陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

353.辻政信陸軍大佐(13)遂に温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切った

2012年12月27日 | 辻政信陸軍大佐
 「翌朝、山下軍司令官に、辻を第二五軍から追放すべき旨申告したところ握りつぶしてしまった。永田さんが相沢中佐に殺害されたとき、相沢君よくやったと肩をたたいた山下も山下だ」

 「その後二日間、辻は司令官や幕僚と食を共にすることをこばんだのである。中央の言うことを聞かず満州で勝手なことをやった石原、その子分の辻、ああ陸軍は亡びるほかないよ」。

 謹厳温厚な秀才、鈴木中将が、青二才の筆者(堀江少佐)に訴えるやに見えた。「大体軍人は政治に干与すべきではないのだ。これに干与すること自体、当然職を辞めなければならないはずだ」とも言った。

 昭和十九年六月、海軍省・海上護衛隊参謀であった堀江少佐は第三一軍参謀に転勤命課を受け、鈴木中将は第三五軍司令官に親補され、二人は参謀本部の一室で別れの瞬間を迎えた。

 そのとき、鈴木中将は、堀江少佐に次のように言って、大きな涙をその温顔からポロリと落とした。

 「戦況がここまで来た以上、お互いに生死は不明であり、国家の存亡も不明である。君が万一生き残ったら、今村(均)大将(陸士一九・陸大二七首席)と阿南(惟幾)大将(陸士一八・陸大三〇)、それに陸軍省の軍事課長・西浦(進)大佐(陸士三四恩賜・陸大四二首席)にこの鈴木がよろしくという言葉を残して行ったと伝えてくれ」。 

 終戦後、堀江少佐は鈴木中将の伝言を、今村大将と西浦大佐に伝えたところ、「ああ立派な人だった。軍内があのような本当の軍人を亀鑑として互いに身を持すれば軍紀の紊乱はなかったであろう」と聖将の在りし日を語った。阿南大将は終戦時自決したため、伝言を伝えることができなかった。

 昭和十七年三月、辻政信中佐は参謀本部作戦班長に就任した。その後、七月、辻中佐は南方戦線に出張、ガダルカナル島争奪戦に参戦し、作戦指導を行った。

 昭和十七年十月二十二日夜、丸山政男中将(長野県出身・陸士23・陸大31・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第六旅団長・中将・第二師団長・予備役)がひきいる第二師団と川口支隊は、ガダルカナルのヘンダーソン米軍飛行場攻撃のため、オーステン山の南側から総攻撃をかけることになった。

 この作戦は、師団参謀長・小沼治夫大佐(陸士三二・陸大四三・少将・東部軍参謀副長)が主導して立案した作戦だった。

 右翼隊が川口清健少将(かわぐち・きよたけ・高知県・陸士二六・陸大三四・陸軍省副官・大佐・中部軍参謀・少将・歩兵第三五旅団長・予備役・招集・対馬要塞司令官)率いる川口支隊だった。ヘンダーソン米軍飛行場の奪回をめざし、第二師団と川口支隊は南方ジャングルを進撃した。

 「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、このときの状況を、辻政信は「ガダルカナル」(辻政信・養徳社)に、次のように記している。

 「いよいよ、二十二日夜半を期して、夜襲する命令が伝えられた。分解して、肩に担いで来た連隊砲も漸く第一線に据え付け、夜襲に協力させる準備が整えられる」

 「午後三時頃になって突然、K少将から電話がかかった。曰く、『第一線の攻撃準備不十分で今夜は到底夜襲出来ません、明日に延ばして下さい』と、二十一日の予定を延期したのもK少将の意見であった」

 「既に全師団に下し終わった今夜の夜襲を、その直前にまたもや出来ないと、半ば脅迫的な電話である。温良な師団参謀長・玉置温和大佐の声が、さすがに怒りを帯び、電話機を握る右手がブルブル慄えている」

 「側で聞いていた丸山師団長は、白髪を逆立てるかのように、自ら参謀長に代わった。『K少将は、今直ちに師団司令部に出頭せよ。自今右翼隊の指揮は東海林大佐に譲れ』。遂に温容慈顔の丸山師団長も堪忍袋の緒を切ったのである」

 「田村大隊が第一回総攻撃のとき、深く敵陣地に斬り込み、正に飛行場全部を占領しようとしたとき、支隊主力を以って、之を支援しないでジャングル内に時機を失い、部下をガ島に置き去りにして、単身、ラポールに戦況報告に帰還した等々、師団長も軍司令官も誰一人この少将に対し信頼感を持つ者はなかった」

 「本来ならば当然、軍職を去らせられたであろうが、せめて、この機会にもう一度、雪辱の戦いをさせよう、との軍司令官の暖かい心から、態々丸山師団長の指揮に入らせたのであった」

 「腐木は遂に腐木である。指揮権を、敵前で剥奪された少将は、その後師団司令部でも誰一人相手にするものもなく、ジャングル内で孤独を楽しんでいた」

352.辻政信陸軍大佐(12)作戦参謀が死線から帰って報告するのにパジャマ姿とは何ですか

2012年12月21日 | 辻政信陸軍大佐
 辻中佐の意見をとりあげた第五師団長・松井太久郎中将(陸士二二・陸大二九・満州国軍最高軍事顧問・中将・第五師団長・南京政府最高軍事顧問・支那派遣軍総参謀長・第一三軍司令官)は、師団参謀に、約百キロ後方のタイピンにいる第二五軍司令部に電話をかけさした。

 だが、第二五軍高級参謀・池谷半二郎大佐(陸士三三恩賜・陸大四一恩賜・第二五軍作戦課長・整備局交通課長・第一方面軍高級参謀・第三軍参謀長・少将)は「第五師団は、万難を拝して海上機動を続行し、渡辺支隊を、敵後方のクワラセランゴール方面に進出せしめよ」という趣旨の軍命令を伝えた。

 「百キロも後方で屠蘇を飲んでいて、第一線の状況がわかっておらん」とカチンときた辻中佐は、自分で第二五軍参謀長・鈴木宗作中将(陸士二四恩賜・陸大三一首席・参謀本部第三部長・中将・第二五軍参謀長・運輸本部長兼船舶司令官・第三五軍司令官・戦死・大将)に電話をかけ、渡辺支隊の陸上転用をつよく要求した。

 だが、鈴木中将は応じなかった。これでは松井師団長や幕僚に対して辻中佐の面目丸つぶれである。業を煮やした辻中佐は「作戦主任としてご信用にならないなら、今すぐ辞めさせて下さい」と、反抗した。

 温厚な鈴木中将は、穏やかにたしなめたが、辻中佐は承知しなかった。結局「軍命令は変更しない」という鈴木中将の結論で電話は切られた。

 辻中佐は怒り心頭に達し、タイピンへ自動車を飛ばした。一月二日午前二時過ぎ、第二五軍司令部に着いた。

 ただちに全幕僚が参謀長室に集まり、辻中佐の意見を聞くことになった。だが、並み居る幕僚のうち、一人として辻中佐の意見に賛成する者はいなかった。

 辻中佐は、たまりかねて「作戦主任を辞めさせてもらいたい」と申し出た。それでも主張は通らなかった。

 不貞腐れた辻中佐はそれから三日間仕事をしなかった。だが、辻中佐が、気に病んだカンパルの英軍も翌一月二日に陥落した。

 鈴木中将や池谷大佐から話を聞いた、山下奉文軍司令官は、一月三日の日記に次のように記している。

 「辻中佐(政信・参謀)第一線より帰り私見を述べ、色々の言ありしという。此男、矢張り我意強く、小才に長じ、所謂こすき男にして国家の大をなすに足らざる小人なり。使用上注意すべき男也。小才者多く、がっちりしたる人物乏しきに至りたるはまた教育の罪なり。特に陸軍の教育には、表面上端正なる者を用いて小才を愛するゆえに、年とともにこの種の男増加するには困りたるものなり」。

 「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、このマレー作戦における辻政信中佐の「作戦主任を辞めさせてもらいたい」事件について、鈴木宗作元中将の回想が記されている。

 著者の堀江芳孝氏(陸士四八・陸大五六)は、昭和十七年陸大を卒業し、昭和十八年元旦から広島市宇品の船舶司令部勤務となり、陸軍船二三〇万トンの運航主任参謀の職に就いた。

 昭和十八年三月船舶司令部に新司令官として鈴木宗作中将が着任した。鈴木中将は堀江少佐と同期生が娘婿だった。

 その由で、鈴木中将は毎晩堀江少佐を極めて親しみを以って指導し、夜は共に夕食をして、夜遅くまで陸軍部内の話をした。

 その陸軍部内の話で、鈴木中将は、「陸軍の軍紀の頽廃と紊乱(びんらん)の元兇は下克上の本山石原莞爾と辻政信だ」と断じた。

 「彼らをのさばらして置く限り、陸軍は滅亡する他に道はない」とも言った。

 例えばマレーで、辻は第一線に出て行って、自ら小部隊を指揮したり、これこれの軍命令を出して欲しいと要求してくる。その時のことを鈴木中将は次のように堀江少佐に語った。

 「ある時、参謀長として辻が希望してきた命令案を否認したところ、真夜中に僕を叩き起こした。パジャマ姿で出たところ、作戦参謀が死線から帰って報告するのにパジャマ姿とは何ですか。軍服に着換えて報告を受けるのが上官たる軍人の当然の姿ではありませんかと喰ってかかる」

 「同僚じゃないか、服装などどうでもいいじゃないかと言ったところ、この辻を辞めさせて下さいと意気まく」

351.辻政信陸軍大佐(11)君と辻君が一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ

2012年12月13日 | 辻政信陸軍大佐
 引き続き土居明夫中将が、死の直前に書き残したメモは次の通り。

 「一度は余を慰留したが、余は自ら自宅に引きこもり出動せず。余が出た後、服部はすぐ辻を補充して南方作戦一色となった」

 「支那総軍付から台湾軍まで南方作戦を研究中であった。これで日本の方向は決した」。

 以上が、土居明夫元中将の回想だが、服部作戦班長がなぜ土居作戦課長に嫌がらせをしたのか。さらに突っ込んだ土居明夫元中将の回想が、子息に語ったテープに次のように吹き込まれていた。

 「俺が作戦課長のときに服部が来て、辻を作戦課に呼びたいといってきたんだ。俺は絶対にいかんといったんだ。『君と辻君が一緒になったら、またノモンハンみたいなことをやる。だめだ』とね」

 「ところが服部らは俺を追い出す運動をやったんだ。服部や辻は気脈を通じていて、ノモンハンの責任も取らずに、逆にその責任を云々する俺を追い出しにかかった」

 「俺は自ら第一線転属を願い出て、牡丹江に出たが、そしたら服部はすぐに辻を呼んで二人のコンビで南方作戦をやったんだ」

 「我々みたいに外国に居った者とちがって、彼らは参謀本部、陸軍省、支那派遣軍、関東軍などに根をはっていて、同志で気脈を通じ、全体の空気を作っていくんだ。俺としてはこの壁をやぶれなかった」。

 つまり、土居課長の追い出しは、辻引き入れのための服部工作だったということになる。作戦部長の田中少将は、服部と同じ仙台地方幼年学校の先輩であり、武断派であることも共通しており、使いやすさにおいても、田中部長が服部を選んだといえる。

 昭和十六年十二月、辻政信中佐は、第二十五軍作戦主任参謀としてマレー、シンガポール攻略戦に参加した。

 「悪魔的作戦参謀・辻政信」(生出寿・光人社NF文庫)によると、昭和十七年一月一日、河村部隊の歩兵第四十一連隊第二大隊第七中隊は、カンパルへゆく山の西麓ちかくで、信岡大尉を中心にして、後方の予備隊の手で届けられた正月の餅を、一人一個ずつ、食べていた。

 だが、その餅を食い終わった瞬間、敵の砲弾が炸裂して、信岡中隊長以下、数人が戦死してしまった。

 隊員たちは深い悲嘆に沈んだが、第二小隊長・上部少尉が指揮して、全員が一人用のタコツボを掘って入り、射撃を再開した。

 そのとき、戦闘帽をかぶり、無精ヒゲを生やし、丸い黒枠のメガネをかけた作戦主任参謀・辻政信中佐がたけだけしい狼のように平然と歩いて来て、怒鳴った。

 「なにをぼやぼやしとる、そんなことで、中隊長の弔い合戦ができるか」

 みんなタコツボの中に入り込んで首をすくめているのに、辻中佐は敵弾が飛んでくる方に背を向けて立ち、「勇敢な兵隊にはチョコレートをやる。取りに来い」と言った。

 何人かがタコツボを出て、辻中佐のところへゆき、チョコレートをもらった。その一人の樽田篤麿上等兵は辻中佐からするどく聞かれた。「小隊長はどこにいるか」。

 樽田上等兵が「あそこにおられます」と、五、六メートル先のタコツボを指すと、辻中佐は「ああ、この小隊長はだめだ。おまえが、小隊長をやれ」と、聞こえよがしの大声を出した。

 たまげた小隊長は、軍刀を抜いて立ち上がり、「突撃」と号令をかけて飛び出し、全員それに続いた。

 辻中佐は、中隊長が戦死して闘志を失った隊員たちに気合をかけ、立ち直らせようとしたのだろう。だが、これは越権的行為だった。

 一月一日、日本軍はカンバルの英軍を攻撃するために、カンバル東側の山地に踏み入った。だが、戦車は小川の橋が爆破されて進めなくなり、歩兵部隊の将兵は、疲労と英軍火砲の猛射で動けず、そのまま夜となった。

 後方のゴム林内の第五師団司令部に戻った作戦主任参謀・辻中佐は、海上機動部隊の渡辺支隊(歩兵第一一連隊主力ほか)が、今朝、英軍機に襲撃され、メリンタムに退避したことを知った。

 「このさい、渡辺支隊を陸上に戻してテロクアンソンに向かわせ、近衛師団の吉田支隊とともに、カンパルの英軍の退路を遮断させるべきだ」と辻中佐は判断した。

350.辻政信陸軍大佐(10)あれ程東條さんに叱られた私が何故、東京に呼び出されたのであろうか

2012年12月06日 | 辻政信陸軍大佐
 「安藤参謀来りて予に辻中佐収容方を懇請す。総軍参謀部難色ありたるも、予は好漢愛すべきを知る。板垣総参謀長は、山西作戦に於いて辻参謀の先陣を知る。乃ち予は総参謀長に謀りて辻中佐を収容し、課するに思想部門を以ってす」。

 「漢口為に脅威を感ず」とは大袈裟のようだが、辻少佐は自動車の運転手まで手なずけ、軍幹部の夜の非行を探った。

 そのため自決に追い込まれた高級将校がいたほどである。辻少佐の引取りを第十一軍が要請したのは、よくよくの事だったにちがいない。

 このことについて、「政治家辻政信の最後」(生出寿・光人社)によると、「第十一軍司令部の軍紀風紀係参謀になった辻少佐は、高級将校らの夜の遊興、女関係などを洗いざらい調べまくって彼らを恐れさせ、経済参謀の山本浩一少佐(陸士三七・陸大四六)を自殺に追い込むほどのことをやらかした」と記してある。

 記録では、山本浩一少佐は、第十一軍参謀として、昭和十五年八月十二日死去となっている。

 堀場中佐の好意ある計らいが実を結び、「補支那派遣軍総司令部附」の辞令が出たのは昭和十五年二月十日だった。

 かねて慕っていた板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八・岩手県出身・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第七方面軍司令官・戦犯死刑)のもとで勤務するのだから、辻少佐にとっては本望だった。

 堀場中佐は辻少佐と同じ名古屋幼年学校卒(台賜の銀時計)で辻少佐より二年先輩だった。中国ソ連にも駐在、視野も広く学究肌の軍人だった。辻少佐に対しては好意的であった。

 昭和十六年六月二十二日、ついに独ソ戦は火蓋を切った。「補参謀本部部員」の電報辞令を辻政信中佐(昭和十五年八月進級)が受け取ったのは、六月二十四日だった。

 この辞令について、「シンガポール」(辻政信・東西南北社)において、辻自身は、その心境を次のように記している。

 「あれ程東條さんに叱られた私が何故、東京に呼び出されたのであろうか。恐らく北か南かの何れかに対して、戦う準備を進められているのだろう」

 「関東軍で数年対ソ作戦を研究準備し、ノモンハンの体験を持っているために、北面して起つ場合にも使い途があり、また僅か半年ではあるが、専心南方研究に熱中していることは、国軍が南に向かって動く場合の道案内にも役立つだろう」。

 辻政信中佐は、昭和十六年七月十四日、参謀本部作戦課兵站班長に着任した。服部卓四郎中佐(八月大佐)は七月一日にすでに作戦課長の椅子についていた。

 参謀本部の中枢、作戦課が、かつての関東軍作戦課同様、再び、服部・辻のコンビで占められた。二人とも、ノモンハンでの左遷以来、二年とたたないのに、早くも返り咲いた。

 当時の参謀本部作戦部長は田中新一少将(陸士二五・陸大三五・新潟県出身・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長)だったが、その直属だった作戦課長の土居明夫大佐(陸士二九・陸大三九恩賜・高知県出身・少将・第三軍参謀長・第一三軍参謀長・中将)が急に転出することになった。

 七月一日付で土居大佐は関東軍第三軍参謀副長に転出した。これは定期異動ではなかった。その後に作戦課長に就任したのが作戦班長・服部中佐だった。この更迭には種々の憶測を生んだ。

 土居明夫中将が死去したのは昭和五十一年五月十日だが、死の直前に書き残したメモが発見された。死後、昭和五十五年に発刊された、「一軍人の憂国の生涯・陸軍中将土居明夫伝」(土居明夫伝記刊行会編・原書房)には次のように記されている。

 「柴田芳三庶務課長(陸士三二・陸大四三・三重県出身・少将・第一三方面軍参謀長)は余を追い出す陰謀ありと注意してくれた」

 「昭和十六年三~四月の頃、作戦課参謀・高瀬啓治少佐(陸士三八・陸大四八首席・静岡県出身・大佐・陸軍大学校教官)に独ソ戦が起きた時の作戦課としての意見と、また、兵站班長・櫛田正夫中佐(陸士三五・陸大四四・大佐・南方軍参謀)に日満一体経済による大作戦支援の計画を命じたが共にやらなんだ」

 「服部の反対だったろうと思う。課内の空気としては余排撃が余自身にひしひし感ぜられた。この大事の秋と思い部長帰還(満州より)後、田中部長に「余を出すか服部を出せ」といったところが、田中部長は省部出先軍に対し影響力のある服部を残し余を出した」