多田次長と板垣陸相は仙台幼年学校の同窓であり、多田次長のほうが一年先輩で、少年時代から極めて親しい間柄だった。
このためか、従来行われていた三長官会議は有名無実となった。さらに、次官、次長および本部長三者会談の上、それぞれ長官に報告して決裁されることになっていた従来のやり方も、これまた有名無実となってしまった。
即ち、多田次長は東條次官を抜きにして、直接陸相官邸に板垣大臣を訪ね、二人で相談、話し合いをすることが多くなったのである。
このため、東條陸軍次官が浮き上がってしまった。その上、統帥部が政治家との交流ができることは、政治家が統帥部に容喙できるルートを作ることであり、邪道であると、東條次官は強く心配していた。
当時、日独伊三国協定が強化されたため、軍の発言権が強くなっていたので、次第にそれが事実となって表面に出てきた。
そこで、航空士官学校卒業式参列の後、東條次官は辞表を懐にして強硬に板垣陸相に意見具申した。ところが、その結果、次長と次官ともに異動することになった。
昭和十三年十二月、多田次長は第三軍司令官に、東條次官は初代航空総監に転じた。そして次官には山脇正隆中将(陸士一八・陸大二六恩賜)が新任された。
その後、公の席で、東條、山脇両将軍が同席する機会がしばしばあったが、東條航空総監は、専属の副官がいるのに、「おい、赤松~」と次官秘書官である赤松大佐に用事を命じたという。そんなとき、温厚な、山脇次官は、黙って笑いながら、赤松秘書官の慌てているのを眺めていたという。
後に東條が陸軍大臣になると、昭和十六年七月七日、多田駿中将は大将に昇進し、軍事参議官に補せられ、待命、九月には予備役に編入された。
以後、多田大将は農業生活に入ったが、昭和二十年十二月二日、A級戦犯に指定された。だが昭和二十三年十二月十六日胃癌で死去した。
「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)によると、この多田中将を予備役にしたのは東條であった。軍事参議官に補せられたため、北支那方面軍司令官の職を解かれ、帰京する時、多田中将は東京に直行せず、京都にいる石原莞爾に会って帰ると言い出した。
随行していた方面軍参謀副長・有末精三大佐(陸士二九恩賜・陸大三六恩賜)は多田中将が軍状奏上前に、問題の人である石原中将に会うのはまずいと思って、止めたが、多田中将はきかなかった。
有末大佐は多田、石原二人だけでの会談では、新聞記者に何をかかれるかわからないと思い、有末大佐も同席した。果たして会見場には新聞記者が群がっていた。
有末大佐は会見後、記者会見を行い、あたりさわりのない話を交えて応対して記者達を撃退して乗り切った。
多田中将は帰京して天皇に軍状奏上を終えた後、陸軍省に向った。陸軍省では局長以上が集合して報告会が開かれたが、その席上、多田中将は唯の一言も報告をしなかった。有末大佐は困り果てて、適当にお茶を濁して散会した。
ところが、武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長は、この多田中将の無礼に怒って、有末大佐にあたりちらしたという。
このほか、反東條派としては、石原莞爾中将(陸士二一・陸大三〇次席)は有名だが、そのほか、反東條派の軍高官は、いわゆる皇道派といわれた、真崎甚三郎大将(陸士九・陸大一九恩賜)、柳川平助中将(陸士一二・陸大二四恩賜)、小畑敏四郎中将(陸士一六・陸大二三恩賜)、山下奉文大将(陸士一八・陸大二八恩賜)の系列がある。
また、篠塚義男中将(陸士一七・陸大二三恩賜)、前田為利(陸士一七・陸大二三恩賜)、阿南惟幾(陸士一八・陸大三〇)、酒井鍋次(陸士一八・陸大二四恩賜)、鈴木率道(陸士二二・陸大三〇恩賜)なども東條批判派である。
皇族では秩父宮雍仁親王(陸士三四・陸大四三)、朝香宮鳩彦王(陸士二〇・陸大二六)、東久邇宮稔彦王(陸士二〇・陸大二六)などが東條を受け入れていなかった。
東條英機と石原莞爾の不仲は、想像以上のものだった。この二人のけんかは、当ブログ「陸海軍けんか列伝」の「11.石原莞爾陸軍中将」のところで詳しく書いているので省略するが、ひとつだけ、辻政信のからみのシーンだけを述べてみたい。
昭和十六年二月、佐藤賢了大佐が、南支方面軍参謀副長から陸軍省軍務課長に転任する途中、台北に在勤中の台湾軍研究部員・辻政信中佐に会った。
そのとき辻中佐は、佐藤大佐に「あなたからぜひ石原将軍を、軍の要職につけるよう、東條陸相に進言していただきたい」と申し入れた。
佐藤大佐が、辻中佐がうるさく言うことを逆らわずに聞いていると、辻中佐は東條陸相を罵倒し続けた。そして、もし、東條陸相が、石原将軍を要職につけず、従来の態度を是正しないなら、辻中佐は「断じて東條を刺し殺す」と言ったという。
だが、それにもかかわらず、結局、石原莞爾中将は昭和十六年三月一日、京都師団長の職を解かれて、予備役に編入された。それほど東條陸相の決意は固かった。
このためか、従来行われていた三長官会議は有名無実となった。さらに、次官、次長および本部長三者会談の上、それぞれ長官に報告して決裁されることになっていた従来のやり方も、これまた有名無実となってしまった。
即ち、多田次長は東條次官を抜きにして、直接陸相官邸に板垣大臣を訪ね、二人で相談、話し合いをすることが多くなったのである。
このため、東條陸軍次官が浮き上がってしまった。その上、統帥部が政治家との交流ができることは、政治家が統帥部に容喙できるルートを作ることであり、邪道であると、東條次官は強く心配していた。
当時、日独伊三国協定が強化されたため、軍の発言権が強くなっていたので、次第にそれが事実となって表面に出てきた。
そこで、航空士官学校卒業式参列の後、東條次官は辞表を懐にして強硬に板垣陸相に意見具申した。ところが、その結果、次長と次官ともに異動することになった。
昭和十三年十二月、多田次長は第三軍司令官に、東條次官は初代航空総監に転じた。そして次官には山脇正隆中将(陸士一八・陸大二六恩賜)が新任された。
その後、公の席で、東條、山脇両将軍が同席する機会がしばしばあったが、東條航空総監は、専属の副官がいるのに、「おい、赤松~」と次官秘書官である赤松大佐に用事を命じたという。そんなとき、温厚な、山脇次官は、黙って笑いながら、赤松秘書官の慌てているのを眺めていたという。
後に東條が陸軍大臣になると、昭和十六年七月七日、多田駿中将は大将に昇進し、軍事参議官に補せられ、待命、九月には予備役に編入された。
以後、多田大将は農業生活に入ったが、昭和二十年十二月二日、A級戦犯に指定された。だが昭和二十三年十二月十六日胃癌で死去した。
「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)によると、この多田中将を予備役にしたのは東條であった。軍事参議官に補せられたため、北支那方面軍司令官の職を解かれ、帰京する時、多田中将は東京に直行せず、京都にいる石原莞爾に会って帰ると言い出した。
随行していた方面軍参謀副長・有末精三大佐(陸士二九恩賜・陸大三六恩賜)は多田中将が軍状奏上前に、問題の人である石原中将に会うのはまずいと思って、止めたが、多田中将はきかなかった。
有末大佐は多田、石原二人だけでの会談では、新聞記者に何をかかれるかわからないと思い、有末大佐も同席した。果たして会見場には新聞記者が群がっていた。
有末大佐は会見後、記者会見を行い、あたりさわりのない話を交えて応対して記者達を撃退して乗り切った。
多田中将は帰京して天皇に軍状奏上を終えた後、陸軍省に向った。陸軍省では局長以上が集合して報告会が開かれたが、その席上、多田中将は唯の一言も報告をしなかった。有末大佐は困り果てて、適当にお茶を濁して散会した。
ところが、武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長は、この多田中将の無礼に怒って、有末大佐にあたりちらしたという。
このほか、反東條派としては、石原莞爾中将(陸士二一・陸大三〇次席)は有名だが、そのほか、反東條派の軍高官は、いわゆる皇道派といわれた、真崎甚三郎大将(陸士九・陸大一九恩賜)、柳川平助中将(陸士一二・陸大二四恩賜)、小畑敏四郎中将(陸士一六・陸大二三恩賜)、山下奉文大将(陸士一八・陸大二八恩賜)の系列がある。
また、篠塚義男中将(陸士一七・陸大二三恩賜)、前田為利(陸士一七・陸大二三恩賜)、阿南惟幾(陸士一八・陸大三〇)、酒井鍋次(陸士一八・陸大二四恩賜)、鈴木率道(陸士二二・陸大三〇恩賜)なども東條批判派である。
皇族では秩父宮雍仁親王(陸士三四・陸大四三)、朝香宮鳩彦王(陸士二〇・陸大二六)、東久邇宮稔彦王(陸士二〇・陸大二六)などが東條を受け入れていなかった。
東條英機と石原莞爾の不仲は、想像以上のものだった。この二人のけんかは、当ブログ「陸海軍けんか列伝」の「11.石原莞爾陸軍中将」のところで詳しく書いているので省略するが、ひとつだけ、辻政信のからみのシーンだけを述べてみたい。
昭和十六年二月、佐藤賢了大佐が、南支方面軍参謀副長から陸軍省軍務課長に転任する途中、台北に在勤中の台湾軍研究部員・辻政信中佐に会った。
そのとき辻中佐は、佐藤大佐に「あなたからぜひ石原将軍を、軍の要職につけるよう、東條陸相に進言していただきたい」と申し入れた。
佐藤大佐が、辻中佐がうるさく言うことを逆らわずに聞いていると、辻中佐は東條陸相を罵倒し続けた。そして、もし、東條陸相が、石原将軍を要職につけず、従来の態度を是正しないなら、辻中佐は「断じて東條を刺し殺す」と言ったという。
だが、それにもかかわらず、結局、石原莞爾中将は昭和十六年三月一日、京都師団長の職を解かれて、予備役に編入された。それほど東條陸相の決意は固かった。