陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

588.桂太郎陸軍大将(8)この会議で討幕派が破れた場合、公議政体派を皆殺しにする

2017年06月30日 | 桂太郎陸軍大将
 桂太郎は、でっぷり太り、その上に福助のような頭を載せていた。体が不格好のように、手先も不器用だった。主君の髪を結うときは、いつも不出来だった。それでも主君は黙っていた。

 ある日、桂が元徳に御給仕をしている時、誤って、しじみ汁の椀をひっくり返してしまった。その場にいた一座の者たちは顔色もないありさまとなった。

 桂も、どんなに叱られるかと、ひたすら恐縮していた。恐れ入って、畳の上に福助頭をすりつけて、罪を待った。ところが、元徳は、桂を叱責することはなかった。後に元徳は、納戸役の者に次のように言った。

 「桂は元来小姓役の如き職務をいさぎよしとするものではない。これからは俗務に従う必要はない。学館に入り、勉学するように」。

 これを聞いた桂は感激し、以後勉学に励み、誓ってこの恩遇に報いたいと決心した。桂は、御小姓の役は、そのままで、文学寮員外生として、隔日ごとに一里の道を往復して、藩校・明倫館で文武の業を修めた。

 慶応三年十一月末、桂太郎は京都偵察の命を受け、藩兵二百人を率いて上京した。

 「山河ありき」(古川薫・文藝春秋・平成11年)によると、十月十四日将軍・徳川慶喜が大政奉還を奏上し、長州藩の京都追放が解けるものと、朝廷からの沙汰を待っていたが、一向に動きがないので、そのための偵察上京だった。

 当時、薩摩の陣営は相国寺にあり、西郷隆盛(さいごう・たかもり・鹿児島・薩摩藩士・藩主島津斉彬の側近になる・斉彬の急死で失脚・奄美大島に流される<三十歳>・復帰するが島津久光により沖永良部島に再び流罪・大久保利通らの尽力で復帰・禁門の変以降活躍・薩長同盟や王政復古に成功・江戸総攻撃前に勝海舟と交渉し中止<四十歳>・維新後参議・陸軍大将・近衛都督・陸軍元帥<四十四歳>・征韓論で敗れ下野・鹿児島に帰郷<四十五歳>・私学校教育・西南戦争で敗れ自刃<四十九歳>・正三位)がいた。

 十一月九日夜、桂太郎は、相国寺に行き、世子・定広(元徳)から授けられた主命を、西郷隆盛に告げて状況をたずねた。

 だが、その日は「王政復古の大号令」が発せられており、次の二人を中心に会議がもめている最中だった。

 土佐藩藩主・山内容堂(やまうち・ようどう・土佐藩十五代藩主・藩政改革を断行・幕末の四賢侯・安政の大獄後隠居願を幕府に提出・幕府より謹慎の命・公武合体派・薩土盟約・徳川家擁護・維新後議定・内国事務総裁<四十一歳>・従二位権中納言・学校知事<四十二歳>・麝香間祗候・正二位・橋場の別邸=綾瀬草堂で隠居・薨去<四十五歳>・従一位)。

 薩摩の代表・大久保一蔵(おおくぼ・いちぞう=大久保利通・鹿児島・薩摩藩士・藩の記録所書役助<十六歳>・徒目付・精忠組領袖・斉彬の死後失脚・勘定方小頭格・御小納戸役・公武合体路線・御小納戸頭取<三十二歳>・島津久光の側近・御側役・四侯会議・武力討幕路線に指向・薩土同盟破棄・三藩盟約・王政復古後参与<三十七歳>・維新後参議<三十九歳>・維新の三傑・大蔵卿<四十一歳>・征韓論で西郷隆盛を失脚させる・内務卿<四十三歳>・台湾出兵後全権弁理大臣・西南戦争で政府軍を指揮<四十七歳>・暗殺される<四十八歳>・従一位・勲一等旭日大綬章)。

 会議は、幕府擁護にまわって「公議政体論」を唱える土佐の山内容堂らと、討幕派である薩摩の大久保一蔵が大論争し、もめていたのだ。

 西郷隆盛はこの会議で討幕派が破れた場合、公議政体派を皆殺しにするつもりだった。だが、会議は夜明け近くまで続き、ついに公議政体派を抑えた討幕派は、徳川慶喜の納地・辞官を決めて終了した。

 西郷隆盛は、桂太郎に「長州藩公父子の官位を復す詔勅が出ましたぞ。即刻上京せよとのことでごわす。すぐに発たれよ」と促した。

 京都には、激昂した幕府の兵が各所にたむろしていたので、二百名の藩兵は薩摩軍と共に残し、桂太郎は、その詔勅を持って密かに、帰国の途につくことにした。

 桂には、木梨精一郎(きなし・せいいちろう・山口・長州藩士・東海道鎮撫総督参謀・奥州鎮撫総督参謀・仙台追討総軍監・維新後軍功により四五〇石・長州藩兵第一大隊長・維新後陸軍少丞<二十七歳>・内務少丞・陸軍歩兵中佐<三十二歳>・内務少書記官・長野県知事・元老院議官・貴族院議員<四十五歳>・男爵<五十一歳>)が同行することになった。

 二人が山陽道に出て、兵庫に着いたのは黄昏の頃だった。そのまま夜を徹して淡い月明かりの道を明石に向かう途中、「何者だろう。相国寺からずっと尾行してきている。淀川の船でも一緒だった」と、木梨が桂にささやいた。

 振り向くと人影が二つ見えた。桂と木梨は、そのまま足を早めて明石に着き、駅吏に早駕籠の手配を頼んでいると、先ほどの二人がやって来た。









587.桂太郎陸軍大将(7)この怪物と闘い続けること数刻、壽熊は遂にこの怪物を討ち取った

2017年06月23日 | 桂太郎陸軍大将
 母はこれに答へて、誰も我が家に刀を遺れたる者なしと云ひたまひしかど、其刀は貴家に在るに相違なしと、使の云ひて已まざれば、母は、我が児の塾より帰りしとき、一口の刀を携へ帰りしが、誰が来り請ふとも、決して返したまふなと託し置きて、我が児は出で行きたり、其刀は今我手に在れド、そはもとより我が家に人の遺れたりしものにはあらずと答へられたり。

 然るに、やがて其家より再び使して云はしめて曰く、前に遺れたりと申しゝは、全く豚児の虚言なりき、実は途中にて甚だしき不都合の所為ありて、令息の為に刀を奪はれたるゆ由申し出でたるにより、厳に豚児を懲らし戒め候ひぬ、但し刀を奪われたりといふこと、世の聞こえも如何なれば、枉げて還したまはんことをひたすら請ひ申すなりと、懇ろに頼み聞えければ、母は、曩には、遺れたる刀など申さるればこそ、還すことを拒みたるなれ、世話にも武士は相見互いと云はずや、不都合を詫びて返付せよと求めらるゝ上は、還し申すべし、再びかゝることなきやう戒められよとて、其刀を返し与へ、我が帰るに及びて其顛末を告げたまへり。

 「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文藝春秋・平成27年)によると、壽熊(桂太郎)は、隣家の農業、末松の倅、権六と終日泥まみれになって戯れるのを常としていた。末松は農事を手伝わないのを怒り、権六をひどく叱った。

 権六は父から叱られたのを怒り、壽熊と共に、自分の家の積藁(つみわら)に火をつけ、燃やそうとした。だが、ボヤの段階で、日は消し止められ、大事にはならなかった。

 父の末松は、権六と壽熊を捕らえ、罰を加えようとした。すると、壽熊は、たちまち謝ってしまった。詳細は不明だが、壽熊は、手をつき泣きながら許しを乞うたのであろうと言われている。

 当時、武士たるものの子が、百姓のおやじに、手をついて謝るとは、よくよくのことだった。この恥ずかしさは、桂太郎は終生忘れなかった。

 後に、桂太郎が出世して、郷里に帰省した際、当時まだ生きていた末松を招き、「あの時、お前が許してくれなかったら、俺も今の地位に進まなかったろう。今日あるは、お前のお陰だ。お互い長命でめでたい。まあ、一杯いこう」と言って盃をさしたと言われている。
 
このことが、彼の故郷では、故郷に錦を飾った成功美談として、伝えられている。だが、川島村には、もう一つ、次の様な桂太郎の美談伝説が語られている。

 村に山王の社があった。樹木がこんもり茂って、ものすごい環境だった。ある日、壽熊が村の子供たちと境内で遊んでいると、空が突然曇りだし、何が何だか分からないうちに暗くなった。

 たちまち、社殿が振動し、天地も傾くかと思っていると、一個の怪物が、拝殿の下に墜ちてきた。二尺(約六〇センチ)あまりの髪の毛を振り乱し、灰皿のような眼玉をいからし、牙をかみ、襲いかかってきた。

 恐れて、子供たちは散り散りになって逃げ去ってしまった。だが、壽熊だけは、逃げずに、その場に踏み止まり、腰の刀を抜き放った。

 この怪物と闘い続けること数刻、壽熊は遂にこの怪物を討ち取った。急を聞いて駆け付けた村人達が、恐る恐るこの怪物の死骸を調べてみたら、世にも珍しいアカシャグマという怪獣だった。

 それ以来、これを「桂の若様のアカシャグマ退治」といって、その地方に言い伝えられている。桂太郎は後にこの社地を買収、記念碑を建てた。

 記念碑の碑文は、桂太郎自らが次のように記しているのだが、アカシャグマ退治のことは全く記していない。

 「郷人社址ノ湮滅ヲ恐レ相議シテ其地ヲ挙ゲ之ヲ予ニ賜リ保存ノ事ヲ委セントス余実ニ川島ニ生レ家社址ニ近シ垂髫ノ時常ニ此ニ嬉遊セリ老蒼ノ樹清冽ノ淵祠宇ヲ囲繞スルノ光景今尚眼底二在リ」。

 慶応二年当時、長州藩の藩主は毛利敬親(もうり・たかちか・家督を相続し長州藩藩主となる・侍従・左近衛権少将・従四位上・左近衛権中将・参議・禁門の変で朝敵となる・敬親父子の蟄居の幕命・幕府と交渉決裂・第二次長州征伐=四境戦争・従四位上参議に復位復職・維新後従三位・左近衛権中将・従二位・権大納言・明治四年薨去・従一位・正一位)だった。

 また、藩主の世子(せいし)は毛利元徳(もうり・もとのり・徳山藩第八代藩主毛利広鎮の十男・毛利敬親の養子となる・禁門の変で兵を率い京に向かう・幕府により官位剥奪・維新後議定に就任・父敬親の隠居で跡を継ぐ・従三位・参議・版籍奉還で知藩事に就任・廃藩置県で免官・上京・第十五国立銀行頭取・貴族院議員・公爵・従一位・勲一等旭日桐花大綬章・国葬)だった。

 慶応二年、桂太郎は世子・毛利元徳の御前詰となり、御小姓を命ぜられ、近侍としての任務にあたった。だが、桂は密かに有為の志を抱いていたので御小姓の務めに満足しなかった。
 
 藩主・毛利敬親、その子である元徳の桂に対する信は厚く、桂もよくその任務を果たした。小姓の勤めは、主君の食膳の給仕、髪結い、さかやき剃り、その他身の回りの一切の世話だった。




586.桂太郎陸軍大将(6)負けてなるものかと、壽熊はさらに二十四枚張の紙鳶を作った

2017年06月16日 | 桂太郎陸軍大将
 「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂太郎は、桂家の先祖を次のように記している。

 我が桂家の遠祖は、参議従三位大江朝臣音入なり。音入十代の孫を前陸奥守正四位下広元とし、広元十代の孫を桂左衛門尉広澄とす。広澄は桂家の祖にして、我は広澄十一代の孫なり。

 また、「桂太郎」(小林三千彦・ミネルヴァ書房・平成18年)では、次の様に述べられている(要旨)。

 桂家の遠祖は鎌倉幕府の政所別当・大江広元だと伝えられている。広元の第四子が毛利氏の祖、季光(すえみつ)である。つまり、桂家と毛利家は大江氏を同祖としているのだが、その後分かれて主従関係を結ぶに至っている。

 桂家は代々、武勇の誉れ高い家柄で、元祖廣澄は毛利広元から元就に至る四代に仕え、各地の戦役に従っている。

 廣澄の長子、元澄は、陶晴賢との戦いで大いに軍功を挙げ、天文二十三年(一五五四年)五月櫻尾城主に封ぜられた。

 元澄には男子が七人あったが、桂家は、第五子である廣繁の嫡流であり、代々毛利家に仕え、桂太郎の祖父、繁世は、馬廻役(一二五石)だった。
 
 萩藩では、録一五〇石以上の者でなくては、物頭、使番などの表役には就けなかった。従って、桂の父、与一右衛門は、祐筆に始まり、世子(元徳)の所帯をつかさどる御用所で終わっている。

 だが、伊藤博文(貧農)、山縣有朋(下級士族)の出自に比べれば、毛利家の家臣団における位置は、はるかに高い。

 「桂太郎」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)によると、桂太郎の父、与一右衛門は、祐筆、検疫、大検疫、軍艦製造用掛、海防用掛、世子の御用所、船木の代官などを勤めた。
 
 桂太郎は、少年の頃から負けず嫌いの気性だった。壽熊(桂太郎の幼名)は、紙鳶(たこ=凧)あげをして遊ぶのが大好きだった。

 ある日、広折六枚張の紙鳶を作った者がいた。すると、壽熊は負けぬ気を起こして、その倍の十二枚張の紙鳶を作って揚げた。

 今度は、それを真似て、同じく十二枚張のものを作った者があったので、負けてなるものかと、壽熊はさらに二十四枚張の紙鳶を作った。とうとうそれにはかなわないと、もう誰も壽熊に真似る者はいなかった。

 当時の人々は、壽熊の負けず嫌いは、「川島の三勇女」の一人である、壽熊の母・喜代子の気質を受け継いだものだと評していた。

 「近代政治家評伝―山縣有朋から東條英機まで」(阿部眞之助・文藝春秋・平成27年)によると、桂太郎の母、喜代子は長州藩、中谷氏の娘で、やせ形の四尺(約一二一センチ)そこそこの小柄の女で、現存する写真によると、髪が薄く、眼が凹(くぼ)み、奥の方に瞳が光っていた。

 鼻筋が通り、キリッと口元が締り、美人ではないが凄味があった。表情の如く、意志が強く、負け嫌いだった。萩の人々は、赤川、江木両家の女房と、喜代子とを併せて、「川島の三勇女」と言った。

 川島村とは、桂太郎が成長した萩城下の、一である。川島村には士族屋敷と農家とが、アイ接して居住していた。

 「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂太郎は、母、喜代子について、次の様に記している。

 我が幼き頃、母の常に語りたまひけるやう、汝が両親たる我等は、かくてこそ世を終ふるべきなれ、我が児等は何とぞ人らしき人となれかしとは、我等の希ふ所なり、わけて汝は嫡子にて桂家を嗣ぐべきなれば、及ぶだけの教育を施さゞるべからず、汝を十分に教育する上は、弟妹は汝自らこれを教養すべき手だてをなせよ、我が深く心を費すべきにあらずと宣へり。

 また、同書で、桂太郎は、幼少時に起きた、ある事件における、母の思い出を、次のように書き記している。

 我が母の端正にておはせし一例を記せば、或時学塾よりの帰途、或友と争ひしに、其友は刀を以て我に向ひければ、我は其刀を奪ひ取りてこれを家に持ち帰れり。
 
 既にしてまた出でゝ遊泳せんとするに臨み、母にこれを渡して、若し人の来りて請ふことありとも、決して此刀を返し与へたまふなと話し置きたるが、果たして我の未だ帰らざるに、前の友なる家より使して、今日自家の子が刀を遺れたれば、返付せらるべしと云はしめたり。

585.桂太郎陸軍大将(5)ニコニコ笑いながらポンと背中を叩くと、誰もがぐにゃとなって

2017年06月09日 | 桂太郎陸軍大将
 「桂太郎―予が生命は政治である」(小林道彦・ミネルヴァ書房・平成18年)の「あとがき」で、著者の小林道彦は、次のように述べている(一部抜粋)。

 「桂太郎の評伝を書くことになった」とある大学の教員に話したら、彼は事もなげに「ああ、あのニコポン宰相ですか」と応えた。

 おいおい君は専門的研究者なんだろう、とその紋切り型の反応に内心やや唖然としながらも、わたしは、桂に対する特定のイメージが牢固として存在していることをあらためて痛感させられた。

 それにしても、「ニコポン」とは何とも軽い表現である。それは、ニコニコ笑ってポンと肩をたたくという、桂一流の人心掌握術に対する揶揄的表現であるが、いったん面と向かってこれをやられると、桂に対して敵意を持っていた人間すらも、何となく和んだ気分になってしまったという。

 もっとも、桂は若い頃から「ニコポン」であったわけではない。明治一九年陸軍紛議の頃の桂は、四将軍派を打倒した得意満面の軍官僚であり、その自信過剰ぶりに不快感を催す者も多かった。

 ところが、その後の左遷人事と弟二郎の借財による桂家存亡の危機が彼を変えたようである。桂がこの危機的状況を乗り切れたのは、もちろん第一義的には桂本人の努力の賜物であるが、井上馨や品川弥次郎、児玉源太郎といった郷里の先輩・友人の物心両面にわたる支援によるところも大きかった。

 そしてこの頃から桂の自信過剰ぶりは蔭をひそめ、むしろ「ニコポン」的な人当たりのよさが前面に出てくるのである。

 人は一人で生きていけるものではないということを痛感させられた時、桂の内面でなんらかの変化が生じたのであろう。そしてそれは、桂が軍官僚から政治家へと転身する、その過程を精神的に支えたのであった。
 
 【千葉功(ちば・いさお)】昭和四十四年生まれ。千葉県出身。平成五年東京大学文学部国史学科卒業。平成十二年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、文学博士。昭和女子大学人間文化学部歴史文化学科准教授を経て、平成二十三年から学習院大学文学部史学科教授。専攻は日本近現代史。歴史学者。

 著書は、「旧外交の形成―日本外交1900-1919」(勁草書房・平成20年)、「桂太郎―外に帝国主義、内に立憲主義」(中公新書・平成24年)など。

 「桂太郎―外に帝国主義、内に立憲主義」(千葉功・中公新書・平成24年)の「はじめに」で著者の千葉功は、次のように述べている(一部抜粋)。

 桂のあだ名は大きく二つに分かれる。一つは、桂のおおきさにちなむものである。「福助」「才槌」「臼」「巨頭翁」「大顔児」「大きな赤ん坊」などがそれである。

 桂は原子物理学者の仁科芳雄に破られるまで日本人脳髄の重さの最高記録を持っていたという。

 もう一つは、桂の政治スタイルにちなむものである。たとえば、いちばん有名なものに「ニコポン」がある。これは、次のような光景に由来するものであった。

 応接室へ通され、しばらくというので、茶をすすりながら、待っていた。やがて廊下にあし音がしたと思う間に、公(公爵、すなわち桂のこと)は微笑満面、不断着に、兵古帯をぐるぐると巻きつけた無雑作な姿で、「やあ、おはよう」と、そのまま私の前へ、坐り込まれた。

 そうして着物の上から臍下を、ごしごし掻きながら、「君、年をとるといかんぞ、昨夜も、夜ふかしをしょったが、どうもひどく体にこたえてね」と、爆発するような大笑。

 それから「一しょに飯でも。食おうじゃないか。君と議論すりゃ負けるから、勝はまず、君に譲っておくとして、まあゆっくりしたまえ。別にさしつかえないんだろう」と、早くも公は、私のしかみっつらを一瞥して、事面倒と感ずくや得意の一手で、みごと先を越されたのだ。

 こういう加才ない公の長子にかかっては、何人がどんなに激しても、しょせん、切り込みようはあるまい。(片岡直温『回想録』)

 このように、「ニコポン」とは、桂が相手を説得するとき、ニコニコ笑いながらポンと背中を叩くと、誰もがぐにゃとなって、丸めこまれたことにもとづく。

 片岡直温(かたおか・なおはる)は、高知県出身。滋賀県警部長、内務省を経て、日本生命保険会社副社長、同社社長、都ホテル社長を歴任。その後衆議院議員、桂太郎の立憲同志会に参加。商工大臣(加藤内閣)、大蔵大臣(若槻内閣)を務めた。実業家、政治家。

 桂太郎は弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)、長州萩平安古町、川島村の士族屋敷で、桂与一右衛門の長男として生まれた。幼名を壽熊(ひさくま)、のち太郎と改めた。

584.桂太郎陸軍大将(4)桂こそ近代日本最大の国難、日露戦争を成功裏に処理した最高的功労者

2017年06月02日 | 桂太郎陸軍大将
 【宇野俊一(うの・しゅんいち)】昭和三年十二月二十日生まれ。香川県出身。東京大学文学部国史学科卒業。千葉大学教授。千葉大学名誉教授。歴史学者。平成二十四年七月二十六日死去。享年八十四歳。

 著書は、「日本の歴史26・日清・日露」(小学館・昭和51年)、「明治国家の軌跡」(梓出出版・平成6年)、「桂太郎(人物叢書)」(吉川弘文館・平成18年)、「明治立憲体制と日清・日露」(岩田出版・平成24年)など。

 「桂太郎(人物叢書)」(宇野俊一・吉川弘文館・平成18年)の「はしがき」で著者の宇野俊一は、次の様に述べている(一部抜粋)。

 桂は、大きな頭と、ふとった体躯にふっくらとした顔付から、俊敏という外見はなく、いつもニコニコと笑顔で接し、肩をポンと叩いて親しみを表現することから「ニコポン」宰相とあだなされた。

 確かに、その外貌や対人スタンスは柔和で円満そうであったが、ドイツを範型とする明治陸軍を確立し、陸軍大臣を長く勤め、明治後半期の困難な時代の首相として、三度にわたり政局を運営した人物を、幸運と凡庸という評語で規定することはできない。

 【渡部由輝(わたなべ・よしき)】昭和十六年生まれ。秋田県出身。東京大学工学部卒業。予備校数学教師。教師をしながら、数学関係の参考書・問題集・啓蒙書等の著述に従事。また、戦史も研究、著書もある。

 著書は、「数学は暗記科目である」(原書房・昭和59年)、「数学はやさしい」(原書房・昭和61年)、「コンピュータ時代の入試数学」(桐書房・平成25年)、「数学者が見た二本松戦争」(並木書房・平成23年)、「宰相桂太郎」(光人社NF文庫・平成27年)など多数。

 「宰相桂太郎」(渡部由輝・光人社NF文庫・平成27年)の「はじめに」で著者の渡部由輝は、次の様に述べている(一部抜粋)。

 国家の最高指導者としてその“辛勝”を主導したという一事だけをもってしても、桂の功績は大きい。その意味では、近代日本における最高的功労者といってもおかしくないのではないか。

 にもかかわらず、今日、桂の評価はあまりかんばしいものではない。「ニコポン首相」が通り名になっている。元老たちに媚へつらい、阿諛追従的態度で接したりして権力の座に昇りつめた二流的人物ということである。

 だが、そのていどの小人物に史上最長期間、しかも近代史上もっとも重要な時期に、国家のかじ取りを託すほど、日本民族はおめでたい人種なのだろうか。桂にそれだけの器量があったということではないのか。

 さらに、「宰相桂太郎」(渡部由輝・光人社NF文庫・平成27年)の「あとがき」で著者の渡部由輝は、次の様に述べている。

 今日、わが国のあるレベル以上の知識人で、桂太郎の名を知らない人はまずいないでしょう。近代日本史関係の著作物には、山県有朋率いる軍閥族や藩閥族の一員、さらに日露戦争時の首相として、必ず登場します。

 ただし、それ以上のこと、桂がその山県閥の一構成分子としていかなる活動を行なったのか、日露戦争の遂行にあたりどのような役割を果たしたのかまで知悉している日本人も、あまりいないのではないでしょうか。

 せいぜい「“ニコポン首相”ていどの認識ではないかと思われます。幇間的態度で元老たちを懐柔したりして政界や軍界を遊泳し、首相の座まで登りつめた“二流的人物”ということです。

 実をいうと、数年前まで私もそうでした。桂に対するそういった認識が改めさせられたのはあるきっかけからでした。

 先般、私は「数学者が見た二本松戦争(並木書房)を上梓しました。そのさい、戊辰東北戦争という“無用の戦争”の早期終結にあたり、桂が重要な役割を果たしていることを知り、あらためてその事績を調べているうち、桂こそ近代日本最大の国難といえる日露戦争を成功裏に処理するにさいしての、最高的功労者としておかしくないとの結論に至り、本稿の誕生となった次第なのです。

 【小林道彦(こばやし・みちひこ)】昭和三十一年生まれ。埼玉県出身。中央大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。京都大学博士(法学)。北九州市立大学法学部教授。同大学基盤教育センター教授。専門は日本政治外交史。歴史学者、政治学者。

 著書は、「日本の大陸政策1895―1914」(南窓社・平成8年)、「桂太郎―予が生命は政治である」(ミネルヴァ書房・平成18年)、「児玉源太郎―そこから旅順は見えるか」(ミネルヴァ書房・平成24年)など多数。