陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

679.梅津美治郎陸軍大将(19)陸軍次官たる自分より序列が下の板垣征四郎陸軍大臣説に、心中穏やかではなかった

2019年03月29日 | 梅津美治郎陸軍大将
 また、首相・林銑十郎大将は関東軍参謀長・板垣征四郎(いたがき・せいしろう)中将(岩手・陸士一六・陸大二八・歩兵第三三旅団参謀・歩兵大佐・歩兵第三三連隊長・関東軍高級参謀・関東軍第二課長・少将・満州国執政顧問・欧州出張・満州国軍政部最高顧問・関東軍参謀副長・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・支那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第一七方面軍司令官・終戦・A級戦犯・昭和二十三年刑死・享年六十五歳・勲一等旭日大綬章・功三級・ドイツ鷲勲章大十字章等)を推した。

 十河信二組閣参謀長は首相・林銑十郎大将の意を受けて陸軍大臣・寺内寿一大将を訪問、懇談した。

 ところが、首相・林銑十郎大将周辺には、十河信二組閣参謀長と浅原健三氏排除の気運が生じたのである。

 一月三十一日夜、大橋八郎(おおはし・はちろう・第四高等学校・東京帝国大学法科大学卒・逓信省・郵務局長・経理局長・逓信次官・法制局長官・貴族院議員・内閣書記官長兼内閣調査局長官・日本無線電信社長・国際電気通信社長・終戦・日本放送協会会長・日本電信電話公社総裁・高岡市名誉市民・昭和四十三年死去・享年八十三歳)が十河信二に代わり、選挙参謀長に就任した。

 即ち、参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐、十河信二、浅原健三、私(軍務局軍務課課員・片倉衷少佐)の線は、敗れたのである。

 首相・林銑十郎大将の弟は、白上佑吉(しらかみ・ゆうきち・石川・第四高等学校・東京帝国大学法科大学政治学科卒・内務省・警視庁警部・警視総監官房文書課審査係長・警視庁警視・日比谷警察署長・京都府警視・富山県警察部長・欧米各国出張・千葉県内務部長・内務書記官・警保局保安課長・鳥取県知事・富山県知事・島根県知事・文部省実業学務局長・東京市助役・終戦・公職追放・恵比寿食糧運送会社会長・昭和四十年死去・享年八十歳)だった。

 その白上佑吉を中心とする一派の策により、陸軍次官・梅津美治郎中将を動かし、その連合戦線に、我々は敗れたのである。

 陸軍次官・梅津美治郎中将は政治的な人ではなく、またそのような動きに介入することのない人ではあったが、珍しくこのような政治的動きを見せたのは、参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐の板垣征四郎陸軍大臣説に対する反発であったことは明らかである。

 保守的な陸軍次官・梅津美治郎中将は、このように陸軍旧来の序列思想とエリート意識(陸大卒業序列の重視)を無視して、陸軍次官たる自分より序列が下の板垣征四郎陸軍大臣説に、心中穏やかではなかった。

 そこで、白上佑吉一派の策動に乗ぜられ、究極は、首相・林銑十郎大将と十河信二との疎隔を図ることになった。

 その結果、大橋八郎組閣参謀長の下で、最終的に教育総監部本部長・中村孝太郎中将の陸軍大臣が定まった。

 ところが、一月三十一日夜から二月一日朝にかけて、私(軍務局軍務課課員・片倉衷少佐)どもの拠点的連絡場所であった、虎の門の芝虎館の周囲を憲兵が取り巻くところとなったのである。

 私は急遽、浅原健三氏の許を辞して陸軍省に帰り、憲兵主務の兵務課に至り、その不信を詰問し、軍務局長・磯谷廉介中将と軍務課長・石本寅三大佐にこれを報告した。

 陸軍次官・梅津美治郎中将と白上佑吉氏を結ぶ線のつながりが、軍務局長・磯谷廉介中将と浅原健三を結ぶ線の連絡を危険視して首相・林銑十郎大将の側近から、十河信二氏を遠ざけるに至った。

 なお、私は、その節、軍務局長室から首相・林銑十郎大将へ電話して、軍務局の組閣工作への協力打ち切りを告げた。

 戦後、昭和四十四年一月十八日、梅津美治郎大将の歿後ニ十周年の追悼会の席上、私はこの組閣の際の問題について、つぎのような追悼談をしたが、その後陸軍省での勤務においては、陸軍次官・梅津美治郎中将は、私を信頼して下さっていたことは明らかであり、梅津美治郎大将の人を見抜く明に敬服している。





678.梅津美治郎陸軍大将(18)政治工作として宇垣でない場合は林だという元老の空気は知る由もなかった

2019年03月22日 | 梅津美治郎陸軍大将
 片倉衷(かたくら・ただし)元陸軍少将(岩手・陸士三一・陸大四〇・関東軍第四課長・歩兵第五三連隊長・歩兵大佐・歩兵学校研究主事・関東防衛軍高級参謀・第一五軍高級参謀・ビルマ方面軍作戦課長・少将・第三三軍参謀長・下志津教導飛行師団長・大〇二師団長・終戦・大平商事会長・スバス・チャンドラ・ボース・アカデミー会長・国際善隣協会理事長・平成三年死去・享年九十三歳)は林内閣の成立までの経緯について次の様に述べている。

 当時、参謀本部第一部長心得・石原大佐の側近であった浅原健三(あさはら・けんぞう・福岡・八幡製鉄所の大労働争議を指導し逮捕・日本大学専門部法科夜学・第十七回衆議院議員で当選・第十八回衆議院選挙で落選・林銑十郎陸軍大臣の使者・石原莞爾の政務秘書・協和会東京事務所嘱託・治安維持法容疑で逮捕・国外追放・上海で巨万の富を成す・東條英機暗殺未遂事件への関与で逮捕・那須の山奥に蟄居・戦後は政財界の蔭の実力者・昭和四十二年死去・享年七十歳)は、林銑十郎大将の信任を得ていた。

 昭和十二年一月末、宇垣内閣の成立が困難になった頃、参謀本部第一部長心得・石原大佐と脈絡を保持しつつあった浅原健三氏を中心とする重臣工作が行われた。

 工作は、特に西園寺公望公爵周辺に続けられ、宇垣拝辞の際は、林銑十郎大将へという動きが隠密裏に行われた。

 当時の軍務局軍務課長・石本寅三(いしもと・とらぞう)大佐(兵庫・陸士二三・陸大三四首席・騎兵集団参謀・騎兵大佐・関東軍作戦課長・軍事調査部調査班長・軍務局軍務課長・騎兵第二五連隊長・駐蒙兵団参謀長・駐蒙軍参謀長・少将・馬政局次長・兵務局長・中将・第五五師団長・昭和十六年三月死去・享年五十二歳・功三級)は陸軍の対策立案担当課員として、次の二人を内定して準備を整えた。

 近衛、平沼内閣の場合には、軍務局軍務課国内班長・佐藤賢了(さとう・けんりょう)少佐(石川・陸士二九・陸大三七・軍務局軍務課国内班長・航空兵大佐・陸軍省新聞班長兼大本営報道部長・浜松飛行学校教官・第二一軍参謀副長・南支那方面軍参謀副長・軍務局軍務課長・少将・軍務局長・支那派遣軍総参謀副長・中将・第三七師団長・終戦・A級戦犯・東急管財社長・昭和五十年死去・享年八十歳)。

 林内閣の場合には、私(片倉衷少佐=軍務局軍務課課員)。

 私は浅原健三氏を軍務局長・磯谷廉介(いそや・れんすけ)中将(兵庫・陸士一六・陸大二七・臨時第六師団司令部附・歩兵大佐・歩兵第七連隊長・第一師団参謀長・人事局補任課長・欧州出張・少将・在中華民国公使館附武官・在中華民国大使館附武官・軍務局長・中将・第一〇師団長・関東軍参謀長・予備役・香港占領地総督・終戦・戦犯・昭和四十二年死去・享年八十歳)に紹介した。

 こうした軍務局内の対策は陸軍次官・梅津美治郎中将は知らなかった模様であった。

 当時の陸軍省官制によると、陸軍次官は陸軍省全般事務の統制をするが、軍務局長は局務については直接大臣を補佐する権限を有し、必ずしも次官を経て補佐するのではなかったのである。

 従って隠密裏の政治工作として宇垣でない場合は林だという元老の空気は知る由もなかったようであった。

 しかし、石原を中心とする浅原、宮崎、私らの動きについては、あらかじめ軍務局長・磯谷廉介中将には意を通じてあったのであるが、次官、局長との連絡の不備もあったのではないか。

 昭和十二年一月二十九日夜、林銑十郎大将に大命が降下するや、浅原健三氏の下に十河、宮崎、片倉相会し協議し、林銑十郎大将からは十河信二氏の来訪を求められた。

 十河信二組閣参謀長を中心とする組閣工作が進められ、軍務課も協力態勢に入った。

 一月三十日から本格的組閣に入った。朝から組閣本部である千駄ヶ谷の横山氏邸に陸軍次官・梅津美治郎中将も入り、首相・林銑十郎大将に部内情報を報告し懇談した。

 首相・林銑十郎大将と陸軍大臣・寺内寿一大将との間に折衝が始まった。

 陸軍大臣・寺内寿一大将は三長官会議の決定として陸軍大臣に教育総監部本部長・中村孝太郎(なかむら・こうたろう)中将(石川・陸士一三・陸大二一・在スウェーデン公使館附武官・参謀本部庶務課高級課員・歩兵大佐・歩兵第六七連隊長・陸軍省高級副官・少将・歩兵第三九旅団長・朝鮮軍参謀長・陸軍省人事局長・支那駐屯軍司令官・中将・第八師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・東部防衛司令官・大将・朝鮮軍司令官・東部軍司令官・予備役・軍事保護院総裁・終戦・昭和二十二年死去・享年六十六歳・正四位)を推した。





677.梅津美治郎陸軍大将(17)憲兵司令官・中島今朝吾中将が宇垣大将の車を止め、車に乗り込み説得した

2019年03月15日 | 梅津美治郎陸軍大将
 石原大佐ら中堅幕僚は、政治を軍部主導で動かそうとしていたので、宇垣大将の内閣が成立すれば、軍部に対して抑圧的な政権になることは明白だったので、それを阻止せねばならなかったのだ。

 では、冷徹な近代的軍人で識見もあり、合理主義でもある、当時の陸軍次官・梅津美治郎中将の宇垣内閣流産時の動きはどのようなものだったか。

 それについて、当時、陸軍省人事局課員だった額田担(ぬかた・ひろし)中佐(岡山・陸士二九・陸大四〇・陸軍省人事局高級課員・人事局補任課長・歩兵大佐・独立歩兵第一一連隊長・陸軍士官学校生徒隊長・少将・参謀本部総務部長・参謀本部第三部長・兼大本営航空保安長官・陸軍省人事局長・中将・終戦・戦犯容疑で巣鴨プリズンに拘留・千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会理事長・昭和五十一年死去・享年八十一歳・著書「陸軍省人事局長の回想」)は次の様に回想している。

 宇垣内閣流産直後、宇垣翁の甥で実業家、林庸夫氏が深夜密かに私を訪ね、「梅津という仁はやはり明哲保身の人か」と尋ねられた。

 私は返答に窮した。しかし後で、左様に観る人もあるのだろうと感じたこともある。梅津次官の識見と威重とを以てして、何故あの不穏当なる省内の空気を抑えなかったのであろう。或いは抑え得なかったのか? 今となっては私には全く不可解である。

 ここでいう不穏当な省内の空気とは、梅津次官と陸軍士官学校同期でかつ同郷の親友、憲兵司令官・中島今朝吾(なかしま・けさご)中将(大分・陸士一五・陸大二五・フランス陸軍大学校卒・陸軍大学校兵学教官・砲兵大佐・野砲兵第七連隊長・陸軍大学校兵学教官・少将・舞鶴要塞司令官・陸軍習志野学校初代校長・中将・憲兵司令官・第一六師団長兼中部防衛司令官・南京攻略戦・南京占領・第四軍司令官・予備役・皇国職域勤労奉公隊総裁・終戦・昭和二十年十月肝硬変と尿毒症で死去・享年六十四歳)を含む異常なる政治介入。

 異常なる政治介入とは、簡略に述べると、参謀本部第一部長心得・石原莞爾大佐は、自身の属する統制派と参謀本部を主導し、陸軍首脳部を突き上げ、宇垣大将の組閣を阻止したことである。

 参謀本部第一部長心得・石原大佐は陸軍大臣・寺内寿一大将を説得し、宇垣大将に対して、自主的に大命を拝辞させるように企図した。

 参謀本部第一部長心得・石原大佐の意見具申で、陸軍大臣・寺内寿一大将は、憲兵司令官・中島今朝吾中将に「寺内大将からの命令として、宇垣大将が拝辞するよう説得せよ」と命令した。
 
 昭和十二年一月二十四日夜、宇垣大将が組閣の大命を受けようと、車で皇居に参内する途中、憲兵司令官・中島今朝吾中将が宇垣大将の車を止め、車に乗り込み説得した。だが、宇垣大将は、これを無視して、皇居に参内し、大命を拝受した。

 憲兵司令官・中島今朝吾中将は、宇垣大将の組閣参謀であった次の二人にも電話して、宇垣への協力を止めるよう進言している。

 松井石根(まつい・いわね)大将(愛知・陸士九次席・陸大一八首席・上海駐箚武官・歩兵大佐・歩兵第三九連隊長・浦塩派遣軍情報参謀・ハルピン特務機関長・少将・歩兵第三五旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・ジュネーヴ会議全権随員・台湾軍司令官・大将・予備役・上海派遣軍司令官・中支那方面軍司令官・内閣参議・終戦・昭和二十三年B級戦犯で死刑・享年七十歳・勲一等旭日大綬章・功一級)。

 衆議院議員・船田中(ふなだ・なか・栃木・東京帝国大学法科大学英法科・内務省・東京市助役・東京市長代理・衆議院議員・法制局長官・終戦・衆議院議員・防衛庁長官・自民党安全保障調査会長・衆議院議長・自民党副総裁・作新学院理事長・昭和五十四年死去・享年八十三歳・従二位・旭日桐花大綬章)。

 結局、参謀本部第一部長心得・石原大佐らの工作により、陸軍首脳の中には誰一人宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者がいなかったので、宇垣大将は、組閣を断念した。

 当時、陸軍省人事局課員だった額田担元中将は、次の様に回想している。

 当時、陸軍内で、参謀本部第一部長心得・石原大佐の鬼才も制し、陸軍省内の空気を抑え得る人は梅津美治郎陸軍次官を措いて他にはなかったであろうと考えられる。

 そして、大局的視野のある梅津次官に、宇垣内閣の適当であることは、当然すぎるほど分かっていた筈ではなかったか。これを潰して後にできた林内閣の無様(ぶざま)を視るまでもない。

676.梅津美治郎陸軍大将(16)参謀飾緒を着けた将校が立っているだけで、諸隊は交通整理に従うようになった

2019年03月08日 | 梅津美治郎陸軍大将
 たまたま昭和十一年、二・二六事件が起こり、その後の粛軍対策の第一にこの徽章が取り上げられた。

 この処置は、二・二六事件を契機に塾柿が落ちたようなものであるが、それでも若干の波紋がないでもなかった。

 徽章授与条項を学校令から削り、徽章の制式を求める軍令を廃止することが官報に登載せらるるや、いちはやく在郷軍人会から質問の文書が届けられた。

 その要旨は、徽章授与条項を削られたのは、今後の卒業者に対するものであるから、すでにもらっている者は、従来通り佩用しても差し支えないのではないか、というのである。

 私は軍令の改正(学校令)及び軍令の廃止(徽章の制式)案を起草する時、当然、既授与者も佩用を取止めるものと考えていたから、この質問文書を見た時には、実に意外であり馬鹿らしくもあった。

 現に金鵄勲章の廃止された現在、佩用している者は、一人もいないではないか。とはいっても、文書で来た以上文書で回答しなければならない。

 仕方がないから、陸軍省副官命で、「佩用せざる儀と承知相成度」という意味の回答分を出した。この回答文は局長決済で、海軍次官の所まで行っていないと思う。

 余談になるが、この徽章が廃止になった時、これを夫人の帯留めにしたとか、しないとかの噂が耳に入ってきた。

 これも余談になるが、当時、私も若かったから、この徽章と共に参謀飾緒も廃止せよと主張した。

 これは通らなかったが、その直後、杭州湾上陸軍参謀になって、廃止しなくてよかったと、身を持って体験した。

 当時、上海戦線で将校が狙撃の目標にされたので、杭州湾上陸軍は、軍司令官以下全員が兵の服を着た。無論階級章は残したが、参謀飾緒は着けなかった。

 敵を南京に向かって追撃する時、太湖西南端に諸隊が殺到するので、交通整理のため参謀を派遣した。

 ところがその参謀は飾緒を着けていないから、先を争う諸隊は言うことをきかない。たまたま大本営参謀が戦線視察に来ていたので、軍参謀の側に立ってもらうことにした。
 
 参謀飾緒を着けた将校が立っているだけで、諸隊は交通整理に従うようになったが、参謀飾緒の効果を痛感するとともに、飾緒廃止の意思を出した軽挙を深く反省した次第である。

 以上が、当時、軍事課課員だった、山崎正男元少将の回想である。
 
 昭和十二年一月二十三日に広田弘毅内閣が総辞職後、一月二十五日に宇垣一成(うがき・かずしげ)大将(岡山・陸士一・一一番・陸大一四・三番恩賜・ドイツ駐在・教育本部総務部第一課長・歩兵大佐・軍務局軍事課長・歩兵第六連隊長・軍務局軍事課長・少将・歩兵学校長・参謀本部第一部長・参謀本部総務部長・陸軍大学校長・中将・第一〇師団長・教育総監部本部長・陸軍次官・陸軍大臣・大将・朝鮮総督臨時代理・陸軍大臣・予備役・朝鮮総督・内閣参議・外務大臣・兼拓務大臣・拓殖大学学長・終戦・参議院議員・昭和三十一年死去・享年八十七歳・正二位・勲一等旭日大綬章・功四級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)に組閣の大命が下った。

 元老・西園寺公望(さいおんじ・きんもち・京都・右大臣徳大寺公純の次男・右近衛権中将西園寺師季の養子・正三位・右近衛権中将・官軍参与・明治維新・新潟府知事・ソルボンヌ大学・正三位・東洋自由新聞社長・勲三等旭日中綬章・参事院議官・侯爵・駐オーストリア=ハンガリー帝国公使・駐ドイツ帝国公使・賞勲局総裁・貴族院副議長・従二位・枢密顧問官・文部大臣・勲一等瑞宝章・外務大臣兼文部大臣・渡仏・文部大臣・正二位・枢密院議長・内閣総理大臣臨時代理・立憲政友会総裁・内閣総理大臣・勲一等旭日桐花大綬章・内閣総理大臣<第二次>・大勲位菊花大綬章・パリ講和会議全権・公爵・大勲位菊花章頸飾・薨去・享年九十歳・国葬・従一位・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、軍部の暴走を抑止できる宇垣大将に期待して、首相推薦の奏上を行ったのだ。これにより、大命が下った。

 だが、当時参謀本部第一部長心得だった石原莞爾(いしわら・かんじ)大佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦課長・歩兵大佐・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・待命・立命館大学講師・予備役・終戦・山形県に転居・東京裁判酒田出張法廷に証人として出廷・昭和二十四年肺水腫と膀胱がんで病死・享年六十歳・勲一等瑞宝章・功三級)など陸軍中堅幕僚は、宇垣大将の組閣を阻止すべく動いた。







675.梅津美治郎陸軍大将(15)優遇処置に対する他の将校の嫉妬心が、徽章によって、一層刺激される

2019年03月01日 | 梅津美治郎陸軍大将
 さらに次の二人の第三課の課員も異動になった。

 藤室良輔(ふじむろ・りょうすけ)中佐(広島・東京陸軍幼年学校首席・中央幼年学校首席・陸士二七首席・陸大三五首席・ドイツ駐在・陸軍大学校教官・歩兵大佐・参謀本部戦史課長・歩兵第七七連隊長・第二一軍参謀副長・少将・陸軍技術本部総務部長・総力戦研究所主事・陸軍技術本部第一部長・昭和十七年病死・享年四十九歳・中将)。

 宮野正年(みやの・まさとし)少佐(広島・陸士三〇・陸大三七・ソ連駐在・陸軍教育本部総務部第二課長・歩兵大佐・支那派遣軍作戦課長・少将・陸軍予科士官学校幹事兼教授部長・第一五方面軍参謀副長・終戦)。

 軍備充実予算をめぐる省部間の紛糾はこれで解決したが、参謀本部としては陸軍省のやり方にひどく腹を立てたものだった。

 当時参謀本部作戦課課員だった今岡豊大佐(陸士三七・陸大四七・第七方面軍参謀・終戦)は、当時を振り返って、次の様に回想している。

 梅津将軍のように、国軍の最も優れた能吏型の事務才能を有し、極めて慎重なる性格の持主が時に大局的判断によって思い切った決断を下すことがあるものだということを、はっきりと見せつけられた。

 梅津美治郎中将が陸軍次官当時、陸軍大学校卒業徽章が廃止された。

 「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)によると、その中で、陸軍大学校卒業徽章の廃止について触れている。

 当時、陸軍省軍務局軍事課課員で、陸軍大学校卒業徽章の廃止を起草した山崎正男(やまざき・まさお)少将(京都・陸士三三・陸大四〇・軍務局軍事課課員・兵務局高級課員・兵務局兵備課長・歩兵大佐・第三九師団参謀長・東部軍高級参謀・第一二方面軍高級参謀・少将・第一二方面軍参謀副長・陸軍予科士官学校幹事)は、次の様に回想している。

 従来は、陸軍大学校を卒業した者には、学校令第二十二条により、卒業証書及び卒業を証する徽章を授与されることになっていた。

 そもそも学歴を服装の上に表すなどということは、全く意味がなく、なぜこのようなことが行われてきたか、実に了解に苦しむところである。

 しかし、伝えられるところによると、次の経過によるものらしい。

 (一)陸軍大学校の創設当初(明治二十年)に設けられたこの徽章は、当時、若い将校が酒色にふけり、陸軍大学校などに振り向きもしなかったので、明治天皇のご意図により、卒業者の名誉を表彰する方法として、設けられた。

 (二)徽章の図案は、明治天皇の御発案による。

 真偽のほどは別として、明治二十年頃には、以上のようなことがあったかもしれない。

 爾来約五十年、この徽章は、確かに前記(一)の目的を達したであろうが、社会情勢の変化と人心の推移にともない、この徽章に対する考え方も変わって来た。すなわち、

 (一)功利主義、出世主義が発達するにつれて、徽章によって若い将校を引きつけなくても、進んで受験勉強をするようになったこと。すなわち、徽章制定当時考えられた必要性が、だんだんと薄らいできたことである。

 (二)必要性がなくなるばかりでなく、次の様な弊害が出てきた。

 1、徽章をつけることによって、いたずらに気位が高くなり、かえって他のひんしゅくを買う。
 2、陸大卒業者の人事上の優遇処置に対する他の将校の嫉妬心が、徽章によって、一層刺激される。
 3、陸大卒業者に相応しい能力を備えていない場合、徽章をつけているとかえって、その他の将校の軽侮感をつのらせる。

 (三)デモクラシー思想の浸透は、無意味な差別の存在を認めなくなり、創設の当初からあまり意味のなかったこの徽章も、有害無用視されるようになった。

 以上のような経緯により、海軍は大正デモクラシー華やかなりし大正十年に早くもこれを廃止し、陸軍の廃止ももはや時期の問題だった。