陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

71.有末精三陸軍中将(1) 有末はムッソリーニ氏の親友であり、ファシストじゃあないか

2007年07月27日 | 有末精三陸軍中将
 「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、昭和20年8月15日終戦の翌日、8月16日米国政府から「直ちに連合国最高司令官のもとに使者〈複数)を派遣せよ」との電報が届いた。

 参謀次長の河辺虎四郎陸軍中将を全権とした一行は8月19日、連合軍側の指定による全体白塗り、胴体に青十字を描いた塗装の海軍用陸攻二機でマニラに向け出発した(沖縄から米軍機に乗り換え)。

 8月21日河辺全権ら一行は大本営に帰着した。持ち帰った分厚い連合軍命令書の中に、進駐軍の着陸を神奈川県厚木飛行場と定め、その進駐受け入れの為に、政府、大本営陸海軍部を代表する将官を差し出すべき指定の一項目が示されていた。

 この初めて日本に飛来する進駐軍先遣隊を厚木飛行場に受け入れる、政府、大本営陸海軍部を代表する将官、対連合軍連絡委員長(厚木委員長)に有末精三(ありすえ・せいぞう)陸軍中将が任命された。有末中将は終戦時、参謀本部第二部長であった。

 だが、当時の総理大臣、東久邇宮から陸軍次官の若松只一中将に「有末はムッソリーニ氏の親友であり、ファシストじゃあないか、米軍との関係が不首尾にならんかネェ」と難色がでた。

 梅津参謀総長は「有末以外に適任者はありません。海軍からお出し下さい」と言った。豊田副武軍令部総長は「海軍には適任者もなく、ぜひ陸軍よりお願いしたい」。

 重光外務大臣は「彼はムッソリーニ氏と親交はあったが、ファシストではない。国際的感覚で彼の右に出るものはありますまい」とのことで、有末中将に厚木委員長が決定した。

 厚木飛行場は海軍航空隊の大規模航空基地だが、小園海軍大佐ら降伏に反対する一派が立てこもっていた。だが、8月23日に高松宮殿下の説得により、解放された。

 8月24日夕刻、厚木委員長・有末精三陸軍中将は厚木飛行場に着任した。飛行隊司令部等の兵舎の窓ガラスはメチャクチャに壊され、建物は空き家同然となっていた。

 その兵舎の中で十五人あまりの委員が卓を囲んで、有末中将を中心に会議を開いた。有末中将は、委員の任務を分担して、計画案を立案させ、夜中の十二時までに報告を要求した。

 そして、はじめて飛来する進駐軍先遣隊に対して、絶対に無法な抵抗を禁じ、無事に受け入れが出来るよう指示した。

 すると、軍令部の若いI参謀(少佐)が立ち上がって、有末中将の側に来て、肘で有末中将の脇腹をつついて「何ンダ将軍ずらをして、ダラ幹じゃないか」と言った。

 I参謀も委員の一人に選ばれているのだが、なんとなく胸糞の悪い思いを、有末中将にはけ口として突っかかってきたのだ。

 有末中将は「まあ、不平はとにかく、早く晩の兵食でも世話してくれんか」となだめた。だが実に重苦しい何ともいえぬ雰囲気であった。丁度、山澄大佐がすぐにそのI参謀を引っ張って、炊事の方へ連れて行き、兵食の世話をしてくれた。

 すこし前まで、厚木基地では「徹底抗戦」「マッカーサー機に体当たり」など不穏な空気があった。

 厚木委員会は進駐軍受け入れのための準備に全力を尽くした。飛行場の整備、米軍将校の宿舎、食糧、警備、接待方法などあまりにも時間が足りなかった。

 8月28日に最初に飛来する進駐軍先遣隊にはマッカーサーはいなくて、マッカーサーは先遣隊到着後の30日に到着する予定だった。

 初めて日本にやってくる米軍を主とする進駐軍先遣隊は、非常に緊張していたと言われている。降伏を受け入れた日本だが、いつ寝返るとも分からない。厚木基地に着陸した途端に人質に取られる可能性もある。

 そのような情勢の中、8月28日を迎えた。午前七時、有末中将ら委員一同は、飛行場に設営された天幕の指揮所に集まって受け入れの最終打ち合わせを行っていた。

 そのとき早くも横須賀に米第七艦隊の先発軍艦が入港し、戸塚道太郎横須賀鎮守府長官一行が米艦を訪問したところ、米兵からいやがらせのトラブルを受けたとの報告が入ってきた。

 有末中将らも先遣隊の米軍指揮官らの有末らに対する応対がどの様なものであるか不安であった。当日は早朝から厚木飛行場の上空を米戦闘機グラマンがまさに乱舞していた。低空飛行をした一機が一本の通信筒を落とした。

 有末中将が検分してみると、中に「well come 8th army」と書かれていた。この意味は、日本に進駐一番乗りをしたのは米海軍であるので、厚木に飛来する正式の進駐軍である米陸軍(第八軍)に対して、「ようこそ」とメッセージを送ったものだった。有末中将はこのような米軍同士の先遣争いがトラブルの元になると思い、このメッセージを握りつぶした。

 8月28日午前八時、厚木飛行場の西南方向の一点から爆音が聞こえてきた。進駐軍先遣隊の輸送機だった

70.南雲忠一海軍中将(10) サイパンが陥ちると、私は総理を辞めなければいけなくなるのだ

2007年07月20日 | 南雲忠一海軍中将
 もっとも、南雲長官は第一航空艦隊司令長官になってから、専門違いのためか精彩を失ったという噂もあった。やはり草鹿艦隊、源田艦隊という噂が真相をうがった声であったのかも知れない。

 昭和17年8月25日の第二次ソロモン海戦で、南雲支援部隊は米軍空母エンタープライズを大破させたが、空母龍驤と駆逐艦睦月を失った。

 飛行機も損害を出したが、ガダルカナルを中心とするアメリカ、オーストラリア軍の容易ならぬ反攻態勢を窺知することができた。

 10月26日の南太平洋海戦では、旗艦翔鶴が被弾損傷したが、米軍の大型空母ホーネットと駆逐艦ポーターを撃沈、空母エンタープライズも大破、その他戦艦1隻、巡洋艦1隻、駆逐艦1隻に損傷を与えて勝ち戦となった。

 南雲長官は悲願であったミッドウェイ海戦の敵討ちを果たす事ができた。

 南雲中将はその後、昭和17年11月11日佐世保鎮守府司令長官、昭和18年6月21日呉鎮守府司令長官、10月20日第1艦隊司令長官を歴任した。

 昭和19年3月4日 南雲中将は中部太平洋方面艦隊司令長官兼第14航空艦隊司令長官に転補された。

 中部太平洋方面艦隊は第四艦隊と第十四航空艦隊で編成されていたが、陸軍の小畑英良中将の率いる第三十一軍(四十三師団・二十九師団)が南雲司令長官の指揮下に編入された。

 総理大臣の東條英機は東京に出た南雲司令長官を官邸に呼んで「何とかサイパンを死守してほしい。サイパンが陥ちると、私は総理を辞めなければいけなくなるのだ」と言ったという。

 南雲は東條とは親しくなかった。同じ東北出身であるが、とくに付き合いはなかった。東條は南雲より三歳年長であるが、進級の早い陸軍では、二年以上前に大将に進級していた。

 後に南雲は「いくら、東條さんに頼まれてもな。無理なものは無理じゃよ。何しろ武器も兵員もない所へ行くんではな」と洩らしている。

 3月9日、南雲司令長官は幕僚を伴いサイパン島に進出した。サイパン島は皇国皇軍の不沈運命を背負う重大な戦局の基点となっていた。

 南雲長官は島を視察した後、参謀長の矢野英雄少将に「こんな装備で戦争ができると思うとるのかね」と嘆かわしげに言った。矢野参謀長もサイパンのあまりの無防備に驚いていたところだった。

 サイパンの日本軍の兵力は海軍15000名、陸軍29000名の合計44000名であった。

 昭和19年6月15日、米軍は米海軍全艦隊支援のもとに大軍でサイパン島に上陸、総兵力16万人の圧倒的な兵力は、たちまち同島の飛行場を占領した。

 海軍は小沢中将の率いる第一機動艦隊の全力を以って6月19日、20日にわたってサイパン島西方海域で戦ったが、大した戦果もなく、主力空母3隻を失って敗退した。大本営はついに6月24日、サイパン島奪回を断念した。

 サイパン島の南雲中将率いる陸軍部隊、海軍部隊は孤立無援となり、孤軍奮闘したが、玉砕した。

 南雲司令長官の最後について「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、次のように述べている。

 7月6日早朝、第四十三師団長斉藤義次中将は、南雲長官に「長官、この時をのがさず自決しますか」と訊いた。南雲長官は「そうですね、すぐ私も後を追っかけます」と言った。

 白布の上に端座した斉藤中将が、参謀長井桁少将の介錯で自刃したのに続いて、南雲長官も参謀長矢野少将の介錯で自刃した。そのあと第六艦隊司令長官、高木中将も自刃した、となっている。

 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、南雲長官の最後は次のようになっている。

 7月6日よる、地獄谷の陸軍洞穴で、斉藤中将と井桁少将が自決した。

 南雲中将は海軍の残存将兵を集めると「では今から突撃する。全員俺に続け!」と海軍中将の襟章をもぎ取った軍装のまま拳銃を構えるとジャングルを抜けて、米軍の陣地に向かった。

 「バンザーイ」「ワッショイ、ワッショイ」「ツッコメー」日本軍の万歳突撃が始った。突撃部隊は武器らしい武器ももたず、マタンシャからタナバダの方向に向かった。撃っても撃っても押し寄せてくるので、米軍も一時はタナバグの南まで後退した。

 万歳突撃が終わったのは7月9日である。南雲中将はこのあたりのいずれかで最期を遂げたもので、時刻は7月7日未明とされる、となっている。

(「南雲忠一海軍中将」は今回で終わりです。次回からは「有末精三陸軍中将」が始まります)

69.南雲忠一海軍中将(9) 「長官はふるえておられた」というささやきが伝えられた

2007年07月13日 | 南雲忠一海軍中将
 「波まくらいくたびぞ」(講談社文庫)によると、自室に呼んだあと、「ご苦労だったね」とウイスキーと機密費二千円を草鹿参謀長に渡した宇垣参謀長は、次のように言った。

 「いや、GF(連合艦隊司令部)の方も、気のゆるみがあった。実は、五月二十五日ごろから六月一日にかけて、ハワイ方面の敵電報が非常に増えてきていた」

 続けて「何かあったな、と考えていたが、これが敵の空母の出撃だったわけだな。何とかして、君に知らせたいと考えたが、ご承知の無線封止でな、参謀たちここで無電を打てば、大和の位置がわかってしまうと猛反対だったんだ、こういうことになるのなら、危険をおかして、通報すべきだったな。君にはすまなかったと思っている」と頭を下げた。

 草鹿は体がふるえるのを覚えた。旗艦大和の、主力部隊の安全を計る為に赤城の司令部が最も欲しがっていた情報を握りつぶしたのだ。

 長良に帰った草鹿参謀長は、ふんまんの面持ちで南雲長官にそれを報告した。

 「そうか、わかっていたのか」南雲長官は暗然とした。そもそも大和が出て来たのは余計なことではなかったか。大和が太平洋上に来た為に、無線封止をせねばならなかった。

 柱島におれば、自由に情報を打電し、機動部隊を指導することができたはずだ。だが大和司令部を恨む気にはなれなかった。俺が戦い、そして負けたのだ。

 元海軍大佐、淵田美津雄氏はその著書「ミッドウェー」(日本出版協同)の中の第六章で、南雲長官論を記している。

 昭和8年当時、淵田大尉は巡洋艦摩耶の飛行長であった。摩耶は第二艦隊第四戦隊の二番艦であった。同じ戦隊の三番艦高雄の艦長が南雲忠一大佐だった。

 当時南雲大佐は新進気鋭の俊英であった。艦隊には艦長が何人もいたが、その中でも、ぴカ一の存在として光っているように見えた。

 やることなすことにソツがないし、うまいもんだなあと感ずることばかりである。艦隊の研究会でも、南雲大佐の陳述を聞いていると、なるほどと良く筋が通って、啓蒙されることばかりであった。

 これはたいした切れ者と頭が自然に下がった。淵田たち若い士官たちは心からなる尊敬をもって、この有能な艦長に絶対の信頼をおいていた。

 その後、淵田は南雲忠一に接する機会はなく、8年後の昭和16年、淵田は、航空母艦赤城の飛行隊長に補せられた。そして機動部隊長官として南雲中将を仰いだ。

 ところが、航空という畑違いのせいもあってか、溌剌爽快な昔の闘志が失われ、何としても冴えない長官であったと淵田は述べている。

 作戦指導も長官自らイニシアチブをとるという風はなかった。最後に「ウン、そうか」で決裁するだけのようだった。

 淵田と同期の源田作戦参謀が淵田に漏らしたという。

 「いつでも自分の起案した命令案が、すらすらと通ってしまう。抵抗がなくていいようなもんだが、実は違う」

 「自分だけの考えで起案したものが、いつも上のほうで、何のチェックも受けずに、命令となって出て行くと思うと空恐ろしい。俺自身はいくら己惚れても、全知全能ではない」と。

 丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)の中で元連合艦隊参謀・海軍中佐、中島親孝氏寄稿の「私の見たアドミラル採点簿」によると、ミッドウエー海戦で壊滅した第一航空艦隊の跡継ぎとして、第二艦隊が新しく生まれた。

 司令長官・南雲忠一中将、参謀長・草鹿龍之介少将が第一航空艦隊から横すべりしたのは「ミッドウェーの敵討ち」をさせてもらいたいと懇願し、山本五十六連合艦隊司令長官のとりなしによったものと言われている。

 昭和17年8月7日、米軍がツラギ、ガダルカナルに上陸してきた。第二艦隊と第三艦隊で支援部隊を編成、ガダルカナルの陸上戦闘を支援する事になったが、連合艦隊司令部が細かい行動まで指示してきた。

 陸軍部隊の作戦が敵を過小評価し、拙速をねらっていたため、小刻みの予定繰り下げが続いた。支援艦隊も海面で似たような行動を繰り返す事を余儀なくされた。

 敵潜水艦の考慮から、毎回なるべく違った行動をとるように考えると、南雲長官は連合艦隊司令部の指示と違うと言って、なかなか首を縦にふらない。

 ようやく同意してもらって電報すると、連合艦隊司令部から指定地点に行けとのおしかりがくる。説明に行った参謀から「長官はふるえておられた」というささやきが伝えられた。

 これがかって日本海軍きっての水雷戦術のオーソリティとうたわれ、海軍省と争って軍令部の権限を拡大させた時の、軍令部側の先頭に立った論客とは思えなかった。

68.南雲忠一海軍中将(8) 草鹿君、逝かしてくれい、武士の情けだ

2007年07月06日 | 南雲忠一海軍中将
 12月24日、山本司令長官は永野修身軍令部総長とともに、空母赤城を訪れた。

 山本は赤城の舷梯を登り、艦内に一歩踏み入れると同時に「これはいかん」と思った。彼が感じたのは士気よりも驕りであった。

 山本長官は、赤城の長官公室に参集した各級指揮官を、きびしい表情で眺めた。そして次のように話した。

 「緒戦には幸いに一勝できたが、戦争は長期戦であり、これからが、真の戦いである。幸運の一勝に驕ってはいかん。勝って兜の緒を締めよ、という言葉を忘れてはいけない。勝利を得て凱旋したなどと考えてはいかん。次の戦闘準備のため、一時帰投したのである。一層戒心して事に当たるよう希望する」

 これが山本司令長官の訓示であった。戦利を誉めるでもなく、労苦をねぎらうでもない。叱咤激励に近い口調であった。

 これについて「悲劇の南雲中将」(徳間書店)では、阿川弘之著の「山本五十六」の内容を引用し、赤城の長官公室に参集した各級指揮官への山本司令長官の訓示について、次のように批判している。

 「態度や言葉が、いかにも冷酷で、これは南雲中将に対する積年の公怨私怨がこめられているようである」と。

 「悲劇の南雲中将」(徳間書店)の著者、松島慶三氏(海兵45期・海大卒・元海軍報道部長)は、「山本五十六と同期で親友の堀悌吉を、ロンドン軍縮会議のときに首を切った艦隊派の加藤寛治、末次信正の一派が南雲長官であった」と述べている。

 さらに「しかし、当時軍令部の一課長にすぎない、南雲大佐がその実力があったかどうか」とも記している。

 また松島氏は山本五十六について、「世紀の大事業たる真珠湾攻撃の功罪にかかる私怨をさしはさむほど連合艦隊司令長官たる山本五十六大将は小人物ではなかった」と述べている。

 なお、このあと一悶着があった。真珠湾攻撃後の航空機搭乗員の二階級進級問題である。

 機動部隊の草鹿参謀長と、軍令部の福留部長や人事局との間に「約束が違う」という衝突が起った。

 これは真珠湾攻撃前に福留部長が「真珠湾攻撃が成功したら、全員二階級特進させるから、必ず成功させてくれ」と発言した。

 それで、結果的に二階級特進はなくなったので、草鹿参謀長の「約束が違う」となったのである。

 だが、これは福留部長だけの口約束で、実際は上部との連絡が取れていなかったのである。

 真珠湾攻撃の大成功に、日本内地では、軍人も国民も熱狂、歓喜の渦であった。

 だが、そんな中、敵空母を逃した事に、きびしい批判をしたのは、横須賀航空隊司令の上野敬三少将だったと言われている。

 また、後日、南雲長官が永野修身軍令部総長会ったとき、永野総長は真珠湾攻撃の「一撃避退」に不満を漏らしたとも言われている。

 昭和17年6月5日~7日 ミッドウェイ海戦で南雲長官の機動部隊は空母四隻を失い大敗した。

 軽巡長良に移った南雲司令部に対して連合艦隊はミッドウェイ作戦の中止を命じた。

 南雲長官は命令を受け取ると、司令官公室に引き篭もった。

 草鹿参謀長は南雲長官が短剣に真刀を仕込んでいるのを聞いていたので、司令官公室に向かった。

 中に入ると「作戦の失敗は誰にあると思う。わしはこの日の為に用意してきた」と言って、短剣を抜き鞘を払った。

 ほの暗い灯りの中で相州物の真剣がにぶく光っていた

 長官、いけません」草鹿参謀長は、その短剣を取り上げようとした。

 「なにをするか」南雲長官は抵抗したが、山岡鉄舟の無刀流を修練した草鹿参謀長に短剣を取り上げられた。

 「草鹿君、逝かしてくれい、武士の情けだ」

 「だめです、長官。仇をとりましょう。空母もまだ翔鶴と瑞鶴があります。搭乗員も淵田、村田、江草などのベテランが残っています。もう一回だけやってみましょう」

 南雲長官は「うむ」と言って草鹿参謀長から短剣を受け取り鞘に収めたという。

 6月10日、軽巡長良は戦艦大和と海上で会合し、草鹿参謀長は大和に乗り移り、山本五十六長官に報告した。

 草鹿参謀長は負傷しており、もっこにかつがれていた。

 山本長官は南雲長官と草鹿参謀長をもう一度作戦に参加させる事を了承した。

 そのあと宇垣参謀長が草鹿参謀長を自室に呼んだ。