陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

122.井上成美海軍大将(2) ああ、宮城県か、少佐で馘(くび)だよ

2008年07月25日 | 井上成美海軍大将
 明治39年11月、井上は海軍兵学校に37期生として入学した。校長は島村速雄少将だった。

 「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、この時期は、日露戦争の勝敗を決した日本海大海戦の勝利の後だけに、兵学校の志願者数は2971名だった。

 合格者は180名だった。実に16.5倍の競争率だった。ちなみに当時の旧制高等学校の全国平均競争率は6.3倍だった。

 兵学校の応募者の大多数は浪人組で、井上の時も、一年浪人が52パーセント、二年浪人が28パーセント、三年浪人が6パーセントで、中学校からストレートに合格したものはわずか10パーセントだった。井上は首席で合格した。

 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、兵学校入校後のある日、井上生徒は分隊監事を訪問したところ、出身地を問われた。

 「宮城県です」

 と答えた井上生徒に、

 「ああ、宮城県か、少佐で馘(くび)だよ」

 という言葉が返ってきた。

 井上生徒は

 「少佐にしてもらえば結構です。少尉になって軍艦に乗って、一年か二年でも海軍におれば結構です」

 と答えた。だが内心では、

 「ずいぶんひどいことを言うものだ」

 と思った。

 当時は海軍の鹿児島閥が生徒にも露骨に示されていた時代だった。

 井上によると、この悪風は財部彪海軍大臣(15期・大将)の時代である昭和5年まで続き、その後も多少は尾を引いた。

 本当に一掃されたのは米内光政海軍大臣(29期・のち大将、首相)が登場した昭和12年以後であるという(井上と海上自衛隊幹部学校長との座談記録)。

 仙台二中でトップの成績を収め、当時の学友からも英語の学力を評価されていた井上生徒も、兵学校三号時代は英語が苦手であった。

 これは大都市出身の同期生の学力、特に洗練された会話力に、井上生徒は及ばなかったようである。

 井上自身も

 「田舎の中学出身のため発音が劣っていた」

 と語っているが、おそらく東北人特有の訛りが影響したのではなかろうか。

 ある時、英語の酒巻教官から、英語の成績の悪い生徒が一人ずつ名指しで槍玉にあげられた。

 井上生徒もその中に入っており、

 「井上は討論を少しもやらないから平常点はゼロだ。試験によほど良い点をとらないと落第だ」

 とやられた。

 井上生徒は、同期生の中で英語が抜群の関根郡平(のち海軍少将)にどうしたら英語の力がつくか尋ねた。

 関根は即座に

 「英語の小説をどしどし読め」

 と教えた。そしてコナン・ドイルの「シャーロック・ホルムズ」を薦めた。

 井上生徒は「アドベンチャーズ・オブ・シャーロック・ホルムズ」に取り組んで読んでみたが、歯が立たなかった。一頁読むのに一時間では無理で、時には二時間かかった。

 そこで井上生徒は関根に

 「貴様、あんな本なら一時間にどれくらい読めるか」

 と聞いたところ、

 「うん、まあ、二十頁くらいかな」

 との答で、こんなにも能力に差があるのかと思った。

 このような英語の点数が影響したのか、井上生徒の三号生徒(一学年・当時の兵学校は三年制)の成績は、十六番に落ちてしまった。

 しかし二学年になってからは頑張って、一学期末には一番の成績を収めた。卒業時には百七十九名二番の成績で、恩賜の双眼鏡を授与された。

 クラスヘッド(首席)は小林万一郎で将来を嘱望されていたが、大正11年4月20日、惜しくも少佐で病没した。

 以後井上のハンモックナンバーは実質的にクラスヘッドになった。

121.井上成美海軍大将(1) 半歩も一歩も退かない「かわい気のない男」の人生を貫いた

2008年07月18日 | 井上成美海軍大将
 「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、井上成美(しげよし)は生涯を通じて、自分が正しいと信じたことについては、上司に対しても絶対に所信を曲げることはなかった。 

 昭和19年7月、サイパン陥落により東條英機内閣は崩壊した。

 「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、嶋田繁太郎海軍大臣更迭の件で重臣岡田啓介は元軍令部総長で海軍の実力者であった伏見宮を訪れた。

 この時、岡田は伏見宮に

 「海軍の現在の多くの人の意見としましては、海軍で大臣を探すとすれば、現役大将では満点とはいえないにしても先ず豊田であろう。中堅から選べば兵学校の井上ではないかと申しております」

 と言った。

 すると伏見宮は

 「井上はいかん。あれは学者だ。戦には不向きだ。珊瑚海海戦のとき、敵をもっと追撃すべきときに空しく引かえしてしまった」

 と答えたという。

 遡って昭和8年3月、伏見宮博恭軍令部長から大角岑夫海軍大臣宛に「軍令部令及省部互渉規定改正」の商議が廻ってきた。

 これは軍令部長が宮様であることを楯に、次長の高橋三吉中将(艦隊派)を中心にした海軍軍令部が、海軍の伝統や慣習を無視して、一切の権限を海軍省から軍令部に集約しようとしたものであった。

 当時海軍省軍務局第一課長であった井上成美大佐はこれに強く反対して、徹底抗戦を行なった。

 このような経緯から、伏見宮の井上中将に対する覚えは、あまりめでたくなかったのである。

 当時の大角岑生海軍大臣、藤田尚徳次官、寺島健軍務局長も軍令部の要求にしぶしぶ屈し、残りは軍務局の井上第一課長だけになっていた。

 軍令部だけでなく、さらに海軍省の上司の説得にもかかわらず、井上第一課長は最後まで、承諾の判を押さなかった。

 この時、井上第一課長は海軍を辞めるつもりでいた。判を押すことを拒否し、辞めることにより、自分の所信を貫こうとしたのである。

 だが、海軍は井上成美を辞めさせなかった。井上第一課長は更迭され、横須賀鎮守府付に転任、その後、光栄ある練習戦艦比叡艦長に発令された。

 この人事について、当時、伏見宮博恭軍令部長は、意外にも、井上第一課長が徹底して軍令部案に抵抗した点を高く評価し、人事局第一課長に次の様に話したという。

「井上は立派だった。軍人はああでなければならない。自分の正しいと信ずることに忠実な点は見上げたものである。第一課長は更迭止む無しとしても、必ず井上は良いポストに就けるように」

 自分の信念を貫くということは、戦前、戦中の当時の国情では許されないことであった。

 だが井上成美海軍大将は、半歩も一歩も退かない「かわい気のない男」の人生を貫いた。


<井上成美(しげよし)海軍大将プロフィル>

明治22年12月9日宮城県仙台市東二番町に生まれる。

明治42年11月海軍兵学校37期卒、179人中2番。

明治43年12月海軍少尉、鞍馬乗組。

大正元年12月海軍中尉。

大正4年12月海軍大尉、扶桑分隊長。

大正6年1月原喜久代と結婚。

大正7年12月スイス駐在。

大正10年9月フランス駐在、12月海軍少佐。

大正11年12月海軍大学校甲種学生。

大正13年11月海軍大学校22期卒、12月軍務局員。

大正14年12月海軍中佐。

昭和2年11月イタリア駐在武官。

昭和4年11月海軍大佐。

昭和5年1月海軍大学校戦略教官。

昭和7年11月海軍省軍務局第一課長、妻喜久代没。

昭和8年11月練習戦艦比叡艦長。

昭和10年11月海軍少将、横須賀鎮守府参謀長。

昭和11年11月軍令部出仕兼海軍省出仕。

昭和12年10月海軍省軍務局長。

昭和14年10月支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長、11月海軍中将。

昭和15年10月海軍航空本部長。

昭和16年8月第四艦隊司令官。

昭和17年10月海軍兵学校長。

昭和19年8月海軍次官。

昭和20年5月海軍大将、軍事参議官、10月予備役、横須賀長井の自宅に隠棲、英語塾開始。

昭和28年、63歳で秋田原富士子(53歳)と再婚、英語塾閉鎖。

昭和50年12月15日長井の自宅で死去、86歳。

昭和52年6月富士子死去、77歳。

120.花谷正陸軍中将(10) 花谷さんを『アラカンの鬼将軍』とお呼びしたくなった

2008年07月11日 | 花谷正陸軍中将
 軍刀の柄に手をかけたまま長沢少将は言った。

 「花谷がやめるか、私がやめるか、対決しよう」

 栗田高級副官は二人をさえぎった。

 「ぬいたら終わりですぞ」

 宿舎の周りは竹やぶであった。竹やぶの中に二枚のむしろを敷いて、師団長と歩兵団長は向かい合って座り、論戦で対決することになった。

 二人はにらみ合っていたが、やがて、目をそらせた。

 そのまま無言でいたが、少しして花谷師団長が言った。

 「おれが悪かった。あやまる」

 その後、花谷中将は、昭和20年7月9日第39軍参謀長、7月14日第18方面軍参謀長をつとめ、終戦を迎えた。

 「丸別冊、回想の将軍・提督」(潮書房)の中に、「ビルマ戦線の将軍群像」と題して、元ビルマ方面軍参謀、前田博元陸軍少佐が寄稿している。

 その中で、前田氏は花谷師団長の容姿を次のように述べている。

 「容姿全体が、闘魂の固まりとして私の目に映った。私なりに、その精悍な面貌から、花谷さんを『アラカンの鬼将軍』とお呼びしたくなった」

 またその作戦結果について

 「アキャブ方面守備の大任を見事に果たし、とくにインパール主攻勢方面に対する陽動作戦として、プチドン、モンドウ付近の敵に対する攻勢は猛烈を極め、英軍をして二個師団の増援を求めさせた程の戦果をおさめた」

 と評価している。

 「丸別冊、軍司令官と師団長」(潮書房)の中に、元ビルマ第三十三軍参謀・野口省己元陸軍少佐が「ビルマ戦の将軍たち」と題して寄稿している。

 その中で、片倉衷参謀が

 「花谷は物事をかくしだてできない性格なので、重要な機密にわたることは知らせなかった」

 と述べている。

 野口元少佐は辻政信参謀から、花谷師団長にどう仕えたらいいか、次のように教えられた。

 「こちらも軍服を脱ぐが、相手にも軍服を脱がせる覚悟で体当たりすることだ」

 「花谷さんという人は、案外小心で、自分の地位とか、権威の保持に汲きゅうとしているので、相手と心中する覚悟でぶつかれば、相手はコロリと参り、虎は変じて猫のようにおとなしくなる」

 「戦死」(文春文庫)によると、戦後の花谷師団長は「曙会」という憂国同志と称する人々の集まる会を主宰していた。

 晩年は東京の代々木八幡の商店街の二階のひと間に住んでいた。

 花谷元中将が病気になってから、病院に入院した。福富繁元参謀は斉藤元高級参謀を案内して病院に見舞いに行った。

 看護婦は

 「もうおわかりにならないでしょう」

 と病勢が進んでいることを告げた。

 二人が声をかけると、目を開いた。

 何か答えたが、入れ歯をはずしていたので、発音がわからなくて、

 「わかいな」

 というように聞こえた。

 花谷元師団長が亡くなったのは、昭和三十二年八月二十八日であった。病死で、肺臓ガンであった。六十三歳だった。

 葬儀は東京都港区の高野山東京別院で行なわれた。葬儀委員長は満州時代付き合いのあった十河信二国鉄総裁であった。

 友人代表として挨拶したのは、元参謀本部第二部長・有末精三元中将だった。

 政界、財界からは多くの花輪や生花がおくられた。

 その中にひときわ注目をあびた花輪があった。その贈り主は、故人と浅からぬ縁故のあった、時の総理大臣・岸信介であった。

(「花谷正陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「井上成美海軍大将」が始まります)。

119.花谷正陸軍中将(9) なんだ貴様、蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか

2008年07月04日 | 花谷正陸軍中将
 後に兵器部長の人見大佐は花谷師団長から重謹慎三十日の処分を言い渡された。

 そのあと、花谷師団長は人見大佐に

 「貴様はカデットじゃないか」

 と怒鳴りつけた。

 「貴様、カデットの誇りを知れ。カデットのつらよごしだ」

 と殴りつけた。

 人見大佐は兵器部長の部屋に帰っていった。しばらくして、銃声が響いた。栗田中佐は急いでかけつけた。

 人見大佐は寝台の上に横たわっていた。右手には小型のコルトを握っていた。

 額から血が流れていた。四十九歳であった。死亡の広報には次のように記されている。

 「昭和十九年八月二十五日、ビルマ、アキャブ県ノータンゴにおいて、頭部貫通銃創のため戦死」

 死亡した人見大佐に少将に進級の手続きがとられたのは、戦後の昭和三十一年であった。

 「戦死」(文春文庫)によると、昭和20年3月、鳥取の歩兵第百十一連隊の長沢貫一連隊長は第百十位連隊はアキャブ南方のラムリー島で連合軍の上陸に対し防戦を行なった。

 その直後、長沢大佐は少将に進級し、第五十五歩兵団長に任命され、転出した。長沢少将は夜も寝ないでラムリー島の戦況を心配していた。

 長沢少将は部下を思い涙を流した。栄転も意中になくただ残る将兵に気を引かれていた。そういう軍人であった。

 このようにして長沢少将はヘンザダの五十五師団司令部に着任した。花谷師団長は自分の宿舎に迎えた。

 花谷師団長、参謀ら司令部の幕僚が列席して、長沢歩兵団長の歓迎の宴が開かれた。

 花谷師団長はゆかたを着込んで機嫌が良かったが、沈痛な長沢少将の胸中を思いやろうとはしなかった。

 花谷師団長は、長沢少将にいきなり

 「なんだ貴様、蒋介石のおかげで少将になれたんじゃないか。無天の低能め」

 と、いつものように、陸軍大学校の卒業生でないことを軽蔑した言葉をはいた。

 長沢少将は気持ちが練れていたので、にやにや笑って聞いていた。

 花谷師団長はさらにしつこくからんだ。

 「平時なら貴様のような低能は閣下になるような人間じゃないぞ」

 長沢少将も、さすがに怒りを押さえかねて

 「私はいかにも無天だ。しかし、歩兵団長としての任務は遂行しているつもりだ。何を言うか。貴様は大阪幼年学校では、俺の後輩じゃないか」

 花谷師団長は顔を赤くして、ビール瓶をつかむと、永沢少将の頭をなぐりかかった。長沢少将はすばやく立ち上がって、軍刀の柄に手をかけた。