陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

209.山本五十六海軍大将(9)ほかのことはよく分からんが、頭が良くないということだけは事実だ

2010年03月26日 | 山本五十六海軍大将
 中村大将、山本中将の論争はいつまでも続いた。これでは海軍全体の将来に影響するところが大きいと心配した大角岑生海軍大臣(海兵二四恩賜・海大五)は伏見軍令部総長宮(ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校卒)に仲裁を仰いだ。

 仲裁という形だったが、それは論争を止めろという最高命令だった。当時の軍令部、艦政本部をはじめ、海軍の首脳部は大艦巨砲主義に凝り固まっており、この巨大戦艦の建造は施行されることに決まった。

 「山本五十六」(阿川弘之・新潮文庫)によると、山本五十六(海兵三二・海大一四)は昭和十一年十二月一日廣田弘毅内閣のとき、永野修身海軍大臣の海軍次官に就任以来、林、近衛、平沼と四代の内閣に渡って、海軍次官を務めた。

 山本次官は単刀直入にものを言うので、海軍省詰めの新聞記者には受けが良かった。政治的な嘘はつかず、「俺は、あんな奴はきらいだ」とか、「そんなことをいう奴はバカだよ君。陸軍の誰だい? ここへ呼んで来い」などとはっきりしていた。

 あるとき、一人の新聞記者が「近衛公をどう思いますか?」と質問したことがある。山本次官は「うん」と言って黙っていたが、重ねて聞かれると、「君、人間なんて、花柳界での遊び方を見りゃ大体分かるじゃないか」と言った。

 昭和十二年二月二日、林銑十郎(陸士八・陸大一七)内閣が成立するとともに、二年七ヶ月に及ぶ米内光政海軍大臣(海兵二九・海大一二)、山本五十六海軍次官(海兵三二・海大一四)の時代が発足する。

 昭和十二年十月には井上成美少将(海兵三七次席・海大二二)が軍務局長に就任し海軍良識派トリオが結成された。

 昭和十三年五月、近衛内閣の内閣改造で、宇垣一成が外務大臣に就任した後、外務次官を誰にするかが、もめて、七月になっても決まらなかった。

 そのうち白鳥敏夫の呼び声が高くなり宇垣外相は近衛首相に白鳥の起用について諮った。白鳥は「霞ヶ関の革新男」と言われ、満州国の建設、日本の国際連盟脱退、日独防共協定締結などという場面には必ず乗り出してきて積極的な態度を見せる枢軸派の外務官僚だった。

 近衛首相はこの白鳥が、陸軍にはよくても、海軍にどうであろうかというので、原田熊雄を使者に立て、米内海相、山本次官の意向を打診してきた。

 米内海相は、例の如く、黙って首を振っているだけであったが、山本次官は原田に率直に答えた。山本次官は遠まわしではあるが、皮肉を込めて、反対した。

 この山本次官の一言で、白鳥の外務次官就任は、沙汰やみになった。白鳥はその二ヵ月後に、大使としてイタリアへ転出した。

 白鳥を外務次官に最も強く押していたのは六月三日に陸軍大臣になったばかりの板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八)だった。

 板垣陸相は山本海軍次官のことを、日本の採ろうとしている枢軸寄りの新外交路線に対する一番大きな障害と考えていた。

 それで板垣陸相は配下の情報係を使って、しきりに山本次官に接近させ、山本次官の意向や動静をさぐらせようとした。情報係は一週間ぶっ通しで朝早くから次官官舎に通い続けたりした。

 ところが山本次官はこの情報係の男に、いくらなんでも帰って親分の板垣陸相に報告しぬくいような情報をわざと話してやり、遠慮会釈なしに陸軍の悪口を並べ立てた。

 閉口した情報係りの男が、「それでは板垣閣下の人物についても、ひとつ忌憚のない批評をしていただきたい」と言うと、山本次官は「ほかのことはよく分からんが、頭が良くないということだけは事実だ」と答えた。

 山本次官は後に「お世辞を言ったってはじまらんから、仕方がないだろう。頭のよしあしだけが人間のすべてでもあるまいから、それでいいじゃないか」と松本鳴弦楼(「柔道名試合物語」の著者)に話したと言う。

 「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)によると、昭和十三年五月には、東條英機が陸軍次官に就任した。東條次官は、なかなかの博弁宏辞で、次官会議でも、あらゆる問題に発言して一家言をたてた。

 これに反し、海軍の山本五十六次官は寡黙深沈、こと海軍に関しない限り、ほとんど口をきくことも稀だった。

 ある日、談たまたま航空について珍しく話の花が咲き、東條次官は例によって最新の知識経験にモノを言わせ、とうとうと陸軍新鋭機の効能を披露に及んで、列席の一同を煙にまいてしまった。

 それまで、静かに傾聴していた山本次官は、話が一段落するかしないかに、何を思ったか、すかさず、「ほほう、エライね、君のところの飛行機も飛んだか、それはエライ!」とニコリともせず送った一言だが、山本次官の応酬として安心したのか、それともその意味が通じたのか、しばらく唖然としていた各省次官たちもしばらくして、一度にどっと爆笑したという。

208.山本五十六海軍大将(8) 今後の海戦には戦艦は無用の長物となりましょう

2010年03月19日 | 山本五十六海軍大将
 「人間提督・山本五十六」(戸川幸夫・光人社NF文庫)によると、二年間あまりの研究の結果、艦政本部は昭和十一年七月、大和型二隻の建造が可能であると高等技術会議で決定した。

 航空本部長の山本五十六中将はこの計画には最初から反対だった。どんな軍艦を造っても、めざましい発達をなしつつある航空隊の集中攻撃にあっては耐えられるものではない。軍艦が海に浮かんでいる以上、必ず沈められる。

 当時の艦政本部長は中村良三大将(海兵二七首席・海大八)だった。中村大将は山本五十六航空本部長の航空主力説に真っ向から反対だった。

 中村大将の主張は空母や飛行機の重要性は認めるが、あくまで艦隊の補助的兵器で、最後はどうしても主力戦闘艦の決戦になるというものだった。

 中村大将は山本中将にとっては先輩であり、先輩には礼を以って尽くす山本中将だったが、日本海軍の将来を決する大問題なので、先輩であっても自己の主張を曲げることはできなかった。

 両部長は烈しく論争した。山本中将は、こんな巨艦を甚大な国費と長い年月をかけて造るべきだったら、その費用と年月を航空機の整備増強に注ぎこんでほしいと要求した。

 中村大将は「しかし、いままで飛行機によって撃沈された戦艦、巡洋艦はいない。飛行機が発達すると同様に軍艦も日進月歩して、対空防御力も増強している」と言った。

 これに対し山本中将は次のように主張した。

 「いや、それは過去の話です。第一次大戦以後、海戦らしい海戦はないし、ことに飛行機と軍艦が交戦したことがないから、いま、その証拠を見せろといわれてもないが、航空機の破壊力には恐るべきものがあります」

 「艦上攻撃機の一機一機が、早く言えば大砲であり、巨弾であるわけです。大砲で撃つか、飛行機で運んでぶっつけるかの違いです」

 「砲戦開始前に砲弾の届かないところから飛来した飛行機で撃破、あるいは撃沈されるのですから、今後の海戦には戦艦は無用の長物となりましょう」

 すると中村大将は「山本君、それは言いすぎじゃないか?」と少し怒気を含んだ顔つきになって、次の様に主張した。

 「巡洋艦以下の小艦艇なら君の言は、あるいは当たっているかもしれん。いや、仮に一歩を譲って旧式な巡洋艦や戦艦が対空的に弱いといっても、これから建造しようというのはその点を十分に考慮に入れた新鋭の巨艦なんだ」

 「いくら叩かれても平然としている浮沈艦を我々は造ろうというのだ。しかも研究の結果それは可能である。だから君の意見は尊重するが、この建造を取りやめるわけにはいかん」

 論争は連日繰り返され、二人とも自説を曲げなかった。そんなある日、航空本部へ、軍令部第二部長の古賀峯一少将(海兵三四・海大一五)が訪ねてきた。

 山本中将は古賀少将の顔を見た瞬間に、「ははあ、説得にきたな」と悟った。山本中将、古賀少将、堀悌吉中将(海兵三二首席・海大一六首席)の三人は親友で、三人そろってよく旅行したり、ハイキングなどをした仲だった。山本と堀は兵学校同期で、古賀は二期後輩だった。

 古賀少将は、「おい」と椅子に座りながら、「貴様、俺が今日~」と言いかけると、山本中将は「わかっているよ。艦政のことまで口を出すな、と言いにきたんだろう」と先手を打った。

 古賀少将は「わかっていれば余計なことは言わんが、こんどのは画期的なものなんだ。あまり水をさすようなことは言わん方がいいぞ」と言った。

 すると山本中将は「貴様、本気で言っているのか。海軍に我々が職を奉じているのは、国家を護るという大任のためではなかったのか? 軍艦を造ったり、飛行機を造ったりすること、それ自体が目的じゃないだろう?」と静かな口調で述べた。

 古賀少将が「うん、そりゃそうだ」と相槌を打つと、

 山本中将は「そんなら、国家のために無駄だと思うことを止めて、必要なことに振り向けようという意見は誰が言い出しても構わんじゃないか」と言った。

 古賀少将が「貴様の言うことも一応の理屈だが、世の中は貴様の理屈どおりにはゆかん。貴様、あんまり頑張っていると危ないぞ」と言うと、

 山本中将は「そんなことは最初から覚悟している。正しい理屈に一応も二応もあるもんか。軍艦は絶対に飛行機には勝てん。有り余る予算があるのなら、軍艦造りもよかろう。だが、足りん足りんの予算で、少しでも多く分け取りしようといっているときには、一番必要なものにつぎ込むのが当然だろう」と答えた。

 それに対し古賀少将は「軍艦は飛行機に勝てんというのは貴様の意見だ。俺は絶対に大丈夫だと信じている」と述べた。

 最後には山本中将は「おいおい、この忙しい時に貴様と論争なんかしている暇はないぞ、用が済んだら帰ってくれ」と言ったという。古賀少将は苦笑しながら帰っていった。

207.山本五十六海軍大将(7) お前のように頭の悪い奴は飲んでもよかろう

2010年03月12日 | 山本五十六海軍大将
 別冊歴史読本「山本五十六と8人の幕僚」(新人物王来社)によると、山本五十六のロンドンにおける軍縮予備交渉は、ピエロ的な役回りだった。軍縮条約の廃棄はすでに既定の方針で、その方針は天皇も承知していたことであった。

 山本五十六がロンドンに出発する際、岡田啓介首相(海兵一五・海大二)は天皇に対して、条約廃棄を前提として予備交渉を行うことを上奏した。

 その際天皇も「軍部の要求もあることだから、あるいはその辺で落ち着けるより仕方あるまい。しかしながらワシントン条約の廃棄は、できるだけ列国を刺激しないようにやってもらいたい」と述べたという。

 「山本五十六」(プレジデント社)所収『人望「仁将」ソロモンの空に散る』の著者、奥宮正武元海軍中佐(海兵五八・戦後空将)が昭和十年に初めて山本五十六に出会った時の思い出を記している。場所は北海道の根室だった。

 当時奥宮は海軍中尉で、連合艦隊所属の空母龍驤乗り組みの飛行将校として、急降下爆撃隊の訓練を行っていた。

 昭和十年九月中旬、直属の上官の分隊長、和田鉄二郎大尉(海兵五一)とともに根室視察に出向いた。たまたま泊まった旅館で宿泊客の名前を聞いた和田大尉は「山本さんに挨拶に行くから、一緒に行こう」と、言いながら席を立った。

 訪れた部屋では、床を背にして小柄な紳士が正座しており、向かい合って、大柄な人が膝を崩して座っていた。前者が初対面の山本五十六中将であり、後者は顔見知りの宇垣纏大佐(海兵四〇・海大二二)だった。

 和田大尉は新潟県出身で、同郷の山本中将とは旧知の間柄だった。そのとき、奥宮中尉は山本中将から「海軍の航空は大切である。新しい艦爆隊の育成をしっかりやってもらいたい」と激励された。

 宇垣大佐はかなり酒に酔っていて、しきりに山本中将に酒を勧めていた。だが、山本中将は「お前のように頭の悪い奴は飲んでもよかろう。俺のは少しよく出来ているから、そうはいかぬ」と、あしらいながら、巧みに話題を変えて部屋の空気を和らげていた。

 第二次ロンドン軍縮会議予備交渉の帝国代表の任を終えて帰国した山本中将は、月末に行われる予定であった海軍大演習の見学のために、また海軍大学校教官の宇垣大佐は同演習の審判官予定者の一人として根室に来ていた。

 山本中将は、酒は飲まなかったが、両手でする巧みな皿回し、見事な逆立ち、豊富な話題、周到な気配りで、酒好きの海軍士官たちを酒の席でもしらけさせるようなことはなかった。

 「凡将・山本五十六」(生出寿・徳間書店)によると、ロンドンから帰国して故郷の長岡に帰った山本五十六中将に、地元のある人が勝負の腕前を聞いた。

 そのとき山本中将は「いちばん得意なのはブリッジだ。これはまあ、将棋で言えば八段くらいだろうが、少なくとも東洋では私が一番だろう」と答えた。

 ところが、元海軍少将の横山一郎(海兵四七・海大二八首席)は、山本五十六中将が海軍次官当時、海軍省の副官をしていて、山本次官と何度かブリッジをしたことがあったが、次の様に話している。

 「山本さんのブリッジはブラフ(はったり)が多いんだ。手が悪いのにふっかけてくる。僕は、ああ、これは山本さんのブラフだなと思い、堅実にやった。すると、必ず勝てた。普通の人は、山本さんのブラフに引っかかって、山本さんは博才があると思ったようだ。しかし、ブラフなんかに惑わされずに合理的にやっていけば、その方が勝つ」

 だが、「人間・山本五十六」(太平洋戦争研究会・徳間書店)によると、山本五十六は、人の心を知り、先を見通す能力に優れていたという。

 山本五十六の長男の義正氏が、興味あるエピソードを語っている。義正氏が子供の頃、五十六が外で義正氏に物を食べさせる時、義正氏が何も言わなくても、そのとき一番義正氏が食べたいものを食べさしてくれた。

 義正氏が天ぷらを食べたいと思っていると、てんぷら屋に連れて行った。ビフテキが食べたいなと思っていると、ビフテキを必ず注文してくれたという。

 山本が海軍次官時代、秘書官だった実松譲(海兵五一・海大三四)は、山本のカンがよく、先の見通しが速くて鋭かったことに感銘し、山本が「次官として無数の書類を裁く時、起案者の名前で内容を判断していたらしく、驚くほど速くて的確だった」と述べている。

 昭和十年十二月二日、山本五十六中将は航空本部長に就任した。その前年の昭和九年十月、海軍軍令部は、アメリカ海軍に対抗するために、アメリカで建造できないような巨艦を作る必要があるとして艦政本部に大戦艦の研究を命じていた。

206.山本五十六海軍大将(6) なに? 本当か。堀がやられたな

2010年03月05日 | 山本五十六海軍大将
 訓練は日一日と猛烈さを加えて続けられた。ある晴れた日、空母赤城のはるか上空で二機の戦闘機が追いつ追われつの空中戦訓練を行っていた。

 その時、議員の見学団が赤城の飛行甲板に並んで大空を見上げていた。「実にうまいもんじゃ」「まるでサーカスのようだ」

 面白そうに語るのを耳にした山本司令官は、つかつかと近寄って厳粛に次のように言い渡した。

 「皆さん、あれを遊びごとのように見てもらっては困ります。ああやって上空から真っ逆さまに急降下しますと、肺の中に出血するのです。あのたびに搭乗者は生命を縮めているのです。ああいった訓練は三十を越えるともうできません」

 「あれが皆さんの子息だったらと考えてみてください。人の子を預かっている私としては、あんなことをやらせるに忍びないのだが、国のためには替えられぬからむりにやらせているのです」

 議員団は一瞬、しゅんとなった。

 昭和九年九月七日、山本五十六少将はロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表に任命された。十月からロンドンで会議が始まり、山本少将は英米を相手に奔走の日々を過ごしていた。

 十二月に入って、ある朝のこと、同行していた榎本重次が「ゆうべ堀さんの夢を見たよ」と何気なく言うと、山本中将(十一月十五日中将に昇進)は急に目を見据え、「なに? 本当か。堀がやられたな」と言って顔色を変え、凄まじい形相になった。

 堀悌吉中将(海兵三二首席・海大一六首席)は、山本中将と海軍兵学校同期で、三十二期のクラスヘッドだった。山本中将が最も信頼し、敬愛していた親友だった。

 堀中将は山本中将より一年早く中将に進級したが、山本中将と同じ条約派で、強硬派の艦隊派から山本中将以上ににらまれていた。

 当時、艦隊派の筆頭、加藤寛治大将(海兵一八首席)をはじめ、末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)、高橋三吉大将(海兵二九・海大一〇)などが条約派のグループを片っ端からやっつけることを策していた。

 当時海軍大臣の大角岑生大将(海兵二四恩賜・海大五)は八方美人で、強硬派の艦隊派に迎合して、山梨勝之進大将(海兵二五次席・海大五次席)、谷口尚真大将(海兵一九・海大三)、左近司政三中将(海兵二八・海大一〇)、寺島健中将(海兵三一・海大一二)ら条約派の将官たちが次々に失脚して予備役に編入された。

 そのあと、堀悌吉中将(海兵三二首席・海大一六首席)が、昭和九年十二月十日、突然待命を仰せ付けられ、十五日付で予備役に編入された。

 山本五十六少将はロンドン海軍軍縮会議予備交渉の海軍側主席代表として東京を出発する時、堀中将のことを大角海軍大臣に頼み、兵学校同期の嶋田繁太郎中将(海兵三二・海大一三)を介して軍令部総長・伏見宮にも頼んでいた。

 伏見宮は「自分は人事には関与しない」との返事だったが、軍令部内の強硬派に焚き付けられ、堀中将に関する中傷を真に受け、結局、人事に口を入れて、堀中将を首にしてしまった。

 堀中将に対する中傷とは、上海事変の際、第三戦隊司令官として卑怯の振舞があったということだった。上陸部隊援護のため、中支沿岸の敵砲台に艦砲射撃を加える時、堀司令官は砲台の付近に住民がまだ少しいるのを認めて、砲撃開始を猶予させた。このことを指していた。

 だが、これは堀を辞めさせるための理屈だった。山本五十六は堀に手紙を書いて「君の運命を承知した。このような事態となり本当に心外だ。山梨勝之進が言ったように、海軍は慢心のためいったん斃れる悲境に陥ってから、後に立て直す他に道はないないのだと思う」などと述べている。

 山本中将は「海軍の大馬鹿人事だ。巡洋艦戦隊の一隊と一人の堀悌吉と、海軍にとってどっちが大切なんだ」と憤慨し、「仕事をする気力もなくなった」とそばで見ていられないほどの落胆ぶりだった。

 山本中将は粘り強く交渉をつづけたが、結局ロンドン軍縮予備交渉は決裂した。形式的な本会議が昭和十年に入ってから行われたが、結論派同じだった。

 帰国命令がでて、山本中将は昭和十年一月二十八日、ロンドンを出発し、シベリア経由で二月十二日、東京に帰国した。山本五十六はロンドン予備交渉では敗れたのだった。

 昭和十年二月に帰国した山本五十六は、その年の十二月に航空本部長に就任するまで、仕事らしい仕事を与えられなかった。この時期、山本五十六は海軍を辞めようと思ったこともあった。