陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

253.山口多聞海軍中将(13)航空隊主力をハワイに回すのは本末転倒だ。山本さんの考えはおかしいぞ

2011年01月28日 | 山口多聞海軍中将
 「おい、ハワイ攻撃をやめてくれ」。大西少将は真顔でとんでもないことを言い出した。「いまさら何を言うんだ」と山口少将は答えた。

 すると大西少将は「そう向きになるな。いいか、今我々が欲しいのは南方の石油だ。我々の第十一航空艦隊だけでは手が回らぬ。航空隊主力をハワイに回すのは本末転倒だ。山本さんの考えはおかしいぞ」と言った。

 山口少将は「馬鹿野郎。貴様は最初に山本さんから相談を受けて、ハワイ攻撃の研究を始めたのではないか。まさか南雲さんに、たきつけられたのではなかろうな」と言うと、大西少将は次の様に答えた。

 「いや、そうではない。あの時は俺もやろうと思った。だがな、今は立場が違う。もっとも大事なところを任されておると自負している。ハワイは、格好はいい。だがな、空母を五隻も六隻も使い、一騎当千のパイロットを三〇〇人も連れて行くんだぞ。まして航続距離もはんぱじゃない。ハワイではなく、南方にこそ彼らを出すべきだ。貴様の飛龍など行けるわけがないではないか」

 山口少将が「何だと」と言うと、「もっと冷静になれ、ここは危険な賭けはやめろ」と大西少将は言った。

 山口少将は「冗談言うな。アメリカの出鼻をくじくにはハワイしかない。俺は貴様がどう言おうが、真珠湾をやる」とあとに引かなかった。

 すると大西少将は「俺は止めてやる。草鹿参謀長も俺と同じ意見だ」と言った。取っ組み合い寸前の喧嘩になった。

 山口少将は困ったと思った。大西少将がこのような発言をするのは、内部にかなりの反対があることを示していた。

 確かに冒険である。博打かもしれない。だが、アメリカに勝つには奇襲攻撃しかない、これは明白な事実だ。大西には悪いが必ず実施してみせる、と山口少将は思った。

 この問題も結局、山本五十六司令長官の裁断でけりがついた。負けん気の強い大西少将は、第一航空艦隊参謀長・草鹿少将と、山口県室積沖に停泊中の連合艦隊の旗艦に向かい、山本五十六司令長官に直談判に及んだが、一蹴されてしまった。

 九月二十九日、司令長官・南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)、参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)ら第一航空艦隊司令部は、鹿屋基地の司令長官・塚原二四三中将(海兵三六・海大一八)、参謀長・大西瀧治郎少将(海兵四〇)ら第十一航空艦隊司令部を訪ね、ハワイ奇襲作戦について打ち合わせを行った。

 その後、草鹿参謀長は、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将に次の様な提案をした。

 「ハワイ作戦は航続力が大きく途中での燃料補給が少なくてすむ加賀、瑞鶴、翔鶴の三隻でやることにし、瑞鶴、翔鶴には練度の高い二航戦の搭乗員を乗せる。航続力の小さい赤城、飛龍、蒼龍はフィリピン作戦に使うことにし、飛龍、蒼龍には練度が十分でない五航戦の搭乗員を乗せる。それを承知してもらいたい」。

 これを聞いた山口少将は烈火のごとく怒って次のように言った。

 「いままで、寝食を共にしてきた搭乗員をハワイにやり、司令部と母艦は極東海面に残るなぞ、そんな生木を裂くようなことをして、戦ができるとおもうか」。

 山口少将は、指揮官と部下のつながりを何と考えているかと思った。そして次の様に言った。

 「飛龍、蒼龍の航続力が不足なら、往きだけいっしょにゆき、帰りは放り出されてけっこうだ。燃料がなくなって漂流しようが、どうしようがいっこうにかまわん」。

 山口少将は、その後、第一航空艦隊司令長官・南雲中将に直接会うことにした。山口少将はどこか、南雲中将とそりが合わなかった。

 山口少将は、父親は島根だが、生まれも育ちも東京である。開成中学という洒落た学校で幅をきかせ、海軍兵学校でも全てを仕切った。

 なんでも自分でやらないと気がすまない。重慶の爆撃に加わり、夜間の雷撃訓練を自ら体験したのも、じっとしていられない山口少将の性格が関係している。

 いったん言い出したら、てこでも動かない。今度のように空母を変えるなど、とても許せることではない。

 対する南雲中将は軍令部がそう言えば仕方ないと、考えるタイプだった。あきらめが早いところがあった。生まれは、質素倹約で名高い上杉鷹山(ようざん)の米沢である。

 米沢なまりが抜けないため、時々、何を言っているのか分からなかった。副官がポツリと漏らしたほどである。「訓示は英語でやったほうが、まだいいですなあ」。

252.山口多聞海軍中将(12)第二航空戦隊は三人の信長的な武将によって采配されることになった

2011年01月21日 | 山口多聞海軍中将
 後日、南雲中将は兵学校同期の第十一航空艦隊司令長官・塚原二四三中将と山本司令長官に、ハワイ作戦の中止を具申した。

 だが、山本司令長官は「私の目の黒いうちは、中止はない。作戦が承認されなかった場合、即刻辞任する」と敢然と言い放ち、これを一蹴した。

 昭和十六年九月七日、佐世保軍港に在泊中の空母「飛龍」は新艦長を迎えた。「炎の提督・山口多聞」(岡本好古・徳間文庫)によると、新艦長は、海軍兵学校時代、暴れん坊の上級生、山口多聞(海兵四〇次席・海大二四恩賜・中将)に少なからずしごかれた加来止男(かく・とめお)大佐(海兵四二・海大二五・少将)だった。

 加来大佐は一貫して航空畑を歩み、七、八年前には連合艦隊航空参謀をつとめた。登舷礼のあと、司令官室で両人は久闊を叙した。兵学校以来だった。

 「あの時の山口先輩は歴史上のいかなる猛将よりもおっかなかったですよ」と加来大佐が言うと、山口少将は次の様に言った。

 「すまなかったな、いつも君は大きく目を見開き直立不動の姿勢で、俺の鉄拳を甘受してくれた。大柄で、たくましそうだから、つい、パンチの数も多くなったな。出る杭は打たれる、というからな。すまなかったよ」

 加来大佐は見事な八字ひげを具えていた。山口少将は、しげしげとその顔を見て「ほう、加来君、君はひげを生やすと、俄然俺の目にはイメージ満点に映るよ。全く」と言った。

 加来大佐は「はあ・・・・・・ひげは、別に強そうに見えるからではなく、なんとなく生やしただけですが」と答えた。

 山口少将は加来大佐の顔を改めて見た。全く、信長をほうふつさせる。信長が、性格を一新してすこぶる上機嫌で愛想良くなったといった面差しであった。

 山口少将は「君は熊本出身だったな。ああ、八代・・・・・では、神風連の乱の気風を多分に受け継いでいるんだ。君も兵学校では、俺と同様、名うての暴れん坊だった。だから、俺に良く殴られた。君はせっかちで、行動的な気性だろう」と言った。

 加来大佐は「はあ、ぐずぐずするのは性に合いません」と答えた。

 山口少将が「俺もそうよ。江戸っ子だから、がたがた言わずに早いとこやっちまえ、言いてえんだ」と言うと、「私も同感です。これまで海上、司令部、陸上を転々とする度に、上層部の判断決断の遅さ、消極性にやきもきし、腹を立て通しでした。海軍もお役所ですね」と加来大佐は答えた。

 山口少将も「俺もよほど上官を殴り、乗艦を沈めてやろうかと何度思ったかも知れない。平時ならそれでもよいだろうが、一瞬一瞬が戦機に関る戦時になったら、と、今から心配だな」と同調した。

 加来大佐はさらに続けた。「勇者は逃げ腰も用意して攻撃にかかれ、という兵の要諦もよく分かりますが、思慮とためらいがすぎるともう戦力ではなくなりますよ。とりわけ、将官たる者はそれを肝に銘じなければ」。

 これに対し山口少将は「慎重な泥棒猫ではなく、果敢な喧嘩犬になろうよ。人間すべからく死のうは一定、ここぞと思い決したら突進する桶狭間の信長になることだ」と言った。

 加来大佐も「存分に奮迅したいものですね。そして荘重な散華を、できれば大海の只中で・・・海軍軍人として最高の掉尾(ちょうび・最後、終わり)です」と言った。

 山口少将は「同感だ、加来君」と言ったものの、山口少将は少なからず鼻白む思いだった。加来大佐は山本五十六大将の航空用兵論の忠実な担い手ではあるが、驚いたことに、山本大将とは反対に熱心な艦隊派だったのだ。

 加来大佐は、国辱められれば即、英米を討つとするタカ派だった。だが、山口少将も多分にその気質を分かち持っていた。

 空母「蒼龍」艦長の柳本柳作(やなぎもと・りゅうさく)大佐(海兵四四・海大二五・少将)も剣道の名手で、至誠あふれる情に厚い人柄は部下に慕われ、さながら山中鹿之介をほうふつさせた。「俺は最後には腹を切って果てたい」と日ごろから周囲へ洩らしていた。

 第二航空戦隊は三人の信長的な武将によって采配されることになった。

 昭和十六年九月十一日から二十日までの十日間、連合艦隊は海軍大学校で「ハワイ作戦特別図上演習」を終えた。

 ところが、この時期になって、ハワイ攻撃の是非をめぐる論議が再燃した。南方攻撃を担当する第十一航空艦隊の参謀長、大西瀧治郎少将が突然、山口少将のところに来て意外な話を始めた。

251.山口多聞海軍中将(11) 南雲中将は山口少将のほうを向き、目を剥いた

2011年01月14日 | 山口多聞海軍中将
 「飛龍」の整備分隊制動機発着機係の石橋武男一等整備兵曹は、艦爆分隊長・小林道雄大尉(海兵六三)の航空日誌をガリ版で印刷し、搭乗員達に配る仕事をしていた。

 ある厚い日の夕暮れ、彼は、白の第二種軍装を着た山口司令官が艦橋近くの飛行甲板に立っているのを見かけ、思いついたことをやってみようと、山口司令官の後ろに近づいた。

 「当直将校!」と石橋一等整備兵曹は山口司令官に声をかけた。すると山口司令官は後ろを振り返り、「当直将校じゃないよ」と、おっとり答えた。

 「あ、失礼しました」と先刻承知の石橋一等整備兵曹はそう詫びたが、頭の中では「うまくいった」と思い、同時に嬉しくなった。彼は一度でいいから山口司令官と言葉を交わしたかったのである。

 石橋一等整備兵曹は、このことを他人に話すのがもったいなくて、昭和五十九年まで四十三年間しまっておいたが、飛龍会編の「空母飛龍の追憶」(非売品)にやっと発表した。彼はそこに「山口司令官(海空軍の至宝、真の実力者)」と記している。

 「山口多聞」(松田十刻・学研M文庫)によると、昭和十六年四月上旬、連合艦隊旗艦「長門」の長官公室に第一航空艦隊の首脳が集まった。

 司令長官・山本五十六大将(海兵三二・海大一四)がハワイ作戦の概要を述べると、機動部隊「第一航空艦隊」司令長官の南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)は航空甲参謀・源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)に、成功の見込みについて問いただした。

 一通り説明を受けた南雲中将は、山本大将に向かって「本職は、この作戦には投機的な要素が多すぎると思う」と発言した。

 山口多聞少将(海兵四〇次席・海大二四恩賜)は心の中で舌打ちした。「南雲長官!」。自分でも驚くほど強い調子になっていた。南雲中将は山口少将のほうを向き、目を剥いた。そして「なんだね」と答えた。

 山口少将は「それでは長官はどのようにお考えですか?」と質した。すると南雲中将は「そりゃあ、南方作戦一本槍だ」と断言した。そしてその理由について次の様に長々と説明した。

 「ハワイと南方に空母、飛行機を二分すれば、どちらも兵力不足になる恐れがある。ハワイは投機的な支作戦にすぎない。成功したとしても南方作戦が安心してやれる程度である。攻略を企画するものではないので、台風一過のような感じであり、以後の戦局への戦果拡充が伴わない」

 「万一失敗すれば全作戦が台無しになり、わが艦隊勢力も半分を失う心配がある。得るところよりも失うところのほうが多いと思われる」

 「開戦の作戦指導としては危なっかしい。それよりも南方に全力を傾注し、早急に作戦目的を達し、アメリカ太平洋艦隊の撃滅を策する方が手堅い。我が海軍の全勢力をあげて南方作戦に当たるならば、太平洋艦隊の多少の牽制などは問題にはならない」

 「以上のような理由で、本職はハワイ作戦に反対である」

 山口少将は「本職はハワイ作戦に全面的に賛成であります」と力強く発言すると、まわりから南雲中将と山口少将の表情を交互にうかがうような視線を感じた。

 山口少将は胸に秘めた感情が沸々とたぎり、顔がほてってきた。山口少将は次の様に論じた。

 「南雲長官の言われる通り、ハワイ作戦には投機的な性格はありますが、アメリカ海軍の闘志はきわめて旺盛であり、南方作戦に踏み切った場合、太平洋艦隊は英、蘭、豪の艦隊と糾合し、南方へ反撃してくるのは必須であります」

 「そうなれば上陸作戦に成功したとしても、わが軍は補給路を撹乱され、作戦は収拾のつかないものになることでしょう。さらには連合艦隊のいない隙に乗じて本土、しかも帝都を脅かすような事態が起こるかも知れません」

 「ゆえにハワイへの一撃は作戦上、第一になくてはならないものと考えます。われわれの主敵はアメリカ海軍であります。むしろ空母勢力すべてをハワイに向けるのが妥当であります」

 「私の見るところでは、南方は無防備にひとしく、海軍の全勢力を注ぎ込むほどのことはないと思われます」

 南雲中将は苦々しい顔つきをしていた。二人に触発されたように、次々に賛成、反対の意見が出席者から噴出した。

 目をつむって両者の言い分を聞いていた山本司令長官は、座が静まると目を開けた。そして大きな口が開いた。

 「両者の見解はよくわかった。本職の見解はあくまで真珠湾を叩くことである」。その場にいた全員が粛然となった。

250.山口多聞海軍中将(10)やい、多聞丸、よくも俺たちをひでぇ目にあわせやがったな

2011年01月07日 | 山口多聞海軍中将
 大西少将が「貴様のところのあの飛行機はなんだ。・・・・・・」と言っているのは、一連空の二一型九六陸攻のことで、「じゅうたん爆撃をするべきじゃないか」というのは、次の様なことと推察される。

 六月上旬までの攻撃は、飛行場と軍事施設に限っていた。だが、市街には多数の対空砲台が設置されており、それによる味方の被害が増大してきたし、また飛行場や軍事施設を爆撃するぐらいでは効果が少ない。

 だから市街地もひっくるめてじゅうたん爆撃をし、敵の戦意を喪失させるべきだ。そのためにイギリスやアメリカの軍事施設に爆弾が落ちても仕方がない。それでイギリスやアメリカに文句を言われたって大したことにはならない。

 これに対して山口少将が「各国大使館もあることだし・・・・・・」と言っているのは、無差別爆撃をやって米英の領事館や軍艦まで爆破するなら、対米英戦の決意がなければならないが、中央(海軍省・軍令部)にはそこまでの肝がない。だから、そういうものは避けて爆撃しなければならない、ということだった。

 さて、七月十日近くになると、新型の中国戦闘機隊が高度八千メートルぐらいで陸攻隊を待ち伏せて襲ってくるようになり、味方の被害が増加し始めた。

 それでも山口少将は爆撃続行を主張した。だが、今度は大西少将が山口少将をおさえにかかった。「あと一週間もすれば零戦隊が到着する。そうすれば援護戦闘機をつけて爆撃することができる。犠牲の多い裸攻撃を急いでやることはねえだろう」

 すると山口少将は「いや、蒋介石政権を屈服させるには、敵に立ち直る余裕を与えてはいかん。犠牲が出ても攻撃を続行すべきだ」と言った。

 言い出せば、両方あとに引かない。だが、決定権は山口少将にあった。一連空の参謀が大西少将のところへ来て言った。「山口司令官はどうしても重慶攻撃を中攻(陸攻)単独でやると言われます」。

 これに対し、大西少将は「そうか、どうしてもやるというならやりゃよかろう。だが、俺は元々航空の生抜きだ。山口の参謀長としてやっているが、本来は二連空の司令官だ。おれにも覚悟があるといっとけ」

 一連空の参謀は仕方がなくて帰っていった。しばらくすると、山口少将本人が現れて、大西少将の肩を叩いて言った。「大西、やはり一週間のばそうよ」。

 このことについて、大西少将は後に「今から思うと、山口のほうが一枚上だったよ」と、人に語ったという。「おれにも覚悟がある」というのは、山口少将の参謀長をやめて、二連空は俺の思い通りにやる、ということであろう。

 特攻隊待望の新鋭零式艦上戦闘機六機が、横山保大尉(海兵五九)に率いられ、横須賀から大村、上海を経由して漢口基地上空に姿を現したのは七月十五日だった。

 だが、当分は実用実験飛行を繰り返して整備しなければならないので、すぐに出撃させることはできなかった。

 結局、陸攻隊は、大西少将の意見もあったが、零戦の整備完了を待っているわけにもいかず、単独の重慶攻撃を再開した。

 昭和十五年八月十九日、横山大尉が率いる零戦一一型十二機は、一、二連空の陸攻五十四機とともに重慶に出撃した。零戦が実戦に参加したのは、このときが史上初であった。この時は、敵戦闘機はすでに零戦の威力を知っており、一機も姿を見せなかった。

 翌日、八月二十日には、新藤三郎大尉(海兵六〇)が、零戦十二機を率いて、陸海合計百八機の攻撃隊とともに出撃したが、やはり敵戦闘機は一機も現れなかった。

 五月中旬以来三ヶ月にわたる一〇一号作戦も、ついに作戦終了の九月五日となった。蒋介石政権を打倒する目的を果たさないまま、大本営海軍部は作戦の打ち切りを決定し、一、三連空は、九月六日、二連空を漢口に残して、それぞれ、鹿屋、高雄、海南島の原隊へ帰っていった。

 鹿屋基地に帰った搭乗員や整備員たちは、久しぶりに羽をのばして、飲み、遊び、寝た。鹿屋にはうまいすき焼きを食わせる「あみ屋」という肉屋があった。「あみ屋」の主人は、顔立ち、体つきが山口多聞少将にそっくりだった。

 ここで、すき焼きを食い、一杯飲んだ搭乗員たちは、漢口の一〇一作戦で、山口少将に酷使されたことを語り合い、店の主人をつかまえ、「やい、多聞丸、よくも俺たちをひでぇ目にあわせやがったな」と、そのはげ頭や、丸々太った太鼓腹を、ぴしゃぴしゃ叩いて喜んだという。

 昭和十五年十一月一日、山口少将は空母部隊の第二航空戦隊司令官として、佐世保軍港沖のブイに繋泊(けいはく)している旗艦の空母「飛龍」(二〇一六五トン)に着任した。

 第二航空戦隊は連合艦隊第二艦隊(重巡部隊)に所属し、空母「飛龍」、「蒼龍」(一八五〇〇トン)と、第十一駆逐隊(駆逐艦三隻)で編成されていた。

 「飛龍」は、新鋭中型空母で、昭和十四年七月五日、横須賀海軍工廠で完成され、全長二百二十二メートル、幅二十二メートル、公試排水量二〇一六五トン、一五二〇〇〇馬力、最大速力三十四・六ノット(時速約六十四キロ)、乗員約千百名、搭載飛行機数は常用五十七機、補用十六機。所属は佐世保鎮守府だった。