明治十一年一月乃木希典中佐は東京に呼び戻され、歩兵第一連隊長を命ぜられた。栄進だった。明治十三年四月には三十二歳で歩兵大佐に昇進した。その後、明治十六年二月に東京鎮台の参謀長になっている。
西南戦争後、三十歳で第一連隊長となった乃木中佐は、酒びたりになっていた。軍旗を奪われたこと、さらにそれを許されたことで、良心に責め立てられ、苦しめられた。
その苦しみから逃れるために、毎夜のごとく酒をあおり、泥酔して自宅に帰ることもしない日もあった。好きだからではなく、泣きながら飲む酒だった。
第一連隊長時代の乃木家は東京芝区西久保櫻川町にあった。極粗末な平屋建てで、五間しかなかった。それも門の柱は歪み、板塀は破れて庭は荒れたいままに荒れていた。
家の内には少しの飾りも無かった。座敷の床の間には御尊影を掲げ奉って、一方には連隊旗が置いてあった。当時も連隊旗は連隊長の宅で保護することになっていて、伍長一名と兵卒四名とが交代で付ききっていた。
その頃、政費節減の主意で、諸官庁に火鉢の支給を禁じたことがあった。だが、軍隊と官庁は事情が違った。官庁は昼間の勤務だが、軍隊には週番士官のように特別任務の者もいて、極寒の夜など火の気無しに務まりそうになかった。
そこで、部下の大隊長が「せめてこれらの特別任務に当たる者だけへ賄いの焚き火だけでも許されたい」と願って出た。
乃木連隊長はしばらく考えてから、「火鉢が無いと何故いかんか」と問うた。
大隊長は「寒気の強い夜中などは手が凍えて、ボタンの取り外しにも困ることがあります」と答えた。
すると乃木連隊長は「そりゃいかん。生きている者が凍えるわけはない。手が冷たかったら、卓子でも何でもコツコツ叩け。そうすれば自然に温まる」と言った。乃木連隊長自身も火鉢は用いなかった。
ある日、五、六人の士官と、一人の面の皮の厚い、大酒飲みの少尉試補(少尉候補者)が、乃木連隊長の宅へ押しかけた。
例のごとく、酒の宴になった。中の一人が「どうか後学のため戦争談をお聞かせ下さい」と言った。乃木連隊長は西南の役の実歴談が得意だった。
そのうちに酔いはまわってきた。乃木連隊長は木の葉口の戦いから、田原坂方面の話に移った。実体験談だから、話にも実があった。聞く者も力瘤が入った。
皆が息を詰めて聞いているとき、少尉試補のみは故意に顔を反けるようにして、「へん」と鼻先であしらうように、「連隊長はいかん。自分の手柄話ばかりをする」と独り言のように言った。
すると乃木連隊長は忽ち容を正して、この男をじっと見た。そして真面目になって次のように言って詫びた。
「そうか、わしが悪かった。お前方にはそういう風に聞こえるか。わしはただ戦(いくさ)話をするつもりでいるが、興に乗って話すのだから、お前方には手柄話をするように聞こえたか分からん。そんなつもりじゃない、以来は決してしないから許してくれ」。
普通の上官なら、「わしに戦(いくさ)話をさせておいて、失礼なことを言うな。話を聞くのがいやなら、あっちへ行け」とでも言うところだが、乃木連隊長は形を改めて、侘びを言った。それで、流石の少尉試補も恥じ入ったという。
当時、乃木中佐は、どうかすると、人から毛嫌いされ、同じ長州軍人の間でも何となく疎外されていた。ある日、陸軍卿の山縣有朋が、馬車を走らせて、乃木の第一連隊の営門を入ろうとした。
これを見て、歩哨の一人が「待てッ」と、声をかけた。馭者は、これを尻目にかけて、馬に鞭を加え、威勢よく駆け込もうとした。
すると歩哨は、「こらッ、待たんか」と言いながら、今度は銃剣を馬の鼻先へ突き出した。馬は驚いて、その足を止めた。
「オイ、何をするのだ」「待てと言うのに、なぜまたんか」「陸軍卿が乗っておいでなさるのだぞ」「たとえ陸軍卿でも、無断乗り入れは許しませぬ」。
この押し問答のうちに山縣卿は馬車から降りて徒歩で入ったが、これが問題となって、陸軍省では、やかましい交渉を始めた。
西南戦争後、三十歳で第一連隊長となった乃木中佐は、酒びたりになっていた。軍旗を奪われたこと、さらにそれを許されたことで、良心に責め立てられ、苦しめられた。
その苦しみから逃れるために、毎夜のごとく酒をあおり、泥酔して自宅に帰ることもしない日もあった。好きだからではなく、泣きながら飲む酒だった。
第一連隊長時代の乃木家は東京芝区西久保櫻川町にあった。極粗末な平屋建てで、五間しかなかった。それも門の柱は歪み、板塀は破れて庭は荒れたいままに荒れていた。
家の内には少しの飾りも無かった。座敷の床の間には御尊影を掲げ奉って、一方には連隊旗が置いてあった。当時も連隊旗は連隊長の宅で保護することになっていて、伍長一名と兵卒四名とが交代で付ききっていた。
その頃、政費節減の主意で、諸官庁に火鉢の支給を禁じたことがあった。だが、軍隊と官庁は事情が違った。官庁は昼間の勤務だが、軍隊には週番士官のように特別任務の者もいて、極寒の夜など火の気無しに務まりそうになかった。
そこで、部下の大隊長が「せめてこれらの特別任務に当たる者だけへ賄いの焚き火だけでも許されたい」と願って出た。
乃木連隊長はしばらく考えてから、「火鉢が無いと何故いかんか」と問うた。
大隊長は「寒気の強い夜中などは手が凍えて、ボタンの取り外しにも困ることがあります」と答えた。
すると乃木連隊長は「そりゃいかん。生きている者が凍えるわけはない。手が冷たかったら、卓子でも何でもコツコツ叩け。そうすれば自然に温まる」と言った。乃木連隊長自身も火鉢は用いなかった。
ある日、五、六人の士官と、一人の面の皮の厚い、大酒飲みの少尉試補(少尉候補者)が、乃木連隊長の宅へ押しかけた。
例のごとく、酒の宴になった。中の一人が「どうか後学のため戦争談をお聞かせ下さい」と言った。乃木連隊長は西南の役の実歴談が得意だった。
そのうちに酔いはまわってきた。乃木連隊長は木の葉口の戦いから、田原坂方面の話に移った。実体験談だから、話にも実があった。聞く者も力瘤が入った。
皆が息を詰めて聞いているとき、少尉試補のみは故意に顔を反けるようにして、「へん」と鼻先であしらうように、「連隊長はいかん。自分の手柄話ばかりをする」と独り言のように言った。
すると乃木連隊長は忽ち容を正して、この男をじっと見た。そして真面目になって次のように言って詫びた。
「そうか、わしが悪かった。お前方にはそういう風に聞こえるか。わしはただ戦(いくさ)話をするつもりでいるが、興に乗って話すのだから、お前方には手柄話をするように聞こえたか分からん。そんなつもりじゃない、以来は決してしないから許してくれ」。
普通の上官なら、「わしに戦(いくさ)話をさせておいて、失礼なことを言うな。話を聞くのがいやなら、あっちへ行け」とでも言うところだが、乃木連隊長は形を改めて、侘びを言った。それで、流石の少尉試補も恥じ入ったという。
当時、乃木中佐は、どうかすると、人から毛嫌いされ、同じ長州軍人の間でも何となく疎外されていた。ある日、陸軍卿の山縣有朋が、馬車を走らせて、乃木の第一連隊の営門を入ろうとした。
これを見て、歩哨の一人が「待てッ」と、声をかけた。馭者は、これを尻目にかけて、馬に鞭を加え、威勢よく駆け込もうとした。
すると歩哨は、「こらッ、待たんか」と言いながら、今度は銃剣を馬の鼻先へ突き出した。馬は驚いて、その足を止めた。
「オイ、何をするのだ」「待てと言うのに、なぜまたんか」「陸軍卿が乗っておいでなさるのだぞ」「たとえ陸軍卿でも、無断乗り入れは許しませぬ」。
この押し問答のうちに山縣卿は馬車から降りて徒歩で入ったが、これが問題となって、陸軍省では、やかましい交渉を始めた。