山地中将は東京の第一師団長であったから、その下の、第一旅団長として、乃木少将を就任させた。
乃木少将が歩兵第一旅団長に就任したのは明治二十五年十二月八日で、九ヶ月余りの休職だった。このとき、乃木少将は四十四歳直前であった。
「将軍 乃木希典」(志村有弘・勉誠出版)によると、清国(後の中華民国)は、朝鮮を併合しようという野心を持っていた。それは日本帝国にとって、自分の首に縄をかけられるも同じことだったので、黙って見ている訳にはいかなかった。
そこで、日本帝国と清国は度々談判をして、お互いに朝鮮から撤退し、力を合わせて、朝鮮の独立と平和を保つようにしようと、明治十八年四月一八日、天津条約を取り交わした。だが、清国は朝鮮に対する野望は捨てておらず、朝鮮での清国の主導権は依然として強固のものがあった。
明治二十七年五月、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発すると、六月、天津条約に基づき、日清両国は朝鮮出兵を相手国に通告した。その後、朝鮮政府と東学農民軍が停戦しても、日清両軍は撤兵しなかった。
やがて、朝鮮国内で日清両軍は衝突し、明治二十七年八月一日、日清両国は宣戦布告をした。これが日清戦争の始まりだった。開戦と決して、宣戦の布告を出してから、真っ先に乗り出したのは、第一師団だった。山路元治中将がこれを率いた。その下の、第一旅団は乃木希典少将が率いて、出征した。
「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、日清戦争の際、旅順攻撃の総指揮官は、鬼将軍、山路元治中将だった。山路中将と乃木少将は非常に深い交わりがあった。乃木と心を許して交わったものがあるとすれば、山路は、その第一人者だった。
乃木少将は、その山路中将の下に就いて、第一旅団長として、旅順口に向かったのであるが、その時は、支那人を相手に戦ったが、さして苦労もなく、旅順口は陥落してしまった。
凱旋の後、明治二十八年四月、乃木少将は中将に昇進し、抜擢されて、仙台の第二師団長に任命された。四十七歳だった。また、功三級金鵄勲章、旭日重光章を受章し、男爵を受爵した。
乃木中将は仙台に赴任した。当時の宮城県知事は、勝間田稔(山口県萩市・藩校明倫館卒・戊辰戦争従軍・越後府軍監・山口県九等出仕・防長協同会社頭取・内務省書記官・警保局長・社寺局長・戸籍局長・愛知県知事・愛媛県知事・宮城県知事・新潟県知事・宮内省図書頭)だった。
勝間田稔・宮城県知事は、愛知県知事時代、風流知事として、浮名を流していて、世間に知られた人物だった。勝間田知事は、詩も作れば、歌も詠んだ。そして不思議に女にもてた。一度関係した女は不思議に勝間田にほれ込んだ。勝間田は、金と権力で女に接したりはしなかったので、名古屋には、勝間田の女が沢山いたが、悪口を言う女はいなかった。
なにしろ、このような勝間田が宮城県知事であるから、高名な乃木中将が仙台に第二師団長として赴任してくるにあたって、その歓迎会を、盛大に園遊会として歓待することに熱心だった。園遊会も、仙台中の芸者を残らず集めて、余興はもちろん、模擬店なども、一切、芸者を以って、担当させることにしたのだった。
仙台に赴任した、乃木中将は、いよいよ歓迎の園遊会当日になって、先日に送られてきていた、その案内状を開いて見た。当日のプログラムが記してあり、段々それを読んでいくと、意外にも芸者の接待を以って歓待方法としてあることが分り、乃木中将は苦い顔をした。
乃木中将は、しばらく考えていたが、やがて書生を読んだ。乃木中将は、書生に次のように言って、勝間田県知事と市長のところへ使えに行くように命じた。
「今日は、お招き下されてかたじけないが、乃木は都合に依って欠席を致すから、諸君に宜しく申し上げてくださいと、言うてくるのじゃ」。
書生は、妙な顔をして「へへー、御出席なさらないのでございますか」と言うと、乃木中将は「そう言うて、断ってこい」と答えた。
仙台の市中にいる芸者を、二、三百人総揚げして、豪奢な園遊会を開くべく、その準備をしているところへ、肝心の乃木師団長から断りの使いが来たので、勝間田県知事や市長たちは、頗る面喰った。乃木師団長が来なければ、この園遊会を開く必要がなくなったのである。しかも、当日になって断ってきたのは、どういう事情なのか。
市長と発起人の中から何人かが代表になって、乃木師団長の邸宅にやって来た。再三断ったが、どうしても会いたいというので、乃木中将は応接間へ通した。
乃木少将が歩兵第一旅団長に就任したのは明治二十五年十二月八日で、九ヶ月余りの休職だった。このとき、乃木少将は四十四歳直前であった。
「将軍 乃木希典」(志村有弘・勉誠出版)によると、清国(後の中華民国)は、朝鮮を併合しようという野心を持っていた。それは日本帝国にとって、自分の首に縄をかけられるも同じことだったので、黙って見ている訳にはいかなかった。
そこで、日本帝国と清国は度々談判をして、お互いに朝鮮から撤退し、力を合わせて、朝鮮の独立と平和を保つようにしようと、明治十八年四月一八日、天津条約を取り交わした。だが、清国は朝鮮に対する野望は捨てておらず、朝鮮での清国の主導権は依然として強固のものがあった。
明治二十七年五月、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発すると、六月、天津条約に基づき、日清両国は朝鮮出兵を相手国に通告した。その後、朝鮮政府と東学農民軍が停戦しても、日清両軍は撤兵しなかった。
やがて、朝鮮国内で日清両軍は衝突し、明治二十七年八月一日、日清両国は宣戦布告をした。これが日清戦争の始まりだった。開戦と決して、宣戦の布告を出してから、真っ先に乗り出したのは、第一師団だった。山路元治中将がこれを率いた。その下の、第一旅団は乃木希典少将が率いて、出征した。
「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、日清戦争の際、旅順攻撃の総指揮官は、鬼将軍、山路元治中将だった。山路中将と乃木少将は非常に深い交わりがあった。乃木と心を許して交わったものがあるとすれば、山路は、その第一人者だった。
乃木少将は、その山路中将の下に就いて、第一旅団長として、旅順口に向かったのであるが、その時は、支那人を相手に戦ったが、さして苦労もなく、旅順口は陥落してしまった。
凱旋の後、明治二十八年四月、乃木少将は中将に昇進し、抜擢されて、仙台の第二師団長に任命された。四十七歳だった。また、功三級金鵄勲章、旭日重光章を受章し、男爵を受爵した。
乃木中将は仙台に赴任した。当時の宮城県知事は、勝間田稔(山口県萩市・藩校明倫館卒・戊辰戦争従軍・越後府軍監・山口県九等出仕・防長協同会社頭取・内務省書記官・警保局長・社寺局長・戸籍局長・愛知県知事・愛媛県知事・宮城県知事・新潟県知事・宮内省図書頭)だった。
勝間田稔・宮城県知事は、愛知県知事時代、風流知事として、浮名を流していて、世間に知られた人物だった。勝間田知事は、詩も作れば、歌も詠んだ。そして不思議に女にもてた。一度関係した女は不思議に勝間田にほれ込んだ。勝間田は、金と権力で女に接したりはしなかったので、名古屋には、勝間田の女が沢山いたが、悪口を言う女はいなかった。
なにしろ、このような勝間田が宮城県知事であるから、高名な乃木中将が仙台に第二師団長として赴任してくるにあたって、その歓迎会を、盛大に園遊会として歓待することに熱心だった。園遊会も、仙台中の芸者を残らず集めて、余興はもちろん、模擬店なども、一切、芸者を以って、担当させることにしたのだった。
仙台に赴任した、乃木中将は、いよいよ歓迎の園遊会当日になって、先日に送られてきていた、その案内状を開いて見た。当日のプログラムが記してあり、段々それを読んでいくと、意外にも芸者の接待を以って歓待方法としてあることが分り、乃木中将は苦い顔をした。
乃木中将は、しばらく考えていたが、やがて書生を読んだ。乃木中将は、書生に次のように言って、勝間田県知事と市長のところへ使えに行くように命じた。
「今日は、お招き下されてかたじけないが、乃木は都合に依って欠席を致すから、諸君に宜しく申し上げてくださいと、言うてくるのじゃ」。
書生は、妙な顔をして「へへー、御出席なさらないのでございますか」と言うと、乃木中将は「そう言うて、断ってこい」と答えた。
仙台の市中にいる芸者を、二、三百人総揚げして、豪奢な園遊会を開くべく、その準備をしているところへ、肝心の乃木師団長から断りの使いが来たので、勝間田県知事や市長たちは、頗る面喰った。乃木師団長が来なければ、この園遊会を開く必要がなくなったのである。しかも、当日になって断ってきたのは、どういう事情なのか。
市長と発起人の中から何人かが代表になって、乃木師団長の邸宅にやって来た。再三断ったが、どうしても会いたいというので、乃木中将は応接間へ通した。