「おい、ハワイ攻撃をやめてくれ」。大西少将は真顔でとんでもないことを言い出した。「いまさら何を言うんだ」と山口少将は答えた。
すると大西少将は「そう向きになるな。いいか、今我々が欲しいのは南方の石油だ。我々の第十一航空艦隊だけでは手が回らぬ。航空隊主力をハワイに回すのは本末転倒だ。山本さんの考えはおかしいぞ」と言った。
山口少将は「馬鹿野郎。貴様は最初に山本さんから相談を受けて、ハワイ攻撃の研究を始めたのではないか。まさか南雲さんに、たきつけられたのではなかろうな」と言うと、大西少将は次の様に答えた。
「いや、そうではない。あの時は俺もやろうと思った。だがな、今は立場が違う。もっとも大事なところを任されておると自負している。ハワイは、格好はいい。だがな、空母を五隻も六隻も使い、一騎当千のパイロットを三〇〇人も連れて行くんだぞ。まして航続距離もはんぱじゃない。ハワイではなく、南方にこそ彼らを出すべきだ。貴様の飛龍など行けるわけがないではないか」
山口少将が「何だと」と言うと、「もっと冷静になれ、ここは危険な賭けはやめろ」と大西少将は言った。
山口少将は「冗談言うな。アメリカの出鼻をくじくにはハワイしかない。俺は貴様がどう言おうが、真珠湾をやる」とあとに引かなかった。
すると大西少将は「俺は止めてやる。草鹿参謀長も俺と同じ意見だ」と言った。取っ組み合い寸前の喧嘩になった。
山口少将は困ったと思った。大西少将がこのような発言をするのは、内部にかなりの反対があることを示していた。
確かに冒険である。博打かもしれない。だが、アメリカに勝つには奇襲攻撃しかない、これは明白な事実だ。大西には悪いが必ず実施してみせる、と山口少将は思った。
この問題も結局、山本五十六司令長官の裁断でけりがついた。負けん気の強い大西少将は、第一航空艦隊参謀長・草鹿少将と、山口県室積沖に停泊中の連合艦隊の旗艦に向かい、山本五十六司令長官に直談判に及んだが、一蹴されてしまった。
九月二十九日、司令長官・南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)、参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)ら第一航空艦隊司令部は、鹿屋基地の司令長官・塚原二四三中将(海兵三六・海大一八)、参謀長・大西瀧治郎少将(海兵四〇)ら第十一航空艦隊司令部を訪ね、ハワイ奇襲作戦について打ち合わせを行った。
その後、草鹿参謀長は、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将に次の様な提案をした。
「ハワイ作戦は航続力が大きく途中での燃料補給が少なくてすむ加賀、瑞鶴、翔鶴の三隻でやることにし、瑞鶴、翔鶴には練度の高い二航戦の搭乗員を乗せる。航続力の小さい赤城、飛龍、蒼龍はフィリピン作戦に使うことにし、飛龍、蒼龍には練度が十分でない五航戦の搭乗員を乗せる。それを承知してもらいたい」。
これを聞いた山口少将は烈火のごとく怒って次のように言った。
「いままで、寝食を共にしてきた搭乗員をハワイにやり、司令部と母艦は極東海面に残るなぞ、そんな生木を裂くようなことをして、戦ができるとおもうか」。
山口少将は、指揮官と部下のつながりを何と考えているかと思った。そして次の様に言った。
「飛龍、蒼龍の航続力が不足なら、往きだけいっしょにゆき、帰りは放り出されてけっこうだ。燃料がなくなって漂流しようが、どうしようがいっこうにかまわん」。
山口少将は、その後、第一航空艦隊司令長官・南雲中将に直接会うことにした。山口少将はどこか、南雲中将とそりが合わなかった。
山口少将は、父親は島根だが、生まれも育ちも東京である。開成中学という洒落た学校で幅をきかせ、海軍兵学校でも全てを仕切った。
なんでも自分でやらないと気がすまない。重慶の爆撃に加わり、夜間の雷撃訓練を自ら体験したのも、じっとしていられない山口少将の性格が関係している。
いったん言い出したら、てこでも動かない。今度のように空母を変えるなど、とても許せることではない。
対する南雲中将は軍令部がそう言えば仕方ないと、考えるタイプだった。あきらめが早いところがあった。生まれは、質素倹約で名高い上杉鷹山(ようざん)の米沢である。
米沢なまりが抜けないため、時々、何を言っているのか分からなかった。副官がポツリと漏らしたほどである。「訓示は英語でやったほうが、まだいいですなあ」。
すると大西少将は「そう向きになるな。いいか、今我々が欲しいのは南方の石油だ。我々の第十一航空艦隊だけでは手が回らぬ。航空隊主力をハワイに回すのは本末転倒だ。山本さんの考えはおかしいぞ」と言った。
山口少将は「馬鹿野郎。貴様は最初に山本さんから相談を受けて、ハワイ攻撃の研究を始めたのではないか。まさか南雲さんに、たきつけられたのではなかろうな」と言うと、大西少将は次の様に答えた。
「いや、そうではない。あの時は俺もやろうと思った。だがな、今は立場が違う。もっとも大事なところを任されておると自負している。ハワイは、格好はいい。だがな、空母を五隻も六隻も使い、一騎当千のパイロットを三〇〇人も連れて行くんだぞ。まして航続距離もはんぱじゃない。ハワイではなく、南方にこそ彼らを出すべきだ。貴様の飛龍など行けるわけがないではないか」
山口少将が「何だと」と言うと、「もっと冷静になれ、ここは危険な賭けはやめろ」と大西少将は言った。
山口少将は「冗談言うな。アメリカの出鼻をくじくにはハワイしかない。俺は貴様がどう言おうが、真珠湾をやる」とあとに引かなかった。
すると大西少将は「俺は止めてやる。草鹿参謀長も俺と同じ意見だ」と言った。取っ組み合い寸前の喧嘩になった。
山口少将は困ったと思った。大西少将がこのような発言をするのは、内部にかなりの反対があることを示していた。
確かに冒険である。博打かもしれない。だが、アメリカに勝つには奇襲攻撃しかない、これは明白な事実だ。大西には悪いが必ず実施してみせる、と山口少将は思った。
この問題も結局、山本五十六司令長官の裁断でけりがついた。負けん気の強い大西少将は、第一航空艦隊参謀長・草鹿少将と、山口県室積沖に停泊中の連合艦隊の旗艦に向かい、山本五十六司令長官に直談判に及んだが、一蹴されてしまった。
九月二十九日、司令長官・南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)、参謀長・草鹿龍之介少将(海兵四一・海大二四)ら第一航空艦隊司令部は、鹿屋基地の司令長官・塚原二四三中将(海兵三六・海大一八)、参謀長・大西瀧治郎少将(海兵四〇)ら第十一航空艦隊司令部を訪ね、ハワイ奇襲作戦について打ち合わせを行った。
その後、草鹿参謀長は、第二航空戦隊司令官の山口多聞少将に次の様な提案をした。
「ハワイ作戦は航続力が大きく途中での燃料補給が少なくてすむ加賀、瑞鶴、翔鶴の三隻でやることにし、瑞鶴、翔鶴には練度の高い二航戦の搭乗員を乗せる。航続力の小さい赤城、飛龍、蒼龍はフィリピン作戦に使うことにし、飛龍、蒼龍には練度が十分でない五航戦の搭乗員を乗せる。それを承知してもらいたい」。
これを聞いた山口少将は烈火のごとく怒って次のように言った。
「いままで、寝食を共にしてきた搭乗員をハワイにやり、司令部と母艦は極東海面に残るなぞ、そんな生木を裂くようなことをして、戦ができるとおもうか」。
山口少将は、指揮官と部下のつながりを何と考えているかと思った。そして次の様に言った。
「飛龍、蒼龍の航続力が不足なら、往きだけいっしょにゆき、帰りは放り出されてけっこうだ。燃料がなくなって漂流しようが、どうしようがいっこうにかまわん」。
山口少将は、その後、第一航空艦隊司令長官・南雲中将に直接会うことにした。山口少将はどこか、南雲中将とそりが合わなかった。
山口少将は、父親は島根だが、生まれも育ちも東京である。開成中学という洒落た学校で幅をきかせ、海軍兵学校でも全てを仕切った。
なんでも自分でやらないと気がすまない。重慶の爆撃に加わり、夜間の雷撃訓練を自ら体験したのも、じっとしていられない山口少将の性格が関係している。
いったん言い出したら、てこでも動かない。今度のように空母を変えるなど、とても許せることではない。
対する南雲中将は軍令部がそう言えば仕方ないと、考えるタイプだった。あきらめが早いところがあった。生まれは、質素倹約で名高い上杉鷹山(ようざん)の米沢である。
米沢なまりが抜けないため、時々、何を言っているのか分からなかった。副官がポツリと漏らしたほどである。「訓示は英語でやったほうが、まだいいですなあ」。