陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

388.真崎甚三郎陸軍大将(8)すなわち「赤い幕僚」の存在への危惧だった

2013年08月29日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 この「陸パン」の持っている大きな意義は、一つには軍が公然と政治に介入することを宣言したということであった。

 これまでも軍が政治に容喙したことはたびたびあった。だが、陸軍が政府の了解なしに重要国策を直接国民に訴えるという手段にでたのはこれが初めてだった。

 その提言した重要国策の内容は、国家総動員体制の確立から総力戦体制への移行という画期的なものであった。

 だからこそ、世間に大きな衝撃を与えたのである。これがいわゆる永田構想といわれたものである。当時の陸軍省軍務局長・永田鉄山少将である。

 だが、問題は、その総力戦構想そのものの中にあった。永田少将は国家総動員ということを、有事の際に国家社会の全部をあげて平時の態勢から戦時の態勢に移し、そうして、国家が利用しうる有形、無形の、人的物的のあらゆる資源を組織し運用して、最大の総力的戦争力を発揮する事業であると定義づけている。

 この定義そのものには問題はないとしても、国家総動員体制の主導力はなにかというところに、重要なポイントがあった。

 政治が軍事に優先し、軍は政治の一環として組み込まれるというのが、政治主導型の総力戦体制であり、軍は政治に優先するという軍主導型の総力戦体制が軍事国家、軍国主義的国家となるのである。

 「陸パン」の企図する国家総動員体制の確立は、あきらかに軍主導型を志向したものであり、その発想はあきらかに軍事国家への移行の契機を含んでいた。

 マルキシズムやファッショ、ナチスの影響を受けた、永田少将ら当時の中央の幕僚らがヒントを得た図式は次のようなものだった。

 経済に対する政治の優位、これが統制経済であり、その担い手は官僚である。そして、政治に対する軍の優位、これこそ、高度国防国家=国家総動員体制であり、その推進者は軍、特に中央の幕僚将校でなければならない、と。

 ここに、官僚、当時の革新官僚を従属せしめた軍主導型の総動員体制が形成されるのである。

 発行者こそ新聞班とはなっているものの、この「陸パン」の実体は、完全な軍事国家を目指す、永田少将を頂点とする統制派の一部幕僚将校のアドバルーンだったのである。

 この「陸パン」を機として、統制派幕僚の理論武装は完了した。そして統制派による軍の掌握、軍主導型による国家総動員体制確立という軍事国家への視座をはっきりと設定した。

 統制派の残りの課題は、部内における主導権確立の為に、反対勢力であり、障害物である皇道派の一掃だった。

 この「陸パン」を読んだ青年将校らは、憤激するというよりも、危惧した。統制経済の機構下で、ドイツのナチスやイタリアのファッショ的に日本をもっていかれたのでは、たまったものではなかった。

 また、教育総監としての真崎大将も、こうした幕僚群の動向に大きな危惧を抱いていた。当時の真崎大将や荒木大将の戦争観からすれば、軍主導型の国家総動員体制は、複数国家に対する全面戦争への危惧をはらんでいることを看破していた。

 もう一つの危惧は、軍の一部が全体主義に汚染され、すなわち当時の言葉で言えば、「赤=アカ」の思想にかぶれるということ、すなわち「赤い幕僚」の存在への危惧だった。

 かつて、「桜会」を中心とした急進幕僚と無産政党ないしは転向右翼との交流が、革新の実現のため第一歩を踏み出したのが「三月事件」だった。

 軍幕僚が「赤」と言われるのは、この無産政党や転向右翼との提携交流ばかりではなかった。軍が製作を立案するにあたって、すでに当時「赤」と言われていた新官僚や左翼系学者の協力を得たということも、その原因の一つだった。

 だからこそ、この「陸パン」にまっさきに飛びついたのが無産政党だった。また東都の少壮教授より成る日本文化連盟も全国的な支持を表明した。そのために、政財界から、強い反対が「赤」呼ばわりとなって、跳ね返ってきた。

 真崎大将がこうした一部幕僚の思想動向に「赤」を危惧した背景は、以上のようなものであった。この真崎大将と同じ危惧を持っていたのが、近衛文麿だった。

387.真崎甚三郎陸軍大将(7)「何レニシ(テ)モ彼レ南次郎ノ卑劣漢ハ唾棄スベキモノナリ」

2013年08月22日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 この林大将の答弁を聞くと、突然、閑院宮元帥は大きな声を出して、次のように語気を強めて言ったのだった。

 「君達は我輩に真崎を無理やり押し付けるのか。わたくしは久しく真崎を次長として使っていてよく知っている。林大将、貴官はこのさい進んで難局を引き受けてくれたまえ」。

 林大将も柳川中将も一瞬言葉をのんだ。しばらくして、林大将は「それでは、真崎大将を教育総監にご推せん下さい」と述べた。

 閑院宮元帥はそれには賛意を表した。柳川中将も同意した。ここで実質的な三長官会議は終わり、林大将が陸相に就任することが決まった。林大将と柳川中将はただちに帰京して荒木陸相にこの旨を報告して了承を得た。

 翌日の一月二十日の朝、荒木陸相は病床から起き上がって、勲一等瑞宝章を左肋に帯びた軍服に着替えて、机の上に準備させていた美濃白紙に「病�默其任に堪えず、謹んで骸骨を乞い奉る」と墨痕あざやかに認ため、しばし宮城に遥拝黙祷をささげて、再び床についた。

 午後、宮中において斉藤実首相侍立のもとに、林銑十郎大将の陸軍大臣親任式が挙行された。同じく一月二十三日、真崎大将は教育総監兼軍事参議官に任命された。

 だが、この人事が決定した日、真崎大将は憤りを込めて次のように記している(「真崎甚三郎日記」一月二十二日)。

 「何レニシ(テ)モ彼レ南次郎ノ卑劣漢ハ唾棄スベキモノナリ」。

 片や、南大将も次のように記している(「南次郎日記」一月二十一日)。

 「此ノ日、柳川、真崎ハ最モ策動ス。一時荒木留任ヲナサントシタルモ遂ニ成ラズ」。

 両派閥の暗闘をうかがわせる互いの日記である。真崎大将といい、南大将といい、それぞれの派閥を擁して対立を深めていくが、策士ということでは、宇垣大将を背景とする南大将の方が真崎大将を上まわっていた。

 南大将は、この時期すでに林大将としきりに接触して、真崎大将、荒木大将からの切り離しを画策し始めていた。

 昭和九年二月七日の「真崎甚三郎日記」によると、真崎大将腹心の憲兵司令官・秦真次中将(はた・しんじ・福岡・陸士一二・陸大二一・初代陸軍省新聞班長・大佐・歩兵第二一連隊長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・奉天特務機関長・中将・憲兵司令官・第二師団長・予備役)が真崎大将を訪ねて来て、林大将を警戒するよう早くも進言している。

 事実、「南次郎日記」(二月二十一日)によると、この日、南大将は、新陸相の林大将と会って、宇垣大将・南大将一派を排除しないと確約させている。

 この時、南大将は、同時に秦真次中将を憲兵司令官から外すよう強く求めているが、それは、さすがに林陸相は拒絶した。林陸相は真崎大将らの派閥には入っていないが、お互いに助け合い、家族ぐるみで付き合うほどの仲だった。

 東京湾要塞司令官で退役になる寸前の林中将を陸軍大学校校長に強く推して実現させたのは、当時の真崎中将と荒木中将であり、その後、弘前で腐っていた真崎中将が第一師団長になれたのは、武藤教育総監の下にいた本部長・林中将の尽力が大きかった。

 だが、真崎大将は複雑な心境だった。林大将に対して、同志としながらも信頼し切ってはいなかった。「真崎甚三郎日記」によると、林陸相が実現した時点で、すでに林大将に対して警戒心を抱いていた。例えば三月十九日の日記には次のように記してある。

 「彼(林)ハ陸相就任時ノ言動ト総合スルニ決シテ誠意アル人間ニアラズ。此ハ今日予ガ気付キシニアラザレドモ何トカシテ調和シテ難関ヲ抜ケント自我ヲ滅シテ努力ツツ……」。

 この日記から、真崎大将は、真崎大将、荒木大将、林大将の三者の間に亀裂を生じないように努力していることがうかがわれる。

 昭和九年十月一日、陸軍省新聞班が公刊した「国防の本義とその強化の提唱」というパンフレットの書き出しは次のようなものであった。

 「たたかいは創造の父、文化の母である。試練の個人における、競争の国家における、斉しく夫々の生命の生成発展、文化創造の動機であり刺戟である。……」。

 悪寒の走るような戦争賛美の調子で書き始められている。この五十ページ足らずの小冊子は、通称「陸パン」と呼ばれ、注目された。

386.真崎甚三郎陸軍大将(6)電車の中では林大将と柳川中将は一言の会話もなかった

2013年08月15日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 昭和八年暮れ、荒木貞夫大将が陸相辞任を言い出した。理由は病気だが、これ以上続けて、汚点を重ねたくないというのが本心だった。精神主義の限界だった。

 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、昭和九年一月三日、陸軍大臣・荒木大将は、急性肺炎で、絶対安静となった。

 このままの状態では、一月下旬に再開される第六十五回議会に登院することは不可能である。荒木大将は辞任を決意した。

 真崎大将は「後継陸相は自分の番だ」と思った。荒木大将が陸相として、それなりにやれたのは真崎大将が後ろにいたからである。

 「俺ならもっと見事にやってみせる」と思ったが、真崎大将は、「俺にやらせてほしい」と言い出せる性格ではなかった。

 序列からいけば、荒木大将や真崎大将の陸士一期上の教育総監・林銑十郎大将(はやし・せんじゅうろう・石川・陸士八・陸大一七・歩兵第二旅団長・中将・陸大校長・近衛師団長・朝鮮軍司令官・大将・教育総監・陸軍大臣・二二六事件後予備役・総理大臣・大日本興亜連盟総裁・病没・正二位・勲一等・功四級)が陸軍大臣になるのが筋ではあった。

 だが、荒木大将は当然、真崎大将を陸相にしたいと思っていた。ここで真崎大将が「自分の番だ」と言えばよかったのだが、それが言えなくて、「任せる」と簡単に告げた。

 荒木大将は、林大将が受諾するかどうかは別として、まず林大将に出馬懇請の声をかけてみようと思った。林大将が即座に受諾したならば、これを認めて、その後任に真崎大将をという算段だった。

 だが、林大将が固辞した場合には、林大将をして参謀総長・閑院宮元帥に対して真崎大将推薦の進言をしてもらうことにしようと思った。

 昭和九年一月十九日午後、陸相官邸で、陸相・荒木大将と教育総監・林大将は会談を行った。荒木大将は「俺はこの通りで辞任するから、後任は君にやってもらいたい」と切り出した。

 すると、林大将は「俺よりも真崎の方が適任だとも思うが、閑院宮殿下にもご相談の上決定したいと思う」と答えた。

 荒木大将は「そうか、では、俺はこの状態で参上できないから、柳川平助次官をつけるから、ご足労でも殿下と話し合ってくれたまえ」と述べた。

 荒木大将の肝では、荒木大将の腹心で皇道派の切れ者である柳川次官を同行させれば、「いかに宮殿下といえども、次官の柳川中将の前で、真崎陸相反対をはっきりと主張されることはあるまい」という一縷の望みがあったのである。

 こうして、林大将と柳川中将には、陸相秘書官・有末精三少佐(ありすえ・せいぞう・北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・イタリア陸軍大学卒・陸相秘書官・イタリア駐在武官・大佐・陸軍省軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・対連合軍連絡委員長・戦後日本郷友連盟会長)が同行した。

 「有末精三回顧録」(有末精三・芙蓉書房出版)によると、三人は一月十九日午後五時、新宿駅から小田急電車に乗った。

 小田原駅に到着したのは午後六時半を過ぎていたが、有末氏によると、電車の中では林大将と柳川中将は一言の会話もなかったという。それほど微妙な空気であった。

 両将軍は閑院宮元帥の強羅の別邸の応接室に通された。その間、有末少佐は別室でお茶と寿司を頂戴した。別室といっても、襖一枚の仕切りだったので、中での話しの模様は手に取るように聞こえた。

林大将は懐中から印刷物を取り出し、参謀総長・閑院宮元帥に見せて次のように言って真崎大将を推薦した。

「このような状態でありますので、自分が大臣をお引き受けしても軍の統制はなかなか難しいが、もし真崎大将が大臣に就任すれば、この図表に示されているように統制も十分とれるだろうと思います」。

 陸軍次官・柳川中将も、そばから林大将の提案に和して真崎大将推せんに共鳴した。

 だが、閑院宮元帥は「それは、いわゆる怪文書ではないか」と反問した。これに対し、林大将は次のように答えた。

 「怪文書といえば怪文書でありますが、このように内部がゴタゴタしているような世評がありますから、これが統制にはなおさら人望のある真崎大将にお願いするのが適当だと存じます」。

385.真崎甚三郎陸軍大将(5)閑院宮元帥はおおらかに「真崎、お前も、もうこの辺でよかろう」と言った

2013年08月09日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 真崎中将は日頃から閑院宮元帥と特別に喧嘩したことはないが、どうも肌が合わなかった。だが、クビをきられるとは思ってもみなかった。

 閑院宮元帥の代役として、さんざん難問題を処理してきたし、宮に傷がつかないように盾になったことも一度や二度ではなかった。いくら皇族としてもひどすぎる。真崎中将は憤懣やる方ないが、上手に立ち回ることができなかった。

 閑院宮元帥に陸軍部内の情報を伝えているのは、宮の別当である稲垣三郎中将(島根・陸士二・陸大一三恩賜・英国大使館附武官・少将・騎兵第一旅団長・浦塩派遣軍参謀長・中将・国際連盟陸軍代表・予備役・日本知育会体操学校長・閑院宮別当)だった。

 その情報源は宇垣派の南次郎大将だった。南大将と稲垣中将は同じ騎兵科だった。明らかに皇道派追い落としの陰謀といえる。

 そのうちに、稲垣三郎中将を通じて後任の参謀次長について、閑院宮元帥の意向は、植田謙吉中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・中将・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官・予備役・日本郷友連盟会長)であると言ってきた。

 植田中将は上海事変で負傷し参謀本部付になっているが、騎兵出身で南次郎大将の一派である。皇道派包囲網が構築されつつあった。

 参謀次長・真崎中将は、そういう情勢が分かっていたので、誰が何と言おうと、絶対、自分からは辞めると言わないことに覚悟を決めた。

 昭和八年五月二十一日、皇族の陸軍大尉、秩父宮雍人親王(ちちぶのみや・やすひとしんのう・大正天皇第二皇子・陸士三四・陸大四三恩賜・歩兵第三連隊・歩兵第三一連隊大隊長・参謀本部第一部作戦課附・大佐・少将・大勲位菊花大綬章・功三級金鵄勲章・昭和二十八年薨去)は参内した。

 参内した秩父宮は昭和天皇に対して、「真崎参謀次長を近く辞めさせるようであるが、それはいけないでしょう」と進言した。これが昭和天皇の心証をさらに悪化させた。

 皇族参謀総長を補佐する参謀次長は事実上天皇の幕僚長として、天皇との交流、拝謁の機会は最も多い重要な顕職だった。定期的な御進講という公式行事も多い。

 会うたびに親密の情が増すのが人情というものだが、昭和天皇の真崎に対する態度は、その逆だった。これは革新青年将校―秩父宮―真崎中将という一本の繋がりが昭和天皇の深層心理を刺激していたからだ。

 様々な動きが始まった。だが、真崎中将は頑として受け付けなかった。真崎中将の大将昇進人事は延び延びになった。

 これにより、同時に大将昇進予定の本庄繁中将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵第一一連隊長・少将・歩兵第四旅団長・支那駐在武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・勲一等瑞宝章・侍従武官長・大将・功一級金鵄勲章・勲一等旭日大綬章・蘭満州国大勲位蘭花大綬章・男爵・予備役・軍事保護陰総裁・枢密院顧問・終戦後自決)と、阿部信行中将(あべ・のぶゆき・石川・陸士九・陸大十九恩賜・野砲兵第三連隊長・陸大幹事・少将・参謀本部総務部長・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第四師団長・台湾軍司令官・大将・予備役・総理大臣・貴族院議員・朝鮮総督・勲一等旭日大受賞)も待たされていた。

 六月になって、参謀総長・閑院宮元帥に真崎中将は呼び出しを受け、直接に会うことになった。閑院宮元帥はおおらかに「真崎、お前も、もうこの辺でよかろう」と言った。

 そう言われると、真崎中将は何の抵抗もできなかった。こちこちに固くなっているだけだったという。この瞬間、植田謙吉中将の参謀次長が内定した。

 昭和八年六月十九日、真崎甚三郎中将は陸軍大将に昇進した。同日付けで、参謀次長を辞任し、「失格大将の溜まり場」とまでいわれている軍事参議官となった。

 してやったりと、ほくそ笑んだのは南次郎大将だった。南大将は六月十九日の日記に「真崎煙突モ遂ニ下ル」と記している。

 三年前、クビ切り反対の労働者が高い煙突に上がって抵抗を示し、どんなに説得されても、騒がれても、絶対に下りては来ず、手こずらせて「煙突男」といわれたが、それを真崎大将になぞらえての嘲笑だった。

384.真崎甚三郎陸軍大将(4)真崎中将と参謀総長・閑院宮元帥との関係は悪化していた

2013年08月01日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 昭和七年五月二十六日、斉藤実(さいとう・まこと・岩手・海兵六・「秋津州」艦長・「厳島」艦長・海軍次官・少将・中将・艦政本部長・海軍大臣・男爵・大将・予備役・朝鮮総督・子爵・ジュネーブ海軍軍縮会議全権・朝鮮総督・首相・内大臣・二・二六事件で暗殺される・大勲位菊花大綬章)が組閣、荒木陸相の留任が決まった。

 八月の定期人事異動ではさらに荒木中将・真崎中将一派の勢力拡大を狙った。荒木陸相から人事を任された真崎次長の独壇場だった。

 真崎主導によって、強引に自派の人材を配した。例えば柳川平助中将(やながわ・へいすけ・長崎・陸士一二・陸大二四恩賜・陸大教官・国際連盟派遣・騎兵第二〇連隊長・参謀本部課長・少将・騎兵第一旅団長・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・病死)を陸軍次官に登用し、陸軍次官に就任したばかりの小磯國昭中将と入れ替えた。

 柳川中将は小磯中将と陸士同期だが、軍政方面の経験は全くなかった。誰の眼にも、自分の身内で固める私情人事に見えた。真崎中将の浪花節的人情が悪い方へ出て来た。

 荒木中将がしきりに「皇道」「皇軍」といった言葉を連発することから、彼らの派閥を「皇道派」と呼ぶようになった。

 皇道派が打ち出した政策は、数年来陸軍が唱えてきた軍部革新、農村救済、国防対策を基本とするが、より国体主義的であり、機関説的天皇から統帥権的天皇へのより強い転換を土台としていた。

 それらの政策は、農村救済と国家改造を目指す革新派青年将校たちに歓迎され、皇道派は彼らからの人気をさらに加熱させた。

 荒木中将も、真崎中将も、若い青年将校と接するのが好きだった。彼らの来訪に対しても、常に親しく接し、懇談した。

 世田谷の真崎中将の住まいは将官にしては意外なほど質素で、そのような廉潔な真崎中将の生き方も青年将校たちの共感を呼んでいた。

 参謀次長に就任した真崎中将と参謀総長・閑院宮元帥との関係は悪化していた。皇族である閑院宮元帥の心証は害されていた。

 真崎参謀次長は、参謀総長である閑院宮元帥に対する職務の遂行を次のように語っている。

 「私は参謀次長として、宮殿下(閑院宮元帥)に御決裁を仰がなかった。宮殿下に責任がいくような決裁は仰ぐべきではないと考えた。宮の御徳は仰いだけれども、その能力は仰がなかった」

 「だからいつも、“これとこれと、これこれの案がございますが、私はこの案がよろしゅうございます”と、いうようにして、あの満州事変を乗り切った」。

 “皇族としての権威は尊重して、その徳は仰いだ。しかし、能力は仰がなかった”というこの真崎次長の言葉は、一面においては皇族の権威を絶対的に崇拝していると受け取ることもできるが、反面、皇族総長に対する無能の評価と抗議としても受け取れる。

 閑院宮元帥は、フランスの士官学校や陸軍大学で学び、日露戦争でも騎兵旅団長として戦いロシア軍を敗走させ日本軍の勝利に大いに貢献している。軍人としての見識も経歴もあり、決して飾り物ではなかった。

 だから、真崎次長のこのような態度は、閑院宮元帥にとっては傲岸不遜に見え、皇族をないがしろにする不埒な奴だと感じられた。

 しかも、閑院宮元帥は皇族の最長老であり、昭和天皇が一目も二目もおいていた。だからこのような真崎次長の態度は、昭和天皇の心証も悪くした。

 当時、真崎中将はすでに最首席の序列で陸軍大将に昇進することが内定していた。大将になれば当然参謀次長は辞任するということが内規だったので、早晩、真崎中将の次長辞任は確定的ではあった。

 だが、大将に昇進と同時に参謀総長に昇進するとも言われていた。現在実質的総長は真崎中将なのだから、閑院宮元帥が自ら退いて、参謀総長を代わってくれれば、真崎大将の参謀総長が実現するのだ。

 閑院宮元帥が真崎次長を早く辞めさせたがっているという風評が流れた。事実、閑院宮元帥は南大将を通じて、荒木陸相に対して「真崎は三月で大将となる。交代手続きを急げ」と言ってきた。自分は動かないから真崎中将の方を代えろということだった。