さらに参謀総長・金谷範三大将(かなや・はんぞう・大分・陸士五・陸大一五恩賜・参謀本部作戦課長・少将・支那駐屯軍司令官・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・参謀本部次長・陸大校長・朝鮮軍司令官・大将・参謀総長・軍事参議官・在任中に死去)も真崎中将の首切りを主張していた。
だが、この真崎の首切りに反対したのが、薩肥閥の領袖で、千葉県一宮海岸に隠棲している陸軍最長老の上原勇作元帥だった。真崎少将の中将昇進を後押ししたその人である。
また、薩肥閥の先輩、武藤信義大将(むとう・のぶよし・佐賀・陸士三・陸大一三首席・参謀本部作戦課長・少将・歩兵第二三旅団長・ハルピン特務機関長・参謀本部第一部長・中将・参謀本部総務部長・第三師団長・参謀次長・大将・関東軍司令官・教育総監・参謀総長・関東軍司令官・関東長官・元帥・在任中に死去・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・男爵)も真崎中将の退役に反対した。
さらに、第一師団参謀長・磯谷廉介大佐、軍事課長・永田鉄山大佐、歩兵第一連隊長・東條英機大佐といった大佐クラスも真崎中将助命運動に乗り出し、「こんな立派な師団長をクビにするとは何事だ」と陸軍省首脳に強談判して回った。当時は永田大佐も真崎中将を尊敬していた。
このような状況から、さすがに金谷総参謀長や南陸軍大臣も「それなら台湾にでもやるか」ということになり、真崎中将はクビがつながり、昭和六年八月一日台湾軍司令官に転補となった。
元老・西園寺公望が政友会総裁の犬養毅を首相として昭和天皇に推薦し、昭和六年十二月十三日、犬養内閣が発足した。
「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、薩肥閥は、犬養内閣の陸軍大臣に、荒木貞夫中将(あらき・さだお・東京・陸士九・陸大一九首席・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸大校長・第六師団長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・文部大臣)を押し込むことに成功し、一気に勢力拡大を狙った。
元老、重臣、枢密院議員、宮中グループも荒木の陸相登用に賛同した。
彼らは「三月事件」、「十月事件」のようなクーデター計画の再発やテロ事件の暴発に危惧を感じ、それらの急進的行動を制御するために青年将校に熱狂的人気のある荒木が陸相に最適との判断を下した。
台湾にいた真崎甚三郎中将にも千載一隅のチャンスが巡ってきた。荒木は陸相が決定した時から真崎の参謀総長を望んだが、宇垣一成・南次郎一派を始めとして、猛反対が起こった。
彼らの言い分は、「三長官のうち、後の二人は大将であるべきだ」というのだった。荒木も真崎もまだ中将だった。彼らの狙いは前陸相の南次郎大将を留任させることにあった。
これに対し、荒木一派は皇族を参謀総長にして、次長を真崎中将にすることを考えた。そうすれば真崎中将が実質的な参謀総長になれる。
そこで人を介して元帥・大将・閑院宮載仁親王(かんいんのみや・ことひとしんのう・皇族・伏見宮邦家親王第十六王子・閑院宮家を継承・陸軍幼年学校卒・フランスの陸軍士官学校・騎兵学校・陸軍大学校を卒業・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第二旅団長・日露戦争出征・中将・第一師団長・近衛師団長・大将・軍事参議官・昭憲皇太后御大葬総裁・元帥・大勲位菊花章頸飾・大正天皇御大葬総裁・昭和天皇即位の大礼総裁・参謀総長・議定官・功一級金鵄勲章)に要請すると、渋々ではあるが承知した。
だが、閑院宮元帥は真崎中将の参謀次長就任には難色を示した。そこで荒木中将の直接談判となった。荒木中将は皇族の前に出ても全くたじろがない性格だった。
閑院宮元帥が渋ると、「では、陸相を辞めさせてもらう」と開き直った。とうとう荒木中将の気迫に押されて、閑院宮元帥も承知せざるを得なかった。
昭和七年一月八日、真崎中将は参謀次長に就任した。実質的な参謀総長であった。教育総監は薩肥閥の武藤信義大将の留任だから、薩肥閥は陸軍三長官を独占することになったのである。
だが、南次郎大将一派は抵抗して、陸軍次官に宇垣四天王の一人である小磯國昭中将(こいそ・くにあき・栃木・陸士一二・陸大二二・歩兵第五一連隊長・参謀本部編成動員課長・少将・整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・予備役・拓務大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯・巣鴨拘置所内で食道がんで死去)の登用に成功した。
陸相のポストを奪われ軍事参議官の閑職となった憤懣やる方ない南大将は怒りを込めて、日記に次のように記している(抜粋)。
「真崎次長ト大臣ト連合シ人事天降リ多シ」(二月二十日付)。「右ハ佐賀系(薩肥閥)ヲ入レテ中央ヲ固ムルモノナリ」「人事不良ナリ。且ツ方法不純ナリ」(三月二十五日付)。
だが、この真崎の首切りに反対したのが、薩肥閥の領袖で、千葉県一宮海岸に隠棲している陸軍最長老の上原勇作元帥だった。真崎少将の中将昇進を後押ししたその人である。
また、薩肥閥の先輩、武藤信義大将(むとう・のぶよし・佐賀・陸士三・陸大一三首席・参謀本部作戦課長・少将・歩兵第二三旅団長・ハルピン特務機関長・参謀本部第一部長・中将・参謀本部総務部長・第三師団長・参謀次長・大将・関東軍司令官・教育総監・参謀総長・関東軍司令官・関東長官・元帥・在任中に死去・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級・男爵)も真崎中将の退役に反対した。
さらに、第一師団参謀長・磯谷廉介大佐、軍事課長・永田鉄山大佐、歩兵第一連隊長・東條英機大佐といった大佐クラスも真崎中将助命運動に乗り出し、「こんな立派な師団長をクビにするとは何事だ」と陸軍省首脳に強談判して回った。当時は永田大佐も真崎中将を尊敬していた。
このような状況から、さすがに金谷総参謀長や南陸軍大臣も「それなら台湾にでもやるか」ということになり、真崎中将はクビがつながり、昭和六年八月一日台湾軍司令官に転補となった。
元老・西園寺公望が政友会総裁の犬養毅を首相として昭和天皇に推薦し、昭和六年十二月十三日、犬養内閣が発足した。
「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、薩肥閥は、犬養内閣の陸軍大臣に、荒木貞夫中将(あらき・さだお・東京・陸士九・陸大一九首席・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸大校長・第六師団長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・文部大臣)を押し込むことに成功し、一気に勢力拡大を狙った。
元老、重臣、枢密院議員、宮中グループも荒木の陸相登用に賛同した。
彼らは「三月事件」、「十月事件」のようなクーデター計画の再発やテロ事件の暴発に危惧を感じ、それらの急進的行動を制御するために青年将校に熱狂的人気のある荒木が陸相に最適との判断を下した。
台湾にいた真崎甚三郎中将にも千載一隅のチャンスが巡ってきた。荒木は陸相が決定した時から真崎の参謀総長を望んだが、宇垣一成・南次郎一派を始めとして、猛反対が起こった。
彼らの言い分は、「三長官のうち、後の二人は大将であるべきだ」というのだった。荒木も真崎もまだ中将だった。彼らの狙いは前陸相の南次郎大将を留任させることにあった。
これに対し、荒木一派は皇族を参謀総長にして、次長を真崎中将にすることを考えた。そうすれば真崎中将が実質的な参謀総長になれる。
そこで人を介して元帥・大将・閑院宮載仁親王(かんいんのみや・ことひとしんのう・皇族・伏見宮邦家親王第十六王子・閑院宮家を継承・陸軍幼年学校卒・フランスの陸軍士官学校・騎兵学校・陸軍大学校を卒業・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第二旅団長・日露戦争出征・中将・第一師団長・近衛師団長・大将・軍事参議官・昭憲皇太后御大葬総裁・元帥・大勲位菊花章頸飾・大正天皇御大葬総裁・昭和天皇即位の大礼総裁・参謀総長・議定官・功一級金鵄勲章)に要請すると、渋々ではあるが承知した。
だが、閑院宮元帥は真崎中将の参謀次長就任には難色を示した。そこで荒木中将の直接談判となった。荒木中将は皇族の前に出ても全くたじろがない性格だった。
閑院宮元帥が渋ると、「では、陸相を辞めさせてもらう」と開き直った。とうとう荒木中将の気迫に押されて、閑院宮元帥も承知せざるを得なかった。
昭和七年一月八日、真崎中将は参謀次長に就任した。実質的な参謀総長であった。教育総監は薩肥閥の武藤信義大将の留任だから、薩肥閥は陸軍三長官を独占することになったのである。
だが、南次郎大将一派は抵抗して、陸軍次官に宇垣四天王の一人である小磯國昭中将(こいそ・くにあき・栃木・陸士一二・陸大二二・歩兵第五一連隊長・参謀本部編成動員課長・少将・整備局長・軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・第五師団長・朝鮮軍司令官・大将・予備役・拓務大臣・朝鮮総督・首相・A級戦犯・巣鴨拘置所内で食道がんで死去)の登用に成功した。
陸相のポストを奪われ軍事参議官の閑職となった憤懣やる方ない南大将は怒りを込めて、日記に次のように記している(抜粋)。
「真崎次長ト大臣ト連合シ人事天降リ多シ」(二月二十日付)。「右ハ佐賀系(薩肥閥)ヲ入レテ中央ヲ固ムルモノナリ」「人事不良ナリ。且ツ方法不純ナリ」(三月二十五日付)。