この「陸パン」の持っている大きな意義は、一つには軍が公然と政治に介入することを宣言したということであった。
これまでも軍が政治に容喙したことはたびたびあった。だが、陸軍が政府の了解なしに重要国策を直接国民に訴えるという手段にでたのはこれが初めてだった。
その提言した重要国策の内容は、国家総動員体制の確立から総力戦体制への移行という画期的なものであった。
だからこそ、世間に大きな衝撃を与えたのである。これがいわゆる永田構想といわれたものである。当時の陸軍省軍務局長・永田鉄山少将である。
だが、問題は、その総力戦構想そのものの中にあった。永田少将は国家総動員ということを、有事の際に国家社会の全部をあげて平時の態勢から戦時の態勢に移し、そうして、国家が利用しうる有形、無形の、人的物的のあらゆる資源を組織し運用して、最大の総力的戦争力を発揮する事業であると定義づけている。
この定義そのものには問題はないとしても、国家総動員体制の主導力はなにかというところに、重要なポイントがあった。
政治が軍事に優先し、軍は政治の一環として組み込まれるというのが、政治主導型の総力戦体制であり、軍は政治に優先するという軍主導型の総力戦体制が軍事国家、軍国主義的国家となるのである。
「陸パン」の企図する国家総動員体制の確立は、あきらかに軍主導型を志向したものであり、その発想はあきらかに軍事国家への移行の契機を含んでいた。
マルキシズムやファッショ、ナチスの影響を受けた、永田少将ら当時の中央の幕僚らがヒントを得た図式は次のようなものだった。
経済に対する政治の優位、これが統制経済であり、その担い手は官僚である。そして、政治に対する軍の優位、これこそ、高度国防国家=国家総動員体制であり、その推進者は軍、特に中央の幕僚将校でなければならない、と。
ここに、官僚、当時の革新官僚を従属せしめた軍主導型の総動員体制が形成されるのである。
発行者こそ新聞班とはなっているものの、この「陸パン」の実体は、完全な軍事国家を目指す、永田少将を頂点とする統制派の一部幕僚将校のアドバルーンだったのである。
この「陸パン」を機として、統制派幕僚の理論武装は完了した。そして統制派による軍の掌握、軍主導型による国家総動員体制確立という軍事国家への視座をはっきりと設定した。
統制派の残りの課題は、部内における主導権確立の為に、反対勢力であり、障害物である皇道派の一掃だった。
この「陸パン」を読んだ青年将校らは、憤激するというよりも、危惧した。統制経済の機構下で、ドイツのナチスやイタリアのファッショ的に日本をもっていかれたのでは、たまったものではなかった。
また、教育総監としての真崎大将も、こうした幕僚群の動向に大きな危惧を抱いていた。当時の真崎大将や荒木大将の戦争観からすれば、軍主導型の国家総動員体制は、複数国家に対する全面戦争への危惧をはらんでいることを看破していた。
もう一つの危惧は、軍の一部が全体主義に汚染され、すなわち当時の言葉で言えば、「赤=アカ」の思想にかぶれるということ、すなわち「赤い幕僚」の存在への危惧だった。
かつて、「桜会」を中心とした急進幕僚と無産政党ないしは転向右翼との交流が、革新の実現のため第一歩を踏み出したのが「三月事件」だった。
軍幕僚が「赤」と言われるのは、この無産政党や転向右翼との提携交流ばかりではなかった。軍が製作を立案するにあたって、すでに当時「赤」と言われていた新官僚や左翼系学者の協力を得たということも、その原因の一つだった。
だからこそ、この「陸パン」にまっさきに飛びついたのが無産政党だった。また東都の少壮教授より成る日本文化連盟も全国的な支持を表明した。そのために、政財界から、強い反対が「赤」呼ばわりとなって、跳ね返ってきた。
真崎大将がこうした一部幕僚の思想動向に「赤」を危惧した背景は、以上のようなものであった。この真崎大将と同じ危惧を持っていたのが、近衛文麿だった。
これまでも軍が政治に容喙したことはたびたびあった。だが、陸軍が政府の了解なしに重要国策を直接国民に訴えるという手段にでたのはこれが初めてだった。
その提言した重要国策の内容は、国家総動員体制の確立から総力戦体制への移行という画期的なものであった。
だからこそ、世間に大きな衝撃を与えたのである。これがいわゆる永田構想といわれたものである。当時の陸軍省軍務局長・永田鉄山少将である。
だが、問題は、その総力戦構想そのものの中にあった。永田少将は国家総動員ということを、有事の際に国家社会の全部をあげて平時の態勢から戦時の態勢に移し、そうして、国家が利用しうる有形、無形の、人的物的のあらゆる資源を組織し運用して、最大の総力的戦争力を発揮する事業であると定義づけている。
この定義そのものには問題はないとしても、国家総動員体制の主導力はなにかというところに、重要なポイントがあった。
政治が軍事に優先し、軍は政治の一環として組み込まれるというのが、政治主導型の総力戦体制であり、軍は政治に優先するという軍主導型の総力戦体制が軍事国家、軍国主義的国家となるのである。
「陸パン」の企図する国家総動員体制の確立は、あきらかに軍主導型を志向したものであり、その発想はあきらかに軍事国家への移行の契機を含んでいた。
マルキシズムやファッショ、ナチスの影響を受けた、永田少将ら当時の中央の幕僚らがヒントを得た図式は次のようなものだった。
経済に対する政治の優位、これが統制経済であり、その担い手は官僚である。そして、政治に対する軍の優位、これこそ、高度国防国家=国家総動員体制であり、その推進者は軍、特に中央の幕僚将校でなければならない、と。
ここに、官僚、当時の革新官僚を従属せしめた軍主導型の総動員体制が形成されるのである。
発行者こそ新聞班とはなっているものの、この「陸パン」の実体は、完全な軍事国家を目指す、永田少将を頂点とする統制派の一部幕僚将校のアドバルーンだったのである。
この「陸パン」を機として、統制派幕僚の理論武装は完了した。そして統制派による軍の掌握、軍主導型による国家総動員体制確立という軍事国家への視座をはっきりと設定した。
統制派の残りの課題は、部内における主導権確立の為に、反対勢力であり、障害物である皇道派の一掃だった。
この「陸パン」を読んだ青年将校らは、憤激するというよりも、危惧した。統制経済の機構下で、ドイツのナチスやイタリアのファッショ的に日本をもっていかれたのでは、たまったものではなかった。
また、教育総監としての真崎大将も、こうした幕僚群の動向に大きな危惧を抱いていた。当時の真崎大将や荒木大将の戦争観からすれば、軍主導型の国家総動員体制は、複数国家に対する全面戦争への危惧をはらんでいることを看破していた。
もう一つの危惧は、軍の一部が全体主義に汚染され、すなわち当時の言葉で言えば、「赤=アカ」の思想にかぶれるということ、すなわち「赤い幕僚」の存在への危惧だった。
かつて、「桜会」を中心とした急進幕僚と無産政党ないしは転向右翼との交流が、革新の実現のため第一歩を踏み出したのが「三月事件」だった。
軍幕僚が「赤」と言われるのは、この無産政党や転向右翼との提携交流ばかりではなかった。軍が製作を立案するにあたって、すでに当時「赤」と言われていた新官僚や左翼系学者の協力を得たということも、その原因の一つだった。
だからこそ、この「陸パン」にまっさきに飛びついたのが無産政党だった。また東都の少壮教授より成る日本文化連盟も全国的な支持を表明した。そのために、政財界から、強い反対が「赤」呼ばわりとなって、跳ね返ってきた。
真崎大将がこうした一部幕僚の思想動向に「赤」を危惧した背景は、以上のようなものであった。この真崎大将と同じ危惧を持っていたのが、近衛文麿だった。