陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

444.乃木希典陸軍大将(24)乃木は都合に依って欠席を致すから、諸君に宜しく申し上げてください

2014年09月26日 | 乃木希典陸軍大将
 山地中将は東京の第一師団長であったから、その下の、第一旅団長として、乃木少将を就任させた。

 乃木少将が歩兵第一旅団長に就任したのは明治二十五年十二月八日で、九ヶ月余りの休職だった。このとき、乃木少将は四十四歳直前であった。

 「将軍 乃木希典」(志村有弘・勉誠出版)によると、清国(後の中華民国)は、朝鮮を併合しようという野心を持っていた。それは日本帝国にとって、自分の首に縄をかけられるも同じことだったので、黙って見ている訳にはいかなかった。

 そこで、日本帝国と清国は度々談判をして、お互いに朝鮮から撤退し、力を合わせて、朝鮮の独立と平和を保つようにしようと、明治十八年四月一八日、天津条約を取り交わした。だが、清国は朝鮮に対する野望は捨てておらず、朝鮮での清国の主導権は依然として強固のものがあった。

 明治二十七年五月、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発すると、六月、天津条約に基づき、日清両国は朝鮮出兵を相手国に通告した。その後、朝鮮政府と東学農民軍が停戦しても、日清両軍は撤兵しなかった。

 やがて、朝鮮国内で日清両軍は衝突し、明治二十七年八月一日、日清両国は宣戦布告をした。これが日清戦争の始まりだった。開戦と決して、宣戦の布告を出してから、真っ先に乗り出したのは、第一師団だった。山路元治中将がこれを率いた。その下の、第一旅団は乃木希典少将が率いて、出征した。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、日清戦争の際、旅順攻撃の総指揮官は、鬼将軍、山路元治中将だった。山路中将と乃木少将は非常に深い交わりがあった。乃木と心を許して交わったものがあるとすれば、山路は、その第一人者だった。

 乃木少将は、その山路中将の下に就いて、第一旅団長として、旅順口に向かったのであるが、その時は、支那人を相手に戦ったが、さして苦労もなく、旅順口は陥落してしまった。

 凱旋の後、明治二十八年四月、乃木少将は中将に昇進し、抜擢されて、仙台の第二師団長に任命された。四十七歳だった。また、功三級金鵄勲章、旭日重光章を受章し、男爵を受爵した。

 乃木中将は仙台に赴任した。当時の宮城県知事は、勝間田稔(山口県萩市・藩校明倫館卒・戊辰戦争従軍・越後府軍監・山口県九等出仕・防長協同会社頭取・内務省書記官・警保局長・社寺局長・戸籍局長・愛知県知事・愛媛県知事・宮城県知事・新潟県知事・宮内省図書頭)だった。

 勝間田稔・宮城県知事は、愛知県知事時代、風流知事として、浮名を流していて、世間に知られた人物だった。勝間田知事は、詩も作れば、歌も詠んだ。そして不思議に女にもてた。一度関係した女は不思議に勝間田にほれ込んだ。勝間田は、金と権力で女に接したりはしなかったので、名古屋には、勝間田の女が沢山いたが、悪口を言う女はいなかった。

 なにしろ、このような勝間田が宮城県知事であるから、高名な乃木中将が仙台に第二師団長として赴任してくるにあたって、その歓迎会を、盛大に園遊会として歓待することに熱心だった。園遊会も、仙台中の芸者を残らず集めて、余興はもちろん、模擬店なども、一切、芸者を以って、担当させることにしたのだった。

 仙台に赴任した、乃木中将は、いよいよ歓迎の園遊会当日になって、先日に送られてきていた、その案内状を開いて見た。当日のプログラムが記してあり、段々それを読んでいくと、意外にも芸者の接待を以って歓待方法としてあることが分り、乃木中将は苦い顔をした。

 乃木中将は、しばらく考えていたが、やがて書生を読んだ。乃木中将は、書生に次のように言って、勝間田県知事と市長のところへ使えに行くように命じた。

 「今日は、お招き下されてかたじけないが、乃木は都合に依って欠席を致すから、諸君に宜しく申し上げてくださいと、言うてくるのじゃ」。

 書生は、妙な顔をして「へへー、御出席なさらないのでございますか」と言うと、乃木中将は「そう言うて、断ってこい」と答えた。

 仙台の市中にいる芸者を、二、三百人総揚げして、豪奢な園遊会を開くべく、その準備をしているところへ、肝心の乃木師団長から断りの使いが来たので、勝間田県知事や市長たちは、頗る面喰った。乃木師団長が来なければ、この園遊会を開く必要がなくなったのである。しかも、当日になって断ってきたのは、どういう事情なのか。

 市長と発起人の中から何人かが代表になって、乃木師団長の邸宅にやって来た。再三断ったが、どうしても会いたいというので、乃木中将は応接間へ通した。

443.乃木希典陸軍大将(23)乃木の奴、なかなかに難しい事を、言うので困る

2014年09月19日 | 乃木希典陸軍大将
 山地中将は昔流の軍将で、義理を重んじ、よく人の為に尽くし、戦陣に臨んでは、鬼将軍と呼ばれ、その武勇はよく知られており、誰もが認める生粋の軍人だった。

 乃木少将は、本筋からいえば、長州軍閥の軍人で、山縣有朋の系統ではないが、山縣とともに進んで来たことは事実だった。

 だから、乃木少将の方から、折れて出れば、山縣の方でも決して疎外するようなことはないのだが、乃木少将の気性として、それができなかった。

 乃木は山縣系の軍人にはなることができなかった。だから、山縣系の軍人たちは乃木少将を疎外したが、それ以外の軍将からは、かえって乃木少将は尊重されていた。

 山地中将は、東京の第一師団長であったのを、幸いに、休職中の乃木少将を引き上げようと思った。それには、まず、山縣有朋を説得しなければならなかった。

 当時、山縣有朋は、明治二十二年十二月に内閣総理大臣となり、第一次山縣内閣を組閣したが、明治二十四年五月辞任した。その後、元老として明治陸軍を牛耳っていた。当時の陸軍はまさに“山縣の陸軍”だったのである。

 土佐出身の山地中将は、維新前後からの戦友として一通りの交際はあったが、山縣の自邸を訪ねたこともなく、あえて親交のある間柄ではなかった。

 そのような関係の山地中将が不意に自邸に訪ねてきて、何か相談があるというので、山縣は、不思議に思った位だった。「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、元老・山縣有朋と男爵・第一師団長・山地元治中将のやりとりは次の通り。

 山縣「君がわざわざ訪ねて来るとは、珍しい事じゃ」。

 山地「少し相談があって、お訪ね致した」。

 山縣「全体、どういう事かな」。

 山地「他の事ではないが、乃木の身についてじゃ」。

 山縣「ふふ~む、乃木の事についてか」(山縣は意外に思った)。

 山地「あれだけの人物を、空しく遊ばせて置くのは、実に愚の至りじゃ。もう一度、引き出す事は、なるまいか」。

 山縣「さ、それは………」(何事にも用心深い人で、容易に口は開かなかった。特に、山地が乃木のために来た、という事に、何となく疑いもあるから、なお更、可否の返事はうっかりできないので、山縣は眉を八字にして、深い考えに沈んだ)。

 山地「簡単に言えば、我輩が乃木を預かりたい、というのじゃが、それには、君の承諾も受け、助言も、充分に無ければ、できぬ事で、是非、ウムと言うてもらいたい」。

 山縣「乃木を預かって、如何しようというのか」。

 山地「つまりを言えば、普通の者の下には付くまいが、我輩とは、多少の諒解もあって、何とか折り合いもつこう、と思うから、兎に角、乃木を呼んで、相談してもらいたい」。

 山縣「乃木の奴、なかなかに難しい事を、言うので困る」。

 山地「それも、よく知ってはいるが、君から話しさえあれば、我輩の方で何とか折り合いをつけよう」。

 山縣「左様か」。

 山地「一応は、君から話してもらって、後は、我輩に任せてくれたら、何とか抑え付けるつもりじゃ」。

 山縣「宜しい、そういう次第なら、乃木を呼んで、一応話して見る事にしよう」、

 山地「何分、頼む」。

 それで、話が済んだ。そのあと、用意の酒肴が出て、山縣と山地は、昔話に、時を移した。山縣の豪快と、山地の質実と、その対照が面白く、話は進んだ。

 それから、数日後、乃木希典少将は、元老・山縣有朋に呼ばれ、いろいろと懇談を受けた。乃木少将は容易に承知しなかったが、山地も大骨折りで、説きつけ、ようやく承知させた。

442.乃木希典陸軍大将(22)桂師団長から侮辱されたと知った乃木旅団長は、顔色をさっと変えた

2014年09月12日 | 乃木希典陸軍大将
 これを聞いた乃木少将は、すッと、立ち上がって、サーベルを腰に下げると、帽子を取って、「やァ、失礼した。都合によって出立します」と言った。

 呆気に取られた番僧たちを尻目にかけて、乃木少将は、ズンズン出て行った。石田副官も跡から続いて、出かけた。

 山門の前に立って、乃木少将は石田副官を待っていた。石田副官が「随分、礼を知らぬ輩(やから)であります」と言うと、乃木少将は「近頃の坊主は、大概、あんなもんじゃ」と答えた。

 そのあと、乃木少将は「それに、わしの額と、桂の額を並べて掛けるのじゃそうだ」と言った。石田副官が黙っていると、乃木少将は「桂の額と、並べられては堪(たま)らんからな」と言った。

 名古屋の第三師団長・桂太郎中将と、第五旅団長・乃木希典少将の仲はどうもうまくいかなかった。

 周囲の者もいろいろと気を使ってとりなそうとしたが、乃木少将のほうで桂中将を嫌っていた。それが桂中将にもわかるから、桂中将も乃木少将を嫌うということで、しっくりしなかった。

 とうとう乃木少将は病気と称して会議などにも出席しなくなった。つむじを曲げてしまったのである。

 ところが十一月三日がきた。十一月三日は天長節であった。各師団では観兵式(分列式)を行う。天長節の観兵式を仮病で休むことは、御上への畏れ、と乃木少将は考えて、旅団長として出て行かないわけにはいかなかった。乃木少将はすぐに全快届けを提出した。

 桂師団長は乃木旅団長に、その日の諸兵の分列式の指揮官を命じた。慣れている乃木少将には、それ位の役目は何でもないことだった。

 この頃、虫歯に悩まされていた乃木少将は、ついに、反対する歯医者に無理やり命じて、上顎と下顎の歯を一度に全部抜いてしまい、総入れ歯にしてしまった。乃木少将は、「これで虫歯に悩まされる事も無い。すっきりしたもんじゃ」と言った。

 ところが、この観兵式の最中に、乃木旅団長が馬上で指揮をしていて、大声で号令をかけた瞬間、この入れ歯がふっ飛んで落ちてしまった。それを見た桂師団長は声をあげて大笑いをし、幕僚たちもつられてクスクス笑った。

 観兵式がとどこおりなく終わって、乃木旅団長は、桂師団長の前に馬を進めて、指揮が終わったことを報告した。

 すると、乃木旅団長の顔を見ながら、桂師団長はニコニコしながら、左右に控えている井上参謀長や各団隊長に「乃木旅団長は、病気じゃというが、たとえ、病気でも、これ位元気があれば、大丈夫じゃ、やれば立派に務まるじゃないか、ハッハハハ……」と、暗に仮病だろうと、高笑いをした。

 入れ歯の落ちたくやしさの上に、さらに桂師団長から侮辱されたと知った乃木旅団長は、顔色をさっと変えた。乃木旅団長は、黙って挙手の礼をして、桂師団長の前を退くと、パッと馬を返して厩舎の方へ走り去った。

 乃木旅団長はそのまま駅へ行き、石田副官に、「おい、石田。俺は辞めてしまうから、あとは頼むぞ」と言って、東京行きの列車に乗ってしまった。

 東京に着くと、乃木旅団長は病気休職を願い出た。同郷の第一師団参謀長・寺内正毅大佐(山口・戊辰戦争・戸山学校卒・フランス留学・駐在武官・大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・少将・歩兵第三旅団長・教育総監・参謀本部次長・中将・陸軍大臣・大将・子爵・韓国統監・朝鮮総督・伯爵・軍事参議官・元帥・内閣総理大臣・従一位・大勲位・功一級)が乃木旅団長に、どうにか思いとどまるよう、なだめた。

 だが、乃木旅団長は首を振るばかりで、意志を変えなかった。それから、しばらくして、明治二十五年二月、乃木少将はとうとう休職を仰せ付けられた。

 休職になった乃木少将は、栃木県那須野に三反歩ほどの百姓家と、三町歩ほどの田畑、十三町歩ほどの山林を所有していたので、東京と那須野を往復して、晴耕雨読の生活をした。

 乃木希典は明治十八年五月に三十六歳で陸軍少将になってから、今回の休職(四十三歳)まで七年近く少将のままである。中将に昇進するのは日清戦争後の明治二十八年四月で、四十六歳のときである。十年間少将のままだった。

 乃木少将の不遇は、同じ長州出身の軍人の中にも少なからぬ敵がおり、重く用いられなかったのである。特に山縣有朋に睨まれて、後輩の桂太郎にさえ疎外されるという境遇だった。

 そんな状況にもかかわらず、当時、乃木少将に味方する者も多数いたが、その中でも、最も乃木少将に手を差し伸べて親交を尽くしたのが、乃木より八歳年長の男爵、第一師団長・山地元治(やまじ・もとはる)中将(土佐藩=高知・戊辰戦争・陸軍中佐・西南戦争に歩兵第四連隊長として出征・歩兵第三連隊長・歩兵第一二連隊長・少将・熊本鎮台司令官・大阪鎮台司令官・歩兵第二旅団長・中将・男爵・第六師団長・第一師団長・日清戦争に出征・子爵・西部都督・死去)だった。

441.乃木希典陸軍大将(21)とうとう乃木少将は「字を書かねば、泊めてもらえないのか」と言った

2014年09月05日 | 乃木希典陸軍大将
 すると、乃木少将は「わしは、こういう取り扱いを受けるつもりではなく、信者並みに願いたい、と申し込んだ筈じゃが、これでは困る」と番僧たちに言った。

 番僧は「別に、これと申して、特別の御取り扱いも出来ませぬ。何分にも、山の事で御座いまして、これが精一杯の事で、へへへ……」とへりくだった笑いを見せて答えた。

 乃木少将は「イヤ、こんな歓待を受けるのなら、来るのではなかった」と言った。

 番僧は「御立腹では、恐れ入ります。これ以上には、如何とも致し方が御座いませんので、どうぞ御不承を願います」と答えた。

 さらに乃木少将が「勝手な事を申すようじゃが、信者並みにしてもらいたい」と言った。

 番僧は「どういたしまして、閣下に対して、左様な事が、出来るものでは御座いません。何事も住職の不在で手回りかねますが、御勘弁願います」と言う。

 乃木少将が「それは、困った」と言っても、番僧は「さあ、お席へ…」と促した。乃木少将は止むを得ず、席に着いた。

 二枚並べてある座布団の間に座ったから、番僧は驚いて、「粗末なものでは御座いますが、それへ、どうぞお着き下さいませ」と座布団を乃木少将の方へ、寄せようとした。

 それを。押しのけて、窮屈そうにして、乃木少将は、「わしは、これが勝手じゃ」と座った。番僧が「まあ、どうぞ…」と言うと、乃木少将も「これで、よい」と言って引き下がらなかった。

 これは、乃木少将が故意にするのではなく、平生からの流儀だった。畳の上に、どんな敷物でもあれば、その上、座布団を用いる事はしない、乃木流とでもいうべきか、そういう事にしていたのだった。

 大演習に出かけて民家を宿舎代わりにするときでも、乃木少将は、特別の扱いをされるのが大嫌いで、その家の家族と同じ取り扱いを望んでいたのである。

 演習地へ出かける時は、大きな握り飯に梅干を入れて、竹の皮包みを腰にぶら下げるのが例になっていた。帰って来ると、くたびれた時は、床の間に新聞紙か風呂敷をかけて、それを枕に、ゴロリと寝るのも、乃木流の一つであった。

 そういう自分の流儀を、乃木少将が言葉に出して言っても、それを理解しようとしない番僧たちは、ひたすら“特別なおもてなし”を良かれと思って、押し付けていたのであるから、両者はいつまでも相容れることはなかった。

 さて、半僧坊の大広間では、石田副官も座布団を敷かずに、乃木少将と同じようにして、座っていた。主なき座布団はそのままにしてあり、見た目には変な情景だった。

 やがて、番僧は、絖(ぬめ=絹織物で日本画等に使用される)を五、六枚と、大きい硯に、筆を添えて、乃木少将の前に運んで、次のように言った。

 「お疲れ中、まことに恐れ入りますが、当寺の為に、一筆お残しを願いたいもので、大額を一枚、あとは掛軸に致しますつもりで、御座いますから、然るべきよう、願い上げます」。

 乃木少将は、いよいよ渋い顔をして、「これは何じゃ」と言った。「一筆、願いたいので御座います」と番僧は答えた。

 「わしに、字を書けと言われるのか」と乃木少将が言うと、番僧は「ハイ」と答えた。

 とうとう乃木少将は「字を書かねば、泊めてもらえないのか」と言った。すると、番僧はあわてて、「左様な次第では、御座いません」と答えた。

 乃木少将は「それならば、御免蒙ろう」と言うと、番僧は「併し、当寺の記念として、願いたいのであります」と重ねて言った。

 乃木少将は「字を書くことは嫌いじゃ」と言った。すると番僧は「そこを、御無理でも、願いたいのでありまして、ハイ」と引かなかった。

 さらに乃木少将が「わしは、書かぬ」と言うと、番僧は次のように言った。

 「先ほど、付近の有志の者へは、それぞれ通知をいたしましたから、そのうちに皆やって来ることと思いますが、それまでに、是非、一筆願いたく存じまして。実は桂師団長閣下にも先般、願い上げまして、あちらの座敷に掲げてございます。その額と、閣下の額と、二つを以って、当寺の誇りといたしたく存じますので、強いて願い上げます」。