が沈没という判定となった。

 すると宇垣がそれを制して、独断で赤城小破、加賀沈没と修正させた。ところが、次のフィジー、サモア作戦になると、沈没した加賀がいつの間にか浮き上がって、活動を再開していた。

 このような統裁ぶりには、さすが心臓の強い飛行将校連もあっけにとられるばかりだった。だが、実際には、ミッドウェー海戦で、米軍は赤城、加賀など、日本の空母を四隻とも沈めてしまった。

 「人間提督・山本五十六」(戸川幸夫・光人社)によると、この図上演習のことを、著者の戸川幸夫が当時の戦務参謀・渡辺安次中佐(海兵五一・海大三三)から直接聞いた話が次の様に載っている。

 「宇垣参謀長が、『ミッドウェー基地に空襲をかけているとき、敵機動部隊が襲ってくるかもしれない。そのときの対策は?』と言われたら、南雲忠一機動部隊司令長官は言下に『わが戦闘機をもってすれば鎧袖一触である』と言い切られたのです」

 「その言葉を聞いて山本五十六長官は『鎧袖一触なんて言葉は不用心だ。実際にこちらが基地を叩いているとき、不意に横っ腹へ槍を突っ込まれないように研究しとくことだ。この作戦はミッドウェーを叩くのが主目的ではなく、そこを衝かれて顔を出した敵艦隊を潰すのが主目的だ。そのあとでミッドウェーを取ればいい。本末を誤らないように。だから攻撃機の半分には魚雷をつけて待機さすように』と、くどいくらいに南雲長官に言われたのですが、南雲長官にはピンとこないようでした」

 「あのとき、山本長官の注意を守っていたら少なくとも敵機動部隊と刺し違えることはできたでしょうが」

 このように、連合艦隊司令部と機動部隊とはしっくりいっていなかった。むしろ互いに「なにするものぞ」と反感を抱いていた。

 五月のある日、空母飛龍艦長・加来止男大佐(海兵四二・海大二五)が、兵学校同期の軍務局第二課長・石川信吾大佐(海兵四二・海大二五)の娘の結婚式に出席するため、上京してきた。

 石川大佐が「おい、ミッドウェーとは何だい? 勝って新聞賑わすだけで、負けたら大変なことになるぞ。東京じゃあ、みんな反対なんだ。貴様、なんと思って出て行く?」と加来大佐に不平を言った。

 加来大佐は「うん。今度はもう、貴様とも会えないかも知らんな。後事を頼むよ」と、あまり気勢の上がらぬ様子で「俺も、この作戦は無理だし、無意味だと思っている。しかし、山本さんが頑張るから、やむを得ないんだ」と言った。

 石川大佐が「どうしてそれを、長官に言わない? それ位はっきり言って、航空母艦の艦長ともなったら、山本さんを諌めたらどうだ」と続けた。

216.山本五十六海軍大将(16) これからは『無敵海軍』と書いてくれたまえ

2010年05月14日 | 山本五十六海軍大将
 宇垣参謀長は「機動部隊はもはや戦場からずいぶん離れてしまった。一杯一杯のところで作戦を終えて離脱しようとしているものを、もう一度立ち上がらせるためには、これを怒らすよりほかに方法はない。統帥の根源は人格である。そんな非人間的な無法な命令を出すことが、どうしてできるものか」と主張した。

 黒島先任参謀はひるまなかった。「われわれは軍人です。武人として、この戦機を逸することこそ、どうしてできるというのですか」。

 宇垣参謀長はますます激して言った。「無謀な強襲となる。戦機とはそういうものではない」。

 「長官、もう一度突っ込ませましょう」と黒島参謀は声を震わせて言った。山本五十六司令長官は黙って考えていた。激論は続けられた。

 宇垣参謀長は「敵飛行機の損害程度が不明のまま強襲することは、かならずや大きな痛手を蒙ることになる」と言い、「将棋にも指しすぎということがある」と強く突っぱねた。

 「しかし」と黒島先任参謀は強弁した。「米太平洋艦隊が実際に行動不能におちいったかどうか、今後の作戦上、その疑いを取り除くためにも、再攻撃を加えてみるべきであります」。

 山本司令長官は腕を組んだままの姿勢で論戦を見守って一言も発しなかった。その最後の決定を求めるかのように、宇垣参謀長が言った。「こうなった以上、見送るよりほかに方法がないと思いますが」。

 山本司令長官は苦渋の色をありありと浮かべながら、宇垣参謀長に深くうなずいた。今回は宇垣参謀長に同意したのだ。

 そして山本司令長官は静かに言った。「もちろん、再撃に次ぐ再撃をやれば満点だ。自分もそれを希望するが、南雲部隊の被害状況が少しも分からぬから、ここは現場の機動部隊長官の判断に任せておこう。それに、今となっては、もう遅すぎる」

 さらに山本司令長官は「そんなことをいわなくとも、やれるものにはやれる。遠くからどんなに突っついても、やれぬものにはやれぬ。南雲はやらないだろう」とも言った。

 この山本司令長官の決定で、機動部隊に対する真珠湾再度攻撃の電報命令は、ついに打たれず、すべては終わった。国民を狂喜させた真珠湾奇襲という破天荒な作戦は急速に幕をおろした。

 山本司令長官は、作戦室を出るとき、「戦はこれからだ。さあ、どうするか。いい考えはあるか」と参謀達に問いかけたという。山本司令長官はその後の作戦を考えていた。

 太平洋上の戦艦長門の作戦室で大激論が起こっていたとも知らぬ東京の海軍中央は、勝利に強い満足感を味わっていた。

 はじめは連合艦隊からの脅迫まがいの要請があったので、しぶしぶ認めたまでの半ば腰をひいた真珠湾奇襲作戦だったが、それがこの大戦果をあげようとは、本当に予想さえしないことだった。

 軍令部総長・永野修身大将(海兵二八恩賜・海大八)は「だから戦はやってみなければわからん」とやたらに、はしゃいで上機嫌だった。

 海軍省も同様で、軍務局長・岡敬純中将(海兵三九・海大二一首席)を真ん中に、佐官十四、五名がコップや茶碗を挙げ、万歳を腹の底から叫んでいる写真が新聞を飾った。

 報道課長・平出英夫大佐(海兵四四・海大選科)は新聞記者に「これからは『無敵海軍』と書いてくれたまえ」と喜びをあらわにした。

 連合艦隊作戦室の激論に対して、海軍中央は無敵の南雲部隊が風の如く襲い、風の如く去ることに、なんら依存はなかったのである。現地から離れていると、それほど鈍感であった。

 長門の作戦室には、海軍中央から、どんどん祝電が送り込まれた。軍令部総長と海軍大臣連名による祝電を皮切りに東條首相、杉山元参謀総長からも、来た。

 ところが、長門の作戦室は東京からの躍るような文字をみるたびに沈み込んでいった。作戦室の参謀達の胸中には、はたして、一太刀だけで鉾を収めたのが正しかったのか、という、いまだに踏んぎれぬ想いがゆたっていた。

 だから、「返電はどうしましょうか」とたずねる通信士にたいして、宇垣参謀長は当然のことのように「作戦行動中だ。必要なし。返電は帰投してからとする」と言った。己に対して怒っているような、すっきりしないものを、感じていた。

 「凡将・山本五十六」(生出寿・徳間書店)によると、昭和十六年十二月二十三日、真珠湾攻撃を終えた南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)指揮する機動部隊は、瀬戸内海の岩国市の沖、柱島泊地に帰ってきた。

 翌日、山本連合艦隊司令長官は機動部隊旗艦の空母赤城におもむき、各級指揮官を前にして次の様に訓示した(要約)。

 「真の戦いはこれからである。この奇襲の一戦に心おごるようでは、強兵とはいいがたい。勝って兜の緒を締めよとは、まさにこのことである。次の戦いに備え一層の戒心を望む」

 奇襲攻撃に成功し大戦果をあげたのだから、山本司令長官の訓示は、もう少しはほめても良かったと言われている。だが、艦隊派から以前、煮え湯を飲まされた条約派の山本司令長官としては、艦隊派の中核、南雲中将に根底では、快く思っていなかったとも言われているが、真意は不明である。

215.山本五十六海軍大将(15)山本大将は大艦巨砲主義者を時代遅れの遺物として評価しなかった

2010年05月07日 | 山本五十六海軍大将
 昭和十六年十一月十三日、連合艦隊司令部は、南遣艦隊を除く各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀らを岩国海軍航空隊に参集させ、真珠湾攻撃の作戦命令の説明と打ち合わせを行った。

 山本五十六連合艦隊司令長官は、説明を行い、最後に「ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合には、出動部隊に「引き揚げを命じるから、その命令を受けた時は、たとえ、攻撃隊の母艦発進後であっても直ちに反転、帰航してもらいたい」と付け加えた。

 すると、先ず、機動部隊の司令長官・南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)が「出て行ってから帰って来るんですか? そりゃ無理ですよ。士気にも影響するし、そんなことは実際問題としてとてもできませんよ」と反対した。

 二、三の指揮官もこれに同調した。さらに南雲中将は「それでは、まるで、出かかった小便をとめるようなものですよ」と述べた。

 これに対し山本司令長官は「百年兵を養うは、何のためだと思っているか。もしこの命令を受けて、帰って来られないと思う指揮官があるなら、只今から出動を禁止する。即刻辞表を出せ」と言った。言葉を返す者は一人もいなかった。

 航空本部長から第四艦隊司令長官に変わった井上成美中将は、連合艦隊の作戦会議に顔を出すのはこれが初めてであった。

 一同勝栗とするめで祝杯を上げ、記念撮影をして解散になったあと、井上中将が岩国航空隊司令の部屋に入って見ると、岩国の深川という料亭で開かれる夜の慰労会までの時間を持て扱いかねたように、山本五十六大将が一人ぽつねんとソファに座っていた。

 「山本さん」と井上中将は声をかけた。続けて井上中将は「とんでもないことになりましたね。長谷川(清)さん(海兵三一・海大一二次席)は、大変なことになるぞ、工業力は十倍だぞ、と言っておられましたよ。だけど、大臣はどういうんですかね。発つとき、岩国に行ってきますと言って大臣にも挨拶をしたんですが、嶋田さんときたら、ニコニコして、ちっとも困ったような様子じゃありませんでしたよ」と山本司令長官に言った。

 すると山本司令長官は「そうだろ。嶋ハンはオメデタイんだ」と、悲痛な顔をして見せた。

 しかし、井上の知る限り、山本五十六が戦争反対を匂わす言葉を口にしたのは、これが最後であった。陛下の胸中はよく分かっているとはいえ、すでに聖断が下ったのであって、少なくとも公にはこの日以来、山本は一切の反戦論を口に出さなくなったといわれている。

 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が勃発した。山本五十六大将が指揮する日本の連合艦隊は機動部隊の奇襲作戦が成功し大戦果をあげた。

 「山本五十六の無念」(半藤一利・恒文社)によると、真珠湾奇襲作戦が成功した後、戦艦長門では、山本司令長官は再び作戦室に姿を見せた。

 作戦室では参謀長・宇垣纏少将と先任参謀・黒島亀人大佐(海兵四四・海大二六)が烈しく対立していた。

 元々、宇垣参謀長と、黒島先任参謀は、よく意見の相違があり、対立していた。だが、山本司令長官は黒島先任参謀を重用していたので、宇垣参謀長は連合艦隊司令部では浮いた存在だった。

 宇垣参謀長は海兵四〇期を百四十四人中九番という優秀な成績で卒業している、その後、海軍の主流とも言うべき砲術畑で経験を積み軍令系のポストを歴任した。当時の海軍では典型的なエリートコースだった。

 したがって、宇垣参謀長は大艦巨砲主義の忠実な信奉者だった。だから航空主兵主義の山本司令長官と、コチコチの大艦巨砲主義の宇垣参謀長は元来そりが合わなかった。

 真珠湾攻撃の後、昭和十六年十二月十日、マレー沖海戦で、基地航空部隊がイギリス戦艦二隻を撃沈した時も、宇垣参謀長の日記「戦藻録」には次のように記されている。

 「~又しても飛行機に功を脾肉の嘆ありとの通信あり。尤もなる次第なるも戦は永し。色々の状況は今後も起こるべし。主力艦の巨砲大に物を云うことありと知らずや」

 この時点でも、宇垣参謀長の大艦巨砲に対する信念はいささかも揺るがなかった。ところが、山本大将は大艦巨砲主義者を時代遅れの遺物として評価しなかった。

 また、宇垣参謀長は軍令部第一部長時代に日独伊三国同盟に賛成した者の一人だった。日独伊三国同盟に命を張って反対した山本司令長官とは対立の極にあった。

 だから、当初、宇垣が連合艦隊参謀長に予定された時には、山本司令長官が拒否して、この人事は流れている。

 海軍首脳としても、当時、連合艦隊参謀長としての適任者は、宇垣しかいなかったので、後に連合艦隊参謀長人事に宇垣を強行してしまった。

 だが、だが宇垣少将が参謀長に就任しても、連合艦隊司令部では、作戦は山本司令長官、黒島先任参謀、渡辺安次戦務参謀(海兵五一・海大三三)というラインが出来上がっており、宇垣参謀長はそのラインに食い込むことはできす、常に浮いた存在だった。

 とりわけ黒島先任参謀を山本長官は懐刀として重用していた。だが、宇垣参謀長は性格的に気が強く、自信家であった。

 その宇垣参謀長は、真珠湾攻撃が成功した後、その再攻撃に猛反対した。黒島先任参謀や他の参謀達はもう一度真珠湾を叩くべきだと主張していた。

214.山本五十六海軍大将(14) 米国を馬鹿にして戦争をするなどというのは、大間違いの話だ

2010年04月30日 | 山本五十六海軍大将
 昭和十六年九月十八日、長岡中学校同窓会が東京学士会館で開かれ、山本五十六連合艦隊司令長官を囲んで話を聞く会が開かれた。

 会員から山本司令長官に色々質問が出た。その一人が「米国などあんな贅沢などして文明病に取り付かれた国民など、我が大和魂に遭っては一たまりもありますまい。あまりに生意気いうたら大に打ちこらしてやる可きでありますまいか」と述べた。

 すると、山本司令長官は、それに対して、容を改めて次の様に答えた。

 「米国人が贅沢だとか弱いとか思うている人が、沢山日本にあるようだが、これは大間違いだ。米国人は正義感が強く偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である。特に科学を基礎に置いて学問の上から割り出しての実行力は恐るべきものである。然も世界無比の裏付けある資源と工業力とがあるに於いてをやである」

 「米国の真相をもっとよく見直さなければいけない。米国を馬鹿にして戦争をするなどというのは、大間違いの話だ。例えば有名なるリンドバーグ氏が飛行機で太平洋を横断したのは世界的大冒険でその勇敢さは実に賞賛に値するものがある。しかも我々日本人が最も留意せねばならないことは、リンドバーグ氏のこの大事業は、いわゆる暴虎愚河の勇から出たのではない。すべては学問と科学とにその基礎を置き、学理上から見て必ず成功する目途が付いて敢行した大冒険である」

 「日本人はこの点を大いに学ばねばならぬ。また世界一のナイヤガラの瀑布を樽に入って下りる大冒険を米国人はやっておるが、非常に大なる勇気のいる行動である。然しこの樽に入る大冒険も精密なる論理と周到なる用意を以って実行に取り掛かれば、成功する公算が学理的に証明されているのであって、決して万一の僥倖を当てにして野猪的に突進するものではない」

 「殊に米国の軍隊にはアメリカ魂が充実しておる。更にアメリカ海軍には勇敢なる将兵が多い。南北戦争にはファラガットという勇将があり、その偉功は世界を驚かせている。また米西戦争では商船でサンチャゴ港口を閉鎖したり或はアドミラル・ドュウエーが敷設水雷の敷き詰めてあるマニラ湾口を掃海もせずに乗り切り、敵艦隊に大損害を与えた有名なる史実がある。この人は我が広瀬中佐にも劣らぬ勇敢な働きをした。我々は只日本魂ありといって、無暗に米国人をあなどってはならぬ」

 「現在世界を見渡して飛行機と軍艦では日米が先頭に立っていると思うが、しかし工業力の点では全く比較にならぬ。米国の科学水準と工業力を併せ考え、またかの石油のことだけを採って見ても、日本は絶対に米国と闘うべきではない。なお、一言付け加えれば、米国の光学および電波研究は驚くべき進歩を遂げていることも知らねばならぬ」

 以上のように山本司令長官が話した後、最後に他の一人が「日米戦があるでしょうか」と尋ねたら、山本司令長官は「仇浪のしづまりはてゝ四方の海 のどかにならむ世をいのるかな」と明治天皇御製の歌を詠み上げた。

 そして、「この明治天皇の御製の精神が実現するように、我々はあらゆる手段を尽くし、絶対に戦争の不幸を避けねばならぬ」と断言した。

 昭和十六年一月、第十一航空艦隊参謀長・大西瀧次郎少将(海兵四〇)に山本五十六連合艦隊司令長官から手紙が届いた。別冊歴史読本「山本五十六と8人の幕僚」(新人物往来社)によると、その手紙の内容は、「ハワイ空襲をいかなる方法で実行すればよいか検討してほしい」というものだった。

 その手紙には大西が「海軍大学校を出ていないから自由に発想できる貴官に期待する」という趣旨の一文が記されていた。山本司令長官が、大西に真珠湾攻撃の検討を依頼したのは、大西が前例にとらわれない発想の持ち主であったからであり、そしてなによりも大西に全幅の信頼を置いていたからだった。

 大西は、計画の詳細を、やはり海軍航空生え抜きで、腹心的な存在である源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)に検討させた。そして二月、源田中佐の真珠湾攻撃原案に修正を加えて山本司令長官に提出した。

 だが、大西少将は後で真珠湾攻撃に反対するようになる。昭和十六年十月に、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)とともに大西少将は連合艦隊旗艦・戦艦陸奥を訪れ、山本司令長官に真珠湾攻撃を中止するように進言した。

 大西少将の真珠湾攻撃反対論の趣旨は次の様なものだった。

 「今度の戦争で日本は米州ハドソン川で観艦式をやることはできない。したがって、どこかで米国と和を結ばねばならない。それには米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒らせてはいけない。もしこれを敢行すれば米国民は最後まで戦う決意をするであろう」

 「蛇足を加えるならば、日本は絶対に米国に勝つことはできない。米国民はこれまた絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地は全く失われる。最後のとことんまで戦争をすれば日本は無条件降伏することになる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない」

 だが昭和十六年十二月八日、日本は真珠湾攻撃を行い、予想以上の戦果を収めた。しかし、大西は「真珠湾攻撃は失敗である」という自分の考えを変えることはなかったと言われている。

213.山本五十六海軍大将(13) 山本大将はプンプン怒って「永野さん、駄目だ」と言った

2010年04月23日 | 山本五十六海軍大将
 山本五十六連合艦隊司令長官は、三国同盟については、荻窪荻外荘の近衛邸で、近衛文麿首相から次の様な話を受けた。

 「海軍があまりあっさり賛成したので、不思議に思っていたが、あとで次官に話を聞くと、『物動方面なかなか容易ならず、海軍戦備にも幾多欠陥あり、同盟には政治的に賛成したものの、国防的には憂慮すべき状態』ということで、実は少なからず失望した次第である」

 「海軍は海軍の立場を良く考えて意見を立ててもらわねば困る、国内政治問題の如きは、首相の自分が、別に考慮して如何様にも善処すべき次第であった」

 この近衛首相の発言について、山本司令長官は嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)に次の様な手紙を出した。

 「随分人を馬鹿にしたる如き口吻にて不平を言はれたり、是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず、要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を土からはなす事は危険千万にて、真に陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致侯、御参考迄」

 だが、山本五十六は近衛も嫌いだったが、実は嶋田繁太郎も嫌いだった。「あんな奴を、巧言令色と言うんだ」と言って、信用していなかった。

 嶋田が後に、東條首相の内閣に入閣し、東條の副官といわれるような海軍大臣になることを見通していたような、山本五十六だった。

 昭和和十六年七月、日本軍の南部仏印進駐が決定し、海軍大臣・及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)が、連合艦隊司令長官・山本五十六大将(海兵三二・海大一四)と第二艦隊長官・古賀峯一中将(海兵三四・海大一五)を東京の海軍大臣官邸に呼んで、事情の説明披露が行われた。

 「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、当日は、軍令部総長・永野修身大将(海兵二八恩賜・海大八)、航空本部長・井上成美中将(海兵三七恩賜・海大二二)らも出席した。

 二・二六事件以後、日本が戦争に向って歩みを進めた過程の中で、戦争への傾斜が急に深まった場面がいくつかあるが、南部仏印進駐はその大きなステップの一つだった。

 事情説明披露の席で、山本大将は最初に、井上中将に向って「井上君、航空軍備はどうなんだ?」と聞いた。

 すると井上中将は「あなたが次官の時から、一つも進んでおりません。そこへこの度の進駐で、大量の熟練工が召集され、お話にならない状態です」と答えた。

 井上中将は日米不戦論者としては山本大将以上に強硬だった。

 井上中将の発言の後、古賀中将が「大体こんな重大なことを、艦隊長官に相談もせずに勝手に決めて、戦争になったからさあやれと言われても、やれるものではありませんよ」と及川大臣に食ってかかった。

 古賀中将はまた、永野軍令部総長に向って、「政府のこの取り決めに対し、軍令部当局はどう考えておられますか?」と質問した。

 永野総長は「まあ、政府がそう決めたんだから、それでいいじゃないか」と曖昧な返事しかしなかった。

 大臣官邸での食事も済んで解散になったあと、航空本部長の部屋に来た山本大将はプンプン怒って「永野さん、駄目だ」と言った。

 さらに、「もう、しょうない。何か、オイ、甘いものないか」と、井上中将にチョコレートを出させ、一口かじって、「何だ。これ、あんまり上等じゃないな」と、おそろしく機嫌が悪かった。

 昭和十六年八月十日、山本五十六大将と海兵同期で前海軍大臣の吉田善吾大将(海兵三二・海大一三)が佐伯湾在泊中の戦艦長門(連合艦隊旗艦)に、主力艦の艦砲射撃を見学するということで連合艦隊司令長官・山本五十六大将を訪ねてきた。

 吉田大将の手記によると、このとき、山本大将は「どうしても戦わなければならぬ場合、真珠湾奇襲攻撃を語りたり」となっている。

 吉田大将は帰京して、当時の海軍大臣・及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)に会ったとき、山本大将の連合艦隊司令長官の交替について熱心に話し合っている。

 そのとき、吉田大将は「山本はGF(連合艦隊)長官を辞め、横鎮(横須賀鎮守府)にでもいく(司令長官として)ような口ぶりだった。自分が『それでは、だれが後任になるのだ』とただしたら、山本は『嶋田(繁太郎)であり、すでに本人も承知しているはずだ』と言った」と及川大臣に話した。

 すると及川大臣は「そんなことはない。いま山本に辞められては困る」と答えた。そのことを、吉田大将が山本大将に伝えると、山本大将は、やや捨て鉢に気味になったと言われている。

 そのころ、井上成美中将(海兵三七恩賜・海大二二)は、八月十一日付けで第四艦隊司令長官に親補され、南洋のトラック島に赴任することになった。

 及川海軍大臣、永野修身軍令部総長(海兵二八恩賜・海大八)のコンビは、陸軍に妥協しつつ対米戦に踏み込んでいっていた。その状況では山本大将や井上中将は、目の上のたんこぶであり、中央から遠ざけたのである。

 もともと連合艦隊司令長官としては、山本大将よりも嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)の方が適任だった。嶋田大将は作戦畑出身で、山本大将が軍政にかけての第一級のプロなら、嶋田大将は作戦にかけての第一級のプロだった。

 及川海軍大臣がこの時点で、山本大将を中央に戻し、嶋田大将を連合艦隊司令長官にしていたら、対米戦争の様相は変わっていただろう。

 しかも開戦時の連合艦隊参謀長・宇垣纏海軍少将(海兵四〇・海大二二)も作戦のプロではなかった。一説には、当時連合艦隊司令部には山本大将を含め、プロの作戦家は一人もいなかったと言われている。

212.山本五十六海軍大将(12) 豊田貞次郎という男はこういう男だ。覚えとけ

2010年04月16日 | 山本五十六海軍大将
 昭和十五年一月十六日、米内光政内閣が成立した。二六新報社長・松本賛吉は、米内首相が大いに奮闘しているが内閣の前途は多難らしいという報告と共に、山本五十六の政界出馬を期待するような手紙を軍艦長門の山本五十六連合艦隊司令長官に書き送った。

 当時実際に、政界の一部には「山本五十六内閣待望論」があったと言われている。山本五十六は松本の手紙に対して、二月十八日付で次の様な返事をしたためた。

 「貴翰難有拝見仕侯 海上勤務半歳 海軍は矢張り海上第一まだまだやるべき仕事海上に山の如し、所詮海軍軍人などは海上の技術者たるべく柄になき政事などは真平と存じ居り候」

 だが、米内内閣は成立後半年の、昭和十五年七月二十二日、総辞職し、第二次近衛内閣ができると、待っていたかのように、再び、日独伊三国同盟問題が表面にでてきて、二ヵ月後の九月二十日、この三国軍事同盟はあっさりと成立してしまった。

 当時、海軍大臣は吉田善吾中将(海兵三二・海大一三)で、第二次近衛内閣にも留任したが、陸軍および部内外の革新派からの突き上げと、海兵同期の山本五十六あたりからの厳しい註文との板ばさみになって、ノイローゼになり、入院し、三国同盟締結の三週間前に海軍大臣を辞職していた。 

 「太平洋海戦記」(杉山績・図書出版社)によると、著者の杉山績氏は海軍経理学校出身の元主計大尉だが、戦後昭和二十一年二月十一日、杉山氏の義父、横尾石夫元主計中将が普段から懇意にしていた米内光政を千葉県の元木更津海軍工廠の廠長官の官舎に招待した。

 そのとき、杉山元主計大尉も出席しており、横尾元主計中将とともに、米内光政を待っていた。やがて、夕刻、米内光政は玄関に入ってきた。

 そのとき、挨拶する横尾元主計中将に向って、「いや、横尾君、とうとう陸軍が国をほろぼしてしまったな」という言葉が米内光政の口から飛び出した。杉山元主計大尉は驚いた。

 現役時代、批判や苦情を絶対に口にしなかったと言われていた米内光政にしては、全く意外な挨拶代わりの言葉だった。その夜、米内光政は米内内閣を崩壊に導いた陸軍の策謀の経緯を淡々と語ったという。

 吉田善吾のあと九月五日に及川古志郎大将(海兵三一・海大一三)が海軍大臣に就任した。次官は豊田貞次郎中将(海兵三三首席・海大一七首席)がなった。

 就任直後、及川海軍大臣は海軍首脳会議を招集した。海軍として三国同盟に対する最終的態度を決定するものだった。会議には山本五十六連合艦隊司令長官も出席した。

 会議の席上、及川海軍大臣は、ここでもし海軍が反対すれば、第二次近衛内閣は総辞職のほかなく、海軍として内閣崩壊の責任を取ることは到底できないから、同盟条約締結に賛成願いたいということを述べた。

 列席の伏見宮軍令部総長以下、軍事参議官、艦隊長官、鎮守府長官らの中から、一人も発言する者がなかった。すると、山本五十六連合艦隊司令長官が立ち上がって次の様に発言した。

 「私は大臣に対しては、絶対に服従するものであります。大臣の処置に対して異論をはさむ考えは毛頭ありません。ただし、ただ一点、心配に堪えぬところがありますので、それをお訊ねしたい」

 「私が次官を勤めて追った当時の企画院の物動計画によれば、その八割は、英米勢力の圏内の資材でまかなわれることになっておりました」

 「今回三国同盟を結ぶとすれば、必然的にこれを失う筈であるが、その不足を補うために、どういう物動計画の切り替えをやられたか、この点を明確に聞かせて頂き、連合艦隊の長官として安心して任務の遂行を致したいと存ずる次第であります」

 及川大臣は、山本司令長官のこの問題には一言も答えず「いろいろ御意見もありましょうが、先に申し上げた通りの次第ですから、この際は三国同盟に御賛成願いたい」と同じことを繰り返した。

 すると、先任の軍事参議官である大角岑生大将(海兵二四恩賜・海大五)が、まず「私は賛成します」と口火を切り、それで、ばたばたと、一同賛成ということになってしまった。

 会議の後、及川大臣は山本司令長官からとっちめられ、「事情止むを得ないものがあるので勘弁してくれ」とあやまったが、山本司令長官が「勘弁ですむか」と言い、かなり緊張した場面になった。だが、こうして三国同盟は締結された。

 山本司令長官は次官の豊田貞次郎中将にも失望していた。昭和十三年、山本が海軍次官当時、豊田中将は佐世保鎮守府長官だった。

 ある日、山本次官は「オイ、こういう手紙が来ているから、参考のために見とけよ」と、豊田中将からの手紙を、井上成美軍務局長(海兵三七恩賜・海大二二)に見せた。

 その手紙には「私が親補職の地位にあるために次官になることをいやがるなどとは、どうかお思いにならないでいただきたい」という意味のことが書いてあった。鎮守府長官は親補職であるが、次官は親補職ではない。

 井上軍務局長が読み終わると、山本次官は「豊田貞次郎という男はこういう男だ。覚えとけ」と言った。だが、その豊田は及川大臣の下で次官になり、第三次近衛内閣の時には外務大臣に就任した。

211.山本五十六海軍大将(11) 海軍の弱虫。貴様達の日本精神は、何処にあるか

2010年04月09日 | 山本五十六海軍大将
 かつてのロンドン軍縮予備交渉で、山本の人物を見込んだクレーギーが大使として来日すると真っ先に山本次官を訪問した。

 これを右翼に言わせると「山本が不逞の親英派である確かな証拠」ということになった。山本次官の郷里の長岡にまで不穏文書がばらまかれた。

 その文書は「山本五十六。米英と親交を結び或いは会食に或いは映画見物に米英大使館に出入りして歓を尽くす」というものだった。このようなことから、「山本五十六は米英派なり」という話が一層広がっていった。

 映画見物については、五月十七日、英国大使館の晩餐会でのことで、山本次官はクレーギー英国大使と旧知の間柄なので、そういう会にはよく出席した。映画の会には高松宮も出席していた。

 右翼がこの映画の会に山本が出席したのが怪しからんと次官室でねばった時、秘書官の実松譲(海兵五一・海大三四)が、映画の会には高松宮も出席しておられたことを、匂わした。

 すると「畏れ多くも、金枝玉葉の御身のことまで持ち出して、自らの非を覆い隠す気か」と、怒鳴りつけられたという。

 彼らはやって来ては、秘書官を起立させ、奉書の紙を拡げて、「ヨッテ天ニ代ワリテ山本五十六ヲ誅スルモノナリ」というような弾劾状とか脅迫状とかを読み上げ、一言言い返せば、千言万語浴びせかけられるから、秘書官たちは何と言われようと一切暖簾に腕押し「承っておきます」と玄関番に徹したという。

 それでも「弱虫。海軍の弱虫。貴様達の日本精神は、何処にあるか」などと、口汚く罵られ、容易なことでは引き上げてもらえなかった。やっと追い返して、自分の机に戻って見ると、処置に困るほど、書類の山ができていた。

 ところが、ヒトラーは日本の優柔不断な態度を見て、日本をあきらめてイタリアとだけ同盟条約を結び、昭和十四年八月二十三日、ソ連とも不可侵条約を結んで、九月一日、ポーランドに攻め込んだ。

 ヒトラーの野望に反して、イギリスとフランスは、ポーランドを保障した信義を重んじて、九月三日対独宣戦した。こうして第二次世界大戦が始まった。

 これにより、平沼内閣は八月三十日、総辞職に追い込まれ、米内大臣は軍事参議官に、山本次官は連合艦隊司令長官に転出した。

 昭和十四年八月三十日の朝、反町栄一が、所用があって羽越本線新発田駅から上りの急行に乗った。この日は山本五十六中将が海軍次官から連合艦隊司令長官に発令された日だった。

 反町栄一は、山本五十六と同じ長岡中学の後輩で、山本より五つ年下だが、郷里長岡での山本の古い友人である。

 反町栄一が急行に乗り込むと、二等車に陸軍中将の軍服を着た石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)が座っていた。

 反町が「やあ、これは石原閣下、どちらへ?」と聞くと、石原中将は「十六師団長に補せられ、東京に行くが、陛下に拝謁したら、この戦争(日華事変)をこれ以上続けてはならない意見を申し上げるつもりだ。秩父宮殿下や高松宮殿下にも申し上げる」と答えた。

 また、石原中将は「自分のまわりに乗っているのは、みんな私服の憲兵と特高だがね、このまま日支事変を続けていたら日本は亡んでしまうよ」と言った。

 石原中将は、それから「実は山本次官にも会いたいと思っている。海軍で戦争をやめさせることの出来る人は、山本さんしかいない。九月三日に訪ねて行きたいが、あなたから連絡をとっておいてくれないか」と反町に頼んだ。

 石原中将と山本中将は面識があった。以前陸海軍首脳の懇親会で、二人はたまたま隣の席に座った。そのとき、石原中将が並みいる陸軍のお偉方の方をあごでしゃくって、「陸軍もああいう連中がやっているんじゃ駄目なんだ」と山本中将に言った。

 すると、山本中将は「そういう事を言う奴がいるから、陸軍は駄目なんだ」と言い返した。さすがの石原中将も閉口して黙り込んでしまった。

 だが、日華事変は早く解決して米英との早急な対決は避けるべきだという認識は山本中将と石原中将は共鳴していた。

 反町は、山本中将に連絡をとることを約束して石原中将と別れた。そのあと、山本中将が連合艦隊司令長官に親補されたというニュースがラジオで流れた。

 反町は山本中将に会って、お祝いを言った後、石原中将の依頼を話した。すると山本中将は「そりゃ残念だな。僕は明日発って艦隊に行かねばならないので、お会いできんがなあ。君から今度、石原さんによろしく言ってくれよ」と言った。

 山本中将はそのまま海に出て、その後死ぬまで石原中将と会うことはなかった。もし二人の会談が実現していたら、日華事変の前途と日本の将来が変わっていたかもしれない、と言われている。