桂太郎は、でっぷり太り、その上に福助のような頭を載せていた。体が不格好のように、手先も不器用だった。主君の髪を結うときは、いつも不出来だった。それでも主君は黙っていた。
ある日、桂が元徳に御給仕をしている時、誤って、しじみ汁の椀をひっくり返してしまった。その場にいた一座の者たちは顔色もないありさまとなった。
桂も、どんなに叱られるかと、ひたすら恐縮していた。恐れ入って、畳の上に福助頭をすりつけて、罪を待った。ところが、元徳は、桂を叱責することはなかった。後に元徳は、納戸役の者に次のように言った。
「桂は元来小姓役の如き職務をいさぎよしとするものではない。これからは俗務に従う必要はない。学館に入り、勉学するように」。
これを聞いた桂は感激し、以後勉学に励み、誓ってこの恩遇に報いたいと決心した。桂は、御小姓の役は、そのままで、文学寮員外生として、隔日ごとに一里の道を往復して、藩校・明倫館で文武の業を修めた。
慶応三年十一月末、桂太郎は京都偵察の命を受け、藩兵二百人を率いて上京した。
「山河ありき」(古川薫・文藝春秋・平成11年)によると、十月十四日将軍・徳川慶喜が大政奉還を奏上し、長州藩の京都追放が解けるものと、朝廷からの沙汰を待っていたが、一向に動きがないので、そのための偵察上京だった。
当時、薩摩の陣営は相国寺にあり、西郷隆盛(さいごう・たかもり・鹿児島・薩摩藩士・藩主島津斉彬の側近になる・斉彬の急死で失脚・奄美大島に流される<三十歳>・復帰するが島津久光により沖永良部島に再び流罪・大久保利通らの尽力で復帰・禁門の変以降活躍・薩長同盟や王政復古に成功・江戸総攻撃前に勝海舟と交渉し中止<四十歳>・維新後参議・陸軍大将・近衛都督・陸軍元帥<四十四歳>・征韓論で敗れ下野・鹿児島に帰郷<四十五歳>・私学校教育・西南戦争で敗れ自刃<四十九歳>・正三位)がいた。
十一月九日夜、桂太郎は、相国寺に行き、世子・定広(元徳)から授けられた主命を、西郷隆盛に告げて状況をたずねた。
だが、その日は「王政復古の大号令」が発せられており、次の二人を中心に会議がもめている最中だった。
土佐藩藩主・山内容堂(やまうち・ようどう・土佐藩十五代藩主・藩政改革を断行・幕末の四賢侯・安政の大獄後隠居願を幕府に提出・幕府より謹慎の命・公武合体派・薩土盟約・徳川家擁護・維新後議定・内国事務総裁<四十一歳>・従二位権中納言・学校知事<四十二歳>・麝香間祗候・正二位・橋場の別邸=綾瀬草堂で隠居・薨去<四十五歳>・従一位)。
薩摩の代表・大久保一蔵(おおくぼ・いちぞう=大久保利通・鹿児島・薩摩藩士・藩の記録所書役助<十六歳>・徒目付・精忠組領袖・斉彬の死後失脚・勘定方小頭格・御小納戸役・公武合体路線・御小納戸頭取<三十二歳>・島津久光の側近・御側役・四侯会議・武力討幕路線に指向・薩土同盟破棄・三藩盟約・王政復古後参与<三十七歳>・維新後参議<三十九歳>・維新の三傑・大蔵卿<四十一歳>・征韓論で西郷隆盛を失脚させる・内務卿<四十三歳>・台湾出兵後全権弁理大臣・西南戦争で政府軍を指揮<四十七歳>・暗殺される<四十八歳>・従一位・勲一等旭日大綬章)。
会議は、幕府擁護にまわって「公議政体論」を唱える土佐の山内容堂らと、討幕派である薩摩の大久保一蔵が大論争し、もめていたのだ。
西郷隆盛はこの会議で討幕派が破れた場合、公議政体派を皆殺しにするつもりだった。だが、会議は夜明け近くまで続き、ついに公議政体派を抑えた討幕派は、徳川慶喜の納地・辞官を決めて終了した。
西郷隆盛は、桂太郎に「長州藩公父子の官位を復す詔勅が出ましたぞ。即刻上京せよとのことでごわす。すぐに発たれよ」と促した。
京都には、激昂した幕府の兵が各所にたむろしていたので、二百名の藩兵は薩摩軍と共に残し、桂太郎は、その詔勅を持って密かに、帰国の途につくことにした。
桂には、木梨精一郎(きなし・せいいちろう・山口・長州藩士・東海道鎮撫総督参謀・奥州鎮撫総督参謀・仙台追討総軍監・維新後軍功により四五〇石・長州藩兵第一大隊長・維新後陸軍少丞<二十七歳>・内務少丞・陸軍歩兵中佐<三十二歳>・内務少書記官・長野県知事・元老院議官・貴族院議員<四十五歳>・男爵<五十一歳>)が同行することになった。
二人が山陽道に出て、兵庫に着いたのは黄昏の頃だった。そのまま夜を徹して淡い月明かりの道を明石に向かう途中、「何者だろう。相国寺からずっと尾行してきている。淀川の船でも一緒だった」と、木梨が桂にささやいた。
振り向くと人影が二つ見えた。桂と木梨は、そのまま足を早めて明石に着き、駅吏に早駕籠の手配を頼んでいると、先ほどの二人がやって来た。
ある日、桂が元徳に御給仕をしている時、誤って、しじみ汁の椀をひっくり返してしまった。その場にいた一座の者たちは顔色もないありさまとなった。
桂も、どんなに叱られるかと、ひたすら恐縮していた。恐れ入って、畳の上に福助頭をすりつけて、罪を待った。ところが、元徳は、桂を叱責することはなかった。後に元徳は、納戸役の者に次のように言った。
「桂は元来小姓役の如き職務をいさぎよしとするものではない。これからは俗務に従う必要はない。学館に入り、勉学するように」。
これを聞いた桂は感激し、以後勉学に励み、誓ってこの恩遇に報いたいと決心した。桂は、御小姓の役は、そのままで、文学寮員外生として、隔日ごとに一里の道を往復して、藩校・明倫館で文武の業を修めた。
慶応三年十一月末、桂太郎は京都偵察の命を受け、藩兵二百人を率いて上京した。
「山河ありき」(古川薫・文藝春秋・平成11年)によると、十月十四日将軍・徳川慶喜が大政奉還を奏上し、長州藩の京都追放が解けるものと、朝廷からの沙汰を待っていたが、一向に動きがないので、そのための偵察上京だった。
当時、薩摩の陣営は相国寺にあり、西郷隆盛(さいごう・たかもり・鹿児島・薩摩藩士・藩主島津斉彬の側近になる・斉彬の急死で失脚・奄美大島に流される<三十歳>・復帰するが島津久光により沖永良部島に再び流罪・大久保利通らの尽力で復帰・禁門の変以降活躍・薩長同盟や王政復古に成功・江戸総攻撃前に勝海舟と交渉し中止<四十歳>・維新後参議・陸軍大将・近衛都督・陸軍元帥<四十四歳>・征韓論で敗れ下野・鹿児島に帰郷<四十五歳>・私学校教育・西南戦争で敗れ自刃<四十九歳>・正三位)がいた。
十一月九日夜、桂太郎は、相国寺に行き、世子・定広(元徳)から授けられた主命を、西郷隆盛に告げて状況をたずねた。
だが、その日は「王政復古の大号令」が発せられており、次の二人を中心に会議がもめている最中だった。
土佐藩藩主・山内容堂(やまうち・ようどう・土佐藩十五代藩主・藩政改革を断行・幕末の四賢侯・安政の大獄後隠居願を幕府に提出・幕府より謹慎の命・公武合体派・薩土盟約・徳川家擁護・維新後議定・内国事務総裁<四十一歳>・従二位権中納言・学校知事<四十二歳>・麝香間祗候・正二位・橋場の別邸=綾瀬草堂で隠居・薨去<四十五歳>・従一位)。
薩摩の代表・大久保一蔵(おおくぼ・いちぞう=大久保利通・鹿児島・薩摩藩士・藩の記録所書役助<十六歳>・徒目付・精忠組領袖・斉彬の死後失脚・勘定方小頭格・御小納戸役・公武合体路線・御小納戸頭取<三十二歳>・島津久光の側近・御側役・四侯会議・武力討幕路線に指向・薩土同盟破棄・三藩盟約・王政復古後参与<三十七歳>・維新後参議<三十九歳>・維新の三傑・大蔵卿<四十一歳>・征韓論で西郷隆盛を失脚させる・内務卿<四十三歳>・台湾出兵後全権弁理大臣・西南戦争で政府軍を指揮<四十七歳>・暗殺される<四十八歳>・従一位・勲一等旭日大綬章)。
会議は、幕府擁護にまわって「公議政体論」を唱える土佐の山内容堂らと、討幕派である薩摩の大久保一蔵が大論争し、もめていたのだ。
西郷隆盛はこの会議で討幕派が破れた場合、公議政体派を皆殺しにするつもりだった。だが、会議は夜明け近くまで続き、ついに公議政体派を抑えた討幕派は、徳川慶喜の納地・辞官を決めて終了した。
西郷隆盛は、桂太郎に「長州藩公父子の官位を復す詔勅が出ましたぞ。即刻上京せよとのことでごわす。すぐに発たれよ」と促した。
京都には、激昂した幕府の兵が各所にたむろしていたので、二百名の藩兵は薩摩軍と共に残し、桂太郎は、その詔勅を持って密かに、帰国の途につくことにした。
桂には、木梨精一郎(きなし・せいいちろう・山口・長州藩士・東海道鎮撫総督参謀・奥州鎮撫総督参謀・仙台追討総軍監・維新後軍功により四五〇石・長州藩兵第一大隊長・維新後陸軍少丞<二十七歳>・内務少丞・陸軍歩兵中佐<三十二歳>・内務少書記官・長野県知事・元老院議官・貴族院議員<四十五歳>・男爵<五十一歳>)が同行することになった。
二人が山陽道に出て、兵庫に着いたのは黄昏の頃だった。そのまま夜を徹して淡い月明かりの道を明石に向かう途中、「何者だろう。相国寺からずっと尾行してきている。淀川の船でも一緒だった」と、木梨が桂にささやいた。
振り向くと人影が二つ見えた。桂と木梨は、そのまま足を早めて明石に着き、駅吏に早駕籠の手配を頼んでいると、先ほどの二人がやって来た。