陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

54.田中隆吉陸軍少将(4) 陸軍の犯した罪悪の葬式をやった気持ちだ

2007年03月30日 | 田中隆吉陸軍少将
また、田中は、1月21日、22日の「起訴状所載の犯罪に対する個人的責任」の立証の審議にも出廷し、次のような証言を行った。

 「陸軍大臣であった荒木貞夫大将だけが満州の独立に賛成した」

 「土肥原賢二は満州で阿片の売買に手を染めていた」

 「南次郎、板垣征四郎、東條英機は阿片売買を土肥原からとりあげ、満州国の専売とした」

 「武藤章は昭和14年4月から17年4月まで、陸軍省軍務局長として国家の政策の推進力であった」

 以上のように田中少将は東京裁判で検察側証人として3度に渡り、延べ8日間出廷し、被告達の罪状を裏付けた。

 いわばこれは帝国陸軍中枢部にいた軍高官による、いわゆる内部告発であった。これにより検察側は「共同謀議の構図」を作ることができた。

 田中少将は昭和17年9月、陸軍省兵務局長を辞職し、退役した。その直後、神経衰弱にかかり、精神病院に入院した。

 これは田中は当時戦争の前途に不安を覚え、東郷茂徳元外相の東條内閣打倒工作に深く関わっていたからである。兵務局長を退官したのも、そうしたことからきた神経衰弱が原因だったのである。

 田中の証言について「田中は戦犯追及を恐れ、検察側に取り入っている」「頭がおかしくなって、あんな証言をするのだ」という声もあった。

 だが、田中の法廷証言を詳しく読むと、ただむやみに検察官の言いなりに証言する「検察官のロボット」ではなかったことが分かる。

 たとえば「張作霖爆破工作は河本大作大佐の行った事で、軍司令官ならびに参謀長はなんらの関係なし」と証言している。当時の村岡長太郎軍司令官、斉藤恒参謀長は無関係と述べている。

 また満州国のコントロールを行った板垣征四郎についても、「関東軍が持っていた満州国内面指導権を遺憾なく行使した」「板垣個人が満州国の経済界にコントロールされた事はない」と述べ、法律に基づいて行ったもので、私利私欲のためではないとしている。

 このように田中証言は不当に被告達をおとしめているわけではなかった。

 「東京裁判と太平洋戦争」(講談社)によると、田中は軍閥政治のウミを出すことが日本のためになることだと判断し、証言台に立ったのではあるまいかと推察している。

 また、田中自身が言っているように、天皇の戦犯追及を阻止する為に、あえて被告達の罪状暴露に出たと理由も肯定できるとしている。

 「太平洋戦争の敗因を衝く」(長崎出版)によると著者の田中隆吉は証言について次のように述べている。

 「自分としては陸軍の犯した罪悪の葬式をやった気持ちだ。いいかえれば、最も戦争を嫌っておられたにもかかわらず陸軍のため手も足も出なかったお気の毒な天皇の無罪を立証する為に全力をそそいだ」

 だが、田中には実は天敵がいたのである。それは武藤章であった。

53.田中隆吉陸軍少将(3) 激論の末、田中少佐は長少佐にピストルを向けられた

2007年03月23日 | 田中隆吉陸軍少将
 田中少佐は美貌の川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用したが、それは関東軍の意向でもあった。

 田中と交流のあった遠藤三郎も田中少佐と川島の熱々ぶりを、上海を訪れた時、中国の官邸で、実際に目の前で見せられている。

 東洋のマタハリと呼ばれた川島芳子(川島浪速の養女)は戦後1948年3月25日にスパイ罪で中国政府により北京で銃殺刑により処刑された。 

 田中隆吉は戦後も川島芳子のことをよく語ったという。

 また、田中は論理的弁論に秀でていたことと、その独特の毒舌は部内では有名であった。

 「日本軍閥暗闘史」(中公文庫)によると、昭和5年10月1日の「桜会」の第一回会合に田中少佐も参加している。

 田中少佐はその夜上海に向けて出発し、以後「桜会」とは関わらなかった。

昭和7年6月、「桜会」の中心人物、長勇少佐が田中少佐のいる上海に現れた。

 田中少佐は三月事件の失敗を聞き「桜会」に関係する事を一切断った。

田中少佐は長少佐に対し「クーデター断行の後、それに参加した面々が政権を握る事は国体に反する。実行者は死を以って、上天皇および下国民に謝さなければならぬ」と主張した。

 だが長少佐は「再建の責任はクーデターの実行者にあり」と主張したのであった。

 激論の末、田中少佐は長少佐にピストルを向けられた。

 「東京裁判と太平洋戦争」(講談社)によると、東京裁判で満州事変関係の審議で検察側証人として法廷に立った田中隆吉陸軍少将の証言は被告はもちろん、傍聴人や記者を驚かせたものであった。

 田中少将は張作霖爆破事件や満州事変を日本側の謀略であったと証言したからであった。

 張作霖爆死事件は「当時の関東軍高級参謀、河本大作大佐の計画によって決行されたのであります」と証言した。

 満州事変については「参謀本部内で最も熱心に主張されたのは建川美次陸軍少将、当時の第二部長でありました。民間においては大川周明博士を中心とする団体でありました」と述べている。

 そしてサケット検察官の「関東軍におけるこの政策の指導者はだれでありますか」との問いに田中は次のように答えている。

 「関東軍参謀の板垣征四郎大佐ならびに次級参謀、石原莞爾中佐が中心であったと記憶しております」と。

 田中は昭和21年7月5日から9日まで、満州事変関係の証人として東京裁判の法廷に出廷している。

 その際、張作霖爆死事件、十月事件、満州事変、三月事件、満州国の成立と運営に、橋本欣五郎、梅津美治郎、土肥原賢二、板垣征四郎が深く関わっていたと証言した。

 さらに田中は昭和22年1月3日の「B級犯罪と被告の責任」の審理のときにも出廷し、捕虜取り扱いの責任について次のように証言している。

 「責任は陸軍大臣にありますが、(収容所)位置の決定ならびに建設は軍務局軍事課の掌握するところであります」と。

52.田中隆吉陸軍少将(2) 川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用した

2007年03月16日 | 田中隆吉陸軍少将
 第一次上海事変は激烈な戦闘が展開されたが、まもなく停戦協定が結ばれ、5月5日に調印された。

 だが、この直前の4月29日の天長節に、白川義則軍司令官、野村吉三郎第三艦隊司令長官、重光葵公使など日本側首脳部が、一朝鮮人の投げた爆弾によって死傷する事件が起り、重大事件に発展した(白川義則軍司令官死去)。

<田中隆吉陸軍少将プロフィル>

 明治26年7月9日島根県安来市の商家に長男として生まれる。松江中学へ進む。

 明治40年陸軍広島地方幼年学校入学。43年陸軍中央幼年学校入学。

 大正2年3月陸軍士官学校砲兵科卒業(26期)。野砲兵第23連隊(岡山)。

 大正3年陸軍砲兵少尉任官。6年陸軍砲工学校卒業。7年陸軍中尉。結婚。野砲兵第26連隊(朝鮮)。

 大正8年陸軍大学校入学(34期生)。11年 陸軍大学校卒業。野砲兵連隊。

 大正12年陸軍大尉。参謀本部。13年参謀本部支那班(この頃大川周明との関係)。

 昭和2年7月 参謀本部付・支那研究生として北京に駐在(特務機関) 。

 昭和4年8月 砲兵少佐。参謀本部支那課兵要地誌班。5年10月 上海駐在武官。

 昭和7年1月 上海事変。8月 野砲兵第4連隊大隊長。9年3月 陸軍中佐。野戦重砲兵第1連隊付(市川、連隊長は下村定)。

 昭和10年3月関東軍参謀部第2課(情報課)参謀。12年1月 徳化特務機関長を兼務。(対ソ戦略の一環として内蒙工作に従事。徳王と連携して事件を起こす)。

 昭和12年8月陸軍大佐。第19師団(朝鮮)山砲兵第25連隊長。

 昭和14年11月 陸軍省兵務局兵務課長。15年3月 陸軍少将、第1軍(中国)参謀長。

 昭和15年12月 陸軍省兵務局長 16年6月陸軍中野学校長を兼ねる(10月、兼職を免ぜられる) 。

 昭和17年9月東部軍司令部付。11月~12月 初老期憂鬱症状のため国府台陸軍病院に入院。18年3月 予備役編入 。

 昭和20年3月 召集され羅津要塞司令官に任命されるが、阿南惟幾を通じて工作し、神経衰弱の再発を理由に召集解除。

 昭和20年終戦後、宇垣一成を担いで新政党を発足させようとするが宇垣の公職追放のため失敗。

 昭和21年1月 陸軍の内情を明かした「敗因を衝く」を刊行。これによって田中は東京裁判に巻き込まれる。

 昭和21年春 国際検事団に出頭させられる。23年11月 東京裁判終了。

 昭和24年 戦時中から住んでいた山中湖畔に隠棲する9月15日 短刀による自殺未遂。

 昭和47年6月5日直腸癌のため死去。享年78。

 上海時代、田中少佐は中国で暗躍した清朝粛親王の美貌で知的な王女で「男装の麗人」と呼ばれた、川島芳子を愛人とし、関東軍のスパイとして利用したことは良く知られている。

51.田中隆吉陸軍少将(1) 「あなたは妖怪といわれていたそうですね」といわれて、にんまり笑った

2007年03月09日 | 田中隆吉陸軍少将
 「人物陸大物語」(光人社)の著者、甲斐克彦氏は田中隆吉について、「正直に言ってこの人物については、書きたくない気分だ」と述べている。

 戦後、旧軍の総括が何度かあって、旧軍人から義絶を申し渡され、反逆者扱いされた者が二人いる。

 一人はこの「陸海軍けんか列伝」でもすでに紹介した、再軍備無用論で戦後社会党から参議院に立候補した遠藤三郎陸軍中将。

 もう一人が、東條裁判で検事側証人になり、暴露的証言を行って、彼自身のいう「恩人」東條英機以下の絞首刑を手伝った田中隆吉陸軍少将である。

 甲斐氏はそのときのニュース映画を見たとき、弁護団の反対尋問で、「あなたは妖怪といわれていたそうですね」といわれて、にんまり笑った、その顔の印象が強すぎ、肝心の返答を聞きもらしてしまった、と記している。

 「現実暴露の悲哀」という言葉がある。昭和20年11月6日に日本に到着したキーナン検事が注目したのは、陸軍少将で兵務局長の要職にあったにもかかわらず、陸軍を追われた田中隆吉であった。

 キーナンは田中に接触し、検事側の証人になるよう求めた。田中は証人台に立った。

 またキーナンの証人として裁判中に田中は昭和21年1月、山水社から「敗因を衝く、軍閥専横の実相」を発行した。

 自分の体験を中心にした本で、第二次大戦以前及び開戦から終戦までの東條を中心とする軍上層部の闇を内部告発し暴露したのである。世間は驚きの渦に巻き込まれた。

 さらに昭和22年10月に「日本軍閥暗闘史」(静和堂書店)を発刊している。

 日本帝国軍の明治初期の長州、薩摩の縄張り争いに端を発した軍の派閥抗争を終戦に至るまでを詳細に記録した本である。

 これらのことにより、旧軍人や国民から田中隆吉は轟々たる非難を浴びた。

 では田中隆吉の暴露は真実ではなかったのだろうか。非難の中に「田中は嘘を言っている」といったものは殆ど無かった。このことは真実が「堕ちた偶像」をつくり「現実暴露の悲哀」を生み出したに過ぎないし、田中隆吉はその役前を果たしただけだったともいえる。

 田中隆吉は陸軍士官学校は、遠藤三郎と同じ26期で、ともに砲兵。陸軍大学校も同じ34期で、遠藤は5位の恩賜組だが、田中は68人中の20位だった。

 田中は後年「上海事変はこうして起こされた」(別冊知性・昭和31年12月号)で「私の半生はいわば陰謀工作に始終したと言ってよい」と述べている。

 「昭和陸軍秘史」(番町書房)によると、昭和6年の満州事変後、昭和7年1月、満州国の成立過程において、たまたま上海において日華両軍の衝突事件が起り、戦渦が中支に拡大した。これが第一次上海事変である。

 この第一次上海事変の発端は満州国の建国を容易にするため、列国の関心を上海に向ける方針で企てられた謀略に発するものだった。そのときの火付け役が、上海の駐在武官補佐官の田中隆吉少佐であった。

50.石川信吾海軍少将(10) 岡軍務局長は、石川大佐を局長室に呼んで、ハル・ノートの訳文を手渡した

2007年03月02日 | 石川信吾海軍少将
 近衛手記には「松岡外相が対ソ開戦を強硬に主張するので、これを押さえるための代償として、外相の素志である南部仏印進駐を認めた」と記されている。

 石川少将は戦後、東京裁判の影響下に出された太平洋戦争に関する文章には、かなり間違いが多いが、これなどはその最たるものであると述べている。

 南部仏印に関する議案が政府大本営会議にかけられた時、これに真っ向から反対したのが松岡外相であると。

 当時、軍務局長から石川大佐は「松岡外相が南部仏印進駐に反対で、会議は停滞した。君が外相を説得してくれ」と命じられた。
 
 石川大佐は軍令部によってT作戦課長に「松岡外相に話しに行くのだが、その前に軍令部の腹を聞きたい」と申し入れた。

 T大佐の答えは「松岡外相が日米間の問題を外交交渉で処理し、開戦に至らしめない事を保証してくれるなら、進駐はしない。しかし、今進駐を止めておいて、後で外交では片付かないから開戦だと言われても、引き受けられない。開戦の危険があるなら、南部仏印進駐は作戦上必要である」ということであった。

 松岡外相を私邸に訪ね、二階に通された石川大佐は、さっそく「あなたは南部仏印進駐に反対しておられるそうですね」と言った。

 すると、松岡外相は「南部仏印に出れば戦争になるから、いかんと言っているのだ」と、いささかご機嫌ななめだった。

 石川大佐が「出なければ戦争にならずに片付きますか」と聞くと「そんなことは分からんよ」と松岡外相は答えた。

 石川大佐は「分からんでは軍令部としても困るでしょう。軍令部は外相が責任を持って、開戦にならぬように始末をつけると言明してくれれば、進駐案は引っ込めても良いと言明していますが、あなたはそれを言明するだけの自信がありますか」と言った。

 ここで松岡外相はかんかんに怒り出して、大声で「いま、そんなバカな言明が出来るか。バカいっちゃいかん」とどなりだした。

 「それじゃ作戦当局としたら、どうしようもないでしょう。今出ちゃいかん、先になったら戦争になるかも知れんが、その時はしっかりやれと言っても、作戦の責任者は今出ておかなければ後になって引き受けられないと考えている。作戦当局からすると、やはりバカいっちゃいかん、ということになる」と石川大佐が言うと、松岡外相は興奮して怒鳴り出したという。

 松岡外相は二階から階段をおりる石川大佐を玄関まで送り出しながら「バカなことを言うやつだ」と怒鳴り散らした。

 だがその後数日して、政府大本営連絡会議で南部仏印進駐が決定した。

 日本政府がこの決定をビシー政府に申し入れたのは、第三次近衛内閣成立後の昭和16年7月19日で、その時松岡氏は外相の職にいなかった。外相は豊田貞次郎であった。

 このような流れで、7月25日、米国は在米日本資産の凍結を命令し、日米間は事実上経済断交と同様になった。イギリス、オランダも同様の処置を取った。

 7月26日、米英蘭の三国間に日本への石油輸出全面的禁止の協定が成立した。

 昭和16年11月26日アメリカのハル国務長官は野村・来栖両大使を招致してアメリカ側新提案を手渡した。これはアメリカの対日最後通牒であった。これが有名なハル・ノートであって、日本に対する手切れの挨拶であった。アメリカは遂に太平洋にサイコロを投じ、日米開戦へと進んでいった。

 11月27日、岡軍務局長は、石川大佐を局長室に呼んで、ハル・ノートの訳文を手渡した。

 岡局長は椅子に深く沈んだように腰をかけ、片手で額を支えたまま「これではいよいよ開戦のほかはない。今日までの苦心も、ついに水の泡である」と言って、ハラハラと落涙した。

 岡局長はしばらく無言でいたが「こうなった以上、開戦の際、手落ちのないように、前例なども調べて、ぬかりなくやってくれ」と石川大佐に言った。

 そしてこのとき、ハワイ急襲部隊は、太平洋上をハワイに向かって東進中だったのである。

 (「石川信吾海軍少将」は官今回で終りです。次回からは「田中隆吉陸軍少将」が始ります)