津野田中尉との激論の後、武藤軍務局長は隣の席にいた東條航空総監に「東條閣下、此奴の親父も生意気だったそうですが、此奴も生意気な奴ですな」と言った。
津野田中尉は、カッときて「何を言われるんです。私の父が存命中は、閣下はまだひよっこであったではありませんか。ろくに知りもしないくせに、いい加減なことは言わんでください」と言った。
それまで、やや蒼ざめた表情で、むっつりと口を噤んでいた東條航空総監は、武藤軍務局長を見返ると、とりなすように「武藤君。津野田の言い分にも一理ある。それにな、この津野田の親父さんは、俺の陸大当時の教官だったんだよ」と言った。
武藤軍務局長は、ばつの悪そうな顔をして、視線をそらしたままである。
東條航空総監は、津野田中尉に「俺はな、津野田、教官中で貴様の親父さんが一番好きだった。いい教官だったぞ」とポツリと言った。
津野田中尉は、後に東條を暗殺する計画を立てるが、この時は、東條に悪感情は抱いていなかった。東條のその無表情な眼鏡越しの目でさえ、優しさが漂っていると感じた位だ。
だが昭和十九年六月、前線から大本営参謀本部第一部第三課へ戻った津野田少佐は、戦局の現状に危機感を痛切に感じ、このままではいけないという考えから「大東亜戦争現局に対する観察」と題する意見計画書を書き上げた。
その文章中に「東條総理大臣を速やかに退陣せしめ、以ってこれに連なる軍の適正を期すること」と述べており、東久邇宮内閣による政局担当の必要を主張していた。また、状況によっては東條首相を暗殺する趣旨も付け加えられていた。
津野田少佐は、意見計画書を仲間の牛島辰熊に見せ意見を聞き、山形県鶴岡に隠棲中の石原莞爾中将、予備役の小畑敏四郎中将らに見せ、ほぼ同意を得た。
東久邇宮を動かすため、津野田少佐は親交のある三笠宮を訪れ、意見計画書を見せた。三笠宮は現内閣に不満を抱いてはいたが、この意見計画書を一読して、さすがに顔色を変えた。
後日、津野田少佐は三笠宮から、来訪するよう要請を受けた。三笠宮邸に着いた津野田少佐に対して、三笠宮は「あの日、貴官が帰ったあと、東久邇宮と電話で話し合った」と言い、「自分も東さんを首班にするのは同意である」と告げた。
そして「ただし、最後に書き加えられた項目を除いては、である。かりそめにも、東條は、一国の総理大臣である。その人物を処断に訴えるのは、好ましくない。これは、秩父さんも、高松さんも、同意見であった」と付け加えた。
これを聞いて津野田少佐は、息を呑んだ。三笠宮が、二人の兄、秩父宮と高松宮に相談したとは思いもよらなかったことであった。だが、三笠宮は大体において、津野田少佐の意見計画書には同意見だった。
だが、石原莞爾中将は「皇族方を信じすぎてはいかん。皇族方は、大事を命がけでやるような教育は受けていない。当てにすると、とんだ思惑はずれになるぞ。心しておくことだ」と津野田少佐に忠告した。
津野田少佐は、決行する牛島辰熊と東條首相を暗殺する武器について話し合った。短刀、ピストル、手榴弾などは、いずれも失敗する確率が高かった。
ついに津野田少佐は、習志野の陸軍ガス学校が戦車攻撃用に開発した「茶瓶」を提案した。「茶瓶」はガラス製の容器で、中に青酸入りの毒ガスが詰められている。威力は、風下五十メートル四方の生物をことごとく死滅させるというものだった。
津野田少佐は「だがあんたも心中することになるかもしれないぞ」と言った。それを聞くと牛島は、「よし、知さん、それを使おう。必ず入手してくれ」と言った。暗殺の決行日は昭和十九年七月二十五日に決まった。
だが、東條内閣は七月十八日に総辞職した。これにより、津野田少佐らは、東條暗殺の決行の必要がなくなった。
ところが、その後、津野田少佐は憲兵隊に逮捕された。昭和二十年三月二十四日、免官、位階勲等一切剥奪の上、執行猶予付きではあったが禁錮二年の刑を言い渡された。
これは津野田少佐が記した東條暗殺計画を盛り込んだ極秘文書「大東亜戦争現局に対する観察」が、同志であった、三笠宮の動揺により、憲兵隊に洩れたからだった。
戦後、昭和三十二年八月、四十歳になった津野田元陸軍少佐は、軽井沢の別邸に避暑に来ていた三笠宮と対面した。二人は十数年ぶりだった。
津野田中尉は、カッときて「何を言われるんです。私の父が存命中は、閣下はまだひよっこであったではありませんか。ろくに知りもしないくせに、いい加減なことは言わんでください」と言った。
それまで、やや蒼ざめた表情で、むっつりと口を噤んでいた東條航空総監は、武藤軍務局長を見返ると、とりなすように「武藤君。津野田の言い分にも一理ある。それにな、この津野田の親父さんは、俺の陸大当時の教官だったんだよ」と言った。
武藤軍務局長は、ばつの悪そうな顔をして、視線をそらしたままである。
東條航空総監は、津野田中尉に「俺はな、津野田、教官中で貴様の親父さんが一番好きだった。いい教官だったぞ」とポツリと言った。
津野田中尉は、後に東條を暗殺する計画を立てるが、この時は、東條に悪感情は抱いていなかった。東條のその無表情な眼鏡越しの目でさえ、優しさが漂っていると感じた位だ。
だが昭和十九年六月、前線から大本営参謀本部第一部第三課へ戻った津野田少佐は、戦局の現状に危機感を痛切に感じ、このままではいけないという考えから「大東亜戦争現局に対する観察」と題する意見計画書を書き上げた。
その文章中に「東條総理大臣を速やかに退陣せしめ、以ってこれに連なる軍の適正を期すること」と述べており、東久邇宮内閣による政局担当の必要を主張していた。また、状況によっては東條首相を暗殺する趣旨も付け加えられていた。
津野田少佐は、意見計画書を仲間の牛島辰熊に見せ意見を聞き、山形県鶴岡に隠棲中の石原莞爾中将、予備役の小畑敏四郎中将らに見せ、ほぼ同意を得た。
東久邇宮を動かすため、津野田少佐は親交のある三笠宮を訪れ、意見計画書を見せた。三笠宮は現内閣に不満を抱いてはいたが、この意見計画書を一読して、さすがに顔色を変えた。
後日、津野田少佐は三笠宮から、来訪するよう要請を受けた。三笠宮邸に着いた津野田少佐に対して、三笠宮は「あの日、貴官が帰ったあと、東久邇宮と電話で話し合った」と言い、「自分も東さんを首班にするのは同意である」と告げた。
そして「ただし、最後に書き加えられた項目を除いては、である。かりそめにも、東條は、一国の総理大臣である。その人物を処断に訴えるのは、好ましくない。これは、秩父さんも、高松さんも、同意見であった」と付け加えた。
これを聞いて津野田少佐は、息を呑んだ。三笠宮が、二人の兄、秩父宮と高松宮に相談したとは思いもよらなかったことであった。だが、三笠宮は大体において、津野田少佐の意見計画書には同意見だった。
だが、石原莞爾中将は「皇族方を信じすぎてはいかん。皇族方は、大事を命がけでやるような教育は受けていない。当てにすると、とんだ思惑はずれになるぞ。心しておくことだ」と津野田少佐に忠告した。
津野田少佐は、決行する牛島辰熊と東條首相を暗殺する武器について話し合った。短刀、ピストル、手榴弾などは、いずれも失敗する確率が高かった。
ついに津野田少佐は、習志野の陸軍ガス学校が戦車攻撃用に開発した「茶瓶」を提案した。「茶瓶」はガラス製の容器で、中に青酸入りの毒ガスが詰められている。威力は、風下五十メートル四方の生物をことごとく死滅させるというものだった。
津野田少佐は「だがあんたも心中することになるかもしれないぞ」と言った。それを聞くと牛島は、「よし、知さん、それを使おう。必ず入手してくれ」と言った。暗殺の決行日は昭和十九年七月二十五日に決まった。
だが、東條内閣は七月十八日に総辞職した。これにより、津野田少佐らは、東條暗殺の決行の必要がなくなった。
ところが、その後、津野田少佐は憲兵隊に逮捕された。昭和二十年三月二十四日、免官、位階勲等一切剥奪の上、執行猶予付きではあったが禁錮二年の刑を言い渡された。
これは津野田少佐が記した東條暗殺計画を盛り込んだ極秘文書「大東亜戦争現局に対する観察」が、同志であった、三笠宮の動揺により、憲兵隊に洩れたからだった。
戦後、昭和三十二年八月、四十歳になった津野田元陸軍少佐は、軽井沢の別邸に避暑に来ていた三笠宮と対面した。二人は十数年ぶりだった。
上記の文章ですと、三笠宮が二人の弟(秩父宮、高松宮)に相談した様に読めてしまいます。
「二人の兄(秩父宮、高松宮)に相談」とされた方が宜しいのではないでしょうか?
グーグルやスマホでヒットし、小一時間で読めます。
その1からラストまで無料です。
少し難解ですが歴史ミステリーとして面白いです。
北円堂は古都奈良・興福寺の八角円堂です。
読めば歴史探偵の気分を味わえます。
日本史への思い込みが払拭されます。
どこまでがフィクションなのか知恵較べもお楽しみ下さい。