十月十二日、桂中将は、松方首相宛てに、台湾総督の辞職願を提出した。だが、辞表は受理されないまま、宙に浮いていた。
遂に、桂中将は、海軍大臣・西郷従道大将に立ち合いを頼み、共に官邸に行き、松方首相と会見した。桂中将は、「台湾総督就任は受けられない」と言ったが、松方首相の返事ははっきりしなかった。
そのあと、桂太郎中将は、高島陸軍大臣を訪ね、台湾総督の留任はしない旨を告げた。すると高島陸軍大臣は「分かった。辞表は受理するよう取り図るが、今後、台湾統治について助言を頼む。また、後任の台湾総督を推薦してくれ」と言った。
この言葉で、桂太郎中将は、表情を和らげ、了承した。後任については、第二師団長・乃木希典中将に内定することに決めた。
明治二十九年十月十四日、桂太郎中将は、東京防禦総督に就任した。この官職は、明治二十八年一月、日清戦争に伴い、防務条例が公布され、東京の衛戍司令官とともに首都防衛の為に設置された。だが、平時は閑職だった。
第二次松方内閣は、地租増徴法案を次年度予算案の中に入れて提出しようとしたため、与党の進歩党が離反して、内閣総辞職となった。
明治三十年十二月二十九日、伊藤博文に組閣の大命が下った。伊藤首相は、中国情勢が緊迫している状況で、挙国一致の体制を作るため、進歩党、自由党の両党との提携を実現して、日清戦争後の経営を乗り切ろうとした。
だが、大隈重信も、板垣退助も入閣を断り、挙国一致構想は出足から崩れた。
伊藤博文首相は、入閣交渉に桂太郎中将を帯同し、また、桂中将自身にも入閣交渉をやらせた。桂中将は西郷従道海軍大将に海軍大臣留任の要請をし、成功した。桂中将は、伊藤首相の組閣参謀であった。
明治三十一年一月十二日、第三次伊藤内閣が発足した。桂太郎中将は陸軍大臣に就任した。
伊藤内閣には、井上馨が大蔵大臣、西園寺公望が文部大臣として入閣したが、有力な与党はなく、国民協会だけを与党とした官僚内閣であった。
伊藤内閣は、前内閣に引き続き地租増徴法案を提出したが、法案は否決されたため、政府は衆議院を解散した。
板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる進歩党も、共に藩閥内閣打倒を叫んで、ことごとく、政府と対立したのである。
伊藤首相はこうした事態に対処するため、国策を遂行できる政党を結成して対抗する以外はないと考えた。だが、元老・山縣有朋元帥は政党結成に反対した。
山縣元帥は、自分の息のかかった、陸軍大臣・桂太郎中将、内務大臣・芳川顕正(よしかわ・あさまさ・徳島・徳島藩士・維新後大蔵省・東京府知事<四十歳>・文部大臣・宮中顧問官・司法大臣<五十一歳>・内務大臣・逓信大臣・子爵・逓信大臣・内務大臣・伯爵・枢密院副議長・南洋協会初代会頭・伯爵・勲一等旭日桐花大綬章)ら山縣系閣僚にも、反対の意を伝えた。
こうした伊藤首相の新党結成の動きに対応して、地租案反対で歩調を一致していた自由党と進歩党は、この際一挙に両党合同して、六月二十一日、憲政党を結成した。
首相として政党結成に挫折した伊藤首相は、首相を辞任して、野に下って、政党結成を目指す考えを、陸軍大臣・桂中将に意見を問うた。
これに対して、桂中将は、「戦後経営は是が非でも実現しなければならない。政党結成は断念して、諸元老を入閣させ、内閣を強化し、反対する衆議院を再三解散する覚悟で収拾すべきだ」と進言した。
だが、伊藤博文首相は、六月二十四日、諸元老と会談して、新政党を結成して反対党と闘うと主張して、元老らの意見を求めた。
山縣元帥は「現職の首相は政党を組織するべきではない」と反対した。すると伊藤首相は「首相を辞任する」と言い切った。
さらに山縣元帥が、「元老の身分になっても、不可である」と言うと、伊藤首相は「官職・勲爵を辞して実行する。元老会議にはかる必要はない」と強弁した。
遂に、桂中将は、海軍大臣・西郷従道大将に立ち合いを頼み、共に官邸に行き、松方首相と会見した。桂中将は、「台湾総督就任は受けられない」と言ったが、松方首相の返事ははっきりしなかった。
そのあと、桂太郎中将は、高島陸軍大臣を訪ね、台湾総督の留任はしない旨を告げた。すると高島陸軍大臣は「分かった。辞表は受理するよう取り図るが、今後、台湾統治について助言を頼む。また、後任の台湾総督を推薦してくれ」と言った。
この言葉で、桂太郎中将は、表情を和らげ、了承した。後任については、第二師団長・乃木希典中将に内定することに決めた。
明治二十九年十月十四日、桂太郎中将は、東京防禦総督に就任した。この官職は、明治二十八年一月、日清戦争に伴い、防務条例が公布され、東京の衛戍司令官とともに首都防衛の為に設置された。だが、平時は閑職だった。
第二次松方内閣は、地租増徴法案を次年度予算案の中に入れて提出しようとしたため、与党の進歩党が離反して、内閣総辞職となった。
明治三十年十二月二十九日、伊藤博文に組閣の大命が下った。伊藤首相は、中国情勢が緊迫している状況で、挙国一致の体制を作るため、進歩党、自由党の両党との提携を実現して、日清戦争後の経営を乗り切ろうとした。
だが、大隈重信も、板垣退助も入閣を断り、挙国一致構想は出足から崩れた。
伊藤博文首相は、入閣交渉に桂太郎中将を帯同し、また、桂中将自身にも入閣交渉をやらせた。桂中将は西郷従道海軍大将に海軍大臣留任の要請をし、成功した。桂中将は、伊藤首相の組閣参謀であった。
明治三十一年一月十二日、第三次伊藤内閣が発足した。桂太郎中将は陸軍大臣に就任した。
伊藤内閣には、井上馨が大蔵大臣、西園寺公望が文部大臣として入閣したが、有力な与党はなく、国民協会だけを与党とした官僚内閣であった。
伊藤内閣は、前内閣に引き続き地租増徴法案を提出したが、法案は否決されたため、政府は衆議院を解散した。
板垣退助率いる自由党と、大隈重信率いる進歩党も、共に藩閥内閣打倒を叫んで、ことごとく、政府と対立したのである。
伊藤首相はこうした事態に対処するため、国策を遂行できる政党を結成して対抗する以外はないと考えた。だが、元老・山縣有朋元帥は政党結成に反対した。
山縣元帥は、自分の息のかかった、陸軍大臣・桂太郎中将、内務大臣・芳川顕正(よしかわ・あさまさ・徳島・徳島藩士・維新後大蔵省・東京府知事<四十歳>・文部大臣・宮中顧問官・司法大臣<五十一歳>・内務大臣・逓信大臣・子爵・逓信大臣・内務大臣・伯爵・枢密院副議長・南洋協会初代会頭・伯爵・勲一等旭日桐花大綬章)ら山縣系閣僚にも、反対の意を伝えた。
こうした伊藤首相の新党結成の動きに対応して、地租案反対で歩調を一致していた自由党と進歩党は、この際一挙に両党合同して、六月二十一日、憲政党を結成した。
首相として政党結成に挫折した伊藤首相は、首相を辞任して、野に下って、政党結成を目指す考えを、陸軍大臣・桂中将に意見を問うた。
これに対して、桂中将は、「戦後経営は是が非でも実現しなければならない。政党結成は断念して、諸元老を入閣させ、内閣を強化し、反対する衆議院を再三解散する覚悟で収拾すべきだ」と進言した。
だが、伊藤博文首相は、六月二十四日、諸元老と会談して、新政党を結成して反対党と闘うと主張して、元老らの意見を求めた。
山縣元帥は「現職の首相は政党を組織するべきではない」と反対した。すると伊藤首相は「首相を辞任する」と言い切った。
さらに山縣元帥が、「元老の身分になっても、不可である」と言うと、伊藤首相は「官職・勲爵を辞して実行する。元老会議にはかる必要はない」と強弁した。