陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

300.鈴木貫太郎海軍大将(20)辞職せず日独交渉を打ち切ることは何故出来ぬか?

2011年12月23日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 鈴木侍従長は泰然として全く動じなかった。ともあれ、統帥権干犯問題は昭和五年十月二日にロンドン条約が批准されて、一応の終止符を打った。

 だが、昭和十一年二月二十六日、鈴木侍従長は二・二六事件で、拳銃弾が四発命中し重傷を負った。だが、青年将校の安藤輝三大尉(陸士三八)がとどめを刺すのを止めたため命はとりとめた。

 手術で弾丸は取り出されたが、心臓すれすれを通って背中に回った弾丸は終生鈴木貫太郎の体内にとどまった。それから十二年後、鈴木の遺体が火葬に付されたとき、尖端が少しひん曲がった弾丸が出てきたのを、長男の鈴木一が確認した。

 鈴木貫太郎が天皇と対面したのは事件から四十日後の四月六日だった。頭の包帯は取れたが、胸の包帯は巻いたままだった。

 天皇は鈴木侍従長の突然の参内を大変喜んだ。そして、鈴木がうやうやしく、療養中に毎日のように届けられたスープや皇后からうけた蘭の花など、お見舞い品の御礼を述べるより先に、天皇は「無理をしないよう、早々に帰って休めよ」といたわりの言葉をかけた。

 以前より辞意を表明していたのがやっと許されて十一月二十日、鈴木貫太郎は侍従長を退任した。鈴木貫太郎は特に華族に列し男爵をさずけられた。六十九歳であった。

 以後鈴木貫太郎は枢密院顧問官専任の仕事を続けた。昭和十四年八月、ドイツがいきなり独ソ不可侵条約を締結して、日本との同盟に対する裏切り行為をし、このため、平沼騏一郎内閣は総辞職に追い込まれた。

 このとき、鈴木貫太郎は「辞職せず日独交渉を打ち切ることは何故出来ぬか?」と述べている。三国同盟締結が対米戦争を惹起すると、強く反対していた米内光政、山本五十六ら海軍穏健派と鈴木は心を一つにしていた。

 だが、昭和十六年十二月八日、日本海軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争の火蓋は切られた。その後、十八年、十九年と、戦局は時とともに日本に不利になり、追い詰められていった。

 昭和二十年四月五日の重臣会議は午後八時四十分まで続き、鈴木貫太郎枢密院議長がお召しによって、参内、天皇に拝謁の上、後継内閣組閣の御下命を受けたのは午後十時だった。

 この時、鈴木枢密院議長が天皇陛下から御沙汰を拝したときの直接の情景を目撃し、その回想を述べているのが、当時の侍従長・藤田尚徳(ふじた・ひさのり)大将(海兵二九・海大一〇)であった。

 「宰相鈴木貫太郎」(小堀桂一郎・文春文庫)によると、昭和四十四年、八十六歳の高齢で静かな余生を送っていた元侍従長の藤田尚徳氏はその時の情景を次の様に語っている。

 「小磯内閣が総辞職しまして、あれは夕方だったと思いますな(ご高齢の藤田氏の記憶違いで、実は午後十時という夜更けである)、当時枢密院議長だった鈴木さんをお召しになりましてね、私一人侍立(じりつ)していましたが、出し抜けに『卿に組閣を命ずる』と、こう仰せになった」

 「いつもですと、陛下はさらに『組閣したら憲法を守るように、外交は気をつけて無理しないように、経済は混乱を乱すようなことはしないように』という三つの条件をおっしゃるのですが、この時は鈴木さんに何もおっしゃらなかったんです」

 「ただただお前に頼む、というように拝されました。それで鈴木さんは謹厳な方ですから、自分は武人として育ってきたもので、政治に関与しないという明治天皇の勅諭を終身奉じて今日まできたと、どうかお許し願いたいって、背中を丸くしておじぎをしながら言われたんですな」

 「すると陛下がニッコリお笑いになって、鈴木がそう申すであろうことは、私にもわかっておったと。しかしこの危急の時にあたって、もう今の世の中に他の人はいないと、つまり頼むという別の言葉ですな、ぜひやってくれっていうような意味のことを仰せになった。私は、あの時のことは一生忘れられませんな」。

 こうして昭和二十年四月七日、親任式を終えて鈴木内閣は成立した。鈴木貫太郎は内閣総理大臣に就任した。

 鈴木貫太郎首相は、この日から八月十五日の終戦の日まで終戦工作に、七十八歳という老体に鞭打って、まさに奔走した。

 八月十五日正午の終戦の玉音放送の後に鈴木内閣は総辞職した。モーニング姿の鈴木首相は取りまとめた辞表を参内して、軍服姿の天皇に差し出した。儀式は終わった。

 退出しようとする鈴木貫太郎首相に、天皇は「鈴木」と高い声で声をかけた。続いて「ご苦労をかけた。本当によくやってくれた」と言った。さらにもう一言、「本当によくやってくれたね」と言った。鈴木首相は涙を流しながら、背を丸めて静かに退出した。

 その夜遅く、芝白金の小田村邸に帰ってきた鈴木貫太郎は、たか夫人、長男の一らをよび、「今日は陛下から二度までも『よくやってくれたね』『よくやってくれたね』とお言葉をいただいた」と語り、しばし面を伏せてむせび泣いた。

 (「鈴木貫太郎海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「本間雅晴陸軍中将」が始まります)

299.鈴木貫太郎海軍大将(19)お前らが奏上する時は直立不動だが、私は雑談的に陛下にお話しできる

2011年12月16日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 鈴木侍従長は「政府が国家の大局上より回訓を決定したのであるから、これに対し国防上不安があるというなら、適切な手段を講じ、むしろ軍令部が率先して、最善の努力で不安をのぞくのが本務というものではないか」と言った。

 「なおよく考えてみましょう」と言って、加藤軍令部長は侍従長感謝を辞去した。

 加藤軍令部長は、後刻、「政府上奏前に、上奏することはやめにした」と鈴木侍従長に通知した。

 四月一日、閣議は政府回訓案を了承し、午後二時過ぎ、浜口首相は参内、回訓案を上奏して天皇の裁可を得た。午後五時、外相から在ロンドンの全権団に回訓が発令された。

 翌二日、加藤軍令部長は天皇に拝謁した。このとき、異例のことながら、奈良侍従武官長ではなく、海軍出身の鈴木侍従長が侍立した。

 このためだろうか、加藤軍令部長の上奏は、「政府回訓に示された兵力量では大正十二年にご裁定になった国防方針に基づく作戦計画に重大な変更をきたしますので、慎重審議を要するものと信じます」というにとどめ、強硬な態度は示さなかった。

 ロンドン条約は昭和五年四月二十二日に調印されることになった。万事は円満に終わるかに見えた。ところが、四月二十一日、海軍軍令部は条約に同意しないと表明した。

 条約調印後、四月二十五日、第五十八特別議会で、野党である政友会の犬養毅、鳩山一郎らが突如、「ロンドンで締結した軍縮会議には、国防上の欠陥と統帥権干犯があるのではないか」と爆弾を投げかけた。

 政友会は軍令部と暗黙の了解があり、軍令部は若い将校群から突き上げられていた。その勢いは東郷元帥と伏見宮のかつぎ出しまで発展した。

 加藤大将に吹き込まれた東郷元帥は怒った。特にロンドン会議の全権の財部彪海相がロンドンに夫人を同伴したことに、「戦争に、かかあを連れて行くとは何事か」と激怒した。

 ロンドンから帰国した財部海相が、東京駅に着く五月二十日、軍令部参謀・草刈英治少佐(海兵四一・海大二六)は東海道線車内で海相を暗殺しようとしたが、決行し得ずに、自決した。

 条約反対派は、草刈少佐は死をもってロンドン条約に抗議したと、少佐の死を称え、反対の火の手はますます大きくなった。

 六月十日、加藤軍令部長は、ついに政府を弾劾する上奏分を奏上し、直接に天皇に辞表を提出した。その思い切った行動で事態の重大化を期待したが、天皇はただ沈黙をもってそれにこたえた。

 この頃、政府が軍令部長の反対を無視して回訓を決め、鈴木貫太郎侍従長が加藤軍令部長の上奏を阻止し、統帥権干犯をしたと攻撃する怪文書が、さかんにばらまかれた。

 軍令部長ばかりでなく、鈴木侍従長は、ロンドン条約反対派の伏見宮が参内しようとするのまで邪魔したという事件までがささやかれた。

 その事件は三月末の頃起きた。伏見宮が参内して拝謁の取次ぎを求めると、気骨の鈴木侍従長が、「兵力量はロンドン条約でさしつかえありません。条約に関する奏上はもってのほかであります」と諌言をした。

 伏見宮は怒って、「お前らが奏上するときは直立不動だが、私は雑談的に陛下にお話しできるのだ」と反駁(はんばく)した。だが、結局拝謁は阻止された。

 四月二日の軍令部長の奏上のとき鈴木侍従長が侍立したことも問題視された。これも統帥権干犯だというのだった。これは明らかに越権行為であると鈴木侍従長を非難した。

 さらに草刈少佐の自刃に対する鈴木侍従長の見解が、右翼や青年将校らを激憤させた。それは次の様な内容だった。

 「軍人は勅諭を奉戴し、一旦緩急あるとき戦場に屍をさらすのが本分である。故に、帝国軍人たる
矜持(きょうじ・誇り、自負)と名誉のため、ロンドン条約の経緯などで生命を捨てたものとは信じない。たしかに神経衰弱のせいだと思う」。

 こうした鈴木侍従長の発言や行動は、一年近く前、田中義一首相の辞任の引き金をひいたと非難されたときと同様に、いや、それ以上に、“君側の奸”視され糾弾されることになった。

 例えば右翼の日本国民党は、九月十日に「亡国的海軍条約を葬れ」と題する檄文を各方面に配布し、最後的決定行動をに入るべき決死隊を組織したと宣伝した。

 その目標は、浜口雄幸首相、財部彪海相およびそれと通謀した牧野信顕(まきの・のぶあき)内大臣(東京帝大中退・外務省・外務大臣・伯爵)、鈴木貫太郎侍従長だった。

298.鈴木貫太郎海軍大将(18) どうも加藤は一徹で、感情的で困る

2011年12月09日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 鈴木侍従長は思いもかけなかった事態に困惑した。浜口首相がロンドン会議妥結の回訓の裁可を願い出る、その直前に断乎反対を加藤軍令部長が願い出るというのでは、天皇がどう決定してよいか、その判断を迷わせるだけだ。

 鈴木侍従長はロンドン会議が紛糾し始めたときに、自分の意見をはっきり次の様に表明している。

 「これはどうしても、まとめなければいけませぬ。自分が侍従長という職にいなければ、出て行って加藤あたりを説得してやるのですけれども、現在の地位ではそうすることもできない」

 「いったい、陛下の幕僚長である軍令部長は、もっと沈黙を守って自重してくれなくては困る。民衆に呼びかけて、世論を背景に自分の主張を通そうとするが如き態度はまことに遺憾である」

 「だいたい七割でなければ駄目だというのは凡将の言うことで、軍令部長というものは、与えられた兵力でいかにこれを動かすか、六割でも五割でも決められたら、その範囲内でどうでも動かせますというところに軍令部長たるゆえんがあるので、七割でなければ駄目だとか、今日の若い士官たちは昔と違うとかいう風なことを言うのは、第一おかしな話で、若い士官たちを導いてよくするのは、軍令部長たる人の心がけ如何で同にでもなると思う」

 「今と昔と精神的にもすべてにおいて、違ったことは、決して無い。どうも加藤は一徹で、感情的で困る」。

 以上のようにはっきりと条約締結に賛意を示している鈴木侍従長は、加藤軍令部長を侍従長官邸へ呼びつけて面談した。

 鈴木侍従長は、先輩としてたしなめるような口調で、「拝謁は反対上奏のためという噂があるが、事実かどうか」と訊ねた。

 加藤軍令部長は「そうだ」と返事をした。

 そこで鈴木侍従長は「そういうことになれば、一番お困りになるのは陛下である。一方は国策上の責任者たる総理大臣、他方は統帥部の幕僚長、この二人が相反する上奏をしたのでは、陛下をお苦しめさせることになる。その辺のところを十分に考慮しているのか」。

 「もちろん十分考慮した上での決意である。幕僚長として責任がもてぬから、上奏申し上げるのだ」と加藤軍令部長は答えた。

 鈴木侍従長はかつての鬼貫太郎の気迫で迫った。「シーメンス事件の折、八代大将は自らの主張を強く主張するときは、常に辞表を懐にして閣議などに出られた。次官の自分もまた然りだった。君にはその覚悟があるのか」。

 加藤軍令部長は言葉に窮した。鈴木侍従長はなおも、次の様に迫った。

 「今後の方針で海軍は、『政府方針ノ範囲ニ於イテ最善ヲ尽クスベキハ当然』と決めたというではないか。兵力量の決定はもともと軍令部長の任務であり、軍令部長が如何と言うたら、総理大臣はそれに従わねばならぬ」

 「実は自分が軍令部長の時、昭和二年、ジュネーブ海軍軍縮会議において、兵力量を出先で勝手に決めたことについて、私は岡田海相を通じて斉藤実全権に反対だと電報して、取り消させたことがあった」

 「軍令部長の責任とはそういうものだ。ところが、今回の騒ぎではどういうことか。海軍が今後の方針を決め、君はそれを承認した。そしていわば自分が従うと決めた兵力量を、総理が陛下に奏上するのに、自分は反対です、いけませんと、真っ先に上奏するというのは、道理にもとることになるのではないか。君はどう考えるのか」。

 以上のように鈴木侍従長が述べると、加藤軍令部長は「とにかく用兵作戦上、これだは困るのです……軍令部長としては……」とますます答えに窮した。

 鈴木侍従長はさらに次の様に言った。

 「いわゆる三大原則なるものは、自分が軍令部長在職時代にはなかったと記憶する。潜水艦保有量についても、わが保有量を多くすれば、米国もまた保有量を多くする」

 「そうなれば、大いに考えねばならぬことになろう。対米作戦においては、アジアにある米根拠地を速やかに奪取すること、つまりフィリピンを即座に攻略することが絶対必要の先決問題である」

 「しかるに米国が多数の潜水艦をフィリピンにもつことは、わが作戦を非常に困難ならしめるように思われるが、この点も君はどう考えているのか」。

 加藤軍令部長は「それはそうかもしれない。……しかし、いまさら……如何することもできぬ」と答えた。

297.鈴木貫太郎海軍大将(17)鈴木侍従長はいつしか「君側の奸」の筆頭になった

2011年12月02日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 “日嗣の皇子(ひつぎのみこ)”として育てられ、あらゆる帝王教育を受け、忠実に、几帳面に、心からその教えを守る天皇にあっては、イギリス式君主たらんとするために、自分の意思を表明してはならぬいことであった。

 たとえ軍部の暴走をきびしく処罰することが理にかなうものであっても、立憲君主としてとるべき道を踏み外してはならないのだ。意思を通すことは、大元帥の私兵になる。

 天皇は後に鈴木侍従長に言った。「あの時は自分も若かったから……」。これ以後は、次第に政府や軍部の決定に「不可」をいわぬ「沈黙する天皇」を自らつくりあげていく。

 この事件は鈴木侍従長が、天皇のそばにあって、党派的に動いている存在と誤解を生み、非難されるきっかけをつくった。

 天皇と首相の「中間に立つ」ことを頼まれたとき、「侍従長とはそういう位置にない」と鈴木が言ったことが正しいにせよ、宮廷外の者から見れば、侍従長とは潜在的な政治的調停者として見られていたのである。

 鈴木貫太郎という人間がそのように権謀術数(けんぼうじゅっすう)を巧みにする人ではないことは、明らかなことなのだが、伝聞による誤解が誤解を生み、鈴木侍従長はいつしか「君側の奸」の筆頭になった。

 昭和五年三月十四日、ロンドン軍縮会議に出席していた若槻礼次郎前首相から「これで妥結してよいか」という政府の訓令を求める電報が届いた。

 日本全権団は、日本政府から「三大原則」の訓令を受けていた。それは国防の安全を確保するために「対米補助艦総括して七割、重巡洋艦七割、潜水艦七万八千トン」をどんなことがあっても要求するというものであった。

 だが、ロンドン会議は難航した。そして三月中旬に、最終的妥協案がアメリカから提案された。総括六割九分七厘五毛、重巡洋艦六割、潜水艦五万二千トン均一というものであった。

 首席全権・若槻は悩んだ。七割にはわずかに足らない。だが、アメリカが七割を認めれば、米国世論が騒ぎ、米議会を通過しないだろう。会議をこわさぬためにも、日本がこのくらいの譲歩をすべきであろうと決心した。

 海軍省はひとますこれで協定すべきである、という統一見解をとった。だが軍令部は承知しなかった。

 加藤寛治軍令部長は「「わが海軍の死活をわかつ絶対最低率を確保できぬなら、この協定は断乎破棄するほかはない」と、浜口雄幸首相に強硬に申し入れた。

 さらに海軍の長老である東郷平八郎元帥が、「要するに七割なければ国防上安心できないのであるから、一分や二分というちいさなかけ引きは無用である。先方が承知しなければ断乎として引き揚げるのみ。この態度を強く全権団に言ってやれ」と強硬意見を吐くに至り、海軍は二つに割れた。

 海軍省の次官・山梨勝之進中将(海兵二五次席・海大五次席・大将・学習院長)と軍務局長・堀悌吉少将(海兵三二首席・海大一六首席・中将・日本飛行機社長・浦賀ドック社長)は、軍令部の強硬論の中にあって、会議成立のため海軍部内を取りまとめようと必至に奔走した。

 そして三月十六日軍事参議官・岡田啓介大将(海兵一五・海大二・大将・海相・首相)を中心に、加藤寛治軍令部長、山梨次官、末次信正次長(海兵二七・海大七・大将・内務大臣)、堀軍務局長ら省部の最高幹部が参集し、ついに兵力量の決定権が政府にあることを言外に認めた。

この海軍の決定を背景に、浜口首相は政府の回訓案をまとめ、三月二十七日参内して天皇に単独拝謁し、天皇が会議の分裂を欲していないことを確かめ、その肝を決めた。

 加藤軍令部長らの強硬派は、憲法第十一条の「天皇は陸海軍を統帥す」と第十二条の「天皇は陸海軍の編制および常備兵額を定む」をタテに、兵力量の決定は統帥事項であるから、軍令部の同意を要すると主張した。

 だが、第十一条の統帥大権は、第十二条の内閣の輔弼事項である編制権にまで及ぶものではない、という解釈をとり、それにより軍令部の主張を押しのけようと浜口首相は決意した。

 軍令部は政府の強硬姿勢に激昂した。岡田大将が加藤部長を説得したが、加藤部長は単独上奏の決意を述べ、「いざとなればハラを切る」とまで口走った。

 浜口首相は昭和五年四月一日に、この回訓案を閣議決定し、直ちに上奏ご裁可を仰ぎたい旨を、前日に鈴木侍従長に通じ、そして午後四時拝謁の許しが出た。

 ところが、加藤軍令部長が、四月一日の浜口首相上奏前に拝謁したい旨を、奈良武次侍従武官長を通し、願い出てきた。こうして政治の争いが宮中に持ち込まれた。

296.鈴木貫太郎海軍大将(16)お前の最初に言ったことと違うではないか。説明を聞く必要は無い

2011年11月25日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 昭和四年一月二十二日、鈴木大将は予備役編入、侍従長に就任した。六十一歳だった。親任式は、鈴木大将の後任である軍令部長・加藤寛治大将(海兵一八首席)の親任とともに宮中で行われた。二月十四日には枢密院顧問官にも就任した(兼任)。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、この頃、張作霖爆死事件の真相が明らかになり、事件の首謀者が関東軍高級参謀・河本大作(こうもと・だいさく)大佐(陸士一五・陸大二六・満鉄理事・国策会社山西産業株式会社社長)であり、実行者の名も判明していた。

 問題はその処罰をどうするかということだった。陸軍中枢の中堅将校たちは河本大佐を処罰させてたまるものかと、陸軍中央を突き上げ、単なる行政処分で終わらせようとしていた。

 陸軍の最長老であり長州閥の大御所でもある田中義一首相は、この陸軍の主張を認めることにした。六月二十七日当時の田中義一首相は参内して天皇に報告した。

 「張作霖爆死事件につき、いろいろ取り調べましたけれど、日本の陸軍には幸いにして犯人はいないということが判明しました。しかし、警備上責任者の手落ちであった事実については、これを処分いたします」。

 だが、天皇は不審げに田中首相を見つめ「責任をはっきり取るのでなければ、私には許し難い」と明瞭に言い切った。それで、田中首相は、聖旨に沿うようにすることを誓った。

 だが、翌二十八日午前、陸軍大臣・白川義則大将(愛媛・陸士一・陸大一二・男爵)が内奏したのは、天皇が思ってもみなかった軽い行政処分だった。

 それによると、関東軍司令官は依願予備役、河本大佐は停職、そのほか参謀長らは譴責(けんせき)ですませたのである。

 若き天皇は激怒した。「総理が上奏したものと全然ちがうではないか。それで陸軍の軍紀が維持できるというのか」。

 弁明のため顔色を変えて田中義一首相が参内したのは午後一時過ぎだった。だが、天皇の怒りはおさまっていなかった。

 「お前の最初に言ったことと違うではないか。説明を聞く必要は無い」とはっきり拒絶し、席を立って奥へ入ってしまった。

 心配して顔を見せた鈴木貫太郎侍従長に、天皇は「田中の言うことはちっとも判らない。再び聞くことは自分は厭だ」とまで言った。

 田中首相は数時間後に再び天皇に拝謁を願ってきたが、鈴木侍従長は冷ややかにこれを迎えた。天皇の気持ちがわかる鈴木侍従長は次の様に言った。

 「たって拝謁を願われるならばお取次ぎはいたしますが、本件にかんすることなら、おそらくお聞きになられますまい」。

 田中首相は鈴木侍従長をみつめてしばらく立っていたが、両眼からみるみる涙をあふれさせた。それ以上言うべき言葉も無く、やがて頭を垂れて退出していった。七月二日、田中内閣は総辞職した。

 田中内閣の閣僚の中には、大いに不服とし、鈴木侍従長を訪ね、「お上と総理の間に立って、おとりなしをするのが侍従長の職務ではないか。それをあなたは何ということをするのか」と、詰問する者もいた。

 これに対し鈴木侍従長は厳然と次の様に言った。

 「それは違う。侍従長はそういう位置にあるのではない。総理の辞意は、まことに気の毒とは思ったが、それ以上どうということをしてはならぬし、できないのだ」。

 だが、この田中内閣辞職問題は、昭和史の歩みの上に大きな影響を投げかけることになった。

 天皇は辞任の直接の動機が、鈴木侍従長に不用意にもらした自分の一言にあったことを、後に知った。立憲君主として、首相を弾劾して辞職させるということは、許されるべきことではないのではないか。

 天皇の唯一のご意見番ともいえる元老・西園寺公望は、牧野内大臣を通して、「天皇は直接に自己のご意見を表明すべきではない」と、天皇に伝えてきた。

 西園寺や牧野は、イギリス式の立憲君主方式を理想とし、主張しているのである。

295.鈴木貫太郎海軍大将(15)これでいいのか……いいのか……本当に、いいのか

2011年11月18日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 中国大陸では、革命軍の上海や南京占領、蒋介石の反共クーデター、満州から北京へと出てきた大軍閥の頭領張作霖の大元帥就任と、嵐の前といった情勢だった。

 昭和二年四月に内閣を組織した元陸軍大将・田中義一首相(陸士旧八・陸大八・男爵)は、この中国に対して。猛烈な強硬策をとった。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、田中義一首相は、組閣後一ヵ月後の五月に中国山東省に出兵(第一次山東出兵)し、国民革命軍の北上を防ごうとする態度をとり、六月の東方会議で、満州と内蒙古を中国から切り離し、日本の支配下におこう、とする国家方針を公認した。

 昭和三年四月にはまた山東省に出兵した(第二次山東出兵)。五月、いよいよ蒋介石軍が済南に迫ること必須とみた田中内閣は、青島に上陸待機していた日本陸軍を済南に進め、原因不明の戦闘を惹起させ、全世界を驚かせた。

 天皇裕仁は鎮痛した。海外出兵し、済南では中国側死傷者四千以上という戦闘がおき、中国民衆を憤激させ、全土に渡り猛烈な半日運動を巻き起こした。

 出兵の裁可を求めて参内した田中首相と参謀総長・鈴木荘六大将(陸士一・陸大一二・帝国在郷軍人会長)を待たせ、天皇は書類に署名をしようとし、筆に墨をふくませたが、ふと手をとめて黙読した。

 再び筆を近づけたが、途中でやめ、ついに筆を硯箱に戻した。そして双眼をつぶりじっと考え込んだ。侍立する侍従武官長・奈良武次陸軍大将(陸士旧一一・陸大一三・男爵)の耳には、かすかに独語する天皇の声が聞えた。

 「これでいいのか……いいのか……本当に、いいのか」。

 それほどまでに憂慮したうえで決定した海外出兵だった。それがついに蒋介石軍との交戦となり、事態は天皇の憂慮したように悪い方へと向かった。

 そればかりではなかった。その後一ヵ月も経たない六月四日、天皇の目をみはらせる意外事が発生した。張作霖将軍の爆死事件だった。

 のちに関東軍の謀略と判明するのだが、その遠因に田中内閣の施策に対する鈴木貫太郎軍令部長の強硬な反対意見があったのである。

 国民革命軍が北京に迫るにおよんで、田中内閣は「戦禍が満州に及ぶときは、治安維持のため、有効な措置をとる」と言明、これに中国国民政府は内政干渉だと反駁(はんばく)した。

 日本帝国陸軍は、これに対して第九師団を中満国境の山海関に派遣することを決意し、政府もまた同意する意向を示した。

 それを第三班長の米内光政少将(海兵二九・海大一二・大将・海相・首相)から聞かされた鈴木貫太郎軍令部長は、ただちに海相・岡田啓介大将(海兵一五・海大二・首相)に談じ込んで、次の様に言った。

 「内閣が事情やむなしと派兵を実行するなら、英米から抗議の来ることを覚悟しておかねばならない。それを強硬に突っぱねれば、事態は悪化し、英米と最悪の関係に陥らぬとも限らない」

 「自分は政治の決定には従うつもりであるが、断行するなら、かねて軍令部が要求している弾薬、水雷などの補充をこのさい至急に解決してもらいたい」

 「そうして十分に戦争準備をしておかねばならぬ。それには経費五千万円を要する。政府に要求しこれはぜひとも獲得してもらいたい。それなら軍令部は文句を言わぬ」。

 山海関出兵の及ぼす国際情勢の悪化を見抜いているあたり、鈴木軍令部長の国際感覚の確かさが感じられる。それを統帥部は政治に干与しないという軍人の本分を、鈴木軍令部長は厳重に守っている。

 結局、岡田海相が、田中首相にねじこんで、山海関出兵は中止された。

 だが、満蒙防衛の責任を負う陸軍と関東軍の戦略観は、内閣や海軍と違っていた。それならば、いかにして国民革命軍の北上を阻止するか。

 国民革命軍と対抗する張作霖軍の弱体を知っていればこそ、思い切って張作霖を退け、むしろ日本軍との衝突を引き起こし、それに乗じて一気に奉天を占領、満州を制圧してしまおう。それが張作霖爆殺の目的だった。

 陸軍出身の田中首相は、さすがに張作霖爆死を一応は疑ったが、「まさか……オラの後輩の陸軍軍人にこんなバカなことをする者は、おるとは思えない」と、天皇の心配を伝えた奈良武官長に言った。天皇は微笑して、奈良武官長の報告を聞き、心から安堵した。

294.鈴木貫太郎海軍大将(14)名和大将は山下大将に「お前の講評は間違っている」と言った

2011年11月11日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 第二艦隊は劣勢ではあったが、戦闘位置が善かったので、攻撃を開始した。鈴木中将は戦闘しつつ本隊と合同しようとしたが、本体と合流しないうちに、戦闘中止を命ぜられて、演習が終結した。

 気の毒なことに、第一艦隊はなにもせずに終わった。もう二、三十分すれば、本隊の第一艦隊も戦闘に間に合ったが、燃料が浪費なので、審判官の判断で中止された。

 講評では、第二艦隊は本隊と合しないうちに戦闘したのは良くないと批評された。だが、鈴木中将は、劣勢であったが、位置がよかったので、敵の廃残艦を叩き潰す自信はあった。

 鈴木中将の第二艦隊には審判官として名和又八郎(なわ・またはちろう)大将(東京・海兵一〇・厳島艦長・第三艦隊司令官・海軍教育本部長・第二艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将)が乗艦していた。遠慮の無い性格の軍人だった。

 演習後、慰労会が行われた。その席に演習統監である軍令部長・山下源太郎大将(山形・海兵一〇・英国留学・軍令部第一班長・磐手艦長・海軍兵学校長・中将・軍令部次長・佐世保鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長・勲一等旭日桐花大綬章・男爵)が出席していた。

 その席で、名和大将は山下大将に「お前の講評は間違っている」と言った。そして「第二艦隊が合同前に戦闘したというが、あの位置にあって戦闘しない司令官は卑怯者だ、お前の講評は盲目だよ」と続けた。

 だが、山下大将はニヤリニヤリと笑って返事をしなかった。この二人の提督は海軍兵学校同期で、日頃は仲の良い友人であった。鈴木中将はその問答を見ていて、両提督の性格が露骨に顕れていると思った。

 大正十年十一月、進級会議があり、終わった後に、海軍大臣・加藤友三郎大将(東京・海兵七・海大一・海軍次官・功二級金鵄勲章・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・勲一等瑞宝章・海軍大臣・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・首相・子爵・元帥)の招待があった。

 その場で加藤大臣は「海軍の経費が膨大になったから節約していかねばならぬ、できるだけその積もりでやってもらいたい」と訓論を述べた。

 そのあと、加藤大臣は「長官で意見があれば、遠慮なく述べよ」と言った。だが、誰も意見を言う者はいなかった。

 第二艦隊司令長官・鈴木中将は、その席では一番後任だった。鈴木中将は「上の人から意見を言えば、下の者は言えなくなるから、後任者から発言するのが慣例にでもなっているのかと考えた。それで、次の様に意見を述べた。

 「誠に節約のことはごもっともで、できるだけ努力して後趣意に添いたいと思っている。ただ一つ、私の申し上げたいことは、海軍の力のあるのは艦隊の実力のあることである、艦隊の訓練が基である」

 「もう訓練をやるにしては今の艦隊の編制が小さ過ぎる、第二艦隊が二隻である、二隻というのは二点で直線か曲線か判りません。三隻なければ物を正して行くことができない、もう少し艦隊訓練に力を入れていただきたい。これは大臣の節約と反対のことになるならば、できれば第一艦隊に集めてしまったら良いかもしれない」。

 すると加藤大臣はいやな顔をしてジッと鈴木中将の顔を見て、しばらくして「君の意見はもっともだ。これから第二艦隊を止めてしまう。その船を第一艦隊に一緒にして訓練しよう。そうすると君は待命だ」と笑いながら言った。

 鈴木中将は「それは結構です。私は兵学校を出てから今日まで休息したことがない。待命なら休息ができるから結構です」と言った。

 この言葉に加藤大臣は笑って「まあ、食事ができた、食堂へ行こう」と言った。

 その年の十二月、編制替えが行われ、第二艦隊は一時中止となった。鈴木中将は待命にはならず、十二月一日第三艦隊司令長官に親補された。

 親補式に出るため鈴木中将が家を出ようとすると、新聞記者が写真を撮った。それから高輪の御殿へ行って親補式に出た。

 そのとき侍立したのは高橋是清(たかはし・これきよ)首相(東京・ヘボン夫人家塾生・渡米し奴隷労働をしながら勉学・大学南校・東京英語学校教員・東京大学予備門英語教員・農商務省書記官・商標登録所長・特許局長・日本銀行副総裁・貴族院議員・男爵・日本銀行総裁・大蔵大臣・子爵・首相・衆議院議員・大蔵大臣・首相・大蔵大臣・大勲位菊花大綬章)だった。

 その二ヵ月後、鈴木中将のもとにワシントンから新聞を送ってきた。ワシントン・ポストだった。それを見ると、鈴木中将が親補式に出るときの服装の写真が写っていた。

 その写真の下に「この人の容貌は平和的でない」と記してあった。鈴木中将が練習艦隊司令官として遠洋航海でサンフランシスコに行き、日米戦争の演説をしたことをアメリカの新聞は記憶していた。日本の将官の行動を彼らは注目していたのである。

 大正十四年四月十五日、鈴木貫太郎大将は海軍軍令部長という最高要職に就任した。五十八歳だった。

 当時の軍令部次長は斎藤七五郎(さいとう・しちごろう)中将(宮城・海兵二〇恩賜・海大四首席・英国駐在・装甲巡洋艦八雲艦長・軍令部一部長・練習艦隊司令官・軍令部次長)だった。

 第一班長は、原敢二郎(はら・かんじろう)少将(岩手・海兵二八・海大九・中将・東亜研究所理事)、第二班長は嶋田繁太郎(しまだ・しげたろう)少将(東京・海兵三二・海大一三・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・軍令部総長)、第三班長は米内光政少将(岩手・海兵二九・海大一二・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・首相)だった。

 先任副官は津田静枝大佐(福井・海兵三一・第二外遣艦隊司令官・旅順要塞司令官・軍令部第三部長・中将・駐満州国海軍部司令官・興亜院華中連絡部長官)だった。

293.鈴木貫太郎海軍大将(13)日米戦争はアメリカでも日本でも耳にする、しかしやってはならぬ

2011年11月04日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 そこで、サンフランシスコでの歓迎会で鈴木中将は日本語で次の様に演説した。

 「その日米戦争ということと、日本人を好戦国民と外国人のいうことと、これは二つながら非常に誤っていることだ。これは日本の歴史に無知なことから起こるのだ。日本の歴史を調べてみれば判ることだ。日本人ほど平和を愛好する人間はほかに世界にはあるまい。日本は三百年間の間一兵も動かさずに天下が治まっている、これは平和を愛好する証拠である」

 「しかし日本人が近来の外国との戦争に勇敢に闘ったことは確かなことである。この勇敢さを好戦国というならば我々は甘んじて好戦国民と言われても一向差し支えがない。日本人は平和を愛好する国民だから外国から仕掛けられてもなかなかやらない。敵から挑戦されて止むを得ずやるということであった」

 「世界を席捲したジンギスカンの後裔の元のクビライに対してすら彼の挑戦に応じてやった。ヨーロッパを席捲したあの兵力をもって向かって来た、十万の敵と戦って生きて帰る者三人というまでやっつけた。秀吉の朝鮮征伐ということもこちらからアグレシーブにやったのではなく、元がこちらを侵した復讐戦をやったのである。決して侵略したのではない」

 「近来支那と戦争したがこれも止むを得ずしてやったのである。日本は戦う時には必ず正しい道をとってやっていた。東洋の歴史を見ても日本と戦ったもの、すなわち元にしても明にしても清にしてもみな日本と戦ったことが原因となって亡びている。いつも日本が戦う時は正義に立脚し神は正義に与するからだ」

 「この日米戦争は、アメリカでも日本でもしばしば耳にする、しかしやってはならぬ。いくら戦っても日本の艦隊は敗れたとしても日本人は降伏しない、なお陸上であくまで闘う。もしこれを占領するとしたらアメリカで六千万の人を持って行って日本の六千万と戦争するよりほかにない。アメリカは六千万人を失って日本一国とったとしても、それがカリフォルニア一州のインテレストがあるかどうか」

 「日本の艦隊が勝ったとしても、アメリカにはアメリカ魂があるから降伏はしないだろう。ロッキー山までは占領できるかもしれんが、これを越えてワシントン、ニューヨークまで行けるかというに日本の微力では考えられない。そうすると日米戦は考えられないことで、兵力の消耗で日米両国はなんの益もなく、ただ第三国を益するばかりで、こんな馬鹿げたことはない」

 「太平洋は太平の海で、神がトレードのために置かれたもので、これは軍隊輸送に使ったなら両国とも天罰を受けるだろう」。

 以上のように演説したら、米国人は非常な喝采をした。このテーブル・スピーチは区切りで、参謀の佐藤市郎大尉によって通訳された。佐藤大尉は非常に英語のできる人だった。

 その当時のサンフランシスコ総領事・植原正直氏は「実に良いことを言ってくれた。一度はああいうことをアメリカ人に聞かせてやらねばならんのだが、我々が言ったら外交問題になるだろう」と言った。

 そして、佐藤大尉の通訳は、彼は最近の新聞などを読んでいて、アメリカ人のよく了解する言葉を用いた。司令官の日本語演説よりは佐藤大尉の英語演説のほうがよほど能弁だったと、大笑いになった。

 鈴木中将の演説は、三月二十八日、二十九日の米国の新聞で要約して報じられた。

 その後の新聞に、カリフォルニア州の検事総長、J・W・プレストン氏が一ページに渡る論文を掲載した。その新聞が鈴木中将に届けられた。

 それによると、検事総長は鈴木中将の意見に大賛成であるという意味のことが書かれていた。全く日米戦争の愚なることを強調した論文だった。

 大正九年十二月一日、鈴木貫太郎中将は海軍兵学校長から第二艦隊司令長官に親補された。五十三歳であった。鈴木中将にとっては初めての親補職で喜んで赴任した。

 このとき第一艦隊司令長官は栃内曽次郎大将(海兵一三・貴族院議員)で連合艦隊司令長官でもあった。連合艦隊旗艦は戦艦金剛(乗員二三六七名・二六三三〇トン当時)だった。

 大正十年秋、日本海で大演習が行われた。赤軍は太平洋から津軽海峡を通って日本海に侵入し、それを連合艦隊が日本海で迎え撃つ演習だった。

 鈴木中将は連合艦隊の前衛の指揮官として日本海の能登方面から北のほうへかけて、水雷戦隊と第二艦隊を率いていた。

 赤軍の指揮官は鈴木中将と海兵同期の千坂智次郎(ちさか・ちじろう)中将(海兵一四・海兵校長)で侵入軍を率いていた。

 ところが、そのときの前衛の水雷戦隊司令官である桑島省三少将(海兵二〇・中将)は、水雷戦術家で、夜を徹して赤軍を攻撃したので、赤軍艦隊は廃艦が多数出た。

 その赤軍を、朝方、鈴木中将の第二艦隊で迎え撃った。だが、本来は、本隊である第一艦隊と合同して迎撃する作戦で、第二艦隊は退去しながら、第一艦隊と合する予定だった。

 だが、本隊と第二艦隊との間には相当の距離があって、その間に赤軍が入ってきたので、合同するにしても、敵と戦闘しなければならなくなった。

292.鈴木貫太郎海軍大将(12)今まで少将でこの勲章をもらった例はなかった

2011年10月28日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 大正四年六月七日、海軍次官・鈴木少将は良縁を得て新夫人を迎えた。夫人は新渡戸稲造博士(札幌農学校二期生・東京帝大選科・東京帝大教授・貴族院議員)らと同学の農商務省横浜生糸研究所技師・足立元太郎の令嬢で、名はたか、三十二歳だった。鈴木少将は四十七歳だった。

 たか夫人は東京女子師範保姆(ほぼ)科を卒業後、皇太子裕仁親王(昭和天皇)の哺育に奉仕していた。

 大正四年八月、鈴木少将は高等官一等になった。それで大正五年四月には論功行賞があり、勲一等旭日大綬章を拝受した。高等官一等で海軍次官として授与されたが、今まで少将でこの勲章をもらった例はなかった。

 当時は日独戦争中であり、ロシアから皇族が日本に派遣された。同盟の謝意を表すための使いであった。

 皇族の殿下一行は朝鮮を経由して日本に来た。朝鮮では、日本の陸海軍の将官が案内役で随行した。

 ロシアの殿下は日本の大官達に、各種の勲章を贈与するために持ってきていた。海軍次官・鈴木少将も授章名簿の中に加えられていた。

 それで、日本帝国陸海軍大臣、次官には、日本の勲一等に相当するものを贈る予定だった。参謀次長、軍令部次長に対しては、その次の勲章が予定されていた。

 ところが、朝鮮から随行して来た陸軍将官が、それでは具合が悪い。陸軍参謀次長・田中義一中将(陸士旧八・陸大八・陸相・首相・男爵)には是非良い勲章を与えるべきであると進言したので、ロシアの殿下は日本に着いて、田中参謀次長に良い勲章を贈った。

 そこで、殿下が携帯してきた予定の勲章に不足が生じた。その時、鈴木海軍次官は、まだ少将だったので、その次の勲章を貰ってくれないかと、随行の海軍将官が内意を告げに来た。

 ロシアでは、次長より次官の方が上であったので、その順序で予定されていた勲章を、陸軍の将官が田中参謀次長に横取りするように小細工を弄したのだった。

 そこで鈴木次官は、その随行の海軍将官に、陸軍次官はどういう勲章を貰っているかと訊いたら、やはり最高の勲章を貰っていると答えた。

 それを聞いて、鈴木次官は「今、海軍次官として在任しているのだから、陸軍次官が最高のものなら、同じものをあてられるのなら異存はないが、その下の勲章をあてられるのならば、海軍の面目に関することであるから、ご辞退する。のみならず、自分としては外国勲章は頂戴したくない」と言って断った。

 すると、ロシアの使節は非常に困却した。そういう場合に勲章を辞退されると、使節の役目を果たさないという風に考えた。

 そこで周りの海軍将官から「まあ我慢して、貰ったらよかろう」と説得されたが、鈴木次官は「私は海軍次官という務めに対して受け取り難い」と固く主張した。

 それで、ロシア使節から最高の随行委員が、「使節が帰国後に、上級の勲章を鈴木次官に贈ることを約束するから、承知してくれ」という意味の手紙を持って、海軍省の鈴木次官を訪ねてきた。

 鈴木次官は「それまでご心配下さることは甚だ恐縮であるが、他日陸軍次官と同じ勲章を贈られることなれば、有難くお受けしましょう」と快く返事をした。数ヵ月後その勲章がロシア政府から外務省を経て鈴木次官に届けられた。

 大正六年六月一日、海軍中将に進級した鈴木貫太郎は、九月一日海軍次官を免ぜられ、練習艦隊司令官に補せられた。五十歳だった。

 大正七年三月、練習艦隊は候補生を乗せて遠洋航海に出発した。横須賀を出て、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、サンディゴ、メキシコナドなどアメリカ方面への練習航海だった。

 サンフランシスコでもロスアンゼルスでも大歓迎を受けた。市の歓迎会で数百人の人が集まって、練習艦隊の高等官を招待してくれた。

 そのたびに米国人がテーブル・スピーチをする。鈴木中将らには一向にその英語のスピーチが分からなかった。鈴木中将は練習艦隊司令官として何かやらねばならぬと思った。

291.鈴木貫太郎海軍大将(11)八代海相は「鈴木次官にもう少し政治性があったら」とこぼしていた

2011年10月21日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 大正三年六月、第一次欧州大戦が勃発し、日本は日英同盟の誼により八月二十三日ドイツに対して宣戦布告した。

 戦争開始により、その戦費調達のため、政府は臨時議会を開くことに決した。総額五千三百万円の臨時軍事費中、海軍は駆逐艦十隻の建造費千五百十七万円を要求した。

 予算閣議の席上、八代海相の説明を聞いた若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)蔵相(東京帝大法学部首席・首相・男爵)は、「これは臨時議会に提出する性質のものではない。通常議会まで待ってもらいたい」と拒絶した。

 そこで、両相の間に激しい論戦が展開したが、この種の議論になると八代海相は若槻蔵相の敵ではなかった。散々論破されて席を蹴って起った。辞職するつもりだった。

 八代海相は鈴木貫太郎次官に閣議の顛末を話し、辞任の決意を告げた。驚いた鈴木次官は、大蔵省に浜口雄幸(はまぐち・おさち)次官(東京帝大法学部・蔵相・内務相・首相)を訪ね、若槻蔵相の翻意を頼んだ。

 浜口次官は「八代海相は何かといえばすぐ辞職するという。そんなに辞めたいなら辞めるがいいと若槻蔵相は話している。とても翻意は駄目」と受け付けてくれなかった。

 そこで鈴木次官は「駆逐艦十隻の作戦上の価値を知らないから、そんなことを言われるのだ」と、こんどは得意の小艦艇の威力について熱心に説明した。だが、浜口次官はなかなか承知してくれなかった。

 鈴木次官が「それなら蔵相に直談判するから取り次いで貰いたい」と言うと、浜口次官は「蔵相はいま外務省に行かれて留守だ」と言う。

 若槻蔵相は先程まで隣の大臣室にいたが、両次官の談判がなかなか面倒らしいと聞いて、加藤高明外相(東大法学部首席・首相・伯爵)の許に行ったのだ。

 「外務省に行っておられるなら、外務省まで行くから君も同道してくれ」と鈴木次官も強引に言った。浜口次官はしぶしぶ車に同乗した。

 車中で浜口次官は遂にカブトを脱ぎ、「君の熱意には負けた。蔵相には私からよく説明して、必ず君の説を通してやるから、直談判だけは勘弁してくれ」と言った。

 「それでは、君に一任する」と言って、浜口次官を外務省に送り込んで、鈴木次官は海軍省に帰った。二、三時間後、浜口次官から電話で「海軍予算は全部承諾することになったから、安心してくれ」と鈴木次官に通知してきた。これで、八代海相も辞意を思い止まった。

 ところが、議会が開会されて、駆逐艦十隻建造を含む海軍予算に対して、政友会が削除することに決めたとの報が、鈴木次官の許に届いた。

 それは大変だと鈴木次官は海軍省の隣にある衆議院議長官舎に大岡育造(おおおか・いくぞう)衆議院議長(長崎医学校・司法省法学校・文部大臣)を訪ねた。

 そして「駆逐艦十隻の価値については、政友会が一番良く知っているはずである。議長の斡旋によって、是非無事に海軍予算の通過する様にして貰いたい」と頼み込んだ。

 大岡衆議院議長は黙って鈴木次官の話を聞いていたが、「ご趣旨はよく分かった。しかし政友会としてはつい先程の幹部会で削減することに決めたばかりだから、それを覆すことはちょっとむずかしい。けれども君の説はもっともだと思うから、及ぶ限りの努力はしてみよう」と返事をした。

 鈴木次官は、さっそく海軍省に帰って八代海相に事の顛末を報告した。だが、喜んでくれると期待していたのに、八代海相は頗る機嫌が悪かった。

 八代海相は「そんな重大なことは、事前に相談してからやって貰いたい」と言った。

 鈴木次官は「それは気付かぬではなかったが、大臣に相談すると承知されそうもないと思って独断でやりました」と答え、謝った。

 八代海相は「鈴木次官にもう少し政治性があったら」とこぼしていた。そのことを、鈴木次官も薄々承知していた。

 だからこそ、就任の際、「次官はお断りする」と言ったのに、それで宜しいと無理に引っ張り出されたのだから、文句はむしろ鈴木次官のほうで言いたいところだった。

 八代海相がこの時不機嫌だったのは、海軍予算については既に見切りをつけていた。議会では、貴衆両院とも、海軍は火事場泥棒を働いている。通常議会まで待てないほど緊急なものではないと海軍に対する風当たりが非常に強かったのだ。

 議会答弁では、八代海相は余り得意ではない。それを大隈首相がカバーして解散風をちらつかせながら威嚇し、政友会内でも大岡衆議院議長の奔走があり、予算は無疵で議会を通過した。