陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

218.山本五十六海軍大将(18) 零戦がある限り世界も制覇できる

2010年05月28日 | 山本五十六海軍大将
 その次の日、石川大佐は新橋で、南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)とも会食した。石川が「南雲さん、ミッドウェーとは、一体なんですか? 何故山本さんに言って、やめさせないんです?」と同じ不満を述べた。

 南雲中将は「分かっているよ。しかしな、この前ハワイの時、俺は追い撃ちをかけなかった。そうしたら山本は、幕僚達に、見ろ、南雲は豪傑面をしているが、追い撃ちもかけずにショボショボ帰ってくる、南雲じゃ駄目なんだと、悪口を言った。今度反対したら、俺はきっと、卑怯者と言われるだろう。それくらいなら、ミッドウェーへ行って新できてやるんだ」と山形なまりで答えた。

 戦後、石川元少将は「堀中将を首にした遺恨とはいえ、山本さんは、どうしてあんなに南雲長官をいじめなくてはならなかったのかと思う」と言っている。

 石川元少将はまた、アメリカ側が真珠湾攻撃を「相手の横面を張って激昂させただけの作戦」と評していることなどを引き合いに出し、山本は軍政家としては傑出していたが、用兵家としては、金玉握りの幕僚ばかり可愛がって、ハワイもミッドウェーも皆失敗で、一つも及第点はつけられないと言っている。

 石川信吾は、かつて加藤寛治を親玉に、南雲忠一たちと一緒になって、大いに軍縮条約反対の気勢を上げた、いわゆる艦隊派の人だった。

 従って艦隊派の石川の主張は割り引かなければならない。南雲と山本の関係については、石川の言うほど、山本はそんなに度量の小さい人ではなかった。少なくとも、開戦後は南雲をかばっていたとも思われる。

 昭和十七年六月五日~七日のミッドウェー海戦は、南雲忠一中将が指揮した第一航空艦隊の機動部隊が、最新鋭空母四隻を失うという日本海軍の大敗北に終わった。

 空母赤城(三四三六四トン)は爆弾二発命中、誘爆大火災を起こし、後に味方駆逐艦が雷撃し自沈した。空母加賀(四二五四一トン)は爆弾四発命中、誘爆大火災を起こし、後に大爆発を起こし沈没した。

 空母蒼龍(一八五〇〇トン)は爆弾三発命中、誘爆大火災を起こし、後に沈没した。空母飛龍(二〇一六五トン)は爆弾四発命中、誘爆大火災を起こし、後に自沈した。

 このような大損失を蒙ったミッドウェー海戦だが、当時この南雲機動部隊の航空参謀だった源田実中佐(海兵五二・海大三五恩賜)は、ミッドウェー海戦の前は、不安に思うどころか、自信満々というか、自信過剰だったといわれている。

 南雲機動部隊は、隊の内外から「源田艦隊」と称されていた。良くも悪くも南雲司令部はすべて、源田中佐が牛耳っていた。

 空母赤城の飛行隊長で源田中佐と同期の淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)は、ミッドウェー海戦直前に盲腸炎の手術を受け参加できなくなった。

 その淵田中佐を病室に見舞った源田中佐は「今度の作戦のことなんぞ、気に病むな。貴様が無理せんでも、鎧袖一触だ。それよりこの次の米豪遮断作戦に、また一つ、シドニー空襲を頼むよ」と言ったという。

 また、柱島の戦艦大和で、研究会、図演が行われていた時、源田中佐は「零戦がある限り世界も制覇できる」という意味のことを発言したという。

 元連合艦隊司令部従兵長・近江兵次郎の手記によると、ミッドウェー海戦の敗戦の電報が次々に戦艦大和の連合艦隊司令部に入ってきた時のことを次の様に記している。

 「旗艦(大和)の作戦室では山本長官が渡辺参謀を相手に将棋を指している。何故にあの大事な作戦行動中、しかも空母が次々と撃沈されていく時将棋をやめなかったのか」

 「あの時の長官の心境は、あまりにも複雑で痛切で、私ごときの理解をはるかに超えるものだったのだろう。連合艦隊付通信長が青ざめた顔をして、空母の悲報を次々と報告に来る。この時も長官は将棋の手を緩めることなく『ホウ、またやられたか』の一言だけだった」

 これは悲報と言うようなナマやさしいものではなかった。目もくらむような凶報だった。こうなったとき、山本長官は、本当は一人になりたい気持ちだったのではないか。

 だが、作戦室には多数の部下がいた。今、彼らは、山本長官の一挙手一投足に、針のむしろに座ったような気持ちで視線を向けている。

 このような状況で、山本長官は将棋を指す手を止めるわけにはいかなかったのだろう。このような状況からすると、「ホウ、またやられたか」の一言には、強がりとともに、失望や悲哀や苦悩がにじんでいるような気がする。

217.山本五十六海軍大将(17)航空母艦の艦長ともなったら、山本さんを諌めたらどうだ

2010年05月21日 | 山本五十六海軍大将
 その厳しい訓示の四日後の十二月二十八日、山本司令長官は、恋人の河合千代子宛に次の様な趣旨の手紙を送っている。

 「方々から手紙などが山の如く来ますが、私はたった一人の千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでせうか」

 また、年が明けて、昭和十七年一月八日付の千代子への手紙には次の様に書いている。

 「三十日と元旦の手紙ありがとうございました。三十日のは一丈あるように書いてあったから、正確に計ってみたら九尺二寸三分しかなかった。あと七寸七分だけ書き足してもるつもりで居ったところ、元旦のが来て、とても嬉しかった。クウクウだよ」

 「クウクウ」とは、開戦直前の十一月末に、千代子と二人で広島県の宮島に遊んだ時、頭をなでられた小鹿が鳴いた声だという。

 「凡将・山本五十六」の著者、生出寿氏(海兵七四・東大文学部卒)は、「『勝って兜の緒を締めよ。次の戦いに備え、いっそうの戒心を望む』という訓示と、その直後のこの手紙は、いったいどうなっているのだろうか」と、批判的に述べている。

 昭和十七年二月十二日に連合艦隊司令部は、戦艦長門から、新造の戦艦大和に移った。艦歴二十三年の長門に比べて、新造の大和は居住区も改善され、幕僚達は新しい旗艦の暮らしを喜んだ。

 四月四日には、山本五十六は五十九歳の誕生日だった。瀬戸内海、岩国沖の柱島の戦艦大和に海軍省人事局員が、山本五十六司令長官への勲一等加綬の旭日大綬章と功二級の金鵄勲章を持って訪れた。

 そのとき、山本司令長官は「こんなもの、貰っていいのかなあ」と言い、金色に輝く金鵄勲章を眺めて、「恥ずかしくて、こんなもの、つれやせん」と言った。

 昭和十七年四月二十八日から三十日まで、柱島在泊中の戦艦大和で、第一段作戦の研究会が行われた。ハワイからインド洋までの五ヶ月にわたる諸作戦の反省会である。

 次に、五月一日から四日まで、これから行われる第二段作戦の図上演習および研究会が行われた。ミッドウェー・アリューシャン作戦、FS作戦(フィジー、サモア攻略作戦)、ジョンストン、パルミア作戦、ハワイ攻略作戦など、六月から五ヶ月間にわたる諸作戦の研究であった。

 このときの、ミッドウェー作戦の図上演習について、当時の航空部隊総指揮官の淵田美津雄中佐(海兵五二・海大三六)と当時の統監部員・奥宮正武少佐(海兵五八)は、戦後出版された「ミッドウェー」(淵田美津雄・奥宮正武・日本出版協同)で次の様に述べている。

 図演の統監兼審判長は宇垣参謀長であった。青軍(日本)機動部隊がミッドウェーを空襲中、赤軍(米国)航空部隊が青軍を爆撃し、赤城、加賀が沈没という判定となった。

 すると宇垣がそれを制して、独断で赤城小破、加賀沈没と修正させた。ところが、次のフィジー、サモア作戦になると、沈没した加賀がいつの間にか浮き上がって、活動を再開していた。

 このような統裁ぶりには、さすが心臓の強い飛行将校連もあっけにとられるばかりだった。だが、実際には、ミッドウェー海戦で、米軍は赤城、加賀など、日本の空母を四隻とも沈めてしまった。

 「人間提督・山本五十六」(戸川幸夫・光人社)によると、この図上演習のことを、著者の戸川幸夫が当時の戦務参謀・渡辺安次中佐(海兵五一・海大三三)から直接聞いた話が次の様に載っている。

 「宇垣参謀長が、『ミッドウェー基地に空襲をかけているとき、敵機動部隊が襲ってくるかもしれない。そのときの対策は?』と言われたら、南雲忠一機動部隊司令長官は言下に『わが戦闘機をもってすれば鎧袖一触である』と言い切られたのです」

 「その言葉を聞いて山本五十六長官は『鎧袖一触なんて言葉は不用心だ。実際にこちらが基地を叩いているとき、不意に横っ腹へ槍を突っ込まれないように研究しとくことだ。この作戦はミッドウェーを叩くのが主目的ではなく、そこを衝かれて顔を出した敵艦隊を潰すのが主目的だ。そのあとでミッドウェーを取ればいい。本末を誤らないように。だから攻撃機の半分には魚雷をつけて待機さすように』と、くどいくらいに南雲長官に言われたのですが、南雲長官にはピンとこないようでした」

 「あのとき、山本長官の注意を守っていたら少なくとも敵機動部隊と刺し違えることはできたでしょうが」

 このように、連合艦隊司令部と機動部隊とはしっくりいっていなかった。むしろ互いに「なにするものぞ」と反感を抱いていた。

 五月のある日、空母飛龍艦長・加来止男大佐(海兵四二・海大二五)が、兵学校同期の軍務局第二課長・石川信吾大佐(海兵四二・海大二五)の娘の結婚式に出席するため、上京してきた。

 石川大佐が「おい、ミッドウェーとは何だい? 勝って新聞賑わすだけで、負けたら大変なことになるぞ。東京じゃあ、みんな反対なんだ。貴様、なんと思って出て行く?」と加来大佐に不平を言った。

 加来大佐は「うん。今度はもう、貴様とも会えないかも知らんな。後事を頼むよ」と、あまり気勢の上がらぬ様子で「俺も、この作戦は無理だし、無意味だと思っている。しかし、山本さんが頑張るから、やむを得ないんだ」と言った。

 石川大佐が「どうしてそれを、長官に言わない? それ位はっきり言って、航空母艦の艦長ともなったら、山本さんを諌めたらどうだ」と続けた。

216.山本五十六海軍大将(16) これからは『無敵海軍』と書いてくれたまえ

2010年05月14日 | 山本五十六海軍大将
 宇垣参謀長は「機動部隊はもはや戦場からずいぶん離れてしまった。一杯一杯のところで作戦を終えて離脱しようとしているものを、もう一度立ち上がらせるためには、これを怒らすよりほかに方法はない。統帥の根源は人格である。そんな非人間的な無法な命令を出すことが、どうしてできるものか」と主張した。

 黒島先任参謀はひるまなかった。「われわれは軍人です。武人として、この戦機を逸することこそ、どうしてできるというのですか」。

 宇垣参謀長はますます激して言った。「無謀な強襲となる。戦機とはそういうものではない」。

 「長官、もう一度突っ込ませましょう」と黒島参謀は声を震わせて言った。山本五十六司令長官は黙って考えていた。激論は続けられた。

 宇垣参謀長は「敵飛行機の損害程度が不明のまま強襲することは、かならずや大きな痛手を蒙ることになる」と言い、「将棋にも指しすぎということがある」と強く突っぱねた。

 「しかし」と黒島先任参謀は強弁した。「米太平洋艦隊が実際に行動不能におちいったかどうか、今後の作戦上、その疑いを取り除くためにも、再攻撃を加えてみるべきであります」。

 山本司令長官は腕を組んだままの姿勢で論戦を見守って一言も発しなかった。その最後の決定を求めるかのように、宇垣参謀長が言った。「こうなった以上、見送るよりほかに方法がないと思いますが」。

 山本司令長官は苦渋の色をありありと浮かべながら、宇垣参謀長に深くうなずいた。今回は宇垣参謀長に同意したのだ。

 そして山本司令長官は静かに言った。「もちろん、再撃に次ぐ再撃をやれば満点だ。自分もそれを希望するが、南雲部隊の被害状況が少しも分からぬから、ここは現場の機動部隊長官の判断に任せておこう。それに、今となっては、もう遅すぎる」

 さらに山本司令長官は「そんなことをいわなくとも、やれるものにはやれる。遠くからどんなに突っついても、やれぬものにはやれぬ。南雲はやらないだろう」とも言った。

 この山本司令長官の決定で、機動部隊に対する真珠湾再度攻撃の電報命令は、ついに打たれず、すべては終わった。国民を狂喜させた真珠湾奇襲という破天荒な作戦は急速に幕をおろした。

 山本司令長官は、作戦室を出るとき、「戦はこれからだ。さあ、どうするか。いい考えはあるか」と参謀達に問いかけたという。山本司令長官はその後の作戦を考えていた。

 太平洋上の戦艦長門の作戦室で大激論が起こっていたとも知らぬ東京の海軍中央は、勝利に強い満足感を味わっていた。

 はじめは連合艦隊からの脅迫まがいの要請があったので、しぶしぶ認めたまでの半ば腰をひいた真珠湾奇襲作戦だったが、それがこの大戦果をあげようとは、本当に予想さえしないことだった。

 軍令部総長・永野修身大将(海兵二八恩賜・海大八)は「だから戦はやってみなければわからん」とやたらに、はしゃいで上機嫌だった。

 海軍省も同様で、軍務局長・岡敬純中将(海兵三九・海大二一首席)を真ん中に、佐官十四、五名がコップや茶碗を挙げ、万歳を腹の底から叫んでいる写真が新聞を飾った。

 報道課長・平出英夫大佐(海兵四四・海大選科)は新聞記者に「これからは『無敵海軍』と書いてくれたまえ」と喜びをあらわにした。

 連合艦隊作戦室の激論に対して、海軍中央は無敵の南雲部隊が風の如く襲い、風の如く去ることに、なんら依存はなかったのである。現地から離れていると、それほど鈍感であった。

 長門の作戦室には、海軍中央から、どんどん祝電が送り込まれた。軍令部総長と海軍大臣連名による祝電を皮切りに東條首相、杉山元参謀総長からも、来た。

 ところが、長門の作戦室は東京からの躍るような文字をみるたびに沈み込んでいった。作戦室の参謀達の胸中には、はたして、一太刀だけで鉾を収めたのが正しかったのか、という、いまだに踏んぎれぬ想いがゆたっていた。

 だから、「返電はどうしましょうか」とたずねる通信士にたいして、宇垣参謀長は当然のことのように「作戦行動中だ。必要なし。返電は帰投してからとする」と言った。己に対して怒っているような、すっきりしないものを、感じていた。

 「凡将・山本五十六」(生出寿・徳間書店)によると、昭和十六年十二月二十三日、真珠湾攻撃を終えた南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)指揮する機動部隊は、瀬戸内海の岩国市の沖、柱島泊地に帰ってきた。

 翌日、山本連合艦隊司令長官は機動部隊旗艦の空母赤城におもむき、各級指揮官を前にして次の様に訓示した(要約)。

 「真の戦いはこれからである。この奇襲の一戦に心おごるようでは、強兵とはいいがたい。勝って兜の緒を締めよとは、まさにこのことである。次の戦いに備え一層の戒心を望む」

 奇襲攻撃に成功し大戦果をあげたのだから、山本司令長官の訓示は、もう少しはほめても良かったと言われている。だが、艦隊派から以前、煮え湯を飲まされた条約派の山本司令長官としては、艦隊派の中核、南雲中将に根底では、快く思っていなかったとも言われているが、真意は不明である。

215.山本五十六海軍大将(15)山本大将は大艦巨砲主義者を時代遅れの遺物として評価しなかった

2010年05月07日 | 山本五十六海軍大将
 昭和十六年十一月十三日、連合艦隊司令部は、南遣艦隊を除く各艦隊の司令長官、参謀長、先任参謀らを岩国海軍航空隊に参集させ、真珠湾攻撃の作戦命令の説明と打ち合わせを行った。

 山本五十六連合艦隊司令長官は、説明を行い、最後に「ワシントンで行われている日米交渉が成立した場合には、出動部隊に「引き揚げを命じるから、その命令を受けた時は、たとえ、攻撃隊の母艦発進後であっても直ちに反転、帰航してもらいたい」と付け加えた。

 すると、先ず、機動部隊の司令長官・南雲忠一中将(海兵三六・海大一八)が「出て行ってから帰って来るんですか? そりゃ無理ですよ。士気にも影響するし、そんなことは実際問題としてとてもできませんよ」と反対した。

 二、三の指揮官もこれに同調した。さらに南雲中将は「それでは、まるで、出かかった小便をとめるようなものですよ」と述べた。

 これに対し山本司令長官は「百年兵を養うは、何のためだと思っているか。もしこの命令を受けて、帰って来られないと思う指揮官があるなら、只今から出動を禁止する。即刻辞表を出せ」と言った。言葉を返す者は一人もいなかった。

 航空本部長から第四艦隊司令長官に変わった井上成美中将は、連合艦隊の作戦会議に顔を出すのはこれが初めてであった。

 一同勝栗とするめで祝杯を上げ、記念撮影をして解散になったあと、井上中将が岩国航空隊司令の部屋に入って見ると、岩国の深川という料亭で開かれる夜の慰労会までの時間を持て扱いかねたように、山本五十六大将が一人ぽつねんとソファに座っていた。

 「山本さん」と井上中将は声をかけた。続けて井上中将は「とんでもないことになりましたね。長谷川(清)さん(海兵三一・海大一二次席)は、大変なことになるぞ、工業力は十倍だぞ、と言っておられましたよ。だけど、大臣はどういうんですかね。発つとき、岩国に行ってきますと言って大臣にも挨拶をしたんですが、嶋田さんときたら、ニコニコして、ちっとも困ったような様子じゃありませんでしたよ」と山本司令長官に言った。

 すると山本司令長官は「そうだろ。嶋ハンはオメデタイんだ」と、悲痛な顔をして見せた。

 しかし、井上の知る限り、山本五十六が戦争反対を匂わす言葉を口にしたのは、これが最後であった。陛下の胸中はよく分かっているとはいえ、すでに聖断が下ったのであって、少なくとも公にはこの日以来、山本は一切の反戦論を口に出さなくなったといわれている。

 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が勃発した。山本五十六大将が指揮する日本の連合艦隊は機動部隊の奇襲作戦が成功し大戦果をあげた。

 「山本五十六の無念」(半藤一利・恒文社)によると、真珠湾奇襲作戦が成功した後、戦艦長門では、山本司令長官は再び作戦室に姿を見せた。

 作戦室では参謀長・宇垣纏少将と先任参謀・黒島亀人大佐(海兵四四・海大二六)が烈しく対立していた。

 元々、宇垣参謀長と、黒島先任参謀は、よく意見の相違があり、対立していた。だが、山本司令長官は黒島先任参謀を重用していたので、宇垣参謀長は連合艦隊司令部では浮いた存在だった。

 宇垣参謀長は海兵四〇期を百四十四人中九番という優秀な成績で卒業している、その後、海軍の主流とも言うべき砲術畑で経験を積み軍令系のポストを歴任した。当時の海軍では典型的なエリートコースだった。

 したがって、宇垣参謀長は大艦巨砲主義の忠実な信奉者だった。だから航空主兵主義の山本司令長官と、コチコチの大艦巨砲主義の宇垣参謀長は元来そりが合わなかった。

 真珠湾攻撃の後、昭和十六年十二月十日、マレー沖海戦で、基地航空部隊がイギリス戦艦二隻を撃沈した時も、宇垣参謀長の日記「戦藻録」には次のように記されている。

 「~又しても飛行機に功を脾肉の嘆ありとの通信あり。尤もなる次第なるも戦は永し。色々の状況は今後も起こるべし。主力艦の巨砲大に物を云うことありと知らずや」

 この時点でも、宇垣参謀長の大艦巨砲に対する信念はいささかも揺るがなかった。ところが、山本大将は大艦巨砲主義者を時代遅れの遺物として評価しなかった。

 また、宇垣参謀長は軍令部第一部長時代に日独伊三国同盟に賛成した者の一人だった。日独伊三国同盟に命を張って反対した山本司令長官とは対立の極にあった。

 だから、当初、宇垣が連合艦隊参謀長に予定された時には、山本司令長官が拒否して、この人事は流れている。

 海軍首脳としても、当時、連合艦隊参謀長としての適任者は、宇垣しかいなかったので、後に連合艦隊参謀長人事に宇垣を強行してしまった。

 だが、だが宇垣少将が参謀長に就任しても、連合艦隊司令部では、作戦は山本司令長官、黒島先任参謀、渡辺安次戦務参謀(海兵五一・海大三三)というラインが出来上がっており、宇垣参謀長はそのラインに食い込むことはできす、常に浮いた存在だった。

 とりわけ黒島先任参謀を山本長官は懐刀として重用していた。だが、宇垣参謀長は性格的に気が強く、自信家であった。

 その宇垣参謀長は、真珠湾攻撃が成功した後、その再攻撃に猛反対した。黒島先任参謀や他の参謀達はもう一度真珠湾を叩くべきだと主張していた。