「米内光政のすべて」(七宮三編・新人物王来社)によると、昭和十九年が明けたとき、国力の差は歴然とし、大日本帝国の勝機は完全に失われた状況となった。
この状況で、東條首相兼陸相と嶋田海相のコンビがとった戦争指導方策は、統帥部の総長を兼任するという前代未聞の非常手段だった。
方々から上がった猛反対の声を無視して、政治と軍事が乖離していては戦争はできないと、昭和十九年二月二十一日、二人はこれを強行した。
その独裁色が極度に濃厚になるに及んで、倒閣の動きも出てきた。海軍の長老岡田啓介を中心に、その周辺が知恵を絞った結論は、東條の腰巾着である嶋田海相を更迭させ、連鎖反応を起こさせることにより、東條内閣を崩壊させるというものだった。
当然のように、嶋田追い落としのあと、米内光政の現役復帰、海相あるいは軍令部総長就任による海軍部内立て直しの構想が浮上してきた。
昭和十九年三月十四日、岡田は伏見宮元帥に会い、米内の現役復帰を進言し、賛成を得た。このとき伏見宮は、海軍の立て直しの為にも、ロンドン軍縮条約の調印問題以来こじれている条約派と艦隊派との、大同団結をはかる必要があるのではないか、という示唆をもらした。
端的に言えば、犬猿の仲とも噂されている米内(条約派)と末次信正大将(艦隊派)の仲直り、すなわち両者の現役復帰である。
条約派につながる岡田には、末次の現役復帰などどうでもいいことであったが、米内の現役復帰実現のためには、毒食わば皿までの覚悟をきめた。
東條幕府を潰すためには、米内海相、末次軍令部総長の構想を表面に押したて、海軍が一丸となって打ち当たらねばできないことかもしれなかった。
米内はしかし、容易に腰を上げようとはしなかった。あるいは口もききたくない末次との和解など、毛頭考えないことであったろうか。
だが、六月三日、米内がやっと思い腰を上げた。藤山愛一郎の好意で、藤山邸で、岡田、米内、末次の海軍三長老が極秘に会談を持った。
岡田は回想する。藤山が席をはずしたから、私は米内と末次に向かい、「この際、日本の為に仲直りしてくれんか。今やもう、非常な事態にたちいたっているんだ」と言ったところ、二人とも国を救うため一個の感情などどうでもよい。一緒に力を尽くそうと言ってくれた。それはありがたい、と私も言って、記念の寄せ書きなどして、その日は別れた。
だが、このとき、米内の胸中には万感の思いが去来した。「ロンドン軍縮条約以後における伏見宮、加藤寛治、末次信正らの策謀をみよ」である。
このため、山梨勝之進、堀悌吉らの次代を担う海軍軍政家が次々に首を切られたではないか。それが今日の海軍の、大きく言えば国家の悲運を招いたといえる。
そしてまた、日独伊三国同盟から開戦まで、対米強硬論で海軍部内を押し切ったのは末次につながる一派ではなかったか。だが、それらの不愉快きわまる複雑な思いを断ち切って、米内は末次の手を握った。
岡田、米内を中心とする海軍と東條幕府との戦いは、火花を散らさんばかりに続いた。六月十六日、岡田は嶋田海相に会い、海相辞職を勧めた。
六月二十二日には、伏見宮も熱海より上京し、嶋田を呼んで辞職のことを口に出した。翌日、嶋田は東條にハッパをかけられて、反撃に出た。
「私が辞めれば東條内閣が倒れます。現に政界では海軍を使って東條内閣を打倒遷都する陰謀があります。殿下はその陰謀に加担あそばれるというのですか」
この脅しに、伏見宮は驚き入って、熱海ほうほうの体で帰っていった。
この状況で、東條首相兼陸相と嶋田海相のコンビがとった戦争指導方策は、統帥部の総長を兼任するという前代未聞の非常手段だった。
方々から上がった猛反対の声を無視して、政治と軍事が乖離していては戦争はできないと、昭和十九年二月二十一日、二人はこれを強行した。
その独裁色が極度に濃厚になるに及んで、倒閣の動きも出てきた。海軍の長老岡田啓介を中心に、その周辺が知恵を絞った結論は、東條の腰巾着である嶋田海相を更迭させ、連鎖反応を起こさせることにより、東條内閣を崩壊させるというものだった。
当然のように、嶋田追い落としのあと、米内光政の現役復帰、海相あるいは軍令部総長就任による海軍部内立て直しの構想が浮上してきた。
昭和十九年三月十四日、岡田は伏見宮元帥に会い、米内の現役復帰を進言し、賛成を得た。このとき伏見宮は、海軍の立て直しの為にも、ロンドン軍縮条約の調印問題以来こじれている条約派と艦隊派との、大同団結をはかる必要があるのではないか、という示唆をもらした。
端的に言えば、犬猿の仲とも噂されている米内(条約派)と末次信正大将(艦隊派)の仲直り、すなわち両者の現役復帰である。
条約派につながる岡田には、末次の現役復帰などどうでもいいことであったが、米内の現役復帰実現のためには、毒食わば皿までの覚悟をきめた。
東條幕府を潰すためには、米内海相、末次軍令部総長の構想を表面に押したて、海軍が一丸となって打ち当たらねばできないことかもしれなかった。
米内はしかし、容易に腰を上げようとはしなかった。あるいは口もききたくない末次との和解など、毛頭考えないことであったろうか。
だが、六月三日、米内がやっと思い腰を上げた。藤山愛一郎の好意で、藤山邸で、岡田、米内、末次の海軍三長老が極秘に会談を持った。
岡田は回想する。藤山が席をはずしたから、私は米内と末次に向かい、「この際、日本の為に仲直りしてくれんか。今やもう、非常な事態にたちいたっているんだ」と言ったところ、二人とも国を救うため一個の感情などどうでもよい。一緒に力を尽くそうと言ってくれた。それはありがたい、と私も言って、記念の寄せ書きなどして、その日は別れた。
だが、このとき、米内の胸中には万感の思いが去来した。「ロンドン軍縮条約以後における伏見宮、加藤寛治、末次信正らの策謀をみよ」である。
このため、山梨勝之進、堀悌吉らの次代を担う海軍軍政家が次々に首を切られたではないか。それが今日の海軍の、大きく言えば国家の悲運を招いたといえる。
そしてまた、日独伊三国同盟から開戦まで、対米強硬論で海軍部内を押し切ったのは末次につながる一派ではなかったか。だが、それらの不愉快きわまる複雑な思いを断ち切って、米内は末次の手を握った。
岡田、米内を中心とする海軍と東條幕府との戦いは、火花を散らさんばかりに続いた。六月十六日、岡田は嶋田海相に会い、海相辞職を勧めた。
六月二十二日には、伏見宮も熱海より上京し、嶋田を呼んで辞職のことを口に出した。翌日、嶋田は東條にハッパをかけられて、反撃に出た。
「私が辞めれば東條内閣が倒れます。現に政界では海軍を使って東條内閣を打倒遷都する陰謀があります。殿下はその陰謀に加担あそばれるというのですか」
この脅しに、伏見宮は驚き入って、熱海ほうほうの体で帰っていった。