鈴木侍従長は泰然として全く動じなかった。ともあれ、統帥権干犯問題は昭和五年十月二日にロンドン条約が批准されて、一応の終止符を打った。
だが、昭和十一年二月二十六日、鈴木侍従長は二・二六事件で、拳銃弾が四発命中し重傷を負った。だが、青年将校の安藤輝三大尉(陸士三八)がとどめを刺すのを止めたため命はとりとめた。
手術で弾丸は取り出されたが、心臓すれすれを通って背中に回った弾丸は終生鈴木貫太郎の体内にとどまった。それから十二年後、鈴木の遺体が火葬に付されたとき、尖端が少しひん曲がった弾丸が出てきたのを、長男の鈴木一が確認した。
鈴木貫太郎が天皇と対面したのは事件から四十日後の四月六日だった。頭の包帯は取れたが、胸の包帯は巻いたままだった。
天皇は鈴木侍従長の突然の参内を大変喜んだ。そして、鈴木がうやうやしく、療養中に毎日のように届けられたスープや皇后からうけた蘭の花など、お見舞い品の御礼を述べるより先に、天皇は「無理をしないよう、早々に帰って休めよ」といたわりの言葉をかけた。
以前より辞意を表明していたのがやっと許されて十一月二十日、鈴木貫太郎は侍従長を退任した。鈴木貫太郎は特に華族に列し男爵をさずけられた。六十九歳であった。
以後鈴木貫太郎は枢密院顧問官専任の仕事を続けた。昭和十四年八月、ドイツがいきなり独ソ不可侵条約を締結して、日本との同盟に対する裏切り行為をし、このため、平沼騏一郎内閣は総辞職に追い込まれた。
このとき、鈴木貫太郎は「辞職せず日独交渉を打ち切ることは何故出来ぬか?」と述べている。三国同盟締結が対米戦争を惹起すると、強く反対していた米内光政、山本五十六ら海軍穏健派と鈴木は心を一つにしていた。
だが、昭和十六年十二月八日、日本海軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争の火蓋は切られた。その後、十八年、十九年と、戦局は時とともに日本に不利になり、追い詰められていった。
昭和二十年四月五日の重臣会議は午後八時四十分まで続き、鈴木貫太郎枢密院議長がお召しによって、参内、天皇に拝謁の上、後継内閣組閣の御下命を受けたのは午後十時だった。
この時、鈴木枢密院議長が天皇陛下から御沙汰を拝したときの直接の情景を目撃し、その回想を述べているのが、当時の侍従長・藤田尚徳(ふじた・ひさのり)大将(海兵二九・海大一〇)であった。
「宰相鈴木貫太郎」(小堀桂一郎・文春文庫)によると、昭和四十四年、八十六歳の高齢で静かな余生を送っていた元侍従長の藤田尚徳氏はその時の情景を次の様に語っている。
「小磯内閣が総辞職しまして、あれは夕方だったと思いますな(ご高齢の藤田氏の記憶違いで、実は午後十時という夜更けである)、当時枢密院議長だった鈴木さんをお召しになりましてね、私一人侍立(じりつ)していましたが、出し抜けに『卿に組閣を命ずる』と、こう仰せになった」
「いつもですと、陛下はさらに『組閣したら憲法を守るように、外交は気をつけて無理しないように、経済は混乱を乱すようなことはしないように』という三つの条件をおっしゃるのですが、この時は鈴木さんに何もおっしゃらなかったんです」
「ただただお前に頼む、というように拝されました。それで鈴木さんは謹厳な方ですから、自分は武人として育ってきたもので、政治に関与しないという明治天皇の勅諭を終身奉じて今日まできたと、どうかお許し願いたいって、背中を丸くしておじぎをしながら言われたんですな」
「すると陛下がニッコリお笑いになって、鈴木がそう申すであろうことは、私にもわかっておったと。しかしこの危急の時にあたって、もう今の世の中に他の人はいないと、つまり頼むという別の言葉ですな、ぜひやってくれっていうような意味のことを仰せになった。私は、あの時のことは一生忘れられませんな」。
こうして昭和二十年四月七日、親任式を終えて鈴木内閣は成立した。鈴木貫太郎は内閣総理大臣に就任した。
鈴木貫太郎首相は、この日から八月十五日の終戦の日まで終戦工作に、七十八歳という老体に鞭打って、まさに奔走した。
八月十五日正午の終戦の玉音放送の後に鈴木内閣は総辞職した。モーニング姿の鈴木首相は取りまとめた辞表を参内して、軍服姿の天皇に差し出した。儀式は終わった。
退出しようとする鈴木貫太郎首相に、天皇は「鈴木」と高い声で声をかけた。続いて「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた」と言った。さらにもう一言、「本当によくやってくれたね」と言った。鈴木首相は涙を流しながら、背を丸めて静かに退出した。
その夜遅く、芝白金の小田村邸に帰ってきた鈴木貫太郎は、たか夫人、長男の一らをよび、「今日は陛下から二度までも『よくやってくれたね』『よくやってくれたね』とお言葉をいただいた」と語り、しばし面を伏せてむせび泣いた。
(「鈴木貫太郎海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「本間雅晴陸軍中将」が始まります)
だが、昭和十一年二月二十六日、鈴木侍従長は二・二六事件で、拳銃弾が四発命中し重傷を負った。だが、青年将校の安藤輝三大尉(陸士三八)がとどめを刺すのを止めたため命はとりとめた。
手術で弾丸は取り出されたが、心臓すれすれを通って背中に回った弾丸は終生鈴木貫太郎の体内にとどまった。それから十二年後、鈴木の遺体が火葬に付されたとき、尖端が少しひん曲がった弾丸が出てきたのを、長男の鈴木一が確認した。
鈴木貫太郎が天皇と対面したのは事件から四十日後の四月六日だった。頭の包帯は取れたが、胸の包帯は巻いたままだった。
天皇は鈴木侍従長の突然の参内を大変喜んだ。そして、鈴木がうやうやしく、療養中に毎日のように届けられたスープや皇后からうけた蘭の花など、お見舞い品の御礼を述べるより先に、天皇は「無理をしないよう、早々に帰って休めよ」といたわりの言葉をかけた。
以前より辞意を表明していたのがやっと許されて十一月二十日、鈴木貫太郎は侍従長を退任した。鈴木貫太郎は特に華族に列し男爵をさずけられた。六十九歳であった。
以後鈴木貫太郎は枢密院顧問官専任の仕事を続けた。昭和十四年八月、ドイツがいきなり独ソ不可侵条約を締結して、日本との同盟に対する裏切り行為をし、このため、平沼騏一郎内閣は総辞職に追い込まれた。
このとき、鈴木貫太郎は「辞職せず日独交渉を打ち切ることは何故出来ぬか?」と述べている。三国同盟締結が対米戦争を惹起すると、強く反対していた米内光政、山本五十六ら海軍穏健派と鈴木は心を一つにしていた。
だが、昭和十六年十二月八日、日本海軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争の火蓋は切られた。その後、十八年、十九年と、戦局は時とともに日本に不利になり、追い詰められていった。
昭和二十年四月五日の重臣会議は午後八時四十分まで続き、鈴木貫太郎枢密院議長がお召しによって、参内、天皇に拝謁の上、後継内閣組閣の御下命を受けたのは午後十時だった。
この時、鈴木枢密院議長が天皇陛下から御沙汰を拝したときの直接の情景を目撃し、その回想を述べているのが、当時の侍従長・藤田尚徳(ふじた・ひさのり)大将(海兵二九・海大一〇)であった。
「宰相鈴木貫太郎」(小堀桂一郎・文春文庫)によると、昭和四十四年、八十六歳の高齢で静かな余生を送っていた元侍従長の藤田尚徳氏はその時の情景を次の様に語っている。
「小磯内閣が総辞職しまして、あれは夕方だったと思いますな(ご高齢の藤田氏の記憶違いで、実は午後十時という夜更けである)、当時枢密院議長だった鈴木さんをお召しになりましてね、私一人侍立(じりつ)していましたが、出し抜けに『卿に組閣を命ずる』と、こう仰せになった」
「いつもですと、陛下はさらに『組閣したら憲法を守るように、外交は気をつけて無理しないように、経済は混乱を乱すようなことはしないように』という三つの条件をおっしゃるのですが、この時は鈴木さんに何もおっしゃらなかったんです」
「ただただお前に頼む、というように拝されました。それで鈴木さんは謹厳な方ですから、自分は武人として育ってきたもので、政治に関与しないという明治天皇の勅諭を終身奉じて今日まできたと、どうかお許し願いたいって、背中を丸くしておじぎをしながら言われたんですな」
「すると陛下がニッコリお笑いになって、鈴木がそう申すであろうことは、私にもわかっておったと。しかしこの危急の時にあたって、もう今の世の中に他の人はいないと、つまり頼むという別の言葉ですな、ぜひやってくれっていうような意味のことを仰せになった。私は、あの時のことは一生忘れられませんな」。
こうして昭和二十年四月七日、親任式を終えて鈴木内閣は成立した。鈴木貫太郎は内閣総理大臣に就任した。
鈴木貫太郎首相は、この日から八月十五日の終戦の日まで終戦工作に、七十八歳という老体に鞭打って、まさに奔走した。
八月十五日正午の終戦の玉音放送の後に鈴木内閣は総辞職した。モーニング姿の鈴木首相は取りまとめた辞表を参内して、軍服姿の天皇に差し出した。儀式は終わった。
退出しようとする鈴木貫太郎首相に、天皇は「鈴木」と高い声で声をかけた。続いて「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた」と言った。さらにもう一言、「本当によくやってくれたね」と言った。鈴木首相は涙を流しながら、背を丸めて静かに退出した。
その夜遅く、芝白金の小田村邸に帰ってきた鈴木貫太郎は、たか夫人、長男の一らをよび、「今日は陛下から二度までも『よくやってくれたね』『よくやってくれたね』とお言葉をいただいた」と語り、しばし面を伏せてむせび泣いた。
(「鈴木貫太郎海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「本間雅晴陸軍中将」が始まります)