陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

235.山下奉文陸軍大将(15)山下、もし君に大命が降下したら、やる気があるか

2010年09月24日 | 山下奉文陸軍大将
 梅津大将を智将というなら、山下中将は勇将または政将、阿南中将は徳将の名がふさわしかった。さらに軍閥的区分は、梅津大将は新統制派、山下中将は皇道派、阿南中将は無色中立だった。

 また、山下中将と阿南中将は陸軍士官学校十八期の同期生である。山下中将がかつて陸軍の主流街道を突っ走ったのに対し、阿南中将は陸大入試を三回も失敗し、昇進はもたついた。

 だが、山下中将は、阿南中将とは不思議にウマがあい、阿南中将も山下中将に兄事する風情があった。第一方面軍司令官に山下中将が赴任途中、青島に到着すると、やはり第二方面軍編成に待機していた阿南中将が飛行場に出迎え、新京でもチチハルに向う阿南中将は出発を遅らせて、山下中将の牡丹江行きを見送った。

 この友誼に、山下中将の胸中のつかえは溶解した。満州協和会幹部の一人が、山下中将を訪ねて、三将軍の存在に触れ「陸軍の粋が集まりましたな。少し、もったいないみたいですな」と喚声を献呈した。

 すると山下中将は「南に阿南あり、新京に梅津閣下、東に山下がおる。満州はご安心ください」と答えたといわれている。

 昭和十八年二月六日、山下中将はハルピンに向かい、軍人会館で各師団長から初年兵教育に関する報告を受けた。

 その後、師団長達と会食をしようとするとき、山下中将に陸軍大将進級の内命電を受け取った。山下中将は、電報を開くと、失礼、と師団長一同に断って一室に入り、しばらく出てこなかった。

 なにごとか、と師団長達は私語をしていたが、現れた山下中将の「うれしい便りでした」の一言に、それとうなずきあった。

 山下中将の大将進級は当然に期待されていた。中将から大将になるには、中将を四年つとめねばならない。むろん中将を四年間過ごしたからといって、誰でもが大将になれるわけではない。

 だが、山下中将は過去の経歴、とくにシンガポール攻略の偉功を考慮すれば、大将有資格者の筆頭に数えられた。

 山下中将が、中将に進級したのは昭和十二年十一月。本来ならば、昭和十六年十一月にも大将になってもよく、少なくともシンガポール攻略直後に昇進するのは、自然だとみなされていた。

 昭和十七年中には必ずと誰しもが思っていただけに、その昭和十七年が暮れると、何とはなしに、山下中将の前途にたいする不吉な風聞がささやかれはじめた。

 いわく、山下中将はニ・二六事件の際に、反乱青年将校に味方したので、天皇の不興を買った。そのため、大将進級予定者の上奏名簿がお手許に届き、山下中将の名前があると、陛下は無言で名簿を伏せて御璽(ぎょじ)を捺印されないそうだ・・・・・・。

 それだけに、山下中将の感銘はひとしおだった。昭和十八年二月十日、正式発表とともに梅津関東軍司令官から大将の階級襟章一組、鯛一尾、酒一樽が届けられた。

 山下大将は親友、阿南中将の身上に想いをはせた。「今度は阿南の番だよ」。

 山下大将の言葉どおり山下大将の進級三ヵ月後の五月一日、阿南中将も大将に進んだ。山下大将は祝電を打ち、その四日後、関東軍総合演習視察のために遼陽に到着すると、真っ先に阿南大将を訪ねた。

 「やあ」「おう」。お互いに真新しい大将の襟章を眺めあいながら、二人の大将はニコリとうなずきあった。梅津大将もその側で微笑した。

 東條内閣が倒れたのは昭和十九年七月十八日だが、山下大将はその少し前、満州中央銀行の西山勉総裁の来訪を受けた。

 西山総裁はもっぱら東京の政情を詳しく語り続けた。西山総裁は別れ際に「山下、いずれ君も東京に出て大いに働いてもらわねばならんときが来るだろうよ」と言った。

 「・・・・・?」。山下大将が質問しようとすると、西山総裁はそのまま手を振って自動車に乗り込んだ。山下大将の胸中を東京から伝わってきていた「陸相候補説」がよぎった。

 だが数日後、意外にも西山総裁は再び牡丹江にやってきた。そして、言った。「山下、もし君に大命が降下したら、やる気があるか」。

 「大命・・・・・・」。さすがに驚く山下大将に、西山総裁は、おそらく十分な確信を持っているらしく、「近く東條内閣が瓦解する」と言った。そして付け加えた。「今度は皇道派の出番だろう」。

 「いや、いまさら統制派、皇道派、はありますまい」と山下大将は即答した。山下大将は、もし西山総裁の話がほかの根拠に基づいていたなら、あるいは胸奥は大きく波立ったかもしれない。

234.山下奉文陸軍大将(14)東條が山下中将の総理就任を恐れて左遷した

2010年09月17日 | 山下奉文陸軍大将
 井伏はシンガポールで「マレーの虎」に怒鳴りあげられたのだから災難といえば災難だった。井伏は日常、「猛禽類」と綽名されるほど激しく憤りを露にする人として知られていたそうだが、山下軍司令官閣下にかかってはかなわなかった。

 当時、山下軍司令官はマレー住民の食糧問題で危機に追い込まれる立場に立たされていた。糧食がどこからも来なくなって、住民の死活問題だと言われるようになった。

 インドの食糧が来れば暫くは助かるが、華僑協会がそれを援助するかどうか、二つに一つというところに来ているようだった。それで山下軍司令官は頭を痛めていたのだ。

 そのようなとき、北川冬彦が詩で、「マレー人の女が雑草を食べている」と書いた。しかも「宣伝班の食堂では、平気で雀にパンを食べさせている」と書いた。

 それで、山下軍司令官はカッとなったのではなかったか、と井伏は思った。宣伝班に来ると山下軍司令官はいきなり、敗戦国の人間が草を食うのは当然だというようなことを言ったのだ。

 「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、シンガポールの陥落は日本人を熱狂させた。この派手な攻略戦の軍司令官は覆面を脱ぐと、西郷南州にそっくりの山下奉文中将だった。

 敵将パーシヴァル中将との降伏調印の場面は、洋画家・宮本三郎画伯により描かれ戦争画にも載り、ニュース映画でも流された。あの無愛想に口をへの字に結んだ山下中将の巨体が、痩せたパーシヴァルを圧して、無条件降伏に「イエスかノーか」と迫った場面は当時、子供でも忘れられないものだった。

 シンガポールを陥落させた山下中将が、満州の第一方面軍司令官の内命を受けたのは、昭和十七年六月下旬、南方軍総司令官・寺内寿一元帥の一行のマレー視察の際であった。

 山下中将は、寺内司令官が囲碁を好むことを知り、鈴木副官に携帯碁盤を用意させた。おかげで、旅行は寺内司令官のニコニコ顔で始終し、随行の参謀連も司令官の上機嫌に便乗して、視察地の随所で「一行支那娘ト共ニ沈没」といった歓をつくした。

 山下中将が、満州に新設される第一方面軍転補の内命を受けたのは、そういう「歓楽旅行」の終わり頃だった。

 山下中将は七月一日、旅行を終えて帰ると、その夜、寺内司令官を主賓とする盛大な宴会を迎賓館で開いた。すでに内命を承知している山下中将としては、別離の宴のつもりだった。

 軍司令官は本来なら東京に帰ってきて、親任式で天皇に戦況報告をして、お言葉を頂いてから次の赴任地に行く。だが、山下中将はマレー作戦の功労者であるにもかかわらず、日本に帰ることは許されず直接満州に飛んだ。

 理由は「防諜のため」ということだった。いわゆる覆面将軍として赴任し、適当な時期に着任を発表するためだが、仮にもシンガポール攻略の英雄将軍である。

 その軍司令官が天皇に会えないという事態は異常なことだった。このように偶像視され、迷信的に信頼された将軍が大将に昇進したことだけは判ったが、再び覆面して満州の第一方面軍司令官になってソ満国境防衛に当たっていたことを知っている人は少なかった。

 また、知っている人も中央から敬遠されているのではないかと疑った。シンガポール陥落後、山下中将は総理大臣になるという噂も巷に伝わった。

 東條首相が山下中将を内地に帰らせなかったとも言われている。東條よりも陸士一期下の十八期生である山下中将は、東條の次の首相に予想されたのも無理は無かった。

 その山下中将が突然覆面に戻って消息を絶ったのだから、東條とソリが合わず、東條が山下中将の総理就任を恐れて左遷したのではないかと、暗黒政治に有識者は眉をひそめた。

 第一方面軍司令部は満州の首都、新京の東北方、小興安嶺の麓の牡丹江に置かれていた。この第一方面軍約三十万人の軍司令官に山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜)は就任した。

 また、新設された第二方面軍の軍司令官は阿南惟幾中将(陸士一八・陸大三〇)だった。そして満州を統督する関東軍司令官は梅津美治郎大将(陸士一五・陸大二三首席)だった。

 山下中将がシンガポール攻略後の処遇、特に天皇拝謁の機会を得られなかった不満を、満州の空に吹き散らしたかの如く晴れ晴れと赴任したのは、この満州における人的配置にあった。

 梅津大将、山下中将、阿南中将の三将を比較すれば、見事に三者三様である。梅津大将はその冷智をうたわれ、山下中将は政治的手腕を評価され、阿南中将は篤実さを強調される。

233.山下奉文陸軍大将(13) 軍人は礼儀が大事だ。こんなものは、内地に追い返してしまえ

2010年09月10日 | 山下奉文陸軍大将
 陣中新聞特集号に掲載された北川冬彦の「昭南島風物詩二篇」のもう一篇の詩は次のようなものだった。

 「生活の営み」
 静かにして華かな熱帯の空が明け初めてゐる
 住民の女たちが
 深い草原で
 雑草を摘んでゐる、半身朝露に濡れて
 あれは 朝餐の一部になるのに違ひない

 この新聞が発行された日に、山下軍司令官が宣伝班事務所にやって来て、大きな声で宣伝班長の阿野中佐を叱りつけた。

 班長の部屋は階下、井伏鱒二たち班員は四、五人ずつに分かれて二階の小部屋にいた。井伏は、初めは誰かが喧嘩しているのだろうと思っていたが、山下軍司令官が怒鳴り込んできたのだった。

 事務所の建物は廊下が広く、階下も窓も硝子戸がなくて扉も開け放しのため、階下の大声は二回に筒抜けだった。とにかく大きな声だった。

 「こんな文章を、軍人のための詩といわれるか。敗戦国の住民が、草を摘んで朝飯に混ぜて食う。それがどうしたというのだ。草でも木の実でも、何でもいい。食べられるものを食べる。そこに何の不思議があるか。軍人は、枝葉末節にこだわってはならん。軍人は毅然たるところがなくてはならん」

 北川冬彦は昭和四年に発表した詩集「戦争」で、軍部の興隆を痛烈に批判したことがあった。それを山下軍司令官は脳裏に置いていたのかもしれない。

 階下は静かになった。「あの喧嘩、やっぱり声の大きい議論家の方が勝ったらしい」と思いながら井伏が、煙草を吸いながら仕事をしていると、目前の机を隔てて井伏の対面に腰をかけていた三人の少年志願兵が申し合わせたようにサッと立ち上がって、直立不動の姿勢をとった。

 少年兵たちの視線は、戸口の方に向いていた。「少年兵諸君、どうしたのかね」と井伏が言いかけたとき、廊下のほうに多数の人の気配がした。

 井伏は戸口に背を向けて机に座っていたので山下軍司令官が部屋をのぞいて、また出て行った時、井伏は気づかずにいたのだ。

 井伏は煙草を口にくわえたまま、戸口から廊下に顔を出した。すると、ちょうど、廊下の突き当りから山下軍司令官が引き返してくるところだった。

 山下軍司令官の左右には、参謀肩章を着けた十人ばかりの将校が従って、宣伝班長の阿野中佐が先導を勤めていた。井伏はあわてて顔を引っ込めた。悪いものを見たと思った。

 結果としては軍司令官が巡視に来ても、井伏は振り向きもせず、立ち上がりもしないで、椅子に座ったまま煙草をふかしていて、軍司令官が廊下を引き返して来た時、くわえ煙草で顔を出して、覗き見たことになった。

 少年兵たちを見ると、とんだことになったというように、三人とも起立したきりになっている。井伏は運を天にまかせて、戸口からずっと離れたところに退いて、起立して待った。

 果たして、山下軍司令官が、つかつかと入って来た。参謀達はのっしのっしと入って来た。山下軍司令官は井伏に向って「これは何者だ」と大きな声を出した。

 井伏はとっさに声が出なかった。代わりに阿野中佐が、「これは宣伝班員であります」と答えた。山下軍司令官は井伏を睨みつけて怒鳴った。「軍人は礼儀が大事だ。こんなものは、内地に追い返してしまえ」。

 井伏は「はい」と答えた。井伏は「はい」と言った自分の声を情けなく思った。それは井伏が自分の家庭で中学一年生の長男を叱るとき、「はい」と答える長男の声そっくりであったのだ。

 参謀達は山下軍司令官を中心に、いつのまにか、回りに並び、参謀肩章を着けた胸を張って斜めに構えていた。なかにはちらりと薄笑いするのもいた。

 山下軍司令官は長々と叱り続けた。「軍人は礼儀が大事だ」。叱り続ける間に、この言葉を少なくとも三度は繰り返した。

 阿野中佐は井伏の傍に来て「軍人は礼儀が大事だ。司令官閣下がお見えになったときは、一同起立して、最年長者の号令で、敬礼しなくてはならん。軍人は礼儀が大事だ」と、参謀達に聞こえるほどの声で言った。

 「はい、軍人は礼儀が大事であります」と復唱して井伏は山下軍司令官に敬礼した。これで、山下軍司令官と参謀達は引き揚げて行った。

232.山下奉文陸軍大将(12)山下中将はドイツ語で「いや、予はトラにあらず」とライネ大尉を制した

2010年09月03日 | 山下奉文陸軍大将
 山下中将には、シンガポール攻略後、「マレーの虎」という異名が献呈された。だが、山下中将は、ひどくこの異名を嫌った。確かに山下中将の眼光は虎に似て鋭く、その体重は大虎のようだ。

 だが、繊細な神経と他人への思いやりに富む山下中将としては、単に猛獣にすぎぬ動物に類比されるのは、好ましくなかった。

 シンガポール陥落のあと、お祝いかたがた戦跡視察にやってきたドイツ武官一行の招宴のとき、一行のP・ライネ大尉が左手に酒杯を捧げ、右手を高く伸ばし、かかとを打ち鳴らして「ゲネラール・ティゲール!(トラ将軍よ)」と敬意の叫びをあげた。

 すると、山下中将は眼をむきドイツ語で「いや、予はトラにあらず」とライネ大尉を制した。それから、次のように解説した。

 「トラは結局、臆病な危険獣にすぎん。自分より弱い相手に、しかも背後から襲いかかることしかしない。常に、弱いものを追い求め、老いぼれて体が利かなくなると、一番動きが鈍い人間をねらって人食いトラになる。品格下劣なケダモノと申せましょう」

 おかげで、ライネ大尉は、しばし、献杯の処置に困って赤面することになったが、その後も、賞賛の意を込めて、山下中将をトラと見立てる風潮は衰えなかった。

 シンガポール攻略の戦果は大きかった。捕獲した各種火砲約七四〇門、乗用車およびトラック約一万台、重軽機関銃二五〇〇挺以上、小銃約六万挺、小銃弾約三三六万発をはじめ、厖大な物資、糧秣のほか、英軍(英本国軍、オーストラリア軍、インド軍、マレー義勇軍)十三万八千七百八人のうち、十三万人以上を捕虜とした。

 シンガポールの攻略は、英国自体に対する勝利と解釈された。二月十六日、シンガポールに到着した侍従武官は、山下中将に賞賛をこめた天皇の聖旨、皇后の令旨を伝達した。

 日本内地からはちょうちん行列、祝賀会開催の報が相次ぎ、一面識あるいは面識皆無の人からも祝状が殺到した。山下中将の故郷、大杉村からは、にわかに山下中将の生家を訪れる客が増えた、と便りが届いた。

 「ヤマシタ」の名は全世界に知られ、ドイツ陸軍士官学校の戦史教科書にマレー作戦が書き加えられた。

 だが、これら惜しみなく寄せられる栄誉と賛辞に対して、山下中将はひどく慎重にこたえていた。シンガポール攻略の祝賀式も、晴れの入場式も行わなかった。

 攻略後暫く、山下中将の脳裡を占めたのは、マレー、シンガポール戦に倒れた部下三五〇七人(ほかに戦傷六一五〇人)だった。

 「丸エキストラ戦史と旅・将軍と提督」(潮書房)所収「山下奉文の人間性」(沖修二)によると、山下中将は無礼講の席でよく若い将校から「閣下、ぜひマレー、シンガポール攻略戦の苦心談をひとつ」と言われた。そのとき、山下中将は次のように答えるのが常であった。

 「マレーの戦いは敵を軽く見ていたことが図に当たったんだ。シンガポールでは敵がこちらを過大視してくれた。それ以外は自慢するような苦心談はない」

 「戦争である以上、どこまでも勝たねばならん。が、わしは、あまり戦争は好きではない。できるだけ殺しあわずに敵に勝つことだね」

 「徴用中のこと」(井伏鱒二・講談社)によると、作家の井伏鱒二は昭和十六年四十三歳の時、陸軍徴用員としてマレーに派遣され、シンガポールに赴いた。同時期に徴用された石川達三が三十六歳、丹羽文雄が三十七歳だった。

 井伏鱒二は軍司令官・山下奉文中将が指揮する第二十五軍の宣伝班に配属された。軍宣伝班の陣中新聞「建設戦」の第百号記念の特集号を発行したのは、昭和十七年四月十六日だった。

 その第一面には、林の中に立つ山下中将の写真が出て、「前線のゴム林から英軍陣地を睥睨する山下マレー方面軍最高指揮官」という説明があった。

 また、この軍国調でいっぱいになっている新聞の第四面には、北川冬彦の「昭南島風物詩二篇」と題したポエチカルな次のような詩が掲載されていた。

「或る雀」
水鶏に似た鳥の鳴き声が
暁の空にそびえ立つ椰子の樹蔭から
聞こえてくる・・・くわく、くわく、くわく、・・・
一日の仕事の計劃に 思いをはせながら
ふと見れば いつ舞い込んだのか
一羽の雀が
卓の上の たべ残しの麺麭を
しきりに啄んでゐる、何の警戒の色もなく。