陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

383.真崎甚三郎陸軍大将(3)閑院宮元帥が渋ると、「では、陸相を辞めさせてもらう」と開き直った

2013年07月26日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 さらに参謀総長・金谷範三大将(かなや・はんぞう・大分・陸士五・陸大一五恩賜・参謀本部作戦課長・少将・支那駐屯軍司令官・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・参謀本部次長・陸大校長・朝鮮軍司令官・大将・参謀総長・軍事参議官・在任中に死去)も真崎中将の首切りを主張していた。

 だが、この真崎の首切りに反対したのが、薩肥閥の領袖で、千葉県一宮海岸に隠棲している陸軍最長老の上原勇作元帥だった。真崎少将の中将昇進を後押ししたその人である。

 また、薩肥閥の先輩、武藤信義大将(むとう・のぶよし・佐賀・陸士三・陸大一三首席・参謀本部作戦課長・少将・歩兵第二三旅団長・ハルピン特務機関長・参謀本部第一部長・中将・参謀本部総務部長・第三師団長・参謀次長・大将・関東軍司令官・教育総監・参謀総長・関東軍司令官・関東長官・元帥・在任中に死去・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・男爵)も真崎中将の退役に反対した。

 さらに、第一師団参謀長・磯谷廉介大佐、軍事課長・永田鉄山大佐、歩兵第一連隊長・東條英機大佐といった大佐クラスも真崎中将助命運動に乗り出し、「こんな立派な師団長をクビにするとは何事だ」と陸軍省首脳に強談判して回った。当時は永田大佐も真崎中将を尊敬していた。

 このような状況から、さすがに金谷総参謀長や南陸軍大臣も「それなら台湾にでもやるか」ということになり、真崎中将はクビがつながり、昭和六年八月一日台湾軍司令官に転補となった。

 元老・西園寺公望が政友会総裁の犬養毅を首相として昭和天皇に推薦し、昭和六年十二月十三日、犬養内閣が発足した。

 「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、薩肥閥は、犬養内閣の陸軍大臣に、荒木貞夫中将(あらき・さだお・東京・陸士九・陸大一九首席・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸大校長・第六師団長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・文部大臣)を押し込むことに成功し、一気に勢力拡大を狙った。

 元老、重臣、枢密院議員、宮中グループも荒木の陸相登用に賛同した。

 彼らは「三月事件」、「十月事件」のようなクーデター計画の再発やテロ事件の暴発に危惧を感じ、それらの急進的行動を制御するために青年将校に熱狂的人気のある荒木が陸相に最適との判断を下した。

 台湾にいた真崎甚三郎中将にも千載一隅のチャンスが巡ってきた。荒木は陸相が決定した時から真崎の参謀総長を望んだが、宇垣一成・南次郎一派を始めとして、猛反対が起こった。

 彼らの言い分は、「三長官のうち、後の二人は大将であるべきだ」というのだった。荒木も真崎もまだ中将だった。彼らの狙いは前陸相の南次郎大将を留任させることにあった。

 これに対し、荒木一派は皇族を参謀総長にして、次長を真崎中将にすることを考えた。そうすれば真崎中将が実質的な参謀総長になれる。

 そこで人を介して元帥・大将・閑院宮載仁親王(かんいんのみや・ことひとしんのう・皇族・伏見宮邦家親王第十六王子・閑院宮家を継承・陸軍幼年学校卒・フランスの陸軍士官学校・騎兵学校・陸軍大学校を卒業・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第二旅団長・日露戦争出征・中将・第一師団長・近衛師団長・大将・軍事参議官・昭憲皇太后御大葬総裁・元帥・大勲位菊花章頸飾・大正天皇御大葬総裁・昭和天皇即位の大礼総裁・参謀総長・議定官・功一級金鵄勲章)に要請すると、渋々ではあるが承知した。

 だが、閑院宮元帥は真崎中将の参謀次長就任には難色を示した。そこで荒木中将の直接談判となった。荒木中将は皇族の前に出ても全くたじろがない性格だった。

 閑院宮元帥が渋ると、「では、陸相を辞めさせてもらう」と開き直った。とうとう荒木中将の気迫に押されて、閑院宮元帥も承知せざるを得なかった。

 昭和七年一月八日、真崎中将は参謀次長に就任した。実質的な参謀総長であった。教育総監は薩肥閥の武藤信義大将の留任だから、薩肥閥は陸軍三長官を独占することになったのである。

 だが、南次郎大将一派は抵抗して、陸軍次官に宇垣四天王の一人である小磯國昭中将(こいそ・くにあき・栃木・陸士一二・陸大二二・歩兵第五一連隊長・参謀本部編成動員課長・少将・整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・予備役・拓務大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯・巣鴨拘置所内で食道がんで死去)の登用に成功した。

 陸相のポストを奪われ軍事参議官の閑職となった憤懣やる方ない南大将は怒りを込めて、日記に次のように記している(抜粋)。

 「真崎次長ト大臣ト連合シ人事天降リ多シ」(二月二十日付)。「右ハ佐賀系(薩肥閥)ヲ入レテ中央ヲ固ムルモノナリ」「人事不良ナリ。且ツ方法不純ナリ」(三月二十五日付)。

382.真崎甚三郎陸軍大将(2)陸軍次官・杉山元中将に確かめると、「真崎はクビだ」と断言した

2013年07月19日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、真崎甚三郎は陸軍士官学校九期だが、この期から、真崎甚三郎を含め、本庄繁、阿部信行、荒木貞夫、松井石根(まつい・いわね・愛知・陸士九次席・陸大一八首席・歩兵第三五旅団長・参謀本部第二部長・中将・第一一師団長・台湾軍司令官・大将・中支那方面軍司令官・内閣参議・正三位・勲一等・功一級・戦犯で死刑)、林仙之(はやし・なりゆき・熊本・陸士九・陸大二〇・歩兵第三〇旅団長・陸軍士官学校長・中将・教育総監部本部長。第一師団長・東京警備司令官・大将)と、六人の大将が出ている。

 昭和二年三月、真崎甚三郎少将は陸軍中将に昇進し、弘前の第八師団長に転出した。佐賀出身の真崎中将は、この時期、薩肥閥の有力な一人と目されていた。

 その派閥の領袖で軍長老の上原勇作元帥(うえはら・ゆうさく・鹿児島・陸士旧三・フランス・フォンテンブロー砲工学校卒・陸軍砲工学校校長・工兵監・中将・男爵・第七師団長・第一四師団長・陸軍大臣・教育総監・大将・参謀総長・子爵・元帥・従一位・大勲位・功二級)らの後押しで、真崎少将の中将昇進が実施された。

 昭和五年春、朝日新聞記者・高宮太平(福岡・朝日新聞社・陸軍記者・満州局次長・京城日報社長・内閣情報局嘱託・「米内光政」「天皇陛下」「軍国太平記」など著書多数・昭和三十六年死去)は陸軍担当記者になった。

 当時、陸軍大派閥の長州閥を継いだ陸軍大臣・宇垣一成大将(うがき・かずしげ・岡山・陸士一・陸大一四恩賜・参謀本部第一部長・中将・第一〇師団長・陸軍次官・陸軍大臣・大将・朝鮮総督・外務大臣・拓殖大学学長・戦後参議院議員・正二位・勲一等・功四級)は、独自の派閥を形成して、政界にも影響力を持っていた。

 昭和六年三月、橋本欣五郎中佐ら「桜会」が中心となったクーデター未遂事件が起きた。「三月事件」である。三月二十日決行の予定だった。

 当時の陸軍次官・杉山元中将(すぎやま・げん<はじめ>・福岡・陸士一二・陸大二二・軍務局長・第一二師団長・参謀次長・陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・陸軍大臣・第一総軍司令官・自決)が関わっており、宇垣一成大将を首班にする計画だった。

 さらにこのクーデターには、軍務局長・小磯国昭少将(こいそ・くにあき・栃木・陸士一二・陸大二二・陸軍省整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・拓務大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯・巣鴨拘置所内で死去・従二位・勲一等・功二級)、軍事課長・永田鉄山大佐(ながた・てつざん・長野・陸士一六首席・陸大二三次席・軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・軍務局長・刺殺される・中将)ら中央の幕僚が多数関わっていた。

 ところが、真崎中将直系である教育総監部第二課長・山岡重厚大佐(やまおか・しげあつ・高知・陸士一五・陸大二四・教育総監部第二課長・少将・歩兵第一旅団長・軍務局長・整備局長・中将・第九師団長・予備役・第一〇九師団長・善通寺師管区司令官)、それに永田大佐と同期である陸軍歩兵学校研究部主事・小畑敏四郎大佐(おばた・としろう・高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜・参謀本部作戦課長・歩兵第一〇連隊長・陸軍歩兵学校研究部主事・陸大教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸大校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣)らがこのクーデター計画に反対した。

 さらに三月十五日、クーデターのため兵を動かす予定の第一師団の師団長・真崎甚三郎中将は、参謀長・磯谷廉介大佐(いそがい・れんすけ・兵庫・陸士一六・陸大二七・歩兵第七連隊長・第一師団参謀長・教育総監部第二課長・陸軍省人事局補任課長・少将・参謀本部第二部長・軍務局長・中将・第一〇師団長・関東軍参謀長・予備役・香港総督・戦犯)からクーデター計画の情報を得て激怒した。

 真崎師団長は断固反対の立場をとり、磯谷参謀長を永田軍事課長のもとに派遣して、その計画を中止するよう厳重に警告した。

 真崎の手記「現世相に関する備忘録」(昭和十一年六月)によると、真崎は次のように記している。

 「磯谷参謀長から十八日やるとの話……予は反対し司令官(参謀総長)の命ありても、不純の目的のために予は責任を以って兵を配置せず、直ちに永田に伝えよ」。

 このような状況から、永田軍事課長は宇垣大将に進言し、クーデターは中止となった。

 昭和六年八月の人事で、朝日新聞の高宮記者は、真崎甚三郎中将が退役を命ぜられると耳にした。同郷のよしみで陸軍次官・杉山元中将に確かめると、「真崎はクビだ」と断言した。

 宇垣四天王と一人といわれる杉山中将は、「三月事件」における、真崎中将の態度に対して報復人事を画策していた。

 だが、最も強硬に真崎甚三郎中将の退役を主張していたのは、宇垣大将の腹心である当時の陸軍大臣・南次郎大将(みなみ・じろう・大分・陸士六・陸大一七・軍務局騎兵課長・少将・騎兵第三旅団長・陸軍士官学校長・中将・騎兵監・第一六師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・陸軍大臣・関東軍司令官兼駐満州国大使・予備役・朝鮮総督・枢密院顧問・貴族院議員)であった。

381.真崎甚三郎陸軍大将(1)ここの宮さんは国家観念に乏しい

2013年07月12日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、頭の回転のす早い聡明な昭和天皇は、青年将校の革新的思想、運動はどのようにして発展したものであるかということについては、あれこれ思索し、側近にも問いただしたことと思われる。

 そして、その革新思想の源泉は一君万民の皇道精神であり、それを最も鮮烈に印象づけたものは士官学校の精神教育、とりわけそれを徹底的に鼓吹した時期は、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや・やすひとしんのう・昭和天皇の弟・陸士三四)の同期、三四期から四〇期までの士官候補生が在校した時期だ。

 その時の責任者は誰であったか。ここに教育者としての真崎甚三郎が浮かび上がってくる。この時期(大正十一年~昭和二年)に、真崎少将は、陸軍士官学校の本科長、幹事、そして校長として、皇道教育に心血を注いだのだった。

 だが、真崎少将は、皇道精神は説いたが、革新思想を鼓吹したのでは決してなかった。青年将校運動としての革新思想は、例えば、北一輝や大川周明らの思想を媒体として発展したものだった。

 しかしながら、革新運動としての青年将校らの昭和維新の原点は鮮烈な皇道精神にあったことは確かである。このような革新運動の青年将校が最も多く集まったのが、昭和天皇の弟、秩父宮の原隊である歩兵第三連隊であった。

 鋭敏な秩父宮は在学中から同期の西田税らによって影響を受けた。二・二六事件の前年、秩父宮は革命の教祖といわれた北一輝と秘密裡に会合している。その席には西田税らもいたといわれている。

 昭和天皇の頭に、皇弟、秩父宮→青年将校→士官学校の皇道教育という図式の延長上に、校長・真崎甚三郎少将の姿が浮上したとき、昭和天皇は真崎甚三郎に対する、あるよからぬ感情、憎悪に似た感情が動き始めた。

 革新思想の持ち主でない真崎が、革新思想の頭領のごとく一般に錯覚されたところに、真崎の致命的な不幸が芽生えたのだ。

 昭和七年、真崎中将が参謀次長のとき、昭和天皇は、真崎中将が上奏した書類の決裁を、わざと二、三日遅らすという扱いをするようになった、という風評が立った。

 参謀次長の要職にあった真崎中将もこれにはさすがに閉口した。思案に余って、東久邇宮稔彦王(ひがしくににみや・なるひこおう・陸士二〇・陸大二六・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長・第二軍司令官・防衛総司令官・昭和十四年八月大将・首相)を訪ねて、次のように相談をした。

 「近来、陛下には、参謀本部や陸軍からの上奏に対して、なかなか御裁可がない。外務や総理らの上奏に対するのとは、おのずからそこに違いがあるように思われる。どうかして、もう少し陛下が参謀本部からの申し上げることに対して御嘉納あらせられるよう、殿下のお力添いを願いたい」。

 これに対して、東久邇宮少将(昭和八年八月中将・第二師団長)は、次のように答えて、きっぱり断った。

 「それは、いかに次長の命令でも従うわけにはいかない。というのは、自分の如き責任の衝にない者からそういうことを陛下に申し上げては、まず第一に官紀を紊し、軍律を破壊することになるのではないか。また、その責任の衝にある人者にも迷惑を及ぼすのではないか」

 「元来、陛下は、総理大臣を始め各大臣からの上奏に対して、全般から見ての判断を下されるのであって、ひとり陸軍のみに偏した御嘉納を期待するが如き申し条は、甚だけしからんと思う。そういう話には、自分は一切同意したり服従したりすることはできない」。

 以上の言葉を聞いて、参謀次長・真崎中将は色をなして東久邇宮少将に次のように言った。

 「殿下が、責任を云々なさるというのは間違いである。皇族としてじきじき陛下にお仕えになる以上、普通の官吏のようなことをおっしゃるべきでない」。

 真崎中将は、非常に憤慨して、帰って行った。その後日、真崎中将が突然、東久邇宮の事務官を訪ねてきて、「ここの宮さんは国家観念に乏しい」と言って憤慨していたという。それ以来、東久邇宮とは悪感情のままになっている。

<真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)陸軍大将プロフィル>
明治九年十一月二十七日、佐賀県神埼郡境野村(現・千代田町)生まれ。真崎要七(農業)の長男。弥市、勝次(海兵三四・海軍少将・衆議院議員)、イト、エイの四人の弟、妹がある。
明治二十八年(十九歳)佐賀中学校卒業後、十二月一日士官候補生として歩兵第二三連隊補充大隊へ入隊。
明治二十九年(二十歳)九月一日陸軍士官学校入校。
明治三十年(二十一歳)十一月二十九日陸軍士官学校卒業(士候九期)。見習士官。
明治三十一年(二十二歳)六月二十七日歩兵少尉。歩兵第四六連隊付。
明治三十三年(二十四歳)十一月二十一日歩兵中尉。歩兵第四二連隊付。十二月二十日陸軍士官学校付(区隊長)。
明治三十五年(二十六歳)八月九日陸軍大学校入校。
明治三十七年(二十八歳)二月五日日露戦争のため動員下令。二月十一日歩兵第四六連隊中隊長。六月二十九日歩兵大尉。
明治三十九年(三十歳)三月六日陸軍大学校復校。四月、中島仁之助の長女、信千代と結婚。
明治四十年(三十一歳)十一月二十八日陸軍大学校卒業(第一九期恩賜)。首席の荒木貞夫(陸士九・大将・陸軍大臣)、阿部信行(陸士九・大将・台湾軍司令官・総理大臣)、黒沢準(陸士一〇・中将・参謀本部総務部長)、原口初太郎(陸士八・中将・第五師団長)、小松慶也(陸士九・騎兵大尉・第八師団参謀・アルゼンチンへ渡り略農家)らと共に恩賜の軍刀組。恩賜ではないが本庄繁(陸士九・大将・侍従武官長)も同期。陸軍省軍務局出仕。軍事課・課員。
明治四十二年(三十三歳)一月二十八日歩兵少佐。
明治四十四年(三十五歳)五月一日軍事研究のためドイツ駐在。
大正三年(三十八歳)二月六日帰国。六月歩兵第四二連隊大隊長。十一月十九日歩兵中佐。歩兵第五三連隊付。
大正四年(三十九歳)五月二十五日久留米捕虜収容所長。
大正五年(四十歳)十一月十五日教育総監部第二課長。
大正七年(四十二歳)一月十八日歩兵大佐。
大正九年(四十四歳)八月十日陸軍省軍務局軍事課長。
大正十年(四十五歳)七月二十日近衛歩兵第一連隊長。
大正十一年(四十六歳)八月十五日陸軍少将、近衛歩兵第一旅団長。
大正十二年(四十七歳)八月六日陸軍士官学校本科長。
大正十三年(四十八歳)三月欧米出張(~九月)。
大正十四年(四十九歳)五月一日陸軍士官学校幹事兼教授部長。
大正十五年(五十歳)三月二日陸軍士官学校長。
昭和二年(五十一歳)三月五日陸軍中将。八月二十六日第八師団長。
昭和四年(五十三歳)七月一日第一師団長。
昭和六年(五十五歳)八月一日台湾軍司令官。
昭和七年(五十六歳)一月八日参謀次長。特に親任官の待遇を賜う。八月八日兼軍事参議官。
昭和八年(五十七歳)六月十九日陸軍大将、軍事参議官。
昭和九年(五十八歳)一月二十九日教育総監兼軍事参議官。
昭和十年(五十九歳)七月十六日教育総監を免ぜられ軍事参議官に補される。
昭和十一年(六十歳)三月六日待命。三月十日予備役。六月十一日、二・二六事件の反乱幇助で軍法会議に起訴され、七月五日代々木の陸軍衛戍刑務所に収監。
昭和十二年(六十一歳)九月二十五日軍法会議で無罪判決。
昭和十六年(六十五歳)佐賀県教育会長に就任。
昭和二十年(六十九歳)十一月十九日A級戦犯として巣鴨プリズンに収監。極東国際軍事裁判(東京裁判)で不起訴。
昭和三十一年八月三十一日死去。享年七十九歳。葬儀委員長は荒木貞夫。

380.黒島亀人海軍少将(20)そんなことは、長官はよく分かっておられる。よけいなことを言うな

2013年07月04日 | 黒島亀人海軍少将
 黒島大佐は仰天した。海軍の至宝が、そのような前線を視察するのは非常に危険だ。黒島大佐は言った。「おやめください、長官。あまりに危険です。長官に万一のことがあれば、海軍は崩壊します」。

 渡辺参謀も、黒島大佐に同調して叫んだ。「おやめください」。その席に出席している、主要幹部の多くの者が、山本長官の前線視察に反対して、説得にかかった。

 「しかし、日露戦争の児玉大将の例もあるからな。第一線の将兵にはかなりの刺戟になると思う」と山本長官は厳しい表情で言った。

 「お言葉ですが、長官、児玉大将は総参謀長で総司令官ではありませんでした。総司令官の大山大将は、煙台から離れたりしなかったはずです」と黒島大佐は言った。

 「そんなことは、長官はよく分かっておられる。よけいなことを言うな」。第三艦隊司令長官・小沢治三郎中将(宮崎・海兵三七・海大一九・巡洋戦艦「榛名」艦長・少将・海大教官・水雷学校長・第一戦隊司令官・中将・海大校長・第三艦隊司令長官・軍令部次長・連合艦隊司令長官)がピシャリと黒島大佐に言った。

 確かに、僭越な発言だった。黒島大佐は恥じて、山本長官に目をやった。二人の視線が合ったが、山本長官はすぐに目をそらした。黒島大佐に対して、これまでになかったよそよそしい、山本長官の表情だった。

 この時、黒島大佐は知らなかったが、山本長官はすでに黒島大佐の更迭を決心していた。山本長官は、第十一航空艦隊司令長官・草鹿任一中将(石川・海兵三七・海大一九・戦艦「扶桑」艦長・少将・砲術学校長・教育局長・中将・海兵校長・第一一航空艦隊司令長官・草鹿龍之介少将と従兄弟)と小沢治三郎中将に黒島大佐更迭の意向を打ち明け、他の適任者を推薦するよう頼んでいた。

 山本長官は、戦局の変化に応じて、先任参謀を変えることにより、打開を図ることを考えていた。だが、黒島大佐を見限ったのではなかった。黒島大佐の異能を最大限に発揮できるよう、中央のポストにつかせるのが、緊迫をます戦局において全海軍のためであるとも思っていた。

 「い」号作戦は、成功し、終了した。そして四月十八日、山本長官、宇垣参謀長らは第七〇五航空隊の二機の一式陸攻に分乗し、前線視察に向けて飛び立った。

 当時、黒島大佐は原因不明の激しい下痢に苦しんでいた。山本長官は、前日、「ガンジー(黒島大佐のニックネーム)、明日は行かなくていいぞ。静養していろ」と言った。黒島大佐は、それを受け入れてラバウルに残った。

 二機と護衛戦闘機がブーゲンビル島上空にきたとき、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング戦闘機十六機に突然襲撃され、山本長官の一番機と宇垣参謀長の二番機ともに撃墜され、山本長官は戦死した。宇垣参謀長は生還した。山本長官の前線視察は暗号解読によりアメリカ軍に事前に漏れていた。

 昭和十八年七月十九日黒島亀人大佐は軍令部第二部長に補任された。四十九歳だった。十一月に海軍少将に昇進し、終戦まで第二部長として特攻兵器の研究・開発に従事した。

 戦後は、東京で「白梅商事」(顕微鏡販売)を設立し、山本五十六の未亡人である山本礼子を入社させ、副社長に就任させた。社長は木村愛子で、黒島は常務だった。

 軍神の妻である山本礼子も、戦後は、トタン屋根の下で、窮乏生活を送っていた。人づてに、それを聞いた黒島が、援助の手を差しのべたのだった。

 黒島亀人は、その後家族と別居し、東京世田谷の木村愛子の邸宅に同居。哲学・宗教の研究に没頭して晩年まで過ごした。

 昭和四十年十月二十日、黒島亀人は肺ガンで死去した。享年七十二歳だった。黒島亀人は、昏睡のなかで、「南の空に飛行機が飛んでいく」と、うわ言のように言い、息を引き取ったという。

 「南の空に飛行機が飛んでいく」という言葉にあった飛行機は、自分が見送った、最前線視察に飛び立った山本五十六長官の搭乗機だったのか……。ようやく山本五十六のそばにいけるという思いが、最後の言葉になったのだろうか……。

 (「黒島亀人海軍少将」は今回で終わりです。次回からは「真崎甚三郎陸軍大将」が始まります)