中村大将、山本中将の論争はいつまでも続いた。これでは海軍全体の将来に影響するところが大きいと心配した大角岑生海軍大臣(海兵二四恩賜・海大五)は伏見軍令部総長宮(ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校卒)に仲裁を仰いだ。
仲裁という形だったが、それは論争を止めろという最高命令だった。当時の軍令部、艦政本部をはじめ、海軍の首脳部は大艦巨砲主義に凝り固まっており、この巨大戦艦の建造は施行されることに決まった。
「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、山本五十六(海兵三二・海大一四)は昭和十一年十二月一日廣田弘毅内閣のとき、永野修身海軍大臣の海軍次官に就任以来、林、近衛、平沼と四代の内閣に渡って、海軍次官を務めた。
山本次官は単刀直入にものを言うので、海軍省詰めの新聞記者には受けが良かった。政治的な嘘はつかず、「俺は、あんな奴はきらいだ」とか、「そんなことをいう奴はバカだよ君。陸軍の誰だい? ここへ呼んで来い」などとはっきりしていた。
あるとき、一人の新聞記者が「近衛公をどう思いますか?」と質問したことがある。山本次官は「うん」と言って黙っていたが、重ねて聞かれると、「君、人間なんて、花柳界での遊び方を見りゃ大体分かるじゃないか」と言った。
昭和十二年二月二日、林銑十郎(陸士八・陸大一七)内閣が成立するとともに、二年七ヶ月に及ぶ米内光政海軍大臣(海兵二九・海大一二)、山本五十六海軍次官(海兵三二・海大一四)の時代が発足する。
昭和十二年十月には井上成美少将(海兵三七次席・海大二二)が軍務局長に就任し海軍良識派トリオが結成された。
昭和十三年五月、近衛内閣の内閣改造で、宇垣一成が外務大臣に就任した後、外務次官を誰にするかが、もめて、七月になっても決まらなかった。
そのうち白鳥敏夫の呼び声が高くなり宇垣外相は近衛首相に白鳥の起用について諮った。白鳥は「霞ヶ関の革新男」と言われ、満州国の建設、日本の国際連盟脱退、日独防共協定締結などという場面には必ず乗り出してきて積極的な態度を見せる枢軸派の外務官僚だった。
近衛首相はこの白鳥が、陸軍にはよくても、海軍にどうであろうかというので、原田熊雄を使者に立て、米内海相、山本次官の意向を打診してきた。
米内海相は、例の如く、黙って首を振っているだけであったが、山本次官は原田に率直に答えた。山本次官は遠まわしではあるが、皮肉を込めて、反対した。
この山本次官の一言で、白鳥の外務次官就任は、沙汰やみになった。白鳥はその二ヵ月後に、大使としてイタリアへ転出した。
白鳥を外務次官に最も強く押していたのは六月三日に陸軍大臣になったばかりの板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八)だった。
板垣陸相は山本海軍次官のことを、日本の採ろうとしている枢軸寄りの新外交路線に対する一番大きな障害と考えていた。
それで板垣陸相は配下の情報係を使って、しきりに山本次官に接近させ、山本次官の意向や動静をさぐらせようとした。情報係は一週間ぶっ通しで朝早くから次官官舎に通い続けたりした。
ところが山本次官はこの情報係の男に、いくらなんでも帰って親分の板垣陸相に報告しぬくいような情報をわざと話してやり、遠慮会釈なしに陸軍の悪口を並べ立てた。
閉口した情報係りの男が、「それでは板垣閣下の人物についても、ひとつ忌憚のない批評をしていただきたい」と言うと、山本次官は「ほかのことはよく分からんが、頭が良くないということだけは事実だ」と答えた。
山本次官は後に「お世辞を言ったってはじまらんから、仕方がないだろう。頭のよしあしだけが人間のすべてでもあるまいから、それでいいじゃないか」と松本鳴弦楼(「柔道名試合物語」の著者)に話したと言う。
「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると、昭和十三年五月には、東條英機が陸軍次官に就任した。東條次官は、なかなかの博弁宏辞で、次官会議でも、あらゆる問題に発言して一家言をたてた。
これに反し、海軍の山本五十六次官は寡黙深沈、こと海軍に関しない限り、ほとんど口をきくことも稀だった。
ある日、談たまたま航空について珍しく話の花が咲き、東條次官は例によって最新の知識経験にモノを言わせ、とうとうと陸軍新鋭機の効能を披露に及んで、列席の一同を煙にまいてしまった。
それまで、静かに傾聴していた山本次官は、話が一段落するかしないかに、何を思ったか、すかさず、「ほほう、エライね、君のところの飛行機も飛んだか、それはエライ!」とニコリともせず送った一言だが、山本次官の応酬として安心したのか、それともその意味が通じたのか、しばらく唖然としていた各省次官たちもしばらくして、一度にどっと爆笑したという。
仲裁という形だったが、それは論争を止めろという最高命令だった。当時の軍令部、艦政本部をはじめ、海軍の首脳部は大艦巨砲主義に凝り固まっており、この巨大戦艦の建造は施行されることに決まった。
「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、山本五十六(海兵三二・海大一四)は昭和十一年十二月一日廣田弘毅内閣のとき、永野修身海軍大臣の海軍次官に就任以来、林、近衛、平沼と四代の内閣に渡って、海軍次官を務めた。
山本次官は単刀直入にものを言うので、海軍省詰めの新聞記者には受けが良かった。政治的な嘘はつかず、「俺は、あんな奴はきらいだ」とか、「そんなことをいう奴はバカだよ君。陸軍の誰だい? ここへ呼んで来い」などとはっきりしていた。
あるとき、一人の新聞記者が「近衛公をどう思いますか?」と質問したことがある。山本次官は「うん」と言って黙っていたが、重ねて聞かれると、「君、人間なんて、花柳界での遊び方を見りゃ大体分かるじゃないか」と言った。
昭和十二年二月二日、林銑十郎(陸士八・陸大一七)内閣が成立するとともに、二年七ヶ月に及ぶ米内光政海軍大臣(海兵二九・海大一二)、山本五十六海軍次官(海兵三二・海大一四)の時代が発足する。
昭和十二年十月には井上成美少将(海兵三七次席・海大二二)が軍務局長に就任し海軍良識派トリオが結成された。
昭和十三年五月、近衛内閣の内閣改造で、宇垣一成が外務大臣に就任した後、外務次官を誰にするかが、もめて、七月になっても決まらなかった。
そのうち白鳥敏夫の呼び声が高くなり宇垣外相は近衛首相に白鳥の起用について諮った。白鳥は「霞ヶ関の革新男」と言われ、満州国の建設、日本の国際連盟脱退、日独防共協定締結などという場面には必ず乗り出してきて積極的な態度を見せる枢軸派の外務官僚だった。
近衛首相はこの白鳥が、陸軍にはよくても、海軍にどうであろうかというので、原田熊雄を使者に立て、米内海相、山本次官の意向を打診してきた。
米内海相は、例の如く、黙って首を振っているだけであったが、山本次官は原田に率直に答えた。山本次官は遠まわしではあるが、皮肉を込めて、反対した。
この山本次官の一言で、白鳥の外務次官就任は、沙汰やみになった。白鳥はその二ヵ月後に、大使としてイタリアへ転出した。
白鳥を外務次官に最も強く押していたのは六月三日に陸軍大臣になったばかりの板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八)だった。
板垣陸相は山本海軍次官のことを、日本の採ろうとしている枢軸寄りの新外交路線に対する一番大きな障害と考えていた。
それで板垣陸相は配下の情報係を使って、しきりに山本次官に接近させ、山本次官の意向や動静をさぐらせようとした。情報係は一週間ぶっ通しで朝早くから次官官舎に通い続けたりした。
ところが山本次官はこの情報係の男に、いくらなんでも帰って親分の板垣陸相に報告しぬくいような情報をわざと話してやり、遠慮会釈なしに陸軍の悪口を並べ立てた。
閉口した情報係りの男が、「それでは板垣閣下の人物についても、ひとつ忌憚のない批評をしていただきたい」と言うと、山本次官は「ほかのことはよく分からんが、頭が良くないということだけは事実だ」と答えた。
山本次官は後に「お世辞を言ったってはじまらんから、仕方がないだろう。頭のよしあしだけが人間のすべてでもあるまいから、それでいいじゃないか」と松本鳴弦楼(「柔道名試合物語」の著者)に話したと言う。
「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると、昭和十三年五月には、東條英機が陸軍次官に就任した。東條次官は、なかなかの博弁宏辞で、次官会議でも、あらゆる問題に発言して一家言をたてた。
これに反し、海軍の山本五十六次官は寡黙深沈、こと海軍に関しない限り、ほとんど口をきくことも稀だった。
ある日、談たまたま航空について珍しく話の花が咲き、東條次官は例によって最新の知識経験にモノを言わせ、とうとうと陸軍新鋭機の効能を披露に及んで、列席の一同を煙にまいてしまった。
それまで、静かに傾聴していた山本次官は、話が一段落するかしないかに、何を思ったか、すかさず、「ほほう、エライね、君のところの飛行機も飛んだか、それはエライ!」とニコリともせず送った一言だが、山本次官の応酬として安心したのか、それともその意味が通じたのか、しばらく唖然としていた各省次官たちもしばらくして、一度にどっと爆笑したという。