草鹿中将は熱帯性のひどい下痢つづきで、絶食に近い状態だったが、山本司令長官は「そんなこといったって、そりゃお前、適当に食わにゃいかんよ」と言って、朝、草鹿中将が馬に乗って官邸山のコテージを訪ねていくと、「おい、胡瓜を食わしてやろう」と、自分でそのへんに生っている胡瓜をつんで、すすめたりした。
草鹿中将は山本司令長官から「おい」と言われりゃ「へい」と言うような間柄で、「山本さん、あんたねえ」などと、何でも打ち明けて話していた。
草鹿中将の語るところでは、古い海軍の者は少しぐらい階級の上下があっても、たいてい「あんた」とか「君」とかで、「閣下」だの「長官」などはあまり呼ばなかったという。
「い」号作戦は、一応の成功を収めて終わり、山本司令長官のラバウル滞在の日程も、終わりに近づいてきた。
山本司令長官は日程の最後に、ガダルカナル戦線に最も近いショートランド島方面の基地を日帰りで視察することになった。
四月十三日、山本司令長官の前線視察日程が、宇垣参謀長の署名を得て、ラバウルの第八通信隊の放送通信系と、南東方面艦隊の一般短波系の二波を使って送信された。
この前線視察日程の暗号通信、「NTF(南東方面艦隊)機密第一三一七五五番地」は、米軍に解読された。
このとき第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将は、連合艦隊参謀に、山本長官の前線視察は危険であるから取り止めるように言い、「どうしても行かれるなら、第三艦隊の戦闘機を出すから、護衛の戦闘機をもっと付けなければだめだ」と付け加えた。
だが、参謀は、「大事な戦闘機だから六機でいいと言うのが長官の意向だ」と、取り合わなかった。
ショートランドの第十一航空戦隊司令官・城島高次少将(海兵四〇)はラバウルからの暗号通信を手にするや、その長文に驚いた。
城島少将は「電文が長すぎる。それに最前線で主将の行動を詳細に無線電報で知らせるなんて不適当だ」と部下の幕僚に漏らした。
城島少将は急遽、ラバウルに飛んだ。城島少将は山本司令長官に「急いで帰ってまいりました」と挨拶した。
山本司令長官は「お前のところへ行こうと思っていたのに帰ってきたのか」と言った。
城島少将は「長官が最前線にお出かけになれば一同大変喜ぶと思いますが、しかし、私は行かないほうがよいと思います」と言い、続けて、宇垣参謀長に向って
「主将の行動を、第一線において詳細な無線電報で打電する者があるものか」ときつい調子で吐いた。城島少将と宇垣参謀長は海軍兵学校四〇期の同期だった。
すると宇垣参謀長は「暗号を解読しておるものか」と素っ気無く答えた。
城島少将は、たたみかけるように「敵が暗号を解読しておらぬと誰が証明できるか。長官、私には最前線の状況がよく分かっています。行かれないほうがよいと思います」と言った。
山本司令長官は「お前はそういうけれど、一度行くといったからには行かないわけにはいかないよ。大丈夫、直ぐ帰ってくるよ。待っていろよ。晩飯を一緒に食おう」と答えた。
後に、城島少将は本土防衛の航空隊司令官に転じたが、知り合いの士官に「馬鹿ほど長い電報を打つんだよ」とはき捨てたという。
四月十七日夜、夕食に招かれた陸軍の第八方面軍司令官・今村均中将(陸士一九・陸大二七首席)も、二月に海軍機を借りてブインまで飛んだ時の体験を話し、山本司令長官に中止したほうがよいと忠告して、次の様に言った。
「とにかく、ブイン飛行場まで後十分というときに、P38に突然襲われましてね、そう、三十機もいましたか。あやうく雲間に逃れて、仏にならずに助かったのですが。長官も気をつけてください」
そのとき、山本司令長官はにこにこしながら「それはよかったですなあ」というだけで、それ以上そのことに、触れようとはしなかった。
四月十八日午前六時五分、山本五十六司令長官と宇垣参謀長ら司令部幕僚は、第二十六航空戦隊第七〇五航空隊所属の一式陸攻二機に分乗しラバウルを出発した。
六機の護衛戦闘機に守られながら一番機と二番機の一式陸攻二機は飛行したが、午前七時三十分、ブーゲンビル島上空で、米軍のP38戦闘機十六機に攻撃され、二機とも撃墜された。
一番機は、山本司令長官をはじめ全員戦死した。二番機は、宇垣参謀長、連合艦隊主計長・北村元治少将(海経五期)、主操・林浩二等飛行兵曹の三人が生還した。
暗号解読により、「ヤマモトミッション」と呼ばれた、米軍の山本五十六大将暗殺計画は、成功し、山本五十六大将は戦死した。享年五十九歳だった。
米軍のハルゼー大将は、ヤマモトミッション攻撃隊、P38戦闘機隊の隊長、ミッチェル少佐に「おめでとう。撃墜したアヒルどもの中には、一羽の孔雀がいたようだね」と電報を打ったという。
(「山本五十六海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山下奉文陸軍大将」が始まります)
草鹿中将は山本司令長官から「おい」と言われりゃ「へい」と言うような間柄で、「山本さん、あんたねえ」などと、何でも打ち明けて話していた。
草鹿中将の語るところでは、古い海軍の者は少しぐらい階級の上下があっても、たいてい「あんた」とか「君」とかで、「閣下」だの「長官」などはあまり呼ばなかったという。
「い」号作戦は、一応の成功を収めて終わり、山本司令長官のラバウル滞在の日程も、終わりに近づいてきた。
山本司令長官は日程の最後に、ガダルカナル戦線に最も近いショートランド島方面の基地を日帰りで視察することになった。
四月十三日、山本司令長官の前線視察日程が、宇垣参謀長の署名を得て、ラバウルの第八通信隊の放送通信系と、南東方面艦隊の一般短波系の二波を使って送信された。
この前線視察日程の暗号通信、「NTF(南東方面艦隊)機密第一三一七五五番地」は、米軍に解読された。
このとき第三艦隊司令長官の小沢治三郎中将は、連合艦隊参謀に、山本長官の前線視察は危険であるから取り止めるように言い、「どうしても行かれるなら、第三艦隊の戦闘機を出すから、護衛の戦闘機をもっと付けなければだめだ」と付け加えた。
だが、参謀は、「大事な戦闘機だから六機でいいと言うのが長官の意向だ」と、取り合わなかった。
ショートランドの第十一航空戦隊司令官・城島高次少将(海兵四〇)はラバウルからの暗号通信を手にするや、その長文に驚いた。
城島少将は「電文が長すぎる。それに最前線で主将の行動を詳細に無線電報で知らせるなんて不適当だ」と部下の幕僚に漏らした。
城島少将は急遽、ラバウルに飛んだ。城島少将は山本司令長官に「急いで帰ってまいりました」と挨拶した。
山本司令長官は「お前のところへ行こうと思っていたのに帰ってきたのか」と言った。
城島少将は「長官が最前線にお出かけになれば一同大変喜ぶと思いますが、しかし、私は行かないほうがよいと思います」と言い、続けて、宇垣参謀長に向って
「主将の行動を、第一線において詳細な無線電報で打電する者があるものか」ときつい調子で吐いた。城島少将と宇垣参謀長は海軍兵学校四〇期の同期だった。
すると宇垣参謀長は「暗号を解読しておるものか」と素っ気無く答えた。
城島少将は、たたみかけるように「敵が暗号を解読しておらぬと誰が証明できるか。長官、私には最前線の状況がよく分かっています。行かれないほうがよいと思います」と言った。
山本司令長官は「お前はそういうけれど、一度行くといったからには行かないわけにはいかないよ。大丈夫、直ぐ帰ってくるよ。待っていろよ。晩飯を一緒に食おう」と答えた。
後に、城島少将は本土防衛の航空隊司令官に転じたが、知り合いの士官に「馬鹿ほど長い電報を打つんだよ」とはき捨てたという。
四月十七日夜、夕食に招かれた陸軍の第八方面軍司令官・今村均中将(陸士一九・陸大二七首席)も、二月に海軍機を借りてブインまで飛んだ時の体験を話し、山本司令長官に中止したほうがよいと忠告して、次の様に言った。
「とにかく、ブイン飛行場まで後十分というときに、P38に突然襲われましてね、そう、三十機もいましたか。あやうく雲間に逃れて、仏にならずに助かったのですが。長官も気をつけてください」
そのとき、山本司令長官はにこにこしながら「それはよかったですなあ」というだけで、それ以上そのことに、触れようとはしなかった。
四月十八日午前六時五分、山本五十六司令長官と宇垣参謀長ら司令部幕僚は、第二十六航空戦隊第七〇五航空隊所属の一式陸攻二機に分乗しラバウルを出発した。
六機の護衛戦闘機に守られながら一番機と二番機の一式陸攻二機は飛行したが、午前七時三十分、ブーゲンビル島上空で、米軍のP38戦闘機十六機に攻撃され、二機とも撃墜された。
一番機は、山本司令長官をはじめ全員戦死した。二番機は、宇垣参謀長、連合艦隊主計長・北村元治少将(海経五期)、主操・林浩二等飛行兵曹の三人が生還した。
暗号解読により、「ヤマモトミッション」と呼ばれた、米軍の山本五十六大将暗殺計画は、成功し、山本五十六大将は戦死した。享年五十九歳だった。
米軍のハルゼー大将は、ヤマモトミッション攻撃隊、P38戦闘機隊の隊長、ミッチェル少佐に「おめでとう。撃墜したアヒルどもの中には、一羽の孔雀がいたようだね」と電報を打ったという。
(「山本五十六海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山下奉文陸軍大将」が始まります)