陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

127.井上成美海軍大将(7) 山本大将が井上中将の方にあごをしゃくって 「井上。君が行くんだよ」

2008年08月29日 | 井上成美海軍大将
 ある日、神中佐は井上軍務局長から軍務局長の意向を外務省に伝えるように指示を受けた。

 神中佐は「局長のご意見は、外務省が余りにも強いので、私からはとても取り次げません」ときっぱりと答えた。

 井上軍務局長は

 「君は軍務局の何だったかな」と冷静に言った。

 「局員であります」

 すると井上軍務局長は

 「私は局長だよ。局長は局員を指図できるんだよ。君が局長の指示に従わないと言うなら、私は君を、局長の指図に従う人に代えるよ」と言った。

 迫られた神中佐は急に神妙になり

 「外務省に行きます」と答えたという。

 神中佐は井上軍務局長にやりこめられて、いつも悔しがり

 「局長は椅子に座っていいて、こっちは立って議論するからいつも負ける」と他の局員に言っていた。

 井上軍務局長はその話を聞くと、次の議論の時次の様に神中佐に言った。

 「神君、君が大学校の学生の時は、私が立っていて君のほうが座っていたが、やはり議論は負けていたではないか。今日は俺が立つから、君そこへ座れ」

 神中佐はさすがに、

 「よろしゅうございます」と答えて座らなかったという。

 結局、昭和14年8月23日、ドイツがこともあろうに防共の対象としていた当のソ連と不可侵条約を結ぶという「複雑怪奇」な欧州情勢になってしまった。

 当時の平沼内閣はその五日後に総辞職して、三国同盟問題は立ち消えになってしまった。

 平沼に変わって、井上の義兄で予備役陸軍大将の阿部信行が総理大臣の地位に就いた。

 この政変に伴い、海軍首脳部も更迭され、井上は海軍省を去ることになった。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、戦時中の昭和17年10月、第四艦隊司令長官の井上中将は、旗艦鹿島に座乗、トラック環礁に在泊中だった。

 井上中将は連合艦隊司令長官の山本五十六大将(32期・のち元帥)に招かれて、同じトラック島に進出していた旗艦大和を訪ねた。

 井上中将と同期の草鹿任一(じんいち)中将が10月1日付で海軍兵学校校長から第十一航空艦隊司令長官に転補され、ラバウルに赴任する途中、大和に立ち寄ったので、山本大将が草鹿中将を主賓に夕食会を開いたのだ。

 夕食会には井上中将のほかに、第二艦隊司令長官の近藤信竹(のぶたけ)中将(35期・のち大将)も同席した。

 その席で近藤中将が切り出した。

 「草鹿君。君の後任の兵学校長には誰が行くんだ」

 「いや、まだ誰も着任していないんです」

 すると山本大将が井上中将の方にあごをしゃくって

 「井上。君が行くんだよ」と含み笑いの顔で言った。

 山本大将は続けた。

 「この間、嶋田(繁太郎海相・32期・大将、山本大将と同期)から手紙が来て、君を兵学校長にもらいたいといってきたので、僕は承知しておいたよ」

 これには井上中将も驚いて。

 「本当ですか」と目をくりくりさせて、聞いた。

 山本大将はおだやかな表情で

 「本当だよ」と答えた。

 すると井上中将は、

 「私は十七や十八の生意気盛りの小僧を教えるなんていやですね。あなたもよく知っておられるとおり、私はリベラリストだから、近頃のような教育には向きませんよ」と素っ気無い返事をした。

 すると山本大将は、怒ることなく

 「まあ、いいから海軍省に行ってみろよ」と言った。

 昭和17年10月26日、井上中将は海軍兵学校長に補任され、11月10日、広島県江田島の海軍兵学校に着任した。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、海軍兵学校長当時の生徒の思い出を井上は次の様に語っている。

 「当時の兵学校生徒の中には戦争の話なんかが面白くて、そうしてもう、のぼせ上がちゃって、サイン・コサインなんかどうなったっていい、戦争のためにならない、というようなことを言う者もおりました」

126.井上成美海軍大将(6) 世間では自分を三国同盟反対の親玉の如くいうも、根源は井上なり

2008年08月22日 | 井上成美海軍大将
 この山下大佐は、工廠の業務の無関係な用件で上京したり、近衛公を鎌倉に訪ねて「直接行動による国内改革をやろう」と迫ったとか、そういう話が聞こえてきていた。自宅に青年士官を集めて塾を開いていた。

 山下塾に来る青年士官にしてみれば、向かい官舎の井上少将は目障りな存在だった。

 先日、彼らは井上参謀長に無断で、大勢で米内光政鎮守府長官の官邸へ押しかけた。志を述べ気勢を上げるつもりが、米内の風格に押されて、何も言えずに引き下がってしまった。

 井上参謀長は米内長官が彼らを激励でもしたように誤り伝えられては困ると、各鎮守府要港部に、要注意、事情説明の電報を発信させた。

 そのことが彼ら青年士官の癪に障っていたのだ。それで夜更けまで山下塾で昭和維新の理念とかを談じ合ったあと、井上参謀長の門前に腹いせの小便をして帰って行くに違いなかった。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、昭和11年の正月、横須賀陸海軍首脳の新年会が、市内の割烹「魚勝」で催された。

 酒が大分廻った頃、陸軍の憲兵隊長林少佐が井上参謀長のところへ来て、「こないだ若い士官と会談した後、貴公はあんな電報を打つなんて、余りに神経質だ」で始まり、井上参謀長のことを貴公、貴公と、酒の席とはいえ生意気な呼び方をした。

 井上参謀長は「君は少佐ではないか、私は少将だ。少佐のくせに少将を呼ぶのに貴公とは何事だ、海軍ではな、軍艦で士官が酒に酔って後甲板ででくだをまいても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼をするんだ。これが軍隊の正しい姿だ。君の様な人間とは一緒に酒は飲まん」と言って席を立った。

 井上参謀長が別室でお茶漬けを食べていると、芸者があわただしく飛んできて「参謀長大変です。荒木さん(貞亮海軍少将・砲校長)、柴山さん(昌生海軍少将・人事部長)、が憲兵隊長とけんかしてます」と言ってきた。

 井上参謀長が「どっちが勝っているか」ときくと、「憲兵隊長がなぐられています」と言ったので「そんならほうっておけ」と言った。

 翌日鎮守府に憲兵隊長が謝罪にやって来た。井上参謀長は「あとであやまらにゃならん様なことをするな」と言って幕が下りた。

 昭和12年6月4日、陸軍が押していた五摂家の名家出身の青年貴族、近衛文麿が首班に任命された。

 満州事変以来、陸軍のもろもろの策謀が実を結び、組閣後一ヵ月も経たないうちに盧溝橋事件が勃発、日中事変へと発展した。

 米内光政大将は近衛内閣で海相として入閣した。次官は山本五十六中将、軍務局長は井上成美少将だった。

 井上少将は、陸軍の押す青年宰相、近衛文麿に対し極めて批判的であった。

 「あんな男は軍人にしたら大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思う」と部内ではっきりいっている。

 「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、井上が軍務局長を務めた期間は、昭和12年10月から14年10月までの二年間である。この期間、米内光政海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長のトリオが最も精力を注いだのが日独伊三国同盟の阻止であった。

 三国同盟阻止に三人の中で最も積極的な姿勢を見せたのが井上軍務局長であった。

 海軍書記官の榎本重次に山本次官が「世間では自分を三国同盟反対の親玉の如くいうも、根源は井上なり」と語ったことがあるという。

 井上自身「思い出の記」の中で次の様に述べている。

 「昭和十二、三、四年にまたがる私の軍務局長時代の二年間は、その時間と精力の大半を三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、ただ陸軍の全軍一致の強力な主張と、これに共鳴する海軍若手の攻勢に対する防御だけに費やされた感アリ」

 陸軍との交渉を続けるうちに海軍部内もほとんどが同盟締結に傾いてきた。結局、海軍で反対しているのは大臣、次官、軍務局長の三人だけということになってしまった。

 主務局長の神重徳中佐は枢軸論者の急先鋒であった。また、当時は外務省でも枢軸派の官僚が増えていた。

125.井上成美海軍大将(5) 艦長が出した命令を艦長が破っていいのか

2008年08月15日 | 井上成美海軍大将
 戦艦比叡の航海中満州国皇帝に供覧のため、合戦準備、戦闘訓練を実施した際、皇帝のお側用人が、あてがわれていた居室の舷窓を閉めさせないと、甲板士官が困って井上艦長へ報告に来た。

 井上艦長は気色ばんで「航海長、両舷停止」「甲板士官、左舷に縄梯子用意」

 訝る艦橋上の面々に、重ねて井上艦長の声が飛んだ。

 「軍艦比叡で艦長の命令を聞かない者は一人もいない。お茶坊主をすぐどこにでも退艦させろ」

 艦は黄海の真ん中で漂泊を始める。これには皇帝の首席随員も驚き、艦橋まで老体を運びやっと事なきを得た。

 戦後、井上はこのことに話が及ぶと「若かったですからね」と苦笑したと言われている。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、井上は「海軍の思い出」の中で次の様に述べている。

 私が「比叡」の艦長をやめて横須賀の参謀長で、水交社で晩飯を食っている時、「比叡」は陛下のお召し艦になるんで乗組員の上陸を禁じてあると聞いた。ところが、現艦長は水交社へ来てメシを食っている。

 私が

 「お前の艦は上陸停止をしているのではないか、上陸停止の命令は誰が出したんだ」

 ときくと

 「艦長が出しました」

 と言う。

 「艦長が出した命令を艦長が破っていいのか」

 と詰問した。そういう艦長がいました。

 後で聞くと、その艦長室の前に兵隊で脱糞した奴がいるっていう話でした。

 それから、ある大将まで行った人ですが、「日向」の艦長でね。艦長が上甲板へ出てくると煙草盆のまわりに輪になって煙草を吸っている士官室の士官たちが、さっさと下へみんな入ってしまう。艦長は下りたか、もう下りました、と聞くと、上に上がってくる。

 その艦長が最後にどこかに転任で艦を去ったとき、兵隊が塩をまいて清めたというのです。そんなことで戦争ができるもんじゃない。ところがそういうのがだんだん目に付くんです。

 以上のように井上は「比叡」の想い出を語っている。

 「井上成美」(新潮文庫)によると、昭和10年11月、井上は海軍少将に昇任し、横須賀鎮守府参謀長に就任した。

 井上が参謀長に就任した時期は、陸軍、海軍の青年将校らの国家改造運動が盛んで不穏な空気が横行していた。

 昭和10年8月12日、軍務局長・永田鉄山陸軍少将は相澤三郎陸軍中佐により軍刀で斬殺された。また、昭和11年2月26日には2.26事件が起きている。

 昭和11年の正月を井上少将は横須賀鎮守府裏の参謀長官舎で迎えた。井上少将はやもめ暮らしの四年目で、家族もいない、人もあまり来ない。お茶の水高女四年生の娘の靚子が休みの時だけ泊まっていく。家事は住みこみの女中に委せてあった。

 官舎の真向いに、横須賀海軍工廠総務部長・山下知彦海軍大佐の官舎があった。来客が多く、賑やかであった。

 年が明けて、女中が井上少将に妙な質問をした「お向かいの山下さんのお宅へ、夜分よく集まってくる方たち、何をしにお見えになるんでございますか」

 井上少将は、週二、三回、私服の海軍士官らしき若者が大勢集まっているのを気づいていた。

 井上少将は女中に、あれは山下さんが若い連中に時局の話など聞かせる修養会だと答え、その上で聞き返した。

 「何故そんなことを私に訊ねるのかね」

 女中は

 「あの人たち、夜おそく帰りぎわに、いつもうちの門のところで立小便をするんです。海軍さんにしてはずいぶん品の無い失礼な方々と思って腹を立てているんです」

 山下知彦海軍大佐は井上少将より兵学校三期下の、大西瀧治郎と同じクラスで、故山下源太郎大将の養子で、山下源太郎大将の爵位を継いだ男爵だった。

124.井上成美海軍大将(4) お父様はけんか早いからね

2008年08月08日 | 井上成美海軍大将
「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、昭和8年3月、伏見宮軍令部長から大角岑夫海軍大臣宛に「軍令部令及省部互渉規定改正」の商議が廻ってきた。

 これは軍令部長が宮様であることを楯に、軍令部次長の高橋三吉中将ら艦隊派が軍令部の権限強化を画策し、軍令部条例と省部互渉規定の改正案を条約派の占める海軍省に提出したものであった。

 軍令部長の伏見宮博恭王から「私の在職中でなければ恐らく出来まい、是非やれ」と言われたからである。

 軍令部からは「省部互渉規定改正案」を起草して検印せよと、反対する井上大佐のところへ毎日のように軍令部の使者がやって来た。

 その使者は軍令部第一班第二課長の南雲忠一大佐だった。南雲大佐は井上大佐より兵学校が一期上だった。

 井上大佐の部屋にきた南雲大佐のせりふは毎回「井上!早く判を押さんか!」だった。

 南雲大佐が机を叩いて要求しても、井上大佐は南雲大佐を静かに見据えるだけだった。

 とうとうしびれを切らした南雲大佐は井上大佐の机に手をかけ

 「井上、貴様のこの机、ひっくり返してやるぞ」と言った。

 「うん、やれよ」

 こんなやり取りを繰り返したあと、南雲大佐は

 「井上、貴様みたいな判らないやつは殺してやるぞ」と言った。

 すると井上大佐は

 「そんな脅しでへこたれるようで、今の私の職務が勤まるか。おい、君に見せたいものがある」

 そう言って遺書をおもむろに机の引き出しから取り出して見せた。

 「俺を殺しても俺の精神は枉げられないぞ」

 後日伏見宮邸で開かれた園遊会の帰りしなに、南雲大佐は酒気を帯びて井上大佐の前にきて凄んだ。

 「井上のばか。貴様なんか殺すの、何でもないんだぞ。短刀で脇腹をざくっとやればそれっきりだ」

 井上大佐は命を掛けて抵抗していたが、宮様の威を借るごり押しに、大角岑生海軍大臣、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長も屈し、残るは井上大佐だけになった。

 寺島軍務局長の「枉げて同意してくれ」との要望も井上大佐は断った。「この案を通す必要があるなら、一課長をを代えたらいいでしょう」

 家に帰った井上大佐は娘の靚子(しずこ)に「海軍を辞めることになると思うが、お前に女学校だけは卒業させる」と言った。

 これに対して靚子は「お父様はけんか早いからね」と答えた。靚子を目に入れても痛くないほど可愛がっていた井上は、ただ苦笑いをしているだけだった。

 当時、靚子は東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)の付属に通っていた。聡明な靚子は父の性格をよく知っていた。また父親思いの控えめな女性であった。

 昭和8年9月20日、井上大佐は横須賀鎮守府付に発令され、二ヵ月後に練習戦艦「比叡」の艦長に転出した。

 昭和8年10月1日、「軍令部令及省部互渉規定改正案」が施行された。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、昭和8年11月15日、井上大佐は戦艦比叡艦長に発令された。

 井上大佐が比叡に着任すると、ロンドン会議反対派、つまり艦隊派の人たちが「井上が比叡艦長になったぞ。あいつは十一年も陸上勤務をやって、それで戦艦の艦長なんか務まるものか」と、悪口を言い出した。

 戦後、井上は、親しい後輩の中山定義(54期・中佐)に、比叡艦長のポストは「三十六期のクラスヘッド、佐藤市郎(兄弟宰相・岸信介・佐藤栄作の長兄)がなるところを、私が取っちゃったもんだから」ねたまれるのもうなずける、という意味のことを語っている。

 戦艦比叡は満州国皇帝のお召し艦を努めた。昭和10年3月25日、戦艦比叡は横須賀を出港し、大連まで皇帝を迎えに行き、4月6日横浜に入港。4月23日神戸港から皇帝を大連まで送り、5月4日、横須賀に帰港している。

 この航海中、井上の性格を顕著にする事件が起きた。

123.井上成美海軍大将(3) もし海軍をやめたら、金をつくって自動車を買い、円タク屋になる

2008年08月01日 | 井上成美海軍大将
 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、大正11年12月1日、井上は海軍大学校第二十二期甲種学生となった。

 この時井上は少佐で32歳であった。

 井上は大正7年からスイス国駐在、ドイツ、フランス国駐在と海外赴任が続き、大正11年2月に帰国した。

 帰国後すぐに海軍大学校甲種学生の採用試験が行なわれた。当時海軍大学校甲種学生の受験資格は「海軍大尉任官後六ヵ年以内の者」という条件があった。

 だが、井上は大正4年12月、26歳で大尉になり、大尉の三年目から海外駐在が始まり大正11年に帰国した時は少佐で大尉昇進から6年以上経過していた。

 ところが井上の海外駐在中の大正9年4月29日、達七九号により、海軍大学校甲種学生の受験資格が「但し、駐在または外国出張のため、全く受験の機会なかりし者は前項の年限を七ヵ年となすことを得」と改正された。

 帰国後、井上は同僚から

 「井上、甲種入学の規則が変わったのは、貴様のためだって評判だよ」

 と言われた。

 では井上の甲種学生採用試験の成績はどうであったか。

 井上は朝日ジャーナル昭和51年1月16日号「海軍の思い出」で次の様に語っている。

 「二十人の学生を採る場合、まず、筆頭試験は及第として口頭試験に呼ぶのは四十人。ところが、私は、筆頭の試験が六十番だった」

 「銓衡委員の一人が『おまえは六十番だった。けれども、外国へ行っていて勉強するひまがなかったのだろう。口頭試験に呼んでみようという会議の結果だったので、おまえ、呼ばれるよ』と教えてくれた」

 「それで、学校当局もあてにしなかったのに、口頭試験は一番でした」

 こうして井上の甲種学生の合格が決まった。

 そのころ井上は

 「もし海軍をやめたら、金をつくって自動車を買い、円タク屋になる」

 と言っていた。

 もし甲種学生が不合格だったら、海軍大将ではなく、円タク屋の井上が生まれていたかも知れない。

 大正13年12月1日、第二十二期甲種学生卒業式で二十一名中、恩賜の軍刀をもらったのは井上ではなく、首席の岡新(兵学校40期)と次席の阿部勝雄(兵学校40期)であった。

 岡新(おか・あらた)は海軍兵学校も首席の秀才であったが、将官になってからは中央勤務は少なく、上海在勤海軍駐在武官や第三南遣艦隊司令長官、大阪海軍警備府長官などで終戦を迎えた。

 阿部勝雄は後に井上軍務局長の後任として軍務局長になった。

 当時、井上軍務局長が、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国同盟に真っ向から反対し阻止しようとした。

 だが後任の阿部勝雄軍務局長になると、その締結に一役買っている。

 中沢祐海軍中将は戦後「海大トップが国を滅ぼした。教官にフォローするばかりで、独創性のないのが海軍を牛耳ったからだ」と批判的に述べている。

 昭和2年11月、井上中佐はイタリア駐在武官としてイタリアに赴任した。イタリアは第一次大戦後経済が混乱し、失業者が続出、治安も悪かった。

 このときムッソリーニがファシスト党を率いて立ち上がり、大正11年11月ムッソリーニ政権を樹立した。ムッソリーニは独裁政治で軍事力を強化、ファッショ的傾向を強めていた。

 井上中佐が駐在武官として赴任したイタリアは、ムッソリーニ政権での軍事力も充実しつつあった。

 ローマの井上中佐のところへイタリア海軍省発行の広報を、毎日、イタリア水兵が届けに来た。

 その度にメイドから心付けを水兵に渡していた。すると、広報が二枚あると、一枚づつ、二度に分けて持ってきたりした。

 また水兵たちの福祉のためといって、イタリア水兵が音楽会の切符を売りに来た。

 井上中佐はメイドに命じて買ってやった。ところがあとで日付を見ると、すでに二日前に終っている切符だった。

 ムッソリーニ配下の黒シャツ義勇軍の市中行進を見に行き、にわか雨に見舞われた。

 日本の帝国海軍では雨が降っても「ゆっくり濡れて来い」だったが、義勇軍の兵士は我先に寺院や店の中に逃げ込んでしまった。

 イタリア陸軍の演習の時、二、三の兵士が空に向けてポンポン撃っている。

 「敵はどこ」と聞くと、

 「知りません」と平気な顔。

 その後ろのほうでは、十数人の兵士があぐらを組んで梨をかじっていたという。

 井上中佐はこのような感心できない国民性と、ムッソリーニのファッショ政治が肌に合わず、ストレスを感じた。またがっかりしたといわれている。