「翌朝、山下軍司令官に、辻を第二五軍から追放すべき旨申告したところ握りつぶしてしまった。永田さんが相沢中佐に殺害されたとき、相沢君よくやったと肩をたたいた山下も山下だ」
「その後二日間、辻は司令官や幕僚と食を共にすることをこばんだのである。中央の言うことを聞かず満州で勝手なことをやった石原、その子分の辻、ああ陸軍は亡びるほかないよ」。
謹厳温厚な秀才、鈴木中将が、青二才の筆者(堀江少佐)に訴えるやに見えた。「大体軍人は政治に干与すべきではないのだ。これに干与すること自体、当然職を辞めなければならないはずだ」とも言った。
昭和十九年六月、海軍省・海上護衛隊参謀であった堀江少佐は第三一軍参謀に転勤命課を受け、鈴木中将は第三五軍司令官に親補され、二人は参謀本部の一室で別れの瞬間を迎えた。
そのとき、鈴木中将は、堀江少佐に次のように言って、大きな涙をその温顔からポロリと落とした。
「戦況がここまで来た以上、お互いに生死は不明であり、国家の存亡も不明である。君が万一生き残ったら、今村(均)大将(陸士一九・陸大二七首席)と阿南(惟幾)大将(陸士一八・陸大三〇)、それに陸軍省の軍事課長・西浦(進)大佐(陸士三四恩賜・陸大四二首席)にこの鈴木がよろしくという言葉を残して行ったと伝えてくれ」。
終戦後、堀江少佐は鈴木中将の伝言を、今村大将と西浦大佐に伝えたところ、「ああ立派な人だった。軍内があのような本当の軍人を亀鑑として互いに身を持すれば軍紀の紊乱はなかったであろう」と聖将の在りし日を語った。阿南大将は終戦時自決したため、伝言を伝えることができなかった。
昭和十七年三月、辻政信中佐は参謀本部作戦班長に就任した。その後、七月、辻中佐は南方戦線に出張、ガダルカナル島争奪戦に参戦し、作戦指導を行った。
昭和十七年十月二十二日夜、丸山政男中将(長野県出身・陸士23・陸大31・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第六旅団長・中将・第二師団長・予備役)がひきいる第二師団と川口支隊は、ガダルカナルのヘンダーソン米軍飛行場攻撃のため、オーステン山の南側から総攻撃をかけることになった。
この作戦は、師団参謀長・小沼治夫大佐(陸士三二・陸大四三・少将・東部軍参謀副長)が主導して立案した作戦だった。
右翼隊が川口清健少将(かわぐち・きよたけ・高知県・陸士二六・陸大三四・陸軍省副官・大佐・中部軍参謀・少将・歩兵第三五旅団長・予備役・招集・対馬要塞司令官)率いる川口支隊だった。ヘンダーソン米軍飛行場の奪回をめざし、第二師団と川口支隊は南方ジャングルを進撃した。
「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、このときの状況を、辻政信は「ガダルカナル」(辻政信・養徳社)に、次のように記している。
「いよいよ、二十二日夜半を期して、夜襲する命令が伝えられた。分解して、肩に担いで来た連隊砲も漸く第一線に据え付け、夜襲に協力させる準備が整えられる」
「午後三時頃になって突然、K少将から電話がかかった。曰く、『第一線の攻撃準備不十分で今夜は到底夜襲出来ません、明日に延ばして下さい』と、二十一日の予定を延期したのもK少将の意見であった」
「既に全師団に下し終わった今夜の夜襲を、その直前にまたもや出来ないと、半ば脅迫的な電話である。温良な師団参謀長・玉置温和大佐の声が、さすがに怒りを帯び、電話機を握る右手がブルブル慄えている」
「側で聞いていた丸山師団長は、白髪を逆立てるかのように、自ら参謀長に代わった。『K少将は、今直ちに師団司令部に出頭せよ。自今右翼隊の指揮は東海林大佐に譲れ』。遂に温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切ったのである」
「田村大隊が第一回総攻撃のとき、深く敵陣地に斬り込み、正に飛行場全部を占領しようとしたとき、支隊主力を以って、之を支援しないでジャングル内に時機を失い、部下をガ島に置き去りにして、単身、ラポールに戦況報告に帰還した等々、師団長も軍司令官も誰一人この少将に対し信頼感を持つ者はなかった」
「本来ならば当然、軍職を去らせられたであろうが、せめて、この機会にもう一度、雪辱の戦いをさせよう、との軍司令官の暖かい心から、態々丸山師団長の指揮に入らせたのであった」
「腐木は遂に腐木である。指揮権を、敵前で剥奪された少将は、その後師団司令部でも誰一人相手にするものもなく、ジャングル内で孤独を楽しんでいた」
「その後二日間、辻は司令官や幕僚と食を共にすることをこばんだのである。中央の言うことを聞かず満州で勝手なことをやった石原、その子分の辻、ああ陸軍は亡びるほかないよ」。
謹厳温厚な秀才、鈴木中将が、青二才の筆者(堀江少佐)に訴えるやに見えた。「大体軍人は政治に干与すべきではないのだ。これに干与すること自体、当然職を辞めなければならないはずだ」とも言った。
昭和十九年六月、海軍省・海上護衛隊参謀であった堀江少佐は第三一軍参謀に転勤命課を受け、鈴木中将は第三五軍司令官に親補され、二人は参謀本部の一室で別れの瞬間を迎えた。
そのとき、鈴木中将は、堀江少佐に次のように言って、大きな涙をその温顔からポロリと落とした。
「戦況がここまで来た以上、お互いに生死は不明であり、国家の存亡も不明である。君が万一生き残ったら、今村(均)大将(陸士一九・陸大二七首席)と阿南(惟幾)大将(陸士一八・陸大三〇)、それに陸軍省の軍事課長・西浦(進)大佐(陸士三四恩賜・陸大四二首席)にこの鈴木がよろしくという言葉を残して行ったと伝えてくれ」。
終戦後、堀江少佐は鈴木中将の伝言を、今村大将と西浦大佐に伝えたところ、「ああ立派な人だった。軍内があのような本当の軍人を亀鑑として互いに身を持すれば軍紀の紊乱はなかったであろう」と聖将の在りし日を語った。阿南大将は終戦時自決したため、伝言を伝えることができなかった。
昭和十七年三月、辻政信中佐は参謀本部作戦班長に就任した。その後、七月、辻中佐は南方戦線に出張、ガダルカナル島争奪戦に参戦し、作戦指導を行った。
昭和十七年十月二十二日夜、丸山政男中将(長野県出身・陸士23・陸大31・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第六旅団長・中将・第二師団長・予備役)がひきいる第二師団と川口支隊は、ガダルカナルのヘンダーソン米軍飛行場攻撃のため、オーステン山の南側から総攻撃をかけることになった。
この作戦は、師団参謀長・小沼治夫大佐(陸士三二・陸大四三・少将・東部軍参謀副長)が主導して立案した作戦だった。
右翼隊が川口清健少将(かわぐち・きよたけ・高知県・陸士二六・陸大三四・陸軍省副官・大佐・中部軍参謀・少将・歩兵第三五旅団長・予備役・招集・対馬要塞司令官)率いる川口支隊だった。ヘンダーソン米軍飛行場の奪回をめざし、第二師団と川口支隊は南方ジャングルを進撃した。
「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、このときの状況を、辻政信は「ガダルカナル」(辻政信・養徳社)に、次のように記している。
「いよいよ、二十二日夜半を期して、夜襲する命令が伝えられた。分解して、肩に担いで来た連隊砲も漸く第一線に据え付け、夜襲に協力させる準備が整えられる」
「午後三時頃になって突然、K少将から電話がかかった。曰く、『第一線の攻撃準備不十分で今夜は到底夜襲出来ません、明日に延ばして下さい』と、二十一日の予定を延期したのもK少将の意見であった」
「既に全師団に下し終わった今夜の夜襲を、その直前にまたもや出来ないと、半ば脅迫的な電話である。温良な師団参謀長・玉置温和大佐の声が、さすがに怒りを帯び、電話機を握る右手がブルブル慄えている」
「側で聞いていた丸山師団長は、白髪を逆立てるかのように、自ら参謀長に代わった。『K少将は、今直ちに師団司令部に出頭せよ。自今右翼隊の指揮は東海林大佐に譲れ』。遂に温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切ったのである」
「田村大隊が第一回総攻撃のとき、深く敵陣地に斬り込み、正に飛行場全部を占領しようとしたとき、支隊主力を以って、之を支援しないでジャングル内に時機を失い、部下をガ島に置き去りにして、単身、ラポールに戦況報告に帰還した等々、師団長も軍司令官も誰一人この少将に対し信頼感を持つ者はなかった」
「本来ならば当然、軍職を去らせられたであろうが、せめて、この機会にもう一度、雪辱の戦いをさせよう、との軍司令官の暖かい心から、態々丸山師団長の指揮に入らせたのであった」
「腐木は遂に腐木である。指揮権を、敵前で剥奪された少将は、その後師団司令部でも誰一人相手にするものもなく、ジャングル内で孤独を楽しんでいた」